丹治先生が去った後、烈央は父を見つめた。「父上、どのような手立てを取ってでも、必ず文之進を止めねばなりません」安告侯爵は頷いた。「心配するな。もう二度と佐藤大将をこのような災難に陥れはせぬ」爵位や栄華を投げ打ってでも守るべき人がいる。安告侯爵自身、先祖は武将で、侯爵の位は戦場で勝ち取ったものだ。もし佐藤大将を守るために爵位を失うことになっても、祖父は咎めはしまいと思っていた。甥の文之進を説得できる確信はなかった。幼い頃から独特の主張を持ち、自分の将来を綿密に計画する性格だった。ただ、不運なことに、大きな任務が与えられる度に病気や不測の事態に見舞われ、功績を立てることも、陛下に自身の能力を示すこともできずにいた。東宮でも長らく平侍衛の地位に留まっていた。陛下の即位後、玄甲軍に編入されて御前侍衛となったものの、これといった昇進もなく、今回の関ヶ原行きも、安倍貴守が樋口信也に推薦してくれたからこそ実現したのだ。ずっと頭角を現したいと願っていた彼が、このような絶好の機会を簡単に手放すだろうか?丹治先生が安告侯爵邸を後にすると、すぐに北冥親王邸に使いを走らせ、事の次第を伝えさせた。玄武はそれほど心配していなかった。清張文之進は筋の通った人物で、ただ運に恵まれなかっただけだ。おそらく本人も報告すべきか内心で葛藤しているだろう。安告侯爵が話をすれば、報告を控える可能性は高いはずだった。そもそも、もし本当にこの発言で出世を図るつもりなら、密告による功績よりも、斎藤芳辰に率直に話を持ちかける方が得策だろう。芳辰は斎藤家の人間で、齋藤六郎は姫君の夫だ。密告よりもずっと良い見返りが得られるはずだった。また、長年陛下の側近くで仕えてきた文之進は、陛下のことをよく理解しているはずだ。陛下は一時的に彼を褒め、昇進させるかもしれないが、それは同時に、側近としての望みを永遠に断つことになる。帝王として、陛下は強大な武将や名家を警戒している。しかし個人としては、佐藤大将を心から敬重している。陰で刃を向ける者を喜ぶはずがない。こうして分析を重ねて、さくらを安心させた。「祖父上が戻られて、お前のその様子を見られたら、むしろ心配されるぞ。そんなに肩に力を入れるな。我々は孤立無援ではない。外を見てみろ。親房虎鉄が説明して以来、祖父上のことで街は持ちきりだ。多くの者
しかし、これほどの世論の高まりには、明らかに背後で動く者がいた。清和天皇は北冥親王家を疑ったが、調査を進めるうちに、意外にも糸を手繰れば手繰るほど、穂村宰相にまで行き着いた。あの文章や、茶屋や酒場で噂を広める語り部たちも、すべて穂村宰相の差し金だったのだ。しかも、この調査で分かったことは、穂村宰相も特に隠すつもりはなかったようだった。御書院で長い沈黙の後、天皇は樋口信也に告げた。「この件は調べなかったことにせよ。口外は固く慎むように」先帝の崩御前、穂村宰相は既に致仕を考えていた。しかし突然の崩御により、新帝即位の際の混乱を懸念し、相位に留まって全力で補佐を続けることを選んだ。朝廷の文武百官の中で、最も信頼できる者を挙げるなら、穂村宰相と相良左大臣のこの二人に他ならなかった。最近、宰相と関ヶ原の件について度々協議を重ねる中で、何か言いかけては止める様子が気になっていたが、今となっては全てが筋道を持って繋がっていた。彼と佐藤承は文利天皇の時代から、三代に渡って仕えてきた重鎮だった。文官と武将の間にも真摯な情が存在する。宰相がかつて語った言葉を思い出した。「辺境を守る大将たちがいなければ、国内の安定と繁栄もありえない」表向きは特別親しい付き合いもなく、長らく顔を合わせることすらなかったが、互いに深い敬意を抱いていたのだ。二月十三日の夕暮れ、斎藤芳辰らは佐藤大将を伴って都に入った。数日前から、民衆は城門で待ち続けていた。勅命による都への帰還を知り、幾日も待ちわびた末、ついにその時が来たのだ。日が沈み、残照が血のように染まっていた。巨躯の老将は黒馬に跨り、左右を御前侍衛に護られていた。その背筋は少しも曲がることなく、肌は黒銅のように光沢を帯びていた。まるで油を塗ったかのような艶があり、長途の雪や雨、霜にさらされても、肌は荒れることがなかった。まるでその肌自体が鉄壁であるかのように、風雪も霜雨も寄せ付けなかった。威厳に満ちた表情は、これほど多くの民衆が城門で待ち受け、自分の名を高らかに呼ぶのを目にして、わずかに困惑の色を見せた。今回の都への帰還では、軍紀の緩みで両国を再び戦乱の危機に陥れたことや、村の殺戮という残虐な事態を引き起こした責任を問われ、民衆の非難を浴びると覚悟していたのだ。戸惑いの後、彼の目は熱く潤んだ。二
玄武とさくらは城門から程近い酒楼にいた。二階の個室からの眺めは絶好で、窓を開けると城門付近の様子が手に取るように見渡せた。佐藤大将の行程は事前に把握されていたため、玄武は早々にこの個室を予約し、さくらが佐藤大将と対面できるよう手配していた。さくらは佐藤大将の姿から目を離すことができず、貪るように見つめていた。今にも駆け出して祖父の胸に飛び込み、幼い頃のように思う存分泣きたかった。あの頃のように、全ての辛い思いを祖父に打ち明け、すると祖父は優しく頭を撫でながら「誰がさくらを苛めたのか、このじいが懲らしめてやろう」と言ってくれたものだった。しかし今は、二階に立ったまま、祖父の馬が群衆に囲まれる様子を見守ることしかできない。耳を震わせんばかりの支持の声が響く中、涙が溢れ出た。祖父は本当に老いていた。以前は、こめかみに白髪が交じり始めていても矍鑠として意気軒昂で、都に戻れば父上と拳を交え、息一つ乱すことはなかった。今では、漆黑の髪はほとんど見当たらず、白髪に覆われていた。連日の道中で疲れが滲み出ており、大将としての威厳は保っているものの、疲労の色は隠せなかった。全体的に痩せこけ、かつては精悍で張りのあった頬も、今では同じ褐色ながら肉が垂れ下がっていた。それは紛れもない老いの兆しだった。さくらの最愛の祖父は、確かに老いていたのだ。佐藤大将は群衆の中を苦労しながら進んでいた。時には会釈で謝意を示し、時には御前侍衛が人々を押し返すのを心配そうに見つめ、民衆が怪我をしないかと気を配っていた。およそ半時間が過ぎてようやく、一行は酒楼の前にたどり着いた。本来なら御城番と禁衛府が道を開くはずだったのだが、あまりにも多くの民衆が押し寄せ、まるで人の壁のようになっていた。最初こそ人々の間を縫うように動けたものの、今や民衆は鉄壁となって佐藤大将を守るかのように取り囲んでいた。民衆の中には御前侍衛に手を出そうとする者もいたが、すぐさま誰かが「御前侍衛と衝突すれば佐藤大将のご迷惑になる」と声を張り上げて制止した。次第に、皆が「陛下はきっと辺境を長年守り続けたこの老将を公平にお取り扱いになる」と声を上げ始めた。最後には「天皇陛下の英明なるご判断」「天皇陛下の御仁徳」と称える声まで上がるようになった。この変化は極めて自然なものだった。わざとら
最後には山田鉄男と村松碧が禁衛と御城番を率いて群衆の中に入り込み、徐々に道を切り開いていった。佐藤大将と御前侍衛が通れるだけの道幅を確保したのだ。御前侍衛は佐藤大将を先導し、参内させた。その前に、すでに民衆の騒動と彼らの叫び声の内容は清和天皇の耳に届いていた。天皇は眉を寄せた。あの「天皇陛下の英明なる」という声々が一本の縄となって、自らを縛り付けているかのようだった。本来なら佐藤承が都に戻った後、まず刑部に入れ、比較的待遇の良い牢獄に収監するつもりだった。そうすれば平安京の使者にも説明がつきやすい。だが今となっては、そのような処置が可能だろうか。安倍貴守の案内で、佐藤大将は御書院に入り、跪いて叩頭した。「罪深き佐藤承、参内仕り候。陛下の御威光、万歳にございます」清和天皇は佐藤承に会う前まで、この一件の処理について整然とした計画を巡らせていた。しかし、目の前に跪く姿を見た時、かつての威厳に満ちた雄姿はどこにも見当たらなかった。まるで一つの山が崩れ落ちたかのように。その様子に胸が痛んだ。皇太子であった頃、佐藤承と上原洋平は深く自分を支持してくれていた。当時の北平侯爵家にもよく足を運び、心から上原家の若殿との交友を望んでいたものだ。時は移り、世は変わる。昔日の面影はない。帝となった今では、考えるべきことも増え、心も昔日のような純粋さを失い、様々な懸念と思惑が生まれていた。目の前の旧友の顔には、辺境の厳しい風霜が刻まれていた。鉄のように強かった老将が、今や野に住む老人のように見える。この時ほど、天皇の心が柔らかく、また痛みを覚えたことはなかった。思わず自ら立ち上がり、手を差し伸べた。「佐藤卿、お立ちなさい」佐藤承は老いた目に涙を溢れさせた。「不肖、陛下のご期待に添えず、この罪、万死に値します」清和天皇は深い溜息をつきながら、「座って話そう」と言った。自ら佐藤大将の腕を取って脇の座に導いた時、かつて鋼鉄のように強かった老将が、本当に老いていることを実感した。その肩と腕からは昔日の硬さは失われ、痛ましいほどに痩せていた。玉座に戻りながら、思わず嘆息が漏れた。「随分痩せられましたな。どうかご自愛ください」「陛下のご心配、まことに恐縮でございます」佐藤承は老いた目の涙を拭いながら、深い後悔と恥じらいを滲ませた。
以前、上原さくらが玄甲軍大将に任命された時、多くの朝臣が反対した。女性がそのような重要な地位に就くことは相応しくないと。しかし今、陛下の一連の動きを目にし、その意図を悟った彼らは、何か違和感を覚えていた。このままでは玄甲軍は遊び人の集まる御城番だけになってしまうのではないかと。玄甲軍は皇城の防壁として存在してきた。それが今や解体されようとしている。誰もがそれを適切とは思えず、まるで何か権威が崩されていくかのようだった。もちろん、さくらが大将に就任して以来、玄甲軍はより威厳を増し、人々に安心感を与えるようになっていた。当初さくらを快く思わなかった者たちも、今では心服するようになっていたのだ。そして、彼らのさくらへの信頼こそが、清和天皇の動きを加速させる要因となった。御前侍衛の玄鉄衛への改編に続き、次の一手も早まることだろう。佐藤大将は勤龍衛の護衛のもと佐藤邸へと戻された。長らく放置されていた屋敷は荒れ果てていたが、勤龍衛たちが自ら草を抜き、掃除に取り掛かった。吉田内侍は数名の宮人を選び、世話をさせることとした。北條守は自ら護衛する勇気はなく、佐藤大将が屋敷に入った後、勤龍衛二十名を配置した。十名は邸内に、残りの十名は三つの門の警備に当たり、正門に四名、裏門と側門にそれぞれ三名ずつ配された。佐藤大将が邸に戻って間もなく、淡嶋親王妃が供人を連れて正門に姿を現し、面会を求めた。勤龍衛に制止されたものの、騒ぎ立てることもせず、ただ外に立ち尽くしていた。他のことは知らぬ顔もできようが、父が都に戻ったというのに会いに来ないのでは、世間の非難も免れまい。幸い、今は淡嶋親王が都を離れていた。もし在京していれば、いつものように父との面会を許さなかっただろう。父は今や罪を負う身なのだから。陛下が屋敷住まいを許されたのは、たとえ勤龍衛の監視付きとはいえ、大いなる御恩であった。しばらく立っていたが、さくらも燕良親王家の者も姿を見せず、その上、寒さも厳しかったため、それ以上留まることはしなかった。北冥親王家では、さくらはようやく心を落ち着かせ、山田鉄男の報告に耳を傾けていた。玄武も刑部には戻らず、終日さくらに寄り添っていた。「よかった。望み通り、佐藤邸に戻ることができたな」玄武は報告を聞き終え、少し安堵の息をついた。少なくとも刑部には入れ
安告侯爵は供人も連れず、たった一人で訪れた。青い衣装に黑い厚手の外套を羽織り、知らない者が見れば、どこかの執事かと思うほどだった。玄武とさくらが真っ先に立ち上がって出迎え、他の者たちも続いて立ち上がった。安告侯爵が何も言わずに助力してくれたことに、皆が感謝の念を抱いていた。挨拶を交わした後、安告侯爵は率直に切り出した。「申し訳ないのですが、あの小僧を無条件で説得することはできませんでした。彼が一つ条件を出してきましてね。まずは王妃様と沢村お嬢様のお考えを伺わねばなりません」安告侯爵が「申し訳ない」と切り出した時は、皆の心臓が飛び出しそうになったが、後の言葉を聞いて安堵の溜め息をついた。紫乃は不思議そうに尋ねた。「どうして私の意見を?彼は一体何をするつもりなの?」安告侯爵も自分でその言葉を口にしながら、妙な感じがしていた。「彼が申しますには、沢村お嬢様の弟子になりたいとのこと。それも村松や山田と同じように、直弟子としてです」「えっ?私、彼に武術は教えているわよ」紫乃は清張文之進の意図が一瞬飲み込めなかった。御前の者として、一緒に稽古に参加することは許されているはずなのに、なぜ弟子入りを?自分はただ三人しか弟子を取らないと言っていたのに。安告侯爵は説明を加えた。「実力で昇進したいそうです。御前では武芸と機転が物を言います。機転なら十分なものを持っているのですが、武芸の方がいささか心もとないと」紫乃は「ふうん」と声を上げ、さくらの方を見た。さくらも同じように紫乃を見つめていた。この件は紫乃の意向次第だった。弟子を取るのは軽々しい決断ではない。紫乃の性格からして、村松たち三人を受け入れたのも随分と無理をしてのことだったのだから。「引き受けましょう」紫乃は深く悩むことはなかった。通常なら、彼女の性格からすれば、こうした形での強要には絶対に応じないところだった。だが、さくらの祖父のことだ。不要な原則にこだわる必要はない。「紫乃、ありがとう」さくらは感謝の言葉を述べた。「何を言ってるの。使い走りが一人増えるだけじゃない」紫乃は笑いながら言ったが、心の中では歯ぎしりしていた。いい度胸だわ、佐藤大将を盾に私を脅すなんて。弟子にしたら、覚悟しておきなさい。玄武はそれまで心配ないと言い続けていたが、安告侯爵の言葉を聞いて、今になって本当
「父上、ご安心ください。千載一遇の好機会です。必ず師匠の教えを守り、決して怠慢な態度は取りませぬ。不埒な振る舞いなど、絶対にいたしません」文之進は床に跪いて急いで言った。彼は紫乃の稽古に二度ほど参加したことがあったが、それ以外は当番で参加できず、時間が空いた頃には紫乃は個人指導をしなくなっていた。そのことを随分と嘆いていたのだ。家に帰っては両親に何度も話していた。沢村師匠の直弟子になれたらどんなにいいだろうかと。思いもよらなかったが、関ヶ原での不運続きの中で、こんな幸運に巡り会えるとは。自分のやり方が卑劣だということは分かっていた。だが同時に、この好機を逃せば二度と機会は来ないことも知っていた。なぜなら、御前侍衛は独立して玄甲軍の管轄から外れる。沢村師匠が彼らを教えているのは上原様への配慮からだ。御前侍衛が独立すれば、たとえ陛下が許可を出しても、以前のように何度も稽古に参加できない事態になるだろう。文之進の妻も夫と共に跪いた。夫婦一体、夫が弟子入りするなら、妻も同じように礼を尽くすべきだと。紫乃は拝師の茶を飲んだ後、弟子の妻への見面の印として腕輪を贈った。文之進の妻は目利きで、この腕輪の価値が分かっていた。すぐさま「あまりに貴重すぎて」と辞退しようとした。「お受け取りください。私には安物など持ち合わせておりませんので」と紫乃は言った。文之進の妻は一瞬戸惑い、助けを求めるように姑の顔を見た。「師匠からの贈り物なのだから、受け取りなさい。今後は暇を見つけては師匠のお世話をし、弟子の妻としての務めを果たすように」と文之進の母が言った。「はい」文之進の妻はようやく受け取り、感謝の念を込めて「ありがとうございます、師匠様」と言った。拝師の礼を終えると、文之進は家族に先に帰るように言った。父親は息子が何を残ってするのか理解していた。玄武とさくらに退出の挨拶をし、紫乃にも別れを告げた。有田先生が自ら玄関まで見送った。彼らが去ると、文之進は再び跪いた。「弟子、不義の行い、どうかお咎めください」紫乃はまだ師匠としての心得も十分ではなかったが、確かに腹立たしい思いはあった。さくらが過ちを犯した時、師叔の皆無幹心が叱責する際によく発する言葉を思い出した。師叔はいつも厳しい声で「何が間違いだったのか」と問うのだ。そこで紫乃
紫乃はさくらを引き寄せ、傍らで見物させた。今のさくらが祖父のことを心配しているのは分かっていた。弟子たちの試合を見せれば、武術好きのさくらの気を紛らわせられるだろう。玄武も付き添って座っていた。もちろんさくらのためだ。彼らの戦いぶりなど、基本的には気にも留めていなかったが......気にせざるを得なくなった。文之進は三人を相手に、まともに太刀打ちできず、ただただ打ちのめされているだけだった。あまりにも惨めな様相を呈していた。幸い、三人とも加減は心得ていた。頭や顔は狙わず、体に数発の拳や蹴りを入れる程度だ。人目につかない場所なら問題ない。とはいえ、このまま続ければ文之進はすぐに持ちこたえられなくなるだろう。玄武が制止しようとした時、さくらがすでに声を上げていた。武を修めた者として、このような一方的な打撃戦は見ていられなかった。文之進の弱点は明らかだった。基礎は比較的しっかりしているものの、それだけだった。技も拳法も足技も支離滅裂で、まともな型すら見られない。紫乃は、さくらの注意がすっかり逸れたことに安堵の表情を浮かべた。地面に転がる文之進を見る目も、少し柔らかくなっていた。「武術は何年になる?」さくらが文之進に尋ねた。文之進は大きく息を切らしながら答えようとしたが、紫乃が先に口を挟んだ。「師伯様にお答えしなさい」さくらは眉を寄せた。いや、彼らの師伯にはなりたくない。自分と紫乃は同門ではないのだから。文之進はゆっくりと立ち上がった。足取りはまだ怪しかったが、返答を忘れなかった。「師伯様、七歳から稽古を始め、今日まで二十年になります」「誰に習ったのだ?」文之進は答えた。「はい、正式な師匠は持ちませんでした。屋敷の師範から教わり、従兄とも稽古を重ねました。後に安倍貴守と知り合い、彼から指導を受けました。皇太子の侍衛になってからは、専ら安倍に教えを請うておりました」少し間を置いて、付け加えた。「他の兄弟たちにも付きまとっては手合わせを願い、見様見真似で技を盗んでおりました」一同が笑みを浮かべた。向学心はある。だが、あちこちから少しずつ学んだのでは乱雑になりがちだ。一つの流派をしっかりと身につけ、それから他を学べば何も問題はない。「なるほど、これでは雑多になるわけだ」紫乃も眉をひそめた。以前の稽古で、確かに文之進の
玄武を呼びに人を遣わした後、日南子が言った。「恵子皇太妃様が親王家にいらっしゃると聞きました。早くご挨拶に参りましょう」さくらはそれを思い出し、「ああ、そうですね。今参りましょう」日南子が屋敷に到着した時、恵子皇太妃は既に高松ばあやから報告を受けていた。しかし、さくらと日南子が久しぶりの再会なのだから、きっと話したいことも多いだろうと考え、今夜の食事は控えめにするよう命じ、ゆっくりと話ができるようにしていた。ところが間もなく、さくらと紫乃が日南子を伴って挨拶に訪れた。皇太妃は大変満足げだった。さすが名家の出身、礼儀正しい振る舞いだ。日南子が礼を済ませると、恵子皇太妃は座るよう促し、「長旅、お疲れでしょう?」と声をかけた。日南子はさくらを一瞥し、慈愛に満ちた眼差しで答えた。「皇太妃様、帰りを急ぐ気持ちで一杯でしたので、疲れなど感じませんでした」皇太妃は日南子の表情に母のような愛情を見て取り、さくらへの深い愛情を感じ取った。そして溜息をつきながら言った。「あなたが戻ってきて良かった。淡嶋親王妃はあなたの義妹でしょう。姉としてしっかりと諭してあげなさい。あまりにも分別がないようですから」日南子が困惑の表情を見せると、高松ばあやが淡嶋親王妃の愚かな所業について説明し始めた。日南子は蘭のことは既に知っていたが、淡嶋親王夫婦がここまで愚かで、実の娘のことさえ顧みないとは知らなかった。紫乃も傍らで遠慮なく批判し、淡嶋親王妃がさくらにどう接してきたかを余すところなく語った。聞いていた日南子は怒り心頭に発し、今すぐにでも淡嶋親王邸へ怒鳴り込みたい気持ちを抑えきれないようだった。さくらと紫乃は淡嶋親王と燕良親王の密謀については口を閉ざした。そのため日南子は依然として淡嶋親王を臆病で優柔不断な人物だと思い込んでいた。怒りを抑えきれず、皇太妃の前でさえ淡嶋親王妃への非難を続けた。親王である淡嶋親王を非難する資格は持ち合わせていなかったが、淡嶋親王妃は佐藤家の娘。義姉として叱責することは、誰も不敬とは言えまい。恵子皇太妃は日南子の怒りの言葉に満足げに頷き、「今、淡嶋親王が都を離れている間に呼び出して、しっかりと言い聞かせるのがよろしいでしょう。実の娘も大切にせず、姪も顧みず、一体何のための親王妃なのか」日南子は本当に腹を立てていたが、あの愚
翌日の夕暮れ、三番目の叔母である日南子が都に到着した。他のどこにも寄らず、まっすぐに親王家を訪れた。さくらは日南子の帰京は知っていたものの、こんなに早いとは思わなかった。祖父の話では、少なくとも数日後になるはずだった。そのため、紫乃が飛び跳ねるように知らせに来た時、さくらは半ば脱いでいた官服を慌てて着直すと、一目散に外へ駆け出した。夕暮れ前の空は美しく、夕陽が沈もうとしていた。地平線には薄紅色と橙色の層が三、四重に重なり、その柔らかな光が日南子を優しく包み込んでいた。彼女は使用人たちに荷物の運び入れを指示していた。「叔母様!」という声を聞くや否や、振り向いた彼女は、はっきりと見る間もなく駆け寄ってきた人影に抱きしめられた。腕の中の子を感じてはじめて、現実だと実感できた。涙がすぐにこみ上げてきたが、すぐに抑え込んだ。鼻の奥がつんとするばかりで、笑いながら言った。「まあ、叔母さんが戻ってきたと思ったら、突き飛ばすつもりかい?」さくらは長いこと抱きしめていたかと思うと、やっと離れて、きらきらと輝くような笑顔を見せた。「叔母様にお会いできて、嬉しくて」日南子はさくらの顔を両手で包み込んだ。目に浮かぶ涙を抑えきれず、唇を震わせながらも笑って言った。「まあ、この子ったら。よく見せておくれ。どれだけ背が伸びたのかしら?あら、もう私より半頭も高くなってるじゃないの」頭の上で手を動かして背の高さを比べながら、涙まじりに笑った。さくらは屈託なく笑った。「伸びないはずないじゃありません。もう、この歳なんですから」日南子は慈しむように甘やかしてさくらの頬をつねった。確かに大きくなった。でも、その成長の道のりは、あまりにも辛いものだった。さくらは愛らしく舌を出し、こっそりと振り向いて深く息を吸い、胸の痛みを押し込めた。使用人たちの荷物運びを見るふりをして尋ねた。「これ、みんな何なんですか?」「何年もの間、私たちがあなたの誕生日に贈ろうと準備していた品々よ。今回、全部持って来たの」「こんなにたくさん?」「たくさんじゃないわ。一人一つずつ、何年分かが溜まっただけ」日南子は一瞬言葉を切り、涙に濡れた目で続けた。「七番目の叔父さんからの物もあるわ。気に入るかしら?」さくらは「うん」と短く返事をし、しばらくしてようやく言葉を紡ぎ出した。「親王様が
さくらは磁器の匙を指で摘み、そっと椀の縁を叩いて清らかな音を立てた。「時には、泣いたり騒いだりしない方が、むしろ辛いものよ」「後になって分かったわ」紫乃は立ち上がってさくらを抱きしめた。「だから私はずっとあなたの側にいるつもり。青石の泉であんなに傲慢だったさくらが戻ってくるまでね」さくらは軽く紫乃を押しのけ、熱い涙を二滴こぼしては慌てて拭った。笑いながら尋ねる。「どうしても青石の泉の時のさくらじゃないといけないの?梅花の樹の下であなたを打ち負かしたさくらじゃダメ?赤炎宗の前で勝ったさくらじゃダメ?山頂で勝ったさくらじゃ......」「もう黙りなさい!」紫乃は歯噛みした。「どうやら私の五味調和の汁粉じゃ足りないみたいね。どんぶり一杯分飲ませて、その毒舌を麻痺させてやろうかしら」紫乃は両こぶしでさくらの肩を軽く叩いた。「もう、腹立つわ」さくらは紫乃の袖で涙を拭うと、突然強く抱きしめた。その肩は長い間震え続けていた。紫乃は黙ったまま涙を流した。まるで少女時代、試合の後で泣いていた自分をさくらが笑った後で、優しく抱きしめてくれた時のように。しばらくして、さくらは紫乃から離れ、声を詰まらせながら「ありがとう」と言った。紫乃は小さな手帕を差し出した。「私の着物で涙と鼻水を拭くのは止めなさい。これを使いなさい」見るからに粗末な手帕がさくらの手に落ちる。彼女は泣き笑いしながらそれを見つめた。「これ、昔私があなたにあげたもの?まさか、まだ持ち歩いてるの?」紫乃は席に戻り、鼻声で答えた。「違うわ。あなたがくれたのはとっくに捨てたわよ。これはあなたの屋敷にあった在庫よ。お珠から貰ったの」さくらは涙を拭った。両目は腫れ上がり、まるで焼き栗のように赤くなっていた。「どうしてそんなのを?もっと綺麗な手帕がたくさんあるのに」紫乃は鼻を鳴らした。「こんな手帕だけが、あなたが私より劣っている証拠なのよ」さくらはついに堪えきれず、噴き出して笑った。門外の壁際で、その笑い声を聞いていた棒太郎は、壁に寄りかかったまま地面に腰を下ろした。膝を抱え込み、その上に顔を埋めて転がすように涙を拭った。最近の協議では誰も上原家の惨劇には触れていなかったが、使者団が来れば必ずや蒸し返されることは明らかだった。今夜の佐藤邸への訪問は、その端緒に過ぎなかった。
実を言えば、玄武はさくらの語る師匠の姿に少し違和感を覚えていた。彼の記憶の中の師匠は分別があり、過度に厳しくもなければ、過度に甘くもない。ただ、弟子たちのためになることは必ず考えていて、どこか弟子びいきなところがある人物だった。さくらの言う師叔――つまり彼の師匠は、気分屋で些細なことで罰を与え、皆が恐れる存在として描かれていた。佐藤大将は二人を見比べた。「面白い?つまらない?どちらなんだ?」さくらは不満げに続けた。「師弟は師叔様の直弟子ですから。師叔様に可愛がられて当然、面白く感じるのでしょう。でも師叔様が優しくするのは彼だけで、私たちには重い罰ばかり。大師兄のような落ち着いた人でさえ、師叔様の目には軽薄に映るんですから」佐藤大将は驚きの声を上げた。「まさか、お前たちは同門だったのか?」「はい。でも彼は私の後輩です。入門は私の方が早かったんです」さくらは訂正した。佐藤大将は冗談めかして尋ねた。「では、この後輩殿は先輩をどう扱っているのかな?」さくらの頬が薔薇色に染まった。「とても、よくしてくれます」佐藤大将は玄武を見つめた。時として男は多くを語る必要がない。その眼差しだけで、相手への想いの深さは分かるものだ。以前、関ヶ原にいた頃、佐藤大将は密かに心配していた。どう言っても再婚の身である以上、北冥親王はさくらのことを蔑ろにするのではないか、と。実のところ、北冥親王がさくらを娶った真意が掴めずにいた。そこに何か策略が隠されているのではないかと。その後の文通でも、二人の仲については殆ど触れられず、専ら鹿背田城の事ばかり。ますます理解に苦しんだ。親王の身分と、あれほどの武功があれば、望む令嬢は幾らでもいたはず。確かに、天皇は彼の軍功を警戒し、名家との縁組みを喜ばないかもしれない。それでも、選択肢は余りにも多かったはずだ。愛情かもしれないとも考えた。だが、それは単なる推測に留めておいた。もしそう信じ切ってしまえば、警戒心を失い、結果としてさくらを危険に晒すことになりかねない。しかし今、彼には分かった。男が心に秘める女性への想い。それは上原洋平が妻の鳳子を見つめる眼差しや、我が息子たちが妻を見る表情と、まったく同じものだった。彼は引き続きさくらの話に耳を傾けた。実のところ、梅月山での出来事の多くは既に知っていた。菅原陽
佐藤大将は孫娘のか細い肩を見つめながら、胸が締め付けられる思いであった。これほどの苦難を味わってきた彼女に、今度は自分の祖父である己のために奔走させ、一族の悲劇を取引の材料として使わせるなど、どうして忍びようか。玄武が静かに口を開いた。「外祖父様、さくらの申す通りでございます。これら一連の出来事は切り離して考えることなどできません。また、これはただ外祖父様のためだけではなく、両国の戦争回避のための努力でもあるのです」個別に扱えば、確かに平安京は認めるだろう。謝罪と賠償さえ行うかもしれない。だが、それは交渉における重要な切り札を失うことに等しかった。佐藤大将にもその理屈は分かっていた。しかし、さくらにとってはあまりにも残酷な話であった。言葉を続ける気力が失せた。祖父と孫が向かい合って座っているというのに、家族の話はできず、国事は心が痛み、もはや語るべき言葉が見つからなかった。せっかくの再会なのに、このまま別れるのも惜しかった。玄武は最も安全な話題を見つけ出した。「さくら、梅月山での出来事を外祖父様にお話ししてはいかがでしょう?きっとご興味をお持ちになるはずです」と、柔らかな微笑みを浮かべながら言った。佐藤大将の目が急に輝きを帯びた。「そうだ、お前は梅月山で菅原様を師と仰いだそうだな。じいも二度ほどお会いしたことがある。残念ながら深い話をする機会はなかったが、どのような方なのだ?厳格な方なのか?お前の武芸がこれほど優れているということは、修行の道のりで相当の苦労があったに違いない。菅原様の厳しい指導のおかげだろう」さくらは微笑んだ。その瞬間、柔らかな笑みが眉目にこぼれる。「師匠は全然厳しくないんですよ。むしろ私たちの大師兄のような存在で、時には私たち弟子よりもいたずら好きなくらいでした。だから師叔様は師匠の振る舞いが気に入らなくて。私たちを叱るのも、実は師匠への当てつけだったんですよ」佐藤大将は目を丸くした。「いたずら好き、だと?いや、それはおかしいぞ。じいも会ったことがあるが、あの方は冷たく厳めしく、近寄りがたい印象だったはずだ。いたずら好きなどという言葉とは程遠かったが......」さくらの笑顔は一層深まった。「みんな騙されているんです。あの冷たく厳めしい態度というのは、実は人見知りなだけなんですよ。見知らぬ人と付き合
佐藤大将は玄武の意図を理解した。平安京には復讐があったのだから、因果応報といえる。もし村の殺戮の後に復讐せず、今のように使者を派遣していれば、大和国が完全な非を認めることになった。しかし彼らは既に自分たちのやり方で復讐を果たしている。佐藤大将は静かに言った。「確かに。村の殺戮だけなら、彼らの復讐で十分だった。だが忘れてはならない。降伏兵の殺害もある」降伏兵の殺害というのは表向きの言い方で、実際は一国の皇太子を徹底的に辱め、悲惨な死に追いやったのだ。平安京の皇帝も、民の仇を討つためではなかった。兄の仇を討つためだ。だから村の殺戮は帳消しにできたとしても、他国の皇太子を謀殺したことはどうなるのか?玄武は言った。「今のところ、降伏兵殺害の件は表立って議論されていません。スーランジーが以前譲歩したのも、平安京の皇太子様の面目と平安京の体面を守るためでした。今回はレイギョク長公主が使者として来られる。まだ希望はあります」さくらも続けた。「それに、以前邪馬台の戦場で、スーランジーは平安京に逃げ帰った密偵は全て処刑したと言いましたが、清湖師姉の調査によると、二人が逃亡していたそうです。師姉はずっとその二人を探していて、既に見つけ出し、今は護送中とのことです」二人が交互に話すのを聞きながら、佐藤大将は胸が痛みつつも嬉しかった。邪馬台から戻って以来、彼らは自分のために奔走し続けてきたのだろう。だからこそ、自分が都に戻って審問を受ける時も、万全の準備ができており、刑部にすら行かずに済んだのだ。どのような結果になろうとも、この佐藤邸に戻り、数日を過ごせるだけでも、この人生に悔いはない。手すりに両手を置き、二人を見つめながら、重々しい声で語った。「よく聞きなさい。この件は心を尽くせば十分だ。それ以上は望まなくていい。じいは老いた。私への処遇がどうなろうと耐えられる。だがお前たち二人の前途を台無しにするようなことは、絶対にあってはならない。さくら、残酷な言い方になるが、両国の対立において、上原家の惨事といえども、一国の皇太子を計画的に虐殺した罪には及ばない。向こうが平安京の皇太子の件を持ち出せば、我々は必ず負ける。その上、我々には民を殺戮した先の非もある」玄武は言った。「外祖父様、私たちは何度も分析を重ねてきました。仰る通りです。鹿背田城の件は私たちに
玄武より先に彼はさくらを抱き起こし、幼い頃のように頭を撫でた。少しでも不満があれば彼に訴えに来ていた、あの小さな可愛らしい娘。些細な不満も我慢できず、誰かに叱られたり何か言われたりすれば、それを覚えておいて外祖父が都に戻る時を待って告げ口するのだった。告げ口した後は彼の懐に潜り込み、表向きは不満げで従順な様子を見せながら、その眉目には得意げな笑みが溢れていたものだ。さくらの涙は数珠の糸が切れたように、大粒の雫となって頬を伝った。外祖父の荒れた指が涙を拭い、感情を抑えた声には、それでも震えが混じっていた。「今度は誰がうちのさくらちゃんを苛めたんだ?でも、もうじいが仕返しをしてやる必要はないな。お前自身で返せるようになったのだから」慈しみと誇らしさの入り混じった声に、さくらの胸はより一層締め付けられた。自分でも慌てて涙を拭った。ここに来たのは泣くためではない。外祖父に弱さを見せるためでもない。涙に濡れた目を通して見ると、外祖父は相変わらず彼女を慈しむ眼差しだったが、その老いはより一層はっきりと見て取れた。この数年、自分が経験したこと以上のものを、外祖父は経験してきたはずだ。上原家の出来事による心痛に加え、三番目の叔父の片腕、七番目の叔父の死、そして自身の矢傷による重傷。一つ一つの試練を乗り越えてなお、背筋を伸ばして立つその姿に、人々は敬服するだろうが、彼女にはただ心が痛むばかりだった。ようやく玄武が祖孙を落ち着かせ、腰を落ち着けて話ができるようになった。さくらは叔父や叔母の安否を尋ねる勇気が出なかった。その質問は外祖父に七番目の叔父のことを思い出させてしまう。言葉を選びながら、慎重に話を進めた。佐藤大将もそれを察し、自ら切り出した。「お前の三番目の叔母が数日中に都に着く。どうしても戻って来たいと言ってな。お前に会いたいそうだ」それ以上は何も言わなかった。心の奥深くに埋め込んだ苦痛を掘り起こすのを恐れてのことだった。さくらは心配そうな表情を浮かべた。「遠い道のりですのに、こんな寒い時期に。おじいさま、どうして止めなかったのですか?」佐藤大将は優しく慈愛に満ちた声で言った。「お前のことを想っているんだよ。以前は帰りたくても帰れなかったが、もう今となっては何もかも構わないと言ってな。お前と潤くんに会いに来させてやろうと思うのだ」
翌日の夜、玄武とさくらは佐藤邸を訪れた。門の外からして、勤龍衛が手を抜いていないことが分かった。扁額は掛け直され、門前は清掃され、銅の飾り鋲は一つ一つ磨き上げられて輝いていた。日中は庶民たちが訪れ、心づくしの品を届けていった。野菜や果物、鶏や魚など、みな素朴な心遣いだった。民の情は最も純粋なもので、他にできることがないなら、せめて自分たちにできることをしようという思いだった。北條守は門の前に立っていた。昼間は来る勇気がなく、夜になってようやく見張りに立つことができた。謝罪に行く決心がつくまでの心の準備だった。しかし、ずっと心の準備をしていても扉を開ける勇気が出ない。玄武とさくらが来るのを見ると、思わず後ずさり、身を隠した。この無意識の反応は、今や民衆から激しい非難を受けているからだった。街を歩けば腐った野菜を投げつけられることもある。関ヶ原での功績が、今や民衆の怒りという形で自分に返ってきているのだと分かっていた。しかし今は非難を受けても平然と受け入れることができた。もう母に説明する必要も、母の怒りに向き合う必要もない。受けるべき報いを受ければ、すべては過ぎ去るのだから。玄武とさくらは手を取り合って馬車を降りた。その繋がれた手に目を留めると、言い表せない感情が胸の内に湧き上がった。さくらは暗い雲紋に大輪の菊が刺繍された広袖の絹衣を纏い、外が黒で内側が赤い外套は夜風になびいていた。最近の彼女は官服姿で威厳に満ちていたが、今夜は女装に戻り、一層その美しさが際立っていた。わずかに赤みを帯びた目元は、まるで桃色の紅を引いたかのよう。一目見れば千年もの恋に落ちるほどの美しさだった。一瞬見ただけで素早く目を逸らした。門灯の明かりが暗く、自分が門前で見張りをしていることに気付かれないことを願った。玄武の方は見る勇気すらなかった。二人がどれほど相応しい間柄か、どれほど釣り合っているかを、見たくはなかった。彼は見なかったふりをし、玄武とさくらも当然、彼を見なかったことにした。勤龍衛が門を開け、二人は中に入っていった。佐藤大将には事前に来訪を告げていたため、夕食を済ませた後はずっと正庁で待っていた。ついに足音が聞こえ、顔を上げると、提灯の明かりに照らされた二人が手を繋いで入ってくるのが見えた。その光景を目にした途端、佐藤大将の
そうして十三歳まで右往左往し、まともな師匠に就くことができなかった。拝師の度に何かが起こり、自分が病に倒れるか、師匠に不幸が降りかかるかだった。最後には父も諦めた。このまま続けるしかない、学べるだけ学べばいいと。紫乃は話を聞き終え、複雑な思いに駆られた。この男は厄災の化身なのか?こんなに不運で、しかも師匠に祟りがあるとでも言うのか。自分は大丈夫だろうか?彼の経験からすると、問題は常に拝師の前に起きている。今回は順調に弟子入りを済ませたのだから、きっと運も向いてきて、すべて上手くいくはずだ。文之進は山田、村松、親房に正式に挨拶を済ませた。その誠実で慎み深い態度に、三人の師兄も特に厳しい態度は取らなかった。ただ、さくらが一つ尋ねた。「玄鉄衛の身でありながら、このように直接弟子入りを願い出て、玄鉄衛での出世に影響はないのですか?」文之進は慎重に答えた。「今は出世できなくとも構いません。十分な実力があれば、いずれ日の目を見る時が来ます。しかし武術を極めなければ、たとえ陛下のご信任を得ても、その任に堪えることはできません。その時になって失脚するのは、より醜いことです。若輩者ですから、じっくりと時を待つ覚悟です」さくらは軽く頷いた。彼の考えに同意していた。この粘り強さは本当に貴重だ。これほどの不運に見舞われながらも邪道に逸れなかった。玄武が彼を信じ続けた理由も、分かる気がした。彼らが去った後、棒太郎は贈り物を見つめていたが、以前のように手に取って確かめることはしなかった。年始に師門に戻った時、稼いだ銀子を全て師匠に渡したのに叱られた。たくさんの装飾品や紅白粉を買ったからだ。師匠は金遣いが荒いと言って、一席お説教をくれた。しかし翌日、姉弟子たちは皆、抗議の意を込めて紅白粉を塗って現れた。石鎖さんと篭さんは見識のある人物で、師匠に「今時の娘はみな化粧をするもの。たまには着飾らせてあげても。お正月なのですから」と進言した。師匠は口では厳しいことを言いながらも、心は優しく、「質素から贅沢は易く、贅沢から質素は難し」と一言残しただけで、もう彼女たちのことは咎めなかった。しかし下山して都に戻る前夜、師匠は彼と一時間ほど語り合った。「我らは貧しい。だがそれも長年のこと。貧しくとも気骨はいる。贈り物は頂戴したら感謝し、強請るのは無礼という