使用人の言葉と、先ほどの真央が泣き腫らした顔で何かを言いたげな様子が重なり、藤堂夫人の心の中にはすぐに一つの結論が浮かび上がった。彼女は即座になつみの方を振り向き、厳しい声で叫んだ。「藤堂なつみ!」もしここに陽一がいなければ、おそらく藤堂夫人の平手打ちが既に飛んでいたことだろう。「真央はあなたの妹なのよ!藤堂家が正式に認めた二番目のお嬢様!あなたは自分を何だと思っているの?藤堂家を何だと思っているの?」なつみは何も答えなかった。泣き濡れた真央の顔を一瞥し、再び陽一の方をゆっくりと見た。陽一は暗い瞳で彼女を睨んでいた。なつみには分かっていた。彼は間違いなく不満を抱えている。自分の妻が「教養のない」言葉を口にしたことへの不満。そして、自分の幼馴染がそんなふうに評価されたことへの不満。だが、なつみにとって最も胸に刺さるのは、彼が先ほど言ったあの言葉だった。「真央が何の理由もなく手を出すなんてあり得ない」そう、彼は真央を信じている。だが、昨日、なつみが麻由と揉めた理由について、彼は一切尋ねなかった。なぜなら、それは彼にとって「気にする価値のないこと」だからだ。彼はなつみを守ろうともしない。ただ、なつみを真央の前に連れてきて謝らせるだけだ。なつみは薄く笑い、藤堂夫人を見て静かに口を開いた。「私が言ったことよ」彼女の声は落ち着いていて、はっきりとしていた。「でも、私が言ったこと......間違ってないでしょ?」その言葉を聞いた瞬間、その場の全員が固まったように動きを止めた。藤堂夫人は怒りで全身を震わせ、声を絞り出した。「藤堂なつみ!」その時、陽一の低く冷たい声が響いた。「なつみ」だが、なつみは彼に目を向けることなく、じっと真央を見つめ続けて言った。「彼女はもともと藤堂家が引き取った子よ。あなたたちは彼女こそ藤堂家の娘にふさわしいと思っている。それは分かっている。でも、悪いけど、あなたたちの血が流れているのは私なの。だから、たとえあなたたちが私を認めなくても、私はそれでもあなたたちの子供。骨の髄まで、あなたたちの遺伝子を持っている」なつみはさらに言葉を続けようとした。しかし、陽一が数歩前に出てきて、冷たい目で彼女を睨んだ。「お前、一体、何を馬
なつみの言葉が終わった後、目の前の男は何の反応も示さなかった。ただ、彼女を一瞥すると、ついにその手を伸ばして離婚協議書を手に取った。陽一はそのまま協議書の最後のページを開いた。そこに既になつみの署名があるのを確認すると、彼は小さく笑みを浮かべた。その笑みが何を意味するのか、なつみには理解できなかったが、次の瞬間、彼はすでにその手を上げ、その協議書を真っ二つに引き裂いた。その行動に、なつみの心は一瞬大きく跳ねたが、すぐに冷静さを取り戻し、言った。「速水社長、この内容にご不満がございましたら、内容を変更して改めて作成いたしましょうか」陽一は何も言わず、引き裂かれた紙をゴミ箱に投げ入れると同時に、彼女に一歩近づいた。突然の接近に、なつみの顔が一瞬で固まる。反射的に後ずさりした彼女の背中はすぐに机にぶつかった。その背中には擦り傷があり、衝撃で彼女は思わず小さな声を漏らした。「離婚、か?」陽一は彼女の手を強く掴みながら問いかけた。「藤堂なつみ、これは俺を脅しているつもりか?それとも、引いて見せかけて攻めるつもりか?そのお粗末な手段、本当に気持ち悪いと思わないのか?」——「気持ち悪い」これが彼女の夫からの評価だった。そして、なつみは先ほど彼が真相を暴いた時の、あの冷たい視線を思い出した。彼が口を開いたのは、真央を守るためだけでなく、彼女の「策略」に対する嫌悪感からだった。これまで何度も失望を味わってきたなつみだが、この瞬間、再び胸が締め付けられるような痛みを感じた。口を開こうとしたが、喉が詰まったように声が出ない。それでも、奇妙なことに、彼女の唇の端はわずかに上がっていた。そして、彼女はようやく声を振り絞った。「脅しているんじゃない。本気なのよ」陽一は目を細め、彼女を鋭く見つめた。なつみはさらに言葉を続けた。「私たちのこんな結婚......もう何の意味もないんだろう?」「そうか。じゃあ、君にとって意味があるのは何だ?」陽一は皮肉な笑みを浮かべながら答えた。「西川家のあの私生児か?」なつみは彼が突然悠人の名前を口にしたことに驚き、顔色を変えた。そして、彼を見上げた。陽一はさらに問いかける。「彼はお前が見つけた次の相手なのか?」「違う!」な
なつみには、陽一の視線が何を意味しているのかがはっきりと分かった。それは警告であり、軽蔑の表れだった。控えめで温厚に見える仮面の下に隠された、誰よりも冷たく硬い心を、彼が持っていることを、なつみは知り抜いていた。ゆっくりと視線を下ろすと、なつみの目に飛び込んできたのは、陽一に引き裂かれ、ゴミ箱に投げ捨てられた離婚協議書だった。勇気と決意を振り絞って差し出したその書類を、彼は一瞥すらしようとしなかった。なぜなら、彼には関心がないからだ。彼女の気持ちも、彼女の決断も、彼にとっては眼中にないのだ。それからの2日間、なつみが陽一と顔を合わせることはなかった。彼に関する最新の情報は、ある記者会見での彼の登場だった。写真の中の陽一は、濃紺のスーツを身にまとい、整った顔立ちはクローズアップでも一切の欠点が見当たらず、唇に浮かぶかすかな笑みは、多くの映画スターをも凌駕する完璧さを醸し出していた。そのニュースで、彼が今、首都にいることを知った。なつみはそれ以上見ることなく、ページを閉じた。すると、自身のSNSアカウントに寄せられた、新作を待ち望むファンからのコメントが目に留まった。なつみは漫画家だった。だが、その職業は彼女の周囲の界隈ではあまり歓迎されるものではなかった。絵を描くことや芸術作品を鑑賞することが必修とされるその界隈では、日本画や油絵が中心で、なつみが手がける漫画や甘くてロマンチックな恋愛ストーリーは、彼らにとって「下品で俗っぽい」ものとみなされていた。たとえネット上で彼女が数多くのファンを得ていたとしても、それは変わらない。なつみはいくつかのコメントに返信し、ペンタブレットを取り出して作業を始めようとしたその時、スマートフォンの画面が再び光った。西川悠人からのメッセージだった。「明日の夜、俺の家でパーティーがあるんだ。来てくれる?」なつみが眉をひそめ、返信しようとすると、悠人からもう一通のメッセージが届いた。「君は来てくれるよね?だって一昨日、空港で5時間も君を待ってたんだから」その言葉に、なつみの指が宙で止まった。彼女はすでに悠人に、迎えには行かないと伝えていた。2日前のことで、彼が本当に5時間も待っていたのかは定かではない。それでも、悠人がそこまで言うのなら、なつ
なつみは目を伏せ、新聞に掲載された写真をじっと見つめた。その写真に映る自分は、間違いなく惨めで恥ずかしい姿だった。しかし、その瞬間、彼女の心は不思議と落ち着いていた。新聞を拾い上げたなつみは、何も言わずにその新聞を隣のゴミ箱に放り込み、静かに車のドアを開けなおした。「行きましょう」彼女は運転手に静かな声で告げた。しかし、運転手は恐る恐る陽一の顔色をうかがいつつ、なかなか発車できずにいた。陽一は無表情のまま、なつみを見据えていた。だが、なつみは彼の方を振り向くことはなかった。ほんの一瞬の目配りさえ与えず、そのまま窓ガラスを上げてしまった。ちょうどその時、陽一は迷いなく踵を返し、家の中に入っていった。なつみには彼の姿は見えなくなったが、その背中をはっきりと目に焼き付けていた。彼は、自分は彼女に付き合わないと無言のうちに告げているのだ。だから、たとえ笑われることになったとしても、それは彼女ひとりの問題だ。もっとも、こういった状況には、なつみ自身もすっかり慣れていた。結局のところ、彼女はいつもひとりぼっちだったのだから。パーティー会場は、なつみの想像以上に賑やかだった。長年にわたり、西川家は悠人の存在をあまり隠そうとはしなかったが、冷遇と、かつて彼を海外に送り出したという行為だけで、西川家の選択は周囲に知れ渡っていた。だが今、悠人は戻ってきた。しかも、西川家は彼のためにこれほど派手なパーティーを開いたのだ。その背景には、何か別の理由があるに違いない。悠人は彼女に何も語らなかったし、なつみも尋ねなかった。結局のところ、自分には関係のないことだったからだ。会場で悠人の姿を探していると、背後から声が聞こえてきた。「あら、本当に来たのね?」振り向くまでもなく、その声の主を、なつみは察することができた。無視して先に進もうとしたが、誰かに手を掴まれた。「何よ、そんなに急いで。私の話が聞こえなかったの?」結城麻由の声は少し甲高く響いた。いつものように取り巻きの友人と一緒で、麻由だけでなく、他の二人までもがなつみの行く手を遮った。その様子は、まるで昔学校にいた頃のようだった。なつみは力を込めた手をぎゅっと握りしめ、麻由をじっと見据えた。「何か用?」彼女の声は平静を装ってい
なつみの様子は真剣そのもので、冗談を言っているようには全く見えなかった。しかし、西川悠人は笑い出した。「さあ、行こう。君のために、今回の帰国で特別にパティシエを連れてきたんだ。その人が作るケーキなら、きっと君の口に合うはずだよ」そう言いながら、悠人はなつみを連れて歩き出した。彼は今夜の主役だ。会場にいる半数以上の人々の視線が彼に注がれていた。だが、悠人はそんなことには全く意に介さず、ただなつみを連れてテーブルへと向かった。そして、テーブルの上に並ぶケーキの一つを手に取り、彼女に差し出した。まるで子供のように、自分のお気に入りのものを急いで友達と分け合おうとしているようだった。悠人はそれでよくても、なつみにはそうはいかない。目の前のケーキをしばらく見つめた後、なつみはようやくそれを受け取ったが、評価するように言った。「あなたの狙いが見え見えよ」悠人は眉を上げて、「ほう?」と返した。「要するに、私をあなたの隠れ蓑に使いたいんでしょ?」なつみはケーキを一口すくって、口に運んだ。正直なところ、彼女がケーキを食べるのは本当に久しぶりのことだった。陽一と暮らす別荘には専属のシェフがいるが、彼らがケーキを作ることはない。こんな甘ったるいものは、彼女の周りの界隈ではあまり歓迎されないのだ。彼らにとって、ケーキはただの儀式の一部であり、特別な日にしか登場しない。誰も実際に食べようとはせず、味を気にかける人などいない。しかし、13歳になるまでケーキを口にしたことがなかったなつみにとって、それは最高の食べ物だと思っていた。口の中でクリームがゆっくりと溶けていく。濃厚なミルクの香りと、フルーツの爽やかな甘さが、一気に彼女の気分を明るくさせた。なつみの眉間に浮かんだわずかな変化を、悠人ははっきりと捉えていた。そして、唇の端に笑みを深めた。「君は昔と変わらないね」「だから、これで私を丸め込もうっていうの?」ケーキを飲み込みながら、なつみが尋ねた。悠人は小さくため息をついた。「さすがに君には隠し通せないか」なつみは向かいにいる麻由に目をやった。麻由は歯ぎしりしながら、なつみを睨みつけている。なつみは彼女を無視し、再び悠人に視線を戻した。「西川家があなたの相手に選んだのは、結城麻
真央の手が軽く陽一の腕に絡んでいる。二人は揃いのようなブルー系の服を着こなし、その姿は誰が見てもお似合いそのものだった。その光景を目の当たりにした瞬間、なつみはまるで自分のこれまで保ってきた体面が一瞬で崩れ去ったような気がした。それだけではなく、心の奥深くに鋭い一撃を受けたような感覚。それを与えたのが、他でもない自分の夫だと気づいて、さらに胸が締め付けられた。一瞬、なつみは口の中に苦味が広がるのを感じた。それは彼女がどれだけケーキを食べたところで隠せるものではなかった。なつみは、西川悠人に何も言わず、静かに手に持っていたケーキを置いた。立ち去ろうとしたその時、真央が彼女を見つけた。「お姉ちゃん!」その声は、澄んでいて響き渡るようなもので、なつみが聞こえないはずがなかった。そして、そばにいた悠人も、彼女が逃げる機会を与えないように、一歩足を前に出して彼女の行く手を遮った。なつみはすぐに眉をひそめて彼を睨んだ。だが、悠人は前方を見つめて微笑みながら手を差し出した。「速水社長、お噂はかねがね伺っております」陽一は、背を向けたままのなつみを無視して、悠人の手を握った。「お会いできて光栄です」「悠人お兄ちゃん、久しぶり!」陽一の隣にいた真央は嬉しそうに声をかけ、大きな目をキラキラと輝かせていた。悠人は彼女に軽く微笑み返しただけだった。真央は気にせず、なつみを見て笑顔を向けた。「お姉ちゃん、どうして来るのを教えてくれなかったの?今日出かけるのが遅くなって、もうパーティーには私だけ来てないかと思った。だから入口で義兄さんに会ってよかったわ」彼女はそう言って、一見すると巧妙に陽一と一緒に入ってきた理由を説明したように見える。しかし、彼女の言葉の本当のポイントは、最後に投げかけた問いにあった。「でも、どうして義兄さんと一緒じゃなかったの?」その時、なつみは振り返った。「理由なんてないわ」彼女の返答はシンプルだったが、それ以上誰も答えを返せなかった。真央さえ、何を言えばいいのか分からなくなった。しかし、真央はすぐに別の話題に切り替えた。「このケーキ、きっと悠人お兄ちゃんが用意してくれたんだね?でも、お姉ちゃんはもうこういうの好きじゃないみたい。義兄さんもお姉ちゃんには買っ
彼女が指を一生懸命引き剥がそうとした時、陽一は逆にもう一方の手で彼女の腰を抱き寄せた。その勢いで、なつみは何歩か前に進んでしまい、まるで彼の胸に飛び込んだかのように見えた。なつみの表情は一層険しくなった。その時、陽一は手を伸ばし、彼女の口元をそっと拭った。なつみはついさっきケーキを食べたが、特に何かが口元に残っているわけではなかった。しかし、彼のこの行動にはなぜか彼女は心の中で動揺を覚えた。彼女は眉をひそめ、彼の手を振り払おうとしたその時、彼が先に口を開いた。「ケーキ、美味しかったか?」この突如として投げかけられた質問に、なつみは驚いた。そして次の瞬間、陽一は突然彼女に身を寄せ、唇を重ねた。突然のキスには、彼特有の強引さと支配欲が込められていた。唇と舌が交わるたびに、ケーキの香りが漂うように感じられた。しかし、その味は陽一にとってあまり喜ばしいものではなかったようだ。彼の攻勢はさらに激しくなり、なつみの腰にかけられた手も一層力強くなった。なつみは、この時には彼の指の跡が腰に残るだろうと分かっていた。このキスがあまりに激しくて、なつみは息苦しさを感じた。彼女は手を彼の胸に押し当て、押し返そうとした。しかし、陽一は彼女にそのチャンスを与えなかった。この激しいキスは、他の人から見れば深い愛情によるものかもしれない。しかし、なつみはそうではないと知っていた。彼が単純に不機嫌で、ただ怒りを発散したいだけだと彼女は理解していた。結局のところ、犬だって自分のエサは守ろうとするものだ。ましてや陽一のような男ならなおさらだろう。この世の中、彼が要らないものを捨てるのは当たり前のことだが、彼自身が見捨てられることなどありはしないのだ。それに、彼と最後に会った時の喧嘩は、なつみの記憶にはっきりと残っていた。もがくことを諦めたなつみは、抵抗をやめ手を下ろし、そのまま彼を見つめた。その瞬間、陽一は彼女の唇を噛んだ。痛みが走り、血が滴り落ちた。なつみは思わず声を漏らした。その時、陽一は彼女をようやく放した。なつみはすぐに唇を押さえ、一歩後退した。陽一の噛み付き方は容赦なかった。なつみは手を上げた時、すぐに血を感じた。彼女は眉をさらにひそめ、彼を罵ろうとしたが、陽一は再び彼女の顎を掴ん
なつみは最初、自分の見間違いだと思った。そもそも、この画集は何年も前になくしてしまったものだった。彼女はそれをどこかに置き忘れたに違いないと思っていた。しかし、近づいてよく見てみると、それが間違いなく自分のものだと気づいた。表紙にははっきりと彼女の名前が書かれていたからだ。「まあ、藤堂さん!」 結城麻由は笑い声を上げながらも、彼女を見つけるとすぐに声をかけた。「ちょっと見て、これってあなたのものよね?前に真央ちゃんから、あなたが絵を描いているって聞いたけど、すごい芸術的な作品かと思ったら、まさかこんなものを描いてるなんて!」 『俺様系イケメンは私に夢中?』だって?」 麻由の言葉が終わると、周りの人々からすぐに笑い声が湧き上がった。藤堂なつみは何も答えず、ただ画集を取り戻そうとして前に出た。だが、その時、彼女はこの画集がなぜここにあるのかを問い詰める勇気すらなかった。しかし、麻由は彼女の意図を先に察し、なつみが近づいた瞬間に画集を隣の人に投げ渡した。画集は次から次へと別の人へと手渡され、彼女たちは輪を作って楽しそうにそれを回していた。それはまるで面白い遊びをしているかのようだった。その中央に立つなつみは、まるで彼女たちに弄ばれている存在のようだった。だが、この時のなつみにはそんな余計なことを考える余裕などまったくなかった。彼女の頭の中にはただ一つの思いしかなかった。「絶対に画集の中身を見られてはならない!」それは何年も前に描かれたもので、単なる学園恋愛物語だけでなく、彼女が陽一に寄せていたほろ苦い片想いの気持ちが込められていた。画集が再び麻由の手に渡った時、なつみは迷うことなく飛びかかり、画集を掴んだ。麻由も手を離そうとせず、二人の間で激しい引っ張り合いが起こった。「ビリッ」という音を立てて、画集は真っ二つに裂けた。なつみの手には半分が残り、もう半分は麻由が手を振り上げた際に空中に舞い、弧を描いて床に落ちた。なつみは迷わずしゃがみ込み、それを拾おうとした。この騒ぎがようやくパーティーの他の参加者たちの注意を引いた。麻由は、他人に自分がなつみをいじめていると思われるわけにはいかなかった。すぐに彼女もなつみの後を追うようにしゃがみ込んだ。「あらまあ、なつみお姉さん、ごめん
藤堂夫人の言葉が終わると、なつみは突然何も言わなくなった。もともと狭い空間が、彼女の突然の沈黙によってさらに重苦しい雰囲気に包まれた。 特に、なつみの冷静な瞳が藤堂夫人に向けられると、彼女の心臓は思わず跳ね上がった。藤堂夫人の眉はきつく寄せられ、「なつみ......」と声を出した。「お帰りください」なつみは突然そう言った。そのたった一言に、藤堂夫人はその場で驚き、呆然と立ち尽くした。しばらくしてから、彼女は信じられないという表情で聞き返した。 「今、なんて言ったの?」「どうかお帰りください。これからも二度と来ないでください」藤堂なつみははっきりと告げた。「前回の私の言葉が不十分だと思うのなら、メディアの記者に伝えて、新聞に掲載して、私と藤堂家とはもう何の関係もないと全ての人に知らせることもできます。ですから、私が藤堂家の恥になることを心配する必要はありません」藤堂なつみの言葉が終わるや否や、藤堂夫人はすぐに立ち上がり、彼女に平手打ちをした。その手には、数日前に施したばかりの美しいネイルが輝いていた。ネイルに埋め込まれたダイヤモンドが光り、その長い爪が藤堂なつみの頬を激しく引っかいた。裂けた皮膚から血がじわじわと滲み出してきた。しかし、なつみは少しも痛みを感じていないかのようだった。彼女は眉一つ動かさず、その冷静な瞳で藤堂夫人をじっと見つめていた。「あなた、もう私たちの言うことを聞かなくてもいいと思っているのね?藤堂なつみ、あなたは私の娘なのよ!私......」「私を高橋家と結婚させるのは、あなたたちの利益のためでしょう?」なつみは彼女の言葉を遮った。「さもなければ、あなたたちがどれほど急いでいようと、こんな風に私を探しに来ることなんてなかったはずです。会社に何か問題が起きたんですか?まあ、知りたくもありませんけど。どうせ藤堂家のものなんて......私にとっては何の意味もありませんから」「意味がないですって?」 藤堂夫人は声を荒げた。「私たちが何年もかけてあなたを育ててきて、それが無駄だったというのか?それに、病院にいるあの人だって!藤堂家がいなければ、とっくに死んでいたわ。今も命を繋いでいるのは、誰のおかげだと思っているの?分かってるわ
「いえいえ、とんでもないです。それにしても、最近は忙しいようですね。何をしてたんですか?もう何ヶ月もお会いしていなかったと思います」 「特に忙しいことはなかったんです。これからは頻繁に来るつもりです」 藤堂なつみは看護師に向かってにっこりと微笑んだ。看護師も自然に彼女と世間話を始め、昼頃まで話し込んでしまった。その後、なつみはようやく席を立ち、その場を後にした。病院に通いやすいように、なつみはこの近くの物件を探して選んだ。距離が近いので、タクシーを使わずに傘をさして歩いて帰ることにした。しかし、彼女は自分の家の前に藤堂夫人が来ているとは思ってもみなかった。目の前の環境に対して彼女は明らかに嫌悪感を示し、眉をひそめながら手にハンカチを持ち、鼻と口をしっかりと覆っていた。藤堂夫人はなつみを見るなり、すぐに言った。「やっと帰ってきたのね」以前、なつみはもう彼らと関係を持たないと言っていたが、実際に彼女を見て、「どうして来たのですか?」と尋ねた。「あなたが家に帰ることを拒否したから、ここに来るしかなかったのよ」藤堂夫人は言いながら、隣の錆びた門に目をやった。「だから離婚後、ここに引っ越してきたのね。藤堂なつみ、本当にどうかしてるの?」「これは私自身の選択ですので、ご心配には及びません」なつみは彼女がこの場所を嫌っているのを知っていたので、ドアを開けるつもりもなく、彼女を中に入れるつもりもなかった。藤堂夫人は深く息を吸いた。「病院から来たの?あの人に会ってきたのね?」 「ええ」 「藤堂なつみ、よく考えなさい。藤堂家がなければ、あの人の医療費も負担できないのよ!」 「知ってます」「知ってるなら......」「要件があるなら率直に言ってください」なつみは、彼女が自分を心配してここに来たとは思わなかった。 執事からの電話で、何か用があることは分かっていた。彼女はその場でやり取りをする気がなく、直接尋ねた。藤堂夫人が口を開こうとした時、階下から誰かが上がってきた。なつみの部屋は3階で、ちょうど階段の入口にある。その人は階段を上がりながら、彼女たちに何度か視線を向けてきた。悪意はなかったが、その視線に藤堂夫人は非常に不快感を覚え、顔色をさらに悪くした。
藤堂なつみはすぐに自分のマンションに戻った。 ちょうど化粧を落とそうとした時、ウェブサイトの編集長から直接電話がかかってきた。彼は、なつみの作品がサイトの規定に合わないため、一方的に彼女との契約を終了すると告げてきた。なつみの眉間に皺が寄る。「どこが規定に合わないんですか?」 「弊社の法務部に連絡がありました。あなたが描いた作品の主人公のイメージが......他人の肖像権を侵害しているとのことです」その一言で、なつみはすぐに理解した――速水陽一のことだ。普段、彼は彼女が何をしていようと無関心だったが、何も知らないわけではなかった。 今日、松本あかりが言ったあの言葉......彼にも聞こえていたに違いない。そして、たった一本の軽い電話で、なつみは仕事を失った。「分かりました」なつみは深く息を吸って電話を切った。彼女は本来、直接陽一に電話して問い詰めるつもりだった。しかし、電話をかける直前に、彼女はゆっくりと携帯を置いた。彼女自身に非があるわけではないが、この町で彼と正面からぶつかっても、自分にとって有利なことは何もないとなつみはわかっていたからだ。例えば今、漫画のキャラクターが彼の肖像権を侵害したというのか?そんな馬鹿げたことを、彼は堂々とやってのけたのだ。その時、病院から電話がかかってきた。「先ほど藤堂社長に連絡したところ、今後の中島千景さんの医療費をあなたが負担されると伺いましたが、よろしいでしょうか?」「分かりました。明日病院に行きます」なつみの答えは静かだったが、電話を切った後、その手は無意識に握りしめられていた。 そして、彼女は自分の銀行口座の情報を確認した。ここ数年、彼女はずっと働いていたが、普段は速水陽一から受け取ったカードを使わず、貯金はそれほど多くなかった。 そして、現在の残高は......ちょうど一回分の医療費を支払える程度だった。なつみは携帯を閉じ、ソファに寄りかかって目を閉じた。ふと、自分が崖っぷちに立たされているような気がした。誰もが彼女を崖から突き落として、粉々に砕きたいと思っているかのようだった。藤堂家は、まさにタイミングを見計らったかのようだった。翌日、なつみが病院に行ってお金を支払った直後に、執事から電話があり、藤堂
しかし、陽一の視線は彼女に留まることはなかった。明らかに、彼女がここにいる理由には何の興味もなく、そこに立つのはただ真央を待っていただけだった。一瞥しただけで、なつみは視線を戻し、真央に尋ねた。「何か用?」真央は懇願するように言った。「お姉ちゃん、一緒に帰ろう?もうパパとママと喧嘩するのはやめようよ」「ごめんね、帰りたくないの」なつみは迷いのない口調で答えた。真央は諦めることなく、隣にいたもう一人の女性に振り向いた。「あなたはお姉ちゃんの友達ですよね?お願いですから、お姉ちゃんに一緒に帰るように言ってもらえませんか?」「彼女はもう立派な大人でしょう?大人の決断を他人にとやかく言われる筋合いはないよ」松本あかりは軽く笑いながら答えた。真央は一瞬言葉に詰まったが、すぐに反論した。「でも、パパもママもすごく心配してるの!お姉ちゃん、あなたは彼らが心配でご飯も喉を通らないのを平気で見ていられるの?どうしてそんなに冷たいの?」そう言いながら、藤堂真央の目からは涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。その姿にあかりは感心したような表情を浮かべた。「妹さん、演技が上手すぎるね。芸能界に入ってみる気はない?」 突然の一言に、真央は驚き、動揺した表情を見せた。彼女が何かを言う前に、藤堂なつみはあかりの腕を引っ張りながら言った。「行こう」「お姉ちゃん!」真央はこの機会を逃さず、手を伸ばして再びなつみを掴もうとした。なつみはその動きを避けたが、次の瞬間、真央はそのままバランスを崩して地面に倒れ込んでしまった!その時、陽一はついに黙って見ているだけではいられなくなった。彼はすぐに数歩進み、一気に真央を引き起こした。「大丈夫だよ、陽一お兄さん」 真央はまずそう言った。「お姉ちゃんを責めないで......」「陽一......速水陽一?」あかりはすぐに状況を理解し、目を速水陽一に向けた。「あなたがなつみの元夫なのね?」「行こう」なつみは彼らとこれ以上関わりたくなく、すぐにあかりの手を引いてその場を立ち去ろうとした。だが、あかりは動かず、その視線は陽一が真央の手を掴んでいるところに注がれていた。 「これって何?倫理ドラマ?義理の妹と義兄の関係?」「
誰も藤堂真央の質問に答えなかった。そして、さっき西川悠人の話を出した男も、すぐに話題を変えた。「そんなの誰にもわからないよ。でもそんなことはどうでもいいさ。所詮取るに足らない連中の話だ。それより、速水社長、ご一献させていただきます」男のこの言葉は、実際には先ほどの失言に対する謝罪だった。 たとえ速水陽一がどれほど藤堂なつみを嫌っていたとしても、離婚の原因に西川悠人の名前が絡んでいるとなれば、話の性質が全く異なってしまうからだ。幸いにも、陽一はそのことを気にせず、グラスを手に取って軽くぶつけた。一杯飲み干した後、隣の人が何か話そうとしたその時、速水陽一は突然立ち上がった。「すみません、俺はまだ用事がありますので、先に失礼させていただきます。皆さん、ごゆっくりお楽しみください。会計は俺が持ちます」「え?ちょっと......」反応する間もなく、陽一はすでにその場を後にしていた。真央はすぐに彼の後を追いかけた。「陽一お兄さん!」「何か用か?」陽一は振り返り、その声は穏やかだが、冷たさを含んでいた。真央は唇を噛みしめながら、勇気を振り絞って言った。「あの......タクシーで来たから、家まで送ってくれない?」「わかった」陽一はあっさりと承諾した。彼女に対する態度もいつもと変わらないままだった。真央はほっと胸を撫で下ろし、彼ににっこりと笑顔を向け、その隣を歩いた。二人はすぐに会所を出た。ハナズオウの成功により、この通り全体が活気づき、周囲には十数軒のバーや会員制クラブが軒を連ねていた。夜の帳の中、色とりどりのライトがまるでカクテルのように輝き、空気中にすら華やかな享楽の気配が漂っていた。しかし、この全てが陽一にとっては無意味だった。彼は一切足を止めることなく、前を進み続けた。真央は彼の後を一歩一歩追いかけていた。彼女が何か話すきっかけを探していたその時、陽一は突然立ち止まった。真央は、急に止まった彼に対し何かを尋ねようとしたが、目の端に一つの人影が映った。――青いシャツに黒いロングスカートを身にまとった女性。 いつもと異なるのは、彼女が今夜濃いメイクをしており、目尻を引き立てるアイラインが印象的で、生き生きとした目元が際立っていたことだ。口元には微笑
「何言ってんのよ!」松本あかりは目を丸くして言った。「これはラブコメ漫画なのよ!甘くて癒し系のやつ!こんなの公開したら、サイト全体が炎上するわよ!もしストレスで参ってるなら、少し休んで気分をリフレッシュしたら?2週間の休暇をあげるから、気持ちが落ち着いたらまた描き直してね」あかりの態度を見て、なつみは特に反論せず、静かに受け入れた。しばらく沈黙が続いた後、あかりが彼女をじっと見てからこう尋ねた。「それでさ、どうして旦那さんと離婚したの? あんなに恵まれた生活をしてたのに?毎日ちゃんと食事が用意されてて、無制限のクレジットカードもあって、しかも旦那さんはあなたに干渉しない。これ以上理想的な生活なんてないでしょ?」なつみは彼女の言葉には答えず、手にしていた本を棚に置いた。そして振り返りながらこう言った。「まだご飯食べてないでしょ?私がご馳走するよ」......『ハナズオウ』ここは桐山市で有名な会員制高級クラブだ。業界でも名の知れた人々が出入りし、入場には会員カードが必要とされる。藤堂真央は普段、こういった場所に足を踏み入れることはない。彼女の清楚で控えめなイメージにはあまりにもそぐわないからだ。しかし今夜、彼女はここに現れた。その理由は......ソファの中央に座っている男のためだった。業界の中心人物である速水陽一と藤堂なつみが離婚したというニュースは、すぐに広まった。そして今夜のこのパーティーは、陽一の独身復帰を「祝う」ために開かれたものだった。 陽一は物静かな性格ではあるが、高慢なところはなく、誰かが彼のためにこのパーティーを企画した時、彼はそれを拒否しなかった。真央が部屋に入ると、すぐに誰かが話しかけてきた。「真央ちゃん、お姉さん、本当に速水社長と離婚しちゃったの?」彼女たちは陽一に直接話しかけることはできないので、代わりに真央に詰め寄った。真央はゆっくりと頷いた。「へえ......彼女、あんなに必死になって速水社長と結婚したのに、こんなにもあっさり離婚するなんて!」「私もびっくりしたよ」真央は無邪気な表情で答えた。「つい最近までは何の兆しもなかったのに.......」「なつみさん、きっと自分でも状況を収拾しきれなくなっちゃったんじゃないか
藤堂なつみは、速水陽一と結婚した時のことを思い出していた。藤堂家で好かれていなかった彼女だったが、それでも藤堂家のお嬢様という立場上、結婚式は盛大に行われた。半年も前に婚約を交わし、ウェディングドレスを選び、写真を撮り、日取りを決めて婚姻届を提出し、結婚式を挙げた。その間、なつみは他の全てのことを中断して、結婚という一つの大イベントにすべてを捧げていた。しかし今では、離婚なんてたった二言三言のやり取りで、手続きも30分もかからずに済んでしまった。陽一の弁護士は手際よく処理を進め、あっという間に二冊の離婚証明書が2人の前に置かれた。陽一はどうやら忙しいらしいようだ。証書を受け取った瞬間から、彼は片手で電話をかけながら、何も言わずその場を立ち去った。なつみは、「さようなら」を言おうと思っていたのだが、市役所から外に出た時には、彼の姿はすでになかった。彼からの別れの挨拶すらなかった。なつみはしばらくその場に立ち尽くし、ゆっくりとうつむいて手に持った離婚証明書を見つめた。これが、私の......2年間の結婚生活。不安の中で始まり、慌ただしく終わった。最初から最後まで、ただ彼女一人だけが混乱の中を駆け回っていたのだ。突然、スマホの着信音が彼女の思考を遮った。「どういうことなの!?」電話を取ると、向こうから怒り声が飛び込んできた。「冗談でしょ?朝送られてきた原稿って何なの?なんで主人公が急に死んだの!?」「ちゃんと描いたじゃない。交通事故よ」「正気?主人公がプロポーズの日に車に轢かれて死ぬなんて、そんな展開にしたら、ファンが直接会いに来て怒鳴り込むかもしれないよ!」 編集者の言葉に、なつみは思わず微笑んだ。「大丈夫よ、彼らは私が誰か知らないから」「私は知ってる!頼むから、ふざけないでよ。この原稿そのまま公開したら、絶対に炎上するわ!」「平気よ。あとでちゃんとまとめるから」「本当に?主人公が生き返るとか、時間が巻き戻るとか?」「違うわ。ヒロインが生まれ変わるの」なつみは空を見上げて言った。「男を切り捨てて、新しい人生を歩むのって素敵じゃない?」なつみの説明に、編集者は納得する気配がなかった。同じ都市に住んでいたため、編集者の松本あかり(まつもと あかり)はすぐに彼
和江が彼女を止めようとしたその時、外から車のエンジン音が聞こえた。和江はすぐに階下へ駆け降りた。 「若旦那様、大変です。若奥様がまた何かやらかしてます。荷物をまとめて、どうやら家出しようとしてるみたいです!」 彼女の言葉に対して、陽一は特に驚いた様子もなく、ゆっくりと目を上げた。 ちょうどその時、なつみが荷物を持って階段を下りてきた。 陽一はまず彼女の荷物に目をやり、それからゆっくりと彼女の顔に視線を移した。 その顔には、はっきりとした手形がくっきりと残っていた。 なつみはその視線を避けることなく、直接問いかけた。「いつ手続きをしに行くの?」「弁護士にはもう呼んである」陽一は目をそらしながら、前へと歩き出した。しかし、なつみはすぐに答えた。「必要ないわ、何も要らない」陽一はちょうど階段を上がろうとしていたが、その言葉を聞いて足を止めた。そして振り返り、静かに言った。「財産分与がなくても、協議書はきちんとまとめなければならない」なつみは彼の言葉の意味を理解し、それ以上何も言わずに従った。そばにいた和江もようやく事態を飲み込んだようで、「若旦那様、本当に離婚されるのですか!?」と声を上げたが、誰も答えなかった。陽一はそのまま階段を上がり、なつみは荷物を玄関先に置いたまま、スーツケースの上に腰掛けてスマートフォンを手に取った。和江はその後、慌てて速水夫人に電話をかけた。速水夫人が電話口で何を言ったのかはわからないが、和江は小さく頷き、電話を切った。なつみは速水夫人の言葉を直接聞いてはいなかったが、和江の態度から察するに、速水夫人は同意したのだろう。予想通りの反応だったが、それでもなつみはほんの少しだけほっと息をついた。その後、陽一の弁護士がすぐに到着した。弁護士は離婚協議書を持参しており、その内容はなつみの要望通り、財産分与が一切ないものであった。もちろん、なつみが陽一のものを欲しいと思うことは一度もなかった。彼女は迷うことなく、協議書に自分の名前を書き込んだ。「速水社長、役所の方は明日午前10時に予約を取ってあります」弁護士が言った。なつみもその言葉を聞いて軽く頷くと、陽一に向かって言った。「もう行っていいですか?」 陽一は自分が持
どうしてみんなが真央を好きで、自分のことを好きにならないの?子ども時代のなつみがこの家に戻ったばかりの頃、彼女はこの問いの答えを知りたかった。 当時、真央が家族に気に入られるためにしていたことを、彼女も同じように一生懸命頑張ってみた。けれど、どうしても彼らは彼女を好きになってくれなかった。ある日、なつみは母親のためにお茶を淹れて差し出したことがあった。藤堂夫人はその場では「ありがとう」と言ったものの、振り返るとそのお茶を鉢植えに捨ててしまった。その日の夜、なつみは偶然にも両親の会話を耳にしてしまった。藤堂夫人が、「なつみをHIV検査に連れて行った方がいいのかしら」と父に尋ねていたのだ。当時のなつみはHIVという言葉の意味を知らなかった。しかし、少し成長してから、それが「エイズ」を指す言葉だと知った。彼女がそんなことを言われたのには理由があった。それは、かつて継父に襲われかけた過去があったからだ。たとえその時、実際には何も起こらなかったとしても、彼女のその過去は彼らにとって「恥」であり、一生消えない「烙印」として映っていた。彼らの目には、彼女はもう「汚れた」存在でしかなく、娘として認めることなどできない存在だった。そのことを思い出すと、なつみは目をぎゅっと閉じた。そして、再び目を開けたとき、その瞳には一片の感情もなかった。「それが本当かどうかなんて、もうどうでもいい。今の私は......あなたたちの愛情なんていりません」「それ、どういう意味?」「今までずっと、私を家に連れ戻したことを後悔してきたのでしょう?もう後悔する必要はありませんわ」なつみは微笑みながら、静かに言った。「安心して。私は出て行きますから。これからは、あなたたちには自慢できて愛される娘、真央だけが残るでしょう」「なつみ......あなた、自分が何を言っているか分かっているの?」 藤堂夫人の声は震えていた。それが怒りによるものか、驚きによるものかは分からない。 けれど、それがどちらであろうと藤堂なつみにとっては関係のないことだった。彼女はただ静かに笑い、そして言った。「もちろんよ。本当のところ、後悔しているのは私の方かもしれない。 もしかしたら、あの村で死んでいた方がよかったのかもしれません。その方がせ