「何か食べ物を取ってくるね」そう言い残し、神崎吉木は部屋を出て行った。河崎来依は今、それどころではなかった。まず、ベッドサイドのゴムの箱を手に取った。開封済みだった。次にゴミ箱を確認すると、使用済みのものがある。だが、それだけでは証明できない。彼女はすぐに飛び起き、シャワーを浴びると、服を着て携帯を手に取り、慌ただしく部屋を出た。昨夜、遊びに出たとき、薬局の前を通ったのを覚えている。だがドアを開けたその瞬間、向かいの部屋のドアも同時に開いた。「海人、安心して......私、絶対に言わないから......」目が合ったのは、泣き腫らした目で、バスローブ姿の一楽晴美だった。そして、服が乱れたまま、険しい顔をした菊池海人だった。数分前。菊池海人は目を覚ますと、隣の人を抱き寄せ、キスをしようとした。だが、違和感を覚えた。ジャスミンの香りだ。河崎来依はこんな淡い香りをつけない。彼女の香りは、いつも情熱的なローズの香りだった。昨夜、一緒にシャワーを浴びた。二人とも、ホテルのアメニティの同じ香りに包まれていたはず。菊池海人の目が、一瞬で覚めた。勢いよく身を起こし、横を見た。黒く長いストレートヘア、河崎来依じゃない。彼はすぐに自分の服を探した。だが、この部屋は自分が元々宿泊していた部屋だった。昨夜、河崎来依と過ごした新しい部屋ではない。記憶が、繋がらなかった。「......ん......」一楽晴美が、ゆっくりと目を開けた。菊池海人は即座に、毛布を引っ張り、彼女をすっぽりと包んだ。頭の先まで。彼は慌ててスーツケースから服を取り出し、身につけた。一楽晴美が、毛布から顔を覗かせ、目は潤んだ。「......」菊池海人は、昨夜が初めてだったとはいえ、自分の理性はある。誰と寝たかくらい、わかっている。「......なんで、お前が俺の部屋にいる?」一楽晴美は唇を噛みしめ、左目から、一滴の涙が落ちた。その声は、かすかに掠れ、まるで昨夜、ひどく乱れた後のようだった。「海人......わかってるよ......昨夜、お酒を飲んで、河崎来依と彼氏のことで怒ってたでしょ?だから、間違えちゃったんだよね......大丈夫、安心して。私、絶対に秘密にするから」そう言うと、一楽晴美は布団をめく
河崎来依は言った。「先に彼女に薬を飲ませて。私はフロントで聞いてくる」菊池海人は河崎来依の腕を掴んだ。「一緒に行こう」河崎来依は首を振った。「手分けして動くわ。証拠を消されるのが面倒だから」この件で、菊池海人が最も疑っているのは神崎吉木だった。どう見てもそんな単純な男には思えないから。「今聞いたって、何も出てこないだろう」河崎来依の表情が少し険しくなった。夜中に眠りについてから今まで、もう何時間も経っていた。もし相手に計画があったなら、もう尻尾を掴ませたはずだ。彼女は菊池海人と一緒にホテルの最上階へ戻った。菊池海人が一楽晴美の部屋のドアをノックすると、少しして内側からドアが開いた。一楽晴美は顔を半分だけ出し、おどおどと菊池海人を見つめた。「海人......」菊池海人の黒い瞳に一瞬感情がよぎったが、鋭い表情には何の変化もなかった。彼は無言で薬を差し出した。一楽晴美は薬の箱の文字を見て、視線を伏せた。その目の奥にある陰りを抑え込みながら、か細い声で言った。「海人、これってどういう意味?」まだ何もはっきりしていないが、幼い頃から一緒に育った妹のような存在とはいえ、数年の別れがあれば人は変わるものだ。彼は、彼女をまったく疑わないほど甘くはなかった。菊池海人は冷淡に言った。「飲め、お前のためでもある」一楽晴美は部屋の中へ戻り、別の薬の箱を持ってきた。彼女が再び顔を上げたとき、目には涙がいっぱいに溜まっていた。「もう飲んだよ、海人。避妊薬って、一度にたくさん飲んだら体に悪いって聞いたけど......」河崎来依はつい口を開いた。「いつ買ったの?」彼女に同情がないわけではない。ただ、一楽晴美が自分の前で見せる姿は、決してそんなに純粋なものではなかった。だが、彼女がそう問いかけるや否や、一楽晴美は大粒の涙をこぼし始めた。まるで、とんでもない仕打ちを受けたかのように。「分かってる......どうせ私が何を言ったって疑われるんでしょ。だったら、証拠で判断すればいい。海人、私は絶対に口外しないって約束した。薬だってもう飲んだ。信じられないなら、この箱のも飲めばいいでしょ?もし体に悪影響が出ても、あなたを責めたりしない。あなたは私のためを思ってるだけだし......子供が産めなくなるより、未婚
神崎吉木は怒ることもなく、ただ子犬のような瞳に悲しみをたたえていた。「姉さんが誰を選んでも、僕は祝福するよ。姉さんが幸せなら、それでいい。僕は何でもする。でも菊池社長、あなたの幼なじみがあなたの部屋から出てきたのに、少しは責任を持つべきじゃない?今このタイミングで僕に対して独占権を主張するのは、ちょっと違うんじゃない?」菊池海人は、神崎吉木の女の同情を買うような哀れぶる態度が心底気に入らなかった。口先だけの綺麗事しか言えない、何の実力もない若造に、自分のやり方をとやかく言われる筋合いはない。しかし、彼が口を開く前に、神崎吉木はさらに言葉を続けた。「まあ、そうだよね。菊池社長ほどの家柄があれば、何でも手に入るし、誰も文句なんて言えないし。金も権力もある男なんて、どこにでも女の一人や二人いるもんでしょ」エレベーターに乗っているはずなのに、まるで冷凍庫に閉じ込められたような空気になった。河崎来依は堪らず口を開いた。「もうやめて。耳鳴りするから静かにして」菊池海人はそもそも何も言っていなかったが、神崎吉木は素直に口をつぐんだ。ちょうどその時、エレベーターが到着し、河崎来依は菊池海人の腕を引いて先に降りた。神崎吉木はその後ろをついていった。フロントに到着すると、河崎来依は昨夜自分にルームキーを渡した女性の姿がないことに気づいた。「シフトの交代は何時?」見慣れないフロントスタッフが答えた。「朝の8時です。どなたをお探しでしょうか?」河崎来依はすぐに言った。「昨夜の夜勤の人。首に小さなホクロがある子よ。その人の連絡先を教えて」今フロントにいるスタッフは、交代時にマネージャーから資料を受け取っていた。目の前にいるのは、ホテルの最上階に泊まる貴重なお客様で、決して適当に対応してはいけない相手だ。すぐに電話番号を河崎来依に伝えた。河崎来依はその場でかけたが、聞こえてきたのは無機質な音声だった。彼女は菊池海人を見て言った。「電源が切られてる」菊池海人は簡潔に言い放った。「ホテルのオーナーに連絡しろ」フロントスタッフにはそんな権限はなく、すぐにロビーマネージャーへ連絡した。ほんの数秒後、マネージャーが慌てて駆けつけ、菊池海人に深く頭を下げた。「菊池社長」菊池海人は淡々とした表情で言った。「上司を呼べ。お前では対
「私が対処します」河崎来依は逆に京極佐夜子を慰めた。「本当に大丈夫です。南には言わないでください。お願いします、おばさん」「分かった」もう手を出さないと言ったので、京極佐夜子はもう気にしなかった。「じゃあこれでね」河崎来依は再び菊池海人の元に戻り、ロビーマネージャーが言った。「菊池社長、上司が少し遅れるそうです。お待ちいただいている間、上階のラウンジでお茶でもどうぞ」菊池海人は手を振った。「急がせろ」ロビーマネージャーは菊池海人を怒らせないように、再び電話をかけた。河崎来依は小声で菊池海人に尋ねた。「監視カメラの映像を先に確認するべきじゃないか?」菊池海人は答えた。「その権限は、オーナーだけが持っている」河崎来依はその意味を理解した。誰でも見られる監視カメラの映像では、何も分からないだろう。バックアップや隠された権限のある映像を確認しないと意味がない。神崎吉木は彼らの後ろから見ていた。二人がどうして一緒に動くのか、少し理解できなかった。最初の困惑を除けば、今や全く慌てている様子もなかった。冷静すぎる二人に、彼は逆に不安を感じた。その冷静さと息の合った動きに、心の中で揺らぎが生まれていた。その時、一楽晴美がやってきた。「海人......」菊池海人は横目で見た。「何しにきた?」一楽晴美は両手を絡ませながら、頭を少し下げたため、その白く小さな顔が隠れた。白いドレスを着ていて、その弱々しい姿が、男性の保護欲をかき立てるようだった。「ちょっと様子を見に来た。何か手伝えることがあればと思って。さっきは私も驚いて反応が遅かったけれど、今思うと、やっぱりおかしいところがあるわ」河崎来依は唇を引き上げて、心の中で思った。こんな演技をしても、意味ないでしょう。菊池海人の顔にはほとんど感情の変化はなく、声もいつも通り淡々としていた。「おかしいのは確かだ」もし呪術でない限り、河崎来依の代わりに、他の誰かを発散のための対象にしても。一楽晴美を選ぶことは絶対にないんだ。若い頃、そんなことがあったからこそ、心の中で罪悪感を抱えている。二度と同じ過ちを繰り返すわけがない。彼女に手を出すことは、歌舞伎町の女に触れるよりももっと面倒なことになるから。「菊池社長」ホテルのオーナーが
「......」これもまた、偶然か。河崎来依は菊池海人と視線を交わし、菊池海人が言った。「強いハッカーでも回復できないのか?」監視室のスタッフは菊池海人の身分を知らなかったが、上司がへりくだっているのを見て、もっと大物の人物だろうと推測した。彼も怖くて反論できず、正直に答えた。「このプログラムを設計した人でも、復元はできません。単純にファイルを削除したら、優秀なプログラマーやハッカーが来ても回復できるんですが。これは自己防衛プログラム、いや、自己破壊プログラムとも言えるもので、消去されたデータは戻せません」菊池海人はそれを聞いて、冷たい光を瞳に宿し、尋ねた。「ハードディスクはどこだ?」スタッフは水から取り出したハードディスクを菊池海人に渡した。菊池海人はそれを手に取り、ホテルのオーナーを見て言った。「お前のコンピュータ、アカウントやクラウドなど、すべて俺に渡してくれ。ちょうど良い、監視の専門の友人がいる、そいつが新しいのを取り付けてあげる」ホテルのオーナーは反論できず、菊池海人をオフィスに連れて行き、コンピュータを取り、菊池海人のlineを追加し、アカウントなどを全て送った。一切隠し事はしなかった。菊池海人は人を手配してデータ復元を進め、その後河崎来依を連れて食事に行った。「海人......」一楽晴美が追いかけてきた。「私もまだ食べてない、いい?」「何を食べたい?誰かに買わせてやる」菊池海人の拒絶の意を感じ取った一楽晴美は、鼻をすすった。「海人、私を疑うのは分かるけど、私にはそうする必要はない。もし本当にそうしたかったら、もっと前にやってたわ。義母は私を気に入ってくれてるけど、あなたのおじいさんは私の家柄を気にしてる。でも、それでも試みることはできる。菊池家の名誉も大事でしょ、もし私があなたの子供を妊娠したら、私は菊池家の若奥様になれる。将来、家を継ぐ奥様になることだってできる。でも海人、私はそんなことしなかった。あなたを困らせたくなかったし、海外に行っても、いじめられても言わなかった......それで、私は自分のおじいさんにも孝行できなかった。そのせいで、あなたのおじいさんは私に対して警戒しなくなった。菊池家の娘として暮らし、仕事や生活の面でも面倒を見てもらって、私は何のためにわざわざ菊池
「これは何の芝居だ?」その時、だらりとした低い男の声が響いた。「俺たちが帰ってくるのを知って、わざと用意した芝居か?」河崎来依は清水南を見て、驚いた表情を浮かべた。「どうして帰ってきたの?」清水南は彼女の額を軽くつついた。「こんな大事を隠そうと思ってたの?」河崎来依は京極佐夜子が信用できない人じゃないと思った。「どうして分かったの?」清水南は服部鷹を指さした。すべては言葉にしなくても分かった。河崎来依は理解し、清水南の手を握った。「私たち、子供じゃあるまし紫ら、海人と私はどうにかできる。南たちは自分のハネムーンを楽しんで」清水南:「大丈夫よ、応援するよ」「海人!」河崎来依が何か言おうとしたその時、必死な叫び声が聞こえた。振り返ると、一楽晴美が菊池海人の胸に飛び込んでいた。さっきの瞬間、彼女はその場で動かなかった。直感的に、一楽晴美のような人は自分を傷つけることを惜しむタイプだと感じていた。そして、彼女だけでなく、服部鷹も気づいた。しかし菊池海人は見過ごすわけにはいかず、手を伸ばして彼女を止めた。それで、彼女は彼の腕の中に飛び込んできた。引き離すにはもう遅かった。菊池海人は河崎来依を見た。河崎来依は淡々と彼に手を上げ、そして清水南に向かって言った。「もうお腹ペコペコ、食べながら話すわ」「解決してから来い」服部鷹は一言残して、二人の後を追った。レストランに到着し、服部鷹はゆっくりと料理を選んだ。すべて清水南が好きなものだった。河崎来依は向かいの席で、二人の甘いやり取りを見て、突然思い至った。「ああ、服部社長、実は手伝いに戻ったんじゃなくて、見物をしに来たんだ」服部鷹は顔色一つ変えずに答えた。「はは、まさか」「......」河崎来依は清水南に愚痴をこぼし、清水南は服部鷹を軽く叩いた。服部鷹は無敵だったが、唯一怖いのは妻だけだ。「何も言わないよ、もう」河崎来依はげっぷをした。「もういい、二人とも、私は食事はいいや、あなたたちの愛を見てもう満足したから」その言葉が終わった瞬間、隣に誰かが座った。彼女と同じホテルのバスソープのほのかな香りと、ほんの少しの煙草の匂いが漂ってきた。彼女は何も言わず、メニューを渡した。菊池海人はそれを押し戻した。
言いながら、彼は河崎来依を一瞥した。「前はそんなにお前にべったりだったのに、今はこんなことがあって、逆にお前を避けてる、おかしい」この前、河崎来依は神崎吉木に構う気もなく、あの騒動を見ている気にもならなかった。彼女は清水南を引っ張ってその場を離れた。服部鷹にそう言われて、河崎来依は気づいた。神崎吉木の行動はおかしかった。「食事が終わったら、彼に聞いてみるわ。何か分かるかもしれない」「いいえ」菊池海人が口を開いた。「証拠があれば、彼は言い逃れできない」河崎来依は顎をつきながら尋ねた。「その証拠、どれくらいで見つかるの?」菊池海人は具体的な時間は分からない。この件は面倒だ。「できるだけ早く」スタッフが料理を運んできて、河崎来依は先に食事を始めた。菊池海人が行かせたくないと言っても、彼女はそんなに言うことを聞く人間ではない。この問題がすぐに解決しないと、彼女は落ち着かないんだ。......神崎吉木の方のほうは更に落ち着かなかった。彼は河崎来依を騙したくもないし、こんな卑怯な手段で彼女を手に入れたくもなかった。河崎来依との関係が終わったとはいえ、彼はまだ信じている、真心を込めればきっと何かできると。たとえ付き合えなくても、彼女が菊池海人と一緒に幸せになるなら、黙って見守るつもりだ。結局、彼女が自分を嫌うようなことにはしたくなかった。でもさっき、菊池海人は明らかに一楽晴美を完全に諦めてなかった。一楽晴美は菊池海人に執着していて、今後河崎来依に傷をつけることは間違いない。だから、彼は菊池海人が無条件で河崎来依を愛しているのを見届けないと、真実を話すことはできない。そのため、彼は内心で引き裂かれ、苦しんでいた。河崎来依に何かを聞かれないことを祈っていた。そうでなければ、彼女の美しい目を見て、耐えられる自信がなかった。......一楽晴美も同じように落ち着かなかった。服部鷹の手段はよく知っている。そして、服部鷹は菊池海人とは違い、彼女との間には少し感情的なつながり何かはなかった。彼が介入すれば、たとえ監視カメラの記録が綺麗に消されても、何か手がかりが見つかる可能性はある。「くそっ!海でハネムーンを過ごすはずだったのに、あいつはなんで帰って来たのよ!」一楽晴美は何度も悪態をつき、焦
結局、河崎来依は自分で荷物を取りに行くことにした。彼女はせっかちで、疑いがあるとすぐに解決したいタイプだ。そうしないと、眠れもできない。菊池海人が一緒に行きたがったが、彼女はそれを拒否し、彼は仕方なく玄関で待つことになった。服部鷹と菊池海人は長い付き合いだが、何も慰めの言葉をかけることなく。ただ一緒に待っていた。清水南は安ちゃんを見に行った。部屋の中で。河崎来依はさっき起きてから乱れた荷物を片付け、スーツケースを閉じてそのまま持ち上げた。座ることもせず、まっすぐ神崎吉木を見つめ、尋ねた。「昨夜、本当に私が自分でこの部屋に戻ってきたの?」神崎吉木は目を伏せ、まるで主人に叱られた子犬のようだった。実際は表面上謝っているだけで、内心では しているようだ。「姉さん、僕はこのことであなたを付き纏ってなかったじゃないか......僕は初めてなんだ」河崎来依:「......」彼女は神崎吉木が心から「損したけど仕方なかった」と思っているとは感じなかった。一見、彼女に選択権を完全に与えているように見えるが、言葉の中には少し警告する意味が感じられる。役者としての腕前はすごいな。いつでもどこでも役に入れる。でも残念なことに。彼女は甘い女の子ではなく、ちょっとした言葉で自分が相手に対して借りを作った気になったりしない。「あなたは私の質問に答えてない」神崎吉木はまぶたを上げ、河崎来依の鋭い視線と目を合わせた。「姉さん、最初は遊びだと言ってたけど、僕の気持ちはすべて本物だ。僕は本気で姉さんがすきだ、もしあなたが僕を選んでくれるなら、僕は姉さんを大切に扱う。僕には一緒に育った親しい女友達や初恋のような存在はいない。姉さんと他の女性の間で揺れることもない、ずっと姉さんの味方でいるよ。でも、今言ってることは、昨夜起こったことについて姉さんに責任を負わせるためにこれを言ってるのではない。昨夜は僕にも責任があるから」河崎来依は無表情で彼の話を聞いていたが、最後の言葉で口を開いた。「それは認めたということ?」神崎吉木は首を振った。「昨夜、姉さんが僕を抱きしめたとき、姉さんの様子がおかしいのに、僕は拒絶するべきだった。でも、本当に姉さんが好きで、我慢できなかった。だから僕も半分の責任を負うべきだと
「さっきは少し用事があって……ただ、内容はお話できません。ご了承ください」来依はそれを信じたように頷いた。「そう……なのね」四郎も頷き返した。「ええ、そういうことです」来依は微笑みを浮かべた。「あんたが用事で席を外してたとして……他の人たちは?」「それぞれ別の任務がありまして」「つまり」来依の目つきが一気に鋭くなった。「みんな忙しくしてて、ホテルの玄関に誰もいなかったってことね?海人とベッドにいるときに、敵が襲ってきたらどうするつもりだったの?殺されてもおかしくないよね?」「……」「男にとって、ベッドの上が一番無防備な時でしょ。あんたも男なら、それくらい分かるでしょ?」四郎の頭の中が一瞬真っ白になった。まるで若様から「お前が何をやった?」と聞かれた時のような錯覚。その直後には冷たい口調でアフリカ行きを命じられる――一郎と同じように。余計なことを言えば命取り。四郎はそれ以上の言い訳をやめた。「河崎さん、外は危険です。ホテルで若様をお待ちください」来依はそんな「危険」なんて信じていなかった。今はとにかく勇斗の様子を見て、早く大阪に戻る必要があった。ここは土地勘もないし、海人の敵は多い。何かあったら命を落とすかもしれない。「どかないなら、助けを呼ぶわよ?ここ、監視カメラあるし……」彼女は一歩詰め寄った。「それにね、もしあんたの若様が、私に乱暴しようとしてるって思ったら、どうなると思う?」「……」四郎は思った。菊池家は来依の素性が弱いからと、海人の足手まといになるのではと懸念していた。だが、雪菜はどうだ?立派な家柄だったのに、道木家に連れ去られ、結局海人に泣きついて戻ってきた。晴美は来依を罠にはめたが、あの頭の切れる海人でさえ術中にはまった。それをすべて来依のせいにして、頭が悪い、支えにならないと言い切るのはおかしい。むしろ彼女は、なかなかの人物ではないか。「河崎さん、一郎はアフリカに送られ、今残ってるのは僕たち四人だけです。もし僕がいなくなれば、高杉芹奈の薬の件を処理するのに、若様は相当苦労することになります。「あなたもかつて若様のことが好きだったでしょう?彼が命を落としても構わないなんて、思っていませんよね?」来依はまるで意に介さず言い放った。「私には関係ないわ。私は母親でも、恋人でもない。
海人は枕を取って来依の腰の後ろに当て、優しい声で尋ねた。「何か食べたいものある?人を呼んで用意させるよ」来依は彼を睨みつけた。「出ていけ!」海人は彼女の手を握った。「明日、宴会がある。一緒に来てくれ」「……」来依は手を引っ込め、冷たく言い放った。「本当に頭おかしいわね」「うん。お前のせいで」「……」来依は手を振り上げて彼を叩こうとした。「出てけ!」海人はその手首を自然な動きで掴み、そのまま笑みを浮かべた。来依は彼のことを本気でヤバいと感じ、自分で逃げようとした。だが布団をめくった瞬間、冷たい風が吹き込み、すぐにまたかぶせ直した。「後ろ向いて!」歯ぎしりするような声で、今にも噛みつきそうな勢いだった。海人の視線が上下に滑った。「隠す必要ある?」「わ、私……」来依はとっさに彼の口をふさぐ。「そういう下品なこと言わないで!」海人は彼女の手を握り返した。「明日の宴会は、お前の出張の目的に関係がある。行かないのか?」「どうして私が何しに来たか知ってるの?」海人は何も答えず、意味ありげな目で彼女を見つめた。来依は自分の質問が馬鹿だったと気づいた。石川が彼の縄張りじゃなくても、彼女の動きを探るくらい簡単なはずだ。「勇斗に何したの?」その瞬間、海人の表情から笑みが消え、声も冷えた。「もう彼に会う必要はない。和風と伝統工芸の事業は、俺が手配する」「そんなのいらない。自分のことは自分で処理するから」海人はただ一言、「まず飯だ。腹が満たされてから喧嘩しよう」「……」まるで以前のような雰囲気だった。彼が何を言われても意に介さなかった時代のまま。だが来依の腹がタイミング悪く鳴った。気まずくなる彼女をよそに、海人はふっと笑った。「何が食べたい?」来依は相変わらず口では強気だった。「あんたの顔見るだけで吐き気がする。何食べたいかなんてホテルのルームサービスに言えば済む。さっさと出ていって!」海人は静かに言った。「食べたくないなら寝ろ。あとでお腹空いても我慢しろ」「は?」来依は怒りが収まらず、枕を掴んで海人の顔に叩きつけた。最後にはそのまま彼の上に乗り、息を止めさせようとした。けれど、何かが「立っている」のを感じた時には、もう遅かった。彼女の腰を掴む手のひらが、火のように
芹奈は、海人の動きの合間に彼の首筋にある赤い痕を見つけた。喉仏のあたりには噛み痕までついていた。すべてが、ついさっき彼と来依が激しく交わった証だった。彼女が最も恐れていたことが、ついに現実になってしまった。「しかも、二度目までは一日も空いていない」海人が再び口を開いた。その声は氷雪をまとったように冷たく、聞く者の背筋を凍らせた。芹奈はその鋭い眼差しに目を合わせ、無意識に一歩後退した。だが、それではいけないと思い直し、すぐに彼の目の前まで歩み寄った。「何のこと?全然意味がわからないわ」そう言いながら、彼の腕を掴もうと手を伸ばした。海人は身をかわした。すると五郎が即座に芹奈を制し、膝裏に蹴りを入れて彼女を地面に跪かせた。「海人っ!」芹奈は、これほどの屈辱を味わったことがなかった。幼い頃から、周囲の人間は皆彼女を中心に回っていた。望むものはすべて手に入れ、何も言わなくても誰かが彼女の心を読んで与えてくれた。海人だってそうだった。両親が彼女のもとに送り届けた存在。家柄が釣り合っていたからこそ、得られた立場だ。来依には決して手に入らないはずのものだった。それなのに、その来依が海人の愛を手に入れた。しかも、何よりも強い愛を。それがどうしても許せなかった。薬を盛ったのだって、海人の母の暗黙の了解があったからだ。「お母様が、あなたを私に差し出したのよ。文句があるなら、私じゃなくてそちらに言いなさいよ」海人は視線を落とし、見下すように芹奈を見つめた。まるでゴミでも見るかのような目だった。「母さんには、もちろんきっちり責任を取らせる。だが今は、お前がどうするかだ。自分で家に戻って、俺とは結婚しないと言うか。それとも、俺が高杉家を潰して、菊池家との縁談が二度と成立しないようにするか、選べ」芹奈の脳裏に浮かんだのは、雪菜の末路だった。かつて彼女は、雪菜を笑いものにしたことがあった。あれほど恵まれた立場にいながら、海人の子を産むことこそが一番重要だったのに、と。かつての晴美もそうだった。海人と結婚する資格はなかったが、子を身籠れば菊池家に庇われた。自分は正式に海人と結婚できる身分。子どもさえできれば、さらに盤石になるはずだった。なのに、あと一歩のところで。なぜ来依が、こんな場所に現れたのか
「前にお礼がしたいって言った時、断ったよね。まさか、こんなところで待ってたなんて。「海人、私のこと、からかってるの?」海人は顔を上げた。黒く深い瞳には、すでに抑えきれない欲望が宿っていた。理性で抑えていたせいか、腕の血管が浮き上がっていた。でも今回だけは、彼女に自分から求めたかった。「俺って、そんなに最低に見える?」確かに全く魅力がないわけではなかった。ただ、以前彼が彼女の意志を無視して無理やりだったことを思えば――。「部下と連絡が取れないなんて、ありえないでしょ」「石川は俺の縄張りじゃない。ここには、俺が来るのを快く思わない奴がいる」彼の仕事の事情なんて、来依にはどうでもよかったし、知りたくもなかった。ただ一言、「とにかく、私はあんたの問題を解決できるような人間じゃない。冷たい水でも浴びて、私が風邪薬買ってきておくから」海人は目元を伏せ、どこか哀れにさえ見えた。「ちょっと助けてくれるだけなのに、そんなに難しいことか?」来依は頷いた。「私たち、もう身体の関係を持つべきじゃないと思う。たとえ緊急事態でも」海人の脳裏に浮かんだのは、来依を抱き寄せていたあの男の姿だった。全身に溜まっていた苛立ちが一気に燃え上がり、怒りが頂点に達し、理性を失いかけていた。「新しい男のために、貞操を守ってるってわけか?」来依は、彼の言う相手が勇斗だとすぐに分かった。さっき、勇斗が彼女の首に腕を回したところを海人に見られていた。もう説明する気もなかった。「そうよ」海人はとうとう理性を失った。この数日間、押さえつけていた感情が、長く眠っていた火山のように噴き出した。触れるところ全てが熱かった。来依はその熱さに身を縮めた。必死に彼を押し返したが、それでも止めることはできなかった。彼は彼女の服を無理やり引き裂いた。「海人、憎むわよ」「憎めばいい」海人は彼女を強く抱きしめた。「ただ、俺のことを忘れないでくれればそれでいい」来依の体が震え、怒りに任せて彼の肩に噛みついた。海人の動きは、さらに激しさを増した。来依はこらえきれず、恥ずかしい声を漏らしてしまった。……その頃、意識を失っていた勇斗は、自宅へと運ばれていた。一方、レストランでは、芹奈が個室をめちゃくちゃにしていた
その言葉がまだ空気の中に残っているうちに、来依は海人が自分で立ち上がるのを目の前で目撃した。……だが、次の瞬間、彼はそのまま彼女の方へ倒れかかってきた。来依は慌てて支えた。海人は彼女の肩に寄りかかり、呼吸が首筋にかかる。その吐息が、驚くほど熱かった。「ちょっと、あんたの部下って、いつもベッタリついてるんじゃなかったの?なんでこんなに熱出してるのに、一人なのよ?」そのとき、男のかすれた声が聞こえた。「ホテルに……戻る……」「……」来依は本気で呆れた。ホテルの名前も言わずに、どこのホテルに連れて行けっていうのよ。仕方なく、彼のポケットに手を入れてスマホを探した。スラックスの両方のポケットを探っても見つからない。彼は白シャツ一枚で、上着も持っていない。ということは、スマホは身につけていないということ。だから部下とも連絡が取れなかったのか。……でもおかしい。彼の部下は、いつも一歩も離れないはずなのに。考えを巡らせていると、不意に手首を掴まれた。「……変なとこ、触るな……」来依は怒鳴りたくなった。が、熱で頭がおかしくなってるとわかっていたので我慢した。「ホテルの名前は?」「君亭……」「……」まさかの、自分と同じホテルだった。来依は彼の腕を肩に回し、ゆっくりと外へ連れ出した。フロントで勇斗を探したが、いなかった。外にいるかと思って出てみたが、そこにもいない。スマホを取り出して電話をかけたが、勇斗は電源が切れていた。「???」今夜の出来事、偶然にしては出来すぎている。海人のやり口なら、こういう段取りもできそうで……「寒い……来依ちゃん……」「……」来依は歯を食いしばり、道でタクシーを止めて海人をホテルまで連れ帰った。彼はパスポートも部屋のカードキーも持っていなかった。フロントに聞くと、パスポートがないと部屋を開けられないと言われた。「彼の名前は菊池海人で、このホテルの宿泊客ですよ。カードキー忘れただけですから、開けてくれませんか?」フロントは丁寧に答えた。「申し訳ありません。当ホテルはハイクラスの施設でして、お客様のプライバシーと安全を最優先にしております。パスポート明がない場合、お部屋の開錠はできません」大阪では好き放題やってる海人も、石川では名前が通じな
「今どきは、こういうのを好む人も多いしさ。配信でもよく見かけるよ」勇斗は彼女に麦茶を注ぎながら言った。「でもね、彼女たちが求めてる『家』って、ただの物件じゃないんだよ」来依も家を買うのが簡単じゃないことは分かっていた。自分の小さな家を手に入れるのにも時間がかかったし、南ちゃんが手助けしてくれなければ、もっと長引いていただろう。「大丈夫。今回うまくいったら、うちのブランドと連携させるつもり。ちゃんと宣伝して売れれば、家の資金くらいすぐ貯まるって!」「それなら最高だよ。お前たちのブランドの影響力はよく知ってる」二人は個室で笑い合いながら、にぎやかに話していた。だが、隣の個室では冷え切った空気が漂っていた。芹那は何も気にしていないふうを装い、海人に料理を取り分け、エビの殻まで剥いていた。「私、子供のころは石川で育てられてたの。肺が弱くて、大阪の気候が合わなくて。「このお店、百年近い歴史があって、石川の名物よ。ここのエビ、大阪のとは違うの。ただ茹でただけで、水も調味料も使わないのに、すごく旨味があるの。あとからほんのり甘くなるのよ」海人が返事をしようがしまいが、芹那は一人で話し続けていた。海人は指先で茶杯をなぞっていた。顔には何の表情もなく、いつものように無表情を保っていたが、心の中は決して穏やかではなかった。途中で一度トイレに立ち、戻る際に隣の部屋から楽しそうな笑い声が聞こえた。部屋に戻ると、注ぎ直されたお茶を見て、何も言わずに一気に飲み干した。芹那の目に一瞬、狙った獲物を逃さぬような決意の光が走った。昨夜は失敗した。だから今日は、絶対に落とすつもりだった。できれば、妊娠してしまえば一気に話が進む――そう思っていた。……来依は勇斗と少し酒も飲んで、 食事だけじゃ物足りず、もう一軒行こうという話になっていた。勇斗が会計をしに行き、来依はトイレへ向かった。しかし、まだトイレに入る前に、誰かに口を塞がれ、個室へ引き込まれた。ここで犯罪に遭うとは思っていなかったし、 なにより、彼女の鼻に届いたのは――見覚えのある匂いだった。「海人!」彼女は、彼の手を振り払って振り向き、怒鳴ろうとした。だが次の瞬間、唇を塞がれた。また、強引なキスだ。来依はすぐさま足を上げて蹴りを入れた。あの
病院で海人の容体が問題ないと確認された後、彼はすぐに空港へ向かった。鷹は時計を見て言った。「今夜のうちに行くのか?」海人はうなずいた。眉間には疲労の色がにじんでいた。鷹は南の手を引いて病院を出たが、外には車が二台停まっていた。彼は尋ねた。「高杉芹那も一緒に行くのか?」海人は再びうなずいた。鷹は理解できない様子だった。「これは、どういう仕掛けだ?」「行くぞ」海人はそれ以上答えず、車のドアを開けて乗り込んだ。二台の車が走り去るのを見送ってから、南が聞いた。「昨日の夜、あなたちょっと出しゃばりすぎたんじゃない?」鷹は顎をさすりながら答えた。「そんなはずないけどな……」「“そんなはず”って何よ?」「海人が誰を好きかなんて、俺に分からないはずがないだろ?」二人は家に戻って少し荷造りし、それぞれ会社へ向かった。南は来依の目の下のクマが、ファンデーションでも隠しきれていないのを見て聞いた。「昨日クラブでも行ってたの?」来依は首を振った。「眠れなかっただけ。たぶん、まだ時差ボケが抜けてないんだと思う」南はすぐに、それが嘘だと見抜いた。サンクトペテルブルクから帰ってきて、もう何日も経っている。なのに、ちょうど昨晩だけ眠れなかったなんて。「ニュース、見たんでしょ?」来依はうなずいた。南はその話題を深追いせず、こう聞いた。「それで、石川への出張、行けそう?」来依はうなずいた。「飛行機で寝れば大丈夫」「なら良かった」南は自ら来依を空港まで見送った。「着いたら連絡してね」来依はOKサインを出し、保安検査へ向かった。石川では和風フェスが開催されていて、 将来的に日本要素を取り入れた服を作るために、彼女たちはその視察も兼ねていた。無形文化遺産の刺繍もある。来依の友人が今回の主催側にいたため、彼女が先に現地入りして下見をし、 良さそうなら南が後から合流する予定だった。無駄足にならないように。南にはまだデザイン草案の制作もあったから。この件はサンクトペテルブルクにいる間にすでに決まっていたことだった。そして偶然にも、海人も今日、石川へ出張に行く予定だった。鷹は前日、彼の誕生日パーティーで初めてそれを知った。飛行機が飛び立つのを見送りながら、南は思った。――もし今回の石川で二人が再会
しかし、海人と鷹の歩む道は違った。鷹のように勝手気ままにはできない。それに、鷹も今の地位に至るまで、何度も陥れられ、苦労を重ねてきた。海人には、もっと安全で堅実な道があった。無理をしてまでリスクを冒す必要はない。彼は、彼女にとってたった一人の息子だった。「私はお客様のところへ行ってくるわ。あんたたちは海人と話してて」鷹はうなずき、海人の母を見送ったあと、海人のもとへ歩み寄り、グラスを軽く合わせた。「おめでとう、バースデーボーイ。今日でまた一つ年を重ねたな」海人は彼を横目で一瞥した。「俺たち、同い年だろ」「でも違うよ。俺の方が数ヶ月遅く生まれてる分、年取るのも数ヶ月遅いからさ」海人はまだ来客の対応があるので、彼を相手にせず、すぐその場を離れた。鷹は南を休憩スペースへ連れて行き、彼女の好きな食べ物を用意した。南は数杯お酒を飲んだあと、トイレに行こうと立ち上がった。鷹も付き添って一緒に向かった。その時、曲がり角を白い影がすっと横切った。鷹は覚えていた。今日の芹奈は白いドレスを着ていた。「何見てるの?」彼は南の手を握り、急いで階段を下りた。だが、海人の姿は見当たらなかった。鷹はすぐに午男に指示を出した。午男は迅速に監視カメラの映像を確認した。数々の修羅場をくぐってきた彼らの警戒心は常に高かった。画面には、海人がある部屋へ入っていく姿、そしてその数秒後に芹奈が同じ部屋に入る様子が映っていた。「まずい」南も映像を見て、すぐに察した。急いで鷹とともに5階のその部屋へ向かった。五郎たちも後に続いたが、海人の母の方が一足早かった。部屋に入ると、すでに海人の母が海人を叱っていた。「もともと高杉家との縁談を進める予定だったんだから、芹那が今日来たのも、あんたと顔を合わせて、少しでも親しくなるためだったのに、何をそんなに焦ってるの?」鷹は腕時計を見た。白いドレスの裾を見かけてから、部屋に来るまで、10分も経っていない。服を脱ぐ時間すらない。海人の母も、海人と芹奈に本当に何かが起きるとは思っていなかった。ただ、この話が世間に広まれば、それで「海人と芹奈は結婚する」という既成事実を作ることができる。ここまで強引に進めたのは、海人を追い詰めすぎると逆効果になることを理解していたから
撮影場所で少しゆっくりした後、一行はホテルへ戻った。そのとき、来依がふと何かを思い出した。「旦那さん、あんなにお金持ちで、彼女自身もお金持ちなのに、私にたった1%しか割引しないなんて!」佐夜子は笑って言った。「私は割引ゼロだったわよ。あなたに1%でもしてくれたなら、相性が良かったのよ」「彼女は子どもの頃、おじいさんと一緒に藤屋家で育てられてた。でも藤屋家は大所帯で、いくつもの分家が表では仲良くても裏では争ってるような家だから、嫁いだあとも藤屋清孝は家にいなくて、守ってくれる人が少なかったの。「彼女が若くして名を上げてなかったら、金銭面で苦労したかもしれないわ。藤屋家の財産には手を出さないし、少しケチなのも仕方ないのよ」来依は手をポケットに突っ込んで、「初対面なのに意気投合したの、私たち似たような経験があるのかもね」南は来依を抱きしめた。「もう全部、過去のことよ」「そうだね、全部終わったこと」サンクトペテルブルクで5日間過ごした一行は、大阪に戻った。一週間後は海人の誕生日パーティーだった。鷹も出席することになっていた。この誕生日は海人にとって特別な日だった。南も妻として同伴する。「来依も呼んで騒がしくすれば?」南は彼を横目で睨んだ。「あなたってば、本当に面白がってるだけでしょ」鷹は彼女の手をいじりながら言った。「高杉家も来るんだ」「高杉家?」「菊池家が考えている次の婚姻相手の家だよ」南は軽く眉をひそめた。「私は菊池家に生まれたわけじゃないし、口出す権利もないけど、こんなふうに無理やり進めるのって、本当にいいのかな?」鷹は言った。「もう十分待ったんだよ。海人が18歳で特訓から帰ってきたときには、すでに候補探しを始めてたんだ。「これまで自由にやらせてきたけど、もう時間切れってことさ」他人の運命に口を出せる立場じゃない。南は、ただ願うばかりだった。海人が来依のことで、これ以上問題を起こさないようにと。……海人の誕生日は、決して控えめではなかった。来依は知らないふりをしたくても無理だった。ネットはその話題で持ちきりだった。諦めて、スマホを見るのをやめ、静かに映画を見ることにした。そのころ、南は、海人と婚約予定の高杉家の令嬢と顔を合わせていた。「高杉芹奈だよ」鷹が彼女の耳元でささ