曜と光莉は、再び華のもとを訪れた。 屋敷に足を踏み入れると、いつになく慌ただしい空気が漂っていた。 使用人たちが掃除に追われ、あちこちで家具を動かしている。 「そこのテーブルは向こうに移して」 「この花瓶、ここじゃ映えないわね。あっちに置きなさい」 華が指示を飛ばしている最中、「ガシャン!」と大きな音が響いた。 一人のメイドが花瓶を落としてしまい、驚いて泣き出してしまった。 「まあ、なんて不注意なの!」 華は眉をひそめながらも、すぐにメイドの前へ歩み寄る。 「次からはもっと気をつけなさいよ」 「申し訳ございません、奥様。本当にすみません......!」 「いいから、ケガはない?」 「い、いえ......」 「ならいいわ。片付けて、次から気をつけなさい」 「はい......!」 華は少し厳しい口調だったが、それ以上責めることはなかったし、弁償を求めることもなかった。 そんな母の活気あふれる姿を見ながら、曜は思わず声をかける。 「母さん、何をしてるんだ?」 「あら、見てわからないの?掃除よ」 曜は周囲を見回す。 「なんで急に?」 「掃除に理由なんているの?」華は笑う。「曜、昨日も来たのに、また来たの?」 曜は驚いた。 母が、昨日自分が訪れたことを覚えている。 「光莉も来たのね」 華はにこやかに近づき、光莉の手を優しく握った。 「ちょうどいいわ、見てちょうだい。この配置、どうかしら?」 「......お義母さん」 光莉はじっと華を見つめた。 曜から聞いた話とは違う。 目の前の彼女は、まるで何の問題もないように見える。 「どうしたの?」華は穏やかに微笑む。「何か話したいことがあるの?」 「......」 光莉は言葉を詰まらせた。 「まさか、曜がまた何かしたの?」 華は光莉の手を離し、曜の前に立つ。 「曜、また光莉を困らせたのね?何度言ったらわかるの?」 「違うよ、母さん!」曜は慌てて否定する。 「いいえ、お義母さん。曜は何もしていません」 光莉がすぐにフォローを入れる。 「今日は、ただお義母さんの様子を見に来ました。最近、お身体の調子はいかがですか?」 「元気よ、とてもね。二人が心配してくれるなんて、嬉しいわ」
病室の外の廊下で、光莉は険しい表情の曜を見つめていた。 「お義母さんは大丈夫よ、きっと」 思わず、光莉はそう言ってしまった。 曜は小さくため息をつく。 「光莉、俺、本当に嘘なんてついていないんだ。母さんは本当に......」 「わかってる」 光莉は曜の言葉を遮った。 「もう信じるわ」 目の前で華が倒れたのだ。 ここまできて、疑う余地などなかった。 ―その後、華はCTとMRIの検査を受けた。 結果が出ると、医師が検査結果を示しながら説明を始める。 「患者さんの側脳室の拡大と脳溝の広がりが確認できます。また、前頭葉には明らかな萎縮が見られます。そして、この冠状断のMRI画像をご覧ください。海馬の萎縮も明らかです」 曜は詳しい医学の知識はなかったが、それが何を意味するのかは理解できた。 「つまり......母さんは、認知症なんですね?」 医師は静かに頷く。 「現時点での検査結果を見る限り、その診断になります」 曜は椅子に座っていたが、まるで身体が崩れ落ちるように、横に傾いた。 ―一方では、光莉との離婚問題。 ―もう一方では、母の認知症。 二重の衝撃に、彼の心は押し潰されそうだった。 光莉はすぐに曜の肩を支える。 曜はぼんやりと彼女を見つめ、そっと彼女の手の甲を軽く叩いた。 「......ありがとう」 二人は医師の部屋を出て、そのまま病室へと戻った。 ちょうど華が目を覚ましたところだった。 彼女は二人の沈んだ顔を見て、不思議そうに眉を寄せる。 「どうしたの?二人とも浮かない顔して。誰かに意地悪でもされた?」 曜は微笑みながら、母のそばへ寄る。 「母さん、入院してるのに、俺たちが笑ってるわけないだろ?」 「私は大丈夫よ」華は明るく笑う。「もうすっかり元気だから、家に帰りましょう」 「ちょっと待って」曜は彼女の肩を押さえた。「もう少し入院しよう。ちゃんと検査を受けてから退院しないと」 「でも、私は本当に平気よ」 「母さん、お願いだから、俺たちを心配させないでくれ」 曜は、母を今すぐ家に帰すのがどうしても不安だった。確かに家には世話をする人がいるが、それでも病院には及ばない。もしまた急に倒れたりしたら?病院なら医師や看護師がすぐに対応
「それもそうね」 華は頷きながら微笑んだ。 「やっぱり二人の意思が大事よね。でも、私はきっとあの子たちは結婚すると思うのよ。お互いに好意を持っていることはわかるし、何しろ幼馴染なんだから」 そう言いながら、華の顔には期待の色が浮かんでいた。 けれど、ふと大きなあくびを漏らす。 曜はすぐに声をかけた。 「母さん、眠いのか?なら、横になって休んだほうがいいよ」 「そうね、少し寝ようかしら。年を取ると、どうにも疲れやすくなるわ」 華は自嘲するように笑う。 「そんなことないよ、母さんはまだ若い。きっとあと何十年も元気でいられるさ」 「ははは、何十年も生きられるかしらね。そんなに生きたら、妖怪になっちゃうわ」 軽口を叩きながらも、華はベッドに横たわった。 曜と光莉は彼女の様子を見守りながら、そっと病室を出る。 「修に電話するわ」 光莉はスマホを取り出しながら言った。 曜は少し眉を寄せる。 「修、電話に出るか?」 昨夜、光莉は曜にメッセージを送り、修が無事であることを伝えていた。 たとえ光莉が曜との離婚を望んでいても、修は二人の息子だ。 彼のことは、きちんと曜とも共有するつもりだった。 「出なくても、出させるわ」 光莉自身も、修が電話を取るかどうか確信がなかった。 しかし、しばらくコール音が続いた後、ようやく電話がつながった。 「......母さん、ちょっと一人で考えたいんだ。だから今は―」 「おばあさんが倒れたわ」 光莉は、修の言葉を遮った。 「......何だって?」 修の声が、一瞬で変わった。 「どういうこと?」 「認知症よ。色々なことを忘れてしまっているの。あなたと若子がまだ結婚していないと思っているくらいにね」 「今、おばあさんはどこの病院に?」 修の声が、焦りに満ちていた。 ......村上允は昼食を用意し、テーブルに並べていた。 しかし、修はすでに服を着替え、出かける準備をしていた。 「どこへ行くんだ?昼食ができたぞ」 「......おばあさんが倒れた。病院に行かないと」 そう言って数歩進んだ瞬間、修は胸を押さえ、ふらついた。 ここ数日の無理がたたり、怪我がまだ完全に癒えていなかったのだ。 允はすぐに彼の肩を支
修は母に手を止められ、顔を上げた。 「母さん、どうした?」 光莉は静かに彼を見つめる。 「あんた、ずっと若子を避けてたのに、どうして今になって連絡しようとするの?」 「......それは、今とは状況が違うからだ。おばあさんが倒れたんだ。彼女には知らせるべきだろ」 本当の理由を、彼は口にできなかった。 どれだけ彼女に拒絶されようと、どれだけ彼女が西也を選ぼうと、それでも彼は若子に会いたいと思ってしまう。 それが、どれほど愚かでも。 ―彼女のことを、忘れられるはずがない。 光莉には、それがわかっていた。 これは単なる口実だ。 修は、本当はただ若子に会いたいだけ。 けれど、若子は手術を終えたばかり。 そんな彼女が、おばあさんの病気を知ったら、きっとショックを受ける。 それは、彼女自身にとっても、お腹の子にとっても良くない。 しかし、修にそのことを言うわけにはいかない。 彼が若子の妊娠を知ったら― 彼女の手術のこと、自分がその間ずっと何も知らなかったことを知ったら― 彼はどれほどの後悔と苦しみに苛まれるだろうか。 それに、もし彼が若子の妊娠を知ったら、きっと彼は離れようとしない。 彼の子供。 彼女と西也、そして二人の子供。 そこに曜や高峯まで絡んで、状況はさらに複雑になるだろう。 ―もう十分、事態は混乱している。 「母さん?」 修が不審そうに光莉を見つめる。 「......何か言いたいことがある?」 「あるわ」 光莉ははっきりと言った。 「私から若子に連絡する。でも、あんたは彼女に連絡しないで」 「......なんで?」 そう言ったのは、修ではなく曜だった。 光莉は曜の問いには答えず、そのまま修に向き直った。 「あんた、本当に彼女とやり直せると思ってる?」 修は無言のまま、強くスマホを握る。 「......おばあさんのことに、それは関係ないだろ」 「関係あるわ」 光莉はきっぱりと否定した。 「あんたたちは、おばあさんを見舞いに来る。でも、認知症の彼女は時間の感覚が狂ってる。あんたと若子の関係だって、今みたいにこじれているとは思っていない。 そんな二人が顔を合わせたら?感情的になって言い争いになるかもしれない。何かしらのト
華が目を覚ますと、修はすぐに病室へ入った。 彼の憔悴した顔を見て、華はすぐに尋ねる。 「修、どうしたの?病気じゃないでしょうね?」 修は胸の傷がまだ痛むのを感じながらも、笑顔を作った。 「おばあさん、ちょっと疲れているだけです。最近よく眠れていなくて......でも、大丈夫です」 華はため息をついた。 「おばあさんは、今まであんたに厳しくしすぎたね......あんたはこんなに頑張ってきたのに、いつも怒ってばかりで、本当に申し訳なかったよ。でも、あんたは本当に良い子だ」 華の声は、どこか柔らかくなっていた。 もしかすると、自分の病気を理解し始めているのかもしれない。 「おばあさん、気にしないでください。厳しくしてくれたおかげで、俺はダメな人間にならずに済んだんです」 「そんなことはないよ」華は首を振った。「修、あんたはもともと立派な子だよ。おばあさんが厳しくしなくても、あんたはちゃんとした大人になった。小さい頃から努力家で、誰よりも早く大人にならなければならなかった。でも、本当は辛かったろう?」 修は何も言えなかった。 それは、まるで幼い頃の自分の心を覗かれたようだった。 華はふと寂しげに微笑む。 「修......もし、おばあさんがある日、あんたのことを忘れて忘れてしまっても......どうか恨まないでね。今のうちに謝っておくわ」 華がこう口にしたのは、自分がいつか認知症になり、すべてを忘れてしまうかもしれないからだ。 修にしてきたことも、過去の過ちも、すべて記憶から消えたら―もう謝ることさえできなくなる。 それが何よりも怖かった。 もしも、昔の自分に戻ってしまったら? そうなる前に、せめて今のうちに謝っておきたかった。 「おばあさん......謝らないでください。俺は、おばあさんを恨んだことなんて一度もありません。むしろ、もっと早く顔を見せに来るべきでした......」 もし、自分がもっと早く異変に気づいていたら? もっと頻繁に会いに来ていたら? そうすれば、おばあさんに何かできることがあったのではないか。 そんな後悔ばかりが募る。 「おばあさんは、あんたがここにいてくれるだけで嬉しいよ」 そう言いながら、ふと表情が固まる。 視線の先にいる孫を見つめながら、胸
光莉は、ただ華を安心させるためだけにこの嘘をついた。 それがわかっていながらも、曜の胸にはわずかな期待が芽生えてしまう。 彼はそっと光莉の手を握った。 その手のひらから、ほんの少しでも温もりを感じたくて。 ―たとえ、ほんの一瞬でも。 この女性が少しでも自分を受け入れてくれるなら、それだけで幸せで、何日も眠れなくなるほどだった。 「本当に?」 華は驚き、そして心から嬉しそうな表情を浮かべた。 「光莉、ようやく曜を許してくれたのね!」 光莉は静かに華のそばに寄り、優しく微笑む。 「はい、お義母さん。私は彼を許しました」 しかし、華はすぐに表情を曇らせる。 「でもね、光莉......本当に無理していない?もし、ただ私を安心させるためなら、そんなことしなくていいのよ。曜がどれだけ酷いことをしてきたか、ちゃんとわかってる。だから、もしあんたが本当に彼と一緒にいたくないなら、私はちゃんとあんたの味方をするわよ」 「違うんです。これは、私が自分で決めたことです。 彼は間違いを認めて、ずっと償おうとしてきました。私も、もう過去を責め続けたくはありません。だから、これからは一緒に生きていこうと思います」 曜の目がじわりと熱くなる。 もし、これが現実なら、どんなに幸せだっただろう。 だが、これはただの嘘。 彼女は、ただ華を安心させるために、そう言っただけなのだ。 「......光莉、あんたが幸せなら、それでいいのよ」 華はそっと彼女の手を握った。 「どんな決断をしても、あんたはずっと家族よ」 そう言って、華は曜に向き直る。 「曜」 曜はすぐに彼女のそばへ行く。 「もし、また光莉を傷つけたら、その時はもう私を母だなんて思わないで。私もあんたを息子とは思わないわ」 曜は喉の奥が詰まり、かすれた声で答えた。 「......わかった。二度と光莉を傷つけない。彼女に怒られても、罵られても、何も言い返さない。絶対に、彼女のそばで償い続けるよ」 華は満足そうに微笑む。 「そう、それでいいのよ。大の男が泣くなんて情けないわね。息子もいるのだから、ちゃんと見本になりなさいよ。修が将来、あんたみたいな男になったらどうするの?」 その言葉に、光莉の視線が自然と修へと向かう。 「
修は病室で華ともう少し一緒に過ごした後、光莉に呼ばれた。 「修、今日はもう帰って休みなさい」 「母さん、大丈夫だ。もう少しおばあさんと一緒にいたい」 「あんたあんたの気持ちは分かる。でも、自分の体も大事にしなきゃ。見てごらんなさい、すっかり痩せてしまって......おばあさんも心配しているのよ。だから今日は帰って、ちゃんと休んで」 修は確かにやつれていた。 体調が万全とは言えない状態なのは、一目で分かる。 曜も口を挟む。 「修、彼女の言う通りだ。しっかり休め。お前、ひどい怪我をしたばかりなんだぞ。おばあさんを安心させるためにも、まずは自分の体を労れ」 「そうよ」光莉も続ける。 「あんたが帰ったら、私が若子に連絡して来てもらうわ」 その言葉に、修は微かに苦笑する。 「母さんは、本当に俺と若子を会わせたくないんだね?」 光莉はそっとため息をつき、彼の肩を軽く叩いた。 「修......若子はずっと苦しんでいたの。今はあんたも苦しんでいる。だけど、二人が会ったところで、どうなるの? あんたは、本当に復縁できると思ってる?もし、復縁できないのなら、また傷つくだけよ」 修の目の前が、ぼんやりと歪んで見えた。 彼は理解していた。 誰も、彼と若子が元に戻れるとは思っていない。 母でさえ、彼を励ますことはなく、ただ現実を突きつけるだけだった。 ―誰も、俺の味方をしてくれないんだな。 彼はふと、友人たちの顔を思い浮かべた。 彼らもきっと、こう思っているのだろう。 「自業自得だ」と。 ......その通りだ。 自分が、すべてを壊したのだから。 修は、静かに目を閉じた。 そして、深く息を吐き出しながら言う。 「......分かった。帰りるよ」 重たい足取りで、彼は病院を後にした。 光莉はその背中を見送りながら、寂しそうにため息をつく。 曜がそっと彼女の肩に手を置いた。 「光莉......どうして、修と若子を会わせたくないんだ?本当に、二人を別れさせたいのか?」 曜は、ずっと疑問に思っていた。 けれど、光莉が強く反対した以上、自分が口を挟む立場ではないと思い、黙っていた。 しかし、修が去った今、彼はようやく口を開いたのだった。 光莉は、目元の涙を指で拭い
若子は十日間の入院を経て、ようやく退院した。 お腹の子はすでに五カ月目。 彼女のお腹は大きくなり、動くのもひと苦労だった。 少し歩くだけで疲れてしまい、ほとんどの時間をベッドで過ごすしかない。 しかし、西也はそんな彼女を細やかに気遣い、食事も飲み物も全て自分で運び、まるで彼女に何一つさせまいとするかのようだった。 果てには、風呂まで手伝おうとする始末。 だが、さすがにそれは若子が拒否し、できる限り自分で入ることにした。 どうしても無理なときは、メイドを頼ることにしている。 西也も、そこは無理強いしなかった。 夕食を終え、若子はベッドに腰掛けながら、ふと祖母に電話をかけたくなった。 考えてみれば、しばらく連絡を取っていなかった。 修と離婚した後も、藤沢家の人たちは「離婚しても、藤沢家の人間だ」と言ってくれた。 だが、現実には彼女は自然と藤沢家と距離を置くようになった。 それは意図したものではなく、気づけばそうなっていたのだった。 電話をかけると、出たのは光莉だった。 「もしもし」 「お母さん?」若子はすぐに彼女の声を聞き分けた。 「どうして母さんが出るんですか?」 「若子、どうかしたの?」 「おばあさんと話したいんですけど......どうして母さんお母さんが携帯を持っているんですか?」 「ああ、今おばあさんのところにいるの。でも、ちょっと都合が悪くてね」 「おばあさん、具合が悪いんですか?」 「......少しね。あんたも退院したことだし、そろそろ話しておくわ」 光莉は、華の病状を伝えた。 若子は、言葉を失った。 心がぎゅっと締めつけられる。 そんな彼女の様子を見て、西也がすぐに駆け寄った。 「若子、どうした?」 「おばあさんが......病気になったの......会いに行かないと」 「病気って......何の?」 「認知症」 若子は涙を拭いながら答えた。 「すぐに行かなきゃ......」 そう言って、彼女は布団をはねのけて立ち上がろうとする。 「若子、落ち着いて」 西也はすぐに彼女の腰を支えた。 「止めないで。私は行かなきゃ」 「止めてるわけじゃない」 西也は静かに言う。 「車を出すから、一緒に行こう」 彼が
次の瞬間、ヴィンセントは猛獣のように若子に飛びかかり、彼女をソファに押し倒した。 彼の手が彼女の柔らかな首をぎゅっと締めつける。 若子は驚愕に目を見開き、突然の行動に心臓が激しく跳ねた。まるで怯えた小鹿のような表情だった。 彼の圧に押され、体は力なく、抵抗できなかった。 叫ぼうとしても、首を絞められて声が出ない。 「はな......っ、うっ......」 彼女の両手はヴィンセントの胸を必死に叩いた。 呼吸が、少しずつ奪われていく。 若子の目には絶望と無力が浮かび、全身の力を振り絞っても彼の手から逃れられない。 そのとき、ヴィンセントの視界が急速にクリアになった。 目の前の女性をはっきりと見た瞬間、彼は恐れに駆られたように手を離した。 胸の奥に、押し寄せるような罪悪感が溢れ出す。 「......君、か」 彼の瞳に後悔がにじむ。 そして突然、若子を抱きしめ、後頭部に大きな手を添えてぎゅっと引き寄せた。 「ごめん、ごめん......マツ、ごめん。痛かったか......?」 若子の首はまだ痛んでいた。何か言おうとしても、声が出ない。 そんな彼女の顔をヴィンセントは両手で包み込んだ。 「ごめん......マツ......俺......俺、理性を失ってた......本当に、ごめん......」 彼の悲しげな目を見て、若子の中の恐怖は少しずつ消えていった。 彼女はそっとヴィンセントの背中を撫でながら、かすれた声で言った。 「......だい、じょうぶ......」 さっきのは、たぶん......反射的な反応だった。わざとじゃない。 彼は幻覚に陥りやすく、いつも彼女を「マツ」と呼ぶ。 ―マツって、誰なんだろう? でも、きっと彼にとって、とても大切な人なのだろう。 耳元ではまだ、彼の震える声が止まらなかった。 「マツ......」 若子はそっとヴィンセントの肩を押しながら言った。 「ヴィンセントさん、私はマツじゃない。私は松本若子。離して」 震えていた男はその言葉を聞いた瞬間、ぱっと目を見開いた。 混濁していた意識が、徐々に明晰になっていく。 彼はゆっくりと若子を離し、目の前の顔をしっかりと見つめた。 そしてまるで感電したかのようにソファから飛び退き、数
しばらくして、若子はようやく正気を取り戻し、自分が彼を抱きしめていることに気づいて、慌てて手を放し、髪を整えた。少し気まずそうだ。 さっきは怖さで混乱していて、彼を助けの綱のように思ってしまったのだ。 若子は振り返ってあの扉を指差した。 「下から変な音がして、ちょっと気になって見に行こうと思ったの。何か動きがあったみたい。あなた、見に行かない?」 ヴィンセントは気にも留めずに言った。 「下には雑多なもんが積んである。時々落ちたりして音がするのは普通だ」 「雑多なもんが落ちたって?」若子は少し納得がいかないようだった。彼女はもう一度あの扉を見やる。 「でも、そんな感じには思えなかったよ。やっぱり、あなたが見に行ったほうがいいんじゃない?」 「行きたきゃ君が行け。俺は行かない」 ヴィンセントは素っ気なくその場を離れた。 彼が行かないと決めた以上、若子も無理には行けなかった。 この家は彼の家だし、彼がそう言うなら、それ以上言えることもない。 たぶん、本当に自分の勘違いだったのかもしれない。 それでも、今もなお胸の奥には恐怖の余韻が残っている。 さっきのあの状況は、本当にホラー映画のようで、現実とは思えなかった。 たぶん、自分で自分を怖がらせただけ...... 人間って、ときどきそういうことがある。 「何ボーっとしてんだ?腹減った。晩メシ作れ」 ヴィンセントはそう言いながら冷蔵庫からビールを取り出し、ソファに座ってテレビを見始めた。 若子は深呼吸を何度か繰り返し、気持ちを落ち着けてからキッチンに入った。 広くて明るいキッチンに立っていると、それだけで少し安心できた。 さっきの恐怖も、徐々に薄れていく。 彼女は冷蔵庫を開けて食材を選び、野菜を洗って、切り始めた。 しばらくすると鍋からは湯気が立ち上り、部屋には料理のいい香りが漂いはじめた。 彼女は手際よく、色も香りも味もそろった食材をフライパンで炒めていた。 まるで料理そのものに、独特な魔法がかかっているかのようだった。 ヴィンセントは居心地のいいリビングで、テレビの画面を目に映しながら、ビールを飲んでいた。 テレビを見つつ、時おりそっと顔を横に向け、キッチンの方を盗み見る。 その視線には、かすかな優しさがにじんでい
―全部、俺のせいだ。 修の胸の奥に、激しい後悔と自己嫌悪が渦巻いていた。 すべて、自分のせい。 あの時、追いかけるべきだった。 彼女を、一人で帰らせるべきじゃなかった。 夜の暗闇の中、わざわざ自分に会いに来てくれたのに― それなのに、どうしてあの時、あんな態度を取ってしまったのか。 ほんの一瞬の判断ミスが、取り返しのつかない結果を生んだ。 ガシャン― 修はその場に崩れ落ちるように、廃車となった車の前で膝をついた。 「......ごめん、若子......ごめん......全部、俺のせいだ......俺が最低だ......」 肩を震わせながら、何度も地面に額を擦りつける。 守れなかった。 自分のくだらないプライドのせいで、嘘をついて、彼女を傷つけた。 他の女のために、また彼女をひとりにした。 ようやく気づいた。 若子がなぜ、自分を嫌いになったのか。 なぜ、許してくれなかったのか― 当たり前だ。 自分は、彼女にとっての「最低」だった。 何度も彼女を傷つけ、何度も彼女を捨てた。 最初は雅子のため、そして今度は侑子のため― ―自分には、彼女を愛する資格なんてない。 最初から、ずっと。 もし本当に、彼女がもういないのだとしたら― 自分も、生きている意味なんてない。 ...... 気づけば、空はすっかり暗くなっていた。 若子は、ヴィンセントが部屋で何をしているのか知らなかった。ドアは閉まったままで、中に声をかけるわけにもいかない。 「とりあえず、晩ごはんでも作ろうかな......」 そう思ってキッチンへ向かおうとした瞬間― バン、バンッ。 突然、何かが叩かれるような音が聞こえた。 「......外?」 窓際に寄って外を覗いてみると、外は静まり返っていて、人の気配なんてまるでない。 「......気のせい?」 肩をすくめてキッチンに戻ろうとした―そのとき。 また、バンバンと続けて音が鳴った。 しかも今度はずっと続いていて、かすかな音だったけれど、確かに耳に届いた。 「......え?」 耳を澄ませると、その音は―下から聞こえてくる。 若子はおそるおそるしゃがみ込み、耳を床に当てた。 バンバンバン! ―間違いない。
光莉は布団をめくり、ベッドから降りると、手早く服を一枚一枚着はじめた。 「なぁ、どこ行くんだよ?」高峯が問いかける。 「あんたと揉めてる暇なんかないわ」 光莉の声は冷たかった。 「遠藤高峯、もしあんたに脅されてなかったら、私は絶対にあんたなんかに触れさせなかった。自分がどれだけ最低なことしてるか、よくわかってるでしょ?手を汚すことなく、みんなを苦しめて、自分は後ろで高みの見物。ほんと、陰険にもほどがある。西也なんて、あんたにとってはただの道具。息子だなんて、思ってもいないくせに!」 服を着終えた光莉はバッグをつかみ、部屋を出ようとする。 「光莉」 高峯の声には重みがあった。 「西也は俺たちの子どもだ。これは変えようのない事実だ。俺は今でもお前を愛してる。ここまで譲歩したんだ。藤沢と離婚しなくてもいい、たまに俺に会ってくれるだけで、それでいい......それ以上、何を望んでるんだ?」 光莉は振り返り、怒りをあらわに叫んだ。 「何が望んでるかって?言ってやるわ!私は、あんたなんかを二度と顔も見たくないの!私は必ず、あんたから自由になる。見てなさい、きっと、誰かがあんたを止める日が来るわ!」 ドンッ― ドアが激しく閉まる音を残して、光莉は出ていった。 部屋に残された高峯は、鼻で笑い、冷たい目を細めた。 その目には狂気じみた光が宿っていた。 枕をつかんで、床に叩きつける。 「光莉......おまえが俺から逃げようなんて、ありえない。俺が欲しいものは、必ず手に入れる。取り戻したいものは、絶対に取り戻す。それが無理なら―いっそ、壊してやる」 ...... 夜の帳が降り、河辺には重苦しい静けさが漂っていた。 川の水は静かに流れ、鏡のように空を映していた。 星がかすかに輝いているが、分厚い雲に覆われていて、その光は弱々しく、周囲の風景はぼんやりとしか見えない。 岸辺には、年季の入ったコンテナや倉庫が並んでいる。朽ちかけたその姿は、時間の流れと共に朽ち果てていく遺物のようだった。 沈んだ空気の中で、川面に漂う冷たい風が、肌をかすめていく。 修は黒服の男たちと共に川辺に立ち尽くしていた。 彼の視線の先には、川から引き上げられた一台の車。 車体は見るも無惨。 側面には無数の弾痕が刻まれ
しばらく沈黙が続いたあと、光莉はようやく口を開いた。 「修......どうなっても、もうここまで来てしまったのよ。あんたなら、どうすれば自分にとって一番いいのか分かってるはず。山田さんは、とても素敵な子よ。もし彼女と一緒になれたら、それは決して悪いことじゃないわ。おばあさんもきっと喜ぶわよ。彼女は、若子の代わりになれる。だから、若子のことはもう手放しなさい。もう、執着するのはやめて」 「黙れ!!」 修が突然怒鳴った。 「『俺のため』って言い訳しながら、若子を諦めろなんて......そういうの、もう聞き飽きたんだよ!」 その叫びは、激情に満ちていた。 「本当に俺の母親なのかよ?最近のお前、まるで遠藤の母親みたいだな。毎回そいつの味方みたいなことばっか言いやがって......『西也』って呼び方も、やけに親しげだな。お前、あいつに何を吹き込まれた?」 修は、最初から母親が味方になることなんて期待していなかった。 でも―せめて中立ではあってほしかった。 だが今は、まるで若子じゃなく、何の関係もない西也の味方をしているようにしか見えなかった。 なぜ母親がそうするのか、どれだけ考えても分からなかった。 その叫びに、光莉の心臓が小さく震えた。 「......修、ごめんなさい。そんなつもりじゃないの。私はあんたの母親よ。もちろん、あんたのことが一番大切に決まってる。全部......あんたのためを思って―」 「もう黙れ!!」 修の声は怒りに震えていた。 「『俺のため』とか言わないでくれ......お願いだから、もう関わらないでくれ。俺に関わらないでくれよ!」 そのまま、修は電話を切った。 ガシャン― 次の瞬間、彼はそのスマホを壁に叩きつけた。 画面は一瞬で粉々に砕け散った。 横にいた外国人スタッフは、ぴしっと背筋を伸ばし、無言のまま固まっていた。 病室には、まるで世界が止まったような静寂が訪れた。 やがて、外国人が英語で口を開いた。 「何を話していたかは分からないが、ちゃんと休んだほうがいいよ」 その時、彼のポケットの中で着信音が鳴る。 スマホを取り出して通話に出る。 「......はい。分かった」 通話を終えると、修の方へと向き直る。 「藤沢さん、松本さんの車が見つかった
「それで......あんたと山田さんは、うまくやっているの?」 光莉の問いかけには、どこか探るような調子が混ざっていた。 「......」 修は黙ったまま、答えなかった。 少しして、光莉がもう一度静かに尋ねた。 「修?どうかしたの?」 「......母さんは、俺が侑子とうまくやってほしいって、思ってるんだろ?本音を聞かせてくれ」 数秒の沈黙のあと、光莉は正直に口を開いた。 「ええ。私は、彼女があんたに合ってると思ってるの。若子との関係が終わったのなら、新しい恋に踏み出してもいいじゃない」 新しい恋―その言葉に、修はかすかに笑った。 それは皮肉と哀しみが入り混じった笑みだった。 「母さんさ、俺が雅子と付き合ってたとき、そんなふうに勧めたことあった?一度でも応援してくれた?」 「山田さんは桜井さんとは違うわ。それに......あの頃は、まだ若子との関係に望みがあると思っていたの。でも今は違う。若子はもう西也と結婚したのよ。あんたには......もう彼女を選ぶ理由がないわ」 ―また、西也か。 その名前を聞くだけで、修の心は抉られるように痛んだ。 「なあ、ひとつだけ聞かせてくれ」 修の声は低く、抑えていた怒りがにじんでいた。 「......母さんは、若子が妊娠してたこと、知ってたんじゃないか?」 その瞬間、光莉の心臓が跳ね上がった。 「修......それ......知ってしまったのね?若子に会ったの?」 修の手が、ぎゅっとシーツを握りしめる。 その手の甲には、浮き上がった血管が脈打っていた。 「やっぱり......知ってたんだな。どうして俺に黙ってた?なぜ、何も教えてくれなかったんだ!」 「ごめんなさい......修。私だって伝えたかった。でもあの時、若子が......もう言う必要ないって。彼女がそう言ったの」 ついに、その瞬間が来た。 修は真実を知った。若子が自分の子を産んでいたという、残酷な事実を。 光莉の心は重く沈んだ。 修が今どれほど苦しんでいるか、想像に難くない。 母として、彼女の胸には後悔があった。 だが、ここまで来たら、もう「運命」としか言いようがなかった。 「......そうか、言う必要がなかったんだな」 「若子はあいつの子どもを妊娠し
「暁―忘れるなよ。『藤沢修』、その名前を覚えておけ。あいつは、おまえの仇だ」 ...... 夜が降りた。 病院は静まり返り、あたり一面が闇に包まれていた。 窓の外には星が点々と浮かび、真珠のように建物の屋根を彩っていた。 やわらかな月光が屋上からゆっくりと差し込み、建物の輪郭を静かに浮かび上がらせる。 白い病室。 修は、真っ白なシーツに身を包まれてベッドに横たわっていた。 消毒液の匂いが、空気を支配している。 ベッドの脇には点滴が吊るされ、透明な液体が少しずつ彼の身体へと流れ込んでいた。 穏やかな灯りが、彼の青ざめた顔に落ちる。 その表情には、深い疲労と痛みがにじんでいた。 修は、目を開いた。 視線をさまよわせ、室内を確認する。 ゆっくりと身を起こし、点滴に目をやると、まだ半分ほど残っていた。 そのとき―病室のドアが開いた。 ひとりの外国人の男が入ってくる。 「藤沢さん、目が覚めたか」 「......見つかったか?」 修の声には焦りがにじんでいた。 男は首を振った。 「いや、まだだ。他の場所も順番に探してる」 修の瞳から、いつもの鋭さは失われ、暗く沈んでいた。 眉間には深い皺が刻まれ、重たい悔恨が彼の表情を支配していた。 彼は視線を落とし、口元に力なく笑みを浮かべる。 ―なぜあのとき、追いかけなかったのか。 若子を、あんなふうにひとりで行かせるべきじゃなかった。 夜の道を、彼女ひとりで運転させるなんて、自分はなんて馬鹿なんだろう。 どんな理由があろうと、あのとき引き止めて、一緒に行くべきだった。 侑子が怪我をしたからって、あそこで立ち止まるべきじゃなかったんだ。 すぐに追いかければ、若子に何か起きることもなかったかもしれない。 彼は、若子を恨んでいた。 あの瞬間、彼女が選んだのは自分ではなく、西也だったから。 でも今― 彼が選んだのは、侑子だった。そして、その選択が若子を傷つけた。 あのとき、彼にとっては難しい決断ではなかった。 もしすぐに若子を追いかけていれば、侑子に危険は及ばなかったはずなのに。 修は、自分が彼女を追わなかったことを、心の底から憎んだ。 その瞳には、痛みの波が渦を巻いていた。 まるで深い夜の湖
西也の心は―まるでとろけるようだった。 「暁、今の......パパに笑ったのか?もう一回、笑ってくれるか?」 声が震えていた。 嬉しくて、感動して、涙が出そうだった。 暁が笑ったのは、これが初めてだった。 しかも、それが自分に向けられた笑顔。 初めて、「父親としての喜び」を、はっきりと実感した瞬間だった。 これまでどれだけこの子を大切にしてきたとしても― 心のどこかで、わずかに隔たりがあったのは事実だった。 この子は、自分の子ではない。 修の血を引いている子だ。 若子への愛ゆえに、この子にも愛情を注いできた。 そうすれば、彼女にもっと愛されると思っていた。 けれど、今― 暁のその笑顔を見た瞬間、彼は心から思った。 ―愛してる。 たとえ血の繋がりがなくても。 たとえこの子が修の子でも。 そんなことは、どうでもよくなった。 ただ、この子が笑ってくれれば―それだけで十分だった。 暁は再び笑った。 その澄みきった瞳が、きらきらと輝いていた。 笑顔はまるで小さな花が咲くようで、甘く香って心を満たしてくれる。 その笑い声は鈴のように澄んでいて、胸の奥まで響いた。 その無垢な笑顔は、生きることの美しさと希望を映し出していて、誰もが幸福に満たされるような魔法を持っていた。 「暁......俺の可愛い息子」 西也はそっと指先を伸ばし、彼のほっぺたを撫でる。 まるで壊れてしまいそうなほど繊細な肌に、細心の注意を払いながら。 「おまえは本当にいい子だ。パパの気持ち、ちゃんとわかってくれるんだよな...... ママは、わかってくれなかった......あんなに尽くしたのに」 暁は小さな腕をぱたぱたと動かし、雪のように白い手が宙を舞う。 まるで幸せのリズムを刻むように。 「......パパの顔、触りたいのか?」 西也は優しく微笑んで、顔を近づけた。 暁の小さな手が、ふわりと西也の頬に触れる。 その目には喜びと好奇心に満ちていて、純粋な視線でじっと彼を見つめていた。 まるで、この広い世界を初めて覗き込んでいるかのように。 恐れも、警戒もなく、ただまっすぐな瞳で西也を見つめる。 その瞳は、一点の曇りもない。あるのはただ、「知りたい」という気持ちだけ
もしかすると―驚かせてしまったのかもしれない。 暁は、さらに激しく泣き始めた。 口を大きく開けて、嗚咽のように大声で泣いている。 「泣かないでくれよ、な?暁、パパが抱っこしてるじゃないか。 いつもはママが抱っこすると泣くくせに、パパが抱いたら泣き止んでたじゃないか。これまでずっとパパが面倒見てたんだぞ?そんなに悪かったか?なんで泣くんだよ...... ......まさか、藤沢のこと考えてるのか?」 その瞬間、西也の目が、獣のように鋭くなった。 「教えてくれ、そうなのか?あいつのことを想ってるのか?奴が......おまえの本当の父親だから? 違う......違うんだ、暁。俺が、おまえの父親だ。ずっと、ずっとおまえとママのそばにいたのは、この俺なんだ。あいつは、おまえの存在すら知らなかったくせに......女たちと好き勝手してたんだ。 暁、おまえが大きくなったら、絶対に俺だけを父親だと思うよな? 藤沢なんて、父親の資格ないんだ......そんなやつが、おまえの父親であってたまるか。 父親は俺だ!俺しかいないんだ! 暁、目を開けて、よく見ろ......この俺が、おまえの父親なんだよ! 泣くなよ......な?頼むから、泣かないで」 けれど、どれだけあやしても―暁の涙は止まらなかった。 「やめろって言ってんだろ!!」 西也はついに怒鳴りつけた。 「これ以上泣いたら......おまえを、生き埋めにしてやるからな!」 狂気をはらんだ眼差しで睨みつけた。 その瞬間― 暁の泣き声が、ぴたりと止まった。 黒く潤んだ瞳が、大きく見開かれたまま、まるで魂が抜けたように無表情になる。 動かない。 光が消えたようなその瞳を見て、西也ははっとした。 「......暁、どうした?パパだよ、わかる?」 西也はその小さな頬に手を添え、そっと撫でた。 「ごめんな、怖がらせたよな。パパ、怒ってたんじゃないんだ。ちょっと......ほんの少し、気が立ってただけなんだ」 西也は涙混じりに頬へ口づける。 「ごめん、本当にごめん。パパ、もう怒らないから。だから、お願いだから......怒らせるようなこと、しないでくれよな?」 子どもは、もう泣いていなかった。 ぐずりもせず、ただ黙っていた。