「すみません、村崎さん。私の考え違いかもしれません。ただ......」 光莉は、どう言葉を続ければいいのかわからなかった。 ―なんだか、現実離れしている。 「謝る必要はありませんよ。むしろ、謝るべきなのは僕の方です」 成之はふっとため息をついた。 「......僕たちの間には何か特別な感情があると思っていました。でも、僕の勘違いだったようですね。僕は、随分と愚かだったようです」 「......違います!」 光莉は咄嗟に否定した。 その瞬間、成之の目がかすかに光る。 だが、次の瞬間には、再び落ち着いた表情を浮かべる。 「違うんですか?」 彼の声はどこか沈んでいた。 「つまり、僕たちは―」 ―しまった。 光莉は一瞬、自分の発言が罠にかかったことに気づいた。 ―この人、ただのビジネスマンじゃない。駆け引きが上手すぎる。 「村崎さん、私が言いたかったのは......」 言葉を選びながら、慎重に続ける。 「人間、誰しも勘違いすることはあります。それは決して愚かなことではありません」 彼女の直感が告げていた。 ―この人には、深入りしない方がいい。 「すみません、そろそろ失礼します。では、また」 光莉はその場を去ろうと、くるりと背を向ける。 「......本当に『また』ですか?」 成之の声が、背中越しに届いた。 「そのままの意味で、また会えるということでしょう?」 光莉の足が止まる。 どう答えればいいのか、言葉が見つからない。 「......私、夫とは仲が良いんです」 最終的に、彼女が選んだのはその言葉だった。 成之は、微かに口角を上げる。 「......そうですか。でも、僕が聞いた話は、少し違いますね」 光莉の心臓が跳ねる。 ゆっくりと振り返り、睨むように彼を見つめた。 「......私のことを調べたんですか?」 「わざわざ調査をしたわけではありません」 成之は淡々と言う。 「そういう趣味はありませんから。ただ、少し耳に入っただけです......伊藤さんとご主人の関係は、それほど良好ではないと聞きました。彼は、伊藤さんを裏切ったことがあるのでは?」 光莉の胸に、鈍い痛みが走った。 過去の傷が、再び疼く。 「......失
「本当かい?それなら、すぐに電話しておくれ」 華は嬉しそうに言った。 しかし、光莉は眉をひそめ、すぐに口を挟む。 「修、今すぐ若子に電話するつもり?今は忙しいかもしれないわ」 まるで、修が若子に電話をかけたら、この世の終わりでも来るかのような顔をしている。 修は何も言わず、そっと華の手を離すと、ポケットからスマホを取り出した。 そして、皆の前から離れ、別荘の玄関へ向かう。 光莉は慌てて追いかけた。 修はすでに連絡先を探していた。 「......本当に若子に電話するの?」 彼女は息を呑む。 ここまできて、もし修が突然連絡を取れば、すべてが水の泡になる。 過去と同じ繰り返し、終わりのない泥沼へ逆戻りするだけ。 「俺が若子に連絡するの、そんなに怖い?」 修の声には、どこか棘があった。 「違うの。そんなつもりじゃないわ、ただ......」光莉は言葉を選びながら続ける。「ただ、あんたがまた傷つくんじゃないかって、それが心配なだけよ」 「心配無用だ」 修は冷たく言い放つ。 「傷つこうがどうしようが、それは俺の問題だ。俺はもう子供じゃないんだから、母さんに守ってもらう必要はない」 光莉は申し訳なさそうに俯く。 「......修、ただ、またあの関係に戻ってしまうのが怖いのよ」 その言葉に、修の中で怒りがふつふつと湧き上がった。 だが、それを抑え込むように、無言のまま電話をかけ、スマホを耳に当てた。 光莉は息を詰まらせる。 彼が何を話すつもりなのか、気が気でなかった。 奪い取ってでも止めたい―でも、それはさすがにやりすぎだ。 もし彼と若子がまた関われば、修、若子、そして西也の関係はますますこじれる。 その混乱は、以前よりも酷いものになるだろう。 そんな不安の中、電話が繋がり、修が口を開いた。 「......もしもし、山田さんか」 「......!」 光莉は驚いて顔を上げる。 ―「山田さん」? 「ちょっと頼みがあるんだ」 相手の返事を聞き、修は続ける。 「俺のおばあさんが、元妻に会いたがってる。でも、彼女は今ここにいない。お前は少し似ているから、代わりに会いに来てくれないか?」 数秒の沈黙の後、修は言った。 「じゃあ、車を手配する。今どこに
侑子が部屋に入ると、全員の視線が彼女に集中した。 光莉は、その顔を見た瞬間、目を見開いた。 ―似てる...... 曜もまた、驚きを隠せない様子だった。 だが、彼らは分かっている。この女性はあくまで「似ている」だけで、若子本人ではないことを。 華はソファに座ったまま、うとうとしていた。 修が彼女に近づき、そっと身を屈める。 「おばあさん、若子が来ましたよ」 その言葉を聞いた途端、華はぱっと目を開いた。 視線を向けると、そこには見覚えのある顔。 しばらくの間、呆然と見つめる。 けれど、何か違和感を覚えたのか、眉をひそめた。 部屋は静まり返った。 ―まさか、ここにきて正気に戻ったりしないだろうか。 「おばあさん、若子に会いたいって言ってたでしょう?ほら、来てくれましたよ」 修はもう一度、優しく言った。 「......あぁ、若子、大きくなったねぇ」 華は手を伸ばす。 「こっちへおいで、おばあさんに顔を見せておくれ」 侑子は少し緊張しながら、修の方を見た。 修は静かに頷き、安心させるような視線を送る。 侑子は勇気を出して華の隣に座り、微笑んだ。 「おばあさん、会いに来ましたよ」 「まぁ、なんていい子なんだろうねぇ......」 華はそっと侑子の頬に触れる。 「しばらく見ない間に、また大きくなって......おばあさん、もうあんたの顔を見分けられなくなっちゃうよ」 侑子は笑みを浮かべながら、静かに答えた。 「最近、食べすぎちゃったのかもしれませんね。ごめんなさい、おばあさん、なかなか会いに来れなくて......」 「いいのさ、みんな忙しいんだからな」 華は微笑みながら、ふっと息を吐いた。 「でも、こうして元気な姿を見られただけで、おばあさんは安心したよ......そうだ、あんた、今は大学生だろう?」 侑子は頷く。 「はい、大学に通っています」 「うん、えらいえらい」 華は満足げに頷いた。 すると、彼女は修を手招きする。 「修、あんたもこっちへ来なさい」 修は少し戸惑いながら、彼女のそばに近づく。 「おばあさん、どうしましたか?」 「立っていないで、若子の隣に座りなさい」 修は口元を引きつらせるが、ここで逆らうわけにはいか
侑子は立ち上がり、修に向かって微笑んだ。 「藤沢さん、おばあさまは休んだね。じゃあ、私もそろそろ行くから」 修は彼女の前に立ち、静かに言った。 「今日は本当に助かった。お前の時間を取らせてしまったな」 侑子は口元をわずかに緩める。 「大した用事はなかったし、むしろお手伝いできて嬉しいわ」 修は軽く頷く。 「送るよ」 侑子は遠慮しようとしたが、少しでも彼と一緒にいたい気持ちが勝り、頷いた。 「......じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとう」 二人がちょうど玄関を出ようとしたとき、不意に声がかかった。 「二人とも」 光莉がこちらへ歩いてきた。 修は足を止め、ゆっくりと振り返る。 光莉は二人の前で立ち止まり、穏やかに微笑んだ。 その視線が、侑子に向けられる。 「山田さん、初めましてね」 侑子は丁寧に会釈し、明るく言った。 「こんにちは。お母さまは本当にお綺麗で、お若いですね」 それは侑子の心からの感想だった。 光莉を初めて見た瞬間、思わず息を呑んだほどだ。 三十代前半にしか見えない端正な顔立ち、美しく整えられた姿勢、そして気品に溢れた雰囲気。 自分もまだ二十代だというのに、彼女の前ではまるで幼い子供のように感じる。 ―こんなに美しい女性が、藤沢さんの母親なのか。 そして、彼の父親もまた整った顔立ちをしている。 ―やっぱり、美男美女の子供は違うんだな...... 光莉は微笑みながら、柔らかく言った。 「若い子には敵わないわよ」 「そんなことないです!お母さまのような品格や知性は、私たちにはとても真似できません。私はただの未熟者ですから」 「まあ、お世辞が上手ね」 光莉は小さく笑った。 世辞が上手い人間は世の中に多い。 侑子も、特に珍しいわけではない。 だが、悪い気はしなかった。 「修、こんな素敵な友人がいたのね。どうして今まで教えてくれなかったの?もっと早く紹介してくれれば、食事でもご一緒できたのに」 修は軽く肩をすくめる。 「今、知ったならそれでいいだろ」 彼の声には特に感情はなく、どこか淡々としていた。 けれど、その微妙な距離感が、光莉の表情を一瞬固くする。 「......ええ、そうね。知れたからいいわ」 侑子は
黒いセダンが静かに道路を走っていた。 修は運転席に座り、両手でハンドルを握りながら、じっと前方を見つめている。 助手席の侑子はシートベルトを締めながら、そのベルトを無意識に握りしめていた。 心臓が、ドキドキとうるさいくらいに鳴っている。 ―藤沢さんと二人きりの車内。 それだけで、緊張で息が詰まりそうだった。 好きな人といると、どうしても挙動不審になってしまう。 ちょっとした仕草も、変に思われないかと気になってしまう。 静寂が続き、少し気まずく感じた侑子は、思い切って話しかけることにした。 「......お母さん、本当に綺麗な人ね。お父さんもすごく格好良かったし。お二人とも、お似合いだったわ」 修は無表情に答える。 「見た目だけは、な」 その言葉に、侑子は一瞬、戸惑う。 ―もしかして、ご両親の仲は良くない......? なんとなく、家族の雰囲気がぎこちないとは思っていたけれど...... 侑子が聞こうとしたそのとき、修が先に口を開いた。 「......さっきは悪かったな」 「え?」 「病院で突然いなくなったこと。それに、この前も、お前に酷いことを言った」 修の声は静かだったが、どこか申し訳なさそうだった。 「それなのに、お前は俺を責めずに手を貸してくれた......感謝してる」 侑子は少し驚いた。 ―藤沢さんが、私に謝ってる......? 胸の奥が、ふわっと温かくなる。 「......気にしてないわ。あのときの言葉だって、私を傷つけようとして言ったんじゃないって分かってたし。むしろ、ちゃんと本音を言ってくれたほうが、曖昧に誤魔化されるよりずっとマシよ」 修はハンドルを握りしめたまま、小さく息を吐く。 「俺はそんな立派な人間じゃない......だから、前妻も俺を捨てていった」 それは、痛みを麻痺させるような独白だった。 侑子はそっと修の横顔を見つめる。 「でも、藤沢さんは自分の過ちを分かってるんでしょう?だったら、そんなに自分を責めなくてもいいんじゃない?」 「......そうかもな」 修は薄く笑った。 その表情には、どこか諦めの色が滲んでいた。 「母さんが、お前に食事をご馳走しろって言ってた。何が食べたい?礼をしたいんだ。もしかしたら、ま
修が車を降りると、若い男が地面に倒れ込んでいた。 カバンが傍らに転がり、男は足を押さえながら痛みに呻いている。 修はすぐに駆け寄り、声をかけた。 「大丈夫か?起き上がれるか?」 倒れていた男が顔を上げる。 その顔を見た瞬間、修の胸がざわついた。 ―見覚えがある。 若子の知り合いのひとり、桜井ノラだ。 以前、病院で会ったことがあった。 あのときは西也が事故に遭い、若子がずっと付き添っていた。 ―こいつが、どうしてここに? ノラも修を認めたようで、驚いた表情を浮かべた。 「......あれ?藤沢さん?」 顔をしかめながら、痛そうに呻く。 「うぅ......痛い......体中が痛くて、骨が折れたかもしれません......」 修は思わぬ再会に驚きながらも、目の前の怪我人を優先する。 「立てそうか?病院に連れて行く」 そのとき、助手席に座っていた侑子が、フロントガラス越しに修が男を支え起こすのを見ていた。 彼女は急いでシートベルトを外し、車を降りて駆け寄る。 「藤沢さん、その人......大丈夫?怪我、ひどいの?」 修が事故を起こしたのではないかと不安になったのだろう。 ノラは顔色が悪く、額には汗がにじんでいた。 彼は侑子を見て、首をかしげる。 「......この人は?」 「お前には関係ない。とにかく車に乗れ。病院へ行くぞ」 誰の責任かはともかく、彼は確かにノラにぶつかった。 ―こいつは怪我をしたようだし、ここに放っておくわけにもいかない。とにかく病院へ連れて行くしかない。 修はそう考えながら、ノラを後部座席へと押し込む。 後部座席のドアを閉めると、修は侑子の前に立ち、軽く頭を下げた。 「悪いな、山田さん」 そう言って、財布から紙幣を数枚取り出し、彼女に差し出した。 「タクシーで帰ってくれ」 侑子の表情が曇る。 「......そう。じゃあ、そうするわ」 だが、彼女は修の手を払いのけた。 「でも、お金はいらない。私、自分で帰れるから」 彼女の強い意志を感じた修は、それ以上押しつけることなく、紙幣をしまう。 「早く彼を病院に連れて行って。私は先に帰るわ」 そう言いながら、侑子は背を向け、歩き出した。 だが、数歩進んだところで
修の「若子」という言葉に、ノラは眉をひそめた。 「僕も気になりますよ、なんでこんなところで藤沢さんと会うんでしょうね。それに、まさか轢かれるとは......運転、ちゃんとしてました?」 「横断歩道でもないところを飛び出して、よくそんなことが言えるな?」修は冷たく返す。「ドライブレコーダーの映像を確認するか?赤信号を無視したのはどっちか、はっきりするぞ」 「僕、急いでたんです!」ノラは不満そうに唇を尖らせる。「それに、歩行者を優先するのが普通でしょ?運転するなら気をつけてくださいよ」 修はため息をつき、これ以上の言い争いは無意味だと判断した。 「とりあえず病院には連れていく。治療費も払う。それ以上は自分でなんとかしろ」 ノラが突然飛び出してきたせいで、修も反応が遅れた。 責任があるとすれば、どちらも半々だろう。 病院に連れていき、治療費を出すだけでも十分なはずだ。 「......本当に冷たいですね。だからお姉さんに捨てられて、別の男と結婚されたんですよ。自業自得じゃないですか?」 修の手がハンドルを強く握りしめる。 「......今、何て言った?」 ノラは痛みをこらえながら、薄く笑った。 「怒りました?でも、僕、嘘なんて言ってませんよね?前に病院で会ったときも、すごく怖かったですし。殴られましたし。そんな人と一緒にいて、姉さんが幸せになれるはずないじゃないですか」 「―!」 助手席にいた侑子は驚き、思わず振り返った。 「藤沢さん、この人と知り合いだったの?それに......殴ったってどういうこと?」 修はエンジンをかけながら、あっさりと言い放った。 「あぁ、殴った。殴られるようなことを言ったからな」 「......っ」 修の平然とした態度に、侑子はますます混乱する。 「え、ちょっと待って。二人とも知り合いで、しかもそんな過去があるの?」 偶然にしてはできすぎている。 ノラは肩をすくめながら、まだ痛みで顔を歪めている。 「一度会ったことがあるだけですよ。お姉さんの旦那さんが事故に遭ったとき、こいつが怪しかったんです」侑子は聞けば聞くほど混乱してきた。口を開きかけたその瞬間、修が言った。 「もういい。黙れ」彼は車内でこの話をする気にはなれなかった。怒りを抑えきれなく
ノラはびくっと肩を震わせた。 「......もう言いませんよ。そんな怖い顔しなくてもいいじゃないですか?お姉さんだって、藤沢さんに怯えて逃げたんですよ。だから、海外に行っちゃったんじゃないですか?」 突然、修の眉がぴくりと動いた。 「お前......彼女が海外に行ったことを知っているのか?」 ノラはあっさりと頷く。 「もちろん知ってますよ。それどころか、どこにいるのかもね。僕、お姉さんとよく連絡を取ってますから」 修の拳がぎゅっと握られる。 ―こいつと、よく連絡を? 胸の奥が押しつぶされるような感覚に襲われる。 それでも修は何も言わず、踵を返した。 しかし、足が動かない。まるで鉛のように重くなり、一歩も踏み出せない。 そんな修の様子を見て、ノラはニヤリと笑う。 「行かないんですか?それとも、僕が恋しくなりました?まさか謝りたくなったとか?」 修は振り返り、低く問いかける。 「......お前と彼女、そんなに仲が良かったのか?」 「もちろんです!僕はお姉さんのこと、本当の姉みたいに思ってますから。お姉さんも僕のことを弟みたいに思ってくれてます。距離は離れても、心は繋がってるんですよ」 ノラは悪びれもせず、笑顔で続けた。 「......もしかして、嫉妬してるんですか?」 修の瞳が鋭くなる。 「自業自得ですよ。お姉さんが藤沢さんを無視するのは当然です。だって、あんたはお姉さんの旦那さんを傷つけたんだから。それが証拠不十分で捕まらなかっただけで、本当なら牢屋行きですよね?」 修の手がノラの襟首を掴んだ。 「俺じゃないっつってんだろう!その話をもう一度言ってみろ。今度は、本当に殴るぞ」 「藤沢さん!」 侑子が慌てて駆け寄り、修の腕を掴んだ。 「彼、怪我してるのよ!今ここで殴ったら、大変なことになるから。落ち着いて!」 修は忌々しげに鼻を鳴らすと、乱暴にノラの襟を放した。 ノラは怯えたように肩をすくめる。 「......もう言いませんよ。でも、お姉さんもきっと怖がってましたよね?だから、今は幸せそうで何よりです」 ノラはニコリと笑う。 「西也お兄さんと一緒にいると、お姉さんはすごく幸せそうですよ。二人はラブラブで、見てる僕まで微笑ましくなります」 ―西也お兄さ
若子の姿は血まみれだった。 自分の血じゃない、それでも―あまりにも生々しくて、見ているだけで胸がえぐられそうだった。 修はすぐに若子をひょいと抱き上げた。 「ちょっ......なにしてるの!?私はここにいる、彼を待たなきゃ」 「若子、手術はまだまだかかる。だから、まず体を洗って、着替えて、きれいになって......それから待とう。もし彼が無事に目を覚ましたとき、君が血まみれのままだったら、きっと心配するよ?」 若子は唇を噛みしめて、小さく頷いた。 「......うん」 修は若子をVIP病室へと連れて行った。ちょうど空いていた部屋で、すぐに清潔な服を持ってこさせた。まだ届いていなかったけれど― 若子はずっと泣き続けていた。 修は洗面台の前で、そっと後ろから若子を抱きしめるように支え、水を出しながらタオルを濡らして、彼女の手や顔を丁寧に拭っていく。 「いい子だから、じっとしてて。血、すぐ落ちるから」 「修......あんなに血が......彼の血、全部流れちゃったんじゃないの......?」 まるで迷子の子どものように、若子は震えていた。 「医者が輸血するさ。絶対に助けてくれる。若子、手を広げて、もうちょっと拭くから」 彼女の体からは生々しい血の匂いが漂っていて、魂まで抜けたように虚ろだった。 修はタオルで彼女の手、腕、顔を優しく拭い、そしてふと、手を伸ばして彼女のシャツのボタンに指をかけた―その瞬間、 「なにしてるの!?」 若子が慌ててその手を掴んだ。目には警戒と不安の色。 修は一瞬、固まった。そして......思い出した。 ―自分たちは、もう夫婦じゃない。 ただの錯覚だった。かつての関係に、心が勝手に戻ってしまっていた。 もう彼女に触れる資格なんて、ないのに。 それでも、腰にまわした腕は......なかなか離せなかった。 しばらく見つめ合ったあと、若子は静かにタオルを取り、赤く染まったそれを見つめた。 「......自分でやるから。もう出て行って」 修は小さく息を吐き、名残惜しそうに腕を離した。 「......わかった。外で待ってる。何かあったら呼んで」 若子はこくんと頷く。 修は浴室を出て、ドアをそっと閉めた。 鏡の前で水を浴びた若子は、腫れ上がった
確かに、修もヴィンセントに銃を向けた―でも。 あの時、若子の目に映った修の目は......あんな狂気に満ちたものじゃなかった。 しかも、あの場面で修は西也を止めていた。もし本気でヴィンセントを殺すつもりだったら、止める理由なんてなかったはず。 だから、若子は......修を選んだ。 黙り込む若子に、修がそっと問いかけた。 「若子......まだ答えてないぞ。俺のこと、信じてないって言ったのに、どうして俺を選んだんだ?」 「......もう、聞かないで」 若子はうつむいて、ぽつりと呟いた。 「ただ、その場で......なんとなく、選んだだけ。深くは考えてなかったの」 西也のことをここで悪く言うつもりはなかった。あれは彼女の個人的な「感覚」に過ぎない。言葉にするには、曖昧すぎる。 修は深く息を吸い込み、しばらく黙ったまま天井を見つめていた。 「......わかった。もう聞かないよ。でも、若子......もし、こいつが死んだら......お前は、どうするつもりなんだ?」 「そんなこと言わないで!彼は、死なない!絶対に、死なないんだから!」 「でも......」 修の口から出かけた言葉を飲み込む。 ヴィンセントの状態は、正直、絶望的だった。助かる可能性は限りなく低い。でも―今の若子に、それを突きつけるなんて......できなかった。 西也だけでも、十分に厄介だったのに、そこへ現れたヴィンセント。命を賭して彼女を守ったこの男。 一方は陰険で冷静な策士、もう一方は命を投げ出す危険人物― 修の胸は、重く沈んだ。 この泥沼の関係、一体いつ終わるのか。 そして― ―侑子は大丈夫だろうか...... 自分が出て行ったとき、きっと彼女は傷ついていた。放っていくしかなかった自分の無力さを噛み締めながら、彼はただ、唇をかみしめた。 侑子に対して抱くのは、情と同情。 でも―若子に対しては、愛。どうしようもなく、深い愛。 ようやく車が病院に到着し、すでに待機していた医療スタッフが慌ただしく駆け寄ってきた。 ヴィンセントはすぐさま担架に乗せられ、ベッドごと手術室へと運び込まれる。 手術室のランプが点灯する。 若子は、血まみれの服のまま、外で立ち尽くしていた。 震える手を見つめると、そ
―どこで、何が、狂ったんだ? 自分の気持ちが足りなかったのか、行動が空回りしていたのか。 西也の体は力なく落ちていくように崩れ、まるで希望ごと奪われたようだった。 拳を握りしめ、爪が肉に食い込む。 ―こんなはずじゃない。絶対に違う。 やっと若子との関係がここまで進んだのに。なのに、あの「ヴィンセント」とかいう男が、どこから湧いて出た?全部ぶち壊しやがって......! ―許せない。 ...... 夜の闇が、防弾車の車内を静かに包み込む。 漆黒のボディはまるで鋼の獣のように、無音の闇を進む。金属の冷たい光をちらつかせながら、獲物を守るように― 若子はヴィンセントを腕の中でしっかりと抱きしめていた。その瞳には、計り知れないほどの不安が滲んでいる。 車内には、血に染まった止血バンデージが散乱し、痛ましい光景が広がっていた。 窓の外では、夜の都市が幻想的に流れていく。ぼんやりと浮かぶ高層ビル、にじむ街灯、歩く人々の影―けれど誰にも、心の奥底の混乱と恐怖までは見えやしない。 修はその隣で、無言のまま座っていた。表情は険しく、苦しみと焦りが混じったような沈痛な面持ち。眉間のしわ、蒼白な頬―まるで、荒れた海に浮かぶ小舟のような無力さを纏っていた。 「冴島さん、お願い、耐えて......お願いだから、死なないで」 若子は必死にヴィンセントの体温を確かめ、冷えた身体を自分の上着で包み込む。 「お願い......死なないで」 ヴィンセントはすでに意識を失っていて、呼吸もかすかになっていた。 「もっとスピード出して!急いで、お願いっ!」 「若子、もう限界だよ。全速力で走ってる。医療班には連絡済み、もうすぐ到着する」 若子は震える手でヴィンセントの前髪を撫で、ポロポロと涙を落とした。 「ごめんね、ごめん......」 その姿に、修は耐えきれず口を開いた。 「若子、それはお前のせいじゃない。謝る必要なんてないよ」 「黙って!!」 若子の声が鋭く響く。 「もしあの時、いきなりあの部屋を爆破して踏み込まなければ......ヴィンセントさんはこんな目に遭わなかった!私はあなたを信じてた。なのに、あなたは私の想いを......裏切った!」 「でも、俺は今、彼を助けようとしてる。お前だって、俺に
「はいっ!」 部下たちが一斉に動き、ヴィンセントを受け取ろうと前へ出る。 修はすぐに若子の前に立ち、きっぱりと言った。 「若子、ヴィンセントは俺に任せて。安全な病院を知ってる。そこの医者は通報なんてしない。俺が責任を持って、彼のことを秘密裏に処理する」 そう言うと同時に、修は部下にさりげなく目配せをした。 すると―場面はまるでコントのような奇妙な空気に包まれた。 なんと、修と西也、ふたりの陣営がヴィンセントを奪い合い始めたのだ。 「遠藤、お前は引っ込んでろ。今は命を救うことが先決だ。俺には医療のリソースがある」 「お前にあるなら、俺にもある。なめるなよ?俺だって安全な病院にコネがあるし、信頼できる医者もいる。若子、俺にヴィンセントを預けて!」 「若子、信じるなよ、遠藤なんて!彼は腹黒い。ヴィンセントを死なせるぞ。俺なら絶対に助けられる!」 「若子、やめとけ。こいつのことなんて、もう信用できないだろ?こいつが前にお前にしたこと、忘れたのか?」 修と西也、互いに一歩も引かずに言い争いを続ける。 ......もう、ぐちゃぐちゃだった。 「全員、黙りなさいっ!!」 若子の怒声が、あたりを震わせた。 こんな大事な時に、男たちが口げんかしてる場合じゃない。彼女は真っ直ぐに修を見つめた。 「修......最後の最後に、あなたを信じる。ヴィンセントさんを任せるから、絶対に、最善の医者に診せて。彼を助けて」 修は深く頷き、安堵の息を吐くと、自らの腕でヴィンセントを抱き上げた。すぐに部下たちが受け取り、彼を連れて足早に去っていく。 若子も、そのあとを追った。 「若子!」 西也が焦って駆け寄り、叫ぶ。 「どうしてこいつに預けたんだ!?こいつは絶対に、ヴィンセントを殺す!信じちゃダメだ!」 「......さっき、彼はあなたに殺されかけたのよ」 若子は西也の手を振り払い、きっぱり言い放った。 「もういいの。これ以上話したくない。今は彼を救うことだけが私のすべてよ。だからお願い、放っておいて」 混乱と疲労で頭が真っ白だった。何もかもが絡まりすぎて、考える余裕もない。ただひとつ―ヴィンセントの命を救う、それだけだった。 それ以外のことは、あとで考える。 西也は呆然としたまま、若子が自分の手
今の若子には、他のことなんてどうでもよかった。たとえ医者が警察に通報しても、しなくても、彼女が望んでいるのは―ヴィンセントを、生かすこと。 彼がここで死んでしまったら、すべてが終わってしまう。 ヴィンセントは手を上げて、そっと若子の頬に触れた。涙を指でぬぐいながら、弱々しく笑う。 「泣くなよ......どうせ、俺たちそんなに親しくもないし。俺が死んだって、別にいいだろ」 「だめ!絶対にだめ!ヴィンセントさん、お願い、生きて......生きてよ、頼むから!」 「俺が死ねば、妹のところに行ける。だから......そんなに悲しむな。あのふたりの男、君のことすごく愛してるみたいだな。でもさ......俺は、君には幸せでいてほしい。誰かに愛されてるからって、それに縛られなくていいんだ。松本さん、男なんて、あんまり信じるなよ」 「冴島さん、目を開けて!ねぇ、お願い、開けてってば!」 若子は震える手でヴィンセントの瞼を押し開こうと必死になった。 そして、奥歯を噛み締めながら、全力で彼の体を背負い上げる。 「病院に連れてく!絶対に死なせない、私が死んでも、あなたは生きるの!マツだって、きっと同じ気持ちよ!」 そのとき、修がやっと我に返って駆け寄った。 「若子―!」 「来ないでっ!!」 若子は振り返って怒鳴りつけた。 「触らないで、修!あれだけ『撃たないで』って言ったのに、どうして聞いてくれなかったの?なんで私の話を、無視するの!?西也、あんたもよ!何も知らないくせに、勝手に撃って......ひどいよ、ふたりとも、ひどすぎる!」 怒りと絶望が入り混じった叫び声は、途中で息が続かなくなるほどだった。目には怒りの火が灯り、血の気の引いた顔には氷のような冷たさが宿っていた。彼女のその表情に、沈霆修も西也も言葉を失う。 ―まるで、憎しみを湛えているみたいだ。 「若子、俺だって、助けたかったんだよ......」西也は慌てたように言った。「この男が、まさかお前を助けたなんて......そんなの知らなかったんだ!これは、全部、誤解なんだよ!ワザとじゃない、信じてくれ!」 「どいて、もう何も話したくない。どいて!」 彼女の体は小さくても、気迫は誰にも負けなかった。全身が血と汗にまみれても、彼を背負って一歩一歩、出口へ向かおう
「大丈夫、少なくとも彼は助けに来てくれた。もう危ないことはない」 ヴィンセントは、もう死を恐れてなんかいなかった。首の皮一枚で生きる日常、いつ爆発するかわからない時限爆弾を抱えたような人生。今日死ぬか、明日死ぬか、それに大した違いなんてない。 早く死ねば、それだけ早く楽になれる。 若子は力いっぱいヴィンセントを支えて立たせると、修に向かって叫んだ。 「修、お願い―」 その言葉が終わる前に、突然、もう一組の人間がなだれ込んできた。 「若子!無事だった?こっちに来て!俺が助けに来たよ!」 西也はヴィンセントと一緒に立っている若子を見て、全身血まみれの彼女にショックを受けた。そして、反射的に銃を構え、バンバンバンとヴィンセントに向けて数発撃った。 「やめてええええええ!」 若子は喉が裂けそうなほど叫んだ。ヴィンセントが撃たれて、その場に崩れ落ちるのを、目の前で見ることしかできなかった。 「やだ......やだ!」 彼女はその場に膝をついて、苦しげに叫ぶ。 「ヴィンセントさん、冴島さん......冴島さん、お願い、死なないで、お願い......!」 「遠藤、お前ってほんと狂犬ね!」 修が彼を止めに入る。 「何やってんだ!」 「俺は若子を助けに来たんだ!彼女はいま危険だったんだぞ!それをお前は何もせずに突っ立ってただけじゃないか!何の役にも立ってない!だから俺が、夫の俺が守るって決めたんだ!」 西也は修を強く押しのけ、若子のもとへ走り出した。 「来ないで!」 若子は怒りに震えながら、西也に向かって叫んだ。 「なんで事情も知らないのに撃つの!?ひどすぎるよ!」 西也はその場で固まった。若子に責められるなんて思ってもみなかったのだ。 ―こんなこと、初めてだ。 「若子......俺は、助けたかったんだ。電話も繋がらないし、もう心配で、心配で......寝る間も惜しんで探し回って......こいつがどんな奴か知ってるのか?『死神』ってあだ名で呼ばれてる、殺しに躊躇しない化け物なんだぞ!」 「でも、彼は私を助けてくれたの。命の恩人よ。彼がいなかったら、私はもうとっくにあのギャングたちに......殺されてたかもしれない! ねぇ、あと何回言えば伝わるの!?なんでみんな、私の話を聞こうとしな
「......お前......」 修が歩み寄ろうとした瞬間、若子は彼を強く突き飛ばした。 「彼が言ったこと、間違ってなんかない!一言だって間違ってないわ!」 若子の瞳には怒りが燃えていた。 「修、私がギャングに捕まって、暴行されそうになって、殺されかけたとき―助けてくれたのはヴィンセントさんだった!......じゃああんたは?どこにいたの!? どうせあれでしょ、山田さんと手を繋いでアイス舐めあってたんでしょ?あの女の唾液を嬉しそうに食べてたんでしょ? ベッドででも盛り上がってた?私が死にかけてるときに!」 「......っ」 修は言葉を失った。 「はっきり言っておくわ。私は今、助けなんか求めてない。 今さら『心配してる』なんて顔して現れて、正義ぶらないで。全部、自己満足じゃない!」 「自己満足だって......俺は、必死にお前を探した。命がけで心配したんだぞ、それが『無駄』だっていうのか!?」 彼の叫びは、若子の怒りを前に粉々に砕けた。 「感謝するわよ、『探してくれてありがとう』って。でも、結局あんたがしたことは、私の恩人の家を爆破して、彼を傷つけたこと。 私、明日には自分で帰るつもりだった。放っておけばよかったのよ。 それをあんたが余計なことして、勝手に盛り上がって、感動して、自分に酔って―それを私が理解しないって怒る?」 「若子......お前、あんまりだ......どうして、そんなに冷たいんだ......」 修の声はかすかに震えていた。 「冷たい?じゃあ、聞くけど― さっき私が止めたよね?でもあんた、全然聞かなかった。彼に銃を向けて、撃とうとした。 あげくの果てには、『私が正気じゃない』とか言って、自分の都合で全部決めつけて......そんなあんたの努力、私がどうして感謝できるの? 修、あんたの『努力』はやりすぎなのよ」 若子は涙を拭いながら、冷たく言い放った。 「それに― 山田さんとラブラブなんでしょ? だったら彼女のそばにいなよ。なんでこっち来てまで『頑張って助けに来た』とか言ってるの?彼女、あんたの子どもを妊娠してるんでしょ?戻って、ちゃんと支えてあげなよ」 修は目を閉じ、深く息を吸った。 心の中で何かが音を立てて崩れていく。 若子の言葉は、す
「修、彼は私の命の恩人なの!絶対に傷つけさせない!誰にも彼を傷つけさせない!」 「......今、なんて言った?」 修の目が信じられないものを見るように大きく見開かれた。 「......あいつが、お前の命の恩人......だと?」 「そうよ。私が危ないところを助けてくれたのは彼なの。だから、彼を傷つけるってことは、私を傷つけるのと同じなの!」 その言葉に、修は言葉を失った。 事態は、彼の想定を完全に超えていた。 若子が何か薬を盛られて、意識が朦朧としてるんじゃないか― そんな疑念がよぎる。 けれど、彼の目にははっきりと見えていた。 若子の首筋にくっきり残った、指の跡。 明らかに暴力によるものだ。あの男がやったに違いない。 だとしたら、なんで彼女はこんなところにいるんだ? なんで家に帰らず、連絡もよこさなかった? これが「救い」だっていうのか? 「若子、わかった......まず、銃を返して。もう彼には手を出さない」 彼女の感情が高ぶっている中で下手に手を出せば、逆効果だ。 今は、冷静にするのが先。 「本当に?」 若子が疑うように問い返す。 修は静かに頷いた。 「本当だ。銃を、返してくれ」 もしこのまま彼女の手元に銃があれば、暴発の危険すらある。 若子は少し迷いながらも、ゆっくりと銃を修に手渡した。 だが、修は銃を受け取るや否や、すぐさま部下に命じた。 「囲め。あいつから目を離すな」 部下たちが一斉に動き、ヴィンセントを取り囲む。 銃口が一斉に彼へ向けられる。 「あんた......私を騙した......」 若子の叫びが響いた。「なんで......なんでそんなことができるの!?」 彼のもとへ走り寄り、その胸倉を掴む。 「やめて!銃を向けるな!お願い、彼にそんなことしないで!」 「若子、あいつはお前に何をした?」 修は彼女の肩をしっかりと掴み、必死に訴える。 「何か注射されたのか?薬を使われたのか?あいつに傷つけられたのに、なぜそこまでかばう!?病院に連れて行く、すぐに検査を―」 ―バチンッ! 乾いた音とともに、若子の平手打ちが修の頬を打った。 「藤沢修、あんたって人は......!」 「桜井さんのために私と離婚すると決めた
若子が生きていると確認して、修はようやく安堵の息を吐いた。 これまで幾度となく、彼女を探し続けるなかで何度も遺体を見つけ、そのたびに胸が潰れそうな絶望を味わった。 けれど、若子だけは見つからなかった。 代わりに、他の行方不明者ばかりが見つかった。 そして今ようやく、彼女を見つけた。 彼女は―生きていた。 だが彼女がどんな目に遭っていたのか、想像するだけで胸が痛んだ。 「修......なんであなたが......?」 若子は信じられないような目で彼を見つめた。 「どうしてここに?」 まさか来たのが修だったなんて、夢にも思わなかった。 ヴィンセントは目を細めて振り返った。 「この男......テレビに出てたやつじゃないのか?君の前夫だろ?」 若子はうなずいた。 「うん。彼は......私の前夫よ」 修が来たと分かって、若子は少しだけ安心した。 「若子、こっちに来い!」 修は焦った様子で手を伸ばした。 「修、どうしてここに......?」 「お前を助けに来たに決まってるだろ!お前がいなくなって、俺は気が狂いそうだった!」 「わざわざ......私のために......?」 若子は、てっきりヴィンセントの敵が来たのだと思っていた。 「若子、早く来い!そいつから離れて!」 「修、違うの!誤解してる!彼は......ヴィンセントって言って、彼は......」 若子が話し終える前に、修は彼女を後ろへ引っ張り、銃を構えてヴィンセントに発砲した。 ヴィンセントはまるで豹のような動きで避けたが、すぐに更なる銃弾が飛んできた。 すべての男たちが一斉にヴィンセントへ発砲を始めた。 彼はテーブルの陰に飛び込んで避けたが、ついに銃弾を受けてしまった。 「やめて!」 若子は絶叫した。 銃声が激しく響き、彼女の声はかき消されていった。 「修、やめて!」 彼女は必死に彼を掴んで叫んだ。 「撃たせないで、やめて!」 「若子、お前は何をしてるんだ!?あいつは犯罪者だぞ!お前を傷つけたんだ、正気か!?」 修には、なぜ若子がヴィンセントを庇うのか理解できなかった。 「彼は違う、彼はそんな人じゃない......!」 「違わない!」 修は彼女の言葉を遮った。 「