丹治先生が去った後、烈央は父を見つめた。「父上、どのような手立てを取ってでも、必ず文之進を止めねばなりません」安告侯爵は頷いた。「心配するな。もう二度と佐藤大将をこのような災難に陥れはせぬ」爵位や栄華を投げ打ってでも守るべき人がいる。安告侯爵自身、先祖は武将で、侯爵の位は戦場で勝ち取ったものだ。もし佐藤大将を守るために爵位を失うことになっても、祖父は咎めはしまいと思っていた。甥の文之進を説得できる確信はなかった。幼い頃から独特の主張を持ち、自分の将来を綿密に計画する性格だった。ただ、不運なことに、大きな任務が与えられる度に病気や不測の事態に見舞われ、功績を立てることも、陛下に自身の能力を示すこともできずにいた。東宮でも長らく平侍衛の地位に留まっていた。陛下の即位後、玄甲軍に編入されて御前侍衛となったものの、これといった昇進もなく、今回の関ヶ原行きも、安倍貴守が樋口信也に推薦してくれたからこそ実現したのだ。ずっと頭角を現したいと願っていた彼が、このような絶好の機会を簡単に手放すだろうか?丹治先生が安告侯爵邸を後にすると、すぐに北冥親王邸に使いを走らせ、事の次第を伝えさせた。玄武はそれほど心配していなかった。清張文之進は筋の通った人物で、ただ運に恵まれなかっただけだ。おそらく本人も報告すべきか内心で葛藤しているだろう。安告侯爵が話をすれば、報告を控える可能性は高いはずだった。そもそも、もし本当にこの発言で出世を図るつもりなら、密告による功績よりも、斎藤芳辰に率直に話を持ちかける方が得策だろう。芳辰は斎藤家の人間で、齋藤六郎は姫君の夫だ。密告よりもずっと良い見返りが得られるはずだった。また、長年陛下の側近くで仕えてきた文之進は、陛下のことをよく理解しているはずだ。陛下は一時的に彼を褒め、昇進させるかもしれないが、それは同時に、側近としての望みを永遠に断つことになる。帝王として、陛下は強大な武将や名家を警戒している。しかし個人としては、佐藤大将を心から敬重している。陰で刃を向ける者を喜ぶはずがない。こうして分析を重ねて、さくらを安心させた。「祖父上が戻られて、お前のその様子を見られたら、むしろ心配されるぞ。そんなに肩に力を入れるな。我々は孤立無援ではない。外を見てみろ。親房虎鉄が説明して以来、祖父上のことで街は持ちきりだ。多くの者
しかし、これほどの世論の高まりには、明らかに背後で動く者がいた。清和天皇は北冥親王家を疑ったが、調査を進めるうちに、意外にも糸を手繰れば手繰るほど、穂村宰相にまで行き着いた。あの文章や、茶屋や酒場で噂を広める語り部たちも、すべて穂村宰相の差し金だったのだ。しかも、この調査で分かったことは、穂村宰相も特に隠すつもりはなかったようだった。御書院で長い沈黙の後、天皇は樋口信也に告げた。「この件は調べなかったことにせよ。口外は固く慎むように」先帝の崩御前、穂村宰相は既に致仕を考えていた。しかし突然の崩御により、新帝即位の際の混乱を懸念し、相位に留まって全力で補佐を続けることを選んだ。朝廷の文武百官の中で、最も信頼できる者を挙げるなら、穂村宰相と相良左大臣のこの二人に他ならなかった。最近、宰相と関ヶ原の件について度々協議を重ねる中で、何か言いかけては止める様子が気になっていたが、今となっては全てが筋道を持って繋がっていた。彼と佐藤承は文利天皇の時代から、三代に渡って仕えてきた重鎮だった。文官と武将の間にも真摯な情が存在する。宰相がかつて語った言葉を思い出した。「辺境を守る大将たちがいなければ、国内の安定と繁栄もありえない」表向きは特別親しい付き合いもなく、長らく顔を合わせることすらなかったが、互いに深い敬意を抱いていたのだ。二月十三日の夕暮れ、斎藤芳辰らは佐藤大将を伴って都に入った。数日前から、民衆は城門で待ち続けていた。勅命による都への帰還を知り、幾日も待ちわびた末、ついにその時が来たのだ。日が沈み、残照が血のように染まっていた。巨躯の老将は黒馬に跨り、左右を御前侍衛に護られていた。その背筋は少しも曲がることなく、肌は黒銅のように光沢を帯びていた。まるで油を塗ったかのような艶があり、長途の雪や雨、霜にさらされても、肌は荒れることがなかった。まるでその肌自体が鉄壁であるかのように、風雪も霜雨も寄せ付けなかった。威厳に満ちた表情は、これほど多くの民衆が城門で待ち受け、自分の名を高らかに呼ぶのを目にして、わずかに困惑の色を見せた。今回の都への帰還では、軍紀の緩みで両国を再び戦乱の危機に陥れたことや、村の殺戮という残虐な事態を引き起こした責任を問われ、民衆の非難を浴びると覚悟していたのだ。戸惑いの後、彼の目は熱く潤んだ。二
玄武とさくらは城門から程近い酒楼にいた。二階の個室からの眺めは絶好で、窓を開けると城門付近の様子が手に取るように見渡せた。佐藤大将の行程は事前に把握されていたため、玄武は早々にこの個室を予約し、さくらが佐藤大将と対面できるよう手配していた。さくらは佐藤大将の姿から目を離すことができず、貪るように見つめていた。今にも駆け出して祖父の胸に飛び込み、幼い頃のように思う存分泣きたかった。あの頃のように、全ての辛い思いを祖父に打ち明け、すると祖父は優しく頭を撫でながら「誰がさくらを苛めたのか、このじいが懲らしめてやろう」と言ってくれたものだった。しかし今は、二階に立ったまま、祖父の馬が群衆に囲まれる様子を見守ることしかできない。耳を震わせんばかりの支持の声が響く中、涙が溢れ出た。祖父は本当に老いていた。以前は、こめかみに白髪が交じり始めていても矍鑠として意気軒昂で、都に戻れば父上と拳を交え、息一つ乱すことはなかった。今では、漆黑の髪はほとんど見当たらず、白髪に覆われていた。連日の道中で疲れが滲み出ており、大将としての威厳は保っているものの、疲労の色は隠せなかった。全体的に痩せこけ、かつては精悍で張りのあった頬も、今では同じ褐色ながら肉が垂れ下がっていた。それは紛れもない老いの兆しだった。さくらの最愛の祖父は、確かに老いていたのだ。佐藤大将は群衆の中を苦労しながら進んでいた。時には会釈で謝意を示し、時には御前侍衛が人々を押し返すのを心配そうに見つめ、民衆が怪我をしないかと気を配っていた。およそ半時間が過ぎてようやく、一行は酒楼の前にたどり着いた。本来なら御城番と禁衛府が道を開くはずだったのだが、あまりにも多くの民衆が押し寄せ、まるで人の壁のようになっていた。最初こそ人々の間を縫うように動けたものの、今や民衆は鉄壁となって佐藤大将を守るかのように取り囲んでいた。民衆の中には御前侍衛に手を出そうとする者もいたが、すぐさま誰かが「御前侍衛と衝突すれば佐藤大将のご迷惑になる」と声を張り上げて制止した。次第に、皆が「陛下はきっと辺境を長年守り続けたこの老将を公平にお取り扱いになる」と声を上げ始めた。最後には「天皇陛下の英明なるご判断」「天皇陛下の御仁徳」と称える声まで上がるようになった。この変化は極めて自然なものだった。わざとら
最後には山田鉄男と村松碧が禁衛と御城番を率いて群衆の中に入り込み、徐々に道を切り開いていった。佐藤大将と御前侍衛が通れるだけの道幅を確保したのだ。御前侍衛は佐藤大将を先導し、参内させた。その前に、すでに民衆の騒動と彼らの叫び声の内容は清和天皇の耳に届いていた。天皇は眉を寄せた。あの「天皇陛下の英明なる」という声々が一本の縄となって、自らを縛り付けているかのようだった。本来なら佐藤承が都に戻った後、まず刑部に入れ、比較的待遇の良い牢獄に収監するつもりだった。そうすれば平安京の使者にも説明がつきやすい。だが今となっては、そのような処置が可能だろうか。安倍貴守の案内で、佐藤大将は御書院に入り、跪いて叩頭した。「罪深き佐藤承、参内仕り候。陛下の御威光、万歳にございます」清和天皇は佐藤承に会う前まで、この一件の処理について整然とした計画を巡らせていた。しかし、目の前に跪く姿を見た時、かつての威厳に満ちた雄姿はどこにも見当たらなかった。まるで一つの山が崩れ落ちたかのように。その様子に胸が痛んだ。皇太子であった頃、佐藤承と上原洋平は深く自分を支持してくれていた。当時の北平侯爵家にもよく足を運び、心から上原家の若殿との交友を望んでいたものだ。時は移り、世は変わる。昔日の面影はない。帝となった今では、考えるべきことも増え、心も昔日のような純粋さを失い、様々な懸念と思惑が生まれていた。目の前の旧友の顔には、辺境の厳しい風霜が刻まれていた。鉄のように強かった老将が、今や野に住む老人のように見える。この時ほど、天皇の心が柔らかく、また痛みを覚えたことはなかった。思わず自ら立ち上がり、手を差し伸べた。「佐藤卿、お立ちなさい」佐藤承は老いた目に涙を溢れさせた。「不肖、陛下のご期待に添えず、この罪、万死に値します」清和天皇は深い溜息をつきながら、「座って話そう」と言った。自ら佐藤大将の腕を取って脇の座に導いた時、かつて鋼鉄のように強かった老将が、本当に老いていることを実感した。その肩と腕からは昔日の硬さは失われ、痛ましいほどに痩せていた。玉座に戻りながら、思わず嘆息が漏れた。「随分痩せられましたな。どうかご自愛ください」「陛下のご心配、まことに恐縮でございます」佐藤承は老いた目の涙を拭いながら、深い後悔と恥じらいを滲ませた。
以前、上原さくらが玄甲軍大将に任命された時、多くの朝臣が反対した。女性がそのような重要な地位に就くことは相応しくないと。しかし今、陛下の一連の動きを目にし、その意図を悟った彼らは、何か違和感を覚えていた。このままでは玄甲軍は遊び人の集まる御城番だけになってしまうのではないかと。玄甲軍は皇城の防壁として存在してきた。それが今や解体されようとしている。誰もがそれを適切とは思えず、まるで何か権威が崩されていくかのようだった。もちろん、さくらが大将に就任して以来、玄甲軍はより威厳を増し、人々に安心感を与えるようになっていた。当初さくらを快く思わなかった者たちも、今では心服するようになっていたのだ。そして、彼らのさくらへの信頼こそが、清和天皇の動きを加速させる要因となった。御前侍衛の玄鉄衛への改編に続き、次の一手も早まることだろう。佐藤大将は勤龍衛の護衛のもと佐藤邸へと戻された。長らく放置されていた屋敷は荒れ果てていたが、勤龍衛たちが自ら草を抜き、掃除に取り掛かった。吉田内侍は数名の宮人を選び、世話をさせることとした。北條守は自ら護衛する勇気はなく、佐藤大将が屋敷に入った後、勤龍衛二十名を配置した。十名は邸内に、残りの十名は三つの門の警備に当たり、正門に四名、裏門と側門にそれぞれ三名ずつ配された。佐藤大将が邸に戻って間もなく、淡嶋親王妃が供人を連れて正門に姿を現し、面会を求めた。勤龍衛に制止されたものの、騒ぎ立てることもせず、ただ外に立ち尽くしていた。他のことは知らぬ顔もできようが、父が都に戻ったというのに会いに来ないのでは、世間の非難も免れまい。幸い、今は淡嶋親王が都を離れていた。もし在京していれば、いつものように父との面会を許さなかっただろう。父は今や罪を負う身なのだから。陛下が屋敷住まいを許されたのは、たとえ勤龍衛の監視付きとはいえ、大いなる御恩であった。しばらく立っていたが、さくらも燕良親王家の者も姿を見せず、その上、寒さも厳しかったため、それ以上留まることはしなかった。北冥親王家では、さくらはようやく心を落ち着かせ、山田鉄男の報告に耳を傾けていた。玄武も刑部には戻らず、終日さくらに寄り添っていた。「よかった。望み通り、佐藤邸に戻ることができたな」玄武は報告を聞き終え、少し安堵の息をついた。少なくとも刑部には入れ
安告侯爵は供人も連れず、たった一人で訪れた。青い衣装に黑い厚手の外套を羽織り、知らない者が見れば、どこかの執事かと思うほどだった。玄武とさくらが真っ先に立ち上がって出迎え、他の者たちも続いて立ち上がった。安告侯爵が何も言わずに助力してくれたことに、皆が感謝の念を抱いていた。挨拶を交わした後、安告侯爵は率直に切り出した。「申し訳ないのですが、あの小僧を無条件で説得することはできませんでした。彼が一つ条件を出してきましてね。まずは王妃様と沢村お嬢様のお考えを伺わねばなりません」安告侯爵が「申し訳ない」と切り出した時は、皆の心臓が飛び出しそうになったが、後の言葉を聞いて安堵の溜め息をついた。紫乃は不思議そうに尋ねた。「どうして私の意見を?彼は一体何をするつもりなの?」安告侯爵も自分でその言葉を口にしながら、妙な感じがしていた。「彼が申しますには、沢村お嬢様の弟子になりたいとのこと。それも村松や山田と同じように、直弟子としてです」「えっ?私、彼に武術は教えているわよ」紫乃は清張文之進の意図が一瞬飲み込めなかった。御前の者として、一緒に稽古に参加することは許されているはずなのに、なぜ弟子入りを?自分はただ三人しか弟子を取らないと言っていたのに。安告侯爵は説明を加えた。「実力で昇進したいそうです。御前では武芸と機転が物を言います。機転なら十分なものを持っているのですが、武芸の方がいささか心もとないと」紫乃は「ふうん」と声を上げ、さくらの方を見た。さくらも同じように紫乃を見つめていた。この件は紫乃の意向次第だった。弟子を取るのは軽々しい決断ではない。紫乃の性格からして、村松たち三人を受け入れたのも随分と無理をしてのことだったのだから。「引き受けましょう」紫乃は深く悩むことはなかった。通常なら、彼女の性格からすれば、こうした形での強要には絶対に応じないところだった。だが、さくらの祖父のことだ。不要な原則にこだわる必要はない。「紫乃、ありがとう」さくらは感謝の言葉を述べた。「何を言ってるの。使い走りが一人増えるだけじゃない」紫乃は笑いながら言ったが、心の中では歯ぎしりしていた。いい度胸だわ、佐藤大将を盾に私を脅すなんて。弟子にしたら、覚悟しておきなさい。玄武はそれまで心配ないと言い続けていたが、安告侯爵の言葉を聞いて、今になって本当
「父上、ご安心ください。千載一遇の好機会です。必ず師匠の教えを守り、決して怠慢な態度は取りませぬ。不埒な振る舞いなど、絶対にいたしません」文之進は床に跪いて急いで言った。彼は紫乃の稽古に二度ほど参加したことがあったが、それ以外は当番で参加できず、時間が空いた頃には紫乃は個人指導をしなくなっていた。そのことを随分と嘆いていたのだ。家に帰っては両親に何度も話していた。沢村師匠の直弟子になれたらどんなにいいだろうかと。思いもよらなかったが、関ヶ原での不運続きの中で、こんな幸運に巡り会えるとは。自分のやり方が卑劣だということは分かっていた。だが同時に、この好機を逃せば二度と機会は来ないことも知っていた。なぜなら、御前侍衛は独立して玄甲軍の管轄から外れる。沢村師匠が彼らを教えているのは上原様への配慮からだ。御前侍衛が独立すれば、たとえ陛下が許可を出しても、以前のように何度も稽古に参加できない事態になるだろう。文之進の妻も夫と共に跪いた。夫婦一体、夫が弟子入りするなら、妻も同じように礼を尽くすべきだと。紫乃は拝師の茶を飲んだ後、弟子の妻への見面の印として腕輪を贈った。文之進の妻は目利きで、この腕輪の価値が分かっていた。すぐさま「あまりに貴重すぎて」と辞退しようとした。「お受け取りください。私には安物など持ち合わせておりませんので」と紫乃は言った。文之進の妻は一瞬戸惑い、助けを求めるように姑の顔を見た。「師匠からの贈り物なのだから、受け取りなさい。今後は暇を見つけては師匠のお世話をし、弟子の妻としての務めを果たすように」と文之進の母が言った。「はい」文之進の妻はようやく受け取り、感謝の念を込めて「ありがとうございます、師匠様」と言った。拝師の礼を終えると、文之進は家族に先に帰るように言った。父親は息子が何を残ってするのか理解していた。玄武とさくらに退出の挨拶をし、紫乃にも別れを告げた。有田先生が自ら玄関まで見送った。彼らが去ると、文之進は再び跪いた。「弟子、不義の行い、どうかお咎めください」紫乃はまだ師匠としての心得も十分ではなかったが、確かに腹立たしい思いはあった。さくらが過ちを犯した時、師叔の皆無幹心が叱責する際によく発する言葉を思い出した。師叔はいつも厳しい声で「何が間違いだったのか」と問うのだ。そこで紫乃
紫乃はさくらを引き寄せ、傍らで見物させた。今のさくらが祖父のことを心配しているのは分かっていた。弟子たちの試合を見せれば、武術好きのさくらの気を紛らわせられるだろう。玄武も付き添って座っていた。もちろんさくらのためだ。彼らの戦いぶりなど、基本的には気にも留めていなかったが......気にせざるを得なくなった。文之進は三人を相手に、まともに太刀打ちできず、ただただ打ちのめされているだけだった。あまりにも惨めな様相を呈していた。幸い、三人とも加減は心得ていた。頭や顔は狙わず、体に数発の拳や蹴りを入れる程度だ。人目につかない場所なら問題ない。とはいえ、このまま続ければ文之進はすぐに持ちこたえられなくなるだろう。玄武が制止しようとした時、さくらがすでに声を上げていた。武を修めた者として、このような一方的な打撃戦は見ていられなかった。文之進の弱点は明らかだった。基礎は比較的しっかりしているものの、それだけだった。技も拳法も足技も支離滅裂で、まともな型すら見られない。紫乃は、さくらの注意がすっかり逸れたことに安堵の表情を浮かべた。地面に転がる文之進を見る目も、少し柔らかくなっていた。「武術は何年になる?」さくらが文之進に尋ねた。文之進は大きく息を切らしながら答えようとしたが、紫乃が先に口を挟んだ。「師伯様にお答えしなさい」さくらは眉を寄せた。いや、彼らの師伯にはなりたくない。自分と紫乃は同門ではないのだから。文之進はゆっくりと立ち上がった。足取りはまだ怪しかったが、返答を忘れなかった。「師伯様、七歳から稽古を始め、今日まで二十年になります」「誰に習ったのだ?」文之進は答えた。「はい、正式な師匠は持ちませんでした。屋敷の師範から教わり、従兄とも稽古を重ねました。後に安倍貴守と知り合い、彼から指導を受けました。皇太子の侍衛になってからは、専ら安倍に教えを請うておりました」少し間を置いて、付け加えた。「他の兄弟たちにも付きまとっては手合わせを願い、見様見真似で技を盗んでおりました」一同が笑みを浮かべた。向学心はある。だが、あちこちから少しずつ学んだのでは乱雑になりがちだ。一つの流派をしっかりと身につけ、それから他を学べば何も問題はない。「なるほど、これでは雑多になるわけだ」紫乃も眉をひそめた。以前の稽古で、確かに文之進の
青葉が追いかけると、楽章は手を振り続けながら歩き続けた。「何も言わなくていい。たいしたことじゃない」「五郎、これは私たちの推測に過ぎない。真実とは限らないんだ」青葉は楽章の性格をよく知っていた。心に苦しみを抱えても決して口にせず、ただ世を避けて別の場所へ去っていくのが常だった。「大丈夫だよ、大丈夫。酒でも飲みに行くさ」楽章は笑いながら言った。「折角の秋風、この爽やかな天気には、美人の相手でも探すとするか」紫乃は前に出て、彼の腕を取った。「私が付き合いましょう」紫乃もつい先ほどまで知らなかったのだ。彼の母は側室などではなく、西平大名家夫人その人であり、親房甲虎や夕美と同じ母から生まれた実の兄弟だということを。「俺の行くところはお前には相応しくない」楽章は紫乃を振り切ろうとした。「勝手に決めないで」紫乃は構わず彼の腕を掴んだ。「あんたの会計は私が持つわ」「金なら持ってる。付いて来るな」楽章は彼女の手を振り払い、急に意地の悪い調子になった。「俺がそんなに貧乏だと思ってるのか?お前に飲み食いの面倒を見てもらう必要なんてない。恩を売られるのも御免だ。本当に、お前たち女というのは……自分がどれだけ鬱陶しいのか分かっていない」紫乃は怒る気配もなく、にこやかに言い返した。「女が鬱陶しいだけ?男は大丈夫なの?」その笑顔を見て、楽章は不機嫌そうに吐き捨てた。「どっちも同じだ。みんな面倒くさい」「じゃあ、馬を走らせに行きましょう。人なんて誰も見なくていいわ」紫乃は彼を引っ張って厩舎へ向かった。「この爽やかな風に乗って走れば、嫌なことなんて全部吹き飛ぶわ」「行かない!」「行くの!」紫乃は笑顔を引き締め、険しい表情になった。「乗馬が嫌なら酒でもいい。でも、今日は私の相手をしてもらうわ。私も気が滅入ってるのよ」二人の姿が遠ざかるにつれ、声も次第に聞こえなくなっていった。結局、紫乃の思い通り、彼女は楽章を連れ去ることに成功した。さくらは肩を落とし、胸が締め付けられる思いだった。どうしてこんなことに……師匠はきっと真実を知っていたのだろう。ただ、嘘の方が優しかったから黙っていたのだ。余計なことをしてしまった。何も調べなければ良かったのに。誰も声を上げる者はいなかった。この調査の結果が良かったのか悪かったのか、それを判断できる者など
有田先生と道枝執事の調査により、事態は当初の想定よりも複雑であることが判明した。深水青葉の証言によれば、師匠の調査では、親房展は幼い萌虎が家に福をもたらすと考えていたという。ただ、その代償として自身の体調を崩し、都の名医を幾人も訪ねたものの効果なく、やむを得ず寺に預けることになったとされていた。これだけを見れば、展は末っ子である萌虎に深い愛情を注いでいたと解釈できる。末子は往々にして可愛がられるものだからだ。しかし、道枝執事が西平大名家の古参の執事や女中たちから聞き出した話は、まったく異なっていた。亡くなったとされる子に対して、展は強い嫌悪感を示していたというのだ。最初はどうだったか記憶は定かでないものの、後になってからの扱いは明らかに冷たかったという。彼らは具体的な出来事も語ってくれた。当時の大名様の誕生祝いの席で、今の音無楽章、当時の萌虎は大名様に抱かれて宴席に入った。その頃、大名様の体調は随分と回復しており、足取りも軽やかだったという。ところが、展は後日、「祖父を疲れさせた」という理由で萌虎を引きずり出し、竹の定規で手のひらを十回も打ち据えたのだ。こうした出来事は、主だった者たちの耳には入らなかったかもしれないが、確かに目撃した使用人がいたのだ。もう一つの出来事は、当時の大名様が萌虎を狩りに連れて行った時のことだ。白狐を仕留め、その毛皮を萌虎に与えたのだが、後になってその毛皮は三女の親房夕美の身に纏われることになった。他にも細かな出来事が数多くあった。展が萌虎に向ける嫌悪の表情を目にした使用人は少なくなかった。道枝執事に情報を漏らした者たちもその一人だ。当時はまだ別家しておらず、皆が同じ屋敷で暮らしていた。展は感情を隠すのが上手くない人物で、自分でも気づかぬうちに感情が顔に出てしまうことが多かった。さらに気になる点がある。萌虎の病の治療に関してだ。医師は確かに大名様が呼んだのだが、薬を煎じる際には数味の生薬が差し替えられていた。展は薬を調合する下女や小姓たちに口外を禁じ、これらは丹治先生から授かった良薬だと言い張った。大名様の機嫌を損ねないための配慮だと説明していたという。萌虎を寺に預ける話が持ち上がった時も、大名様は最初、その妖術使いの力を疑って強く反対していた。しかし、妖術使いが大名様と何度か面会を重ねるうち
しかし、執事からの報告に、三姫子は首を傾げずにはいられなかった。売り出した資産は次々と買い手が付き、しかも市価より一、二割も高値で取引されていた。長年家政を取り仕切ってきた経験から、資産の売買は常に相場に従うものと心得ていた。一軒や二軒が若干高値で売れることはあっても、最近売却した物件すべてがこれほどの高値とは。不可解でならなかった。もしや王妃様が自分の資産売却を知り、急な銀子の調達だと思って、高値で買い取ってくださったのではないかとさえ疑った。売買契約書を取り寄せ、買主の名を確認すると「風早久時」とある。聞き覚えのない名前だった。「北冥親王邸に風早久時という執事はおりませんか?」三姫子は執事に尋ねた。「存じ上げません」「では、この買主は何者なのでしょう」相場を大きく上回る値段で買い取るとは、何か裏があるのではないかと不安が募る。だが、よく考えれば、すべて正式な契約書があり、登記も済み、仲介人も立ち会っている。完全な合法取引なのだ。何を心配することがあろう。「もういい。残りは売らないことにしましょう。お義母様の耳に入ることは避けたいので」三姫子は言った。資産の売却は老夫人にも、鉄将にも蒼月にも黙っていた。家政に関わっていない彼らが詮索することもないだろう。もし発覚しても、その時は事情を説明すればよい。これは決して自分のためだけではないのだから。とはいえ、買主の件は気になっていた。この日、さくらが見舞いに来た際、さりげなく尋ねてみた。「王妃様、風早久時という方をご存じですか?」さくらは目を上げ、少し考えてから言った。「風早久時?風早という姓は都では珍しいですね。何かお困りごとでも?三姫子は首を振った。「いいえ、そうではありません。先日、少し離れた場所にある店を売りに出したところ、風早という方が買い手として現れ、市価より二割も高い値段を提示してきたのです」「それは良いことではありませんか?得をなさったということで」さくらは微笑んで答えた。「最初はそう思ったのですが、相場は誰でも調べられるはず。それなのに、先方から高値を提示してきたことが、何だか不自然で」「正式な売買契約さえ済んでいれば、高値であっても問題はありませんよ。幸運だと思えば良いのでは」さくらは柔らかく答えた。三姫子には確信があった。王妃は
夕美の涙は止まらなかった。「でも、あの人に前途などありません。一兵卒になるなんて……私はこれからどう人様に顔向けすれば……ただ自分を卑しめたくなかっただけなのに。上原さくらだって、あの時離縁を望んで、わざわざ勅許までいただいた。それほど決意が固かったのに、私が彼女に負けるわけには……」お紅は心の中で、今の状況の方がよほど世間体が悪いと思ったが、口には出せなかった。「お比べになることではございません。人それぞれ、歩む道が違うもの。王妃様より劣る人もいれば、優れた人もおります。王妃様に勝ったところで、他の方々にも勝てるとは限りません」「どうして、前にこういう話をしてくれなかったの?」夕美の声に苦い響きが混じる。「申し上げても、お聞き入れになられなかったでしょう」お紅は簾を下ろしながら言った。「御者、参りましょう」椿の花が刺繍された紅い錦の座布団に寄り掛かりながら、夕美の心に得体の知れない不安が忍び寄った。突如として気づいたのだ。もう誰も自分を望まないかもしれないという現実に。さくらのように、離縁を経てなお、凛々しく勇猛で戦功赫々な親王様を夫に迎えることなど、自分には叶わない。「お紅」夕美は突然、侍女の手を掴んだ。青ざめた顔で問う。「守さんは……本当に軍功を立てることができるかしら?」「お嬢様」お紅は静かに答えた。「人の運命は分かりませんもの。将軍の座に返り咲くかもしれませんし、このまま落ちぶれて、二度と立ち直れず、将軍家まで取り上げられるかもしれません」「こうなっては、もう出世など望めないでしょう」夕美は虚ろな声で呟いた。「あの人と共に老い果て、持参金を使い果たし、最後には将軍家まで陛下に召し上げられる……そんな人生を送っていたら、本当に私の人生は台無しになっていた。私の選択は間違っていない。間違っていないのよ」最初は北條守に好感を持っていた。端正な容姿で、陛下の信任も厚く、宰相夫人の取り持ちだった。だが次第に、優柔不断で決断力に欠け、感情に流されやすい性格が見えてきた。主体性のない男。そこへわがままな平妻がいて、さらには輝かしい前妻までいる。大名家の三女である自分は、あまりにも影が薄く感じられた。将軍家に嫁ぐ前は、きっと皆に愛されるはずだと思っていた。しかし現実は期待と余りにも懸け離れており、次第に守への怨みが募っていった。
紫乃は今日、天方家を訪れていた。村松裕子の病に、薬王堂の青雀が呼ばれていたのだ。日が暮れても紫乃は帰らず、そうこうするうちに夕美の一件が屋敷にも伝わってきた。天方許夫の奥方は、裕子には知らせぬよう取り計らっていた。だが、それも束の間の隠し事に過ぎなかった。不義密通だけでなく、密かな懐妊まで。今や十一郎は夕美の夫ではないとはいえ、大きな影響を受けずにはいられなかった。結局のところ、それは天方家での出来事なのだから。「天方十一郎様は、もしや男として……だからこそ夕美さんが他の男に……」「戦場に出られて間もない時期に、どうしてこんなことに……」と、陰口も囁かれ始めた。また、夕美は慎みのない女、死罪も相応しいほどの不埒な行為だという声も。光世も非難の的だった。「従兄弟の情も忘れ、天方家の情けも踏みにじって、人としてあるまじき行為」と。結局のところ、世間は光世と夕美を糾弾し、十一郎を無辜の被害者として憐れむばかり。北條守のことは少し話題に上がったものの、すぐに立ち消えた。将軍家でどんな醜聞が起ころうと驚くに値しないと思われていたからか。彼と夕美の離縁さえ、もはや誰も口にしなかった。その夜、紫乃とさくらは親王家に戻り、今日の出来事について少し話し合った後、互いに顔を見合わせて深いため息をついた。これまでは他人事のように見ていた騒動も、大切な人が巻き込まれると、自分のことのように心配になるものだ。賢一は今夜もいつもどおり稽古に来ていたが、いつも以上に真剣な様子だった。今の自分には力不足で、何の助けにもなれない。だからこそ、早く強くなりたいのだと。棒太郎が休憩で茶を飲みに来た時、さくらと紫乃にそう伝えた。さくらは三姫子の娘も女学校で一生懸命勉強していることを知っていた。三姫子の子供たちは、特別秀でているわけではないが、物事をよく理解し、粘り強く、冷静さを持ち合わせていた。稽古が終わり、棒太郎が賢一を送って行く途中、親房夕美の馬車が西平大名家を出て行くのを目にした。夕美の乗る馬車の後ろには、荷物を積んだ数台の馬車が続いていた。夕美は夜陰に紛れて立ち去ろうとしていた。馬車に乗る前、夕美は賢一の姿を見つけ、立ち止まって挨拶を待った。だが賢一は、まるで夕美など存在しないかのように、そのまま屋敷に入ろうとした。「賢一
さくらは使いを出し、薬王堂から紅雀を呼び寄せた。三姫子の額の傷は幸い浅く、出血もすぐに止まったため大事には至らなかった。だが、数日前からの発熱で体力を消耗していた上に、激しい動揺が重なり、今や心火が上って血を吐き、意識も朦朧としていた。目尻から絶え間なく涙が零れ落ちる。さくらが何度拭っても、まるで尽きることを知らないかのように流れ続けた。「どうですか、様子は?」紅雀が脈を取り終えると、さくらは尋ねた。紅雀は深いため息をつきながら答えた。「奥方様は数日来の高熱に加え、先ほど背中を叩いてみたところ、肺に異常が見られます。また、肝気の鬱結が著しく、気血が滞っております。これまでの投薬では力不足でした。まずは強い薬で肝気を清め、火を取り、肺気を整える必要があります。その後、徐々に養生していただきますが、これ以上の心労は厳禁です」そう言うと、紅雀はさくらを部屋の外に呼び出し、声を落として続けた。「肝血の鬱結が深刻です。これは明らかに心の悩みが原因かと。何か言えない事情を抱え込んでいらっしゃるのでしょう。自らを追い詰めているような……」さくらには察しがついた。親房甲虎の謀反事件に家族が連座するのではないかという不安だろう。賢一を棒太郎に武術の稽古をさせた時、玄武は「最悪の事態を想定しているんじゃないかな」と言った。最悪の事態を想定しているということは、きっと昼夜問わずその心配に苛まれているのだろう。「まずは薬を数服……」紅雀はそれ以上何も言わず、部屋に戻っていった。さくらは御城番の部下たちに、今日の出来事について一切口外無用と厳命した。他人が噂を流すのは別だが、御城番からの漏洩は絶対に避けねばならない。指示を終え、部下たちが立ち去った後、振り返ると夕美が柱に寄りかかっているのが目に入った。その目は泣き腫らして真っ赤だった。夕美は琉璃のように儚げな様子で、今にも砕け散りそうにさくらを見つめていた。「北冥王妃様、一つ伺ってもよろしいでしょうか」鼻声で、完全に詰まった声だった。「どうぞ」さくらは応じた。夕美は嘲るような笑みを浮かべた。「伊織屋を開いて、女性の自立を謳っているそうですね。では伺いますが、私がしたことを男がしたとして……同じように非難されるでしょうか?むしろ、多くの女性に好かれる手腕があると褒められるのではありま
その言葉に、その場にいた全員が凍りついた。千代子に付き添ってきた親族たちも、香月自身も、その「子供」のことは知らなかった。特に香月は大きな衝撃を受け、よろめきながら二歩後ずさり、まるで磁器が砕けるように、その場に崩れ落ちそうになった。実は千代子も確信があったわけではなかった。薬王堂での一件の後、親房夕美の素性を探らせた際、ある医師と接触した。その医師は夫と親交があった。北條家での子供を何故失ったのかと尋ねると、医師は一つの推測を語った。以前の堕胎が原因で子宝に恵まれない体質になった可能性があるというのだ。医師は事情を知らず、婦人が子を失うのは珍しい事ではなく、堕胎後の養生が不十分だと不妊の原因になり得ると考えただけだった。千代子には、夕美と十一郎との間に子供がいたのかどうかを確かめる術がなかった。天方家への調査は及びもしなかった。全ては推測に過ぎなかった。しかし夕美の傲慢な態度に堪忍袋の緒が切れ、推測を事実のように突きつけた。事の真相を明らかにさせるための強烈な一撃のつもりだった。だが、その言葉を発した瞬間、三姫子と夕美の血の気が引いた表情を目にして、千代子は自分の推測が的中していたことを悟った。夕美は全身の力が抜け、その場に崩れ落ちた。千代子の言葉が探りだったとは知らず、すべてが露見したと思い込んでいた。「やっぱり……」香月の頬を涙が伝う。「私の疑いは的中していた。ただの思い過ごしではなかった。あなたは夫に会いたかった。それだけの関係じゃなかった。子供まで……夫を探し出した理由は明らかよ。なのに夫も慎むことなく、あなたの愚痴を聞いていた。一番避けるべき立場なのに。そして破廉恥な二人が、私を非難した。私の取り乱しのせいで評判を落としたなんて……」夕美は溺れる者のように、死の淵に追い詰められたような絶望感に襲われた。村松光世の子を宿したと知った時と同じような……もう逃げ場はないと感じていた。あの時は三姫子が救ってくれた。夕美が三姫子を見つめた時、蒼白な顔をした三姫子は前のめりに倒れ込んだ。気を失ったのだ。さくらは咄嗟に駆け寄って支えようとしたが、間に合わなかった。三姫子は床に倒れ込み、額を打った。さくらが触れると、手は血に染まった。額と頬は異常な熱を帯び、全身が火照っていた。「医者を!早く医者を!」蒼月も三姫
夕美は目を泳がせ、座って話し合うことを頑なに拒んだ。冷ややかな声で言った。「あの時は、酒に酔って起きた過ちよ。私はあの人を十一郎さんだと思い込んでいただけ。でもあの人は正気だった。私が誰なのか分かっていたはず。だから、私にも非はあるけど、彼の方がずっと重い」「でも、夫は違うことを言っていました」香月は必死に涙をこらえながら、震える声で続けた。「あなたは酔っていたけど、正気だったと。彼が誰か分かっていて、名前も呼んだって」「嘘つき!」夕美は顔を赤らめ、一瞬さくらの方をちらりと見てから、大声で言い返した。「嘘よ!あの人に直接対質する勇気があるの?私が呼んだのは十一郎さんだわ!」さくらには裁きの経験こそなかったが、あれだけの時が経っても、夕美が十一郎の名を呼んでいたことを覚えていた。それは、彼女が村松光世と区別がつかないほど泥酔していなかった証だった。香月は一時、言葉を失った。しかし、その母である千代子は冷静さを保っていた。冷笑して言った。「泥酔していたはずなのに、誰の名を呼んだか覚えているのですか?酔っていても三分の意識があったということは、その人が十一郎さんでないことも分かっていたはず」「戯言を!」夕美は再び立ち去ろうとした。大勢の前でこの恥ずかしい話を蒸し返されて面目が立たなかった。織世が再び制止しようとすると、平手打ちを食らわせた。「生意気な!私を止める気!?」織世は頬を押さえながらも、一歩も退かなかった。「夕美お嬢様、話をはっきりさせてからお帰りになって」夕美の顔は怒りで真っ赤に染まっていた。「私に何を言えというの?この件で一番傷ついたのは私よ。光世さんは得をしただけ。私がどれほどの代償を払ったか分かって?全て私が悪いというの?なぜ私ばかりを追及するの?彼を問い詰めに行けばいいでしょう」香月は次第に冷静さを取り戻してきた。「夫への問い詰めは当然やります。それはさておき、正直に答えてください。あの日、薬王堂に行ったのは彼に会うためだったのでしょう?私も調べましたよ。薬王堂に行く前から、北條守さんとの離縁を騒ぎ立てていた。もう一緒に暮らせないと思ったから、彼を頼ろうとしたのでは?」「雪心丸を買いに行っただけよ!」夕美は恥ずかしさと怒りで声を荒げた。「余計な詮索はやめて!」「彼は薬箪笥係ではなく、仕入れ係でしょう?雪心丸を買
三姫子は香月の絶望的な泣き様を見つめ、同じ女として胸が締め付けられた。追い詰められなければ、こんな体面を失うようなことはしなかっただろう。「夕美を連れて参れ」三姫子は表情を引き締めた。「どんな手を使ってでも」織世が数人の老女を従えて部屋を出ると、三姫子は香月に向き直った。「あなたは自分への答えを求めてここに来たのでしょう。だから彼女が何を言おうと、真実であれ嘘であれ、ご自身の感覚を信じなさい。そうすれば、自分の中で決着がつき、次にすべきことも見えてくるはず」香月は涙を拭い、蒼白な顔を上げた。際立って美しい容姿ではなかったが、凛とした気品が漂っていた。「ご親切に感謝いたします」千代子もまた三姫子とさくらに説明を続けた。娘を案じる気持ちと、これだけの親族が集まったのも、ただ真相を明らかにしたいがためだと。光世と夕美の過去の関係は知らなかったという。後に香月が知って実家に話したとき、家族は「昔の一時の迷いに過ぎない、今の夫婦仲を壊すことはない」と諭したのだった。そうして平穏な日々が戻り、確かに光世は結婚後、女道楽も控えめになり、側室一人すら置かなかった。「あの日、娘が泣きながら帰ってきて、二人がまだ関係を持っていると……薬王堂で親密な様子だったと聞かされては、親として黙っているわけにはまいりません」さくらには、この家庭内の揉め事が複雑に絡み合った糸のように感じられた。「ご心情はよく分かります」高熱に喘ぎながらも、三姫子は冷静に言葉を紡いだ。「確かに過去の出来事とはいえ、あれは表沙汰にできない不義密通。人倫に背く行為でした。風紀を乱すと非難されても仕方ありません。だからこそ香月様の胸に棘が残っているのでしょう。ただし、この件は夕美だけを責められません。光世さんにも相応の過失がある」「ええ、重々承知しております」千代子は慌てて言った。「そのため息子たちも婿殿を諭しに参りました。ですが婿殿が離縁を持ち出し……私どもは反対なのです。どうしても続けられないのなら、和解離縁という形を……今日このような騒動を起こしましたのも、やむを得ずのことで、どうかお許しください」三姫子は苦笑を浮かべた。「お許しも何も。ただ事態が収まることを願うばかりです」もはやどうでもいい。これほど腐り切った状況なのだ。さらに腐るのも構わない。いずれもっと腐り果