光莉は、ただ華を安心させるためだけにこの嘘をついた。 それがわかっていながらも、曜の胸にはわずかな期待が芽生えてしまう。 彼はそっと光莉の手を握った。 その手のひらから、ほんの少しでも温もりを感じたくて。 ―たとえ、ほんの一瞬でも。 この女性が少しでも自分を受け入れてくれるなら、それだけで幸せで、何日も眠れなくなるほどだった。 「本当に?」 華は驚き、そして心から嬉しそうな表情を浮かべた。 「光莉、ようやく曜を許してくれたのね!」 光莉は静かに華のそばに寄り、優しく微笑む。 「はい、お義母さん。私は彼を許しました」 しかし、華はすぐに表情を曇らせる。 「でもね、光莉......本当に無理していない?もし、ただ私を安心させるためなら、そんなことしなくていいのよ。曜がどれだけ酷いことをしてきたか、ちゃんとわかってる。だから、もしあんたが本当に彼と一緒にいたくないなら、私はちゃんとあんたの味方をするわよ」 「違うんです。これは、私が自分で決めたことです。 彼は間違いを認めて、ずっと償おうとしてきました。私も、もう過去を責め続けたくはありません。だから、これからは一緒に生きていこうと思います」 曜の目がじわりと熱くなる。 もし、これが現実なら、どんなに幸せだっただろう。 だが、これはただの嘘。 彼女は、ただ華を安心させるために、そう言っただけなのだ。 「......光莉、あんたが幸せなら、それでいいのよ」 華はそっと彼女の手を握った。 「どんな決断をしても、あんたはずっと家族よ」 そう言って、華は曜に向き直る。 「曜」 曜はすぐに彼女のそばへ行く。 「もし、また光莉を傷つけたら、その時はもう私を母だなんて思わないで。私もあんたを息子とは思わないわ」 曜は喉の奥が詰まり、かすれた声で答えた。 「......わかった。二度と光莉を傷つけない。彼女に怒られても、罵られても、何も言い返さない。絶対に、彼女のそばで償い続けるよ」 華は満足そうに微笑む。 「そう、それでいいのよ。大の男が泣くなんて情けないわね。息子もいるのだから、ちゃんと見本になりなさいよ。修が将来、あんたみたいな男になったらどうするの?」 その言葉に、光莉の視線が自然と修へと向かう。 「
修は病室で華ともう少し一緒に過ごした後、光莉に呼ばれた。 「修、今日はもう帰って休みなさい」 「母さん、大丈夫だ。もう少しおばあさんと一緒にいたい」 「あんたあんたの気持ちは分かる。でも、自分の体も大事にしなきゃ。見てごらんなさい、すっかり痩せてしまって......おばあさんも心配しているのよ。だから今日は帰って、ちゃんと休んで」 修は確かにやつれていた。 体調が万全とは言えない状態なのは、一目で分かる。 曜も口を挟む。 「修、彼女の言う通りだ。しっかり休め。お前、ひどい怪我をしたばかりなんだぞ。おばあさんを安心させるためにも、まずは自分の体を労れ」 「そうよ」光莉も続ける。 「あんたが帰ったら、私が若子に連絡して来てもらうわ」 その言葉に、修は微かに苦笑する。 「母さんは、本当に俺と若子を会わせたくないんだね?」 光莉はそっとため息をつき、彼の肩を軽く叩いた。 「修......若子はずっと苦しんでいたの。今はあんたも苦しんでいる。だけど、二人が会ったところで、どうなるの? あんたは、本当に復縁できると思ってる?もし、復縁できないのなら、また傷つくだけよ」 修の目の前が、ぼんやりと歪んで見えた。 彼は理解していた。 誰も、彼と若子が元に戻れるとは思っていない。 母でさえ、彼を励ますことはなく、ただ現実を突きつけるだけだった。 ―誰も、俺の味方をしてくれないんだな。 彼はふと、友人たちの顔を思い浮かべた。 彼らもきっと、こう思っているのだろう。 「自業自得だ」と。 ......その通りだ。 自分が、すべてを壊したのだから。 修は、静かに目を閉じた。 そして、深く息を吐き出しながら言う。 「......分かった。帰りるよ」 重たい足取りで、彼は病院を後にした。 光莉はその背中を見送りながら、寂しそうにため息をつく。 曜がそっと彼女の肩に手を置いた。 「光莉......どうして、修と若子を会わせたくないんだ?本当に、二人を別れさせたいのか?」 曜は、ずっと疑問に思っていた。 けれど、光莉が強く反対した以上、自分が口を挟む立場ではないと思い、黙っていた。 しかし、修が去った今、彼はようやく口を開いたのだった。 光莉は、目元の涙を指で拭い
若子は十日間の入院を経て、ようやく退院した。 お腹の子はすでに五カ月目。 彼女のお腹は大きくなり、動くのもひと苦労だった。 少し歩くだけで疲れてしまい、ほとんどの時間をベッドで過ごすしかない。 しかし、西也はそんな彼女を細やかに気遣い、食事も飲み物も全て自分で運び、まるで彼女に何一つさせまいとするかのようだった。 果てには、風呂まで手伝おうとする始末。 だが、さすがにそれは若子が拒否し、できる限り自分で入ることにした。 どうしても無理なときは、メイドを頼ることにしている。 西也も、そこは無理強いしなかった。 夕食を終え、若子はベッドに腰掛けながら、ふと祖母に電話をかけたくなった。 考えてみれば、しばらく連絡を取っていなかった。 修と離婚した後も、藤沢家の人たちは「離婚しても、藤沢家の人間だ」と言ってくれた。 だが、現実には彼女は自然と藤沢家と距離を置くようになった。 それは意図したものではなく、気づけばそうなっていたのだった。 電話をかけると、出たのは光莉だった。 「もしもし」 「お母さん?」若子はすぐに彼女の声を聞き分けた。 「どうして母さんが出るんですか?」 「若子、どうかしたの?」 「おばあさんと話したいんですけど......どうして母さんお母さんが携帯を持っているんですか?」 「ああ、今おばあさんのところにいるの。でも、ちょっと都合が悪くてね」 「おばあさん、具合が悪いんですか?」 「......少しね。あんたも退院したことだし、そろそろ話しておくわ」 光莉は、華の病状を伝えた。 若子は、言葉を失った。 心がぎゅっと締めつけられる。 そんな彼女の様子を見て、西也がすぐに駆け寄った。 「若子、どうした?」 「おばあさんが......病気になったの......会いに行かないと」 「病気って......何の?」 「認知症」 若子は涙を拭いながら答えた。 「すぐに行かなきゃ......」 そう言って、彼女は布団をはねのけて立ち上がろうとする。 「若子、落ち着いて」 西也はすぐに彼女の腰を支えた。 「止めないで。私は行かなきゃ」 「止めてるわけじゃない」 西也は静かに言う。 「車を出すから、一緒に行こう」 彼が
西也は車を走らせ、若子を華のもとへ連れて行こうとしていた。 だが、道中で光莉から連絡が入り、目的地が変更された。 若子は、指定された住所へと向かう。 そこは、レストランだった。 個室に入ると、すでに光莉と華が待っていた。 若子は大きなお腹を抱えながら、足早に駆け寄る。 「おばあさん!」 だが、次の瞬間、華がきょとんとした顔で、彼女を見つめた。 「......あなた、今なんて?」 その問いに、若子の胸がぎゅっと締めつけられる。 電話で聞いたときは、まるで夢のように思えた。 現実とは思えず、ただの悪い夢だと願った。 しかし― いざ、こうして目の前で確かめると、あまりにも現実的だった。 光莉が立ち上がり、二人を席へと促す。 「座りましょう」 若子は、西也に支えられながら椅子に腰を下ろした。 その間も、華の視線は不思議そうに彼女を見つめている。 西也はそんな華を見ながら、ふと光莉にも目を向ける。 彼女は、自分をじっと見つめていた。 ―その目は、以前と違っていた。 そこには、敵意も拒絶もなかった。 むしろ、どこか親しげな、懐かしむような色さえ感じる。 なぜ急に、態度が変わったのか? 西也は、それが妙に気に食わなかった。 高峯が絡んでいるのか? いや、それだけではない気がする。 彼女は強い女性だ。 簡単に誰かに屈するようなタイプではない。 ―ならば、いったい何があった? 彼は複雑な表情を浮かべながらも、若子を気遣い、椅子へと座らせる。 「おばあさん......私です、若子ですよ。分かりませんか?」 すると、華は穏やかに笑いながら言った。 「若子?何を言っているの?」 彼女は首を傾げ、若子のお腹を見つめる。 「うちの若子は、まだ中学生だよ?なのに、あなたはこんなに大きくなって......それに、お腹の子はもう何カ月目?」 若子は、電話で光莉が言っていた言葉を思い出した。 「おばあさんを刺激しないで。忘れてしまったことは無理に思い出させないで。もし記憶を呼び戻そうとすると、頭痛を起こす可能性があるの。絶対に、自分が認知症だと気づかせちゃダメよ」 そう言われていた。 彼女は涙を必死にこらえ、笑顔を作った。 「......気づか
四人はそのまま、和やかに会話を続けた。 若子は心の痛みを抑えながら、華と楽しそうに話す。 華の記憶は少し混乱していたが、何度も口にするのは、若子と修のことだった。 二人の関係がどれほど良かったか、どれほどお似合いだったか―そんな昔話ばかりを繰り返す。 その言葉を聞きながら、若子の胸にはさまざまな思いが込み上げてきた。 彼女と修にも、確かに美しい時間があった。 けれど― 今はこんなにも壊れてしまった。 そして、おばあさんもこんなふうになってしまった。 だが、これでよかったのかもしれない。 華の記憶には、幸せな時だけが残り、あとの苦しみや悲しみはすっぽり抜け落ちている。 ―それだけでも、救いだった。 ただ、残念なのは― 華が、もうすぐ生まれてくる曾孫のことを忘れてしまっていることだった。 そんな中、西也は終始、微笑みを浮かべながら会話を聞いていた。 穏やかに、温かく―誰が見ても、優しそうな男に見えただろう。 しかし、彼の心の内はまるで違った。 彼は、自分の胸の奥が何かに強く押しつぶされそうなほど、嫉妬に狂いそうになっていた。 ―あいつは、ただ運が良かっただけだ。 若子と十年間も一緒にいられたのも、幼馴染として過ごせたのも、すべては偶然の産物に過ぎない。 あんな男が、そんな幸運を手に入れる価値があったのか? だが、今はもう違う。 ―神様は、ようやくあいつからすべてを奪った。 そして、若子は今、彼の隣にいる。 しかし、ひとつだけ気がかりなことがあった。 修は、若子の妊娠を知っているのか? もし知っているのなら、なぜ何の反応もない? もし知らないのなら― それはつまり、修の母親である光莉も、祖母も、彼に何も伝えていないということになる。 華はもう認知症が進み、何も覚えていない。 では、光莉はどうだ? 彼女は修に、若子の妊娠を伝えるつもりはないのか? 西也は、疑わしげな視線を光莉へと向けた。 そして、今日のことを思い返す。 若子を華のもとへ送る前、彼はずっと不安だった。 ―もし藤沢家の人間と会ったらどうする? 若子の大きくなったお腹を見れば、すぐに分かる。 修がそれを知ったら、何が起こるか分からない。 だからこそ、彼は出発前にあ
西也の険しい表情を見て、光莉は彼が修をどれほど嫌っているかを痛感した。 兄弟がこうして敵対し合う姿を思うと、胸が締めつけられる。 彼女にとってはどちらも大切な息子だった。 けれど― 彼らが仲良くすることを願うのは、もはや無意味なのかもしれない。 生まれ育った環境も違う。 そして、何より―彼らは同じ女性を愛してしまった。 修は弟で、西也は兄。 そして、兄の妻は、弟の元妻であり―しかも、そのお腹には弟の子どもがいる。 ―こんなにも、ぐちゃぐちゃな関係になるなんて。 光莉は、頭が痛くなりそうだった。 前の世代の因縁が、そのまま次の世代にまで持ち越されてしまった。 まるで、過去の業が、彼らを縛りつけているかのようだった。 「......西也」 彼女は、意を決して口を開いた。 西也は、その呼びかけにわずかに眉をひそめた。 彼はその名を、光莉の口から聞きたくはなかった。 「伊藤さん」 彼は低い声で返す。 「あなたにそんなふうに呼ばれる筋合いはありません」 「別にいいじゃない。私の年齢なら、あんたを『西也』と呼んでも、不自然じゃないでしょう?」 光莉は落ち着いた口調で言った。 西也は深く息を吸い込み、一瞬考えた後、渋々と頷く。 「......好きに呼んでください」 ―だが、どう呼ばれようと、何も変わらない。 二人の間に横たわるのは、ただの奇妙な関係ではなく、もっと根深いものなのだから。 彼らは、敵同士だった。 光莉は彼を侮辱し、罵り、殴りつけた。 西也は、それを決して忘れてはいない。 「......修を憎むのは、やめてくれない?」 光莉の静かな声が、部屋の空気をわずかに変えた。 西也の目が細くなる。 「......なんですって?」 「修を嫌っているのは分かるわ。でも、修と若子はもう離婚したのよ。二人の関係は終わったわ。私は保証する......若子はもう修と関わることはない。だから、今のままでいいじゃない?」 彼女の言葉に、西也は鼻で笑った。 「......あなたは、自分が何を言っているのか理解しているんですか?」 光莉が、こんなふうに自分の前で頭を下げるようなことを言うなんて、到底信じられなかった。 彼女はそんな弱気な人間ではない。
「意味がない」―その言葉を聞いた瞬間、光莉の心は深い谷底へと突き落とされた。 ―そうだ、西也にとって藤沢家にどんな意味がある?私という母親にどんな意味がある? 彼は、光莉が母親だということすら知らない。 それは、彼女が臆病だったから。怖かったから。西也に憎まれるのが。 でも、母親として憎まれるより、ただの他人として憎まれる方がまだマシだった。 ―この痛みは、私一人が抱えていればいい。 西也が憎んでいるのが「他人」だと思っている方が、「母親」を憎むよりもずっといいのだから― 西也は少し疑問を感じながら、試しに尋ねた。 「僕、てっきり若子はおばあさんの家に行かれるものだと思っていましたが......まさかこんなレストランでお会いするとは。それに、ご主人と息子さんは?」 光莉は静かに答えた。 「二人とも忙しくて、今は時間がないの。だから今日は、お義母さんを連れて外に出ようと思って」 「......そうですか?」 西也はますます興味を抱いた。 他のことはさておき、修がどれだけ忙しいかは知っている。 でも、若子にすら会わないほどだろうか? これはチャンスだ。 ......いや、もしかすると修自身が、今日若子に会える可能性があったことすら知らなかったのかもしれない。 光莉という女、やはりどこか妙だ。 「あなたが、僕に息子さんを憎まないよう言われるのは......まぁ、別に構いません」 西也は肩をすくめ、ふと目を細めた。 「ですが、もし彼が今後も若子にしつこく付きまとうなら、どうするおつもりですか?」 光莉は顔を上げ、まっすぐな目で答えた。 「止めるわ」 「......え?」 西也は思わず耳を疑った。 ―親子なのに?だったら普通、味方するもんじゃないか? 「修と若子はもう終わったの。だけど、修が彼女に与えた傷は決して癒えない。これ以上関われば、若子はますます苦しむだけ。だから、二人は離れた方がいい。 もし、あんたが現れなかったら、若子はもっと傷ついていたでしょう。彼女のそばにいてくれてありがとう」 西也がどんな人間であれ、少なくとも若子への気持ちは本物だ。 彼は決して、彼女を傷つけようとはしない。 光莉の誠実な言葉を聞いて、西也は半信半疑だった。 「....
光莉は、西也の沈んだ表情を見て、胸が締めつけられるような気持ちになった。 「......私から彼女に話してみるわ」 俯いていた西也の瞳が、一瞬だけ鋭く光った。 だが、その光はすぐに消え、彼は驚いたように顔を上げる。 「......今、何て?」 「私が彼女に話してみる。早くあんたと一緒に海外へ行くように、そして記憶の回復を手伝ってあげるように」 西也は思わず目を細める。 ―信用できない。 光莉が、まさかこんなふうに協力的になるなんて。 「......冗談ですよね?」 「冗談なんかじゃないわ。本気よ」 「......どうして僕を手伝うんですか?」 「修のためでもあり、若子のためでもある。そして......あんたたち三人がこれ以上もつれないようにするためよ」 「......でも、若子のおばあさんは?若子は絶対に彼女を見捨てないと思いますけど」 「だから、私が話してみるのよ」 光莉は静かに言い切る。 「うまくいくかは分からない。でも、全力を尽くしてみる」 その頃、若子は華を支えながら、レストランへと戻ってきた。 二人は席に着き、改めて談笑を始める。 ―さっきまでお母さんと西也が話していたけれど、大丈夫だったのだろうか? 若子は内心で少し気を揉んでいたが、二人の様子を見る限り、特に揉めた様子はないようだった。 その後、四人でしばらく話し込み、ようやく店を出る頃には、日はすっかり傾いていた。 若子は華の腕を取り、名残惜しそうに寄り添う。 ......本当は、もっと一緒にいたかった。 駐車場に着くと、光莉がふと口を開く。 「お義母さん、先に車に乗ってて。すぐ行くから」 「......分かったわ」 華も少し疲れたようで、小さく頷くと車に乗り込む。 光莉は丁寧に彼女を支え、ドアを閉めた。 そして、ゆっくりと振り返り、若子の前に立つ。 その視線はまっすぐ西也に向けられていた。 ―その目には、何か複雑な感情が浮かんでいるように見えた。 少しの沈黙の後、光莉は口を開く。 「若子と二人で話がしたいのだけど、いいかしら?」 西也は軽く頷く。 「......じゃあ、車で待ってる」 若子も頷き、「うん、すぐ行く」と答えた。 西也が車へ向かい、光莉と若子
侑子は歯を食いしばって言った。「私がどれだけ堕落しても、少なくとも死にはしない。これが堕落なんかじゃない、ただ、私は藤沢さんをあまりにも大切に思いすぎているだけ。人を救いたいと思うことが、どうして堕落だって言えるの?」「その通りだな」修は皮肉な笑みを浮かべて言った。「言い間違えたかもしれないな、お前のは堕落じゃない。お前はただ、貞操を落としてるだけだ」その言葉に、侑子は雷に打たれたような衝撃を受けた。「……何を言ってるの?」彼女は修がこんなに酷い言葉を言うなんて思ってもいなかった。「俺が間違ってるか?」修は一言一言が鋭い刃のように突き刺さるように言った。「愛されもしない男のために、泣き叫んで死にたいだなんて、しかもその男に殴られて罵られることを望むなんて。お前は一体何を勘違いしてるんだ?お前が俺を救うだなんて、冗談じゃない。お前にそんな資格はない。お前は救世主じゃない、ただの自己満足だろう」彼は意図的に侑子を侮辱して、彼女に目を覚ませと叫んだ。彼女が費やした時間は、ただ苦しむだけで、希望も結果も得られないことを彼女に分からせたかった。修は、彼女に一切の期待を抱くつもりはなかった。侑子は堪えきれずに涙が溢れ出した。「あんたが言う通りよ……私はただの貞操のない女よ!私は……」そのとき、突然胸の奥から激しい感情が湧き上がり、息ができなくなり、胸を押さえながら息を荒げて、大きく呼吸しようとしたが、体が徐々に地面に崩れ落ちていった。修は顔色を変え、痛みを堪えながら床から立ち上がり、彼女を支えて立ち上がらせると、すぐに振り返って叫んだ。「誰か!」数時間後、侑子はゆっくりと目を開けた。修は病院のベッドに横たわりながら、病人の服を着て、点滴を受けているのが見えた。侑子は涙に濡れた目を瞬きながら言った。「藤沢さん、大丈夫?」修は疲れた表情を見せながら答えた。「俺は大丈夫だ」侑子はベッドから起き上がり、背もたれに寄りかかりながら周りを見回した。「私は生きているわ、元気よ」修は侑子の顔色を見てため息をついた。「すまない、さっきは言い過ぎた」あのときの自分の言葉があまりにもひどかったことに気づいた。侑子は感情を抑えきれず、心臓の発作を起こして、命の危機に瀕していた。修は本来、この女に自分
「私......私が言っていることは分かっている、藤沢さん、私は......」 「黙れ」 修は彼女の言葉を遮るように冷たく言った。 「前にも言っただろう、俺の心にあるのは一人の女だけだ。名前は松本若子。お前には絶対に無理だ」 修の言葉は一言一言が決然としており、彼女に一切の希望を与えることはなかった。侑子がまだ何も言っていないのに、修はまるで彼女が今思っていることを見透かしているかのように感じた。 侑子は目を見開き、顔色が急に青ざめた。 心の中で渦巻く感情は、まるで猛々しい波のように彼女の脆弱で無力な心を砕いていった。 修の言葉は一つ一つが鋭く刺さり、心臓を深く突き刺すように感じ、血が絶え間なく流れ出すようだった。 侑子は泣きもしなかった。何の感情も表さず、ただ修を無表情に見つめている。まるで魂が抜け落ちたかのように。 長い沈黙の後、彼女はようやく自分の感情を落ち着け、内に渦巻く悲痛な叫びを押し殺すように言った。 「藤沢さん、私の話を最後まで聞いてから、批判してもらえる?」 彼女はずっと修を「藤沢さん」と呼び続けている。彼女は修が好きだと認めている。彼の側にいたいと思っている。しかし、彼女は一線を越えることはできなかった。 彼女は修を「修」と親しく呼びたいとも思ったが、どうしても言えなかった。 侑子の言葉は穏やかだったが、その中には隠れた絶望が感じられた。 修は彼女の反応が少し大きすぎたことに気づいたようだが、侑子が言ったことは彼にとって許せないことだった。彼女の言葉は、彼にとっては越えた一線に思えた。 旅行に行こうと言われ、彼女と感情を育んでいこうという提案に、修は気分が悪くなった。 修は冷たく言った。 「お前はもう俺と一緒にアメリカに行くんだろう?それ以上、何を話すことがある?」 「私がアメリカに行くのは、私のためじゃない、藤沢さんのためよ」 侑子は歯を食いしばり、怒りをにじませて言う。彼女は元々おおらかな性格だが、今は抑えきれなくなっていた。 「俺のため?」修は鼻で笑った。「本当にそう思っているのか?」 「そうよ」侑子は悲痛な表情で言った。「藤沢さんは前妻のために命をかけるほどの気持ちを持っている。藤沢さん、あんたが本当は死にたいんだって、私は分かっている」 修の顔色はます
おおよそ四十分後、病室のドアがノックされた。 まるで修がまた怒るのを恐れているかのように、ドアがノックされた瞬間、外から侑子の声が聞こえる。 「藤沢さん、私よ」 修が答える。 「入ってこい」 彼の許可を得て、侑子はそっとドアを開け、慎重に閉めた。 彼女の頭の傷はすでに処置されていて、その顔色は少し青白く、弱々しく可哀想に見える。彼女は男を惹きつけるようなタイプだが、目の前にいるこの男の心は、すでに別の女に占められている。侑子は遅すぎた。 彼女は不安げに修のベッドの横に立ち、手を握り合わせ、どうしていいのか分からずにいる。 修がちらりと彼女の額の傷を見て言った。 「医者はなんて言ってた?縫ったのか?」 侑子は首を振る。 「縫ってはないって。医者は大したことないって言ってた」 修はほっと息をついた。 「それならよかった。何か話したいことがあるなら、言っていいぞ」 侑子はそこに立っているが、どうも落ち着かない様子で、言いたいことがあるように見えるが、なかなか口を開けない。ただ、頭を垂れて黙っているしかなかった。 修が眉をひそめた。 「どうした?」 「あの......私......」 侑子が言葉を詰まらせている様子に、修は少し苛立ちを覚えた。 「なんだ、結局何を言いたいんだ?言わないなら、もう帰れ」 侑子はその言葉に驚き、唇を噛んで、涙がこぼれ落ちた。 彼女が泣き出したのを見て、修はさらに苛立ちを感じた。 「頼むから泣かないでくれよ」 自分が少し質問するたびに泣き出す彼女に、何とも言えない気持ちが湧く。まるで自分が何か悪いことをしたみたいだ。 なんでみんなこんなに大げさなんだろう。 考えれば考えるほど、やっぱり若子が一番だ。誰も彼女に勝るものはない。 たとえ、彼女が自分に死んでほしいと思っていても。 修は再び若子を思い出し、その視線がどこかぼんやりとしてきた。 侑子は涙を拭い、震える声で言った。 「言ったら怒らないでね」 修はさらに眉をひそめた。彼女の様子が本当に煩わしかった。 「怒ると思うなら、言わなくていい。さっさと帰れ」 侑子は一瞬呆然として立ち尽くした。修は前と違うように見える。 怒りやすくなったように思える。 結局、彼女は言うのを
修の胸が締めつけられるように痛んだ。 「......くそったれの泥棒め。盗むなら盗むだけにしとけ。なんで余計なことまで首を突っ込むんだ......」 ―ドンドンッ! 病室のドアが激しくノックされた。 修は眉をひそめ、苛立った表情を浮かべる。 ―ドンドンッ! 再び鳴り響くノックの音。 修は毛布を頭まで引っ張り、完全に無視を決め込んだ。 しかし、外にいる相手は待ちきれなかったのか、勢いよくドアを押し開けた。 その瞬間― 修は枕元のスタンドを掴み、それを力任せに投げつける。 まるで獣が吠えるような怒声が響いた。 「出ていけ!」 ―ガシャーンッ! 「きゃあっ!」 悲鳴とともに、鈍い衝撃音が病室に響いた。 修はふと我に返る。 倒れ込んだ女性の顔を見た瞬間、息が詰まった。 「......山田さん?」 床に倒れ込んだ侑子の額から、鮮血が流れ落ちていた。 修は反射的に体を起こそうとするが、突然襲ってきた激しい胃痛に耐えきれず、そのまま床に崩れ落ちた。 「藤沢さん!」 侑子は痛みをこらえながら、ふらつく体で立ち上がり、修のもとへ駆け寄る。 必死に彼を抱き起こし、苦しそうな彼の顔を覗き込んだ。 「大丈夫?」 修は彼女の額から流れる血を見て、顔をしかめた。 「......なんでお前がここに?」 険しい表情で問いかけると、侑子は一瞬、怯えたように身を引いた。 「......あ、あの......藤沢さんの様子が気になって......」 修は苛立ったように彼女の手を振り払い、自力で起き上がると、ベッドへ戻る。 「誰が呼んだ?」 侑子がここに来たことを知っているのは、病院の関係者か......もしくは。 侑子は観念したように口を開く。 「......お母様から。藤沢さんが大変だって、病院にいるから様子を見てほしいって。それより、藤沢さん、本当に大丈夫なの?」 侑子は心配そうに彼を見つめ、額の傷のことも気にしていない様子だった。 修は、さっきの自分の行動を思い出し、微かに後悔の色を浮かべる。 「......どうして声をかけなかった?」 「すみません。確かに、声をかければよかった......でも、ノックしても返事がなかったから、もしかして何かあったの
修の言葉は、いちいち棘だらけだった。 「今さら父子の絆でも演じるつもりか?せめて静かにさせてくれないか?わざわざ『いい父親』のフリをするのって、そんなに楽しい?」 曜は顔をしかめた。 「修、そんな言い方はやめてくれないか?」 「じゃあ、どう言えばいい?お前の言葉に素直に頷いて、『そうですね』って言ってほしいわけ?」 「......修、ただお前に立ち直ってほしいんだ」 「立ち直るとかどうとか、そんなの俺の勝手だろ。まずはお前自身の問題を片付けてから、俺に説教しろよ。母さんとの関係すらまともにできてないくせに」 「......っ!」 曜の表情が歪む。怒りと、居心地の悪さが入り混じっていた。 ―こいつは、俺の一番痛いところを突いてくる。 この話題を持ち出されると、曜は何も言い返せなかった。 自分の人生すら満足に整理できていないのに、息子をどう導けるというのか。 全ては、自分のせいだった。 幼い頃にもっと愛情を注いでやれれば、もっとそばにいてやれれば、こんなにも父子の関係が冷え切ることはなかったのかもしれない。 今さら何を言っても、修が耳を傾けることはないだろう。 「......わかった。もう説教はしない。ただ、お前は病気だ。身体だけじゃない。心もだ。俺は、最高の精神科医を手配するつもりだ。診察を受けろ」 「帰らせろ」 修は横を向き、冷たく言い放つ。 「修、お前の今の状態は―」 「お前がそう思うなら、それはお前の勝手だ。でもな、精神科に通うべきなのは、お前自身だろ?もういい年なのに、欲しいものを手に入れられなくて、過去にしがみついて、母さんに執着して......病気なのは、お前のほうだ」 自分たちの心の病すら理解していないくせに、他人には偉そうに診察を受けろと言う。母さんはもう父さんを愛していない。そんなこと、誰が見ても明らかだった。曜はまるで何かに突き動かされたように、拳を強く握りしめた。 「......俺は、お前みたいに何度も死のうとはしない。修、お前は病んでるんだ。それを認めろ。お前には治療が必要だ。お前が嫌がろうが、俺は精神科医を呼ぶ」このままでは、修は本当に命を落としかねない。 「どうやって治療する?俺が拒否したら、精神病院にでもぶち込むつもりか?」 修
修が何も言わないのを見て、光莉は再び口を開いた。 「修......前にも言ったけど、何か悩みがあるなら、ちゃんと話してくれない?」 「......もういい、休みたい。出ていってくれ」 今は、何も話す気になれなかった。 光莉は不安そうに彼を見つめた。 彼が何か愚かなことをしないか―それが心配で、ここを離れるのが怖かった。 「......修」 彼女は迷った末に、静かに言った。 「もし、若子に連絡を取りたいなら......私が手を貸してもいいよ」 その言葉に、修はわずかに眉を動かした。 彼女の真意は分かっていた。 本当は、彼と若子を引き離したかったはずだ。 なのに、なぜ今になって協力すると言い出す? 「......母さん」 修は口元を歪め、皮肉げに笑った。 「ついさっきまで、俺たちを会わせないようにしていたのに、今さら方針転換か?俺が死にそうだから、焦ってるんじゃないのか?」 光莉は胸が締めつけられるような気持ちになった。 「......そんなこと言わないで。ねぇ、修。ちゃんと話そう?」 「話すことなんてない」 修は冷たく言い放つ。 光莉は、どう言葉を続ければいいのか分からなかった。 沈黙の末、彼女はようやく絞り出すように言った。 「......どうすれば、あんたは生きようと思えるの?何か望むことがあるなら、私は何でもする。だから、お願い―」 「......なら、出ていけ」 修は、静かに言った。 光莉は眉をひそめる。 「......修、そんなこと言わないで」 「お前は『何でもする』って言ったんだろ?」 修は、かすかに笑う。 「それすらできないくせに、偉そうなことを言うな」 彼の瞳には、冷たい嘲笑の色が宿っていた。 光莉は、何も言えなくなった。 彼の表情を見ていると、胸の奥にどうしようもない罪悪感が込み上げてくる。 「......ゆっくり休んで」 それだけ言い残し、彼女は病室を後にした。 廊下に出ると、曜がそこに立っていた。 「どうだった?」 彼が尋ねると、光莉は疲れたようにため息をついた。 「相変わらずよ。私の言うことなんて、聞いてもくれない」 「何を考えてるのかも、全然分からない......どうすればいいの?」
修は、真っ白な病室のベッドに横たわっていた。 その瞳は、虚ろで、何も映していなかった。 何度も何度も、自分に問いかける。 ―なぜ、まだ生きている? ―なぜ、目を開けたら病院にいる? あの家には、使用人など誰もいない。 彼はひとりで、ただ酒を飲み続け、死を迎える覚悟を決めていた。 死神の手が、すぐそこまで伸びていたはずなのに― それなのに、こうして生かされている。 ―誰が助けた? 病室には、重く沈んだ静寂が漂っていた。 窓の外から、柔らかな陽光が差し込む。 だが、それはどこか頼りなく、恥じらう恋人のように迷いながらカーテンを通り、彼の顔に淡く影を落とす。 けれど、その光では、彼の心に広がる暗闇を追い払うことなどできはしなかった。 頬はこけ、肌は青白く、まるで枯れかけた花のようだった。 ―陽の光なんて、嫌いだ。 病室の扉が開いた。 光莉が、花束を手に静かに入ってくる。 何も言わず、淡々と花瓶に花を生けた。 修は、そんな彼女を無視するように目を閉じたままだった。 部屋には、ほのかに花の香りが漂う。 修は眉をひそめ、低く問いかけた。 「......何しに来た?」 光莉は、彼をじっと見つめながら、静かに答える。 「......自分の息子が死にかけたのよ。母親が来ちゃダメ?」 病院からの連絡を受けたとき、彼女は血の気が引くのを感じた。 慌てて駆けつけ、ただ祈るしかなかった。 ―幸い、修は一命を取り留めた。 だが、それがどれほどの「幸い」だったのかは、今の彼を見れば分からない。 「修......どうして?お酒を飲めないこと、分かってたはずでしょう? なのに、なんであんなに飲んだの!? どうして、家族をこんなに心配させるの!?こんなに苦しめるの!?......本当に、死ぬ気だったの!?」 光莉の声は、悲しみに震えていた。 修は、わずかに唇を歪める。 それは、笑いとも、嘲りともつかない表情だった。 「ごめん......配かけて」 その声には、何の感情も宿っていない。 彼の顔色はあまりにも白く、生命力が奪われたかのように紅潮の気配すらなかった。 瞳の輝きもすっかり消え失せ、まるで光を失った湖面に浮かぶ月のようだった。 その冷たい声音
朝食はとても豪華だった。 すべて西也が自ら作ったものだ。 彼は若子の産後の体調を細かく気遣い、どんな些細なことでも気を配っていた。 寒くないか、空腹ではないか―常に気を配っていた。 出産後は大変だろうと、若子も覚悟していた。 新生児は夜泣きもするし、おむつ替えだって頻繁に必要になる。 まともに眠れない日が続くだろうし、髪が乱れても、ボロボロになっても仕方がないと思っていた。 しかし、思いもよらなかった。 彼女には、その「大変さ」を経験する機会すらほとんどなかったのだ。 ―なぜなら、そのすべてを西也が引き受けてくれたから。 赤ちゃんが泣くたびに、彼は真っ先にベビールームへ駆けつけ、優しくあやした。 若子の母乳は少なく、完全に授乳だけでは足りなかったため、粉ミルクを作る必要があった。 そのときも、西也は慎重に温度を確かめ、何度も試しては「これなら大丈夫」と確認していた。 赤ちゃんが火傷しないようにと、まるで宝物を扱うかのように。 そんなある日のこと。 若子は夜中、ベビーモニターから聞こえてくる泣き声で目を覚ました。 時刻は午前二時を回ったころだった。 慌てて布団をめくり、赤ちゃんのもとへ行こうとしたそのとき― モニター越しに、柔らかな声が聞こえてきた。 「......どうした?お目覚めか?怖かったのか?大丈夫だよ。パパがいる。パパ、おでこにチュッてしてもいい? ほら、いい子いい子。泣かないで......ママを起こしちゃうと可哀想だろ? ......よし、パパが子守唄を歌ってあげよう」 そう言って、西也は静かに歌い始めた。 優しい歌声が、ベビーモニターから流れてくる。 ―次第に、泣き声は小さくなり、やがて赤ちゃんは静かに眠りについた。 その光景に、若子は胸がいっぱいになった。 ―こんなにも、愛情深く、大切に守ってくれる人がいる。 彼女は思わず口元を押さえ、涙が溢れそうになるのを堪えた。 そっと部屋を出ると、そばのドアが開き、西也がベビールームから出てきた。 そして、そのまま自室へと戻ろうとしていた。 ―その背中を、彼女は抑えきれずに抱きしめた。 西也は驚いたように立ち止まり、戸惑いの声を漏らす。 「......若子?どうした?」 彼女が泣
「修、やめて......お願い......!」 「お願いだから、修、どこにいるの!?」 「ダメ......!」 ―若子は、はっと目を見開いた。 目に映ったのは、見知らぬ静かな部屋。 鼓動が激しくなり、息を整えるように上体を起こす。 額には冷や汗が滲み、全身に戦慄が走っていた。 夢を見ていた。 ―修が、死ぬ夢を。 夢の中の修は、ずっと彼女を見つめていた。 哀しみを湛えた瞳で、まるで若子が何か取り返しのつかないことをしたかのように。 ―そんなはずない。 彼はもう、とうに彼女を忘れてしまっている。 幸せに暮らしているはずだ。 彼はもう二度と会おうとしない。電話も、メッセージすらもよこさない。 それに、彼は彼女と彼の子供をも捨てたのだから。 そんな男を、どうして自分はまだ夢に見るのだろう。 ―どうして、こんなにも恋しくなるのだろう。 若子はそっと顔を上げ、窓の外を見た。 空はすでに明るくなっていた。 目の前には、朝日を浴びて目覚めたニューヨークの街並み。 カーテンの隙間から差し込む光が、柔らかな影を作り出していた。 ―ドンッ! 突然、ドアが勢いよく開かれた。 「若子!」 西也が駆け込んでくる。 彼女の悲鳴を聞いて、いてもたってもいられなかったのだろう。 ノックすら忘れ、飛び込んできた。 若子は驚いて布団を引き寄せたが、すぐに彼だと気づき、安堵の息を漏らした。 「西也......ごめん、ただの悪夢よ」 だが、彼女の目にはまだ恐怖と困惑の色が残っていた。 乱れた呼吸を必死に整えながら、夢の余韻を振り払おうとする。 朝日が彼女の頬を照らし、その美しくも青ざめた顔を映し出した。 瞳には、深い迷いが宿っている。 西也はそばに寄り、心配そうに覗き込んだ。 「どんな夢を見たんだ?話してくれるか?」 「......大したことじゃないわ。ただ、悪い人に追われる夢をね......最近、いろいろ考えすぎたのかもしれない」 「若子、何か悩んでいることがあるなら、ちゃんと話してほしい」 西也は彼女の手を優しく包み込む。 「出産は、ものすごく大変なことだ。どんな気持ちになっても、おかしくはない。お前の考えは、全部正しいんだ。だから、一人で抱え込むな