私は驚いた顔で九条さんを見つめた。 彼はそれ以上何も言わず、私を引き寄せ、そのまま病院の廊下を歩き出した。 診察室に入ると、すぐに看護師が現れて彼の傷の手当てを始めた。 椅子に座らされた九条さんは、顔をしかめながら声を上げる。 「看護師長、もう少し優しくしてくださいよ......」 看護師長は彼を冷ややかに一瞥し、ため息混じりに呟いた。 「九条先生、いい歳して喧嘩なんてしてるからですよ。痛いのは自業自得でしょう」 彼が痛そうに息を呑む音が聞こえる。 そして、私をこっそり横目で見た。 その様子に気づいた看護師長が声を張り上げる。 「そんなに優しくしてたら、女の子が心配してくれないでしょう?」 そう言いながら手際よく包帯を巻き、さっさと部屋を出ていってしまった。 部屋には私と九条さんだけが残された。 小さな部屋に、微妙な空気が流れる。 沈黙を破ったのは九条さんだった。 彼はどこかしょんぼりとした目で私を見つめる。 「この手、きちんと治療しないとダメになりそうですね」 その言葉に、私は驚いて顔を上げる。 「そんなにひどいんですか?」 彼は少し困ったように笑いながら答えた。 「そうみたいですね。しばらくは水に触れられませんし、重い物を持つのも無理ですね」 そして、まるで冗談のように、柔らかい声で続ける。 「ですから、これから七瀬さんに色々お願いすることになりますね」 断るべきだと思った。けれど、彼が私のために傷ついたことを考えると、その言葉を飲み込むしかなかった。 こうして私は、九条さんの「専属看護師」になった。 彼の家と私の家を毎日行き来するようになり、彼の生活を手伝う日々が続いた。 けれど、それは私だけではなかった。 翔真もまた、毎日のように私の後をつけてきた。 車で私を追いかけ、九条さんの家の外でじっと待ち、私が家を出るとまたついてくる。 それでも、私の前に姿を現すことはなかった。 九条さんは腕を組み、窓から外を見下ろしながら、軽く鼻で笑う。 「桐生さん、本当に暇そうですね」 私はただ「うん」とだけ答え、それ以上の言葉を口にしなかった。 どれだけ傷が癒えたように見えても、完全に元通りになることはない。 翔真がどんな行動を取ったとしても
「翔真、1000万円貸してくれない?」 賑やかだったバーの個室が、一瞬で静まり返る。 彼の顔が見る間に険しくなり、深い瞳がまっすぐ私を射抜く。 「1000万?何に使うんだ?」 口を開きかけた私を遮るように、彼の隣に座っていた桐生翔真(きりゅうしょうま)の幼馴染の早乙女美織(さおとめみおり)が噴き出すように笑い声をあげた。 「ほらね、私が言った通りだったでしょ?こういう子って、一見可憐なふりして、結局は金を引き出すことばかり考えてるのよ。翔真、まだ信じられない?」 美織の声が続く。 「真実の愛だとか言ってたけど、ほらね。結局、金が大事なんじゃない」 その上、彼女は得意げに私を嘲笑う。 私はただ黙って翔真を見つめる。彼は美織の言葉を黙って聞いているだけで、視線ひとつ動かさない。 翔真の反応を見た周りの人たちは、目に驚きの色を浮かべていた。 美織のこともあって、この界隈の人たちはみんな私を嫌っている。 みんな、私が美織の元のポジションを奪ったと思っているのだ。 図々しくも自分にふさわしくない場所に入り込んだと見られている。 普段は翔真が私をしっかり守ってくれるから、みんな表向きには「お義姉さん」と気軽に呼んでくれる。 でも今日は翔真が何も言わないのを見て、みんな大胆になり始めた。 「七瀬さん、よくもまぁそんな大金を要求するもんだな」 「桐生さんの金は湯水のように湧いてくると思ってんのか?」 最初に口火を切った誰かの後を追うように、他の人たちも口々に言い始める。 「だからさ、貧乏人となんか付き合うと大変なんだよな。結局、俺たちが救済隊みたいになる」 「特に、見た目無害そうな奴ほど要注意だぜ。金せびる時だけは容赦ないからな」 「七瀬さん、銀行強盗でもやったほうが早いんじゃないか?」 中には下品な冗談を口にする者もいた。 「いっそ俺のところに来ない?二百万なら出すけど、どうだ?」 翔真はただ眉をひそめるだけで何も言わない。冷たい沈黙が空気を支配している。 そんな中、美織がわざとらしく「あらあら」と声を上げた。 「この子、ただお金が欲しいだけみたいじゃない。売り物扱いなんてかわいそうだから、あんまり追い詰めちゃダメよ?」 その顔には嘲笑の色が隠しきれていなかった。 まる
昔、翔真は私が酒にアレルギーがあることを知っていた。 私がいる場では、必ず事前にジュースを用意してくれていた。 付き合っていた4年間、そんな彼の気遣いが途切れたことは一度もなかった。 そんな彼が、今は目の前で冷たく私に言い放つ。 「飲め。全部だ。それがここでのルールだ」 その瞬間、私は彼が全く知らない人に思えた。 でも、どうしてもお金が必要だった。お母さんを救うために。 私は小さく息を呑み、震える声で答えた。 「......わかった」 瓶のフタを開け、一気に流し込む。一本、また一本。 喉を焼くアルコールの感覚、胃が悲鳴を上げる。何本飲んだか、何を飲んだか、もう分からない。 やがて吐き気をこらえきれなくなり、泣きながら飲み続けた。顔に伝うのが涙なのか酒なのか、自分でも分からない。 周りの笑い声が聞こえる。私の苦しみが彼らの娯楽だと、そう思ったら、胸が張り裂けそうだった。 ようやく最後の一本を飲み干し、朦朧とした意識の中で彼を見つめた。 「これで......貸してくれる?」 翔真は冷たい目で私を見下ろし、軽蔑するように言い放った。 「お前、あの売女たちと何が違う?同じくらい浅ましいな」 その言葉を最後に、彼は私を追い出すように警備員を呼びつけた。 酒場の外に放り出された私は、地面に伏せたまま動けなくなった。 夜空がやけに黒く感じられた。 翔真、四年間の付き合いで、私はそんなに信用されていなかったの? その夜、私は酒に酔って意識を失い、アレルギーで危うく命を落としかけた。 幸い、通りすがりの善意ある人が救急車を呼んでくれたおかげで、一命を取り留めた。 次に目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。 目の前には、母の主治医である九条颯(くじょうはやて)がいた。 彼は険しい顔で私を見下ろし、怒ったように言う。 「お酒がダメなことを知っているのに、どうして飲んだんですか?命を投げ出してどうするつもりですか? 君が倒れたら、君のお母さんを誰が支えるんですか!」 その言葉に、私は何も言い返せなかった。ただ、申し訳なさそうに俯き、小さく「ごめんなさい」と呟いた。 すると彼はため息をつきながら私の頭をポンと叩いた。 「大丈夫。全部乗り越えられるから」 その優しさに
私は全身から力が抜け、その場に崩れ落ちた。 九条さんは心配そうに私を支えながら、耳元で慰めの言葉をかけてくれる。 でも、その言葉は何一つとして頭に入ってこなかった。 昔、お母さんはこんなことを言っていた。 「私は別に、あの桐生家の子と付き合うのに反対じゃないよ。ただね、私たちは普通の家の人間だ。釣り合わない分、あんたがきっと苦労することになるだろうって、それだけだよ」 そのときの私は、翔真との甘い日々に溺れていて、お母さんの言葉なんて耳に入らなかった。 「お母さん、大丈夫だよ。翔真はすっごく優しいんだから。絶対に私を悲しませたりしないって、ちゃんと約束してくれたもん」 だけど今、私の胸に深く刺さっているこの痛みを与えたのは、他でもない翔真だった。 男の約束なんて、所詮、屁みたいなものだったんだ。信じた私が馬鹿だった。 冷たくなったお母さんの体を抱きしめながら、私は震える声で囁いた。 「お母さん、私、もう翔真とは会わないよ。お母さんの言うこと、ちゃんと聞くから」 「だから、お願いだから、もう一度目を開けてよ......」 だけど、返ってくるのは虚しい沈黙だけだった。 どれだけ泣いただろうか。やっとの思いで気持ちを落ち着け、火葬の手続きを進めようとした。 しかし、そこで知らされたのは、費用を全額支払わなければ遺体を引き渡せないという現実だった。 手元のカードを思い出す。残高はほとんどゼロだ。 情けなさと悔しさで、心の中で自分を何度も責めた。 分割払いができるか尋ねようとしたその瞬間、九条さんが横からカードを差し出した。 「これで払ってください」 慌てて彼の手を止める。 「九条さん、もうこれ以上迷惑をかけられません。自分でなんとかします!」 けれど、彼は私の言葉を遮るように言った。 「先にお母さんを安らかにしてください。それが何より大事なことでしょう」 掴んだ彼の手を、私は力なく放した。 今は、彼の助けを借りるのが最善の道だと理解していたから。 墓地の費用も、彼が全て支払ってくれた。 私にできることは、早く仕事を見つけて、彼に借りたお金を返すことだけだった。 手続きが終わり、母の骨壺は静かに墓地へと運ばれた。 雨がぽつぽつと降り始め、空もどんよりと曇っている。
私は頬を赤らめる美織をじっと見つめた。何も言わずに。 翔真と付き合い始めた頃から、彼には幼馴染がいることを知っていた。美織だ。 私たちがデートしていると、美織はいつの間にか近くに現れて、自然な流れでデートに割り込んでくる。まるで特大の邪魔者みたいに。 その頃から気づいていた。彼女が翔真を好きなのだということに。 一度、それを理由に翔真と喧嘩をしたこともあった。 「俺たちはただの仲のいい友達だ。お前が考えてるようなことはない」 彼はそう言って、優しくなだめてくれた。 その後、美織の登場回数は減ったけれど、私への敵意は確実に増していった。 そして今、彼らがこうして親密そうにしているのを見ても、私は不思議と何も感じなかった。嫉妬すら湧いてこない。むしろ、心の底から思った。 ――ゴミはゴミ同士で集まるべきだ、と。 私は二人の視線を無視し、黙々と自分の荷物をまとめに行った。 すると、美織がわざとらしく大きな声で翔真に話しかけた。 「ねえ、彼女、私のこと誤解したりしないわよね?」 まるで誤解を解きたいように聞こえたけれど、その実、ただの挑発だ。 だけど、今の私にはそんな挑発も響かない。 翔真は軽蔑の表情を浮かべたまま、部屋の扉をじっと見つめていた。そして、冷たく言い放った。 「あいつにそんな資格はないだろ」 続けて私に向かって叫ぶ。 「夏陽、さっさとこの家から出て行け。出て行かないなら、不法侵入で通報するぞ!」 私は頭を下げたまま、荷物をスーツケースに詰め込んだ。 「安心して。片付けが終わったらすぐに出て行くから」 その言葉が彼の神経を逆撫でしたのだろう。 翔真はソファから立ち上がると、部屋に飛び込んできて、せっかくまとめた荷物を全て床に蹴り飛ばした。 「ここにある服は全部俺が買ったものだ。お前に渡すわけがないだろう。何一つ持っていけると思うな」 そんな彼を見つめていると、過去の記憶が胸をよぎった。 以前の翔真は、私を連れて買い物に行くのが大好きだった。 「俺は夏陽に世界中で一番いいものを着せてやりたいんだ。お前は俺の自慢の小さなプリンセスなんだから」 嬉しそうに、贈り物を差し出してくれていた。 あの時の私は、翔真との愛が階級の違いを超えられると信じていた。 でも
運良く、墓地の管理人さんにすぐ採用してもらえた。 毎朝、新鮮なデイジーを一輪持ってお母さんの墓碑に供え、墓地の掃除をする。 午後には他の墓碑を拭いたり、新しい遺骨を迎えたりして、気づけば一日があっという間に過ぎていく。 そんな忙しい日々の中で、不思議と翔真のことを一度も思い出さなかった。 分かれたその日に、私は彼の連絡先をすべてブロックした。 私たちはもう二度と交わらない、別々の道を進む平行線なのだ。 たまに美織の投稿に翔真の姿が映っているのを見ることもあったけれど、指先を動かして流すだけだった。立ち止まることはなかった。 ――お母さんの言う通り、私たちは元々、同じ世界の人間ではなかった。 墓地での生活は静かで充実していた。ただ最近、九条さんがよく顔を見せるようになった。 初めて彼を見かけたとき、不思議に思って声をかけた。 「九条さん、また患者さんが亡くなられたんですか?」 その言葉に、彼の顔が一瞬曇った。すぐにいつもの穏やかな表情に戻り、軽く笑みを浮かべて私に近づいた。 「君が借金を返さず逃げたりしないか見張りに来たんですよ」 その冗談めいた言葉に、一瞬言葉を失い、次の瞬間顔が真っ赤になった。 「す、すみません!なるべく早く返しますから!」 そんな私の様子を見て、彼はおかしそうに笑った。 「冗談ですよ。君は本当に真面目ですね」 気づけば、彼にからかわれていたのだと分かり、安堵の息をつく。 「ここは静かでいいですね。何も考えずにいられる場所です」 彼のその言葉に、私はやっと笑顔を返せた。 それからは、彼がふらりとやってきてはご飯を食べて帰るのが日課になった。 お世話になった借金の返済の代わりに、私は彼に手作りの料理を振る舞うようになったのだ。 その日もいつものように墓地に向かおうと家を出たとき、見覚えのある車が目に入った。 派手なナンバープレートを見ただけで誰のものか分かる。 一瞬で気配を消し、別の道を行こうとしたが、その車から翔真が飛び出してきた。 「夏陽!無事か?陸がお前を墓地で見たって言ってたから、心配になって......家で何かあったのか?なんで俺に連絡してこなかった? それに、どうして俺をブロックしたんだ?お前がいなくなって、俺がどれだけ心配したか分かっ
私は不快な視線を美織に向けた。 ここまできたら、もう遠慮する必要もない。どうせ顔を合わせるたびに攻撃してくる相手だ。彼女の隠している汚い気持ちなんて、全部さらけ出してやる。 「殴ったけど、何か問題でも?少なくとも私は正々堂々してるわ。 それに比べて、あなたはどうなの?翔真のことが好きなのに、友達ヅラして陰でこそこそ。みっともないと思わない?」 私は続ける。 「翔真が、あなたの浅ましい気持ちに気づいていないとでも思ってるの? まるで、暗闇を這い回る蛆みたいに気持ち悪いわ」 私の言葉に、美織は一瞬怯えたように翔真を見やった。そして、必死に否定する。 「何を勝手なこと言ってるの!この口悪い女、口を裂いてやるわ!」 彼女が掴みかかってこようとしたその瞬間、翔真が間に入って、美織の腕をしっかりと押さえた。 「いい加減にしろ」 そう言い放ったが、美織の片思いについては、一言も触れなかった。 たとえこの薄いベールが剥がされても、翔真は何食わぬ顔で知らないふりをするだろう。 美織なんて、私よりもさらに哀れな「媚び犬」に過ぎない。 可哀想で、滑稽だ。 翔真は眉間に皺を寄せ、私を睨みつける。 「美織だって、お前の母親のことを心配してるだけだ。ここまで来たついでに見舞おうと思っただけだろうが。なのに、なんでお前はそんなに態度が悪いんだ?」 その言葉に、私は静かに言い返した。 「もう、見舞う相手なんていないわ。どうしても会いたいなら地獄にでも行ったら?」 それだけ言い放ち、私はその場を離れた。 後に残された翔真は、呆然と立ち尽くしていた。 私は自転車をこいで墓地へ向かった。 いつものように、デイジーをお母さんの墓に供える。その直後、翔真が車でやってきた。 彼は墓碑に刻まれた文字を見て、慌てた表情で私に問いかける。 「夏陽......これ、どういうことだ。なんで......年明けに検査した時は異常なかったじゃないか」 彼の動揺した言葉に、私は淡々と答えた。 「どうしてかなんて、私にも分からない。ただ、そうなったってだけよ」 時には、突然の出来事が人を呆然とさせる。理由なんて、どうでもいいこともあるのだ。 「でも、これは......俺には関係ない、ってことか?」 「そうね、関係な
もう翔真が私の前に現れることはないと思っていた。 けれど、次の日の朝、同じ場所にまたあの派手な車が止まっているのを見つけた。 翔真は嬉しそうに私を見て、軽快に声をかけてきた。 「夏陽、自転車じゃ不便だろ?俺が職場まで送ってやるよ」 彼と関わりたくない私は、冷静に、そして丁寧に断った。 すると、彼の笑顔は一瞬で消え、ドアを開けて降りてくる。 目つきは陰鬱で、その声には冷たさが滲んでいた。 「もしあの九条さんが、これからも病院で平穏に働き続けたいなら......大人しく車に乗れ」 私は目を見開き、信じられない気持ちで彼を睨んだ。 「翔真......どうかしてるの?」 彼は私の言葉に全く動じる様子もなく、むしろ楽しそうに笑った。 「どうかしてる?俺の元に戻るなら、もっとどうかしてることでもやってやるよ」 どうしようもなく、私は彼の車に乗るしかなかった。 車内に乗ると、翔真は得意げに次々と私の好物を差し出してきた。 饅頭、唐揚げ、カレーパン......ほとんどコンビニをそのまま持ち込んだような豪華さだ。 彼は子犬のような目で私をじっと見つめ、私が手を付けるまで持ち続けるつもりらしい。 観念した私は、饅頭をいくつかと牛乳を手に取った。 それを見て、彼は満足げに笑い、ようやく手を引っ込めた。 「夏陽、朝に何が食べたいか先に教えてくれたら、俺が用意して持ってくるよ」 その言葉に続けて、彼は私の服装をじろじろと見回す。 「お前、なんでそんな服着てるんだよ。皺だらけだし、生地も粗末だし。俺の夏陽は、もっと綺麗じゃないとダメだ。 後で家から服を持ってこさせる。それが気に入らないなら、新しいのを買いに行こう」 彼が次々に話す中、私は反論しようと口を開いた。 だが、その前に、彼はポケットから黒いカードを取り出し、私の手に押し付けた。 「このカードには上限がない。好きなだけ使え。暗証番号はお前の誕生日だ」 さらに、彼は車窓越しに墓地を見やりながら、躊躇いなく続ける。 「おばさんに風水のいいお墓を買ってやろうか?」 車内で彼が一方的に話し続ける間、私はただ黙って座っていた。 最後に彼は私の手を握り、真剣な目で見つめてきた。 「夏陽、俺は本当にお前が好きだ。頼む、戻ってきてくれ」
私は驚いた顔で九条さんを見つめた。 彼はそれ以上何も言わず、私を引き寄せ、そのまま病院の廊下を歩き出した。 診察室に入ると、すぐに看護師が現れて彼の傷の手当てを始めた。 椅子に座らされた九条さんは、顔をしかめながら声を上げる。 「看護師長、もう少し優しくしてくださいよ......」 看護師長は彼を冷ややかに一瞥し、ため息混じりに呟いた。 「九条先生、いい歳して喧嘩なんてしてるからですよ。痛いのは自業自得でしょう」 彼が痛そうに息を呑む音が聞こえる。 そして、私をこっそり横目で見た。 その様子に気づいた看護師長が声を張り上げる。 「そんなに優しくしてたら、女の子が心配してくれないでしょう?」 そう言いながら手際よく包帯を巻き、さっさと部屋を出ていってしまった。 部屋には私と九条さんだけが残された。 小さな部屋に、微妙な空気が流れる。 沈黙を破ったのは九条さんだった。 彼はどこかしょんぼりとした目で私を見つめる。 「この手、きちんと治療しないとダメになりそうですね」 その言葉に、私は驚いて顔を上げる。 「そんなにひどいんですか?」 彼は少し困ったように笑いながら答えた。 「そうみたいですね。しばらくは水に触れられませんし、重い物を持つのも無理ですね」 そして、まるで冗談のように、柔らかい声で続ける。 「ですから、これから七瀬さんに色々お願いすることになりますね」 断るべきだと思った。けれど、彼が私のために傷ついたことを考えると、その言葉を飲み込むしかなかった。 こうして私は、九条さんの「専属看護師」になった。 彼の家と私の家を毎日行き来するようになり、彼の生活を手伝う日々が続いた。 けれど、それは私だけではなかった。 翔真もまた、毎日のように私の後をつけてきた。 車で私を追いかけ、九条さんの家の外でじっと待ち、私が家を出るとまたついてくる。 それでも、私の前に姿を現すことはなかった。 九条さんは腕を組み、窓から外を見下ろしながら、軽く鼻で笑う。 「桐生さん、本当に暇そうですね」 私はただ「うん」とだけ答え、それ以上の言葉を口にしなかった。 どれだけ傷が癒えたように見えても、完全に元通りになることはない。 翔真がどんな行動を取ったとしても
病院に着いた時、二階の病棟は既に騒然としていた。 翔真の怒鳴り声が響き渡る。 「七瀬夏陽は俺の妻なんだぞ!おい、みんな見ろよ。この立派な医者様が不倫相手だとさ。呆れるにも程があるだろ! 今日はこの病院中にこいつの本性を知らしめてやる!」 しかし、九条さんも一歩も引かなかった。 「別れた相手も妻扱いか?君、法律くらいちゃんと勉強したらどうだ。恋愛は自由だって、学校で習わなかったのか?」 桐生家の御曹司として育った翔真にとって、反論されることは屈辱そのものだったのだろう。 怒りを露わにして、まるで獲物に飛びかかる豹のように九条さんに詰め寄る。 「忠告しておいてやる。夏陽は俺の女だ。さっさと手を引け。でなきゃ、お前を潰すぞ」 九条さんは唇の端から流れる血をぬぐいながら、挑発的に言い返した。 「で?どう潰すって言うんだ?」 翔真はさらに逆上し、拳を振り上げようとした。 その瞬間、私は咄嗟に二人の間に飛び込んだ。 振り上げた翔真の手は、私を見た途端に空中で止まる。 彼は驚きと喜びが入り混じった表情を浮かべながら、目に涙を滲ませて私を見つめた。 「夏陽......俺、痛いよ。こんなに傷ついてるんだ」 以前なら、彼がこうして甘える姿を見れば、私はすぐに許していただろう。 けれど今の私は、彼を見る余裕すらなかった。 私は九条さんの手を握りしめ、急いで傷を確認する。 「手は大丈夫ですか?骨に異常はないですか?」 もし彼の手が傷ついたら、医師としての命が絶たれてしまう。それだけは絶対に避けたかった。 九条さんはそんな私を穏やかに見つめ、微笑みながら答えた。 「大丈夫ですよ。ただのかすり傷です」 そのやり取りが、翔真をさらに刺激したのだろう。 彼は怒りに身を任せ、再び九条さんに殴りかかろうとした。 その瞬間、九条さんは私を守るように抱き寄せ、身構えた。 だが、翔真の拳が届く前に病院の警備員が駆けつけ、彼を押さえ込んだ。 「夏陽!お前、自分の彼氏が誰だか分かってるのか!」 翔真の怒鳴り声を背に、私は九条さんを支えながら立ち上がった。振り返ることなく冷静に言い放つ。 「もし刑務所に行きたいなら、どうぞ続けて」 彼は冷笑を浮かべ、声を荒げた。 「俺が刑務所に行くのが怖いと
もう翔真が私の前に現れることはないと思っていた。 けれど、次の日の朝、同じ場所にまたあの派手な車が止まっているのを見つけた。 翔真は嬉しそうに私を見て、軽快に声をかけてきた。 「夏陽、自転車じゃ不便だろ?俺が職場まで送ってやるよ」 彼と関わりたくない私は、冷静に、そして丁寧に断った。 すると、彼の笑顔は一瞬で消え、ドアを開けて降りてくる。 目つきは陰鬱で、その声には冷たさが滲んでいた。 「もしあの九条さんが、これからも病院で平穏に働き続けたいなら......大人しく車に乗れ」 私は目を見開き、信じられない気持ちで彼を睨んだ。 「翔真......どうかしてるの?」 彼は私の言葉に全く動じる様子もなく、むしろ楽しそうに笑った。 「どうかしてる?俺の元に戻るなら、もっとどうかしてることでもやってやるよ」 どうしようもなく、私は彼の車に乗るしかなかった。 車内に乗ると、翔真は得意げに次々と私の好物を差し出してきた。 饅頭、唐揚げ、カレーパン......ほとんどコンビニをそのまま持ち込んだような豪華さだ。 彼は子犬のような目で私をじっと見つめ、私が手を付けるまで持ち続けるつもりらしい。 観念した私は、饅頭をいくつかと牛乳を手に取った。 それを見て、彼は満足げに笑い、ようやく手を引っ込めた。 「夏陽、朝に何が食べたいか先に教えてくれたら、俺が用意して持ってくるよ」 その言葉に続けて、彼は私の服装をじろじろと見回す。 「お前、なんでそんな服着てるんだよ。皺だらけだし、生地も粗末だし。俺の夏陽は、もっと綺麗じゃないとダメだ。 後で家から服を持ってこさせる。それが気に入らないなら、新しいのを買いに行こう」 彼が次々に話す中、私は反論しようと口を開いた。 だが、その前に、彼はポケットから黒いカードを取り出し、私の手に押し付けた。 「このカードには上限がない。好きなだけ使え。暗証番号はお前の誕生日だ」 さらに、彼は車窓越しに墓地を見やりながら、躊躇いなく続ける。 「おばさんに風水のいいお墓を買ってやろうか?」 車内で彼が一方的に話し続ける間、私はただ黙って座っていた。 最後に彼は私の手を握り、真剣な目で見つめてきた。 「夏陽、俺は本当にお前が好きだ。頼む、戻ってきてくれ」
私は不快な視線を美織に向けた。 ここまできたら、もう遠慮する必要もない。どうせ顔を合わせるたびに攻撃してくる相手だ。彼女の隠している汚い気持ちなんて、全部さらけ出してやる。 「殴ったけど、何か問題でも?少なくとも私は正々堂々してるわ。 それに比べて、あなたはどうなの?翔真のことが好きなのに、友達ヅラして陰でこそこそ。みっともないと思わない?」 私は続ける。 「翔真が、あなたの浅ましい気持ちに気づいていないとでも思ってるの? まるで、暗闇を這い回る蛆みたいに気持ち悪いわ」 私の言葉に、美織は一瞬怯えたように翔真を見やった。そして、必死に否定する。 「何を勝手なこと言ってるの!この口悪い女、口を裂いてやるわ!」 彼女が掴みかかってこようとしたその瞬間、翔真が間に入って、美織の腕をしっかりと押さえた。 「いい加減にしろ」 そう言い放ったが、美織の片思いについては、一言も触れなかった。 たとえこの薄いベールが剥がされても、翔真は何食わぬ顔で知らないふりをするだろう。 美織なんて、私よりもさらに哀れな「媚び犬」に過ぎない。 可哀想で、滑稽だ。 翔真は眉間に皺を寄せ、私を睨みつける。 「美織だって、お前の母親のことを心配してるだけだ。ここまで来たついでに見舞おうと思っただけだろうが。なのに、なんでお前はそんなに態度が悪いんだ?」 その言葉に、私は静かに言い返した。 「もう、見舞う相手なんていないわ。どうしても会いたいなら地獄にでも行ったら?」 それだけ言い放ち、私はその場を離れた。 後に残された翔真は、呆然と立ち尽くしていた。 私は自転車をこいで墓地へ向かった。 いつものように、デイジーをお母さんの墓に供える。その直後、翔真が車でやってきた。 彼は墓碑に刻まれた文字を見て、慌てた表情で私に問いかける。 「夏陽......これ、どういうことだ。なんで......年明けに検査した時は異常なかったじゃないか」 彼の動揺した言葉に、私は淡々と答えた。 「どうしてかなんて、私にも分からない。ただ、そうなったってだけよ」 時には、突然の出来事が人を呆然とさせる。理由なんて、どうでもいいこともあるのだ。 「でも、これは......俺には関係ない、ってことか?」 「そうね、関係な
運良く、墓地の管理人さんにすぐ採用してもらえた。 毎朝、新鮮なデイジーを一輪持ってお母さんの墓碑に供え、墓地の掃除をする。 午後には他の墓碑を拭いたり、新しい遺骨を迎えたりして、気づけば一日があっという間に過ぎていく。 そんな忙しい日々の中で、不思議と翔真のことを一度も思い出さなかった。 分かれたその日に、私は彼の連絡先をすべてブロックした。 私たちはもう二度と交わらない、別々の道を進む平行線なのだ。 たまに美織の投稿に翔真の姿が映っているのを見ることもあったけれど、指先を動かして流すだけだった。立ち止まることはなかった。 ――お母さんの言う通り、私たちは元々、同じ世界の人間ではなかった。 墓地での生活は静かで充実していた。ただ最近、九条さんがよく顔を見せるようになった。 初めて彼を見かけたとき、不思議に思って声をかけた。 「九条さん、また患者さんが亡くなられたんですか?」 その言葉に、彼の顔が一瞬曇った。すぐにいつもの穏やかな表情に戻り、軽く笑みを浮かべて私に近づいた。 「君が借金を返さず逃げたりしないか見張りに来たんですよ」 その冗談めいた言葉に、一瞬言葉を失い、次の瞬間顔が真っ赤になった。 「す、すみません!なるべく早く返しますから!」 そんな私の様子を見て、彼はおかしそうに笑った。 「冗談ですよ。君は本当に真面目ですね」 気づけば、彼にからかわれていたのだと分かり、安堵の息をつく。 「ここは静かでいいですね。何も考えずにいられる場所です」 彼のその言葉に、私はやっと笑顔を返せた。 それからは、彼がふらりとやってきてはご飯を食べて帰るのが日課になった。 お世話になった借金の返済の代わりに、私は彼に手作りの料理を振る舞うようになったのだ。 その日もいつものように墓地に向かおうと家を出たとき、見覚えのある車が目に入った。 派手なナンバープレートを見ただけで誰のものか分かる。 一瞬で気配を消し、別の道を行こうとしたが、その車から翔真が飛び出してきた。 「夏陽!無事か?陸がお前を墓地で見たって言ってたから、心配になって......家で何かあったのか?なんで俺に連絡してこなかった? それに、どうして俺をブロックしたんだ?お前がいなくなって、俺がどれだけ心配したか分かっ
私は頬を赤らめる美織をじっと見つめた。何も言わずに。 翔真と付き合い始めた頃から、彼には幼馴染がいることを知っていた。美織だ。 私たちがデートしていると、美織はいつの間にか近くに現れて、自然な流れでデートに割り込んでくる。まるで特大の邪魔者みたいに。 その頃から気づいていた。彼女が翔真を好きなのだということに。 一度、それを理由に翔真と喧嘩をしたこともあった。 「俺たちはただの仲のいい友達だ。お前が考えてるようなことはない」 彼はそう言って、優しくなだめてくれた。 その後、美織の登場回数は減ったけれど、私への敵意は確実に増していった。 そして今、彼らがこうして親密そうにしているのを見ても、私は不思議と何も感じなかった。嫉妬すら湧いてこない。むしろ、心の底から思った。 ――ゴミはゴミ同士で集まるべきだ、と。 私は二人の視線を無視し、黙々と自分の荷物をまとめに行った。 すると、美織がわざとらしく大きな声で翔真に話しかけた。 「ねえ、彼女、私のこと誤解したりしないわよね?」 まるで誤解を解きたいように聞こえたけれど、その実、ただの挑発だ。 だけど、今の私にはそんな挑発も響かない。 翔真は軽蔑の表情を浮かべたまま、部屋の扉をじっと見つめていた。そして、冷たく言い放った。 「あいつにそんな資格はないだろ」 続けて私に向かって叫ぶ。 「夏陽、さっさとこの家から出て行け。出て行かないなら、不法侵入で通報するぞ!」 私は頭を下げたまま、荷物をスーツケースに詰め込んだ。 「安心して。片付けが終わったらすぐに出て行くから」 その言葉が彼の神経を逆撫でしたのだろう。 翔真はソファから立ち上がると、部屋に飛び込んできて、せっかくまとめた荷物を全て床に蹴り飛ばした。 「ここにある服は全部俺が買ったものだ。お前に渡すわけがないだろう。何一つ持っていけると思うな」 そんな彼を見つめていると、過去の記憶が胸をよぎった。 以前の翔真は、私を連れて買い物に行くのが大好きだった。 「俺は夏陽に世界中で一番いいものを着せてやりたいんだ。お前は俺の自慢の小さなプリンセスなんだから」 嬉しそうに、贈り物を差し出してくれていた。 あの時の私は、翔真との愛が階級の違いを超えられると信じていた。 でも
私は全身から力が抜け、その場に崩れ落ちた。 九条さんは心配そうに私を支えながら、耳元で慰めの言葉をかけてくれる。 でも、その言葉は何一つとして頭に入ってこなかった。 昔、お母さんはこんなことを言っていた。 「私は別に、あの桐生家の子と付き合うのに反対じゃないよ。ただね、私たちは普通の家の人間だ。釣り合わない分、あんたがきっと苦労することになるだろうって、それだけだよ」 そのときの私は、翔真との甘い日々に溺れていて、お母さんの言葉なんて耳に入らなかった。 「お母さん、大丈夫だよ。翔真はすっごく優しいんだから。絶対に私を悲しませたりしないって、ちゃんと約束してくれたもん」 だけど今、私の胸に深く刺さっているこの痛みを与えたのは、他でもない翔真だった。 男の約束なんて、所詮、屁みたいなものだったんだ。信じた私が馬鹿だった。 冷たくなったお母さんの体を抱きしめながら、私は震える声で囁いた。 「お母さん、私、もう翔真とは会わないよ。お母さんの言うこと、ちゃんと聞くから」 「だから、お願いだから、もう一度目を開けてよ......」 だけど、返ってくるのは虚しい沈黙だけだった。 どれだけ泣いただろうか。やっとの思いで気持ちを落ち着け、火葬の手続きを進めようとした。 しかし、そこで知らされたのは、費用を全額支払わなければ遺体を引き渡せないという現実だった。 手元のカードを思い出す。残高はほとんどゼロだ。 情けなさと悔しさで、心の中で自分を何度も責めた。 分割払いができるか尋ねようとしたその瞬間、九条さんが横からカードを差し出した。 「これで払ってください」 慌てて彼の手を止める。 「九条さん、もうこれ以上迷惑をかけられません。自分でなんとかします!」 けれど、彼は私の言葉を遮るように言った。 「先にお母さんを安らかにしてください。それが何より大事なことでしょう」 掴んだ彼の手を、私は力なく放した。 今は、彼の助けを借りるのが最善の道だと理解していたから。 墓地の費用も、彼が全て支払ってくれた。 私にできることは、早く仕事を見つけて、彼に借りたお金を返すことだけだった。 手続きが終わり、母の骨壺は静かに墓地へと運ばれた。 雨がぽつぽつと降り始め、空もどんよりと曇っている。
昔、翔真は私が酒にアレルギーがあることを知っていた。 私がいる場では、必ず事前にジュースを用意してくれていた。 付き合っていた4年間、そんな彼の気遣いが途切れたことは一度もなかった。 そんな彼が、今は目の前で冷たく私に言い放つ。 「飲め。全部だ。それがここでのルールだ」 その瞬間、私は彼が全く知らない人に思えた。 でも、どうしてもお金が必要だった。お母さんを救うために。 私は小さく息を呑み、震える声で答えた。 「......わかった」 瓶のフタを開け、一気に流し込む。一本、また一本。 喉を焼くアルコールの感覚、胃が悲鳴を上げる。何本飲んだか、何を飲んだか、もう分からない。 やがて吐き気をこらえきれなくなり、泣きながら飲み続けた。顔に伝うのが涙なのか酒なのか、自分でも分からない。 周りの笑い声が聞こえる。私の苦しみが彼らの娯楽だと、そう思ったら、胸が張り裂けそうだった。 ようやく最後の一本を飲み干し、朦朧とした意識の中で彼を見つめた。 「これで......貸してくれる?」 翔真は冷たい目で私を見下ろし、軽蔑するように言い放った。 「お前、あの売女たちと何が違う?同じくらい浅ましいな」 その言葉を最後に、彼は私を追い出すように警備員を呼びつけた。 酒場の外に放り出された私は、地面に伏せたまま動けなくなった。 夜空がやけに黒く感じられた。 翔真、四年間の付き合いで、私はそんなに信用されていなかったの? その夜、私は酒に酔って意識を失い、アレルギーで危うく命を落としかけた。 幸い、通りすがりの善意ある人が救急車を呼んでくれたおかげで、一命を取り留めた。 次に目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。 目の前には、母の主治医である九条颯(くじょうはやて)がいた。 彼は険しい顔で私を見下ろし、怒ったように言う。 「お酒がダメなことを知っているのに、どうして飲んだんですか?命を投げ出してどうするつもりですか? 君が倒れたら、君のお母さんを誰が支えるんですか!」 その言葉に、私は何も言い返せなかった。ただ、申し訳なさそうに俯き、小さく「ごめんなさい」と呟いた。 すると彼はため息をつきながら私の頭をポンと叩いた。 「大丈夫。全部乗り越えられるから」 その優しさに
「翔真、1000万円貸してくれない?」 賑やかだったバーの個室が、一瞬で静まり返る。 彼の顔が見る間に険しくなり、深い瞳がまっすぐ私を射抜く。 「1000万?何に使うんだ?」 口を開きかけた私を遮るように、彼の隣に座っていた桐生翔真(きりゅうしょうま)の幼馴染の早乙女美織(さおとめみおり)が噴き出すように笑い声をあげた。 「ほらね、私が言った通りだったでしょ?こういう子って、一見可憐なふりして、結局は金を引き出すことばかり考えてるのよ。翔真、まだ信じられない?」 美織の声が続く。 「真実の愛だとか言ってたけど、ほらね。結局、金が大事なんじゃない」 その上、彼女は得意げに私を嘲笑う。 私はただ黙って翔真を見つめる。彼は美織の言葉を黙って聞いているだけで、視線ひとつ動かさない。 翔真の反応を見た周りの人たちは、目に驚きの色を浮かべていた。 美織のこともあって、この界隈の人たちはみんな私を嫌っている。 みんな、私が美織の元のポジションを奪ったと思っているのだ。 図々しくも自分にふさわしくない場所に入り込んだと見られている。 普段は翔真が私をしっかり守ってくれるから、みんな表向きには「お義姉さん」と気軽に呼んでくれる。 でも今日は翔真が何も言わないのを見て、みんな大胆になり始めた。 「七瀬さん、よくもまぁそんな大金を要求するもんだな」 「桐生さんの金は湯水のように湧いてくると思ってんのか?」 最初に口火を切った誰かの後を追うように、他の人たちも口々に言い始める。 「だからさ、貧乏人となんか付き合うと大変なんだよな。結局、俺たちが救済隊みたいになる」 「特に、見た目無害そうな奴ほど要注意だぜ。金せびる時だけは容赦ないからな」 「七瀬さん、銀行強盗でもやったほうが早いんじゃないか?」 中には下品な冗談を口にする者もいた。 「いっそ俺のところに来ない?二百万なら出すけど、どうだ?」 翔真はただ眉をひそめるだけで何も言わない。冷たい沈黙が空気を支配している。 そんな中、美織がわざとらしく「あらあら」と声を上げた。 「この子、ただお金が欲しいだけみたいじゃない。売り物扱いなんてかわいそうだから、あんまり追い詰めちゃダメよ?」 その顔には嘲笑の色が隠しきれていなかった。 まる