「このこと、おばあさんに話す。おばあさんだったら、父さんを止められるはず。見てなさい、絶対にこのまま終わらせたりしない!」 花は怒りに震えながら言った。 その表情を見た紀子は、胸が締めつけられるような思いだった。 ―このままでは、花がいつか高峯と同じようになってしまう。 彼女の中に流れているのは、間違いなくあの人の血。 だからこそ、必死に寄り添い、育ててきた。 たとえ離婚したとしても、花には決してあの人のようになってほしくなかった。 「花、待って」 突然、紀子が彼女の手を取った。 「おばあさんに話さないで」 「......なんで?」 花は思わず声を荒げた。 「お母さんは、まだあの人たちの肩を持つの!?どうして?どうして!?なんであんな最低な二人を庇うの!?」 「違うのよ、花」 紀子は娘の肩をしっかりと掴み、真剣な表情で言った。 「お母さんは、あの人たちを庇ってるんじゃない。ただ、あんたを守りたいのよ」 「そんなのおかしいよ!どうしてそれが私を守ることになるの!?」 「お母さんはね、花の心が憎しみでいっぱいになるのが怖いのよ。おばあさんに話せば、きっと何かしら行動を起こすでしょう?そうなったら、すぐにお父さんにもバレるわ。私は、あんたとお父さんが敵対するようなことにはなってほしくない」 「でも、父さんと対立するのがそんなに悪いこと?お母さん、本当は父さんをかばってるんでしょ?」 花は悔しそうに言った。 「お母さんは、私が父さんを嫌うのが嫌なんでしょ?でも......でも私は、お母さんのことが好きだから!」 「......本当に、いい娘を持ったわ」 紀子は穏やかに微笑んだ。 「私を守ろうとしてくれるのは、とても嬉しい。でも、もしこのことが大事になったら、私はもっと苦しくなる。だからお願い。おばあさんには言わないでほしいの」 紀子の切実な願いに、花はため息をついた。 「......分かった。お母さんがそこまで言うなら、言わない」 「いい子ね」 紀子は娘の頬に手を添え、優しく微笑んだ。 「お父さんの件は、私が直接話すわ。もしまたあんたを傷つけるようなことをしたら、そのときは絶対に黙っていない」 彼女の声は優しかったが、そこには決意が込められていた。 何があ
花は母のために納得できない気持ちを抱えながらも、結局、弥生には何も話さなかった。 祖母は、それとなく話を聞き出そうとしていたが、花は慎重に言葉を選び、ひたすら話をそらし続けた。 最終的に、弥生も追及をやめ、ただ孫娘が母親に会いに来ただけだと思ったようだった。 数日後。 高峯はオフィスで書類をめくりながら、片手にスマートフォンを持ち、通話をしていた。 だが、書類の内容などまったく頭に入ってこない。 彼の意識は、電話の向こう側にすっかり奪われていた。 「二人きりで旅行でもしよう。どこの国に行きたい?」 「光莉、そんなに怒るなよ。落ち着いてくれ。ただ、誰にも知られずに二人きりで過ごしたいんだ。もし行きたい場所がないなら、俺が決める」 「おいおい、お行儀が悪いぞ。そんな言葉を使うな」 「じゃあ、決まりだな。場所は俺が選ぶ。すぐに行けとは言わないさ。最近は俺も忙しいし、ただ、ちょっと話しておきたかっただけだ」 「......おい、またか?そんなに罵られると、俺は悲しくなるぞ?」 そう言いながらも、高峯の口元には満足げな笑みが浮かんでいた。 だが、次の瞬間― 「どいて!」 突然、オフィスの外から怒声が響いた。 「申し訳ありません。社長は現在お忙しいので......!」 「私が誰か分かって言ってるの?すぐに通さないと、あんたたちの社長なんて簡単に失脚させられるわよ!」 高峯は眉をひそめ、通話相手に向かって低く言った。 「悪いが、また後で連絡する」 そう言って、一方的に通話を切る。 次に、机のボタンを押し、秘書に指示を出した。 「入れてやれ」 間もなく、扉が勢いよく開いた。 入ってきたのは、怒りに満ちた表情の紀子だった。 高峯はちらりと彼女を見たが、驚きはしなかった。 ―来ることは予想していた。 彼は秘書に目を向け、「コーヒーを出せ」と命じた。 「かしこまりました」 秘書が動こうとした瞬間、紀子が冷たく言い放つ。 「必要ないわ。あんたと話すだけだから、すぐに帰る。この忌々しい場所に長居するつもりはないのよ」 秘書は気まずそうな顔をしたが、高峯が軽く手を振ると、そのまま退出していった。 扉が閉まると、高峯はゆったりと椅子に寄りかかったまま、立ち上がろうともし
高峯は黙って、じっと前妻を見つめていた。 しばらくしてから、彼はゆっくりとソファに腰を下ろし、脚を組む。 どこか気だるげな態度だった。 「お前も分かってるだろう?俺がどうしてああしたのか」 「彼女が真実を口にしたからでしょ?それが気に入らなくて、逆上したんじゃないの?」 紀子は皮肉な笑みを浮かべた。 「まさか、社長ともあろう人が、実の娘の言葉すら受け入れられないほど、小さな男だったとはね」 高峯の眉間に深い皺が寄る。 目の奥には、冷たい怒りが滲んでいた。 だが、彼はただ冷笑するだけだった。 「紀子、お前も分かってるはずだ。もし、花が俺の娘じゃなかったら―今ごろお前のところに文句を言いに行く命すら、残ってなかったかもしれないぞ?」 「は?」 紀子は怒りに震えた。 「つまり、娘は父親に殺されかけたことを感謝すべきだとでも言いたいの!?」 「花は俺の娘だ」 高峯はゆっくりとした口調で言う。 「だが、お前とはもう他人だ。俺の人生に、口を出す権利はない。花はまだ何も分かってないくせに、父親の私生活に口を挟もうとする......あいつはお前が甘やかしすぎたな」 「......ふっ」 紀子は乾いた笑いを漏らした。 「甘やかしすぎた?じゃあ、どうすればよかったの?西也みたいに育てろとでも?」 冷たい瞳で、高峯を睨みつける。 「自分のことは、誰よりも分かってるでしょ?私はあんたのやり方には興味がない。だけど、花は私が産んだ娘よ。あんたの所有物じゃない」 彼女は一歩前に踏み出し、鋭く言い放つ。 「だから警告する。もう二度と花に手を出さないで。もし、また傷つけるようなことをしたら―そのときは、私も黙ってない」 これまで、どんなことも冷静に受け止めてきた。 結婚してからずっと、彼女の感情は穏やかだった。 離婚のときですら、彼女は取り乱すことなく淡々としていた。 だからこそ、今の彼女の姿は、高峯にとっても衝撃だった。 こんなにも怒りに満ちた紀子を見るのは、彼にとって初めてのことだった。 「だったら、花にはっきりと言い聞かせておけ」 高峯は冷たく言い放つ。 「これ以上俺に関わるな。ましてや、父親の私生活に口を挟むなんて論外だ......次はどうなるか、俺にも保証はできない
夜の帳が降り、雨が静かに大地を包み込んでいた。 細かな雨粒が銀色の糸のように降り注ぎ、静寂な部屋の窓を叩く。 修は窓辺に立ち、ガラスに滴る雨の軌跡をじっと見つめていた。 胸の奥に広がるのは、終わることのない憂鬱な影。 薄暗い照明の下で、彼の整った顔立ちは雨の帳に溶け込み、より一層その魅力を引き立たせていた。 深い瞳は星空に輝く宝石のようでありながら、底知れぬ痛みと哀しみを秘めている。 僅かに寄せられた眉は、誰にも解けない謎のように複雑な感情を映し出し、言葉にできない秘密を抱え込んでいた。 背筋はまっすぐに伸び、堂々とした姿はまるで動かぬ山のよう。 だが、瞳に宿る苦悩が彼の表情を淡く陰らせ、哀愁の色を帯びさせていた。 彼の手には、一枚の写真が握られている。 映っているのは、若子の笑顔。 その微笑みは、夜空に輝く一番星のように、明るく、まぶしく―そして、もう届かない。 窓辺には一本の酒瓶が置かれていた。 修の胃はもともと弱い。 過去に酒を飲みすぎて胃穿孔を起こし、医者には三年間禁酒を言い渡された。 それに、若子とも約束した。もう二度と酒は飲まない、と。 ちゃんと体を大事にすると。 けれど― 深夜になると、痛みと喪失感がどうしようもなく襲いかかる。 酒に溺れることでしか、己を麻痺させる方法がなかった。 でなければ、衝動のままにこのベランダから飛び降りてしまいそうだった。 ―若子、お前は今、そこで幸せに過ごしているのか? 奴と一緒にいるのか?幸せなのか?もう、俺のことなんか忘れたのか? ノラから彼女の居場所を聞いて、一週間以上が過ぎていた。 だが、修は未だにそこへ行く勇気を持てずにいた。 躊躇っている。 もし彼女に会いに行ってしまったら。 彼女が西也と仲睦まじく過ごしている姿を目にしてしまったら― きっと、俺は発狂する。 自分を守る唯一の方法は、見に行かないことだった。 彼女がどんな生活をしていようと、知らなければ、まだ心のどこかに幻想を抱いていられる。 けれど、もしこの目で現実を見てしまったら。 その瞬間、自分は完全に壊れてしまう。 一度は考えたこともあった。 ―若子が俺を捨て、他の男を選んだのなら、俺も適当に誰かと結婚して、彼女に仕返し
「修、やめて......お願い......!」 「お願いだから、修、どこにいるの!?」 「ダメ......!」 ―若子は、はっと目を見開いた。 目に映ったのは、見知らぬ静かな部屋。 鼓動が激しくなり、息を整えるように上体を起こす。 額には冷や汗が滲み、全身に戦慄が走っていた。 夢を見ていた。 ―修が、死ぬ夢を。 夢の中の修は、ずっと彼女を見つめていた。 哀しみを湛えた瞳で、まるで若子が何か取り返しのつかないことをしたかのように。 ―そんなはずない。 彼はもう、とうに彼女を忘れてしまっている。 幸せに暮らしているはずだ。 彼はもう二度と会おうとしない。電話も、メッセージすらもよこさない。 それに、彼は彼女と彼の子供をも捨てたのだから。 そんな男を、どうして自分はまだ夢に見るのだろう。 ―どうして、こんなにも恋しくなるのだろう。 若子はそっと顔を上げ、窓の外を見た。 空はすでに明るくなっていた。 目の前には、朝日を浴びて目覚めたニューヨークの街並み。 カーテンの隙間から差し込む光が、柔らかな影を作り出していた。 ―ドンッ! 突然、ドアが勢いよく開かれた。 「若子!」 西也が駆け込んでくる。 彼女の悲鳴を聞いて、いてもたってもいられなかったのだろう。 ノックすら忘れ、飛び込んできた。 若子は驚いて布団を引き寄せたが、すぐに彼だと気づき、安堵の息を漏らした。 「西也......ごめん、ただの悪夢よ」 だが、彼女の目にはまだ恐怖と困惑の色が残っていた。 乱れた呼吸を必死に整えながら、夢の余韻を振り払おうとする。 朝日が彼女の頬を照らし、その美しくも青ざめた顔を映し出した。 瞳には、深い迷いが宿っている。 西也はそばに寄り、心配そうに覗き込んだ。 「どんな夢を見たんだ?話してくれるか?」 「......大したことじゃないわ。ただ、悪い人に追われる夢をね......最近、いろいろ考えすぎたのかもしれない」 「若子、何か悩んでいることがあるなら、ちゃんと話してほしい」 西也は彼女の手を優しく包み込む。 「出産は、ものすごく大変なことだ。どんな気持ちになっても、おかしくはない。お前の考えは、全部正しいんだ。だから、一人で抱え込むな
松本若子は小さな体を布団に包み込み、お腹を優しく撫でながら、ほっと息をついた。よかった、赤ちゃんは無事だ。昨晩、修が帰ってきて、彼女と親密になろうとした。夫婦として2ヶ月会っていなかったため、彼女は彼を拒むことができなかった。藤沢修はすでに身支度を整え、グレーのハンドメイドスーツに包まれた長身で洗練された彼の姿は、貴族的で魅力的だった。彼は椅子に座り、タブレットを操作しながら、ゆったりとした動作で指を動かしていた。その仕草には、わずかな気だるさとセクシーさが漂っていた。彼は、ベッドの上で布団に包まって自分を見つめている彼女に気づき、淡々と言った。「目が覚めた?朝ごはんを食べにおいで」「うんうん」松本若子はパジャマを着て、顔を赤らめながらベッドから降りた。ダイニングで、松本若子はフォークで皿の卵をつつきながら、左手でお腹を撫で、緊張と期待が入り混じった声で言った。「あなたに話があるの」「俺も話がある」藤沢修も同時に口を開いた。「…」二人は顔を見合わせた。沈黙の後、藤沢修が言った。「先に話してくれ」「いや、あなたからどうぞ」彼が自分から話を切り出すことは滅多にない。彼は皿の目玉焼きをゆっくりと切りながら言った。「離婚協議書を用意させた。後で届けさせるから、不満があれば言ってくれ。修正させるから、できるだけ早くサインしてくれ」「…」松本若子は呆然とし、頭の中が真っ白になった。椅子に座っているにもかかわらず、今にも倒れそうな感覚だった。呼吸することさえ忘れてしまった。「あなた、私たちが離婚するって言ったの?」彼女はかすれた声で尋ねた。そのトーンには信じられないという気持ちが込められていた。密かに自分の足を摘んで、悪夢から目覚めようとさえしていた。「そうだ」彼の返事は、冷たさすら感じさせないほど平静だった。松本若子の頭は一瞬で混乱した。昨夜まで二人で最も親密な行為をしていたというのに、今では何でもないように離婚を切り出すなんて!彼女はお腹を押さえ、目に涙が浮かんだ。「もし私たちに…」「雅子が帰国した。だから俺たちの契約結婚も終わりだ」「…」この1年間の甘い生活で、彼女はそのことをほとんど忘れかけていた。彼らは契約結婚をしていたのだ。最初から彼の心には別の女性がいて、いつか離婚す
彼女はうつむきながら、苦笑いを浮かべた。自分にはもう何を贅沢に望む権利があるというのだろうか?彼と結婚できたことで、彼女はすでに来世の運まで使い果たしてしまった。彼女の両親はSKグループの普通の従業員だったが、火災に巻き込まれ、操作室に閉じ込められてしまった。しかし、死の間際に重要なシステムを停止させたことで、有毒物質の漏洩を防ぎ、多くの人命を救うことができた。当時、ニュースメディアはその出来事を何日間も連日報道し、彼女の両親が外界と交わした最後の通話記録も残された。わずか10歳だった彼女は、仕方なく叔母と一緒に暮らすことになった。しかし、叔母は煙草と酒が好きで、さらにギャンブルにも手を出していたため、1年後にはSKグループからの賠償金をすべてギャンブルで使い果たしてしまった。彼女が11歳の時、叔母は彼女をSKグループの門前に置き去りにした。松本若子はリュックを抱えながら、会社の門前で二日間待ち続けた。彼女は空腹で疲れ果てていたが、SKグループの会長が通りかかり、彼女を家に連れて帰った。それ以来、会長は彼女の学費を負担し、生活の面倒を見てくれた。そして彼女が成長すると、会長の孫である藤沢修と結婚させた。藤沢修はその結婚に反対しなかったが、暗に松本若子にこう告げた。「たとえ結婚しても、あなたに感情を与えることはできない。あの女が戻ってきたら、いつでもこの結婚は終わりにする。その時は、何も異議を唱えてはいけない」その言葉を聞いた時、彼女の心はまるで刃物で切りつけられたように痛んだ。だが、もし自分が彼との結婚を拒めば、祖母はきっとこのことを藤沢修のせいにし、怒りが収まらないだろう。彼女はそのことで祖母が体調を崩すのを恐れて、どんなに辛くても頷くしかなかった。「大丈夫、私もあなたのことを兄のように思っているだけで、男女の感情はないわ。離婚したいときはいつでも言って、私はあなたを縛りつけたりしないから」彼らの結婚は、こうして始まった。結婚後、彼は彼女をまるで宝物のように大切に扱った。誰もが藤沢修が彼女を深く愛していると思っていたが、彼女だけは知っていた。彼が彼女に優しくするのは、愛ではなく責任感からだった。そして今、その責任も終わった。松本若子は皿の中の最後の一口の卵を食べ終えると、立ち上がった。「お腹い
「そんなことはないわ」松本若子は少し怒りを感じながら答えた。もし本当にそう思っていたなら、昨夜、妊娠しているにもかかわらず彼に触れさせたりはしなかったはずだ。藤沢修はそれ以上何も言わず、彼女を抱きかかえて部屋に戻り、ベッドにそっと寝かせた。その一つ一つの動作が優しく丁寧だった。松本若子は涙を堪えるため、ほとんどすべての力を使い果たした。彼が彼女の服を整えるとき、大きな手が彼女のお腹に触れた。松本若子は胸がざわめき、急いで彼の手を掴んで押し返した。彼女のお腹はまだ平坦だったが、なぜか本能的に焦りを感じ、何かを知られるのではないかと心配だった。藤沢修は一瞬動きを止め、「どうした?」と尋ねた。彼女は離婚が近いから、今は彼に触れてほしくないのか?「何でもないわ。ただ、昨夜よく眠れなくて、頭が少しぼんやりしているだけ」彼女はそう言って言い訳をした。「医者を呼ぶか?顔色が良くないぞ」彼は心配そうに彼女の額に手を当てた。熱はなかった。しかし、どこか違和感を覚えていた。「本当に大丈夫だから」医者に診せたら、妊娠がばれてしまうかもしれない。「少し寝れば治るから」「若子、最後にもう一度だけチャンスをあげる。正直に話すか、病院に行くか、どっちにする?」彼は、彼女が何かを隠していることを見抜けないとでも思っているのか?松本若子は苦笑いを浮かべ、「あまりにも長い間、私たちは親密にならなかったから、昨夜急にあんなことになって、ちょっと慣れなくて。まだ体がついていけてないの。病院に行くのはやめておこう。恥ずかしいから、少し休めば大丈夫」彼女の説明に、彼は少しばかりの恥ずかしさを感じたようで、すぐに布団を引き上げて彼女に掛けた。「それなら、もっと早く言えばよかったのに。起きなくてもいいんだ。朝食はベッドに持ってくるから」松本若子は布団の中で拳を握りしめ、涙を堪えた。彼は残酷だ。どうして離婚を切り出した後でも、こんなに彼女を気遣うことができるのだろう?彼はいつでも身軽に去ることができるが、彼女は彼のために痛みを抱え、そこから抜け出すことができない。藤沢修は時計を見て、何か用事があるようだった。「あなた…いや、藤沢さん、忙しいなら先に行って。私は少し休むわ」「藤沢さん」という言葉が口から出ると、藤沢修は眉をひそ
「修、やめて......お願い......!」 「お願いだから、修、どこにいるの!?」 「ダメ......!」 ―若子は、はっと目を見開いた。 目に映ったのは、見知らぬ静かな部屋。 鼓動が激しくなり、息を整えるように上体を起こす。 額には冷や汗が滲み、全身に戦慄が走っていた。 夢を見ていた。 ―修が、死ぬ夢を。 夢の中の修は、ずっと彼女を見つめていた。 哀しみを湛えた瞳で、まるで若子が何か取り返しのつかないことをしたかのように。 ―そんなはずない。 彼はもう、とうに彼女を忘れてしまっている。 幸せに暮らしているはずだ。 彼はもう二度と会おうとしない。電話も、メッセージすらもよこさない。 それに、彼は彼女と彼の子供をも捨てたのだから。 そんな男を、どうして自分はまだ夢に見るのだろう。 ―どうして、こんなにも恋しくなるのだろう。 若子はそっと顔を上げ、窓の外を見た。 空はすでに明るくなっていた。 目の前には、朝日を浴びて目覚めたニューヨークの街並み。 カーテンの隙間から差し込む光が、柔らかな影を作り出していた。 ―ドンッ! 突然、ドアが勢いよく開かれた。 「若子!」 西也が駆け込んでくる。 彼女の悲鳴を聞いて、いてもたってもいられなかったのだろう。 ノックすら忘れ、飛び込んできた。 若子は驚いて布団を引き寄せたが、すぐに彼だと気づき、安堵の息を漏らした。 「西也......ごめん、ただの悪夢よ」 だが、彼女の目にはまだ恐怖と困惑の色が残っていた。 乱れた呼吸を必死に整えながら、夢の余韻を振り払おうとする。 朝日が彼女の頬を照らし、その美しくも青ざめた顔を映し出した。 瞳には、深い迷いが宿っている。 西也はそばに寄り、心配そうに覗き込んだ。 「どんな夢を見たんだ?話してくれるか?」 「......大したことじゃないわ。ただ、悪い人に追われる夢をね......最近、いろいろ考えすぎたのかもしれない」 「若子、何か悩んでいることがあるなら、ちゃんと話してほしい」 西也は彼女の手を優しく包み込む。 「出産は、ものすごく大変なことだ。どんな気持ちになっても、おかしくはない。お前の考えは、全部正しいんだ。だから、一人で抱え込むな
夜の帳が降り、雨が静かに大地を包み込んでいた。 細かな雨粒が銀色の糸のように降り注ぎ、静寂な部屋の窓を叩く。 修は窓辺に立ち、ガラスに滴る雨の軌跡をじっと見つめていた。 胸の奥に広がるのは、終わることのない憂鬱な影。 薄暗い照明の下で、彼の整った顔立ちは雨の帳に溶け込み、より一層その魅力を引き立たせていた。 深い瞳は星空に輝く宝石のようでありながら、底知れぬ痛みと哀しみを秘めている。 僅かに寄せられた眉は、誰にも解けない謎のように複雑な感情を映し出し、言葉にできない秘密を抱え込んでいた。 背筋はまっすぐに伸び、堂々とした姿はまるで動かぬ山のよう。 だが、瞳に宿る苦悩が彼の表情を淡く陰らせ、哀愁の色を帯びさせていた。 彼の手には、一枚の写真が握られている。 映っているのは、若子の笑顔。 その微笑みは、夜空に輝く一番星のように、明るく、まぶしく―そして、もう届かない。 窓辺には一本の酒瓶が置かれていた。 修の胃はもともと弱い。 過去に酒を飲みすぎて胃穿孔を起こし、医者には三年間禁酒を言い渡された。 それに、若子とも約束した。もう二度と酒は飲まない、と。 ちゃんと体を大事にすると。 けれど― 深夜になると、痛みと喪失感がどうしようもなく襲いかかる。 酒に溺れることでしか、己を麻痺させる方法がなかった。 でなければ、衝動のままにこのベランダから飛び降りてしまいそうだった。 ―若子、お前は今、そこで幸せに過ごしているのか? 奴と一緒にいるのか?幸せなのか?もう、俺のことなんか忘れたのか? ノラから彼女の居場所を聞いて、一週間以上が過ぎていた。 だが、修は未だにそこへ行く勇気を持てずにいた。 躊躇っている。 もし彼女に会いに行ってしまったら。 彼女が西也と仲睦まじく過ごしている姿を目にしてしまったら― きっと、俺は発狂する。 自分を守る唯一の方法は、見に行かないことだった。 彼女がどんな生活をしていようと、知らなければ、まだ心のどこかに幻想を抱いていられる。 けれど、もしこの目で現実を見てしまったら。 その瞬間、自分は完全に壊れてしまう。 一度は考えたこともあった。 ―若子が俺を捨て、他の男を選んだのなら、俺も適当に誰かと結婚して、彼女に仕返し
高峯は黙って、じっと前妻を見つめていた。 しばらくしてから、彼はゆっくりとソファに腰を下ろし、脚を組む。 どこか気だるげな態度だった。 「お前も分かってるだろう?俺がどうしてああしたのか」 「彼女が真実を口にしたからでしょ?それが気に入らなくて、逆上したんじゃないの?」 紀子は皮肉な笑みを浮かべた。 「まさか、社長ともあろう人が、実の娘の言葉すら受け入れられないほど、小さな男だったとはね」 高峯の眉間に深い皺が寄る。 目の奥には、冷たい怒りが滲んでいた。 だが、彼はただ冷笑するだけだった。 「紀子、お前も分かってるはずだ。もし、花が俺の娘じゃなかったら―今ごろお前のところに文句を言いに行く命すら、残ってなかったかもしれないぞ?」 「は?」 紀子は怒りに震えた。 「つまり、娘は父親に殺されかけたことを感謝すべきだとでも言いたいの!?」 「花は俺の娘だ」 高峯はゆっくりとした口調で言う。 「だが、お前とはもう他人だ。俺の人生に、口を出す権利はない。花はまだ何も分かってないくせに、父親の私生活に口を挟もうとする......あいつはお前が甘やかしすぎたな」 「......ふっ」 紀子は乾いた笑いを漏らした。 「甘やかしすぎた?じゃあ、どうすればよかったの?西也みたいに育てろとでも?」 冷たい瞳で、高峯を睨みつける。 「自分のことは、誰よりも分かってるでしょ?私はあんたのやり方には興味がない。だけど、花は私が産んだ娘よ。あんたの所有物じゃない」 彼女は一歩前に踏み出し、鋭く言い放つ。 「だから警告する。もう二度と花に手を出さないで。もし、また傷つけるようなことをしたら―そのときは、私も黙ってない」 これまで、どんなことも冷静に受け止めてきた。 結婚してからずっと、彼女の感情は穏やかだった。 離婚のときですら、彼女は取り乱すことなく淡々としていた。 だからこそ、今の彼女の姿は、高峯にとっても衝撃だった。 こんなにも怒りに満ちた紀子を見るのは、彼にとって初めてのことだった。 「だったら、花にはっきりと言い聞かせておけ」 高峯は冷たく言い放つ。 「これ以上俺に関わるな。ましてや、父親の私生活に口を挟むなんて論外だ......次はどうなるか、俺にも保証はできない
花は母のために納得できない気持ちを抱えながらも、結局、弥生には何も話さなかった。 祖母は、それとなく話を聞き出そうとしていたが、花は慎重に言葉を選び、ひたすら話をそらし続けた。 最終的に、弥生も追及をやめ、ただ孫娘が母親に会いに来ただけだと思ったようだった。 数日後。 高峯はオフィスで書類をめくりながら、片手にスマートフォンを持ち、通話をしていた。 だが、書類の内容などまったく頭に入ってこない。 彼の意識は、電話の向こう側にすっかり奪われていた。 「二人きりで旅行でもしよう。どこの国に行きたい?」 「光莉、そんなに怒るなよ。落ち着いてくれ。ただ、誰にも知られずに二人きりで過ごしたいんだ。もし行きたい場所がないなら、俺が決める」 「おいおい、お行儀が悪いぞ。そんな言葉を使うな」 「じゃあ、決まりだな。場所は俺が選ぶ。すぐに行けとは言わないさ。最近は俺も忙しいし、ただ、ちょっと話しておきたかっただけだ」 「......おい、またか?そんなに罵られると、俺は悲しくなるぞ?」 そう言いながらも、高峯の口元には満足げな笑みが浮かんでいた。 だが、次の瞬間― 「どいて!」 突然、オフィスの外から怒声が響いた。 「申し訳ありません。社長は現在お忙しいので......!」 「私が誰か分かって言ってるの?すぐに通さないと、あんたたちの社長なんて簡単に失脚させられるわよ!」 高峯は眉をひそめ、通話相手に向かって低く言った。 「悪いが、また後で連絡する」 そう言って、一方的に通話を切る。 次に、机のボタンを押し、秘書に指示を出した。 「入れてやれ」 間もなく、扉が勢いよく開いた。 入ってきたのは、怒りに満ちた表情の紀子だった。 高峯はちらりと彼女を見たが、驚きはしなかった。 ―来ることは予想していた。 彼は秘書に目を向け、「コーヒーを出せ」と命じた。 「かしこまりました」 秘書が動こうとした瞬間、紀子が冷たく言い放つ。 「必要ないわ。あんたと話すだけだから、すぐに帰る。この忌々しい場所に長居するつもりはないのよ」 秘書は気まずそうな顔をしたが、高峯が軽く手を振ると、そのまま退出していった。 扉が閉まると、高峯はゆったりと椅子に寄りかかったまま、立ち上がろうともし
「このこと、おばあさんに話す。おばあさんだったら、父さんを止められるはず。見てなさい、絶対にこのまま終わらせたりしない!」 花は怒りに震えながら言った。 その表情を見た紀子は、胸が締めつけられるような思いだった。 ―このままでは、花がいつか高峯と同じようになってしまう。 彼女の中に流れているのは、間違いなくあの人の血。 だからこそ、必死に寄り添い、育ててきた。 たとえ離婚したとしても、花には決してあの人のようになってほしくなかった。 「花、待って」 突然、紀子が彼女の手を取った。 「おばあさんに話さないで」 「......なんで?」 花は思わず声を荒げた。 「お母さんは、まだあの人たちの肩を持つの!?どうして?どうして!?なんであんな最低な二人を庇うの!?」 「違うのよ、花」 紀子は娘の肩をしっかりと掴み、真剣な表情で言った。 「お母さんは、あの人たちを庇ってるんじゃない。ただ、あんたを守りたいのよ」 「そんなのおかしいよ!どうしてそれが私を守ることになるの!?」 「お母さんはね、花の心が憎しみでいっぱいになるのが怖いのよ。おばあさんに話せば、きっと何かしら行動を起こすでしょう?そうなったら、すぐにお父さんにもバレるわ。私は、あんたとお父さんが敵対するようなことにはなってほしくない」 「でも、父さんと対立するのがそんなに悪いこと?お母さん、本当は父さんをかばってるんでしょ?」 花は悔しそうに言った。 「お母さんは、私が父さんを嫌うのが嫌なんでしょ?でも......でも私は、お母さんのことが好きだから!」 「......本当に、いい娘を持ったわ」 紀子は穏やかに微笑んだ。 「私を守ろうとしてくれるのは、とても嬉しい。でも、もしこのことが大事になったら、私はもっと苦しくなる。だからお願い。おばあさんには言わないでほしいの」 紀子の切実な願いに、花はため息をついた。 「......分かった。お母さんがそこまで言うなら、言わない」 「いい子ね」 紀子は娘の頬に手を添え、優しく微笑んだ。 「お父さんの件は、私が直接話すわ。もしまたあんたを傷つけるようなことをしたら、そのときは絶対に黙っていない」 彼女の声は優しかったが、そこには決意が込められていた。 何があ
「お母さん、本当に少しも悔しくないの?こんな仕打ち、どうして耐えられるの?」 花には想像もできなかった。 母がこんなにも長い間、ただ耐え続けてきたなんて。 「愛のためだとしても、こんなに惨めな恋が、本当に愛なの?愛って、お互いに支え合うものじゃないの?でも、父さんは何をしてくれた?」 これまでずっと、高峯は求め続けるばかりだった。 それに対して、紀子は何もかも差し出してきた。 ―バカみたい。 「花、あんたが怒るのは分かる。でも、これは私が自分で選んだことなの」 紀子は静かに言う。 「愛にはいろんな形があるのよ。私は、この形を選んだだけ。バカだと言われても構わない。お父さんは、私を愛してはいなかったかもしれない。でも、愛がなかった以外は、特に大きな問題のある人じゃなかった。それに......これは、きっと天罰なのよ。だって、私は自分を愛してくれない人と結婚したんだから。この苦しみは、私が自分で選んだものなの」 「なんでお母さんが罰を受けなきゃいけないの?」 花は怒りを抑えられなかった。 「父さんは、自分の目的のためにお母さんと結婚したのよ?罰を受けるべきなのは、あの人のほうじゃないの?」 「花......」 紀子は少し困ったように微笑む。 「彼はあんたの父親よ。私たちがどうなろうと、彼はあんたを大切に育てたでしょう?だから、そんな言い方はやめて。お願いだから、お母さんのために」 花は涙を拭いながら、悔しそうに唇を噛む。 「......お母さん、そんなふうに父さんをかばって、それが本人に伝わると思う?あの人の頭の中には、もう他の女のことしかないのよ?」 「どうしてお母さんは、こんなに優しいの......?お母さんがもっと強かったら、父さんはお母さんを捨てなかったかもしれない。あの女のことで必死になることもなかったかもしれないのに......!」 「この世界には、もう悪い人が多すぎるのよ」 紀子は穏やかに微笑んだ。 「だから、私は悪い人になりたくなかったの」 その目には、優しさだけでなく、どこかやるせなさが滲んでいた。 「お母さん......」 花は声を震わせながら、涙をぼろぼろと零す。 彼女の頬は、汗と涙でぐしゃぐしゃになっていた。 紀子の視線が、再び花の首元へと移る
花は泣きながら飛び出していった。 車に乗り込むと、そのままハンドルに突っ伏し、嗚咽を漏らす。 涙は止まらず、目はすでに赤く腫れていた。 ―どうして、父さんはこんな人なの?どうして......? ただ厳しいだけ、他人に冷たいだけの人だと思っていた。 でも違った。彼は狂ってる。家族にまで、あんなことをするなんて。 彼女は、彼の娘なのに。 さっき、もう少しで首を絞められて殺されるところだった― 痛む喉をさすりながら、花は車を走らせた。 向かったのは、祖母の家。 玄関を開けた瞬間、泣きながら叫んだ。 「おばあさん!おばあさん......!」 助けを求めるように、泣きながら走り込む。 紀子が物音を聞きつけ、すぐに階下へ降りてきた。 「花?どうしたの、こんな時間に......?」 「お母さん......!」 花は勢いよく飛び込み、母にしがみついた。 「どうしたの、花?何があったの?」 紀子は驚きながらも、娘をしっかり抱きしめる。 そして、そのとき気がついた。 花の首元―赤く痕がついている。 「......花、首を見せて」 そっと顔を上げさせると、首にはくっきりとした指の跡。 まるで誰かに強く締めつけられたような痕だった。 「どういうこと?誰がこんなことを......?」 紀子の声が強張る。 「早く教えて。誰にやられたの?」 花は涙を拭い、震える声で答えた。 「......父さん」 「......何ですって?」 紀子は息を呑んだ。 「......あの人が、あなたに手を上げたの?」 「お母さん......」 花はまた泣き出した。 紀子はすぐに花を抱き寄せ、ソファに座らせると、ティッシュで彼女の顔をそっと拭った。 「もう大丈夫だから。落ち着いて話して。何があったの?」 彼女は焦燥の色を隠せなかった。たった一人の娘なのだから。 母は体が弱い。花を産むのもやっとのことで、ずっと大事に育ててくれた。 父は厳しかったけど、それでも手を上げたことはなかったはず。 ―でも、今日、あの人は...... 紀子は震える娘を見て、怒りで体が熱くなった。 「お母さん......父さんが、どうしてお母さんと離婚したのか......全部知ってたの?
花の言葉は、高峯の怒りを一気に爆発させた。 彼は鋭い目つきで娘を睨みつけ、まるで今にも飛びかかってきそうな獣のようだった。 「今すぐここから出て行け。俺の許可なしに二度と来るな!」 そう言い捨て、高峯は背を向けた。 しかし、花も負けてはいなかった。 地面に倒れたままではいられない。彼女はすぐに立ち上がり、父の背中に向かって叫んだ。 「お父さん、あんまりです!お母さんを利用するだけ利用して、最後は捨てて離婚して、別の女と一緒になるなんて......そんなことして、良心は痛まないんですか!?」 高峯の足が止まる。 彼は拳を強く握りしめ、歯を食いしばった。 「......お前の母親に言われて来たのか?」 「お母さんは関係ありません!」花は鋭く言い返した。「私はただ、いったいどこの女がお父さんを誘惑したのか知りたかっただけ!......でもまさか、こんなオバサンだったなんて!」 もし相手が若い女だったなら、そこまで驚きはしなかった。 もちろん腹は立っただろうが、それでもまだ「新しいものに目移りする」くらいの理由にはなる。 だが、よりによって父親が選んだのは、夫も子どももいる中年の女性だった―そんなの、現実味がなさすぎる! 「彼女は俺を誘惑したんじゃない!」 高峯は怒りのあまり声を荒げた。 「お前、俺と彼女の関係が知りたいんだろう?いいだろう、教えてやる」 彼は狂気を孕んだ笑みを浮かべながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。 「彼女は俺の初恋だ。俺が心から愛した女だった......だが、権力のためにお前の母親と結婚し、彼女を捨てた。ずっと後悔していた。そして今、俺は光莉を取り戻すためなら、どんな手段でも使う」 高峯の目が、獲物を捕らえた獣のように鋭く光る。 「だから俺は彼女を......力ずくで奪った。証拠の動画も撮ってある。もし俺と寝ることを拒めば、あの認知症の姑の元へ行ってやる。息子に、夫に、すべてをぶちまけてやる!あの家を一生、地獄に叩き落としてやるんだ!」 彼の表情は狂気じみていき、ついには声を上げて笑い出した。 「......これで、分かったか?」 彼は大股で花に歩み寄ると、その細い肩をがっしりと掴んだ。 「俺は自分の欲しい女のためなら、何だってやる。お前が俺の娘だろうと関係ない
「お父さん、本当にそう思っているんですか?」 「じゃあ、お前はどうなんだ?」 高峯は言った。 「花、お前は馬鹿じゃない。いろいろなことを西也と一緒になって隠していただろう?なら、お前の義姉が本当は誰を愛しているのか、一番よく分かっているはずだ」 「......」 花は言葉を失った。 高峯は手を伸ばし、娘の肩を軽く叩く。 「お前も、西也を傷つけたくはないだろう?」 「......でも、お兄ちゃんが傷つく運命だったら、どうすればいいんですか?もし最後に......最後に、若子が愛してはいけない人で、お兄ちゃんもあの子を自分の子供として受け入れられないとしたら......」 この秘密を知っているのは、彼女と成之だけ。 父はまだ何も知らない。 「どうして西也に、若子が愛してはいけない人だと知らせる必要がある?恋愛において、少しくらい愚かなほうが幸せだ」 高峯は、ふと自分と光莉のことを思い出す。 ―本来ならば、光莉も「愛してはいけない人」だった。 彼女は曜の妻だった。 それでも、彼はどうしても彼女を手に入れたかった。 たとえ脅してでも、一緒にいる時間を作りたかった。 そして今、自分の息子もまた、誰かの妻を愛している。 ―俺たちはやっぱり親子だな。どこまでも、同じように頑固だ。 自嘲気味に笑った父の顔を見て、花は少し不思議に思った。 ―お父さん、まるで自分のことを言っているみたい...... 「......お母さんは、お父さんとの恋愛で、『愚か』だったってことですか?」 彼女は、つい母のために言い返してしまう。 ―お母さんの何がいけなかったの? 今まで、父が単に若い女性が好きなだけなのかと思っていた。 けれど、彼が選んだのは若い娘ではなく、他の誰かの妻だった。 それが、彼女には理解できなかった。 ―どうせなら、ただの浮気のほうがマシだったのに...... どうせなら、若くて綺麗な女と遊んで、すぐに飽きてしまえばよかったのに。 けれど、そうではなかった。 ―お父さん、本当にあの人を愛してるの......? それが怖かった。 紀子のことを聞いた途端、高峯は眉をひそめた。 「前にも言ったはずだ。俺とお前の母親は、もう離婚したんだ」 花は胸に湧き上がる