玄武は夜になると、静かにさくらを抱きしめたまま横たわった。彼女の呼吸は穏やかで、眠りについたかのようだった。しかし玄武には分かっていた。彼女は眠れていないのだと。余計な動きひとつせず、ただ彼の腕の中で身を丸め、まるで計算されたかのように規則正しい呼吸を繰り返している。彼に心配をかけまいとしているのだ。関ヶ原、佐藤将軍邸にて。勅命が届いた。邪馬台への伝達役として選ばれたのは、七瀬四郎偵察隊の斎藤芳辰と日比野綱吉であった。もちろん、御前侍衛と衛士も同行している。斎藤芳辰と日比野綱吉は今や従四位の武官となっていたが、陛下は未だ彼らを重用していなかった。今回の関ヶ原での勅命伝達が初めての任務となる。うまく遂行できれば、陛下の信用を得られるはずだった。だが、この任務は彼らにとって余りにも辛いものだった。ほとんどの武将と兵士たちにとって、佐藤承と上原洋平は憧れの存在だった。今回の任務は表向き勅命伝達であっても、実質的には護送であり、芳辰と綱吉の胸は痛んでいた。本来なら、御前侍衛の安倍貴守は即日出立するつもりだったが、斎藤芳辰と日比野綱吉が衆議を押し切り、佐藤大将が家族との別れを惜しむ時間を設けることを主張した。出立は明日となった。この夜の将軍邸では、普段と変わらぬ時刻に夕餉が供された。いつもの献立から一品も増やすことはなかった。この日が来ることは誰もが覚悟していた。しかし、この最後の食事で、佐藤大将以外の誰もが喉を通らなかった。「父上!」佐藤三郎は箸を置き、年老いた父の顔を見上げた。目は赤く潤んでいる。「私がお供いたします」佐藤承は整然と食事を続けながら、淡々と言った。「必要ない」「陛下は八郎に軍の指揮を任されました。この不具となった体の私がお供するのが相応しいでしょう。何かあれば、すべて私が背負います」「馬鹿を言うな!」佐藤承は鋭い眼差しを向けた。「何が不具だ。片腕を失っただけで、まだ刀は握れるではないか。お前は依然として関ヶ原の若将軍だ。陛下が八郎に軍を任せたとはいえ、奴はお前ほどの経験はない。平安京が今にも動き出そうとしている。お前はここを守らねばならん」「父上」八郎も箸を置き、涙をこらえきれない様子だった。この一年余り、兄弟たちは幾度となく密かに話し合い、父をこの災難から救い出す方法を探ってきた。だが、有効な手立て
日南子の胸中は怒りと悲しみが渦巻いていた。夫は北條守を救うために片腕を失い、武芸の腕前は半減してしまった。幸い戦がないため、片手での刀術の鍛錬に励むことはできたが、もはや長槍を扱うことは叶わない。命を救ってやったというのに、まさに恩を仇で返すとはこのこと。目の前で葉月琴音と密通していたとは。当時の自分たちがどれほど目が曇っていたのか、どうして見抜けなかったのか。もっと注意深く見ていれば、関ヶ原にいる間に懲らしめることもできた。そうすれば、さくらを傷つけることもなかったはずなのに。日南子はさくらを溺愛していた。さくらが生まれた時、都にいた彼女は、これほど愛らしく可愛らしい赤子を見たことがなかった。まるで白玉のように美しく、この世で最も愛おしい宝物だった。さくらが三歳になるまで、日南子は数日おきに北平侯爵邸を訪れては、その愛らしい子を抱きしめていた。後に夫と共に関ヶ原へ移ったが、当初は二年に一度は都に戻っていた。しかし子供たちも大きくなり、学問や武芸の稽古が始まり、さらに関ヶ原と平安京の軋轢が絶えなかったため、離れることも難しくなっていった。上原洋平父子七人が命を落とした時、夫と共に都へ戻ったものの、その時さくらは梅月山で武芸の修行中で、呼び戻すことはしなかったため、会うことは叶わなかった。その後の出来事は、すべて手紙を通して知ることとなった。さくらが離縁して実家に戻った時、彼らは都へ戻りたいと思った。しかしほどなくして、彼女が邪馬台の戦場へ赴いたと聞く。その後、功を立てて戻り、北冥親王である影森玄武に嫁いだと知った時には、もはや戻ることは叶わなくなっていた。鹿背田城での出来事が、どのような災いを引き起こすか分からない。さくらに累が及ぶことを恐れ、戻ることはできなかった。日南子はさくらのことを思い出すたびに、涙が止まらなかった。北條守と葉月琴音を骨まで砕いて灰にしてやりたい思いと同時に、さくらへの痛ましい思いで胸が締め付けられた。あの子は、どんなに苦しい思いをしてきたことか。日南子が泣き出すと、他の女たちも涙を流し始めた。日南子は涙を拭うと立ち上がった。「お義父様、もう何も考えません。私がお供いたします」佐藤承は溜息をつきながら、日南子のさくらを案じる気持ちを理解していた。「戻りたいのなら戻るがいい。さくらに会って、数
佐藤承の配下の将軍たちは、斎藤芳辰と日比野綱吉が滞在する客舎を訪れ、事情を説明したいと申し出た。日に焼けた肌の将軍たちが、切迫した面持ちで鹿背田城の件について語るのを見て、二人の胸は締め付けられた。「間違いございません。佐藤大将は何も知らなかったのです。あの時、大将は矢傷を負い、軍医も見放した程でした。まさに奇跡的に一命を取り留め、三ヶ月近く寝台に伏せっていたのです。やっと歩けるようになりましたが、今では体力も衰え、これ以上の苦労には耐えられません」「その通りです。北條守を鹿背田城へ向かわせたのは私の判断でした。佐藤大将とは無関係です。私を都へ連行し、どのような処分でも構いません。首を望むなら、都に着き次第差し出しましょう」「斎藤殿、日比野殿。お二方は以前、上原元帥と共に邪馬台で戦われました。同じ軍人として腹を割って申します。この件に関して、何か余地はございませんか?陛下は本当のところ、どのようにお考えなのでしょう。正直にお答えください。もし誰かが責任を取ればよいのなら、この余田が引き受けましょう」次々と、将軍たちは自ら罪を引き受けようと名乗り出た。佐藤大将を都へ戻したくないという思いは、皆同じだった。芳辰は溜息をつきながら答えた。「皆様、申し訳ありませんが、私も日比野も決定権はございません。私たちは勅命を伝えるために参っただけです。しかし、そう心配なさらずとも。北冥親王様が必ず何か良い手立てを考えてくださるはずです」「どうして心配せずにおられましょうか。勅命の伝達がこのような形で行われるはずがない。お二方が遣わされたということは、護送が目的なのです。そうでなければ、なぜ早馬で勅書を届けなかったのですか」余田は目を赤く染めながら、声を詰まらせた。「もうすぐ古稀を迎えられるのです。七十という年齢になっても関ヶ原を守り続け、一生を辺境に捧げてこられた。大和国の領土と民を守るために。他人の過ちを、どうして大将の責任にできるというのです」加藤は焦りのあまり足を踏み鳴らした。「そうです。そもそも彼らは我らが関ヶ原の兵でも将でもない。責任を問うのであれば、北條守か、さもなければ......陛下です。陛下が彼らを遣わされたのですから」芳辰と綱吉は顔色を変え、同時に戸口を見やった。御前侍衛の装束の者が通り過ぎるのが見えた。この距離では間違いな
夜になって、彼らは何度も清張文之進と二人きりで話す機会を窺った。しかし文之進は安倍貴守と同室で、行動も共にしており、安倍を引き離そうとしても上手くいかなかった。ようやく、文之進が一人で厠に向かう機会を掴んだ。綱吉が安倍の様子を見張り、芳辰は厠の外で清張を待った。文之進は土地が合わないらしく、かなりの時間を要した。出てくる頃には、芳辰は寒さに震えていた。薄暗い灯りの中、文之進は出てきた時に人影を見て飛び上がった。「ああ、斎藤殿か。驚いたじゃないか」芳辰が近寄ろうとすると、文之進は笑いながら言った。「もし我慢できるなら、しばらく待った方がいい。中の臭気が抜けるまでな」芳辰は苦笑して言った。「清張殿、実はお待ちしていたのです。少しお話がありまして」「こんな所で話すことはないでしょう。部屋に戻りましょうや。寒くはありませんか?」文之進は足を震わせながら言った。両足に蟻が這うような痺れを感じていた。芳辰は声を潜めて言った。「清張殿、今晩私を訪ねてきた将軍たちは、皆、佐藤大将に長年仕えてきた部下たちです。大将を案じるあまり、一時の迂闊な発言がございましたが、それは心にもない過ちでした」文之進は冷ややかに答えた。「斎藤殿は、私に陛下への報告を控えるよう望んでおられるのですか? あれだけ大声で叫んでおいて、とても心にもない過ちとは思えませんがね。余計な心配はなさらない方がよろしい。彼らの言い分は彼らの、あなたの聞き分はあなたの。私の報告すべきことは報告します。お忘れですか?これはあなた方が戻って初めての本格的な任務です。これを失敗すれば、前途もないでしょうね」芳辰の心は一瞬にして凍りついた。呼び方まで変えて、親しみを装って懇願した。「清張、いや、文之進殿。お兄上の烈央殿のことを思えば、あの発言は聞かなかったことにしていただけませんか?今後、兄弟の間柄として何でも相談に乗りますし、私からの、いや、私と日比野からの恩も作っていただきたい」「やめてください、斎藤殿」文之進は手を上げ、顎をわずかに上げた。「烈央兄を持ち出して私を縛らないでください。ご存知でしょう。我々御前侍衛は玄甲軍から独立し、六隊に分かれました。私が衛長の一人になれるかどうかは、この任務の出来次第なのです。ですが、今回同行している御前侍衛は十二人。その中から一つの枠を争うのは、
六郎は彼を制して言った。「今更そんなことを言っても始まりません。私が客舎へ行き、斎藤殿に聞いてみましょう。あの者が本当に聞いていたのかどうか」「聞いていたに違いありません」余田は顔を上げた。その目には途方に暮れた色が浮かんでいた。千軍万馬を前にしても恐れを知らなかった彼だが、今は深い恐れに囚われていた。これは彼の不得手な事態だった。「加藤があれほどの大声で叫んだのです。耳の聞こえぬ者でなければ、聞こえていたはずです」「私が行って頼んでみましょう。なんとしてもこの発言が御前に届かないよう」六郎は声を張り上げた。「誰か!馬の用意を!」そう言うと、大股で外へ向かった。三郎は彼らを見つめながら、父と半生を共にしてきた部下たちが心配のあまり芳辰を訪ねたのだと理解していた。彼は溜息をつきながら言った。「皆の衆、禍は口より出ずという。今後は発言に細心の注意を払い、不用意な言葉は一切慎まねばなりません」一同は慌てて頷いたが、今更過ちに気付いても、取り返しがつくのだろうか。「御前侍衛がいなくとも、斎藤殿や日比野殿の前でそのような発言をすべきではなかった。はあ......」八郎は頭を抱えた。父が勅命により都へ戻る際、指揮権が三郎ではなく自分に移されることに深い意味を感じていた。最年少で、しかも父の実子ではない自分への移譲には、陛下の思惑が見え隠れしていた。内部分断を図り、不和が生じれば、どこからともなく新たな総兵を関ヶ原へ送り込むつもりなのだろう。今、関ヶ原を統率できる将は北冥親王の他に誰がいよう。しかし陛下が北冥親王を派遣するはずもない。他の者では、力不足か、功を焦って侯爵の位を狙うかのどちらかだ。幸い、佐藤家の者たちは団結していた。誰が指揮権を持とうと、父がいる時は父の、父が不在の時は三郎の采配に従うことで一致していた。六郎が客舎に着くと、芳辰は今度、自分と綱吉の部屋に案内した。狭い部屋には二つの寝台と小さな食卓、それに木の腰掛けが二つ置かれているだけだった。この客舎はかつて道観だったが、後に道観が山腹に移され、以来、都やその他の地から来る公務の者たちを迎える宿舎として使われていた。芳辰は六郎を座らせ、綱吉は寝台に腰かけた。芳辰が文之進との会話を伝え終わると、六郎の顔から血の気が引いていた。父の都への帰還は既に生死を賭けたものであ
都では、紅竹が関ヶ原からの伝書鳩を受け取ると、開封せずに紫乃に渡し、紫乃から王妃へと届けられた。関ヶ原からの情報の重要性を知る紫乃は、すぐに開封して読んだ。読み終えるや否や、馬を走らせて禁衛府へ向かった。この時間なら、さくらはそこにいるはずだった。紫乃の禁衛府への出入りは極めて自然なことだった。特別に招かれた教官として、清和天皇は彼女の武芸の高さを認めながらも、武官就任を望まない彼女に玄甲軍の武術指導を任せるのが最適だと判断していた。御前侍衛は独立したとはいえ、武術の修練に関しては独立しておらず、依然として禁衛府で紫乃の指導を受けていた。さくらは伝書の内容を読むと、深いため息をついた。これは最も避けるべき過ちだった。小さく捉えれば、加藤将軍の一時の不適切な発言として、戒告の勅命か二十回の杖打ちで済むかもしれない。しかし大きく取れば、まさに天を覆うほどの大禍となる。この発言は、関ヶ原の武将たちが一致して鹿背田城の罪を陛下に帰すると解釈されかねないのだ。今上陛下は即位後の功績を重んじておられる。関ヶ原の境界線の制定も、邪馬台の収復も、すべて陛下の治世の功績だ。もし鹿背田城の件で自身の責任を問われれば、陛下は必ずや見せしめとして多くの者の命を取り、鹿背田城の惨事に対する怒りを世に示すだろう。そもそも、この事態は陛下の責任であるはずもなかった。「どうしよう?有田先生も深水大師兄も屋敷中にいないし、親王様は刑部だし、あなたを頼るしかなかったわ」紫乃も、あの発言がどれほどの破壊力を持つか理解していた。現陛下はもちろん、比較的寛容だった先帝でさえ、このような責任転嫁は容認できなかっただろう。結局のところ、陛下は関ヶ原に援軍を送り、その援軍は佐藤大将の指揮下に入った。もし陛下に責任があるというなら、すべての敗戦を陛下の責任とすることになりはしないか?北條守に責任があるというのなら、それは一点の疑いもない。さくらは書き付けを手に取り、灯りを灯してそれを焼き捨てた。文之進が都に戻るまでは、一言たりとも漏れてはならない。「安告侯爵に助力を請うしかないわ」さくらは冷静さを取り戻した。「文之進が都に戻る前に引き止めて、説得してもらわないと。もし文之進が報告を控えることを承諾してくれれば問題ないけど、安告侯爵の説得が失敗すれば、加藤さんの命が
丹治先生が去った後、烈央は父を見つめた。「父上、どのような手立てを取ってでも、必ず文之進を止めねばなりません」安告侯爵は頷いた。「心配するな。もう二度と佐藤大将をこのような災難に陥れはせぬ」爵位や栄華を投げ打ってでも守るべき人がいる。安告侯爵自身、先祖は武将で、侯爵の位は戦場で勝ち取ったものだ。もし佐藤大将を守るために爵位を失うことになっても、祖父は咎めはしまいと思っていた。甥の文之進を説得できる確信はなかった。幼い頃から独特の主張を持ち、自分の将来を綿密に計画する性格だった。ただ、不運なことに、大きな任務が与えられる度に病気や不測の事態に見舞われ、功績を立てることも、陛下に自身の能力を示すこともできずにいた。東宮でも長らく平侍衛の地位に留まっていた。陛下の即位後、玄甲軍に編入されて御前侍衛となったものの、これといった昇進もなく、今回の関ヶ原行きも、安倍貴守が樋口信也に推薦してくれたからこそ実現したのだ。ずっと頭角を現したいと願っていた彼が、このような絶好の機会を簡単に手放すだろうか?丹治先生が安告侯爵邸を後にすると、すぐに北冥親王邸に使いを走らせ、事の次第を伝えさせた。玄武はそれほど心配していなかった。清張文之進は筋の通った人物で、ただ運に恵まれなかっただけだ。おそらく本人も報告すべきか内心で葛藤しているだろう。安告侯爵が話をすれば、報告を控える可能性は高いはずだった。そもそも、もし本当にこの発言で出世を図るつもりなら、密告による功績よりも、斎藤芳辰に率直に話を持ちかける方が得策だろう。芳辰は斎藤家の人間で、齋藤六郎は姫君の夫だ。密告よりもずっと良い見返りが得られるはずだった。また、長年陛下の側近くで仕えてきた文之進は、陛下のことをよく理解しているはずだ。陛下は一時的に彼を褒め、昇進させるかもしれないが、それは同時に、側近としての望みを永遠に断つことになる。帝王として、陛下は強大な武将や名家を警戒している。しかし個人としては、佐藤大将を心から敬重している。陰で刃を向ける者を喜ぶはずがない。こうして分析を重ねて、さくらを安心させた。「祖父上が戻られて、お前のその様子を見られたら、むしろ心配されるぞ。そんなに肩に力を入れるな。我々は孤立無援ではない。外を見てみろ。親房虎鉄が説明して以来、祖父上のことで街は持ちきりだ。多くの者
しかし、これほどの世論の高まりには、明らかに背後で動く者がいた。清和天皇は北冥親王家を疑ったが、調査を進めるうちに、意外にも糸を手繰れば手繰るほど、穂村宰相にまで行き着いた。あの文章や、茶屋や酒場で噂を広める語り部たちも、すべて穂村宰相の差し金だったのだ。しかも、この調査で分かったことは、穂村宰相も特に隠すつもりはなかったようだった。御書院で長い沈黙の後、天皇は樋口信也に告げた。「この件は調べなかったことにせよ。口外は固く慎むように」先帝の崩御前、穂村宰相は既に致仕を考えていた。しかし突然の崩御により、新帝即位の際の混乱を懸念し、相位に留まって全力で補佐を続けることを選んだ。朝廷の文武百官の中で、最も信頼できる者を挙げるなら、穂村宰相と相良左大臣のこの二人に他ならなかった。最近、宰相と関ヶ原の件について度々協議を重ねる中で、何か言いかけては止める様子が気になっていたが、今となっては全てが筋道を持って繋がっていた。彼と佐藤承は文利天皇の時代から、三代に渡って仕えてきた重鎮だった。文官と武将の間にも真摯な情が存在する。宰相がかつて語った言葉を思い出した。「辺境を守る大将たちがいなければ、国内の安定と繁栄もありえない」表向きは特別親しい付き合いもなく、長らく顔を合わせることすらなかったが、互いに深い敬意を抱いていたのだ。二月十三日の夕暮れ、斎藤芳辰らは佐藤大将を伴って都に入った。数日前から、民衆は城門で待ち続けていた。勅命による都への帰還を知り、幾日も待ちわびた末、ついにその時が来たのだ。日が沈み、残照が血のように染まっていた。巨躯の老将は黒馬に跨り、左右を御前侍衛に護られていた。その背筋は少しも曲がることなく、肌は黒銅のように光沢を帯びていた。まるで油を塗ったかのような艶があり、長途の雪や雨、霜にさらされても、肌は荒れることがなかった。まるでその肌自体が鉄壁であるかのように、風雪も霜雨も寄せ付けなかった。威厳に満ちた表情は、これほど多くの民衆が城門で待ち受け、自分の名を高らかに呼ぶのを目にして、わずかに困惑の色を見せた。今回の都への帰還では、軍紀の緩みで両国を再び戦乱の危機に陥れたことや、村の殺戮という残虐な事態を引き起こした責任を問われ、民衆の非難を浴びると覚悟していたのだ。戸惑いの後、彼の目は熱く潤んだ。二
三姫子は参鶏湯を老夫人に飲ませてから、楽章と共に老夫人の話に耳を傾けた。「あの時、私は確かに騙されていたのよ。あの長青大師が『萌虎は家運を盛んにする子』と言っていたと、そう思い込んでいたわ。あの頃、あの人は萌虎を可愛がってたのよ。萌虎が病に伏せば、誰よりも心配して、あちこちの医者を訪ね回ってね。なのに、萌虎の体は日に日に弱っていって……五歳になる頃には、もう寝台から起き上がることすらままならなくなってたわ」その記憶を語る老夫人の表情には、まるで心臓を刺されたかのような苦痛が浮かんでいた。息をするのも辛そうな様子で言葉を紡いでいく。「長青大師が言うには、このままではあと一ヶ月ともたないかもしれないって……石山のお寺に預けて、仏様のご加護を受けるしかないと。そうすれば十八歳まで生きられる可能性があって、その年齢さえ越せば、その後は順風満帆な人生が約束されるって言うのよ」「あなたの祖父は最初、そんな戯言は信用できないって反対したわ。でもね、あの人が長青大師を連れて祖父に会いに行って、何を話したのか……結局、祖父も同意することになった。それどころか毎年三千両もの銀子を長青大師に渡して、あなたの命を繋ぐ蓮の灯明を焚いてもらうことになったのよ。仏道両方からのご加護を受けるためってね」「でも、それは全部嘘だったのよ!」老夫人の声が突然高くなり、険しい表情を浮かべた。「私も、あなたの祖父も、みんな騙されていたの。実は長青大師はね、『萌虎は祖父の運気を奪う子で、生きている限り爵位は継げない。むしろ早死にするかもしれない』って告げていたのよ。あなたを殺そうとして、薬をすり替えていたの。微毒を入れたり、相性の悪い薬を組み合わせたり、気血を弱めるものを……だからあなたの体は日に日に弱っていったのよ」息を切らしながら、老夫人の目には憎しみが満ちていた。「私が気付いたのは、あの大火の後よ。長青大師があの人を訪ねてきて、書斎で長話をしていた時。私は外で……すべてを聞いていたの。我が子を害するなんて……許せない、絶対に許せないわ!」老夫人は両手を強く握りしめ、顎を上げ、全身に力が入っていた。相手はすでにこの世にいないというのに、その憎しみは少しも薄れていないようだった。三姫子は老夫人の様子を見て、何かを直感的に悟ったようで、信じられない思いで彼女を見つめた。「では、
何かに取り憑かれたかのように、普段は足元の覚束ない老夫人が、まるで若返ったように駆け出した。織世も松平ばあやも、その背中を追いかけるのがやっとだった。耳には自分の心臓の鼓動しか聞こえない。目に映る庭の景色は、長年心を焼き続けてきたあの業火の光景に変わっていた。火の中から聞こえてくる悲痛な叫び声。あの時、誰かに引きずられ、抱えられながら、炎が全てを呑み込んでいくのを、ただ見つめることしかできなかった。末っ子は、あの炎の中で命を落としたはずだった。焼け跡から多くの遺体が見つかり、どれが我が子なのかさえ、判別できなかった。何度も気を失うほど泣き崩れた。だが一度も、息子が生きているかもしれないとは考えなかった。そんな望みを持つ勇気すらなかった。あの子は病に衰弱し、歩くのにも人の手を借りねばならなかったのに。あの猛火の中を、どうやって逃げられただろう?正庁に駆け込んだ老夫人の目に、ただ一つの姿だけが映った。涙が溢れ出し、他の姿は霞んでいく。ぼんやりとした影を追うように、足を進めた。首を微かに傾げ、綿を詰められたような力のない、不確かな声を絞り出した。「あなたが……私の子なのかしら?」楽章には見覚えがあった。最も恨みを抱いていた相手だ。だが、この瞬間、止めどなく流れる涙を目にして、胸が締め付けられた。彼は黙って立ち尽くし、答えなかった。「母上!間違いありません、萌虎でございます!」鉄将が泣きながら叫んだ。「ああ……」老夫人の喉から引き裂かれるような悲鳴が漏れ、楽章を抱きしめた。漆黒の夜を越えて、過去の記憶が押し寄せる。心の一部が抉り取られるような痛みが、一つの叫びとなって迸った。「生きていたのね!」熱い涙が楽章の肩を濡らしていく。最初は無反応だった楽章の頬も、やがて涙で濡れていった。しかし、すぐに老夫人を突き放した。冷ややかな声で言う。「芝居はもう十分でしょう。人を食らう魔物の巣に私を送り込んだのは貴方たち。死んでいて当然だった。師匠の慈悲があって、ここにいるだけです。私は親房萌虎ではない。音無楽章という者です」「違う……」老夫人は必死に楽章に縋りつこうとする。「私は何も知らなかったのよ。何も……」激しい悲喜の入り混じった感情に押し潰され、老夫人は楽章の腕の中で意識を失った。喜楽館の中には幾つかの灯りが
鉄将は怒りに震える声で指を差し上げた。「戯言を!母上が実の子を捨てたことなど一度もない。兄上も私も、ここで立派に育ったではないか」「貴様らは無事でも、俺はどうなった?」楽章は咆哮した。声を張り上げすぎた反動で、胃が痙攣を起こし、しゃがみ込む。内力を使って、胃の中で渦巻く酒を押さえ込んだ。その言葉に鉄将は一瞬凍りつき、何かを思い出したかのように、楽章を見つめ直した。その目には、信じがたい現実への戸惑いが満ちていた。三姫子も嫁入り直後に聞いた話を思い出していた。姑は三人の息子を産んだが、末っ子は病に倒れ、寺に預けられた。そして寺の火事で命を落としたと、姑は目の前で見たはずだった。まさか……生きていたというのか?「お前の……名は?」鉄将の声は震え、唇は制御できないように小刻みに動いた。楽章の姿を必死に見つめている。「彼女に……訊け」楽章は胃を押さえたまま椅子に崩れ落ち、力なく呟いた。三姫子が近寄り、興奮を抑えきれない様子で言った。「思い出しました。あなたを見かけたことがある。何度か邸の前を行き来していた方……」楽章は黙したまま。三姫子は紫乃に目を向けた。紫乃は三姫子ではなく、楽章を見つめたまま話し始めた。「さあ、五郎さん。ここまで来たからには全てを話すのよ。あなたは親房萌虎。幼い頃から女の子のように育てられ、五歳で寺に捨てられた。数ヶ月で折檻され、死にかけたところを師匠が拾い上げ、命を救った。あなたに非はない。過ちを犯したのは彼らよ。きちんと説明を求めなさい」鉄将の体が雷に打たれたかのように硬直し、瞳までもが凍りついた。次の瞬間、絶叫とともに楽章に飛びつき、全身で抱きしめた。生涯で最も悲痛な声を絞り出す。「萌虎!お前は生きていたのか!」確かめる必要さえ感じなかった。ただひたすら楽章を抱きしめ、号泣を続けた。誰にも言えなかったことがある。末弟が死んでからというもの、何度も夢に見た。弟が生還する夢。まるで現実のような鮮明な夢。だが、目覚めれば常に虚しさだけが残った。楽章は鉄将を突き放そうとしたが、全身の力を込めた抱擁は微動だにしない。耳元で響く泣き声が煩わしい。楽章は口元を歪めた。胸の奥の屈辱が、少しずつ溶けていく。この家にも、自分を真摯に想う者がいたのだ。三姫子は目を潤ませ、急いで織世の手を力強く握った。声は震
程なくして、酔っ払った二人は西平大名邸に到着した。紫乃の身分を知る門番は、夜更けにも関わらず二人を通した。三姫子が病臥していることから、使用人は親房鉄将と蒼月に事態を報告に向かった。鉄将と蒼月は困惑の表情を浮かべた。こんな夜更けに沢村お嬢様が来訪するとは一体何事か。「男を連れているとな?何者だ?」鉄将が尋ねた。門番は答えた。「鉄将様、存じ上げない男でございます。態度が横柄で、邸内を物色するように歩き回り、椅子を二つも蹴り倒し、『人を欺きおって』などと罵り続けております」鉄将は眉をひそめた。「因縁でも付けに来たのか?まさか夕美が何か……」最近の出来事で神経質になっていた鉄将は、何か揉め事があれば、まず夕美が原因ではないかと考えてしまう。「違うかと……」門番は躊躇いがちに、細心の注意を払って続けた。「あの方が罵っているのは老夫人と……亡き大旦那様のことでして」展は爵位を継いでいなかったため、大名の称号はなく、屋敷の使用人たちからは「大旦那様」と敬われていた。孝行者として知られる鉄将は、亡き父と母を罵る者がいると聞いて激怒した。紫乃が連れて来た相手だろうとも構わず、「行こう。どんな馬鹿者が親房家で暴れているのか、この目で見てやる」と声を荒げた。鉄将は死者を冒涜するような無作法は、教養のない下劣な人間のすることだと考えていた。蒼月を伴い、怒りに任せて大広間へと向かった。一方、楽章が椅子を蹴り倒した時点で、既に使用人が三姫子に報告に走っていた。皆、このような事態は奥様でなければ収まらないと心得ていた。鉄将様には官位こそあれど温厚な性格で、酒に酔った荒くれ者を抑えきれまいと考えたのだ。三姫子は紫乃が連れて来た男が、亡き舅と病床の姑を罵っていると聞くや、急ぎ着物を羽織り、簡単な身支度を整えると、織世に支えられながら部屋を出た。病状は既に快方に向かっていたが、まだ体力は十分ではなかった。秋風が肌を刺す中、足早に歩を進めると、かえって血の巡りが良くなったように感じられた。正庁に着くと、普段は温和な鉄将の顔が青ざめ、まだ罵声を上げている男を指さしながら叫んでいた。「黙れ!亡き父上をどうして侮辱できる。何という無礼者め」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、男は鉄将の胸元を掴み、拳を振り上げた。三姫子は咄嗟に「待て!」と声を上
青葉が追いかけると、楽章は手を振り続けながら歩き続けた。「何も言わなくていい。たいしたことじゃない」「五郎、これは私たちの推測に過ぎない。真実とは限らないんだ」青葉は楽章の性格をよく知っていた。心に苦しみを抱えても決して口にせず、ただ世を避けて別の場所へ去っていくのが常だった。「大丈夫だよ、大丈夫。酒でも飲みに行くさ」楽章は笑いながら言った。「折角の秋風、この爽やかな天気には、美人の相手でも探すとするか」紫乃は前に出て、彼の腕を取った。「私が付き合いましょう」紫乃もつい先ほどまで知らなかったのだ。彼の母は側室などではなく、西平大名家夫人その人であり、親房甲虎や夕美と同じ母から生まれた実の兄弟だということを。「俺の行くところはお前には相応しくない」楽章は紫乃を振り切ろうとした。「勝手に決めないで」紫乃は構わず彼の腕を掴んだ。「あんたの会計は私が持つわ」「金なら持ってる。付いて来るな」楽章は彼女の手を振り払い、急に意地の悪い調子になった。「俺がそんなに貧乏だと思ってるのか?お前に飲み食いの面倒を見てもらう必要なんてない。恩を売られるのも御免だ。本当に、お前たち女というのは……自分がどれだけ鬱陶しいのか分かっていない」紫乃は怒る気配もなく、にこやかに言い返した。「女が鬱陶しいだけ?男は大丈夫なの?」その笑顔を見て、楽章は不機嫌そうに吐き捨てた。「どっちも同じだ。みんな面倒くさい」「じゃあ、馬を走らせに行きましょう。人なんて誰も見なくていいわ」紫乃は彼を引っ張って厩舎へ向かった。「この爽やかな風に乗って走れば、嫌なことなんて全部吹き飛ぶわ」「行かない!」「行くの!」紫乃は笑顔を引き締め、険しい表情になった。「乗馬が嫌なら酒でもいい。でも、今日は私の相手をしてもらうわ。私も気が滅入ってるのよ」二人の姿が遠ざかるにつれ、声も次第に聞こえなくなっていった。結局、紫乃の思い通り、彼女は楽章を連れ去ることに成功した。さくらは肩を落とし、胸が締め付けられる思いだった。どうしてこんなことに……師匠はきっと真実を知っていたのだろう。ただ、嘘の方が優しかったから黙っていたのだ。余計なことをしてしまった。何も調べなければ良かったのに。誰も声を上げる者はいなかった。この調査の結果が良かったのか悪かったのか、それを判断できる者など
有田先生と道枝執事の調査により、事態は当初の想定よりも複雑であることが判明した。深水青葉の証言によれば、師匠の調査では、親房展は幼い萌虎が家に福をもたらすと考えていたという。ただ、その代償として自身の体調を崩し、都の名医を幾人も訪ねたものの効果なく、やむを得ず寺に預けることになったとされていた。これだけを見れば、展は末っ子である萌虎に深い愛情を注いでいたと解釈できる。末子は往々にして可愛がられるものだからだ。しかし、道枝執事が西平大名家の古参の執事や女中たちから聞き出した話は、まったく異なっていた。亡くなったとされる子に対して、展は強い嫌悪感を示していたというのだ。最初はどうだったか記憶は定かでないものの、後になってからの扱いは明らかに冷たかったという。彼らは具体的な出来事も語ってくれた。当時の大名様の誕生祝いの席で、今の音無楽章、当時の萌虎は大名様に抱かれて宴席に入った。その頃、大名様の体調は随分と回復しており、足取りも軽やかだったという。ところが、展は後日、「祖父を疲れさせた」という理由で萌虎を引きずり出し、竹の定規で手のひらを十回も打ち据えたのだ。こうした出来事は、主だった者たちの耳には入らなかったかもしれないが、確かに目撃した使用人がいたのだ。もう一つの出来事は、当時の大名様が萌虎を狩りに連れて行った時のことだ。白狐を仕留め、その毛皮を萌虎に与えたのだが、後になってその毛皮は三女の親房夕美の身に纏われることになった。他にも細かな出来事が数多くあった。展が萌虎に向ける嫌悪の表情を目にした使用人は少なくなかった。道枝執事に情報を漏らした者たちもその一人だ。当時はまだ別家しておらず、皆が同じ屋敷で暮らしていた。展は感情を隠すのが上手くない人物で、自分でも気づかぬうちに感情が顔に出てしまうことが多かった。さらに気になる点がある。萌虎の病の治療に関してだ。医師は確かに大名様が呼んだのだが、薬を煎じる際には数味の生薬が差し替えられていた。展は薬を調合する下女や小姓たちに口外を禁じ、これらは丹治先生から授かった良薬だと言い張った。大名様の機嫌を損ねないための配慮だと説明していたという。萌虎を寺に預ける話が持ち上がった時も、大名様は最初、その妖術使いの力を疑って強く反対していた。しかし、妖術使いが大名様と何度か面会を重ねるうち
しかし、執事からの報告に、三姫子は首を傾げずにはいられなかった。売り出した資産は次々と買い手が付き、しかも市価より一、二割も高値で取引されていた。長年家政を取り仕切ってきた経験から、資産の売買は常に相場に従うものと心得ていた。一軒や二軒が若干高値で売れることはあっても、最近売却した物件すべてがこれほどの高値とは。不可解でならなかった。もしや王妃様が自分の資産売却を知り、急な銀子の調達だと思って、高値で買い取ってくださったのではないかとさえ疑った。売買契約書を取り寄せ、買主の名を確認すると「風早久時」とある。聞き覚えのない名前だった。「北冥親王邸に風早久時という執事はおりませんか?」三姫子は執事に尋ねた。「存じ上げません」「では、この買主は何者なのでしょう」相場を大きく上回る値段で買い取るとは、何か裏があるのではないかと不安が募る。だが、よく考えれば、すべて正式な契約書があり、登記も済み、仲介人も立ち会っている。完全な合法取引なのだ。何を心配することがあろう。「もういい。残りは売らないことにしましょう。お義母様の耳に入ることは避けたいので」三姫子は言った。資産の売却は老夫人にも、鉄将にも蒼月にも黙っていた。家政に関わっていない彼らが詮索することもないだろう。もし発覚しても、その時は事情を説明すればよい。これは決して自分のためだけではないのだから。とはいえ、買主の件は気になっていた。この日、さくらが見舞いに来た際、さりげなく尋ねてみた。「王妃様、風早久時という方をご存じですか?」さくらは目を上げ、少し考えてから言った。「風早久時?風早という姓は都では珍しいですね。何かお困りごとでも?三姫子は首を振った。「いいえ、そうではありません。先日、少し離れた場所にある店を売りに出したところ、風早という方が買い手として現れ、市価より二割も高い値段を提示してきたのです」「それは良いことではありませんか?得をなさったということで」さくらは微笑んで答えた。「最初はそう思ったのですが、相場は誰でも調べられるはず。それなのに、先方から高値を提示してきたことが、何だか不自然で」「正式な売買契約さえ済んでいれば、高値であっても問題はありませんよ。幸運だと思えば良いのでは」さくらは柔らかく答えた。三姫子には確信があった。王妃は
夕美の涙は止まらなかった。「でも、あの人に前途などありません。一兵卒になるなんて……私はこれからどう人様に顔向けすれば……ただ自分を卑しめたくなかっただけなのに。上原さくらだって、あの時離縁を望んで、わざわざ勅許までいただいた。それほど決意が固かったのに、私が彼女に負けるわけには……」お紅は心の中で、今の状況の方がよほど世間体が悪いと思ったが、口には出せなかった。「お比べになることではございません。人それぞれ、歩む道が違うもの。王妃様より劣る人もいれば、優れた人もおります。王妃様に勝ったところで、他の方々にも勝てるとは限りません」「どうして、前にこういう話をしてくれなかったの?」夕美の声に苦い響きが混じる。「申し上げても、お聞き入れになられなかったでしょう」お紅は簾を下ろしながら言った。「御者、参りましょう」椿の花が刺繍された紅い錦の座布団に寄り掛かりながら、夕美の心に得体の知れない不安が忍び寄った。突如として気づいたのだ。もう誰も自分を望まないかもしれないという現実に。さくらのように、離縁を経てなお、凛々しく勇猛で戦功赫々な親王様を夫に迎えることなど、自分には叶わない。「お紅」夕美は突然、侍女の手を掴んだ。青ざめた顔で問う。「守さんは……本当に軍功を立てることができるかしら?」「お嬢様」お紅は静かに答えた。「人の運命は分かりませんもの。将軍の座に返り咲くかもしれませんし、このまま落ちぶれて、二度と立ち直れず、将軍家まで取り上げられるかもしれません」「こうなっては、もう出世など望めないでしょう」夕美は虚ろな声で呟いた。「あの人と共に老い果て、持参金を使い果たし、最後には将軍家まで陛下に召し上げられる……そんな人生を送っていたら、本当に私の人生は台無しになっていた。私の選択は間違っていない。間違っていないのよ」最初は北條守に好感を持っていた。端正な容姿で、陛下の信任も厚く、宰相夫人の取り持ちだった。だが次第に、優柔不断で決断力に欠け、感情に流されやすい性格が見えてきた。主体性のない男。そこへわがままな平妻がいて、さらには輝かしい前妻までいる。大名家の三女である自分は、あまりにも影が薄く感じられた。将軍家に嫁ぐ前は、きっと皆に愛されるはずだと思っていた。しかし現実は期待と余りにも懸け離れており、次第に守への怨みが募っていった。
紫乃は今日、天方家を訪れていた。村松裕子の病に、薬王堂の青雀が呼ばれていたのだ。日が暮れても紫乃は帰らず、そうこうするうちに夕美の一件が屋敷にも伝わってきた。天方許夫の奥方は、裕子には知らせぬよう取り計らっていた。だが、それも束の間の隠し事に過ぎなかった。不義密通だけでなく、密かな懐妊まで。今や十一郎は夕美の夫ではないとはいえ、大きな影響を受けずにはいられなかった。結局のところ、それは天方家での出来事なのだから。「天方十一郎様は、もしや男として……だからこそ夕美さんが他の男に……」「戦場に出られて間もない時期に、どうしてこんなことに……」と、陰口も囁かれ始めた。また、夕美は慎みのない女、死罪も相応しいほどの不埒な行為だという声も。光世も非難の的だった。「従兄弟の情も忘れ、天方家の情けも踏みにじって、人としてあるまじき行為」と。結局のところ、世間は光世と夕美を糾弾し、十一郎を無辜の被害者として憐れむばかり。北條守のことは少し話題に上がったものの、すぐに立ち消えた。将軍家でどんな醜聞が起ころうと驚くに値しないと思われていたからか。彼と夕美の離縁さえ、もはや誰も口にしなかった。その夜、紫乃とさくらは親王家に戻り、今日の出来事について少し話し合った後、互いに顔を見合わせて深いため息をついた。これまでは他人事のように見ていた騒動も、大切な人が巻き込まれると、自分のことのように心配になるものだ。賢一は今夜もいつもどおり稽古に来ていたが、いつも以上に真剣な様子だった。今の自分には力不足で、何の助けにもなれない。だからこそ、早く強くなりたいのだと。棒太郎が休憩で茶を飲みに来た時、さくらと紫乃にそう伝えた。さくらは三姫子の娘も女学校で一生懸命勉強していることを知っていた。三姫子の子供たちは、特別秀でているわけではないが、物事をよく理解し、粘り強く、冷静さを持ち合わせていた。稽古が終わり、棒太郎が賢一を送って行く途中、親房夕美の馬車が西平大名家を出て行くのを目にした。夕美の乗る馬車の後ろには、荷物を積んだ数台の馬車が続いていた。夕美は夜陰に紛れて立ち去ろうとしていた。馬車に乗る前、夕美は賢一の姿を見つけ、立ち止まって挨拶を待った。だが賢一は、まるで夕美など存在しないかのように、そのまま屋敷に入ろうとした。「賢一