しかし、それでも子供たちの体は震えていた。家で楽しく過ごしていたのに、何者かに乱暴に連れ去られ、ここに閉じ込められたのだ。まだ八歳にもならない子供たちが、どうして恐怖を感じないだろうか。菊乃もまた、強い恐怖を感じていた。しかし、母としての強さを奮い立たせ、不安を押し殺し、夫と共に二人の息子を慰めた。しかし、夫婦は目を見合わせ、そこには絶望と無力感しか映っていなかった。隣の牢室にいた影森玄武は、上原修平と菊乃の言葉を聞き、心から敬服した。義父の精神は確かに上原家の一人一人に受け継がれている。特に上原修平は義父との接点が少なかった。彼は実直な商人でありながら、これほどまでに気骨のある人物だった。太公の教育の賜物だろう。真の貴族とは何か?彼らこそが真の貴族と言えるだろう。朝廷に仕える者が少なくても、彼らの団結力と気高さは、多くの貴族を恥じ入らせるほどだった。東海林椎名が上原修平に怒りをぶつけたのは、上原修平ができていることが、彼にはできなかったからだ。東海林椎名と小林鳳子は一番左の牢室にいたため、影森玄武は彼らの会話も聞くことができた。小林鳳子の声は小さかったが、失望と悲しみに満ちていた。「彼女たちはあなたの娘なのに。どうしてそんなに冷酷になれるの?」「公主を裏切れば、死あるのみ。私が告発しなければ、お前と私の命が危ない。小林家と東海林侯爵家まで巻き添えになってしまう。鳳子、私には他に道がなかったのだ」「他に道がなかった?」小林鳳子はすすり泣き、言った。「その言葉を、あなたは長年使ってきたわ。何か選択をするたびに、他に道がないと言う。どうして東海林侯爵家に『他に道がない』と言わないの? 彼らには反抗する力がある。たとえ反抗する力がなくても、現状を受け入れれば、どうにか生きていける。でも、あなたはいつも私に『他に道がない』と言う。他の娘や側室にも『他に道がない』と言う。あなたのその言葉のせいで、いつも誰かが犠牲になる。もうたくさんよ。紗月は唯一反抗した子だった。彼女には気骨があった。なのに、あなたのような腰抜けの父親を持ってしまった。彼女が私に会いに来た時、私は彼女の目に光を見たわ。それはあなたの目には決して見たことのない光。父親なのに、彼女を助けないどころか、告発して陥れるなんて......」小林鳳子の声は次第に小さくなり、まるで無
上原一族では、太公の指揮のもと、混乱を避けるべく冷静に行動していた。太公は再び禁衛営と御城番に使いを出し、京都奉行所が開庁するのを待って、上原一族の人間を届け出に向かわせた。上原家は全て正規の手順を踏んだ。彼は北冥親王とさくらがこの件を知れば、必ず手を差し伸べてくれると信じていた。彼らには彼らのやり方があり、今の上原家は主に商人や一般庶民なのだから、庶民のやり方で事を進めるべきだと考えた。京都奉行所は即座に捜査に着手した。母子三人が夜更けに正門も裏門も通らずに行方不明になったということは、何者かが侵入して連れ去ったことは明らかだった。京都奉行所は通例の捜査として、帰京後に何か恨みを買うようなことはなかったかと、関係者への聞き込みを始めた。捜索と並行して証言を集める中、この事件は天皇の耳にも届いた。この日は早朝の御前会議こそなかったものの、禁衛府の山田鉄男が日常の報告として、上原修平の妻子が夜中に突如失踪した件を上奏したのだ。上原家の人間のことは、常に清和天皇の特別な関心を引いた。そのさなか、内蔵寮から新たな報告が入った。北冥親王邸から一人の宮女が送り返されてきたという。かつて惠子皇太妃に仕えていた女で、伊勢の真珠の耳飾りを盗んだ上、その部屋からは高価な装飾品や財物が大量に見つかったとのことだった。しかもそれらは北冥親王邸の物ではなく、宮中で各妃の御所から盗み出したものと疑われ、処分を仰ぐため内蔵寮に送還されたのだった。清和天皇は最初、宮女の窃盗事件の報告を聞いて眉を顰め、「そういった事は内蔵寮で処理し、処分内容は皇后に報告するように」と一言放った。しかし、言葉を発した途端、何か違和感を覚え、即座に「厳重に尋問せよ。これらの装飾品や財宝がどこから来たものなのか、徹底的に調べろ」と命じた。皇太妃に仕える女官が、どうやって宮中の各殿の妃たちの装飾品を盗めるというのか。そもそも立ち入ることさえ不可能なはずだ。仮に入れたとしても、単独で行動できるはずもない。窃盗が可能なのは、殿内で給仕する宮女か、倉庫を管理する者だけ。しかし皇太妃に仕える女官は、帝の妃たちとは何の関係もない。つまり、北冥親王家がこれらの怪しい装飾品や財宝を発見し、自らは調査しづらいと判断して、宮中に送り返してきたのだろう。同時に、禁衛府と御城番に対し、全城を挙げ
清和天皇の表情からは喜怒を読み取ることができなかったが、長年仕えてきた吉田内侍には、内蔵寮の不手際に対する帝の怒りが手に取るように分かった。淡嶋親王妃の仕業だとは誰も信じられまい。仮に彼女だとしても、単なる取り入る言葉を囁かせるためだけに、これほどの金銀財宝を与えるはずがない。この件には何か裏がある。もし皇弟の影森玄武が怪しい点を見出さなかったのなら、宮中に送り返すことなどしなかったはずだ。しかし自ら調査せず内蔵寮に委ねたということは、余計な騒動に巻き込まれたくないという意思の表れに他ならない。だが送り返された者から何も聞き出せないとあっては、清和天皇の苛立ちも無理はない。「御典医を呼び、命を繋ぎとめよ」清和天皇は不機嫌な面持ちで命じた。「息の根が止まらぬうちに、必ず白状させるのだ」この事件の真相が明らかにならない限り、見えない所で誰かが糸を引いているような、まるで大きな網が張り巡らされているような不快な感覚が拭えなかった。「かしこまりました」吉田内侍は下がった。半時間後、吉田内侍が再び参上した。「陛下、新たな供述がございました。大長公主様の指示だったとのこと。淡嶋親王妃の名を出したのは、大長公主様からの報復を恐れ、家族の身を案じてのことだそうです」「死んだか?」清和天皇が尋ねた。「御典医も手の施しようがないと申しております。私めが退出する際にはもう息も絶え絶えで、今頃はきっと......」「ふむ」清和天皇は短く応じた。「この件は当面口外するな。審問に関わった内蔵寮の者たち全員に口止めをせよ。明日、皇弟を召す。そういえば、ゆっくりと話をするのも久しぶりだな。上原修平の件については、何か進展があったか探るように」吉田内侍は命を受けて退出し、しばらくして殿内での勤めに戻った。吉田内侍がお茶を差し上げた後、陛下が深い思索に沈んでおられるのを見て、何も申し上げる勇気もなく、そっと下がろうとした矢先、「吉田内侍」と声をかけられた。「心玲が最後に白状した大長公主の件、お前はどう思う?」「賎しい身の私めには、軽々しく推し量ることなど」吉田内侍は慎重に言葉を選んだ。「ただ......心玲は確かに拷問を受け、最期の告白は偽りとは思えませんでしたが、陛下はいかがお考えでしょうか」「朕は信じるぞ」清和天皇は案の上で指を軽く叩きながら
吉田内侍は目を伏せ、わずかに表情を変えながらも、恭しく答えた。「はい、承知しております。しかし大したことではないと思っておりました。北冥親王は陛下の聖旨に従い邪馬台の戦場に赴き、見事に期待に応え、邪馬台を回復いたしました。その功績は陛下によって既に称えられ、天下に告げられております。北冥親王が臣下の身分として功を立てたことは事実ですが、千秋の功績を記すには、主君こそが第一に称えられるべきです」清和天皇は笑みを浮かべた。「お前も朕相手に駆け引きを始めたか。吉田内侍よ、朕はそれほど度量の狭い男ではない。臣下の功が主君を脅かすなどという古めかしい言い回しを恐れてはいない。ただ一つ不思議に思うのだ。民衆が玄武のために戦神殿を建てたいというのなら、なぜ邪馬台奪還直後の帰京時ではないのか? あの時こそ、民衆の感動が最も高まっていた時期ではなかったか」茶碗を手に取りながら、清和天皇は意味深な眼差しを向けた。「それに、確か当時も各地の賢士たちが彼を讃える文章を書いていたはずだ。なぜ今になって、また新たな波が起きる?もしや、同じ面々の仕業ではないのかな?」吉田内侍はほっと胸を撫で下ろし、照れ笑いを浮かべながら答えた。「賎しい身の私めが、陛下に駆け引きなど。ただ物事の真相が見えず、軽々しい発言を避けただけでございます。まさに陛下のおっしゃる通り、戦神殿建立の声が上がるのであれば、邪馬台奪還直後であってしかるべき。今となっては民衆の興奮も収まり、日々の暮らしに精一杯。どうしてこれほどの騒ぎを起こせましょうか」清和天皇は朱筆を手に取り、奏上された文書に目を通し始めた。吉田内侍は、帝がもう口を閉ざされたのを見て、自らも何も申し上げる勇気はなかった。実のところ、天皇は外で騒がれている噂を耳にした後、心の中に些かの疑念を抱いていた。最初に誰がこの騒ぎを起こしたのか、北冥親王邸との関わりはないかと、密かに調査を命じていたのだ。最終的な調査報告では、親王家はこの件をまったく重要視していないことが判明した。むしろ、誰かが讃辞の文章を親王に見せた際、親王は笑みを浮かべてこう言ったという。「南疆の回復は、まず先帝の志があり、そして陛下の周到な策略があってこそ成し遂げられたものだ。どうして私の功績と言えようか。武将の邪馬台における功績を論じるなら、上原太政大臣をおいて他に誰がいるだろ
大長公主は、これらの夫人たちが太后の機嫌を取るために集まってきたのだと察していた。心中では憤りを覚えながらも、断るわけにもいかなかった。これまでの付き合いもあり、特に皇兄が都に戻ったばかりのこの微妙な時期に、彼女たちを敵に回すわけにはいかなかったのだ。それに、十月十五日の上原さくらの計画にも彼女たちは必要だった。そのため、ほとんど躊躇することなく、全員の参列を許可した。最初に到着したのは相良左大臣夫人で、孫娘の相良玉葉を伴っていた。大長公主は状況を説明した。太后から供養の品が下賜され、後宮の妃たちも供物を送ってきたため、多くの夫人たちが参列を希望していると告げた。「構いませんよ。善意をもって来られるのですから」と左大臣夫人は答えた。左大臣夫人は長年の仏教信者で、慈悲深い心の持ち主だった。穂村宰相夫人のように時折宴席に顔を出すことはあっても、近年彼女が最も熱心に参加するのは、この年に一度の寒衣節の行事だけだった。彼女が参列する理由は、第一に亡霊の供養のため、第二に高僧から仏法を学ぶためだった。例年は相良玉葉を連れてこなかったが、今年は孫娘自身が同行を望んだのだった。孫娘が特に信仰深いわけではないことを知っていたが、常に思いやり深く、人々の信仰を尊重する娘だった。今夜は徹夜になることを承知で、祖母に付き添おうとしている。正庁の外には既に香案が設けられ、経壇が組まれていた。「志遠大師はもうお着きですか?」と左大臣夫人が尋ねた。「はい、既に到着されています」大長公主は答えた。「今は精進料理をご用意しているところです。儀式は日が暮れてから始めますので、旅の疲れを癒していただいております」「では、経文の写経を続けましょう」と左大臣夫人が言った。「既にたくさん書き写しましたが、多ければ多いほど良いものです」大長公主は手下を遣わして様子を探らせようと考えていたが、宰相夫人の馬車が到着したとの報告を受け、さらに左大臣夫人が既に筆墨硯紙を用意させていたため、その考えを断念せざるを得なかった。宰相夫人が到着して間もなく、木下太夫人と陸羽太夫人も到着し、それぞれ若い世代を伴っていた。七十を過ぎた木下太夫人は、なお頬に血色が良く、動作も機敏だった。「こちらは私の孫嫁、咲木子でございます」と大長公主に紹介した。「数か月前に流産の痛みを経験しました
大長公主は取り繕いに出て、金森側妃に冷ややかな視線を送り、沢村氏の様子を見るよう促した。金森側妃も心中では立腹していたが、側妃という立場上、先ほどの沢村氏の軽率な振る舞いに直接介入することは憚られた。来る前に今夜は厳かに過ごすよう、社交ではなく、黙して写経と読経に専念し、慈悲の心を示すことこそが最良の社交術だと伝えていたのに。ところが沢村氏は到着するなり、まるで宴席にでも来たかのように、次々と人々に近づいては親しげに話しかけ、太夫人たちの顔色が変わっているのも気付かないでいた。金森側妃は優雅に一礼し、静かな声で言った。「王妃様、こちらで一緒に写経いたしましょう」彼女は『地蔵王菩薩本願経』と『太上救苦天尊説消愆滅罪経』を持参しており、宮中で貴太妃の看病をしていた折にも何度か写経した経験があった。沢村氏は不本意そうに蒲団に座り、写経を始めた。経文は難解で、漢字も複雑で書きづらく、すぐに手首が痛くなってきた。筆を置こうとした瞬間、大長公主から冷たい視線が突き刺さった。沢村氏がいるため、大長公主はここで目を光らせておく必要があった。次々と夫人たちが到着し、特別なもてなしは必要なかったものの、合掌して挨拶だけはしなければならなかった。経壇は外に設けられ、天神への供物が整然と並べられていた。最上質の白檀の香と蝋燭が用意され、これらの費用は大長公主一人の負担ではなく、参列者全員で均等に分担することになっていた。高僧たちも精進料理を済ませ、姿を現した。志遠大師を筆頭に、他の七名も名高い僧侶たちであった。一同が起立し、合掌して挨拶を交わすと、左大臣夫人は穏やかな笑みを浮かべた。「今年も志遠大師様と諸位の高僧様にお目にかかれるとは、この私には過分な幸せでございます」袈裟をまとった志遠大師は合掌し、「南無阿弥陀仏」と唱えた。八十を超える年齢ながら、見た目は六十代ほどで、長く白い眉を持ち、慈悲に満ちた相貌であった。「夫人がご健勝でいらっしゃること、それこそが福でございます」木下太夫人をはじめとする夫人たちが順に進み出て、高僧たちと挨拶を交わし、短い言葉を交わした。沢村氏も前に出ようとしたが、金森側妃に手をしっかりと掴まれた。沢村氏は腹立たしく思った。この女の力は驚くほど強い。振り払うことはできるだろうが、大きな動きになれば騒ぎになり、
文月館の廊下に据えられた風灯が、障子紙の切り絵に照らされ、その影が大きな獣のように室内の壁に映し出されていた。上原さくらは唐木の丸椅子に腰かけ、両手を膝の上で組んでいた。地味な色の服が彼女の華奢な体を包み込み、彼女は目の前の人物を見つめていた。一年間待ち続けた新婚の夫を。北條守は半ば古びた鎧をまだ身につけたまま、威風堂々とした姿で立っていた。端正な顔には謝罪の色が僅かに混じりつつも、その表情は毅然としていた。「さくら、天子様からの勅命だ。琴音は必ず入籍することになる」さくらは手を組んだまま、瞳の奥に複雑な思いを宿しながら、ただ不思議そうに尋ねた。「上皇后様は琴音将軍を天下の女性の鑑とおっしゃっていましたが、彼女は妾になることを望んでいるのですか?」守の深い瞳に怒りの色が浮かんだ。「違う。妾じゃない。お前と同等の正妻だ」さくらは姿勢を崩さずに言った。「将軍、正妻というのは聞こえがいいだけで、実際は妾のことだとご存じでしょう」守は眉をひそめた。「妾だの何だのと、そんなことを言うな。俺と琴音は戦場で惹かれ合い、心が通じ合った仲だ。それに、俺たちは軍功を立てて天子様に婚姻を願い出たんだ。この縁談は俺たちが血と汗で勝ち取ったものだぞ。本当なら、お前の意見なんて聞く必要もないんだ」さくらの唇の端に、押さえきれない嘲りの色が浮かんだ。「心が通じ合った? 出陣前、私に何と言ったか覚えていますか?」一年前、二人の結婚式の夜。守は援軍を率いて出陣する直前、さくらの綿帽子を上げ、こう誓ったのだ。「俺、北條守は、生涯さくら一筋だ。決して側室なんか持たねえ!」守は少し気まずそうに顔を背けた。「あんな言葉は忘れてくれ。お前と結婚した時、俺は恋なんて分かっちゃいなかった。ただ、お前が俺の妻にふさわしいと思っただけだ。琴音に出会うまではな」彼は恋人のことを話し始めると、優しい眼差しになり、深い愛情が瞳の奥に宿った。そして再びさくらの方を向いて言った。「彼女は今まで会った女とは全然違う。俺は彼女を深く愛している。さくら、俺たちのことを認めてくれないか」さくらは喉に何かが詰まったような気分だった。吐き気を覚えながらも、まだ諦めきれずに尋ねた。「では、お父様とお母様は同意なさったのですか?」「ああ、二人とも同意してくれた。これは天子様からの勅命でもあるしな
守は諦めたように言った。「無理をしなくてもいいんだ。これは陛下の勅命だ。それに琴音が入籍しても、お前たちは東西別棟に住むんだ。家事権を奪うつもりもない。さくら、お前が大切にしているものなんて、琴音は欲しがりもしないよ」「私が家事権に執着していると思うのですか?」さくらは問い返した。将軍家の家計を切り盛りするのは容易なことではなかった。老夫人が毎月丹治先生の漢方薬を飲むだけでも、数十両の金貨がかかっていた。他の者の衣食住に人付き合いと、何かと出費が絶えなかった。将軍家は見かけ倒れだった。この一年、自分の持参金をかなり注ぎ込んだのに、こんな結果になるとは。守はすっかり我慢の限界に達していた。「もういい。話すだけ無駄だ。本来なら一言伝えるだけで十分なんだ。お前が同意しようがしまいが、結果は変わらない」さくらは彼が冷たく袖を払って去っていく姿を見つめ、心の中でさらに皮肉な思いが募った。「お嬢様」女中のお珠が傍らで涙を拭いていた。「旦那様のやり方はひどすぎます」「そんな呼び方はやめなさい!」さくらは彼女を軽く見遣った。「私たちはまだ夫婦の実を結んでいない。あの人はあなたの旦那様じゃないわ。私の持参金リストを持ってきて」「なぜ持参金リストを?」お珠は尋ねた。さくらは彼女の額をこつんと叩いた。「馬鹿な子ね。こんな家にまだ居続けるつもりなの?」宝珠は額を押さえながら呻いた。「でも、この縁談は奥様が取り持たれたものです。侯爵様も生前、お嬢様に嫁いで子を産んでほしいとおっしゃっていました」母親の話が出て、さくらの目に初めて涙が浮かんだ。父は側室を持たず、母一人だけを妻とし、6男1女を設けた。兄たちは皆父について戦場に赴き、三年前の邪馬台の戦いで誰一人帰ってこなかった。武将の家に生まれた彼女は、女の子でありながら幼い頃から武芸を学んだ。七歳の時、父は彼女を梅月山に送り、師について武芸を学ばせ、兵書や戦略論を熟読させた。十五歳で山を下りた時、父と兄たちが一年前に邪馬台の戦場で命を落としていたことを知った。母は目が見えなくなるほど泣き続け、彼女を抱きしめてこう言った。「あなたはこれからは都の貴族の娘のように、良い夫を見つけて結婚し、子どもを産んで、安らかな人生を送りなさい。私にはもうあなた一人しか娘がいないのだから」さくらの心は抉ら
大長公主は取り繕いに出て、金森側妃に冷ややかな視線を送り、沢村氏の様子を見るよう促した。金森側妃も心中では立腹していたが、側妃という立場上、先ほどの沢村氏の軽率な振る舞いに直接介入することは憚られた。来る前に今夜は厳かに過ごすよう、社交ではなく、黙して写経と読経に専念し、慈悲の心を示すことこそが最良の社交術だと伝えていたのに。ところが沢村氏は到着するなり、まるで宴席にでも来たかのように、次々と人々に近づいては親しげに話しかけ、太夫人たちの顔色が変わっているのも気付かないでいた。金森側妃は優雅に一礼し、静かな声で言った。「王妃様、こちらで一緒に写経いたしましょう」彼女は『地蔵王菩薩本願経』と『太上救苦天尊説消愆滅罪経』を持参しており、宮中で貴太妃の看病をしていた折にも何度か写経した経験があった。沢村氏は不本意そうに蒲団に座り、写経を始めた。経文は難解で、漢字も複雑で書きづらく、すぐに手首が痛くなってきた。筆を置こうとした瞬間、大長公主から冷たい視線が突き刺さった。沢村氏がいるため、大長公主はここで目を光らせておく必要があった。次々と夫人たちが到着し、特別なもてなしは必要なかったものの、合掌して挨拶だけはしなければならなかった。経壇は外に設けられ、天神への供物が整然と並べられていた。最上質の白檀の香と蝋燭が用意され、これらの費用は大長公主一人の負担ではなく、参列者全員で均等に分担することになっていた。高僧たちも精進料理を済ませ、姿を現した。志遠大師を筆頭に、他の七名も名高い僧侶たちであった。一同が起立し、合掌して挨拶を交わすと、左大臣夫人は穏やかな笑みを浮かべた。「今年も志遠大師様と諸位の高僧様にお目にかかれるとは、この私には過分な幸せでございます」袈裟をまとった志遠大師は合掌し、「南無阿弥陀仏」と唱えた。八十を超える年齢ながら、見た目は六十代ほどで、長く白い眉を持ち、慈悲に満ちた相貌であった。「夫人がご健勝でいらっしゃること、それこそが福でございます」木下太夫人をはじめとする夫人たちが順に進み出て、高僧たちと挨拶を交わし、短い言葉を交わした。沢村氏も前に出ようとしたが、金森側妃に手をしっかりと掴まれた。沢村氏は腹立たしく思った。この女の力は驚くほど強い。振り払うことはできるだろうが、大きな動きになれば騒ぎになり、
大長公主は、これらの夫人たちが太后の機嫌を取るために集まってきたのだと察していた。心中では憤りを覚えながらも、断るわけにもいかなかった。これまでの付き合いもあり、特に皇兄が都に戻ったばかりのこの微妙な時期に、彼女たちを敵に回すわけにはいかなかったのだ。それに、十月十五日の上原さくらの計画にも彼女たちは必要だった。そのため、ほとんど躊躇することなく、全員の参列を許可した。最初に到着したのは相良左大臣夫人で、孫娘の相良玉葉を伴っていた。大長公主は状況を説明した。太后から供養の品が下賜され、後宮の妃たちも供物を送ってきたため、多くの夫人たちが参列を希望していると告げた。「構いませんよ。善意をもって来られるのですから」と左大臣夫人は答えた。左大臣夫人は長年の仏教信者で、慈悲深い心の持ち主だった。穂村宰相夫人のように時折宴席に顔を出すことはあっても、近年彼女が最も熱心に参加するのは、この年に一度の寒衣節の行事だけだった。彼女が参列する理由は、第一に亡霊の供養のため、第二に高僧から仏法を学ぶためだった。例年は相良玉葉を連れてこなかったが、今年は孫娘自身が同行を望んだのだった。孫娘が特に信仰深いわけではないことを知っていたが、常に思いやり深く、人々の信仰を尊重する娘だった。今夜は徹夜になることを承知で、祖母に付き添おうとしている。正庁の外には既に香案が設けられ、経壇が組まれていた。「志遠大師はもうお着きですか?」と左大臣夫人が尋ねた。「はい、既に到着されています」大長公主は答えた。「今は精進料理をご用意しているところです。儀式は日が暮れてから始めますので、旅の疲れを癒していただいております」「では、経文の写経を続けましょう」と左大臣夫人が言った。「既にたくさん書き写しましたが、多ければ多いほど良いものです」大長公主は手下を遣わして様子を探らせようと考えていたが、宰相夫人の馬車が到着したとの報告を受け、さらに左大臣夫人が既に筆墨硯紙を用意させていたため、その考えを断念せざるを得なかった。宰相夫人が到着して間もなく、木下太夫人と陸羽太夫人も到着し、それぞれ若い世代を伴っていた。七十を過ぎた木下太夫人は、なお頬に血色が良く、動作も機敏だった。「こちらは私の孫嫁、咲木子でございます」と大長公主に紹介した。「数か月前に流産の痛みを経験しました
吉田内侍は目を伏せ、わずかに表情を変えながらも、恭しく答えた。「はい、承知しております。しかし大したことではないと思っておりました。北冥親王は陛下の聖旨に従い邪馬台の戦場に赴き、見事に期待に応え、邪馬台を回復いたしました。その功績は陛下によって既に称えられ、天下に告げられております。北冥親王が臣下の身分として功を立てたことは事実ですが、千秋の功績を記すには、主君こそが第一に称えられるべきです」清和天皇は笑みを浮かべた。「お前も朕相手に駆け引きを始めたか。吉田内侍よ、朕はそれほど度量の狭い男ではない。臣下の功が主君を脅かすなどという古めかしい言い回しを恐れてはいない。ただ一つ不思議に思うのだ。民衆が玄武のために戦神殿を建てたいというのなら、なぜ邪馬台奪還直後の帰京時ではないのか? あの時こそ、民衆の感動が最も高まっていた時期ではなかったか」茶碗を手に取りながら、清和天皇は意味深な眼差しを向けた。「それに、確か当時も各地の賢士たちが彼を讃える文章を書いていたはずだ。なぜ今になって、また新たな波が起きる?もしや、同じ面々の仕業ではないのかな?」吉田内侍はほっと胸を撫で下ろし、照れ笑いを浮かべながら答えた。「賎しい身の私めが、陛下に駆け引きなど。ただ物事の真相が見えず、軽々しい発言を避けただけでございます。まさに陛下のおっしゃる通り、戦神殿建立の声が上がるのであれば、邪馬台奪還直後であってしかるべき。今となっては民衆の興奮も収まり、日々の暮らしに精一杯。どうしてこれほどの騒ぎを起こせましょうか」清和天皇は朱筆を手に取り、奏上された文書に目を通し始めた。吉田内侍は、帝がもう口を閉ざされたのを見て、自らも何も申し上げる勇気はなかった。実のところ、天皇は外で騒がれている噂を耳にした後、心の中に些かの疑念を抱いていた。最初に誰がこの騒ぎを起こしたのか、北冥親王邸との関わりはないかと、密かに調査を命じていたのだ。最終的な調査報告では、親王家はこの件をまったく重要視していないことが判明した。むしろ、誰かが讃辞の文章を親王に見せた際、親王は笑みを浮かべてこう言ったという。「南疆の回復は、まず先帝の志があり、そして陛下の周到な策略があってこそ成し遂げられたものだ。どうして私の功績と言えようか。武将の邪馬台における功績を論じるなら、上原太政大臣をおいて他に誰がいるだろ
清和天皇の表情からは喜怒を読み取ることができなかったが、長年仕えてきた吉田内侍には、内蔵寮の不手際に対する帝の怒りが手に取るように分かった。淡嶋親王妃の仕業だとは誰も信じられまい。仮に彼女だとしても、単なる取り入る言葉を囁かせるためだけに、これほどの金銀財宝を与えるはずがない。この件には何か裏がある。もし皇弟の影森玄武が怪しい点を見出さなかったのなら、宮中に送り返すことなどしなかったはずだ。しかし自ら調査せず内蔵寮に委ねたということは、余計な騒動に巻き込まれたくないという意思の表れに他ならない。だが送り返された者から何も聞き出せないとあっては、清和天皇の苛立ちも無理はない。「御典医を呼び、命を繋ぎとめよ」清和天皇は不機嫌な面持ちで命じた。「息の根が止まらぬうちに、必ず白状させるのだ」この事件の真相が明らかにならない限り、見えない所で誰かが糸を引いているような、まるで大きな網が張り巡らされているような不快な感覚が拭えなかった。「かしこまりました」吉田内侍は下がった。半時間後、吉田内侍が再び参上した。「陛下、新たな供述がございました。大長公主様の指示だったとのこと。淡嶋親王妃の名を出したのは、大長公主様からの報復を恐れ、家族の身を案じてのことだそうです」「死んだか?」清和天皇が尋ねた。「御典医も手の施しようがないと申しております。私めが退出する際にはもう息も絶え絶えで、今頃はきっと......」「ふむ」清和天皇は短く応じた。「この件は当面口外するな。審問に関わった内蔵寮の者たち全員に口止めをせよ。明日、皇弟を召す。そういえば、ゆっくりと話をするのも久しぶりだな。上原修平の件については、何か進展があったか探るように」吉田内侍は命を受けて退出し、しばらくして殿内での勤めに戻った。吉田内侍がお茶を差し上げた後、陛下が深い思索に沈んでおられるのを見て、何も申し上げる勇気もなく、そっと下がろうとした矢先、「吉田内侍」と声をかけられた。「心玲が最後に白状した大長公主の件、お前はどう思う?」「賎しい身の私めには、軽々しく推し量ることなど」吉田内侍は慎重に言葉を選んだ。「ただ......心玲は確かに拷問を受け、最期の告白は偽りとは思えませんでしたが、陛下はいかがお考えでしょうか」「朕は信じるぞ」清和天皇は案の上で指を軽く叩きながら
上原一族では、太公の指揮のもと、混乱を避けるべく冷静に行動していた。太公は再び禁衛営と御城番に使いを出し、京都奉行所が開庁するのを待って、上原一族の人間を届け出に向かわせた。上原家は全て正規の手順を踏んだ。彼は北冥親王とさくらがこの件を知れば、必ず手を差し伸べてくれると信じていた。彼らには彼らのやり方があり、今の上原家は主に商人や一般庶民なのだから、庶民のやり方で事を進めるべきだと考えた。京都奉行所は即座に捜査に着手した。母子三人が夜更けに正門も裏門も通らずに行方不明になったということは、何者かが侵入して連れ去ったことは明らかだった。京都奉行所は通例の捜査として、帰京後に何か恨みを買うようなことはなかったかと、関係者への聞き込みを始めた。捜索と並行して証言を集める中、この事件は天皇の耳にも届いた。この日は早朝の御前会議こそなかったものの、禁衛府の山田鉄男が日常の報告として、上原修平の妻子が夜中に突如失踪した件を上奏したのだ。上原家の人間のことは、常に清和天皇の特別な関心を引いた。そのさなか、内蔵寮から新たな報告が入った。北冥親王邸から一人の宮女が送り返されてきたという。かつて惠子皇太妃に仕えていた女で、伊勢の真珠の耳飾りを盗んだ上、その部屋からは高価な装飾品や財物が大量に見つかったとのことだった。しかもそれらは北冥親王邸の物ではなく、宮中で各妃の御所から盗み出したものと疑われ、処分を仰ぐため内蔵寮に送還されたのだった。清和天皇は最初、宮女の窃盗事件の報告を聞いて眉を顰め、「そういった事は内蔵寮で処理し、処分内容は皇后に報告するように」と一言放った。しかし、言葉を発した途端、何か違和感を覚え、即座に「厳重に尋問せよ。これらの装飾品や財宝がどこから来たものなのか、徹底的に調べろ」と命じた。皇太妃に仕える女官が、どうやって宮中の各殿の妃たちの装飾品を盗めるというのか。そもそも立ち入ることさえ不可能なはずだ。仮に入れたとしても、単独で行動できるはずもない。窃盗が可能なのは、殿内で給仕する宮女か、倉庫を管理する者だけ。しかし皇太妃に仕える女官は、帝の妃たちとは何の関係もない。つまり、北冥親王家がこれらの怪しい装飾品や財宝を発見し、自らは調査しづらいと判断して、宮中に送り返してきたのだろう。同時に、禁衛府と御城番に対し、全城を挙げ
しかし、それでも子供たちの体は震えていた。家で楽しく過ごしていたのに、何者かに乱暴に連れ去られ、ここに閉じ込められたのだ。まだ八歳にもならない子供たちが、どうして恐怖を感じないだろうか。菊乃もまた、強い恐怖を感じていた。しかし、母としての強さを奮い立たせ、不安を押し殺し、夫と共に二人の息子を慰めた。しかし、夫婦は目を見合わせ、そこには絶望と無力感しか映っていなかった。隣の牢室にいた影森玄武は、上原修平と菊乃の言葉を聞き、心から敬服した。義父の精神は確かに上原家の一人一人に受け継がれている。特に上原修平は義父との接点が少なかった。彼は実直な商人でありながら、これほどまでに気骨のある人物だった。太公の教育の賜物だろう。真の貴族とは何か?彼らこそが真の貴族と言えるだろう。朝廷に仕える者が少なくても、彼らの団結力と気高さは、多くの貴族を恥じ入らせるほどだった。東海林椎名が上原修平に怒りをぶつけたのは、上原修平ができていることが、彼にはできなかったからだ。東海林椎名と小林鳳子は一番左の牢室にいたため、影森玄武は彼らの会話も聞くことができた。小林鳳子の声は小さかったが、失望と悲しみに満ちていた。「彼女たちはあなたの娘なのに。どうしてそんなに冷酷になれるの?」「公主を裏切れば、死あるのみ。私が告発しなければ、お前と私の命が危ない。小林家と東海林侯爵家まで巻き添えになってしまう。鳳子、私には他に道がなかったのだ」「他に道がなかった?」小林鳳子はすすり泣き、言った。「その言葉を、あなたは長年使ってきたわ。何か選択をするたびに、他に道がないと言う。どうして東海林侯爵家に『他に道がない』と言わないの? 彼らには反抗する力がある。たとえ反抗する力がなくても、現状を受け入れれば、どうにか生きていける。でも、あなたはいつも私に『他に道がない』と言う。他の娘や側室にも『他に道がない』と言う。あなたのその言葉のせいで、いつも誰かが犠牲になる。もうたくさんよ。紗月は唯一反抗した子だった。彼女には気骨があった。なのに、あなたのような腰抜けの父親を持ってしまった。彼女が私に会いに来た時、私は彼女の目に光を見たわ。それはあなたの目には決して見たことのない光。父親なのに、彼女を助けないどころか、告発して陥れるなんて......」小林鳳子の声は次第に小さくなり、まるで無
上原修平は焦った声で尋ねた。「これは一体どういうことですか?なぜ私たち一家をここに連れ込んだのですか? 何かお屋敷に仇なすことをしましたか?もし失礼があったなら、この場で詫びを入れます。しかし、妻と子供たちは無実です。どうか彼らを解放してください。私に恨みがあるなら、私だけに償わせてください。殺すなり処刑するなり、何でもお受けします」東海林椎名は冷たく言った。「本当に殺されるとなったら、お前は妻子を盾にするだろう。役立たずの臆病者め。黙れ」上原修平の体に効いていた麻痺薬の効果がほぼ切れ、彼は小さな覗き窓に顔を押し当て、外の様子を伺いながら言った。「私は逃げも隠れもしません。妻と子供たちを解放していただけるのなら、どんな死に方でも構いません」「公主の夫君の私はお前のような虚勢を張る男が最も嫌いだ」東海林椎名はそう言うと、冷たく左へ戻り、牢屋の扉を開けて中に入った。大長公主は寒衣節に彼に来るなと告げていたため、彼は先に地牢に潜み、鳳子と共に過ごすことにしたのだ。地牢の番人は既に買収済みで、彼女たちを解放することは不可能だった。しかし、彼自身が出入りすることについては、大長公主の特別な許可は必要なかった。時折、形式的に許可を求めるのは、全てが彼女の掌握下にあると思わせるためだった。上原修平は彼の言葉を聞き、呆然と立ちすくんだ。公主の夫君?彼は公主の夫君なのか?どの公主の夫君なのだろうか?あの狂気じみた女の所業と「公主の夫君」という自称を結びつけ、上原修平は過去の出来事を思い出した。それは彼が生まれる前の出来事だった。大長公主は兄の上原洋平に心を奪われ、当時の文利天皇に婚姻を願い出た。しかし、文利天皇はそれを認めず、兄自身も彼女を好いていなかったため、公然と、そして水面下でも彼女を避けていた。それ以来、大長公主は上原家を深く恨むようになったのだ。この出来事を思い出し、彼は父の言葉を思い出した。「上原家に男児は多くいるが、太祖父から続くこの家系で、洋平とそっくりなのはお前だけだ」彼は全身に悪寒が走り、息苦しさを感じた。しばらくして、ようやく呼吸を整えることができた。まず、彼は強い不条理を感じた。あれから長い年月が経ち、洋平兄は亡くなり、兄嫁も亡くなったというのに、大長公主はまだ兄のことを忘れられないのだろうか?忘れられな
その時、影森玄武はすでに大長公主邸に潜入していたが、まだ地下牢には到達していなかった。この公主邸の地牢には四つの入口があった。本来、この地牢を建設した職人たちは皆殺しにされ、後に口封じされたのだが、有田先生は棟梁の息子を見つけ出した。棟梁の息子は確かに当時の構造図を持っており、それによってこの地牢の仕組みが分かった。地牢は公主邸の約半分の広さで、かなりの深さまで掘られていた。内部は煉瓦で造られ、東南西北の四つの牢屋に分かれていた。四つの入口はそれぞれの牢屋に対応しており、東側の牢屋は西庭から入るようになっていた。中に何が置かれているかは分からないが、構造図によると、東と南の二つの牢屋は人を収容するためのものではなく、ただの大きな地下室であることが分かった。西と北の二つの地牢は人を収容するためのもので、それぞれ大きな牢屋があり、残りは小さな牢室に分かれていた。構造図によると、四つの牢屋は互いに通じておらず、完全に隔離されていた。影森玄武は上原修平一家が西側と北側のどちらの牢屋に監禁されているのか分からなかったため、まず西側から探ることにした。両方は隣接しており、入口も近かった。公主邸の贅沢さは、至る所の灯火からも分かった。毎晩消費される灯油の量は相当なものだろう。しかし、玄武は身のこなしが素早く、加えて公主邸には建物や樹木が多いため、身を隠すのは容易だった。西側の牢屋は、西庭からではなく東庭から入るようになっていた。この複雑な設計は人目を欺くためのものだったが、いささか稚拙なものだった。しかし、この稚拙さは、彼女の野心が今まで誰にも気付かれなかったためだった。誰も彼女を警戒せず、公主邸が十分に広いため、後庭に至っても入口は見つけにくかった。庭や別棟が多く、様々な庭園建築が目を楽しませる中、誰が公主邸に地下牢があると想像しただろうか?誰が東庭の築山に西牢屋の入口があると考えただろうか?巡回隊が通り過ぎた後、玄武は容易に地牢に潜入した。地牢は深く掘られており、壁に沿って暫く下っていくと、子供の泣き声が聞こえてきた。玄武は正しい場所に来たことを確信し、思いのほか簡単だったと感じた。牢室には灯りが点されていたが、その光は微かだった。玄武が降りていくと、そこには見張りがいないことに気付き、素早く空の牢屋の扉を開けて中に隠れた。
皇太妃のこの問いは、心玲が賄賂を受け取り親王家を裏切ったことを既に察していることを示していた。ただ、誰が彼女を買収したのかは分かっていなかった。「大長公主です」さくらは静かに一言を告げた。恵子皇太妃は怒りに震えた。「何をしようとしているの?いつからこんなことを?」「おそらく、まだ宮中にいらっしゃった頃から、彼女は大長公主の手先だったのでしょう。あの頃は大長公主と取引もされていましたよね。心玲は、大長公主の褒め言葉を、お母様の前でよく並べていたはずです」恵子皇太妃は鋭い目で遠くを見つめ、思い出し、怒りに震えた。「褒め言葉どころじゃない。彼女は大長公主を賛美していたわ。京都の勲貴たちの間で彼女の賢名が広まっている、八方美人で手腕も鋭い、誰もが彼女を持ち上げていた。まるで私のお姉様よりもずっと有能だとでも言わんばかりに。私までもが彼女に敬意を抱くほどだった」紫乃は心の中で思った。それは敬意ではない。ただの恐怖と畏怖だったのだ。母娘に、虐げられてい騙されたのに、さくらが助けなければ、騙されたことを知っていても彼女は抗議することさえできなかっただろう。「なぜ私の側に人を送り込んだのかしら?」恵子皇太妃はまだ理解できずにいた。「私はあの時、後宮にいただけ。お姉様と話をする程度で、陛下が即位してからは、皇后や定子妃とさえほとんど付き合いがなかったのに」「それは、皇太妃様に素晴らしい息子がいらっしゃるからです」紫乃が言った。「玄武のことなの? 彼女は玄武を害そうとしているの?」恵子皇太妃の高かった声は少し低くなり、怒りも明らかに和らいだ。「玄武を狙うなら、なぜ親王家に直接人を送り込まなかったの?」さくらは言った。「何のために来たにせよ、この件は宮中に報告し、そちらで処置してもらえばいいのです」恵子皇太妃は先ほどからさくらの意図が分からなかった。「なぜ宮中で処置させるの? 心玲は私が宮から連れ出した者。私が処罰しても誰も文句は言えないはず。宮に送り返すなんて、まるで我が親王家が弱腰で、一人の宮女さえ処罰できないみたいじゃないの?」さくらは答えた。「弱腰には見えません。むしろ、我々が規律正しいことを示せます。宮中の者が罪を犯せば、内蔵寮に引き渡して処罰してもらう。その後、内蔵寮が天皇陛下や皇后様にどう報告するかは、我々の関知するところではあり