若子は小さく頷きながら続けた。「あの時、私はすごく慎重にあなたに近づいて、できるだけ『いい子』に見えるようにしてたの。もし私が『いい子』じゃなかったら、きっとみんなに嫌われるって思ってたから。でも、あなたのそばまで行った時、あなたはそっと私の手を握ってくれたわ」「お前、あの時震えてたよな」修が静かに言った。「握った手越しに伝わってきた。すごく震えてた。お前がどれだけ怖がっていたのか、よく分かったよ」「でも、あなたは手を離さなかった。それどころか、耳元でこう言ってくれたの。『怖がらなくていい。もう傷つくことはないよ。俺が守ってあげる』って」若子の声は穏やかで、懐かしさが滲んでいた。「それから、私はずっと藤沢家で暮らすようになった。そして、いつもあなたと一緒にいた。どこへ行くにも私を連れて行ってくれて、分からない問題があれば、飽きずに教えてくれた。私が理解するまで、絶対に怒ったりしないでね」誰かにいじめられた時は、いつもあなたが一番に駆けつけて、相手を追い払ってくれた。パパとママが恋しくなって泣いていた時は、ただ黙って私のそばにいてくれて、何も言わずに一緒にいてくれた。私が泣き疲れると、水や食べ物を持ってきてくれて......本当に、まるで私の守護神みたいだった。いつも私のそばで、私を守ってくれていたのよ」修の目はどこか柔らかく、優しい光を帯びていた。まるで、その思い出に心が戻されたように。彼が若子をじっと見つめているその表情には、あの頃の無垢で純粋な子どもだった自分と若子が映し出されているかのようだった。あの頃は、何もかもが単純だった。二人の間には何のわだかまりもなく、ただ互いに依存し合っていた。だが、大人になるとすべてが変わってしまった。単純さは消え、複雑さと苦しみだけが残った。「若子......でも、その『守護神』は、最後にはお前を深く傷つけた。お前をがっかりさせたんだろうな」修の目には痛みと失望の色が浮かんでいた。「修、私がこんな話をしたのは、私たちが子どもの頃の時間を忘れることは決してないって、あなたに伝えたかったからよ」「だから、どういう意味なんだ?」修は困惑しながら尋ねた。若子がなぜ急に過去の話を持ち出したのか、彼には分からなかった。それに、彼女はまだ自分の疑問に答えていない。彼女はまだ、あの事故や雅子への心臓提供者の死につ
「若子......」修は静かに彼女の顔を見つめた。「お前がこんなに近くにいるのに、もう二度と以前のようには戻れないって分かってる。それが、たまらなくつらいんだ。俺は......本当にお前が恋しい」修は失意の色を浮かべたままうつむき、ぽつりと続けた。「知ってるか?お前の誕生日の日、俺は村上のところで酒を飲んでた。お前が来た時、俺は村上が何かお前に嫌がらせをしてると思って、彼を殴ったんだ」若子は軽く頷いた。「覚えてる。その時、あなたは私を桜井さんと勘違いしたのよね」その出来事を思い出すと、若子の胸にはいまだに小さな痛みが広がった。当時の彼女は、沈み込むような失望と苦しさを感じていた。修は苦笑を浮かべた。「あれは、俺がわざと雅子の名前を出したんだ。本当は、お前だって分かってた」若子は驚いて目を見開いた。「何を言ってるの?」修は一つ深呼吸をし、心を落ち着けて話し始めた。「離婚を切り出した後、俺はひどく苦しくて、酒に逃げるしかなかった。でも、その痛みをお前に知られるわけにはいかなかった。だって、あの頃の俺は、お前が俺のことをただの兄としか見てないって信じてたんだ。離婚を切り出したら、きっとお前は喜ぶんだろうって。でも、お前が村上のところに来て、俺の一番惨めな姿を見た時、どうしてもお前にそれを知られたくなかった。だから、あえて雅子の名前を出して、俺が平気そうに見えるように振る舞ったんだ」「......」若子は言葉を失ったまま、その場で黙り込んだ。「修、それはもう過ぎたことよ。それを蒸し返しても、何も変わらない」いくら彼が当時の真実を語ったところで、彼女がその事実で彼に戻るわけではない。人生には、やり直しがきかないことがある。それを知ることが痛みを癒すわけではない。「お前の誕生日を一緒に祝えなかったのは、本当に俺の落ち度だ。贈り物に選んだあのブレスレットも、お前には気に入られなかったしな。あれ、すごく悩んで選んだんだよ」修の声には失意と悲しみが滲んでいた。それは、まるで大事なおもちゃを失った子どものようだった。若子の脳裏にあのブレスレットのことが浮かんだ。あの贈り物が原因で、二人は何度も言い争った。それも、ほとんどが雅子のことでだ。雅子ははっきりと「このブレスレットは自分が修に選ばせた」と言った。でも、修は「自分で選んだ」と
修は苦笑いを浮かべたまま、それ以上何も言わず、俯いてじっとしていた。その肩が微かに震えているのを見て、若子は彼が泣いているのかもしれないと思った。若子はそっと手を伸ばし、修の背中を軽く叩いて慰めるような仕草をした。だけど、何を言ったらいいのか分からなかった。慰めの言葉も、突き放すような冷たい言葉も、どちらにしても彼を傷つける。だって、自分はもう彼の元には戻らないのだから。たとえ西也がいなくても、修の元には戻るつもりはない。それは変わらない。修は今、痛みの渦の中でもがき続けている。その怪しいループから抜け出せないでいる。彼自身が納得できない限り、自分が何を言ったって意味はない。「......最初から分かっていれば、こんなことにはならなかったのにね」人間なんて、持っているときには気づかず、大切なものを失って初めて後悔するものだ。若子は本当に修の元には戻るつもりはなかった。もう愛しているかどうかなんてどうでもよかった。ただ、傷つくのはもう嫌だった。それだけだった。修との間に存在するのは二人だけじゃない。その間に雅子という存在が挟まっている。三人では狭すぎる。たとえ修が雅子を捨てると誓ったとしても、若子はもう信じられない。だって、一度裏切られているから。厳密に言えば、修は嘘をついたわけではない。結婚前に彼はちゃんと「雅子は特別な人だ」と伝えていた。でも、結婚生活の中で、修が雅子と密かに連絡を取り続けていたことは若子にとって耐えがたい事実だった。出張だと言っていたのは、実は雅子と会っていたのだ。その傷は深かった。若子は心に決めた―二度と同じ間違いは繰り返さない、と。冷たい風が吹き抜ける。いつの間にか季節は秋に入り、気温が徐々に下がってきている。時間は遅いと言えば遅いし、速いと言えば速い。若子は腕を抱え、思わず一つ息を吸い込んだ。その様子に気づいた修が顔を上げ、若子の体が震えているのを見てすぐに自分のジャケットを脱ぎ、そっと彼女にかけた。「車に乗ろう。少しは暖かくなる」若子は小さくうなずき、そのまま二人で車に乗り込んだ。車内は暖かかった。若子は肩にかけられたジャケットを静かに外し、隣に置いた。修は車を発進させ、静かに病院へと向かう。病院に着くと、修は駐車場に車を停めた。「遠藤の調子はどうだ?」修が顔を若
修は小さくうなずいた。 「分かった。話したくないなら、それでいい」実のところ、修が若子に尋ねたのは、自分が何も知らないからではない。むしろ逆だ。西也の今の状況について、調べるのはそう難しいことではなかった。噂では、西也は記憶喪失になり、若子のことだけを覚えているという。正直なところ、修にはその話がどうにも信じられなかった。記憶喪失になったとして、どうしてちょうど若子のことだけを覚えているなんてことがあるのか?いくらなんでも都合が良すぎる。だが、それが事実かどうかは分からない。ただ修の中でそう思っているだけだ。本当のところを知っているのは西也自身だけだろう。若子を引き留めるために西也が芝居をしているのでは?と修は一瞬考えたが、よくよく考えれば、彼らはすでに夫婦なのだ。わざわざ記憶喪失を装う必要なんてない。そんなあれこれを考えているうちに、修の心の中はすっかり混乱していた。「若子、俺は用事があるから、ここで失礼する。病院には入らないよ。でも、遠藤の世話をするにしても、自分の体を大事にしろ。あいつもきっとお前がちゃんと自分をいたわることを望んでる」若子は小さくうなずき、「分かったわ。ありがとう」と短く答えると、車のドアを開けて降りた。車が走り去るのを見送ってから、若子はようやく病院の入り口へと向かった。病院のロビーに入ったところで、成之とばったり出会った。「おじさん、いらしてたんですね」「若子、ちょうどお前が藤沢の車に乗って帰ってくるのを見かけたよ。西也から聞いたんだが、お前、今日は祖母のところへ行ったそうだな。でも、前夫と一緒だったとは知らなかったらしい」若子は素直にうなずいた。 「ええ、一緒に行きました。藤沢家との関係は少し複雑なので......」「気にしなくていいよ」成之は優しく言った。「説明なんていらないさ。別にお前を責めるつもりなんてないし、お前にはお前の考えがあるんだろう。西也に全部を話さないのも、彼を刺激しないためだろう?」成之の穏やかで落ち着いた物腰に、若子の胸の奥が少しほっとした。彼の言葉には押し付けがましいところがなく、どこか広い心で包み込んでくれるような雰囲気がある。この人なら、無理に物事を決めつけたり、教条的に説教するようなことはないのだろう。彼のような人に信じてもらえるというのは、なかな
若子は軽くうなずいた。 「そうなんですね。花も今、大変なんですね」「心配しなくていいよ」成之がやわらかく言った。「あいつも、いずれ会社のことを学ばなきゃならない。西也に全部を任せるわけにはいかないだろ?兄妹で分担するのが一番だ」若子は「ええ」と軽く相槌を打った。 「きっと花なら、ちゃんと問題を解決できると思います」「若子、一緒に夕食を食べに行かないか?」「私が、ですか?」若子は驚いて目を瞬かせた。それに、自分はもう夕食を済ませている。今さらもう一度食べるのは無理だ。「分かってるよ」成之が軽く笑った。「お前がもう食べたのは知ってる。だから、俺が食べている間、ちょっと話し相手になってくれないかな?最近いろいろあってさ、誰かとゆっくり話す時間が全然なくて、少し気持ちを整理したいんだ」成之の申し出に、若子は少し迷った。だが、西也がまだ自分を待っていることを思い出し、申し訳なさそうに言った。 「でも、西也がまだ待っていると思うので......」「大丈夫だよ」成之は落ち着いた口調で答えた。「さっき西也に会ったけど、調子は良さそうだったよ。それに彼、こう言ってた。『若子が自分のことをずっと世話してくれて、ちょっと申し訳ない。たまには自分のことに時間を使ってほしい』ってさ。お前がずっと付きっきりだと、彼のほうが心苦しいって思うんだろうな」「彼が本当にそんなことを?」若子は少し驚いた様子で聞き返した。「ああ、嘘じゃないよ。信じられないなら、あいつに直接聞いてみてもいい。西也は本当はお前にそばにいてほしいけど、それ以上に、お前に無理をさせたくないんだと思うよ。少し休んで、自分の時間を取ったらどうだ?きっとそれが彼のためにもなる」若子は淡い笑みを浮かべた。かつて、自分が少し席を外しただけで、西也はひどく落ち込んで、子どものように拗ねていた。それが今では、こんなふうに大人びたことを言うようになったのだ。―時間の経過とともに、彼も少しずつ変わっていったのかもしれない。「どうだ?もしやっぱり心配なら、俺は無理に誘わないよ。西也のところに戻ってもいい」若子は、やがて訪れる現実を思い浮かべた。いつかは西也と離婚しなければならない。そして彼も真実を知ることになるだろう。記憶がいつ戻るかは分からないが、いずれ彼の頭が完全に回復したときには、す
若子は軽くうなずいた。 「確かに彼は一度も話していません。でも、それは意図的ではないと思います。修は家族のことをほとんど話さないんです。私も花に会うまでは、妹さんがいることすら知りませんでした」若子は成之を気遣い、フォローのつもりでそう説明した。成之は茶を一口含み、穏やかに微笑んだ。 「そんなに急いで説明しなくても大丈夫だよ。気にしてないから。西也が妻であるお前に俺のことを話していなくても、それは別に大事なことじゃない。それに、お前たちは夫婦だ。いずれどこかで俺と会うことになったはずだろう?ほら、こうして今、こうして話せてるわけだし。お互いのことを知るのに遅すぎるってことはないさ」「そうですね、おじさん。今まで、西也にこんなおじさんがいるなんて知らなかったんです」「『こんなおじさん』か?」成之は少し興味深そうに尋ねた。「お前は俺のことをどんな舅だと思ったんだ?」「おじさんは、すごく地位の高い方なのに、普段はとても控えめなんだなと思いました」若子は率直に答えた。 成之は小さく笑って言った。 「大したことないよ。ただの政府の職員だ。役職がどう呼ばれようが、公務員は公務員にすぎない」若子はその言葉を聞きながら、静かに微笑みを浮かべ続けた。でも、成之が言う「ただの職員」というのは間違いだ。実際には、彼の一言で市長ですら従うほどの人物なのだ。「俺にとって、西也はただの甥じゃない。あいつも花も、俺にとっては自分の子どものような存在だよ」若子はその言葉に少し驚いた。 「おじさん、ご結婚されていないんですか?」「ずっと仕事の道を突き進んできたからな。それで人生の大事なことを後回しにしてしまったんだ。長い間そうやって生きているうちに、独り身が当たり前になってしまった。名利の世界は厄介なことが多いから、家族を持つとどうしても巻き込まれやすい。だから一人でいるほうが気楽なんだよ」成之の言葉を聞き、若子は納得した様子でうなずいた。彼が花や西也を自分の子どものように思うのは、きっと彼も子供が欲しいのだろうと思った。ただ、自分には子供がいないのだろう。「話を戻そうか」成之は再び穏やかな声で言った。「俺はあいつらを自分の子どもだと思ってるからこそ、その伴侶についても知りたいんだ。だから今日はお前と二人で話してみたかった。こういう気持ち、分かるか?お
「ええ、もらいました。でも......」若子は仕方なさそうに言った。「そのお金は、叔母さんが全部使い果たしてしまいました。経済的に余裕がなくて、私の面倒を見ることができなくなったらしく、会社の前に私を置き去りにして、どこかへ行ってしまいました。でも、藤沢会長が偶然私を見つけて、家に連れて帰ってくれたんです。それからずっと藤沢家で暮らして、大人になったら修と結婚しました」「藤沢家はまるで、お前を養い嫁として育てたみたいだな?」成之は眉をひそめて聞いた。若子は聞き間違えたのかと思った。成之の声がどこか冷たく感じられたからだ。彼女は慌てて説明した。 「違います、そんなことありません。おばあちゃんは私を養い嫁としてではなく、本当の孫のように大切にしてくれました。私が修と結婚したのも、自分の意思です。誰にも強制されていません」「つまり、お前は藤沢修を愛していたから結婚したんだな?恩返しのために仕方なく結婚したわけじゃない?」成之はさらに問いかけた。「ええ、私は修を愛していたから結婚したんです。藤沢家は大きな家柄で、多くの女性が憧れるような家です。そんな家が私に無理やり結婚を強いるはずがありません」若子は外の人間にはこうして素直に話せるが、修本人の前では愛しているとは言えなかった。それに、藤沢家が自分をどれだけ大切にしてくれたかを他人に誤解されたくなかった。若子の真剣な表情を見て、成之は軽くうなずいた。 「そうか。それならいい。在りし日、藤沢家で本当に幸せに暮らせたんだな?」その声には、先ほどまでの冷たさはなくなり、柔らかさがにじんでいた。若子は「ええ」と小さく答えた。 「はい、とても良くしてもらいました。家族のように扱ってもらい、一度も苦労させられたことはありません」藤沢家には感謝の気持ちしかない、と若子は思った。成之はじっと若子を見つめたまま、ふと静かに言った。 「そんなに良い子なんだから、誰もお前を苦労させるはずがないさ......ただし、お前の叔母を除いてはな。本当にひどい話だ。きっとお前もその時は辛かっただろう」成之が叔母について語るとき、その表情が厳しくなるのを見て、若子は少し不思議に思った。どうして成之は、自分の話にこれほど感情を揺さぶられるのだろうか?まるで誰かが自分を傷つけたと聞いただけで腹を立て、逆に誰かが
「彼が私にひどいことをしたわけじゃありません。ただ......」若子は言葉を詰まらせた。「ただ何だ?」成之が問い詰めるように聞く。「もし彼が本当にお前に良くしていたなら、どうして離婚したんだ?それに、その浮気相手が西也と同じ病院にいるって聞いたぞ」「......」若子は膝の上で手をぎゅっと握りしめたまま、答えられずにいた。「その浮気相手を病院から追い出すこともできるぞ」成之が提案するように言った。若子は驚いた。まさか成之がこんな提案をするなんて。どうやら彼は本当に西也を大事に思っているらしい。甥の妻である自分にも気を配ってくれているようだ。若子は微笑みを浮かべながら答えた。 「ありがとうございます。でも、必要ありません。私は気にしていないので」「本当にそうか?」成之は少し声を低くして言った。「藤沢修が他の女のためにお前を裏切り、離婚までした。それで、その浮気相手が今、お前の夫と同じ病院にいる。お前はそれで少しも悔しいとか、腹立たしいとか思わないのか?今は遠藤家がお前の後ろ盾になっているし、俺も力になれる。もう我慢する必要はないんだ。お前を傷つけた奴らに十倍返ししてやればいい」成之の言葉には、どこか怒りがにじんでいた。若子は首を横に振った。 「いえ、本当に悔しいわけじゃありません。それは、我慢しているからではなく、もう何も気にならないからです。離婚する前なら、確かに怒ったり悲しんだりしました。でも今は、過去のことに時間や感情を無駄にしたくないんです。それに、桜井のような人のために、おじさんが心を砕く必要はないと思います」若子の言葉には、一切の偽りがなかった。成之はしばらく考えたあと、うなずいた。 「お前がそう言うなら、無理に勧めたりはしない。もし何か助けが必要になったら、遠慮せずに言ってくれ」若子も軽くうなずいた。 「ありがとうございます、おじさん。もし助けが必要になったらお願いするかもしれません。それに、もう十分助けてもらっています」以前、病院で患者の家族に囲まれて困ったとき、成之がすぐに駆けつけて助けてくれたことを思い出した。「俺たちはもう家族だ。だから、これから何か困ったことがあったら、絶対に遠慮しないでくれ。あいつの父親は少し扱いづらい人間だからな。もし彼に何か嫌がらせをされたら、俺に相談すればいい」
高峯は、息を呑んで西也を見つめた。 「お前......正気か?彼女と一緒に死ぬつもりなのか?」 「そうだ。若子が死んだら、俺も一緒に逝く」 若子は、彼のすべてだった。 「お前......」 高峯は怒りに震えながら息子を指差す。 「世の中には、女なんていくらでもいる。なぜ、そこまで―」 その瞬間― 冷たい視線が突き刺さるように感じた。 高峯が言葉を止め、振り向くと、光莉が真っ赤に腫れた目で彼を睨みつけていた。 ―パァン!! 鋭い音が響き渡る。 光莉の手が振り抜かれ、高峯の頬を強く打った。 彼女の瞳には、怒りと憎しみが渦巻いていた。 その光景を目にして、西也は驚愕した。 「俺に手を出すのはまだしも、お父さんにまで手を上げるなんて、正気か!?」 怒りを抑えきれず、彼は叫ぶ。 「いい気になるなよ!お前が藤沢家の後ろ盾を持ってるからって、遠藤家が怯むとでも思ってるのか?」 「......やっぱりね」 光莉は涙を拭いながら、吐き捨てるように言う。 「親子揃って同じクズね。口では綺麗事を言うくせに、女なんて使い捨ての道具くらいにしか思ってない。死んでもどうでもいいんでしょ?でも覚えておきなさい。もし若子が死んだら、遠藤家の誰一人として無事では済まないわ」 そう言い残し、光莉は背を向ける。 この父子と一緒にいると、息が詰まる。 これ以上ここにいれば、本当に理性を失ってしまいそうだった。 西也は、ゆっくりと高峯の方を振り返った。 ―お父さんが、殴られた? 信じられなかった。 あの光莉が、お父さんに手を上げるなんて― しかし、高峯は怒っている様子はなかった。 むしろ、彼の瞳には― 失望と、罪悪感が滲んでいた。 「......お父さん、大丈夫ですか?」 高峯は、ぼんやりとした表情で立ち尽くしていた。 「......お父さん」 西也は、眉をひそめる。 「彼女と知り合いですか?」 どうしても、腑に落ちなかった。 二人の間には、何か説明できない感情のやり取りがあった。 「西也......」 高峯は、低く言った。 「彼女を責めるな。彼女は、何も知らない」 「......は?」 西也の眉間に、深い皺が刻まれる。 「なんであんな女
高峯の姿を目にした瞬間、光莉の表情が険しくなった。 彼女は乱れた服を整えながら、冷たく言い放つ。 「やっぱり、親子そろって同じね。遠藤高峯、あんたの息子が何をしたか知ってる?若子を殺そうとしてるのよ。彼女を手術台の上で死なせるつもりなのよ!」 光莉の言葉を聞いた高峯は、すぐには信じなかった。 彼は西也のことをよく知っている。 西也が若子を殺すはずがない。 だが、息子の頬にくっきりと残る手形を見ると、光莉が西也に手を上げたことは明らかだった。 「誤解があるんだろう」 高峯は沈着に言う。 「二人とも、落ち着いて話せないのか?手を出す必要はなかったはずだ。光莉、西也は年下なんだ。なぜ、そこまで責め立てる?」 「年下?」 光莉は鼻で笑った。 「ただの雑種でしょうに」 その言葉を聞いた瞬間― 高峯の表情が一変した。 光莉がこれまでにどれだけ西也を罵ったのか、想像に難くない。 彼はすぐさま光莉の腕を掴むと、低く、鋭い声を発した。 「今の言葉、撤回しろ。西也に謝れ」 光莉は軽く鼻を鳴らし、侮蔑の目を向ける。 「彼に謝れですって?冗談じゃないわ」 高峯は怒りを押し殺しながら、ゆっくりとした口調で言った。 「いいか、光莉。今ならまだ間に合う。謝るなら、今のうちだ。後悔することになるぞ」 「後悔?」 光莉は力任せに腕を振り払い、吐き捨てるように言った。 「ええ、後悔してるわ。若子があんたの息子と付き合うのを止めなかったことをね。あんた、本当に見事な息子を育てたわね!」 西也は黙ったまま拳を握り締め、光莉を睨みつける。 怒りだけじゃない―胸の奥に、冷たい悲しみが広がっていくのを感じた。 それが何なのか、自分でも分からない。 「......!」 高峯は手を上げ、彼女を殴ろうとした。 だが― その手は、空中で止まった。 光莉は顎を上げ、不敵に笑う。 「どうしたの?親子で一緒に手を上げるの?いいわよ、殴ってみなさいよ! どうせ、私だって彼をぶったわ。やり返せば?」 高峯は、悔しそうに拳を下ろした。 「......俺は、お前に手を上げるつもりはない」 そして、低く言い放つ。 「光莉、お前は今日のことを、必ず後悔することになる」 「はははっ!」
光莉には、西也の決断がどうしても理解できなかった。 純粋に利益だけを考えたとしても、妊娠を終わらせることは西也にとってメリットしかないはずだ。 何より、これは彼の子供ではないのだから。 なぜ、西也はそこまでリスクを冒してまで、若子のお腹の子を守ろうとするのか? 普通なら、迷うことなく妊娠を終わらせるべきじゃないのか? だって― その子は修の子供であって、西也のものじゃない! 西也は、ゆっくりと頬を撫でた。冷たい眼差しを光莉に向ける。 もし彼女が女でなければ、とっくに拳を振り上げていた。 「若子を殺す気なの!?」 光莉は西也の胸ぐらを掴み、怒鳴りつけた。 「愛してるなんて口では言うけど、結局は彼女を死なせるつもりなんでしょ!?彼女のお腹にいる子はあんたの子供じゃないのよ!何を守るっていうのよ!」 西也は光莉の手を強く振りほどいた。 「お前に何が分かる?」 冷たく言い放つ。 「説明する気もない。とにかく、ここで騒がないでくれ」 この決断がどれほど辛いものか、誰にも分かるはずがない。 彼は若子のために、これを選んだのだ。 そうでなければ― 彼女は、自分がこんな残酷な選択を望んでいるとでも思っているのか? 若子は、俺のすべてだ。 もし子供がいなければ、若子は生きる気力を失ってしまう。 だから彼は子供を守る。 それは、若子を守ることと同じなのだ。 この女に、その想いが理解できるはずがない。 「......よく分かったわ」 光莉は忌々しげに吐き捨てた。 「結局、あんたは若子を死なせたいんでしょ?まさか、財産を取られるのが怖いとか?」 パァン!! 鋭い音が響き渡る。 光莉の平手打ちが、西也の頬を激しく打ち抜いた。 頬がみるみるうちに腫れ上がっていく。 西也の目が、怒りに燃え上がる。 殴り返してやりたい― そう思ったが、不思議なことにどうしても手を上げることができなかった。 まるで、何か見えない力が彼の手を止めているような感覚だった。 「やっぱりね。あんたって父親そっくりだわ。クズの血は争えないわね!このろくでなしのクソ野郎!もし若子に何かあったら、あんたを殺してやる!」 光莉がこれほど激しく怒るのは、初めてだった。 彼女の口から、
「妊娠を終わらせる以外に、母子を助ける方法はないのか?早く言え!」 西也はほとんど怒鳴り声を上げた。 医者は少し考えた後、すぐに答えた。 「もう一つ方法があります。子宮内輸血です。胎児のへその緒や胎盤に直接カテーテルを挿入し、血液を供給することで、物理的に子宮の出血を抑えます。これは胎児の生命を守るための緊急処置ですが、通常は胎児が深刻な危機に陥った場合にのみ行われます。確かに、胎児の生存率を上げることはできますが......今の妊婦さんの状態では、もし失敗すれば胎児は子宮内で酸素不足になり、死亡する可能性が高い。そして妊婦さんも助からないでしょう!」 光莉がすかさず聞いた。 「つまり、妊娠を終わらせれば、若子は助かる。でも赤ちゃんは失う。一方で、強引に胎児を守ろうとすれば、失敗した時に二人とも死ぬ、そういうことね?」 医者は静かに頷いた。 「はい。そのため、私たちは母体の安全を最優先に考え、妊娠の中止を推奨します」 だが、妊婦本人は手術前にこう言っていた。 「どんなことがあっても、絶対に赤ちゃんを守って」 今、彼女は意識を失い、判断能力を失っている。 万が一を考えて、医者たちは西也の決断を求めた。 「西也!」 光莉は彼の腕を強く掴んだ。爪が食い込み、彼の筋肉に沈むほどの力で。 「何をぼんやりしてるの!?早く若子を助けなさい!こんなこと、迷う必要ある?早く決めなさい!」 光莉の焦りは頂点に達していた。 もし自分が決定権を持っていたなら、すぐにでも妊娠を終わらせるよう指示したはずだ。 だが、決定できるのは西也だけ。 彼らは法律上の夫婦だった。 若子のお腹の中にいるのは、自分の孫だ。 しかし、それでも―彼女の命こそが最優先。 子どもを守るために、母子ともに失うなんて、そんなことは絶対にあってはならない。 光莉の心は、燃え上がるような焦燥感で満たされていた。 ―その時、西也の脳裏に、若子の言葉がこだました。 「赤ちゃんがいる限り、私は生きていける。でも、目が覚めて赤ちゃんがいなかったら、私も生きていけない」 西也は、痛む頭を抱えるように目を閉じた。 「遠藤さん、早く決めてください!時間がありません、母体が持ちません!」 医者が焦燥を滲ませながら、彼を急かす。 「
光莉は冷たい視線を向けた。 「遠藤西也......結局、あなたは若子を独占したいだけでしょう?彼女が本当にあなたを愛していると確信してるの?」 西也は拳を握りしめた。 「彼女が僕を愛していようが、そんなことはあなたには関係ありません。 今、若子は手術を受けてるんです。たとえ無事に終わったとしても、術後の体調は良くないはずだ。そんな彼女に、藤沢が行方不明だと伝えるつもりですか?それで彼女を絶望させて、追い詰めるつもりですか?」 西也の声には、はっきりとした怒りが滲んでいた。 「あんたたち藤沢家の人間は、若子のことなんて何も考えていない。もし本当に彼女を大事に思っているなら、ここに来るべきじゃなかった! あんたたちの『愛』っていうのは、ただ彼女を縛り付けることだけだ。でも、彼女にとって本当に必要なのは、解放されることだ......いつになったら気づくんだ?」 光莉は冷笑する。 「言葉巧みに論点をすり替えようとしても無駄よ。若子と藤沢家のことに、あなたが口を挟む権利はない。あなた、記憶を失ってるのよね?じゃあ、なぜ若子があなたと結婚したのかも忘れたんじゃない?」 ―彼女と西也の結婚は、ただの「偽装結婚」だった。 なのに、この男は本気で「夫」のつもりで若子を支配しようとしている。 「......」 西也の拳が、ギリギリと音を立てた。 「たとえどんな理由があろうと、若子は僕の妻です」 低く、はっきりとした声で言い切る。 「僕は彼女を守ります。愛する......一生」 彼の目は、鋭く光莉を見据えた。 「藤沢家とは違う。彼女の両親を死なせておいて、その罪悪感を誤魔化すように育て、感謝しろと押しつけ、挙句の果てに『藤沢家の嫁』として藤沢修に押し付けた。彼女がどれほど傷ついたか、あなたたちには分からないでしょう?」 「......!」 光莉が何か言い返そうとしたその時― 手術室のドアが開いた。 医師が急ぎ足で出てくる。 「遠藤さん!」 西也はすぐに立ち上がった。 「どうなった?」 医師の表情は険しい。 「予想以上に状況が悪化しています。手術中に合併症が発生しました。妊婦の子宮頸部から出血が続いており、現在、昏睡状態です。最善の方法は、妊娠を中断することです。 さもないと、子
「はい。彼に会いに行ったせいで体調を崩し、今朝緊急手術になりました。息子さんは、夫だった頃も、元夫になった今も、彼女にとってはただの負担でしかないね」 光莉は西也とこれ以上話す気になれず、無言のまま通話を切った。 ―30分後。 光莉が手術室の前に現れた。 それを見た西也は、ゆっくりと立ち上がる。 「......どうしてここに?」 光莉は腕を組み、きっぱりと言った。 「若子は私にとって娘みたいなものよ。彼女が手術を受けているのに、来ないわけがないでしょう?それより、あなたの家族はどうなの?結婚したんでしょう?あなた以外に誰も来ていないじゃない」 西也は無表情で言い返す。 「僕がここにいれば十分です。彼女の夫は僕ですから。他の誰が来ようと、関係ありません。それに、若子の手術は予定より早まったんです。まだ誰も知らないだけです」 そして、皮肉げに唇を歪めた。 「......とはいえ、すべての原因は、伊藤さんの息子ですよ。若子は昨夜、命をかけて彼に会いに行った。そのせいで体調を崩し、今こうして手術を受けているんです。あなたの息子は、本当に疫病神ですね」 光莉は鼻で笑った。 「そう?じゃあ、若子が昨夜修に会いに行ったことを知ってるのよね?それなら、二人が何を話したのかも知ってるの?」 「さあ、そこは息子さんに聞いてみたらどうです?」 西也は冷ややかに言い放つ。 「若子は命がけであいつのもとへ行った。それなのに、彼は一言も返さなかった。結局、彼女は扉越しに話すしかなかったんです。もし本当に彼が彼女との縁を切るつもりなら、きっぱり断ち切るべきです。もう二度と若子の前に現れないでほしい。彼女をこれ以上、傷つけないでください」 光莉は眉をひそめる。 「修が若子を無視したのは当然よ。だって、修は病室にいなかったんだから」 「......」 その言葉に、西也の胸がざわめく。 ―やっぱり、俺の予想通りだ。 藤沢は、若子の言葉を何一つ聞いていない。 彼女がどれだけ必死に語りかけても、彼には届いていなかったのだ。 西也は最初、違和感を覚えていた。 あの男が、若子の妊娠を知って何の反応もしないなんて、そんなことがあるはずがない。 だが、彼が病室にいなかったとすれば― 彼は、何も知らないままな
西也は深く息を吸い込んだ。 その瞳は、ますます赤く染まっていく。 ―これは、過去の話だ。 全部、昔の記録。 あの頃、若子と修は夫婦だったんだから、こういうやりとりがあるのは当然だ。 怒る必要なんて、どこにもない。 ―だって、今の若子は俺の妻なんだから。 これから先、若子と過ごす日々は、すべて俺だけのものになる。 あいつとの思い出なんか、もう増えることはない。 ......けれど。 ―若子、お前はどうして離婚したのに、こんな記録をまだ残してる? 捨てきれないのか? 夜、一人で寂しくなったとき、このチャットを見返して、あの頃を思い出してるのか? ―あいつとの時間が、そんなに幸せだったのか? ならば、これからお前を満たすのは、俺だ。 心も、体も、完全に俺のものにする。 俺たちには、俺たちだけの子どもができる。 若子、お前は俺の女だ。 西也は天井を見上げる。 神様、どうか若子と子どもを守ってくれ。 俺は藤沢を心の底から憎んでいる。だが、若子が産む子どもは、俺が大事にする。 ......なぜなら、その子は、いずれ俺のものになるから。 彼のものだった女も、彼のものだった子どもも、すべて俺のものになる。 そして、彼はただそれを見ているしかない。 苦しみながら、一生。 彼が大切にしなかった女を、俺が大切にする。 彼が捨てたものを、俺が拾う。 それなのに、後悔したからって許されると思うなよ。 間違ったことは、間違いなんだ。 どれだけ悔やんだところで、どれだけ償おうとしたところで、過去は変わらない。 他の女を選んだのは、彼自身だ。 だったら、若子に未練を持つ資格なんて、もうない。 ―たとえ、命を懸けて若子を取り戻そうとしても、関係ない。 俺だって、命をかけられる。 俺はいい人間じゃない。 でも、少なくとも、俺は若子を裏切らない。 他の女のために、彼女を傷つけたりしない。 すべては、若子のため。 俺は、若子を愛してる。 もし、いつか俺が変わってしまったとしても...... それは、愛しすぎたせいだ。 時間が、ゆっくりと過ぎていく。 西也は焦燥を滲ませながら、手術の終わりを待ち続けた。 すると、突然、スマホの着信音が鳴っ
若子が手術に同意すると、すぐに医療スタッフが病室のベッドを押して移動を始めた。 西也は若子のスマホをポケットにしまいながら、ずっと彼女の手を握りしめていた。 「若子、心配するな。俺はずっと外で待ってるから。どこにも行かない。お前も、子どもも、絶対に無事だ」 「西也......忘れないで。何があっても、子どもを守って。私が息をしている限り、この子は私のお腹の中にいなきゃいけない。無事に産まれるまで、絶対に」 「......ああ、約束する。絶対に守る」 西也は若子の顔を両手で包み込むようにして見つめた。 そして、手術室の前に着くと、医者に止められた。 「先生、ちょっと待ってくれ」 そう言って、スタッフがベッドを止めると― 西也は身を屈め、若子の額にそっと口づけた。 彼女の瞳から、静かに涙が流れる。 どんな時も、そばにいてくれたのは西也だった。 ―私は、彼に借りができすぎている。 この先、一生かかっても返せない。 西也は深く彼女を見つめ、「待ってるからな」と囁く。 若子は静かに頷いた。 次の瞬間、医療スタッフがベッドを押し、彼女は手術室へと消えていった。 西也はその場で数歩後ずさり、そのまま力なく椅子に腰を下ろす。 ポケットから、若子のスマホを取り出した。 ロック画面を見つめながら、彼女が教えてくれたパスコードを思い出し、解除する。 ―整然としたホーム画面。 派手なアプリもなく、妙なメッセージもない。 写真フォルダを開くと、最初に並んでいるのは風景写真ばかりだった。 しかし、スクロールしていくと― そこには、修と一緒に写った写真が大量にあった。 二人寄り添い、抱き合い、まるで幸せの象徴のような笑顔。 ―クソが。 西也は眉間に皺を寄せる。 今すぐ削除したい衝動に駆られたが、ギリギリのところで踏みとどまった。 代わりに、二人の過去のメッセージを開く。 特に、離婚前のやりとりを。 そこには、夫婦としての甘いやりとりが残っていた。 「今日は修の26歳の誕生日だよね。早く帰ってきてね。サプライズがあるんだから!」 「サプライズ?」 「教えないよ。教えたらサプライズにならないでしょ?だから聞かないで」 「わかった、聞かない。でも、もし期待外れだっ
医者の表情が険しくなるのを見て、若子は不安になった。 「先生......何か問題でも?」 医者は聴診器を首にかけ、真剣な声で言った。 「心拍が少し遅くなっています。横になって、もう少し詳しく診察させてください」 若子は頷き、大人しくベッドに横になる。 医者はそっと彼女の腹部に手を当て、ゆっくりと圧をかけるように触診していく。 しかし― 「......っ!」 突然、若子が鋭い痛みを訴えた。 「痛い!」 医者は眉をひそめる。「ここを押すと、まるで針で刺されるような痛みがありますか?」 若子は小さく息を飲みながら頷く。 「......はい、すごく痛い......どうして?」 医者の表情は一層厳しくなった。 「症状が進行しています。緊急手術が必要です」 「......何だって?」 西也がすぐさま声を上げ、険しい顔になる。「どうしてこんなことに?」 医者は西也を見て尋ねる。「患者さんは昨夜、しっかり休めていましたか?」 「それは......」 西也は若子をちらりと見るが、すぐには答えなかった。 若子が自分で答える。「昨夜は少し外出しました。でも、車と車椅子で移動しただけで、無理なことは何もしていません」 医者はため息をつく。「松本さん、私は前にもお伝えしましたよね。体を動かさなくても、精神的な負担が影響を与えることもあるんです。今すぐ手術をしないと、危険な状態になります」 医者の厳しい口調に、若子の心臓がぎゅっと縮まる。 彼女はそっとスマホに視線を落とした。 「......でも、せめて十時まで待つことはできませんか?」 「確かに手術は十時予定でした。しかし、今は緊急性が増しています。時間を延ばせば、それだけリスクが高まります。これはあなたと赤ちゃんの命に関わる問題です。十時まで待つことが、どれだけ危険なことかわかりますか?」 医者の言葉に、若子は息苦しさを覚えた。 「でも......」 彼女はまだ待ちたかった。修からの電話を。 もし今手術を受けたら、修が電話をかけてきても、出られなくなる。 そのとき、西也がすっと若子の手を握った。 「若子、今は子どものほうが大事だ。これ以上、先延ばしにするな」 西也の声は真剣だった。 「ちゃんと手術を受けてくれ。