第 3 話

佳子は顔色が優れなかった。「自分の都合がついたら行きます」

総務は苦笑しながら言った。「健康診断は明日に予約されていますので、忘れずに病院へ行ってください」

佳子は胸が高鳴り、「わかりました」と答えた。

彼女は祐摩がここまで敏感だとは思わなかった。「必ず時間通りに行きます」

オフィスには濃いコーヒーの香りが漂っていた。

佳子は午後ずっと吐き気に悩まされ、窓を開けて風を入れ、なんとかその不快感を和らげた。

退社間際、彼女は再びトイレに駆け込み吐いてしまった。つわりがこんなに速く酷くなるとは思っていなかった。

顔を洗い終わった直後、彼女の携帯が鳴った。

佳子が電話に出ると、冷たい金属的な響きのある男の声がした。「どこにいる？」

佳子は答えた。「トイレ」

祐摩は言った。「地下駐車場で待っている。今夜は実家に帰って食事をする」

「わかりました、社長」

幸い、二人が実家に帰るのは月に数回程度だった。

祐摩の母親は、彼女が早く子どもを授かることをずっと望んでいた。

車に乗り込むと、佳子は彼の隣に座り、少し緊張した。

祐摩の存在感は常に圧倒的で、無形の刃のようだった。

彼はゆっくりと目を上げ、低くて心地よい声で尋ねた。「どうしてそんなに顔色が悪いんだ？」

佳子はさっき吐いたばかりだったので、顔色が良いはずもなかった。「そうですか？ そんなに悪くないと思いますけど」

祐摩はじっと彼女を見つめ、「唇は赤いけどな」と言った。

佳子はどう返答すべきか迷った。

突然、祐摩が冗談めかして言った。「俺の知らないところで浮気でもしてるんじゃないだろうな？」

それは軽口のように聞こえたが、佳子はすぐに反応し、「してません」と答えた。

祐摩は不意に彼女の頬に触れ、「最近は忙しそうだな。何日か休暇を取って休むといい」と言った。

佳子はしばらく考え、この休みを利用して病院で検査を受けようと思った。

彼女は、祐摩が手配した健康診断には行くつもりはなかった。

結果がどうなるか、彼女にはだいたいわかっていたからだ。

彼女は、祐摩に自分が妊娠していることを知られるのが怖かったし、知らせたくもなかった。

「そうします」

車は実家の庭に停まった。

佳子が車を降りると、祐摩は彼女の腰を軽く抱き寄せ、少しきつめに力を込めて言った。「少し太ったみたいだな」

佳子は心臓が跳ねた。「最近、食べすぎちゃって」

祐摩は気のない返事をし、「後で母さんが美保ちゃんのことを聞いてきても、答えなくていい」と言った。

佳子は答えた。「わかりました、社長」

美保ちゃん。

高橋美保。 この名前は、佳子にとって幼い頃からの影だった。

美保は、彼女の異母姉である。

父は冷酷で計算高い男だった。具体的に言うと、父は母の財産を奪い、母の企業を自分のものにしたのだ。

その後、父は初恋の女性とその娘を家に迎え入れた。

祐摩と美保は長年関係を持っていたが、祐摩は佳子と美保が異母姉妹であることを知らなかった。

祐摩という気ままな王子様の最も深い愛情は、すべて美保に向けられていた。

彼のすべての優しさは、美保のためだけのものだった。

彼が美保を呼ぶ時は、いつも「美保ちゃん」だったが、佳子に対してはただの「水上さん」だった。

佳子は胸が締め付けられ、目頭が少し熱くなった。

祐摩は彼女の腰をさらに強く抱き寄せ、眉を上げて、「まだ社長って呼ぶのか？」とからかうように言った。

佳子は感情を落ち着け、「祐摩くん」と軽く口にした。

豪邸に入ると、祐摩の母親が親しげに彼女の手を取った。「もう半月も来ていないのね。なんだか佳子ちゃんが痩せた気がするわ」

佳子は微笑み、「そんなことありませんよ」と答えた。

祐摩は相変わらず彼女の腰に腕を回し、淡々と笑いながら言った。「母さん、佳子ちゃんは痩せてないどころか、少し太ったよ」

二人が親しげにしているのは、祐摩がそう演じている時だけだった。

まるで、彼と彼女は本当に愛し合う夫婦のように、親密で甘い雰囲気を演出していた。

祐摩は、こうした場では優れた演技力を発揮する。

特に両親を喜ばせるのが得意だった。

母は驚き、「太ったようには見えないわ」と返した。

祐摩は、「安心して、僕は妻を大事にしているから」と言うと、母は彼を一瞥し、「口ではそう言うけど、早く孫の顔を見せるのが一番大事よ」と笑った。

祐摩は眉を上げ、「努力するよ」と答えた。

佳子は黙ってその会話を聞いていた。

母は、息子がようやくその気になったのだと大喜びしていたが、この半年、二人が避妊をしていたことは知らなかった。

夕食の席で、佳子は必死に体調不良を隠そうとしていた。料理はどれもあっさりしていたが、肉の匂いを嗅ぐだけで吐き気を催した。

彼女の顔色がますます青ざめ、ついに母が「具合が悪いの？」と心配そうに尋ねた。

佳子は首を振り、「いいえ。ただ少し眠いだけです」と答えた。

母は息子を咎めた。「仕事で佳子ちゃんをいじめすぎてるんじゃないの？」

祐摩は両手を挙げて降参し、「確かに最近、少し忙しかったけど、もう休暇を取らせたから安心して」

「それならいいわ」

佳子は夕食をほとんど食べられなかった。食後、冷蔵庫からヨーグルトを取り出して一気に飲み干すと、だいぶ気分が良くなり、顔色も少し良くなった。

佳子と祐摩は結婚以来、別々の部屋で寝ることはなかった。

彼女は祐摩にとって、ただの身体の欲求を満たすための相手のような存在だった。

祐摩がシャワーを終えると、彼女にキスをしてきた。

佳子は避けようもなく、昨晩は彼を拒んでいたため、今夜は理由もなく拒むことはできなかった。

彼女はお腹の子どもに何かあってはならないと心配し、顔をそむけてわずかに抵抗した。「社長、今夜も……」

すると突然祐摩の目つきが冷たくなり、口元には何とも言えない笑みを浮かべた。「佳子、俺は駆け引きをされることが好きではない」

佳子はその状況を理解していた。

その後のことは再び混乱したまま進み、気づけばまた祐摩としてしまった。

幸いにも、お腹の調子は悪くならず、終わった後は、疲れ切って体を動かす力すらなくなっていた。

彼女は彼に抱きしめられたまま、深い眠りに落ちた。

眠る前、佳子は祐摩を少し怒らせたことを思い返していた。

だが、彼は感情を見せない人物だ。

たとえ不機嫌でも、表情に出さない。

佳子は翌日の昼までぐっすり眠った。

窓の外は眩しい日差しが照りつけていた。

彼女はしばらくベッドに座ってぼんやりしていたが、次第に意識を取り戻し、起き上がった。ふと、目に入ったのはベッドサイドに置かれたメモと、一枚の小切手だった。

小切手には、多すぎず少なすぎない金額が書かれていた。

佳子はそれをよく見もせずに脇に置いた。

代わりにメモを手に取り、下を向いて眺めた。

その文字には彼女がよく知っている筆跡があった。

祐摩の筆は、力強く美しい線で描かれており、一目で見て心を奪われるほどだった。

そこには二行の言葉が記されていた。

「昨晩はご苦労だった」

「これはその報酬だ」