眼鏡の奥の瞳がとてもキラキラして……私もこんな風に相手に癒しを与えられるような看護師になりたい。「うん。私も頑張るね。中川師長みたいな立派な看護師になるまであと何年かかるだろうね」あの人と同じレベルになるには、相当努力しないと無理だろう……私からすれば雲の上の存在だから――「伯母さんは本当にすごいです。看護師としても人としても尊敬してます」そのひと言に、ものすごく重みを感じる。そばにいるからこその、嘘偽りない心からの言葉だとわかった。「うん、私もそう思ってる。まさにスーパーウーマンだよね。あんなに仕事をこなせる看護師、他には知らないもん。私の憧れ。歩夢君のお母さんも中川師長みたいな方なの?」「そうですね。どちらかというと伯母さんの方がパワフルですね。姉妹でもちょっと違うみたいです。うちの母は妹だから、伯母さんに甘えてるところもあると思います。母は父と離婚してから、ずっと女手1つで僕を育ててくれました。本当、大変だったと思います」「そうだったんだ……。歩夢君のお母さん、シングルマザーなんだね」私には想像もできない。仕事をしながら1人で子どもを育てるなんて、とても大変だったに違いない。看護師をしながら歩夢君を育ててきたお母さんは、目の前にあるこの笑顔のおかげで、つらいことも全て乗り越えられたんだろう。歩夢君の笑顔は最強だから。親子の絆はとても深く、子どもを信じて支えるお母さんは何よりも強い。「父が出て行ってしまったので……僕はまだ小さな子どもだったんですけど、伯母さんが父にめちゃくちゃ怒った場面だけは忘れられなくて」「怒った……?」「……よくある話です。父は母じゃない女性を好きになって……それでも母は何も言わずで。でもある日、父から母に離婚を申し出たみたいで、居合わせた伯母さんが父を怒ってくれたんです」「そんなことがあったんだね。お母さんの気持ち、つらかったよね」「母は父が大好きでね。だから、一緒にいたかったんです。今、母の気持ちになって考えたら、死ぬほど胸が苦しいです。父を恨みたくなります。でも、母が父を絶対に悪く言わないので、僕も言わないようにしてます」「……そっか、そうだね」「父はバカですよ。自分を1番支えて大事に思ってくれてる人を捨てて……あっけなく出ていくんですから。僕は……絶対に大切な人を傷つけたくないです。あっ
実は、最近、母が階段から足を踏み外してしまって……」「えっ!!お母さん、大丈夫なの?」「はい。でも、その時は本当にびっくりしました。大きな物音がして、慌てて見にいったら母が倒れてて。すぐに階段から落ちたってわかったんですけど、僕、心臓が止まるかと思いました」「それはもちろん心配するよ」「……はい。歩けない状態だったし、頭を打ったみたいだったから救急車を呼んで松下総合病院に運んでもらったんです。頭のCTは異常なくて、でも怪我して血が出てたから、白川先生が急いで処置してくれました」「白川先生が……」「はい。すごく丁寧に対応してくれて、色々検査もしましたが、特に骨にも異常なくて……本当に安心しました。母は、みんなに心配かけちゃうなんて看護師として失格ね……って笑ってましたけど」「大変だったね」「母があんな風に倒れている姿を思い出すと背筋が凍るんです。もしあの時僕が家にいなかったら母はどうなっていたんだろうって」「うん……」「母は、今まで僕を1人で育ててくれた大切な人です。本当に大変な苦労があったと思うんです。だから、僕が看護師として早く一人前になって、もっと生活を楽にしてあげたい、安心させてやりたいってすごく思います。これからもずっと母を大事にして恩返しがしたいです。もちろん、今はまだまだ半人前にも届かないですけどね」初めて聞いたけれど、歩夢君はこんなにもお母さんのことを大切に思っている。色々つらいことがあったからこそ、歩夢君はもう二度とお母さんを悲しませたくないのだろう。なんだか泣けてくる……「不思議……です」「えっ?」「母がシングルマザーだってこと、今まで誰にも話したことなかったんです。なのに藍花さんには何でも話せてしまうっていうか……話したくなります」歩夢君……「私なんかに話して良かったのかな……。でも私、話を聞いて、歩夢君の真っ直ぐで優しい気持ちは、必ずお母さんに伝わってるって、すごく思ったよ。本当に素敵な親子の絆だよね」歩夢君は、私に向かってニコッと微笑んだ。その顔がとても可愛らしくて、少しだけ「キュン」となった。
「あの……良かったらまた話を聞いてもらえませんか?藍花さんにもっと悩みを相談させて下さい。先輩としてのアドバイスが欲しいです」どうしてこんな未熟な私に?他にも立派な先輩がたくさんいるのに……「仕事のアドバイスなんて大袈裟なことはできないよ。キチンとしたアドバイスなら中川師長や他の先輩達にも聞いてね。だけど、もちろん、お互いに励まし合おうね」「はい、ありがとうございます。僕、藍花さんには仕事以外のことも相談したいんです。だから……」私を見つめながらそう言いかけた時、男性看護師が歩夢君を呼んだ。「あっ、藍花さん、すみません。僕、もう行きます。いろいろ聞いてくれてありがとうございました」「ううん、頑張ってね」「はい!」歩夢君は私に頭を下げてから、走って病棟に戻った。何か言いたかったのか……もしかしたら歩夢君には、悩みがあるのかも知れない。伯母さんである中川師長やお母さんには言えないような悩みなのだろうか?歩夢君の「患者さんに心から寄り添える看護師」という言葉、すごく印象的だった。心から寄り添うことは、簡単なようで難しい。それでも、新人1年目の彼には、もうそれができてるような気がする。私は白川先生に注意されてばかりなのに、歩夢君はいつだって優しい笑顔で患者さんを癒してる。すごいよ――先輩としてはとても情けないけれど、看護師として良いところはきちんと見習いたいと思った。「うん、私も……頑張ろう」自分に気合いを入れながら、私はその場所から1歩踏み出した。
「蓮見さん、ちょっといいですか?」「あっ、うん」ナースステーションに戻る手前で春香さんに声をかけられた。「さっき何を話してたんですか?」「えっ?何って……歩夢君とってこと?」「そうです。来栖さんと蓮見さん、ニコニコ笑いながら楽しそうにしてましたよね?」春香さんは、まるで私達を見ていたかのような質問をした。「別にたいしたことは話してないよ。仕事のこととか……」歩夢君のプライベートなことを絶対に言うわけにはいかない。「蓮見さんって………」「え?」「男性には誰にでもニコニコしてますけど、彼氏いるんですか?」とてもトゲのある言い方に驚いた。「誰にでもって……私は男性だからニコニコしてるわけじゃないよ」病院にいると、白川先生の前ではニコニコなどできないから。「蓮見さんに前から聞きたかったんです。蓮見さん、来栖さんのことが好きなんですか?」「えっ!?」あまりの質問に、思わず声を上げてしまった。「ちょっと!静かにして下さい!周りに迷惑ですよ」「えっ、あ、すみません」なぜ私が謝っているのだろうか?春香さんが驚かせるからような質問をするからなのに……と、つい心の中で思ってしまう。「来栖さんが好きなんですか?2人でいつも楽しそうに話してますよね?それって、蓮見さんは来栖さんを好きだからですか?」冷静な顔をして詰め寄られ、その迫力に後ずさりした。「ねぇ、ちょっと待って。私、歩夢君のことは、男性として好きとかじゃなくて……その……人として好きなんだよ。もちろん、歩夢君だけじゃなくて、ナースステーションの看護師は、男性も女性もみんなに対してそう思ってる。同じ仕事をする仲間として、いつも仲良くしたいって思ってるよ。そういう意味ではみんなのことが好きだよ」「何だか『良い子ちゃん』ですよね。蓮見さん、好感度上げようとしますよね、いっつも」「えっ?そんなこと……」「すごく鼻につきますよ。そういうところ」「……」春香さんの冷たい言葉に胸が痛くなる。「本当に来栖さんのこと、男性として見てないんですね?」「え……ど、どうしたの?何だか春香さんおかしいよ」「私、来栖 歩夢さんのことが好きなんです。もちろん男性として」突然のカミングアウトに一瞬声が出なかった。目の前の春香さんは堂々としているのに、私の方がおどおどしている状況に戸惑う。「そ
春香さんは、とても真剣な顔で訴えた。「春香さんが歩夢君を好きで、アプローチしたり告白するのはわかるよ。すごく素敵なことだと思う。だけどね、応援って言われても……ちょっと困るかな」「どうして?来栖さんのこと、好きじゃないなら別にいいですよね?それともやっぱり彼のことが好きなんですか?」一つ一つの言葉が強引で、圧を感じる。「春香さん、お願いだからそんなに必死にならないで」「必死?私、そんな必死ですか?」「えっ……」「おかしいですか?私のことバカにしてますよね?」「だから、バカになんてしてないよ。春香さんの気持ち、バカになんかするはずないから」「私、来栖さんのことを考えたら胸が痛いです」「春香さん……」「人生で初めて人を好きになったんです。来栖さんのことを見ていて、本当に優しくて素敵で、おまけにカッコ良くて、仕事も一生懸命で。この人なら……って思いました。それなのに、来栖さんは蓮見さんを見てよく笑ってます。私にはあんまり笑ってくれないのに。そう思うと悲しくて寂しくて悔しいんです」春香さん……泣きそうになっている。周りには誰もいないけれど、もし誰かに見られたら、私が泣かせてしまったように思われるだろう。でも、春香さんは、ここまで思い詰める程に歩夢君のことが好きなんだ……私なんかにヤキモチを妬いてしまうくらいに。初めての恋に悩む気持ちは私にもよくわかる。春香さんの苦しそうな顔を見ていたら、とても切なくなってきた。「春香さん。歩夢君はね、みんなに笑顔で接してるんだよ。人を見て態度を変えるような人じゃないから。さっきだって、ちゃんと春香さんにも微笑んでたよ。一緒にペンを探してくれようとしてたし。歩夢君はいつだって誰にでも同じだから」「どうしたらいいのかわからない。私……わからないんです」目を真っ赤にして涙を堪えてる。何を言ってあげれば春香さんの気持ちがラクになるのだろうか。「あの……そんなに歩夢君のことが好きなら、勇気を出して告白してみたらどうかな?結果がどうなるかなんて考えたら不安になると思うけど、でも、上手くいけば嬉しいし、もしフラれてもまた新しい恋ができる。それとね、春香さん、もう少し笑ってみて。そしたら今以上に可愛くなるよ」私は何を偉そうにアドバイスしてるのだろう。自分だって恋愛が苦手なのに、いかにも恋愛に慣れてます……みた
「私が来栖さんに告白するなんて、そんなことできないです!私はあなたみたいに可愛くないし。来栖さんに嫌われてしまいます」春香さんは、首を何度も横に振って否定した。「そんな……。私は可愛くないよ。ただ……笑顔だけは絶やさないようにって思ってるだけ。だから、春香さんももっと笑ってみて。嫌われるとか、そんなことないよ。歩夢君は人を嫌いになったりしない。きっと優しく話を聞いてくれるはずだから。とにかく、春香さんの初恋、告白してみないと答えは出てこないと思うよ」人のことなら言えるのに……私は自分に問いかけた。あなたなら告白できるの?――って。フラれたら仕方ない、また新しい恋をすればいい……なんて、勝手なことを春香さんに言ってしまったかも知れない。本当に自分に呆れる。全く何を言ってるんだ、私は――「告白なんかできません!来栖さんにフラれるとか……絶対に嫌です。すごく怖いです。私、本当に来栖さんが好きですから。ものすごく好きですから」「春香さん……」「とにかく私は、あなたと来栖さんが話してるのを見るのは嫌なんです。嫌で嫌で仕方がないです。あなたが来栖さんに媚びを売っているの、もう見たくない」「だから春香さん、私は歩夢君に媚びてなんかいないよ。見たくないって言われても……」「あなたに私の気持ちなんかわからない!わかってたまるもんですか!」春香さんは、捨て台詞を残し、さっさとナースステーションに入っていった。
その姿が無くなっても、私の頭の中は春香さんのことでいっぱいだった。春香さん、いったいどうしたのだろう?普段の冷静沈着な春香さんとは別人みたいだった。とても感情的で威圧感もあって……人は本気の恋をするとこんなにも変わってしまうのか?誰かを好きになればなるほど、すごく嬉しい気持ちと、どうしようもない不安とが入り交じって、いつもみたいに冷静でいられなくなるのかも知れない。私も、もしかしたら、そうなってしまうか?そもそも誰かを強く想える日が、私には来るのだろうか?感情がコントロールできないほど、深く誰かを好きになったことがないから、歩夢君のことをそこまで本気で好きになれる春香さんがちょっとうらやましく思えた。春香さん……私と歩夢君が何でもないってことを納得してくれただろうか?この先、春香さんが歩夢君に対する想いをどうするのかわからないけれど、でも、私には2人をどうやって応援すればいいのかわからない。色々と偉そうに言ったクセに、まだまだ恋愛経験が無さ過ぎて、本当に情けない。恋愛の達人「月那先生」ならもっと良いアドバイスをくれるはずなのに……できることなら今すぐ会ってこの気持ちを聞いてもらいたい。そう、心から願ってしまった。
春香さんとのことがあってモヤモヤしながらも、私はプライベートなことはなるべく考えないようにして夜を迎えた。「前田さん、ご気分はいかがですか?」「ありがとうございます。大丈夫です。今日は孫が来てくれましたから」「そうでしたね。お孫さんの顔みたら元気になりますよね。良かったですね」「ええ、本当に。小さな天使の笑顔は良いものですね。蓮見さんは?ご結婚はされてるんですか?」前田さんは優しく微笑んだ。患者さんの体調が落ち着いてることがすごく嬉しい。「残念ながらまだですよ。恋愛より今は仕事を頑張らないとって思ってます」「あら、そんなこと言ってたらダメですよ。蓮見さんは本当に良い看護師さんですし、そんなに魅力がある方なのにもったいないです。お若くて可愛らしくて、うらやましいわ」思いがけず前田さんに褒められて照れてしまった。普段からあまり口数が多い人ではないので、わざわざ口に出してくれたことが余計に嬉しかった。「ありがとうございます。お世辞でも嬉しいです。いい相手が現れるのをゆっくり待ちますね」笑顔でそう言ったけれど、このままゆっくり待っていて、本当に良い相手になど出会えるのだろうか。もし出会えなかったら――このまま結婚せずに働き続けるのかも知れない。それならそれも……幸せだとは思うけれど。でも最近、先生達や歩夢君と話して、何だか変な感情が芽生えてしまったのも確かで……仕事や家事に追われているだけの毎日に、ほんの少しだけ、緊張するような、嬉しいような、恥ずかしいような……ドキドキする時間がプラスされた気がする。何気ない日常に彩りが増えたような。確かに私の場合は、春香さんが歩夢君を想うような感情とはまた違うような気がしている。今はただ、頭の中に色んなものがごちゃごちゃになっていて、整理できないまま足早に流れる時間に身を任せている自分がいた。
「嘘っ!またオーナーに怒られたの?」「うん。今月の売り上げがイマイチだったから……。思うようにはいかない」マンションの小さな部屋で、食事中に缶のビールを握りしめ落ち込む太一。「し、仕方ないよ。きっと来月はもうちょっと頑張れるよ。まあ、また気合入れていこー」満面の笑顔でそう言ったものの、実際、経営はかなり苦しかった。実は最近、すぐ近くに同じような店ができ、うちより規模も大きいし、オシャレで、かなりの人気になっている。そのことは、間違いなく売り上げが下がった原因の1つだ。でも……それでも頑張るしかない。弱音を吐いても何も変わらないから。「そうだな。月那のウエディングドレス姿見たいし、新婚旅行にも連れていきたいし」それが、太一の口癖。「それは別にいいって。気にしなくて大丈夫だから。とにかく、心も体も元気じゃないと何も前に進まないんだから、笑顔で乗り切ろうよ。太一はお客さんからの評判いいんだし、頑張ってたら、必ずまたこっちにお客さんが戻ってきてくれるから。絶対大丈夫!」太一と私のマッサージの腕は誰にも負けることはない、それだけは絶対に自信があった。「ありがとうな、月那。俺は、お前がいるから頑張れる。本当に……感謝してる」一瞬で顔が真っ赤になる。私は慌ててビールを喉の奥に流し込んだ。「あ~ちょっと酔っ払ったかも~。そうだ、ベランダ行こっ。太一も一緒に出よう。さっ」私は、太一を無理やり外に連れ出した。「うわぁ、いいね~。気持ちいい風だな、最高~」「ほんとに秋の風って最高~」こうして隣に太一がいてくれる安心感は半端ない。「月……めっちゃ綺麗だ」 「そうだね。いつか連れてってくれるんでしょ、あそこに」私は、腕を空に伸ばして指をさした。「ああ。任せとけ!絶対、行くから。2人であの月に!」そう言って、太一は私のことを抱きしめた。「ちょっと痛いよ、太一。もう、こんなムキムキの立派な腕をしてるんだから、めそめそしてちゃダメだよ。元気出しな。笑おうよ」私も、太一の腰に両腕を回した。このでっかい感じ、これが好き。「ガッハッハッ。これでいいか?」「バカじゃないの?本当に太一はお調子者なんだから」まだ抱き合ったまま、今日は離さないんだね。ちょっと照れる。「なあ、月那」「ん?」「俺、お前と結婚して良かったよ。本当に……大正解。これ
「今度はどんな映画を見に行く?」「あっ、そうね。恋愛……ううん、ホラーとか、楽しいかも」「ホラー映画は得意じゃないよ」「そう?結構好きなんだけど、私は」何気ない朝のやり取り。仕事が休みの日はなるべく妻と一緒にゆっくり過ごすことにしている。子どもがいない僕らにとって、2人で何をするかを考えるのは幸せな時間だった。その気持ちに嘘はない。「恋愛映画なんてずいぶん観てないな。何か良いのあるかな?」「恋愛映画は……何だか観ていて苦しくなりそうだから」「えっ?」「あなたは……きっとヒロインを誰かに重ねてしまうでしょうから」「な、何を言ってる?」「ヒーローは……あなたかしら。残念ながら、その相手は……私じゃない」「突然どうしたんだ?いつもの君らしくないよ」こんな妻を見るのは初めてだった。心臓がバクバクと音を立てる。「私、もう……限界かも。できることならずっとずっとあなたと一緒にいたかった。死ぬまで寄り添えたら、どんなに幸せだろうって……。でも、やっぱり……何だか毎日苦しいの」「……」「あなたは優し過ぎる。毎日毎日、慶吾さんに優しくされて、私……」「どうしてそんなことを言うんだ?君は毎日頑張ってる。家事を完璧にして、僕の帰りを待ってくれて。そんな君に優しくするのは当たり前のことだよ」そう、君は頑張ってる。全て完璧というほどに。「ただ優しいだけじゃ、私は嫌だよ。最初は、側にいてくれればそれでいいって思ってた。それは本当。でも、あなたの中にはいつも他の誰かがいて……」「……そんなことは」「無いって言えるの?私はどんどんあなたを好きになるのに、あなたは……ますます違う方を見てる。私じゃない誰かの方を。もう……耐えられないの」泣き崩れる君に、僕は何も言えなかった。結婚の意味なんて、今でも僕にはわからない。それでもこの人と、一生、2人で生きてゆく覚悟はしていたのに。なのに、いつだって彼女の笑顔が浮かんでくる。自分は異常なのか?と悩みもした。でも、結婚してさらに、こんなにも藍花ちゃんを想っている自分に気付かされた気がして……「ごめん。本当に……ごめん」僕は、最低だ。目の前で号泣するこの人の背中に手を置く。すごく震えていて、泣き声が切なくて……僕の心臓はとても痛くなった。いや、この痛みなど、この人に比べれば……この人は
私は今、すごく幸せ――だったら、それでいいのかな?都合良すぎる考え方かも知れないけれど……だけど、月那が言ってくれた言葉だから、私はそれを信じようと思った。七海先生も歩夢君も……絶対「幸せ」でいてほしい。お願いだから、悲しい思いをしないで……心からそう祈るばかりだ。「私の話ばかりでごめんね。月那は太一さんとの新婚生活はどう?楽しんでる?」「う~ん、まあまあだね。仕事も家でも一緒だし、ちょっと飽きてきたかな」また大声で笑う。大きな口を開けていても、美しい人は美しい。「さっき世界一幸せな夫婦って言ってたよね?」「そんなとこ言ったかな?まあ……ね、もちろん楽しくやってるよ。いろいろあるけど、私、太一がいないとダメみたいだしさ。あんなに筋肉バカなのに、嘘みたいに優しい人だし。ちょっと頼りないとこあるけど、私にとっては最高の夫かなって思うよ」「そっか……素敵だね」月那もすごく幸せなんだ。その言葉がとても胸に響いて嬉しくなる。「素敵……かな?」「うん!最高の旦那様だって、素直に太一さんにもそう言ってあげてね」「い、嫌だよ。そんなこと言ったら負けだし」「負けって……。月那、私には素直にって言っておいてズルくない?」「ズルくないズルくない。私はいいの~」自由な月那に苦笑いした。そんな風に、お互いの新婚生活や仕事、子育てのことをしばらく語り合う2人だけの時間は、あっという間に過ぎていった。もっとずっと話していたいけれど、今日はここでおしまい。「今日の晩御飯は何?」「太一が好きだから今日は豆腐ハンバーグ。子どもみたいだからね、あの人。何個も食べるからミンチの大量買いしなきゃいけない」「いいな~美味しそう!豆腐ハンバーグはヘルシーだしいいよね。うちはカレーにする」初めて蒼真さんに作った料理。いつ食べても毎回褒めてくれる「カレーならそっちも子どもだよ」「確かにそうだね」「男はお子さま料理が好きだよね。煮物とか食べないんだから」「煮物美味しいのにね」「まあ、鍛えてるから食事はちょっと大変だけど、喜んで食べてる姿見たら嬉しくなるからね。頑張って作ろうって思えるよね」「本当にそう。美味しそうに食べてくれるのが1番嬉しいよ」女子トークは結局、ドアを閉める瞬間まで続いた。「必ずまた女子会しよう」と約束して、手を振りながら、月
「そっか……。奥さん、毎日側にいてわかったんじゃないかな。七海先生の中には他の誰かがいて、自分を見てないって。最初からわかってたつもりだったけど、実際に側にいると余計につらいと思うからさ」「……」その言葉について、私は何も言えなかった。「大好きな七海先生と別れるのは寂しかったかも知れないけどさ。その分、藍花が幸せにならなきゃダメだよ。奥さんだって、七海先生より良い人に必ずいつか巡り会えるんだから。そのための離婚だよ。絶対に」「月那……」その言葉にほんの少し救われる。七海先生が私のことをずっと想ってくれているなんて、自惚れたくはないけれど、奥さんの、好きな人と別れる決断は、ものすごくつらかっただろうと、今の私には痛いほどわかる。結婚して蒼真さんの側にいて……私はどんどん彼を好きになっていくから。「七海先生はさ、たぶん1人で大丈夫だよ。あの人、結局誰と結婚しても一生藍花を想い続けるから。それが七海先生の幸せなんじゃない?」「そんな……。私、どうしたらいいかわからないよ」「出たね、藍花の迷い癖」「えっ?」「いいんだよ、どうもしなくて。本当にほおっておきなよ。好きにさせてあげたらいいんだよ」「でも……」「でもじゃない。七海先生にとってはそれが1番の幸せなんだって。藍花は気にせずに自分の幸せだけを考えたらいいの。でないと白川先生に悪いよ」「……うん。わかった……」「素直でよろしい!いい子だね、よしよし」月那は私の頭を優しく撫でた。その仕草に少し照れる。「とにかくさ。七海先生と歩夢君はそれぞれに幸せなんだからね。自分のせいだとか考えちゃダメだからね。藍花が幸せになることが、2人にとって何よりも嬉しいことなんだからね」
「うん、今、すごく頑張ってるんだって。蒼真さんが歩夢君をとても可愛がってるみたいで、人一倍動けるし、患者さんからの人気もあるって言ってた」「そうなんだ。歩夢君、やるね~。本当に真面目ないい子なんだね。見た目も可愛くてイケてるしさ。キュートな眼鏡男子って感じで」「うん、そうだよね。本当にみんな癒されてた。歩夢君がいてくれたら職場が安定するというか……」「安定剤だね」「確かに。歩夢君、前にお母さんのために早く1人前になりたいって言ってたけど、十分過ぎるくらい頑張ってる。体を壊さないかって蒼真さんも心配してた。まあ、中川師長がすぐ側にいるから大丈夫と思うけど。ほんと、新人なのに私の何倍も偉いよ。私は……さっさと辞めちゃったしね」歩夢君の頑張っている話を聞くとすごく嬉しくなる。でも、バリバリ仕事ができることが、少しうらやましくも思える。私も、歩夢君みたいに看護師という仕事が好きだから……「藍花が辞めたのは妊娠したからだし、またいつか復帰するって思ってるんだからさ。何も卑屈になる必要はないよ。それまでは白川先生と蒼太君のために「奥さん」と「お母さん」を頑張りな」「うん、そうだね」「そうだよ、藍花は本当に幸せ者なんだからさ」「ありがとう、月那。今は家族のことだけ考えて、いつかまた看護師に復帰できたら、その時はしっかり頑張るね。蒼真さんと同じ病院は無理かも知れないけど、ここの近くにも病院はたくさんあるからね」「うんうん、頑張れ!応援してる」「……ありがとう。すごく心強いよ」「あっ、そうだ。あともう1人のイケメンは?」「……七海先生?」月那がうんうんとうなづく。「蒼真さんにはたまに連絡があるみたいだよ。あれからお見合い相手の人と結婚したんだって。でも……」「ん?」「……七海先生、フラれたみたいで……」「嘘!あの超イケメンが!?」「そうみたいなんだ。残念だけど……」「えっ、七海先生、結婚したお見合い相手にフラれたの?」「……うん」蒼真さんから聞いた時はすごく驚いた。せっかく新しい1歩を踏み出したのに……「でも何で?あんな超イケメンをフルなんて度胸あるよね」「別れた原因はわからないんだって。フラれたとだけ聞いたって。今は1人で、もう一生結婚はしないって言ってるみたい。お父様の病院で産婦人科医として仕事に生きるって……」
私は病院から少しだけ離れたところに新居を建ててもらい、月那はマッサージ店の近くのマンションを買った。常にいつでも会える距離……ではないけれど、大好きな月那とはたまにはこうして会いたい。月那のアドバイスはやはり直接聞きたいし、そばにいてくれるだけでかなり安心できる存在だから。「ねえ、あれからみんなどうしてるの?病院行ってもなかなか情報聞き出せないしさ」「月那、スパイじゃないんだから」「似たようなもんよ。客商売、情報が全てでしょ」「ダメだよ、病院の内部事情をお客さんに話したら」「当たり前だよ。言っちゃダメなことは言わないようにしてる。それくらい心得てるから大丈夫……たぶんね」「たぶんって、本当にダメだって~」「大丈夫、大丈夫、ちゃんとわかってますよ。だけど、白川先生と藍花のことは当然みんな知ってるよ。患者さん達も喜んでたし。あの子なら仕方ないって、白川先生のファンのおば様達が言ってたから」「そ、そうなんだ……」蒼真さんのファンって……まるでアイドルみたいな扱いだ。「それでもさ。未だに病院じゃ、みんな白川先生のことをハートマークのついたキラキラした瞳で見つめてるから気をつけた方がいいよ~」そう言って、月那は意地悪そうに微笑んだ。「うん。そうだね。でも、病院じゃなくても蒼真さんといるとみんなそんな目で見てるから。本当にどこにいても注目の的で……」あのルックスでは絶対に目立ってしまうから仕方がない。ただでさえそうなのに、最近はますます男性としての魅力に磨きがかかっている。やはり蒼真さんは無敵だ。「うらやましいよね、本当。だってさ、太一といても誰も振り向かないから」月那が大きな声で笑う。だけど……みんなは月那のことを見ているんだ。太一さんには申し訳ないけれど、2人は美女と野獣というか……月那みたいなすごい美人はなかなかいないし、どうしても目を引いてしまう。私達とは逆――視線は全て蒼真さんに向いているから。「ねぇ、それよりさ。歩夢君はどうしてるの?元気なの?」突然、月那が話題を変えた。
それでも「疲れているだろう」と、蒼真さんは私を気遣ってくれる。診察、回診、手術……きっと自分の方が何倍も疲れているはずなのに……その、人を思いやる優しさに、私は心から感謝の気持ちでいっぱいになっていた。***それから1年――1歳になった蒼太に会いに、久しぶりに月那が遊びにきてくれた。月那は今は仕事に大忙しで、旦那様ともラブラブだった。「本当に幸せだよね、藍花。こんな立派な新居を建ててもらって、こんな可愛い蒼太君がいてさ」蒼太を見て微笑む月那は相変わらず美人だ。こんな美しい女性が私の友達だなんて、かなりの自慢になる。「うん、幸せだよ。みんなに感謝しかないよ。月那にはずっと相談に乗ってもらって、本当に感謝してる。いろんなことが月那の言う通りになっていくのがすごく驚いたよ」「当たり前だよ。月那様には全てお見通しだったからね。あの時の藍花はすごく迷ってた。3人のイケメンの間で揺れてたよね」「そう……だったね。あの時の自分は何もわからなくて本当に困ってた。ただ頭を抱えているだけで、前に進むことができなかったから」「まあ、仕方ないけどさ。あんなイケメン達に告白されたら、人間誰だってちょっとしたパニックになるよ。きっと世界が違って見えるんだろうな。その世界が見れた藍花は本当に幸せ者だよ」「世界が違って見えたかどうかはわからないけど……でも、もし月那がいなかったら、私は素直になれてなかったかも知れない。今でもまだ、月那がいう『違う世界』で迷子になってたかも……」本当にそうだ。恋愛マスターの月那がいたから、私は今の幸せを掴めたんだ。月那には、感謝してもし足りない。「ううん、藍花の中ではさ、本当は決まってたんだよ。3人の中で白川先生が1番好きだって。だから……白川先生と上手くいった……」「……そ、そうなの?」「うん。でも、藍花は優しいからさ。みんなに対していろいろ考えてたら何が何だかわからなくなってたんだよ。七海先生も、歩夢君も、みんなを大切に考えて……。私、見てて可哀想なくらいだったから。でもいろいろあった結果、藍花は世界で2番目に幸せになれたんだから、良かったんだよ」ニコッと笑う月那。「世界で1番幸せなのは……月那、だね」「もちろん、その通り。なかなかやるね」2人の笑い声、久しぶりの楽しい時間が嬉しかった。
陣痛も短く、驚く程に安産で、スっと出てきてくれた赤ちゃんに感謝した。この世に生を受け、一生懸命生まれて来てくれた我が子がどうしようもなく愛おしくて、涙が止まらなかった。蒼真さんもパパになることを楽しみにしてたから、小さなその体を初めて腕に抱いた瞬間、大粒の涙をこぼしていた。その顔を見て、私もまた泣いた。あの白川先生が涙を流すなんて……という感じもあったのか、周りにいた女医さんや看護師さんまでみんなもらい泣きしていた。赤ちゃんの泣き声と共に、分娩室は感動の連鎖で温かな空気に包まれた。入院中は代わる代わる中川師長や歩夢君、他の看護師達も部屋に寄ってくれて、赤ちゃんを抱っこして喜んでくれた。中川師長は「孫ができたみたい!」と言ってくれ、歩夢君は毎日「可愛い可愛い」と言って部屋に来てくれた。私への気持ちなんか決して口にせず、私と赤ちゃんを優しく見守ってくれている感じがしてすごく有難かった。赤ちゃんの名前は、しばらくして蒼真さんが決めてくれた。「蒼太(そうた)」元気な男の子にピッタリの名前だと思った。私が絶対に「蒼」という漢字を入れてほしいと頼んだこともあって、ずいぶん悩んでいたけれど、ようやく蒼太に決めたようだった。気づけば、蒼真さんと急接近して、付き合って、赤ちゃんまで授かって、そして結婚まで……こんな人生、私には予想もできなかった。あまりにも嘘みたいな展開に自分でも驚いている。とんでもないシンデレラストーリーに、私はまだ半分夢見心地だ。だけど、いつまでもフラフラしていてはいけない。本格的に子育てが始まったのだから、ママになった自覚はキチンと持たなければ。慣れない家事をしながらの育児に、最初は戸惑いはあったけれど、それでも毎日私なりに一生懸命頑張った。夜泣きしたり、ミルクを飲まなかったり、眠れない日々が続いても、やっぱり我が子はとてつもなく可愛くて、愛おしかった。子どもの笑顔には、疲れを吹き飛ばす偉大な力があるということを、ヒシヒシと実感していた。
まだ少し肌寒く感じる4月初旬。つわりも早めに落ち着いてホッとしていた。「藍花、大丈夫?寒くないか?」「大丈夫です、蒼真さん。ありがとうございます」「体、絶対冷やさないように」「はい」「10月には俺達の赤ちゃんがこの世に誕生するんだな……すごく不思議な気持ちだ」私のお腹をゆっくりとさすりながら蒼真さんが言った。「本当に信じられないです。私がママになるなんて」「俺もパパになるんだな。今から楽しみで仕方ないよ」「蒼真さんがパパで、この子は本当に幸せです。こんな素敵な人がパパで、赤ちゃんびっくりすると思いますよ」「そうだといいけどな。いつまでも素敵なパパでいられるようにしないとな」「蒼真さんならいつまでも若々しくてカッコ良くて、最高の自慢のパパになりますよ」「だったら藍花は自慢のママだな。誰よりも綺麗で、可愛くて、キラキラ輝いて……。この子のママは世界一素敵なママだ」「は、恥ずかしいです」「恥ずかしくないだろ?本当のことなんだから」何気ない日常のやり取り、私は、いろんなことに幸せを感じながら、明日、蒼真さんと婚姻届を出す。前々から蒼真さんの4月の誕生日に出すことを決めていた。妊娠中ということもあり、2人で真剣に話し合った結果、式は挙げないことにして、ドレスとタキシードで写真撮影をすることになった。数日前にカメラマンさんが撮ってくれた写真の中の私達は、2人とも笑顔だった。それを見ていたら、少しずつではあるけれど、本当に夫婦になったんだと実感した。白いタキシード姿の蒼真さんは、世界中の誰よりもカッコ良くて、この人を他の誰にも渡したくないと思った。永遠に私の側にいて、私のことだけを見ていてほしいと心の底から願った。蒼真さんは私の平凡な人生をバラ色に染めて、180度変えてくれた。これからは……「白川先生」と「新人看護師」という関係ではなく「夫婦」として長い道のりを一緒に歩むんだ。***そして、10月――木々の葉っぱが赤や黄色に美しく色づいた秋晴れの日に、私達の待望の赤ちゃんが誕生した。産声をあげたのは元気な男の子。七海先生の紹介で入った女医さんが、赤ちゃんを取り上げてくれた。さすが七海先生の肝いりの先生だけあって、腕も確かで出産時の声掛けも素晴らしかった。女医さんや蒼真さん、周りのみんなのおかげで、私は安心して出産す