乙音が北都へ来たのは結婚のためであり、当然異論などなかった。長年の願いが叶った羽生家の老夫人は上機嫌で、二人を相手に三十分も話し込んでいた。丁度書類を届けに来た神崎さんを連れ、老夫人はさっき決まった結婚式の段取りを整えるため部屋を出て行った。残された瀬人と乙音。乙音は何を話せばいいか分からず、とっさに卓上の雑誌を手に取った。瀬人はむしろ落ち着いた様子で、自ら湯飲みを注ぎ彼女に差し出しながら声をかけた。「祖母の話では、君は事故に遭ったんだって?体の調子は?」「ええ、肋骨を何本か折りましたが、一ヶ月もすれば治るそうです」瀬人が微かに眉を寄せた時、彼女の瞳に翳りが走るのを捉えた。事情を詮索すべきでないと悟り、話題を変えた。「ご両親は北都にはいらっしゃらないの?」その質問に、乙音の胸がぎくりと締めつけられた。それでも気まずい空気を繕うための世間話だろうと、曖昧に答えた。「仕事の出張で……一人で参りました」言葉の端々と、顔に浮かんだ微妙な表情。瀬人は違和感を覚えつつ、初対面の印象を悪くしたくないと考え、会話の主導権を彼女に委ねた。「うちの家族は熱心な性分だから。北都は初めてだろう?何か困ったことはない?」覚悟していた辛辣な質問が来ないことに、乙音は意外そうに顔を上げると、瀬人の真摯な眼差しに触れ、ふと喉から零れた疑問は――「羽生さんは、いつ目覚めたんですか?」彼女が知りたがっている核心を察し、瀬人は包み隠さず説明した。「二ヶ月前だ。正確には三月十五日の夜。検査とリハビリが続いたから、公表は控えていた」「三月……?」乙音は思い出した。確かにあの頃、父と母は婚約の話を再び持ち出していた。美穂が小嶺家に来た日、小嶺家の四人と佐藤青野までが「美穂が羽生家に嫁ぐ」と決めつけていた。しかし五年経っても羽生家から音沙汰なく、人々は忘れかけていた。二ヶ月前、美穂を避けるように開かれた家族会議で、再び婚約が議題に上った。両親は言葉の端々で美穂の身代わり結婚を阻止しようとし、その瞬間、乙音は悟った――自分は美穂に勝てない。それでも十年以上の情が絡み、かすかな希望を抱き続けていた。転機は二十日余り前。美穂が挑発的に、乙音が十年間家族同然に飼っていた犬を殺めた時だ。崩れ落ちる彼女をよそに、
二人の若者は午後中話し込み、次第に打ち解けていった。乙音も最初の緊張がほぐれ、そろそろ羽生家の人々の好みを探り始めた。瀬人は彼女が贈り物の準備を考えているのだろうと察し、唇端に微笑を浮かべた。「親戚が多すぎて、俺も全部覚えきれてないんだ。もう少し時間をかけて整理しないと……一週間後に退院して実家に戻るから、その頃に一緒に贈り物を選びに行こう。ついでに街も案内するよ」一週間で退院?そんなに早いのか。乙音は思わず驚きの表情を漏らした。北都の地理に不案内な身としては彼の提案が悪くないと判断し、うなずいて承知した。夕暮れ迫る中、老夫人が用事を済ませて迎えに現れ、乙音は瀬人に手を振って別れを告げた。二人の車の尾灯が見えなくなるまで見送った瀬人は、側近の執事の神崎さんに二つの指示を下した。「若奥様の傷の原因を徹底的に調べさせろ」「ついでに小嶺家の内情も探れ。機会があれば使用人に最近の出来事を聞き出すように」帰路に、老夫人は乙音の手を握り、満面の笑みを湛えていた。「瀬人とは話が弾んだかしら?あの子のことをどう思った?」突然の核心を突く質問に、乙音は一瞬たじろいだ。記憶を辿り、言葉を選んで答えた。「楽しかったです。優しく気遣いもあって、数日後にお買い物に同行してくださるそうです」二人の急速な接近を見て、老夫人は胸のつかえが下りたようだった。「北都は初めてで不安だろうが、心配いらないよ。瀬人の両親も君が大好きだし、瀬人の祖父母や未央ちゃんも歓迎している。自分の家だと思って、何でも言いなさい」そう言うと老夫人は懐から黒いカードを取り出し、乙音の掌に押し込んだ。「二十年ため込んだお年玉よ。やっと渡せる時が来たわ。あなたのおじいさんも昔、瀬人に同じように渡したの。遠慮なんてしないでね」老夫人の温かな笑顔に、乙音の鼻の奥がつんとした。北都に来る前、羽生家が替え玉結婚を知り婚約を破棄するかもしれないと覚悟していた。だが実際は、深夜まで待ち続ける家族、用意周到な生活品、体調を気遣う言葉——血縁から得られなかった温もりを、たった一日で知った「他人」から貰い受けるとは。絶望の先に待つのは、必ずしも行き止まりではない。ひょっとすると、新たな光が差す転機なのかもしれない。乙音は胸に込み上げる思いを抑えきれず、目尻
美穂は怒りに耳を塞ぎ、最後には洗面所に逃げ込んでしまった。彼女の怒りを込めた後ろ姿に、二人は肩を落とし、疲れ切った表情でため息をついた。そばで様子を見ていた小嶺の両親は、彼らが心配する理由を察し、この機に話を切り出した。「がっかりするな。美穂が羽生家に嫁ぐことはない。安心しろ」その言葉に、二人の顔に疑念が浮かび、やがて抑えきれぬ喜びへと変わった。「叔父さん、叔母さん、本当ですか?羽生家が婚約を解消してくれたんですか?」「これは祝うべきことです!今夜、乙音も交えて……」「乙音」の名を口にした瞬間、小嶺夫婦の表情が硬くなった。小嶺の父が真相を話そうとした瞬間、妻がそっと袖を引いて止めた。「あの件はまだ伏せておきましょう。式の段取りが整うまで、彼らを不安にさせるべきじゃない。美穂にも疑われるわ」夫は頷き、適当な口実を繕った。「乙音は北都に行ってる。有名な内科の先生がいてな、体調が心配だから療養させたんだ」突然の吉報に浮かれる二人は疑う様子もなく、むしろ婚約解消が乙音の働きかけだと思い込んだ。詳しく聞こうとしたその時、美穂が戻ってきたため、場は黙契のうちに静まり返った。善次と青野は贈り物を抱え、笑顔で妹に近寄る。「兄さんからのプレゼントだ。気になるだろう?開けてごらん」「これは俺のサプライズ。お前だけのものだぜ」羽生瀬人が実家に戻った日、乙音のスマホに美穂からのメッセージが届いた。1GBもの旅行動画、無数の自撮り、そして部屋を埋め尽くす贈り物の写真——「まだ退院してないの?残念ね、善次兄さんと青野兄さんが買ってくれたジュエリーやプレゼント、見られないわ」続けて善次と青野のメッセージも鳴り響いた。「乙音、兄貴がお土産買っとくからな。帰ってきたら開けようぜ」「体調はどうだ?あなたが入院中の時、叔父さんたちと美穂の面倒見てるから、戻ったらみんなで祝おう」乙音は一切返信しなかった。戻る?もう二度と東の都には帰らない。メッセージを全て消去し、通知をオフにした。スマホをロックし、未央の手を握りながら賑やかなリビングへ戻った。散歩から帰った彼女を見て、瀬人はクッションをどけ、席を空けた。乙音が未央を座らせようとすると、少女はふざけながら母親の元へ駆け寄り、無邪気に宣言した。「マ
乙音はそっと腕を回して彼女の乱れた前髪を整えていると、未央の母親が彼女を褒め始めた。「まあ、こんな女の子好みのもの、乙音ちゃんが選んだプレゼントでしょ?瀬人さんにこんなに未央の気に入るものを選べるはずないわ。この前なんて、あの子に『参考書セット』とか『ダンスレッスンの先生』とか贈って、未央が怒って二ヶ月も『兄ちゃん』って呼んでくれなかったのよ!」その話を聞き、乙音は思わず横にいる彼を見た。目を丸くして驚きを隠せなかった。この一週間、彼女は羽生家の老夫人に連れられ、療養施設にいる羽生瀬人を何度も訪ね、長い時間を共に過ごしていた。二人とも穏やかで年齢も近く、自然と打ち解け、何でも話せる間柄になっていた。彼女の印象では、瀬人は誠実で礼儀正しく、聡明で冷静な人だった。今日の午前中、贈り物を選びに行った時も、彼は家族全員の好みを熟知し、次々と適切な品を提案した。皆が受け取った時の笑顔がそれを物語っていた。そんな彼の礼儀正しい外見の下に、こんなユーモラスな一面が隠れているとは……彼女は心底驚いた。乙音の視線を感じたのか、瀬人はまばたきをして、苦笑いを浮かべながら抗議した「未央が誕生日の願いで『一位を取りたい』『子供会の出し物に出たい』って言ってたから、その手のプレゼントを選んだんだよ。未央、もし気に入らなかったら、兄ちゃんがもう一度プレゼント選び直すから、許してくれる?」未央は疑わしげな目で彼を見つめると、乙音の懐に飛び込んだ。「いいよ。でも今度はお姉ちゃんに選んでもらう!お兄ちゃんはお金払うだけでいいの!」彼が返事をする前に、乙音は未央のふっくらした頬をつねりながら先に約束した。「約束ね。絶対に最高に高いもの選んで、未央ちゃんにごめんねってするから」「お姉ちゃん、大好き!お兄ちゃんとずっと仲良くしてね!結婚おめでとう!」その一言でリビングはさらに明るくなり、老若男女問わず思わず拍手して笑い出した。今回は乙音まで、その利口でやんちゃな様子に笑みを零した。彼女の笑顔を見た瀬人の瞳にも、かすかな喜びが掠めていた。その後半月余り、瀬人は自宅で静養しながら、乙音と婚礼の細部を詰めていった。婚約指輪、ウェディングドレス、ウェディングキャンディー、はたまた新居の内装まで整った。残るは招待客のリストと招待状だけが、な
乙音は呆然とした。彼が何も訊かず、既に自分が代わりに責任を負う覚悟をしていると知り、胸の奥が複雑に絡み合った。「どう……説明するつもりなの?」言葉を濁す乙音の様子に、羽生瀬人は胸が疼いた。執事の神崎さんが届けた資料を読んで以来、彼は長い間怒りを抱えていた。小嶺家が替え玉結婚を画策したことではなく――血の繋がった実の娘をここまで粗末に扱い、他人のために犠牲にしたことに苛立ちを覚えたのだ。それも、彼が十年来思い続け、成人したらすぐに迎えたいと願っていた女性を。「乙音、北都に来てからずっと、連絡すらしてこないだろう?あの家の態度は明らかだ。俺にわかることは、祖母も両親もきっと気付いている」。瀬人の声は優しく、ついには境界を越えて彼女を腕に抱いた。「君がこの家の空気を気に入ってくれて、みんなへの感謝を口にする度、俺は思うんだ。婚約が決まった日から、うちの家族は君を家族として待ち続けていたってことを」「過去に何があろうと、北都に来て羽生家を選んだ以上、俺らはずっと君の味方だ。嵐はもう過ぎた。今はこの手で掴んだ幸せを、そのまま受け止めればいい」顎の先で、瀬人の鼓動が伝わってくる。乙音は彼の胸に顔を埋め、こみ上げる涙を堪えようとしなかった。悲しみ、感動、解放感――複雑な感情が初めて堰を切った。二人は言葉を交わさず、ただ抱き合っていた。時がどれだけ流れたか、泣き疲れた乙音の心に、ようやく安らぎが訪れた。青野と善次が乙音の異変に気付いたのは、五月の末だった。この一ヶ月、二人は美穂の世話に追われ、他に目を向ける余裕などなかった。善次が庭園のチューリップが全て抜かれたことに気付き、使用人に問いただして初めて事態を知った。「乙音さんが業者を呼んで処分したそうです」使用人の言葉に、善次の表情が険しくなった。妹のまたわがままかと、スマホを取り出すと――この一ヶ月、彼が送ったメッセージへの既読すら付いていないことに気がついた。「善次さん!乙音がどこにいるか……」善次が怒りに震えながら佐藤青野を探しに行くと、彼も蒼い顔で現れた。「乙音に渡した形見の指輪が返ってきた。病院に行ったら、退院したって言われたんだが……」これまで美穂への嫉妬から、乙音が物を壊したり泣き喚いたりしても、長くは続かなかった。
彼らが予想だにしなかったのは、乙音が姿を消したこの一ヶ月が、病院ではなく婚礼の準備に費やされていたことだ。兄である善次よりも、乙音と幼馴染みとして育った青野の動揺は甚だしかった。これまで、彼女が他人と結婚する可能性など微塵も考えたことがなかった。彼の中では、過去も現在も、そして未来さえも、彼女は自分だけのものだと信じていた。だからこそ、この現実を受け入れられず、必死に否定していた。「叔父さん、叔母さん、そんな冗談を……乙音は羽生瀬人に会ったこともないはずです。どうして結婚なんて承諾するんですか?」「私たちにもわからないのよ。あなたが美穂のことを好きだから、二人を成就させようと思ったのかもしれませんね」「成就」という言葉を聞いた瞬間、青野の顔が真っ青になった。傍らにいた善次の視線も、彼を探るような深みを帯びていた。二人がそれぞれ複雑な思いを抱えている最中、一切を知らずに帰宅した美穂が玄関を開けた。居並ぶ家族の険しい表情に、挨拶の声はかすれた。「……どうしたんですか?」彼女を見るなり、善次は救いを求めるように手を握り、焦りを滲ませた声で問う。「美穂、ご両親の前でいい……俺にハッキリ言ってくれ。お前が好きなのは、俺か?それとも青野か?」美穂の表情が固まった。曖昧に誤魔化そうとしたが、周囲の異様な空気に押され、言葉を詰まらせた。沈黙が続く中、善次の声はさらに追い詰められたように震えた。「乙音が嫁ぐんだ。美穂、もしお前も結婚するなら……俺と青野、どちらを選ぶ?」この二者択一の質問は、美穂にとって逃げ場のない罠となった。狼狽する青野と、息を殺した善次を交互に見つめ、彼女は唇を噛みながら悩ましげに答えた。「善次兄さんも青野さんも、同じくらい大切です。できれば……誰とも結婚せず、ずっと側にいたい」その答えに青野は安堵の息を漏らした。だが善次の顔色は一層険しくなった。乙音は妹——いつかは羽生家だろうと、他人に嫁いでいく存在だ。しかし美穂は血の繋がらない義妹。彼女への想いは本物で、共にいたいと願っていた。曖昧な返答は、拒絶と同じだった。まだ言葉を続けようとする善次をよそに、美穂はようやく状況を飲み込んだように目を見開いた。「乙音お姉さんが結婚!誰と?いつから?知らなかったわ……」小嶺夫妻は顔を見合わ
青野はもう冷静でいられなかった。声には悔しさが溢れていた。「俺は反対だ!乙音を羽生家になんか嫁がせられない!彼女はどこだ!会いに行く!」美穂が顔を上げた瞬間、彼女の目つきが一変した。「青野くん、お姉ちゃんが自分で望んでるのに、どうして邪魔するの?」両親もそれに続いて口を開いた。「美穂の言う通りだ。羽生家は北都でも名門だ。乙音が苦労するかもしれないが、決して不遇にはならない」四人が一様に賛同する様子を見て、青野はまだ説得を試みようとしていた。「でも、乙音こそが小嶺家の実の娘だろう?彼女は幼い頃から大切に育てられたのに、どうして植物状態の人間の世話をさせられるんだ?そもそも、美穂を養女にしたのは──」真相が明かされそうになった瞬間、善次が慌てて遮った。「婚約の時から乙音が嫁ぐと決まっていた!約束を反故にするのか?羽生家の立場を考えろ。美穂は養女だ。身代わりになれば非難されるに決まってる。彼女にそんな辛い思いをさせるわけにはいかない!」青野の胸に冷たいものが這い上がった。この五年間、乙音が無視され続けた感覚を、初めて痛烈に理解した。美穂は目を赤くし、泣き声で訴えた。「そうよ!お姉ちゃんの結婚なのに、どうして私が犠牲にならなきゃいけないの?青野くん、そんなこと言うならもう知らない!」美穂が泣きながら走り去ると、小嶺家の者たちは慌てて追いかけた。残されたのは青野一人。彼は拳を握りしめ、秘書に電話をかけた。翌日、秘書から報告が入った。「社長、乙音さんは羽生家におり、明日にでも結婚式が挙げられる予定です」最後の一言で、青野の心臓が高鳴った。彼は直近の北都行きの便を予約し、乙音に電話とメッセージを繰り返した──式を取りやめるように。しかし返事は一切ない。搭乗直前、どこから情報を掴んだのか、美穂が空港に駆けつけ、怒りに震えながら青野の前に立ち塞がった。「北都に行くなんて……そんなことなら、もう一生あなたとは関わりたくないわ!」青野の脳裏には乙音の面影しか浮かんでいない。彼女の戯言に耳を貸す余裕などなかった。「美穂、冷静になれ。乙音はお前の実の姉だ。俺たち三人で肩を並べて育った幼馴染みだろう?彼女が地獄の縁に足を踏み出すのを見過ごせるか!」「関係ない!今ここで行ったら……本当に、一生あな
「美穂、もう一日だけ待ってくれ。これらのことは、乙音を東の都に連れて帰ってから相談しよう」美穂の顔色が、徐々に血の気を失い、真っ青になっていった。唇を噛み締め、瞳には冷たい決意が宿る。善次がまだ慰めようとするのを遮り、彼を空港の外へ引っ張っていった。「善次兄さん、私たち、養子縁組を解消して、それから入籍しましょう!」冗談ではないと悟った善次は一瞬凍りついたが、次の瞬間、喜びに包まれた。急いで実家へ向かう二人。善次の両親は彼らの決意を聞いて喜び、すぐに手続きを済ませた。婚姻届を手にした途端、養女は嫁となった。老いた両親は乙音に報告しようと電話をかけるが、彼女の反応は淡泊だった。「……ふうん、そう」不満を隠せない母の声が苛立つ。「お兄さんの結婚になんで祝福しないの?美穂さんはもうお義姉さんなんだから、これからは意地悪なんかしないでね」私が美穂さんをいじめてたって?乙音は嗤いを零した。式場のリハーサルが迫っている彼女は、話を早く切り上げるため適当に言葉を続けた。「じゃあ、おめでとう。末永く幸せに、早く赤ちゃんできて、ずっとラブラブで。これで満足?」両親がようやく納得し、今度は彼女の結婚式の日付を問い詰めてきた。ローズガーデンが広がる式場を見やり、乙音は思いつきで答える。「半月後よ」「じゃあ、その時は兄さんたちも参列するから、招待状を送っておくれ」司会のマイクチェックが始まる中、乙音は適当に相槌を打って電話を切った。冷房の効いたホールで、待ちくたびれた羽生瀬人が上着を彼女の肩にかけた。「今日は一日疲れただろう?明日も早いから、リハーサル終わったらすぐ帰ろう」確かに足元がふらつく乙音が頷くと、リハーサルは四時に終了。二人が手を繋いでホテルを出た瞬間、聞き慣れた声が背後から響いた。「乙音……結婚するって、なぜ俺に教えなかった?」振り返ると、慌てた様子で車から飛び降りてくる青野の姿。彼が手を伸ばそうとする寸前、瀬人がさっと乙音を背後に護った。青野の目が冷たく光る。「誰だ?俺が話しているのは乙音だ。どけ」初対面の二人の間に火花が散る。乙音は青野の突然の訪問に戸惑いながらも、過去の因縁に瀬人を巻き込みたくないと、乙音は彼の手を握りしめた。「瀬人さん、車で待っていて。すぐ戻るから」その名前を聞い
小嶺美穂が裁判で有罪判決を受けた日、北都では初雪が降った。乙音は南方育ちで、旅行以外ではこんな大雪を見る機会がほとんどなく、興奮してしまった。彼女は未央を庭に連れ出し、雪合戦を始めた。乙音の勢いに押され、未央は唇を尖らせながら、傍観していた羽生瀬人に文句をぶつけた。「朱に交われば赤く、墨に交われば黒くなる!姉ちゃんはお兄ちゃんと一緒にいるうちに、すっかり影響されちゃって、もう私を可愛がってくれなくなった!全部お兄ちゃんのせいだよ!」小さな雪玉を彼に投げつける未央。瀬人は最初は避けようとしたが、乙音が笑い転げているのを見て、じっと我慢した。未央がすっきりした顔でリビングに駆け込むと、彼はため息をつき、妻の元へ歩み寄った。そして、乙音の真っ赤に冷えた手を自分の服の中に包み込んで温めた。乙音は咳払いをし、わざと厳しい顔を作って言った。「未央の言う通りよ。あなたの影響で私まで悪くなったんだわ。そうでなければ、私みたいに優しくて可愛い人間が、十歳の子をいじめるなんてこと、あるわけないでしょう?」瀬人は頷きながら、何が何でも認める態度で答えた。「はいはい、全部俺が悪い。根っこから歪んでるからね。どんなお仕置きがいい?言ってごらん」彼の素直な態度に満足した乙音は、こっそり手のひらに隠していた雪玉を彼の服の中に滑り込ませ、目を細めて笑った。首元から流れ落ちる冷たさに、瀬人は思わず震えた。彼女の得意げな顔を見て、彼は小さくため息をつく。「俺が悪いんじゃない。未央に影響されたんじゃないか?今じゃ二人がかりで俺をいじめるんだから、たまったもんじゃないよ」そうぼやいていると、老夫人が未央を抱きかかえ、家族全員が庭に出てきた。彼女は瀬人をからかうように言った。「いいんじゃない?瀬人ならいじめられて当然よ、一番年上なんだから!」「そうよ!妹と妻にいじめられるのが、あなたの役目なのよ!」庭は一気に賑やかになった。後ろ盾ができたことで、乙音は瀬人に向かって「ふんっ」と鼻を鳴らした。その時、ポケットの携帯が鳴った。取り出してみると、友達グループのチャットだった。「ニュース見た?小嶺美穂が刑務所行きだって!嬉しいニュースだわ!」「佐藤青野がアルコール依存で胃出血を起こして緊急入院、胃癌の疑いもあるらしいよ。もしこれがデマじ
羽生家と小嶺家が絶縁したとの報が広まると、社交界は震撼に包まれた。つい先日、両家が縁組を果たしたばかりだったからだ。誰もが、ようやく意識を取り戻したばかりの羽生瀬人がここまで激怒した理由を探り始めた。やがて、小嶺家が養女を偏愛し実の娘(羽生家に嫁いだ小嶺乙音)を冷遇したため、瀬人が妻を守るために義理の実家を叩いた――そんな噂が流れ始めた。男尊女卑は珍しくないが、養女のために実子を粗末に扱う話は耳目を引き、瞬く間に広まった。同時に再燃したのが、数ヶ月前の誕生祝宴のスキャンダルや、小嶺乙音が巻き込まれた「事故」が人為的なものだったとする疑惑だ。好事家たちが情報をまとめた文書には、読む者皆が小嶺家を非難せずにはいられない内容が綴られていた。小嶺家の評判は地に堕ち、東の都の名家たちは「共犯者」と見なされるのを恐れ、次々と距離を置いた。羽生家の姿勢を察した企業群も取引を打ち切り、複数のプロジェクトが中途停止。資金繰りが悪化した小嶺グループの株価は暴落、破産寸前に追い込まれた。焦った小嶺の両親は手持ちの高級車や邸宅を売り払うが、崩れ落ちる経営を支えるには焼け石に水。窮地に陥った小嶺家の両親はふと、乙音のために蓄えていた嫁入り金の存在を思い出し、銀行に駆け込んだが、数ヶ月前に全額が慈善団体へ寄付されていたことを知らされた。団体事務所で騒ぎを起こした翌日、マスコミは「小嶺乙音氏の匿名寄付」を大々的に報じた。二つの話題が炎上する中、小嶺家の状況はさらに悪化した彼らは、小嶺乙音に助けを求めるために、人脈を頼って連絡を試みるが、一向に連絡が取れなかった。そのような状況の中、警察が小嶺家を訪れた。「小嶺美穂さんが小嶺乙音さんに対する殺人未遂の容疑で告発されています。同行をお願いします」崩れかけた一家の神経はここで完全に断絶した。長男の善次は暴力的に抵抗し、現行犯で拘束された。警察が屋敷を捜索するも美穂の姿はなく、ようやく両親は気付いた――家が傾き始めて以来、彼女の姿をほとんど見かけていないことに。親族総出で街を探し回った末、その夜、バーの片隅で彼女は見つかった。泥酔した佐藤青野の腕にすがり、涙で顔をくしゃくしゃにしながら訴えていた。「青野さん、私…善次なんて好きじゃなかった。ずっとあなたを…空港であなたが置いて
瀬人は彼女の話が終わらないうちに遮った。「乙音、君はもう俺の嫁だ。君のことは羽生家全体の問題でもある。祖母が動いたのは家のためだ。謝る必要はない。小嶺家との縁切りも昨夜父と祖母が決めたことだ。あの協力関係は元々政略結婚が前提だった。実の娘すら慈しめない連中が、商売の場で信用できると思うか?早めに手を引くのはリスク管理だ。全てを自分で背負おうとするな」事情を理解した乙音の胸の重りが少し軽くなった。涙は自然に止まっていた。瀬人がハンカチで彼女の頬を拭う指先は、雪解けの川のように優しかった。その瞳に浮かぶ痛惜の色を見て、乙音はふと問いたくなった。「出会って一ヶ月しか経ってないのに……なぜここまでしてくれるの?私が嫁ぐと決まってたから?」彼の手が微かに止まり、額を撫でる指が温もりを残した。「一ヶ月じゃない。君が覚えてるのが一ヶ月分だけなんだ」声が柔らかく波打つ。「七歳までの俺の世界には、君しかいなかった。大人たちが仕事に追われてるから、善次の面倒を見ながら、掌サイズの妹が背中にくっついて『瀬人にぃ』と呼ぶのを、毎日見守ってた。東の都を離れる日、君は声が枯れるまで泣いて、ついて来たいと駄々をこねただろう?『必ず迎えにくる』と約束したのに……果たせなかった。それでも、結局ここに来てくれた」三歳頃の記憶は霞んでいた。けれど彼の確信に満ちた視線を見れば、嘘ではないとわかる。忘れていた歳月の向こうに、確かに大切な兄がいた。千里を隔てても、約束を破らなかった青年が。新婚の家に戻った時、既に灯りが揺れていた。「この家は瀬人が最初に稼いだ金で買ったんだ」瀬人が廊下を案内する背中に、老夫人の言葉を思い出す。五年間空き家だった洋館の内装は全て彼の手によるものだという。「小さい頃『大きな庭に薔薇と百合と…』って、花の名前を延々並べていただろ?足りないものはないか?」「顔や服に落書きして『画家になったら瀬人にぃの肖像画を描く』って宣言してたから、画室も作っておいた」「ピアノに凝った時は、毎日四手連弾の練習だと騒いでたな。あの頃から俺も練習してたが、五年寝てたから腕が鈍った。また教えてくれないか?」過去の話に耳を傾けながら、乙音の胸の空洞が少しずつ埋まっていく。二人の影が床で絡み合うのを見上げ、彼女は睫を濡らした。「急がなく
小嶺家の人々の醜い姿を目の当たりにして、瀬人は初めて乙音がこれまでどんな苦しみを味わってきたのか理解した。彼は彼女の手を握り、自分の背後に隠すようにしながら、逆上した小嶺家の面々を冷たい目で見据えた。「乙音はもう羽生家に嫁いだ。今日から彼女と小嶺家の縁は一切ない」二人の密やかな仕草を見て、小嶺家の者たちはこれが羽生瀬人だと瞬時に悟った。人前で若輩者に諭される小嶺夫婦の顔が歪んだが、羽生の老夫人が居座っているのを慮り、無理やり理屈を捏ねるしかなかった。「苗字を変えようが、この子の体には小嶺家の血が流れてるわ!身内が叱るのは当然だ」瀬人が反論しようとした瞬間、乙音がそっと袖を引いた。彼女は一歩前に出ると、すっかり変わり果てた肉親たちを静かに見つめた。「私が苗字を変える必要なんてある?この名前はお祖父様がつけてくれたもの。羽生家との縁だって、お祖父様が決めてくれたこと。あなた達には何の関係もないわ」喉元で震える声を抑え、彼女は掌の傷痕を握りしめた。「小嶺家の娘、小嶺善次の妹は、四十五日前にあなた達の大事なお嬢様・美穂の車に轢かれて死んだ。縁も情けも、その日に全部断ち切れたの。私が恩知らずだと思うのなら、お祖父様の墓前で跪いてみたら?あの方があなた達の所業を許してくださるかどうか」小嶺夫婦の顔が紅潮し、罵声を浴びせようとしたその時、羽生老夫人の怒声が庭に響き渡った。「いい加減にしろ!ここは北都だ。乙音はわしの孫嫁。お前たちに何の権利があって」瀬人のお父さんが母親の目配せを読み取り、護衛たちに手を振ると、小嶺家の者たちはたちまち包囲された。追い出されかけた美穂が逆上して叫びだした。「羽生の姓を盾に威張り散らすんじゃないわ!小嶺家だって東の都では名の通った家柄よ!ここまで踏みにじるなら、もう縁もゆかりもないわ!」その言葉に、黙っていた青野の表情がこわばる。小嶺家の者たちも目を見開いたが、瀬人の冷徹な声が彼女の言葉を切り裂いた。「ならば望み通りに。神崎さん、今日をもって羽生グループと小嶺グループの全プロジェクトを停止せよ。業界に通達しろ——今後一切の取引はないと」護衛に囲まれながら退出する一行を、乙音は俯いたまま見送った。羽生家の人々が怒りを収め、彼女に寄り添う。「心配するな、乙音ちゃん。おばあちゃんがついて
半月にわたる苦労の末、無事に結婚式を終えた羽生家の老夫人は、ようやく長年の胸のつかえが下りたように深く息をついた。帰路の車中で目を閉じて休んでいると、突然の喧噪が彼女の耳を掻き乱した。眉を寄せて窓の外を見やると、駆けつけた執事が事の次第を詳しく報告してきた。「お婆様、半時間前に別邸の前に一団が押し掛けまして……奥方様の実家の者と称し、どうしてもお目にかかりたいと騒ぎ立てております」小嶺家の者か。老夫人はその名を聞くだけで、孫の羽生瀬人から伝え聞いた数々の顛末が脳裏をよぎり、祝い事で明るかった表情が一気に曇った。後に座ったの羽生家ご夫妻も顔色を変え、老夫人に付き添いながら車を降りた。遠目に、久方ぶりに再会した年長者たちの姿を認めた小嶺夫妻は、さっきまでの威勢をすっかり失っていた。近づくにつれ態度はますます萎縮し、か細い声で「伯母様」と呼びかけるのが精一杯だった。老夫人は数人を一瞥すると、静かな怒気を湛えて言い放った。「この老いぼれが、小嶺の者から伯母様などと呼ばれる覚えはない」幼い頃から目を掛けていた年長者に叱責され、小嶺夫妻の顔が青ざめた。慌てて言い訳を始める。「誤解でございます!乙音と瀬人様のご婚礼の報に接し、招待状が届かぬためお伺いしたまでで……」「招待せぬのは歓迎せぬ意思の表れ。その道理もわからぬか?」浴びせられた罵声に、小嶺家の者や青野は蚊の鳴くような声も出せない。ただ一人、羽生家の権勢を知らぬ養女・小嶺美穂だけが憤りを抑えきれず、猛然と反論した。「乙音は両親の実の娘です!身内すら招かぬ婚礼など聞いたことがない。ましてや瀬人様は植物状態と伺っています。婚約破棄しないだけでも寛大なのに、こちらの好意を無下になさるなんて……」突如の暴言に小嶺夫妻は真っ青になり、慌てて娘の口を塞ごうとしたが、時すでに遅し。羽生家の人々は一言一句聞き逃さなかった。老夫人は彼女の素性を即座に見抜き、鼻で笑った。「これがお前たちが溺愛する養女か。小嶺家の先代が、粗野で愚鈍な娘のために大切な孫娘を虐げるとは知ったら、墓場から飛び起きるだろうよ」母の本気の怒りに、瀬人のお父さんも前に出て旧友一家を見下すように言い放つ。「羽生と小嶺の縁組は、小嶺家先代と母上の約束。五年前に瀬人が事故に遭った際、我々は破談を申し出
正午十二時、非公開の結婚式が静かに幕を開けた。記者の撮影は禁止されていたが、早朝から一部の新聞社が噂を嗅ぎつけ、ホテル外で撮影した写真を即座に掲載した。#羽生瀬人回復し目覚める、小嶺家令嬢・乙音と本日結婚東の都にいた善次は、目覚めてすぐこのトレンドを目にし、呆然とした。羽生瀬人が目を覚ました?それなのに、なぜ乙音は家族に一言も伝えなかったのか?両親からは「式は半月後」と聞かされていたはずなのに、なぜ今日のニュース?仮に本日が式だとして、なぜ女方の親族を招待しなかった?疑問が重なり、善次は乙音に連絡を試みた。しかし電話をかけると、自身がブロックされていることに気付いた。驚きと怒りが込み上げるが、千里離れた地ではどうしようもない。仕方なく、北都に飛んだばかりの佐藤青野に連絡を取った。電話が繋がると、喧騒が聞こえた。青野は誰かと口論しているらしく、苛立った声で応じる。「用は?」「乙音に会えたか?ニュースでは今日結婚だと……家族にも告げず、俺をブロックしたんだぞ」同じくブロックされていた青野はホテル外で警備員たちと押し問答をしており、領带を乱しながら眉を曇らせた。「今日だ。あいつはまだ俺たちに怒ってる。親族を招待する気など最初からなく、『今後は縁を切る』と言いやがった」青野の声が荒れていたため、善次は冗談かと疑ったほどだ。乙音が縁を切ると?ありえない。同じ血を分かち、二十余年も溺愛してきた家族ではないか。嫁いだ途端に縁を断つなど、常識を逸している。善次の怒りは頂点に達し、即刻四人分の航空券を手配し、小嶺家を連れて北都へ向かった。到着して現場に駆けつけると、青野は未だ門前で警備員に阻まれ、頬に擦り傷を負っていた。その姿を見た小嶺家の面々は、さらに表情を険しくした。小嶺家の父は警備員の前に立ち、威圧的に手を振った。「新婦の実家の者だ。通せ!」警備員たちは顔を見合わせ、上層部から伝えられた言葉を繰り返した。「招待状の提示が必要です。お持ちでしょうか?」小嶺家が招待状など持っているはずもない。警備員の融通の利かなさに、善次の苛立ちは募った。「乙音を呼べ!両親や兄嫁を認めないのか?羽生家の者もだ!結婚式という大事な場に女方の親族を招かぬとは、何事だ!」乙音の醜態を見よう
帰り道、車内は静まり返っていた。瀬人は何も尋ねず、明日の結婚式の段取りを執事の神崎さんにメッセージで確認している。この一ヶ月の同居で、乙音は彼が礼儀をわきまえ、私事に干渉しない性格だと知っていた。これまで黙っていたのは、過去が恥ずかしく、口に出すのも苦痛だったからだ。だが今、式の準備に忙しい彼の姿を見て、彼にも知る権利があるとふと思った。夕食後の休息時間に、乙音はわざわざ彼を訪ね、これまでの経緯を全て話した。すっかり心が軽くなっていたのか、語るうちに感情の起伏はなく、他人事のように淡々としていた。しかしその話を聞いた瀬人は胸を締め付けられた。彼女の手を強く握り、掌の温もりを伝えた。「もう乗り越えたのはわかってる。でも、俺に打ち明けてくれてありがとう。俺が昏睡していた五年間、君も苦しんでいたんだね。今は全部終わった。また巡り会えたんだから、これからは俺がいる」今回は乙音は泣かなかった。テーブルに飾られたウェディングフォトを見つめ、生まれて初めて「式」というものに心から憧れを抱いた。二人が寄り添い、貴重な平穏を味わっているとき、乙音の携帯が激しく鳴り始めた。佐藤青野だった。狂ったように電話とメッセージを繰り返す。『乙音、俺が悪かった。許して、もう一度チャンスをくれないか』『羽生瀬人と結婚するな。本当は好きじゃないだろ?俺への当てつけだろ?』『昔約束したじゃないか。俺の花嫁になると』メッセージを読み進めるうち、乙音は呆れ果てた。隣の瀬人も特に動じず、ただ奇妙に思っている様子だった。乙音の話では、二人は相思相愛だったが、最後の一線を越えずにいた。彼女を想っていたはずの男が、小嶺美穂が現れると態度を曖昧にし、次第に彼女に傾いていった。今になって結婚を前に急に後悔し、懇願するとは。「彼の中で私って何だったんだろう。美穂は?」乙音も長くこの問いに向き合ってきた。昔の乙音は、どうして人の心があんなに移り気なのか、どうしても腑に落ちなかった。だが今は小嶺家の四人と青野を見透かしている。彼女は静かに分析した。「小嶺家にとって、血は繋がっていても、私は『いずれ嫁ぐ他人』。幼い頃は可愛がられても、成人すれば『よそ者』扱い。そこに年下の美穂さんが現れ、『娘』の穴埋めをした。彼女が善次に気に
青野の顔色はその言葉で真っ白に変わった。「叔父さんも叔母さんもあなたの両親だ。善次は兄、美穂は妹。二十年以上の絆があっただろう?乙音、どうしてそんなことを言うんだ?」乙音は薄く笑い、瞳に嘲りの色を浮かべた。「そう?本当の娘であり妹は、美穂じゃないの?青野さんと一緒に育ったのは美穂でしょ?」彼女の皮肉を込めた口調に、青野はここ数ヶ月の出来事を思い出し、胸に後悔が込み上げた。慌てて言葉を継いだ。「乙音、なぜ美穂と比べるんだ?確かに彼女を優先したことはある。でもそれは羽生家との縁談を彼女が引き受けてくれたからだ。埋め合わせをしたかっただけだよ。美穂が来る前は、君だって同じように──」美穂の話題になると決まって同じ台詞。乙音は耳にタコができるほど聞かされた。彼が「美穂」を連呼する様に冷たい声を放つ。「明日から私は小嶺家とも、あなたとも縁が切れる。誰を贖いたかろうと知らないし、聞きたくもない」「そんな意地を張って地獄へ飛び込む価値があるのか?落ち着いてくれ。東の都に戻ろう。二度と同じことは繰り返さないと約束する!」焦りから青野が手を伸ばすと、乙音は数歩下がり距離を取った。「要らない。東の都には二度と足を踏み入れない。帰って」決意に満ちた冷たさに、青野の心の奥に残った希望も沈んでいった。代わりに湧き上がったのは理解不能な怒りだった。「ここまで突き放さないと駄目なのか?逃げ道すら作らないのか?」「逃げ道?」乙音はふっと笑った。彼女にはとっくに逃げ場などなかった。小嶺家は、果てしない道か、深淵か。決して安息の地ではなかった。ふと視線を移すと、状況を窺う瀬人の姿があった。その瞬間、不思議と心が落ち着くのを感じた。「その逃げ道は美穂に譲るわ。いえ、今は『小嶺夫人』かしら」「小嶺夫人」という言葉に青野の目が揺れるのを見て、乙音は可笑しくなった。「善次と美穂はもう入籍したんでしょ?東の都に帰ったら伝えてちょうだい。私の結婚式には招待しないから、彼らの式にも呼ばないでって。これからは…それぞれの道を行きましょう」残した言葉を置き去りに、乙音は振り返らずに去った。呆然と立ち尽くす青野がスマホを取り出すと、美穂のSNSの投稿が目に入った。【これからの人生、よろしくね】善次と並んで婚姻届を持つ写真。それを見
「美穂、もう一日だけ待ってくれ。これらのことは、乙音を東の都に連れて帰ってから相談しよう」美穂の顔色が、徐々に血の気を失い、真っ青になっていった。唇を噛み締め、瞳には冷たい決意が宿る。善次がまだ慰めようとするのを遮り、彼を空港の外へ引っ張っていった。「善次兄さん、私たち、養子縁組を解消して、それから入籍しましょう!」冗談ではないと悟った善次は一瞬凍りついたが、次の瞬間、喜びに包まれた。急いで実家へ向かう二人。善次の両親は彼らの決意を聞いて喜び、すぐに手続きを済ませた。婚姻届を手にした途端、養女は嫁となった。老いた両親は乙音に報告しようと電話をかけるが、彼女の反応は淡泊だった。「……ふうん、そう」不満を隠せない母の声が苛立つ。「お兄さんの結婚になんで祝福しないの?美穂さんはもうお義姉さんなんだから、これからは意地悪なんかしないでね」私が美穂さんをいじめてたって?乙音は嗤いを零した。式場のリハーサルが迫っている彼女は、話を早く切り上げるため適当に言葉を続けた。「じゃあ、おめでとう。末永く幸せに、早く赤ちゃんできて、ずっとラブラブで。これで満足?」両親がようやく納得し、今度は彼女の結婚式の日付を問い詰めてきた。ローズガーデンが広がる式場を見やり、乙音は思いつきで答える。「半月後よ」「じゃあ、その時は兄さんたちも参列するから、招待状を送っておくれ」司会のマイクチェックが始まる中、乙音は適当に相槌を打って電話を切った。冷房の効いたホールで、待ちくたびれた羽生瀬人が上着を彼女の肩にかけた。「今日は一日疲れただろう?明日も早いから、リハーサル終わったらすぐ帰ろう」確かに足元がふらつく乙音が頷くと、リハーサルは四時に終了。二人が手を繋いでホテルを出た瞬間、聞き慣れた声が背後から響いた。「乙音……結婚するって、なぜ俺に教えなかった?」振り返ると、慌てた様子で車から飛び降りてくる青野の姿。彼が手を伸ばそうとする寸前、瀬人がさっと乙音を背後に護った。青野の目が冷たく光る。「誰だ?俺が話しているのは乙音だ。どけ」初対面の二人の間に火花が散る。乙音は青野の突然の訪問に戸惑いながらも、過去の因縁に瀬人を巻き込みたくないと、乙音は彼の手を握りしめた。「瀬人さん、車で待っていて。すぐ戻るから」その名前を聞い