リシュティナはヴィクタールの髪を茶色に染め、前髪を目の下まで垂らすと、二人は町に出掛けた。 道中、ヴィクタールはリシュティナの左側をピッタリとくっついて歩くので、「ヴィル、近いよ……?」 と、そっと指摘すると、ヴィクタールは首を横に振り反論した。「お前、左目見えてねぇから何かあったらぶつかるだろ。障害物から守ってんだよ、悪ぃか」「え、う……ううん、全然悪くないよ。嬉しいよ……ありがとう」「ん」 だからと言って近過ぎる気が……と思ったけれど、ヴィクタールの気持ちが嬉しいし、何だか機嫌が良い感じなので、それは黙っておく事にした。 衣料品店でヴィクタールの替えの服を何着か買い、そこで購入したものに着替える。 彼の着ていた服は、貴族以上の者が着る高級な服なので、どうしても目立ってしまうからだ。 その後雑貨屋に行って、幾つかの野菜や果物の種を購入し、馴染みの食料品店で、晩ご飯の品目を話し合って決めながら買い出しをした。「おや、リシュティナちゃん。見掛けない人と一緒にいるね? どなただい?」 会計をしている時、食料品店の店主である老婦人がニコニコとしながら声を掛けてきた。「こんにちは、店主さん。紹介が遅れてごめんなさい。彼、私の兄なんです。出稼ぎに行ってたんだけど、母が亡くなった事を心配して帰ってきてくれたの」 掠れた声で、リシュティナが店主に説明をする。 ヴィクタールは無言で店主に頭を下げた。「おやまぁ、そうかいそうかい。確かに髪の色も同じだし、前髪が長くて目が見えないのもソックリだわ、アハハッ。良かったねぇ、リシュティナちゃん。お兄さんが帰ってきてくれて」「はい、男手があると色々助かります」「そうだろそうだろ、仲良くおやりよ」「はい、ありがとうございます」 和やかに会計を済ませ、二人は帰路に就く。 歩いている間、ヴィクタールが気が抜けたようにボーッとしている事に、リシュティナは小首を傾げた。「どうしたの、ヴィル。疲れちゃった?」「……リィナ」「うん、何?」「オレ……楽しい」「え?」「町を回って買い物してさ、今日の晩ご飯何がいいかってアレコレ考えてさ、町人と他愛もない雑談してさ……。どれも王城の中じゃ絶対に経験出来ない事ばかりだ。オレ、ずっと公務ばっかやってたから……。だからさ、オレ……今、すっげぇ嬉しいし、楽しいんだ
「ヴィル、ベッドで寝ていいよ? 私、昨日と同じソファで眠るから」「なっ……バカ言うな! そこじゃ寝た気がしないだろうが! お前がベッドを使えよ、オレがソファで眠るから」「ヴィルの身体の大きさじゃソファに入り切らないよ……」 二人の押し問答がさっきから続いている。 平行線な言い合いに辟易したのか、レヴァイがポンッと煙を出しながら姿を現した。「やれやれ……もう埒が明かないですから、一緒のベッドで眠ったらどうです? 以前はリシュティナと母君が一緒に寝ていたでしょう? 二人が寝られる広さがあるじゃないですか」「「えっ」」 ヴィクタールとリシュティナが同時に声を上げ、顔を見合わせる。 そして、どちらともなく顔を赤くした。「いやいやっ、そ……それは流石にマズイだろっ!?」「何がマズイんですか? ただ眠るだけでしょう? それのどこかマズイと?」「うっ……」 レヴァイの正論に返す言葉を失ったヴィクタールは、助けを求めるように再びリシュティナを見た。 彼女は真面目な表情で顎に手を当て考えていたが、やがて小さく頷いた。「……そうだね。このままだと譲り合いの言い合いで夜が明けそうだし、一緒に寝ようか」「はっ!? お、おい――」「背中合わせで眠れば大丈夫だよ。ね? 昨晩はちょっと気が立ってたんだよね? 私はヴィルを信じるよ」「うっ……。――き、昨日はホント悪かった……」「ううん、大丈夫」 ニコリと笑うリシュティナにこれ以上言える言葉も無く、ヴィクタールは複雑な気持ちで了承したのだった。「やれやれ、これでようやく静かに眠れますよ」 欠伸をしながら消えていったレヴァイを見送ると、二人は無言でベッドに入り、背中合わせになる。 二人が寝られる広さと言っても、それはリシュティナと彼女の母が寝ていた場合だ。 ヴィクタールは成人男性で、彼女の母より断然体格が良いので、どちらかが身動ぎすると、互いの背中が触れ合ってしまう。 その度に、二人は胸を高鳴らせてしまうのであった。「……あ――あのさっ!」「え、な……何?」 突然ヴィクタールから上擦った声を掛けられ、リシュティナはビクリとしながらも答える。「唄を――唄をさ、歌ってくれないか? 昨日みたいに……」「唄を?」「あぁ。お前の声、すごく心地良いからさ……。すぐ眠れると思って。きっと“魅了”に掛かる
「いや待て待てっ、ものすっごく早くねぇかっ!? 昨日の夕方種を植えたばっかだぞっ!? 明らかにおかしくね!?」「は、早過ぎだよね……?」「いやいやっ、早過ぎってモンじゃねぇぞこの育ち方はっ!?」「だ、だね……?」 呆然唖然としながら、二人は青々とした葉が生い茂る畑をただ眺めていると、ポンッとレヴァイが姿を現した。「これは土の精霊の仕業ですよ、お二人さん」「「え? 土の精霊……?」」「えぇ、彼がアナタにどうしても伝えて欲しいとの事で、ワタクシがわざわざ言いに参りましたよ」「へ、オレに……?」「はい、では言いますよ。『いつも召喚の呼び掛けに応えられなくてごめんなさい。皆、アナタの事は好きだけど、その内に秘める強大な魔力が恐ろしくて誰も近寄れなかったんです。せめてものお詫びに、水の精霊サンと協力して植物を最適な状態まで成長させておきました。これはお詫びなので交換のモノは必要ありません』……との事です」 それを聞き、ヴィクタールとリシュティナは顔を見合わせる。「強大な魔力……? オレ、そんなの持ってねぇぞ。昔『魔力測定器』で測ったけど、人並の魔力だって――」「どうやらアナタの何処かに、その強大な魔力が封印されているようなんですねぇ。誰が封印したのかは知りませんが。まぁそれを解き放つと、膨大な魔力に身体が耐え切れずバラバラになって吹き飛ぶ可能性がありますから、封印は妥当な判断ですよ」「ば、バラバラ……」 それを想像してしまったのか、ヴィクタールの顔が一気に青褪める。「そ、その封印って、突然解かれたりしないよな……?」「今の所厳重に封印されているみたいですから大丈夫じゃないですか? まぁ、ワタクシはアナタがボカンと吹っ飛ぶ瞬間、切に見たいですけどねぇ」 「クヒヒッ」と半月の目をしながらレヴァイは意地悪く笑うと、再びポンッと音を出して消えていった。「あ、あのやろ……っ」「……きっと……その封印した人は、ヴィルをすごく大切に想ってくれてた人だと思うよ。強過ぎる力は“災い”でしかないから……」「……オレを大切に想う……」(昔……自分を大切に想ってくれた人は、たった“一人”しかいない……) ヴィクタールは瞳を閉じ、肌身離さず首に付けている、紫色の石が付いているペンダントをギュッと握り締めた。「けど、精霊の力って本当すごいね……。暫く食材に
「あー……。今日も楽しい一日だったな」「ふふっ。そっか、良かった」 畑で採れた野菜で作った晩ご飯は、どれも美味しくて。 ヴィクタールは勿論、リシュティナもついお代わりをして食べてしまった。 今は歯磨きも終わり、ヴィクタールとリシュティナはベッドに寝転びながら雑談に花を咲かせていた。「――じゃ、そろそろ寝ようか。明日も野菜達を頑張って売ろうね。おやすみ、ヴィル」「……あぁ……」 リシュティナは微笑んで挨拶を告げると、ヴィクタールと反対の方を向く。「――あ、あのさっ」 その時、後ろからヴィクタールの上擦った声が飛んできた。 リシュティナは、(また歌って欲しいのかな?) と思いながら、「うん、何?」 と、そのままの姿勢で返事をする。「そ、その……さ。背中合わせに眠っても、今朝みたいにこっち向いてるかもしれないじゃん? 何か意味無いっつーか……。だ、だからさ、背中合わせで寝るの……止めにしないか?」「え?」「……こっち、向いて欲しいんだ……。リィナ」「……っ!」 男性特有の低く、真剣な声音に、ドキリとリシュティナの心臓が跳ねた。 リシュティナはコク、と息を呑むと、そろそろとヴィクタールの方に身体ごと向き直る。 彼は、真面目な顔つきでこちらを見つめていた。 不意にヴィクタールの手が伸ばされ、リシュティナの頬を静かに撫でる。(………っ) すぐ目の前にある美丈夫の顔に、リシュティナの胸の鼓動は早いままだ。「あの……さ、オレ……。ここに来て最初の日、すっげぇよく眠れたんだ。昨日もグッスリと安眠出来た。城ではなかなか寝付けなかったんだ。公務とか、世間の評判だとか……精神的負担もあったんだろうな。寝れないから、睡眠時間も毎日短くて。日中、いつもボンヤリしちまってた。……だからあの女がグラスに入れた睡眠薬がすぐ効いちまったんだろうけど……」 ヴィクタールは苦虫を噛み潰したような顔をしたが、またすぐに真剣な表情に戻った。「ここに来て、よく眠れるのは……さ、お前の唄のお蔭もあるけど……。お前がさ、オレの傍にいてくれるからなんだ。お前の顔を見るだけで、安心出来るっつーか……すごく落ち着くんだ。だから――」 ヴィクタールはそっと目を瞑ると、リシュティナの額に自分の額をコツンと当てた。「――ありがとな、リィナ。オレ、お前に出会えてホント良
それから平穏に二週間が過ぎた。 野菜や果物の売行きも順調で、嬉しい事に常連客も出来た。 ヴィクタールもリシュティナも物に対する欲求は無いに等しいので、暫くはお金に困る事は無さそうだ。 就寝時は、二人向かい合わせで眠る事にようやく慣れてきた。目が冴えている時はリシュティナが唄を歌ったり、小さな声で談笑していると、どちらともなく眠りについていて。 一つ変わった点と言えば、ヴィクタールがリシュティナに触れたがる事だ。 それは頬だったり、額同士だったり、手だったり。「お前に触れていると更に落ち着くんだ。それでよく眠れる。朝にスッキリ目が覚めるなんて、城に住んでた時は有り得ない事だったんだ。お前にはホントに色々感謝だな」 照れたように笑いながら言うヴィクタールに恥ずかしいから駄目だとは言えず……今夜は額同士をくっつけてきた。 これだと毎回顔がかなり近いので、リシュティナの鼓動がいつも早くなる。 明かりが窓から差し込まれる月光のみなので、周りが暗く彼の顔があまり見えないのが幸いと言うべきか。 ヴィクタールは慣れてきたのか、小さく微笑みを見せるだけで、何とも思ってないように感じた。「……リィナ」「ん、何……?」「オレはお前がすごく大切だ。ずっとお前の傍にいたいんだ。お前を大事にしたいんだ……」 最近、ヴィクタールは夜二人きりになると、こうやって告白めいた言葉を耳元で囁いてくる。 リシュティナは自分の事を好きなのかと錯覚してしまいそうになるけれど、それを毎回心の中で即座に否定していた。 だって彼は、最初に言ったから。『“好き”だの“愛してる”だの、そんな軽々しい言葉、オレはもう信じねぇ。もう沢山だ』 ――って……。 好きだった相手にこっぴどく裏切られたのだ。相手が自分に言っていたその言葉を信じられなくなるのは当然だろう。 彼は今も心の奥で傷付いたままでいるに違いない。彼の心は繊細だから。 そんな彼だから、女性を好きになるなんて、まだ怖くて出来ないだろう。 だから自分はきっと、大切な“妹”みたいに思われているんだ。 ――“異性”としてでは、絶対に無い。 それを思う度、自分の意思関係なく心がズキリと痛み、ギュッと手で胸を押さえるリシュティナなのだった。◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇ お昼前に販売していた野菜達が完売し、お昼ご飯を食べた後は、
「解雇されたキミに朗報があるんだ。ボクが夫人にキミを再雇用して貰うようにお願いするからさ。だから戻っておいでよ」「何が朗報なのか全く分かりませんし、遠慮致します」 にこやかにそう口にするロッゾに、リシュティナはハッキリと物申す。 それを聞き、ロッゾの両目が飛び出す程に大きく見開かれた。「はぁっ!? 何を馬鹿な事を! 歴代の『聖なる巫女』を生み出す、名誉あるあのリントン侯爵家でまた働ける絶好の機会なんだよ? それにキミに来て貰わないと困るんだ! キミがいなくなって、何故か掃除が滞って夫人の機嫌が悪いし、今までキミ一人が対象だったのに、キミが辞めてからシャーロットお嬢様のワガママが使用人全員に向かってきて――」 二人の会話を隠れて聞いていたヴィクタールは、耳に入ってくるロッゾの台詞に驚愕の色を示した。(はっ? リントン侯爵家だと!? シャーロットは確か、ヘビリアの妹の名前だった筈……。リィナが働いていた場所はリントン侯爵家――アイツを苛めていたのはそこの姉妹だったのか!? そうとも知らず、オレはあの女の本質を見抜けず笑顔が好ましいとか思って……! くそっ! 何て大馬鹿だったんだオレはっ!) 人生最大の汚点だと、ヴィクタールは激しい自己嫌悪に陥り、両手で頭を抱えた。 ヘビリアに一切の欲を感じなかったのは、心の奥底では彼女の本質を感じ取っていたのかもしれない――「……そうですか。貴方はまた私に、シャーロットお嬢様とヘビリアお嬢様の気分晴らしの“お人形”になれと……そう仰るのですね?」「や、そ、そういう訳じゃ……! そ――そう、キミ、ボクの事好きだろう? ならさ、ずっと一緒にいようよ。あの屋敷でさ……。ね?」(はぁっ!? この男……フザけんなよ!? リィナはオレとずっと一緒にいるんだ! テメェなんか全く呼んでねぇんだよ!) カッと頭に血が昇り、二人の間に割り込もうと一歩足を踏み出したヴィクタールだったが、続けて聞こえてきたリシュティナの掠れた声に動きを止めた。「ヘビリアお嬢様はいいんですか? 貴方が私に『付き合って欲しい』と言った翌日に、お嬢様と深い関係になっていましたが。お嬢様に、『アナタの産まれたままのお姿は女神様のよう』とか仰ってましたね」「え……う、あぁっ!? みっ、見てたのかっ!?」(――あぁ、そうか! そうなるとあの女、スタンリー
ヴィクタールは舌打ちをしながらロッゾの腕を乱暴に離すと、彼が涙目になりながら喚いた。「な、何だお前はっ!? いきなり乱暴を働くなんて野蛮な奴だなっ!」「お前の方が先にオレの妹に乱暴を働いたんじゃねぇか。コイツの手首を見てみろ。こんなに赤くなっちまって……。妹に謝って貰おうか」(……妹……) ……分かっている。最初にそういう“設定”の提案をしたのは私だ。 だから、彼が私を『妹』だと言うのは間違っていない。 けれど、彼が私の事を『妹』と言う度、胸が痛くて苦しくなる……。(あぁ……。こんな自分、本当に嫌だ――)「は? 『妹』……? リシュティナに兄がいたのか……?」「お前にオレの大事な妹は絶対にやらねぇ。聞けばお前、コイツに告白した翌日に浮気したんだろ? お前が働く屋敷の娘と。そんな軽薄男に大切な妹をやるわけねぇだろうが。二度とそのツラ見せんな。次コイツの前に姿を見せたら、問答無用で叩きのめすからな」「ヒェッ……」 ヴィクタールのドスの利いた声音と、怒り全開の気迫に、ロッゾの顔は真っ青になり、身体中に冷や汗を吹き出させながら走って逃げていった。「ちっ、クソ野郎が。――大丈夫か、リィナ? 家に帰ったら、その手首手当てしような」「……あ……。うん、ありがとう……」「……元気ないな? あの男の言った事なんて気にすんな。もしまたヤツに会っちまったら、すぐにオレんとこに逃げてこい。分かったか?」「うん……ありがとう」 無理矢理笑顔を作るリシュティナをヴィクタールは眉根を寄せて黙って見つめると、唐突に彼女の手を握った。そして、その細い指に自分の指を絡める。 温かく大きな彼の指と手に、リシュティナの胸が一気に跳ねた。「会計してすぐに帰ろうぜ。早速新しい種植えてみるか。楽しみだな?」「……うん、そうだね」 会計の時もリシュティナの手を離そうとしなかったヴィクタールに、店主から、「おやおや、仲の良い兄妹だねぇ。まるで恋人同士みたいだ」 と笑われながら冷やかしを受け、「あぁ、恋人みてぇにすっごく仲良いぜ、オレら」「おやおやまぁ、ごちそうさま。ホッホッホ」 その冗談にヴィクタールまでも乗っかったので、リシュティナの顔が瞬時に真っ赤に染まったのだった。◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇「何だよ……。リシュティナに兄がいたなんて聞いてないぞ……。アイツが
新しく耕した畑に、購入した種を植え終わった時には、もう日が暮れようとしていた。 家に入ってそれぞれシャワーを浴び、協力して晩ご飯を作り美味しく戴く。 その間、リシュティナはヴィクタールに対し平常心を心掛けた。彼もいつもと変わらない応対で、内心ホッとする。 後片付けをして歯を磨き、あっという間に就寝時間となった。(……どうしよう……) ヴィクタールへの想いを強く自覚してしまったリシュティナは、彼と至近距離で、更に向かい合わせで眠る鋼の心臓を持ち合わせていない。 そんな彼女の心など全く知る由もなく、ヴィクタールは先にベッドに入ると寝転び、リシュティナを呼んだ。「どうした? 早く来いよ、リィナ」「あ……う、うん……」 リシュティナはオドオドとベッドに入り、ヴィクタールの隣に横になると、すぐに彼と反対側を向いて布団を被った。 今の自分はこれが精一杯だ。「……リィナ、どうした? 何でこっち向いてくれないんだ?」 案の定、ヴィクタールから疑問の言葉が投げ掛けられる。「……えっと、その……。私の顔不細工だから、近くであまり見て欲しくないというか……」「はぁ? 何だよそれ? もしかして、雑貨屋で会った男に何か言われたのか? やっぱアイツ、十発ブン殴っておけば良かったぜ……。――そんなの気にすんな、リィナ。お前は可愛いよ。誰よりもすっげぇ可愛い。オレはいつでも四六時中お前の顔を見ていたい」「…………っ」(む、無自覚なのに殺し文句過ぎる……っ)「う……あ、ありがと……」「だからさ、こっち向いてくれよ。リィナ?」(貴方のその台詞の所為で、顔が異様に熱くて余計にそちらを向けません……っ)「……ご、ゴメンね……。今日はやっぱり……このまま寝るね……? お、おやすみ……」「…………」 リシュティナの一杯一杯の言葉に、背後から深く息を吐く音が聞こえた。 そして、後ろから逞しい腕が伸ばされ、リシュティナの肩と腹に回される。 そのままグイッと引き寄せられ、リシュティナはヴィクタールの腕の中に閉じ込められていた。「えっ!?」 背中に彼の温かい体温を感じ、リシュティナは身体をピシリと硬直させる。「無防備。――襲うぞ?」 ヴィクタールはリシュティナのすぐ耳元でそう“男”の声音で囁くと、突然、彼女の耳朶を甘咬みしてきた。「ひゃっ!?」 ビクリと
ヴィクタールは小さく舌打ちをすると、声を出さずにレヴァイに呼び掛けた。(おいコラ、レヴァイ。聞こえるか)『……はい? 何ですか? ワタクシはリシュティナに憑いてるんですから、本来彼女の呼び掛けにしか応えないんですよ。一度目で素直に貴方の呼び掛けに応じたワタクシに感謝して欲しいですね』(相変わらず偉そうなヤツだな……。そんな事よりもお前に頼みがある。“対価”を渡すから、オレが離れている間、リィナをどんな障害からも必ず護って欲しい。コイツに悪意を持って近付くヤツは、バレないようにブッ倒せ)『ワタクシ、力の加減が出来ないかもしれませんよ? もしかしたら相手を殺めてしまうかもしれません。それでも宜しいですか?』(別に構わねぇ。ただ、リィナに絶対容疑が掛からないようにしろ。特にこのヘビリアという女は、コイツに一歩でも近付けさせるな。少しでも何かしてきたら遠慮なく叩き潰せ)『フフッ、貴方のリシュティナ以外に容赦の無い所、ワタクシ好きですよ。“対価”は何ですか?』(オレの封印された魔力をやる。お前なら、封印されてても魔力を抜き取る事なんて簡単だろ?)『おや、それは素晴らしい“対価”ですね。確かに承りましたよ。ただ、魔力は五分の一程度で十分です。貴方の封印された魔力はそれだけ大きいですからね』(約束したからな。任せたぞ)「……分かりました。馬車に乗りましょう」「ウフフッ、ヴィクタール様ならそう仰ってくれると思ってましたぁ。あたしの事大好きですもんね?」「…………」 ヴィクタールはヘビリアに何を言っても無駄だと思ったのか、彼女に冷めた視線を向けただけで何も言わなかった。 ヴィクタールの返答を、リシュティナは呆然としながら聞いていた。(ヴィルが……ヘビリアお嬢様のもとへいっちゃう……? 私を置いて……? そんな……そんな――) 悲しみの衝撃で、リシュティナの身体が冷え、震えが止まってくれない。 そんな彼女の手を引っ張ると、ヴィクタールはその華奢な身体を強く抱きしめた。 そして、耳元に唇を寄せ小さく囁く。「悪ぃ、リィナ。町の奴らがこっちを見てるし、あの女の護衛達が武器を向けてる。逃げても執念深く追い掛けて来るだろうし、ここは一旦奴らの言う事を聞くしかない。お前の事はレヴァイに頼んだから」「……ヴィル……」「心配するな、オレは必ずお前のもとに戻
(この声は……ヘビリアお嬢様!?) リシュティナは思わずビクリと肩を揺らしてしまったが、それに気付いたヴィクタールは彼女の手を強く握り締めた。 そして、リシュティナを護るように彼女の前に立つ。 ヘビリアは、ヴィクタールがリシュティナの指に自分の指を絡ませ、騎士のように護っている姿に、唇をギュッと噛み締めた。「はぁ? 何よ、あたしの時は全く触れようとしなかったのに――」 そうボソリと呟いたが、次の瞬間には笑顔に戻っていた。「ヴィクタール様、捜していたんですよぉ。この町は港町に行く為に必ず通らなきゃいけないから、ここに来ると思って見張ってたんですぅ。あたしの推理もなかなかのものでしょぉ?」「……リントン侯爵令嬢が、私に何の御用でしょうか。私は貴女に全く何も用はありませんが」「あらぁ? 言葉遣いを戻したのですねぇ? あたしの為に戻してくれたのですかぁ? やっぱりそっちの方があたしは好きなので嬉しいですぅ」「私は王家を捨て、平民として生きる事にしました。ですので、貴族の者に敬語を使うのは至極当たり前です。決して貴女の為などと言う大層巫山戯た理由では無い事を御理解頂きたい」「なっ――」 言葉を失い、口元をひくつかせているヘビリアを、ヴィクタールは無表情の冷めた目で見る。 リシュティナは、二人の会話を聞いていて違和感を感じていた。(この二人、知り合いなの? ヘビリアお嬢様の台詞の内容がやけに――)「酷いですぅ。元婚約者のあたしにそんな事言って……。今もあたしの事大好きなくせに……。――あっ、そっか、照れ隠しですかぁ?」「……っ!?」(ヘビリアお嬢様がヴィルの元婚約者!? ――そうか……だからお嬢様はヴィルとこんな親しげに……。ヴィルは、裏切られても今もお嬢様の事を――) リシュティナの胸の中が、キュッと切なく縮まる。「……貴女を好ましいと思っていた時期は確かにありました。けれど今は全く貴女の事は眼中にありません。頭の片隅にも全く残っておりません。寧ろ貴女の本性を知った今、好ましく思っていた自分が最大の恥です。最上級の汚点です。その記憶を抹消したい程の恥辱です」「はぁっ!?」 抑揚も無く淡々と話すヴィクタールに、ヘビリアは顔を真っ赤にさせながら身体を震わせている。(そっか……ヴィル、ヘビリアお嬢様の事、何とも想ってないんだ……) ホッ
辺りも暗くなってきたので、野宿する事にした二人は、魔物の死角になりそうな場所を選び、木の枝で火を起こした。「早速精霊達のくれた種を植えてみるか。どんな風に実が成るのか気になるしな」 ヴィクタールは心做し弾んだ声でそう言うと、地面に種を一つ植えてみた。 すると、種を植えた場所から、ニュッと緑色の茎が飛び出し、すぐに美味しそうな橙色の果物の実が成った。「すっげ、種を植えたらすぐに草が生えて実が成ったぞ。精霊達のくれたモンだから、腹壊す事はねぇだろ。ほら、リィナ。先食べな」 ヴィクタールはそう言うと、リィナに摘み取った果物の実を手渡す。「ありがとう。戴きます」 リシュティナは果物を両手に持って、一口囓った。「……瑞々しい! すごく美味しいっ」「おっ、そりゃ良かった」 リシュティナが夢中になって食べているのを微笑みながら見ていたヴィクタールは、不意にフッと吹き出すと、彼女の顔に自分の顔を近付けた。「付いてる」 一言そう言うと、ヴィクタールはリシュティナの口の端に付いていた果物の欠片に指を伸ばし、それを取る。「っ?!」 固まってしまったリシュティナの隣で、ヴィクタールは指に付いた果物の欠片を口に入れ、頷いた。「ん、確かに美味いな。オレも食べるか」 機嫌良く地面に種を植え始めたヴィクタールの後ろで、リシュティナは暗闇でも分かる程に真っ赤になり、(い、今のは指! 絶対に指だから! くっ、口なんて、絶対に、ちっ、違うから!!) と、プルプル身悶えていたのだった……。******** 携帯食で晩ご飯を終え、歯を磨いて水筒で口を濯ぐ。 魔物除けは置いてあるが、万が一奴らが現れた時の為、いつでも逃げられるように二人は木の幹に寄り掛かって眠る事にした。「リィナ」 名を呼ばれたと同時に腕を引っ張られ、リシュティナはヴィクタールの胸の中に包み込まれる。 その上からふわりと毛布が掛けられた。「寒くないか?」「う……ううん、大丈夫」「ん」 ヴィクタールは小さく笑うと、リシュティナの頭を優しく撫でる。 心地良さに目を細めながら、リシュティナは徐ろに口を開いた。「……ヴィルって強いよね」「あ? 何だいきなり」「だって、昼間何回か魔物が襲ってきたでしょ? でも、私と手を離したのはほんの少しだったし。すぐにやっつけてたから」「そっか?
「今日は良い天気だ。雲一つ無いぜ。あぁ、鳥が羽ばたいてった。気持ち良さそうに飛んでたな」「ふふ、そっか」 草原の道を、ヴィクタールはリシュティナの細い指に自分の指を絡ませながら歩く。 リシュティナはヴィクタールの言葉を聞きながら、優しく微笑んでいた。 心地良い風が、彼女の前髪を揺らす度、光の無い蒼色の瞳が見え隠れする。 それでも、その瞳は吸い込まれるようにとても綺麗だった。 ヴィクタールが景色よりもリシュティナを眺めている時間の方が多い事は、見えない彼女には気付かないだろう。 ふと、リシュティナがヴィクタールを見上げて、ふわりと笑った。 途端、ヴィクタールの心臓が大きく跳ねる。「ヴィル、ありがとう。私の為に、どんな景色か教えてくれてるんだね」「あ……あぁ」「だから……楽しいよ、私。とっても」 目を細め、嬉しそうに微笑むリシュティナに我慢出来ず、ヴィクタールは彼女の身体を引き寄せ抱きしめた。「えっ?」 瞬間、彼女の頬が真っ赤に変わった。「も、もうっ! 外ではいきなりやらないでって言った!」「あぁ、悪ぃ……。お前が可愛過ぎて我慢出来なかった」「!!」 正直に告げると、リシュティナの顔が更に朱に染まる。恥ずかしがる彼女も可愛くて堪らない。 自分の腕の中に一生閉じ込めていたい思いに囚われ、バタバタと身体を動かす彼女を深く抱き込んだ。 ――あの時。 元婚約者に裏切られ、“恋”だの“愛”だの、『好き』だの『愛してる』だの、もう沢山だと辟易した。 けれどリシュティナと出会い、いつの間にか自分の中は彼女で埋め尽くされ、彼女無しではいられないようになった。 “恋”や“愛”という陳腐な言葉では言い表せない、『好き』だの『愛してる』だの、そんな軽い言葉で言い表したくない、酷く深く重く熱い想いが自分の胸を焦がした。 その熱情に身を任せ、彼女の滑らかで柔らかい身体を余す事無く貪り尽くしたい気持ちに必死になって蓋をした。 こんな強い欲望があったなんて自分でも驚いた。 懸命に我慢はしているが、想いは留まる事を知らず、きつく閉じた蓋から少しずつ漏れてきて。 手繋ぎから抱擁、そして額への口付けと、彼女への欲が止まらず出てきてしまっていて。 それ以上は彼女が自分を好きになるまで駄目だと、最後の砦のように理性を最大限にして抑えている。 彼女が一
「旅の資金もある程度貯まったし、明日にでも旅に出るか。王国の地図も買ったし、旅の準備も出来てるしな」「えっ、いきなりだね!? しかももう準備万端っ!?」 ある日の夜。 いつもの如くベッドでリシュティナを抱き込みながら、ヴィクタールは唐突にそう告げた。「スタンリーの野郎はもう召喚を決行しただろう。成功したのなら、父上が現国王でも、王権は奴が半分以上握る事になる。悪影響が本格的に出る前にこの王国を去りたい。――オレは、お前とずっとこんな風に穏やかな生活を送っていきたい。ただそれだけがオレの望みなんだ」「ヴィル……」「リィナ……。いつまでも一緒だ」 ヴィクタールの声が近くなったと思ったら、前髪を掻き上げられる気配がし、額に柔らかく温かいものが触れた。「えっ!?」 驚くリシュティナに構わず、ヴィクタールは彼女の首筋に顔を埋めた。「……可愛い、リィナ」 首筋に顔を埋めたままそう言われ、吐息が直接当たる擽ったさに、リシュティナの身体がブルリと震える。「……お前の温もりって眠気誘うよな……。しかも快眠の……。おやすみ、リィナ――」「えっ、ヴィルッ?」「…………」 ……ヴィクタールは、リシュティナの首筋に顔をつけたまま眠ってしまった。(――さ、さっきの額の感触は……もしかして……。う、ううん、きっと指だよ指! ……で、でも、指よりも柔らかかった……。――もうっ、一体何なのーーっっ!?) 真っ赤な顔のリシュティナの叫びは、虚しくも心の中で消えていったのだった……。◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 朝になり、少し寝不足気味のリシュティナをヴィクタールが心配しながらも一緒に朝ご飯を食べ、旅の支度を整えた。 家を出て畑の所に行くと、ヴィクタールは心地良く響く低音の声を張り上げる。「土の精霊、水の精霊、聞いてるか? 今までありがとな。オレ達これから旅に出るから、野菜や果物達を土に還してくれねぇか? 思い入れがあるし、このまま枯れていくのは嫌だしさ。頼むよ」 すると、畑に生い茂っていた野菜や果物達が、シュルシュルと音を立てて小さくなり、やがて土の中に消えていった。「ありがとな、お前ら。いつまでも元気でいろよ。ここが危なくなったらすぐに逃げろよ――ん?」 ヴィクタールは、土の上に幾つかの小さな種がある事に気が付いた。「何だコレ?」「精霊達の“餞別”です。
「シャーロット様も『聖なる巫女』の血を引いていない……!?」「じゃあシャーロット様も、リントン侯爵閣下の子では無い――?」 周りが酷くざわめく中、とうとう立っていられなくなった侯爵夫人は、戦慄いたまま、ガクリと両膝をついた。「……ヘビリアが産まれてから二年後、君が『子供が欲しい』と言ってくれた時、ようやく私を見てくれたと嬉しかったよ。けれどそのすぐ後に『子供が出来た』と言った君に不信感を抱いた私は、君の事を調べさせて貰った。……結果、まだ不貞の相手と切れていなかった。私を求めたのは、不貞の相手との間に子供が出来、それを私の子とする為の偽造工作だった。……ヘビリアの時も似たような状況だったと思い当たった時、酷く失望したよ」「あ、あなた……」「君の義務は、『聖なる巫女』の直系である私との子を産む事だった。その為の“政略結婚”だった。けれど君はそれを軽く考え、義務を放棄した。そして他の男の子供を作った。それも二度も。――そんなに私との子を産むのが……私との子を育てるのが嫌だったんだな。……言ってくれれば、すぐに君と離婚したのに」「ご、ごめんなさい、あなた……。本当にごめんなさい……! け、けど、離婚だけは許して……!」「…………」 リントン侯爵は、夫人の謝罪に何も言わず、眉間に皺を寄せ瞼を閉じた。「そ……そんな……。それじゃあ『聖なる巫女』の血を直系で引く者は誰もいないじゃないか! “王たる器”を持つ僕の世代に! そんなの――そんなの許されないっ!」 スタンリーが両目を見開き激昂すると、再び海獣神ネプトゥーの声が聞こえてきた。『何を巫山戯た事を言っている、王族の人間よ。汝には“王たる器”はどこにも無い。貪欲に塗れた愚者よ。偽の「聖なる巫女」といい、このような茶番に付き合わされ、我は酷く腹立たしい。我は非常に忙しいのだ。今すぐにこの王国の国民を滅しないと気が済まない』 海獣神ネプトゥーの言葉に、その場にいた全員がギョッと目を剥いた。 殆どの者が慌てふためく中、国王が前に出て、その場で勢い良く土下座をした。「海獣神ネプトゥー様のお怒り、御尤もで御座います。しかし、こちらの予期せぬ不備で御座いまして、一度貴方様の召喚を成功した私めに免じて、お怒りを鎮めて頂けないでしょうか」「ち、父上……」 スタンリーは、威厳をかなぐり捨てて床に頭を付けて土下座
海獣神ネプトゥーを召喚する決行の日がやってきた。 『召喚の間』には、国王を始め、王国の重鎮達や貴族達、抽選で選ばれた国民達が集まり、魔法陣の上に立つスタンリーを固唾を呑んで見守っている。 第三王子のウェリトは、船に乗り隣国の視察に行っているので、この場には居ない。 スタンリーの隣には、『聖なる巫女』の直系の血を引く、リントン侯爵家の長女であるヘビリアが笑みを浮かべて立っていた。 二人の左手の薬指には『古の指輪』がそれぞれ嵌められ、キラキラと輝いている。 しかし二人共、指輪が少し小さかったようで、指の真ん中辺りで止まっていた。 見守る貴族の中に、海を渡って外交をしており、いつも屋敷を不在にしているリントン侯爵家当主の姿もあった。 ピンク色の珍しい髪に少し白髪が交じり、金茶色の瞳を持つ、穏やかな風貌のリントン侯爵は、静かな眼差しでヘビリアを見ている。 その隣には、リントン侯爵夫人が少し青褪めた顔で夫の様子をチラチラと窺っており、その母の隣でシャーロットは、ウットリとした面持ちでスタンリーを見つめていた。 スタンリーは、海獣神召喚にかなりの自信があった。 自身の魔力はこの城の者達の中で一番高いし、ヘビリアとも幾度となく“絆を結んでいる”。 万が一の為の“保険”もしてある。 失敗する要素が何一つ無い。 先日、王家に言い伝えられている『伝承』を再確認しようと書物を調べていると、興味深い文章を発見した。 “魔力高き王族の者と、『聖なる巫女』の直系の血を引きし者との“絆”が更に強く深まる時、伝説の獣神の召喚が成功するであろう”、と。 今の自分に全て当て嵌まっているので、スタンリーは、海獣神を召喚したら、次は伝説の獣神を召喚を試みようと目論んでいた。 それで更に王国内で自分の評価は急上昇するだろう。 もしかしたら、海を越えて世界中でもその名誉ある評判は広まるかもしれない。 スタンリーはニタリと口の両端を持ち上げると、真面目な顔を作り観客に厳かに告げた。「では、海獣神の召喚を始める」 スタンリーは目を閉じ、詠唱を唱え始めた。「――海獣神ネプトゥーよ、我の呼び掛けに応えよ!!」 詠唱が終わり、スタンリーが最後の言葉を放つと、魔法陣が赤く輝き出した。「赤色……? 儂の時は確か青色だった気が――」 淡く輝く魔法陣の色に、国王が疑問の言葉を
リシュティナには、いつ朝が来たか分からない。 眠りから目覚めて瞼を開けても、ただ一面暗闇が広がっているだけだからだ。 今も脳が覚醒し始め、そっと瞳を開けても、目の前は闇一色だ。 身体から、ヴィクタールの温もりが消えていた。「……ヴィル?」 上半身を起こし、小さな声でヴィクタールに呼び掛ける。 しかし、返事は無い。暫く待ってみても、返ってこない。 リシュティナは、真っ暗闇の中、急に独り取り残されたような疎外感に襲われた。「ヴィル……ヴィル、どこ? どこにいるの……?」 震える声でヴィルを呼びながら、カタカタと小刻みに揺れる手を前に伸ばす。「ヴィル――」 泣きそうになった、その時。「――リィナ」 待ち望んでいた声が聞こえたと同時に、伸ばされたリシュティナの小さな手を、大きく温かな手がギュッと握り締めてきた。 そのまま引っ張られ、いつもの温もりがリシュティナの身体全体を包み込む。 その温もりに、無意識にホッとしている自分がいた。「悪ぃ、手洗いと顔を洗いに行ってた。グッスリ寝てたからまだ起きないと思ったんだ。大丈夫だ、オレはお前に黙って遠くへなんて絶対行かない。死んでもお前の隣にいるって言ったろ?」 ヴィクタールは、リシュティナの震える身体を労るように更に深く抱きしめ、自分の額を彼女の額にコツンと当てた。「怖がらせちまって悪かった。けど、オレを求めてくれてすっげぇ嬉しかった。もう無いようにするが、万が一またこんな事があったらすぐ声を出してオレを呼んでくれ。すっ飛んで来るから」「…………うん、ありがとう」「ん。もっとオレを求めていいからな?」 ヴィクタールは嬉しそうな声音を出すと、リシュティナを抱きしめたまま、その首筋に自分の顔を埋めた。 滑らかなリシュティナの首筋に、ヴィクタールは甘えるように頬を擦り寄せている。(あぁ……どうしよう。私もヴィルに依存しちゃってる……?) リシュティナの心の中で、ヴィクタールを“魅了”から解放してあげたい気持ちと、ずっとこのまま彼と一緒にいたい気持ちがせめぎ合い、心揺らぐ自分が嫌になるのであった……。◆◇◆◇◆◇◆◇◆ “魅了”を解除する方法を探そうと決意したリシュティナだったが、一つ大きな難関があった。 それは、ヴィクタールが文字通りリシュティナから離れない事だ。 朝の件があってか
ヴィクタールは宣言通り、リシュティナから片時も離れようとはしなかった。 歩く時は指を絡めて手を繋ぐ。町で歩く時は勿論、家の中にいる時でもだ。 リシュティナがそっと立ち上がると、直ぐにヴィクタールが反応し、「どこに行くんだ? 一人じゃ危ねぇよ」 と、必ず手を掴まれ指を絡ませてくる。「えっと……ちょっと物を取りに行くだけだよ。場所は分かるから、手探りで行けるよ。一人でも大丈夫――」「ダメだ。そう言ってどこかにぶつかったらどうすんだ。言えばオレが取りに行く。お前はオレの傍で座っているだけでいいんだ」「え……そんな、悪いよ……」「全然悪くない。もっとオレに頼ってくれ、リィナ。オレはお前の為なら何でもやる。人を殺せと言われても、お前がそれを望むなら喜んで殺ってやるさ」「そ……そんな事絶対に言わない!!」「あぁ、そんなの知ってるよ。けど、それだけオレは本気だという事を分かってくれ」「…………」 こんな風に、過保護に拍車が掛かっている。度々不穏な台詞を言ってくるのが心臓に悪いけれど。 手洗いや浴室までついてこようとしたので、それは流石に全力で阻止した。「一人で出来ねぇだろ? オレが手伝う。最初から最後まで」「てっ、手伝……!? 最後まで!? だっ、大丈夫だよ、出来るから! 手探りで何とかなるから! 流石にものすっごく恥ずかしいからっ!」「……あぁ、いいな。オレに対してすごく恥ずかしがるリィナを眺めていたい――」「ヴィルッ!」「……分かったよ。チッ……」 とても不服そうな声を出され、更に舌打ちまで聞こえてきたけれど、そこは絶対に譲れない! とリシュティナは心を鬼にしたのだった。 ご飯はヴィクタールが作ってくれた。リシュティナの料理を手伝ってきたからか手際が良く、味も満点だった。 彼は一度教えたら、すぐにコツを掴んで何でもやってのけるのだ。 だからリシュティナは、町の人がヴィクタールについて噂していた、「何をやっても中途半端」「兄の方が出来損ない」とは全然違う事に疑問を持っていたのだった。 ――そしてそこでも、彼女にとって羞恥の時間が待っていた。「ほら、リィナ。あーんしろ、あーん」 ヴィクタールがリシュティナにご飯を食べさせたがるのだ。「あ、『あーん』て……。じ、自分で食べられるよ。大丈夫だから……」「ダメだ、こぼすだろうか。