「主婦なんかに数学コンテストを受ける資格はない!」ALI数学コンテスト実行委員会の電話は、予選名簿が公表されて以来、鳴り止むことがなかった。ALIグループが数学コンテストを主催して以来、これほどの信用危機に直面したことはなかった。藤宮夕月の成績を疑問視する声がネット上で日増しに大きくなる中、コンテスト実行委員会は緊急会議を招集した。「オンライン試験を何年も実施してきて、五台のカメラで五つの角度から受験者を常時監視している我々を、なめているんじゃないのか?」「正体の知れない連中が署名運動だなんて言っているが、実際に出場した受験者は一人も名乗り出てこない。学校の名前を勝手に使って。学校の面子を丸つぶれにしているのは、むしろ彼らの方だ!」「我々試験監督チームは藤宮さんの解答プロセスを三度も確認したが、不正の痕跡は一切見つからなかった。ネットの連中は今回、よっぽど痛い目に遭いたいようだな」「夏目理事長、一言お願いします!このまま黙っていたら、舐められますよ!」その言葉に、普段は温厚な七十歳の夏目那岐(なつめ なぎ)理事長の表情が一変した。机を強く叩いて立ち上がると、即座に指示を下した。「確かに、世間に説明責任を果たすべきだ。各メディアプラットフォームに連絡を取れ。明日、藤宮夕月の試験監視映像を全て公開する。彼女が本当に不正をしたのか、みんなの目で確かめてもらおうじゃないか!」夜も更けた頃、藤宮夕月の携帯が鳴った。桜国放送局の記者からだった。「藤宮さん、トレンドはご覧になりましたか?予選の成績について、疑問の声が相次いでいますが」「ええ、確認しました」夕月は淡々とした口調で答えた。「桐嶋教授のお宅で予選を受験されたのは、本当なのでしょうか?」「はい、事実です」電話の向こうで、記者が息を呑む音が聞こえた。その記者は春川栞(はるかわ しおり)。以前、桜井幼稚園の前で夕月と瑛優のために声を上げてくれた女性記者だった。「証拠もないまま、桐嶋教授の自宅での受験イコール不正だと決めつけるのは間違っています。確かに今回の件で桐嶋教授にご迷惑をおかけしましたが、あの時は教授宅以外に選択肢がなかったんです」夕月は説明した。「どうしてですか?なぜ教授のお宅でなければならなかったんでしょう?」春川が食い入るように尋ねた。夕
着信に応答すると、夕月は淡々とした声で告げた。「桐嶋さん」その素っ気ない口調は、深夜の通話が醸し出す甘い空気を一瞬で払拭した。磨きのかかった男性の声が響く。「トレンド、見ました」「桐嶋教授は……大丈夫でしょうか?」夕月は急いで尋ねた。「もう就寝されました」桐嶋教授がネット上の噂に動じていないと知り、夕月はほっと胸を撫で下ろした。「安定剤を二錠、こっそり飲ませました」涼が続けた。夕月は言葉を失った。「教授は……ネット上の書き込みを見て、怒っていらっしゃいましたか?」夕月は恐る恐る尋ねた。「不正に加担したという中傷よりも、四年前の斎藤鳴との確執を蒸し返されたことの方が、震えるほど怒っておられました。みんな、教授が優秀な人材を妬んで斎藤を潰そうとしたと思い込んでいる」桜都大を中退して以来、後ろめたさと良心の呵責から、夕月は大学に関する全ての情報を意識的に遮断していた。そのため、自分が去った後の桐嶋教授の経験したことを、何一つ知らなかった。「斎藤鳴なら、私も存じ上げています」夕月は静かに言った。斎藤鳴は橘京花の夫で、家族の集まりで何度か顔を合わせたことがあった。黒縁メガネをかけた、どちらかといえば整った顔立ちの男性で、質素な身なりだった。寡黙ながら場の空気をよく読み、几帳面な性格で、橘家の年長者からも文句のつけようがないほどだった。藤宮家という後ろ盾を持つ夕月と比べれば、斎藤鳴は本当に何一つ持っていなかった。北方の地方都市の出身で、貧しい家庭に育ち、必死に勉強して花橋師範大学に合格。さらに努力を重ね、桜都大の博士課程まで進み、そのまま教壇に立つことになった。京花は彼の「知的で魅力的な頭脳」に完全に魅了されていた。今年の初めには、京花が誰彼構わず自慢していた。斎藤鳴の学部長就任は確実で、桜都大最年少の学部長になるのだと。斎藤鳴も数学科だったはずだと、夕月は記憶を辿った。「斎藤鳴と斎藤教授の間に、何かあったんでしょうか?」「四年前に斎藤鳴が発表した論文、ご覧になっていないでしょう?送らせていただきます」夕月が困惑の表情を浮かべていると、手元のノートパソコンに通知が届いた。涼から送られてきたファイルだ。斎藤鳴の論文を開き、まだ四分の一も読み進めていないうちに、マウスを握る夕月の手が
教え子に裏切られたと思い込んでいた教授は、夕月が自ら研究成果を斎藤鳴に譲渡したと信じていたのだ。それゆえに、五年後の再会の時、桐嶋教授は複雑な思いを抱え、何かを言いたげな表情を浮かべていたのだった。「論文の下書きは、まだ手元にありますか?」涼が尋ねた。夕月は疼く目を手で覆った。「昔使っていたパソコンに牛乳をこぼしてしまって……起動不能になって……結局、家政婦さんが処分してしまったんです……」当時、まだ幼かった悠斗を抱いていた時のことだった。彼が誤って牛乳をキーボードに零してしまったのだ。その瞬間、夕月の最初の反応は子供を守ることだった。パソコンから悠斗を遠ざけ、火傷していないか確認し、泣き止むまでずっと抱きしめていた。やっとパソコンを拭こうとした時には、既に画面は青一色に変わっていた。必死に冬真に助けを求めた。技術者に修理を依頼してもらえないかと。「うちのエンジニアはお前のパソコン修理なんかする暇はない。自分で何とかしろ」「大学時代の研究データが全部入ってるのよ!」「退学した身分で、学部生程度の戯言が研究だと?」酒に酔った男の声は、いつもより低く怠惰に響いた。傍らで楓の陽気な笑い声が聞こえる。「冬真、誰からの電話?」「ただの迷惑電話だ」電話が切れる音と共に、熱い涙が頬を伝い落ちた。夕月は起動不能のノートパソコンを抱えて、修理店を巡り歩いた。店を訪れるたびに、技術者たちは首を横に振るばかり。四軒目の修理店に向かおうとした夜、携帯が鳴った。橘家の大奥様からだった。「どこを出歩いているの?なぜ子供の面倒を見ていないの?」「お手伝いさんがいますから……」「悠斗があなたを探して泣いているのよ。今何をしているかは知らないけど、すぐに戻ってきなさい!」夕月は椅子に腰掛け、膝を抱え込んだ。かつては、子供のことを何よりも大切に思っていた。でも今、結婚して子供を産んで、自分は何を得たのだろうと、考えずにはいられなかった。滝のように流れ落ちる漆黒の髪。膝に頬を押し付けながら、むせび泣く鼻をすすった。「私、桐嶋教授を裏切ってしまった……」唇を噛みしめる。斎藤鳴が研究成果を盗んだことを知っても、それを証明する手立てはない。「こぼれた牛乳を嘆いても仕方ありません」涼の声には温もりが滲
夕月の容姿に、視聴者たちは度肝を抜かれた。あれこれ批判しようと構えていた配信者たちは、思わず言葉を失い、顎に手を当てたまま固まる者も。眼鏡を掛け直して画面に食い入る者もいれば、夕月の姿を目にして思わずニヤけてしまう配信者まで現れた。五台のカメラに映し出されたのは、無垢材のテーブルに向かう夕月の姿。雨に濡れた上着は着替える暇もなく、湿った髪が額に張り付いていた。凍えた手を擦り合わせ、息を吹きかけて温めてから、やっとキーボードに触れる。まるで凍りついた雪だるまのような佇まいだったが、その瞳の奥には燃えるような決意の炎が宿っていた。視聴者たちは、夕月がALI実行委員会に状況を報告する声に耳を傾けた。「ブルー・オーシャン住宅での停電のため、急遽、桐嶋幸雄教授宅で受験させていただいております」夕月は桐嶋教授宅での受験を、実行委員会に対して隠すことはしなかった。「藤宮さん、不可抗力による特殊事情と判断し、委員会での協議の結果、試験継続を認めます。ただし、B問題用紙を改めて配布します」「既に試験開始から三時間が経過しています。追加の試験時間はありません。他の受験者と同様、残り五時間で提出していただきます」「承知いたしました」夕月は毅然とした態度で応じた。そして、すぐに解答に取り掛かった。彼女の視線は、パソコンと計算用紙の間を行き来するだけ。途中、ALI実行委員会のスタッフが桐嶋教授宅を訪れ、試験環境の確認を行った。一度だけトイレに立った以外、夕月は監視カメラの視界から離れることはなかった。パソコン画面の右下を一瞥した夕月。残り時間を気にする様子が窺えた。不正の証拠を探そうとしていた配信者たちは、夕月の微細な表情の変化を一つ一つ分析し始めた。「普通に考えて、この時間じゃ全問回答は無理なはずだ」「予選は八時間。つまり、決勝進出に必要な得点が取れる得意分野だけに集中すれば良いわけだ」「調べた限り、藤宮さんはALIコンテスト初参加。試験のストラテジーには慣れてないはず」配信者が冷静な分析を続ける一方で、多くの視聴者はもはや不正探しなど忘れ去っていた。「ウェブカメラ越しでもこんなに美しいなんて……!自分を殴りたい!あんな失言して後悔してる!」「時間との戦いなのに、一秒も無駄にしていない……!
目を覚ますと、彼女たちのSNSアカウントは怒り狂うネットユーザーたちのコメントで埋め尽くされていた。「だから謝罪の投稿を慌てて消すなって言ったのに!これからどうするの?」名門の奥様たちは、グループチャットで緊急の対策会議を始めた。「不正がなかったとしても、決勝で上位に入れるとは限らないわ。配信者たちも言ってたでしょう?他の参加者は予選で得点を調整していただけ。だから藤宮が一位を取れたのよ」「しばらく大人しくしていましょう。決勝で大学院生たちに負けて、今度は彼女が叩かれる番よ」昨日までメディアは競って夕月のインタビューを報じようとしていたが、世論の急転換を察知すると、各社は一斉に配信を控えた。そんな中、桜国放送局が真っ先に夕月の特集レポートを公開。編集部は春川記者が夕月と交わした昨夜の電話録音まで放送した。夕月が桐嶋教授宅で受験せざるを得なかった真相を知り、視聴者たちは激怒した。さらに、予選当日にブルー・オーシャンで実際に停電が起きていたことも判明。「あんな最低な元旦那、のたうち回って苦しむ姿が見たいわ!地を這いずり回る虫ケラのくせに!」「クズって言葉がぴったりね」「藤宮さんが若すぎて、人を見る目がなかっただけよ」たちまち「#藤宮夕月の元夫」がトレンド入り。元夫が誰なのか特定できなかったものの、ネットユーザーたちは彼の先祖代々まで遡って罵倒の限りを尽くした。橘グループ本社。「ハックション!」冬真が社長専用エレベーターに乗り込むと、清水秘書が携帯を握りしめながら後に続いた。エレベーターが下降するにつれ、秘書の顔は青ざめていく。「#藤宮夕月の元夫」という文字がトレンドの上位に躍り出ているのを見て、秘書は目を疑った。大変なことになった!思わず冬真の後頭部を何度も見つめる。社長はまだ、自分がネットで笑い者にされていることに気付いていないはずだ。だが、この件をどう切り出せばいいのか……一階に到着し、冬真がエレベーターを出る。ロビーは人で溢れ、社員たちの熱い議論が冬真の耳に届く。「藤宮さんの元旦那、最低すぎる!」冬真の足が急に止まった。後ろの清水秘書も慌てて止まり、額から冷や汗が噴き出す。「まさに美女と野獣ね。いえ、野獣以下かも。野獣の方がまだマシよ」「ハックシ
社員たちと冬真の間で、気まずい視線が行き交う。「社長、風邪でも?」「大丈夫ですか?お顔色が悪くて……額の相まで暗くなってますよ……」社員たちの心配そうな声に、冬真の表情は一層険しくなっていく。清水秘書が社員たちを叱責しようと前に出ようとした時、冬真は既に正面玄関へ向かって歩き出していた。慌てて追いつき、車のドアを開ける秘書。「ロビーで無駄話をしていた社員は全員特定し、給与から減額させていただきます」車内に座った冬真の周りには、まるで冷気が漂っているかのよう。彼が顔を上げると、鋭い眼差しが秘書を貫く。「ほう、私が藤宮夕月の見る目のない元夫だということを、大々的に宣伝したいのか?」秘書の額から大粒の汗が零れ落ちる。その場に凍りつき、唇は震えが止まらない。「い、いえ……そんなつもりは!ただ……ネット上であなたに不利な書き込みが急増していまして……」震える手でスマートフォンを差し出す。画面には、トレンド一位の「#藤宮夕月の元夫」の文字。冬真は侮蔑的な冷笑を浮かべた。まさか自分が藤宮夕月によって有名になる日が来るとは。冬真はトレンドの下のコメントなど見向きもしなかった。足元で蠢く大衆など、一瞥の価値もない。もし夕月が決勝でいい成績を収めたら……冬真は思案する。寛大な心で彼女を会社に迎え入れ、年収2千万の職位を与えて、自分の下で働かせてやるのも悪くない。そんな思考に耽っていると、携帯が鳴った。楓からの着信を確認し、通話ボタンを押す。「冬真、今夜、鐘山でレース大会があるんだ。悠斗を連れて行きたいんだけど」「悠斗には相応しくない」冬真の声音は冷たかった。「夜の山道だから心配?なら、あなたも来れば?……それに、今日が何の日か覚えてる?」楓の言葉が、冬真の心の琴線に触れた。今日は汐の命日。かつて妹の汐がモータースポーツを愛していたからこそ、冬真は鐘山オフロードレースに投資したのだ。「私たちが地上を疾走すれば、空の汐にも見えるはずさ」楓の瞳には、確信に満ちた微笑みが宿る。彼女は知っていた。汐の死は冬真の癒えぬ傷。汐の名を出せば、万年氷河も溶けるということを。 胸に淀んだ鬱憤を、冬真は吐き出す場所を必要としていた。そして今日は、妹の命日。「分かった。悠斗を連れて行く。三十
前席に座る悠斗は興奮を抑えきれない様子で、「楓兄貴!君こそ僕の唯一の兄貴だよ!パパがレース観戦に連れて行ってくれるなんて、夢にも思わなかった!」小さな唇を尖らせ、「あの田舎者とは大違い!楓兄貴の方が全然いいよ!」楓は声を立てて笑う。眉尻の上がりを抑えられない。「知ってる?お母さん、ネットですごく叩かれてるんだって」「あの人はもう母さんじゃない!」悠斗は即座に訂正した。楓の目に宿る笑みが、一層深くなった。「なんで叩かれてるの?」悠斗は首を傾げた。「夕月さんが数学コンテストで不正して一位取ったんだって。みんなネットで暴いてるわ。あの人に一位なんて取れるはずないもの!」楓がSNSを開こうとした時、トレンド一位に「#藤宮夕月の元夫」の文字が躍る。タグを開いた楓の動きが止まった。夕月に関する投稿を次々と確認していく。不正を断言していた有名配信者たちが、次々と謝罪文を投稿。夕月への誤解を認めている。夕月関連の人気コメントを漁ると、半数は彼女の美貌を絶賛し、残りはろくでもない元旦那に振り回された彼女を気の毒がっている。楓の呼吸が止まり、スマートフォンを握る手が震え始めた。「楓兄貴……?」悠斗は怯えた声を出す。初めて見る楓の恐ろしい表情に。まるでスマートフォンの向こうの誰かを殴り殺したいかのような凶暴な眼差し。我に返った楓は、にっこりと笑顔を作る。「ねぇ、悠斗くん。お母さんと私、どっちが綺麗だと思う?」悠斗が2秒ほど黙り込むと、楓の表情が一瞬で曇った。「楓兄貴が一番綺麗!」満足のいく返事に、楓の心はやや落ち着きを取り戻す。スマートフォンを置くと、悠斗に向かって「もうあの人の話はやめましょ。ね、バイク運転してみたい?」悠斗の目が丸く見開かれ、瞳孔が広がる。興奮が爆発しそうだ。「本当に運転していいの!?でも、ハンドル重そうだなぁ……」「楓兄貴がついてるから大丈夫だって!一緒に乗って、バイクが安定したら、ハンドル任せるからさ。そしたら、まるで空を飛んでるみたいな気分が味わえるよ!」「やったー!」悠斗は待ちきれない様子で飛び跳ねる。この世で唯一、自分のことを本当に理解してくれるのは楓だけだ。なんでもやらせてくれる。なんでも挑戦させてくれる。あの田舎者みたいに、いちいち制限なんかしない。
この頃、楓はTikTokに自分と悠斗がバイクに乗る姿を撮った動画を次々とアップしていた。アカウント開設から五年、わずか二千人ほどのフォロワー数で、バイクの格好良い動画を投稿しても、いつもの仲間内でイイねを押し合うだけだった。ところが、悠斗と一緒にバイクに乗る動画を初めて投稿した日の夜、楓は自分の動画が急に注目を集め始めていることに気付いた。それからというもの、楓は頻繁に悠斗とバイクに乗り、二人の動画は毎回百万回再生を突破するようになった。インフルエンサーを目指す楓は、この一ヶ月で投稿頻度を上げ、フォロワー数は一気に百万人を超えた。批判的な声も増えてきたが、楓にはまったく響かなかった。ただの嫉妬だと思っていた。五歳児を大型バイクに乗せられる度胸があるのは、自分だけなのだから。しかし、ここ一週間、悠斗とのバイク動画の再生回数が二十万回程度まで落ち込んでいた。視聴者がこの手の動画に飽きてきたのだ。そこで楓は仲間と相談し、衝撃的な企画を思いついた。猛スピードで走行中のバイクの上で、腕を組んだまま、五歳の子供にハンドルを任せることにした。そして、どこからともなくワインボトルとワイングラスを取り出した。バイクに跨がったまま、グラスにワインを注ぎ、高速で走りながらグラスを優雅に揺らし、完璧な余裕を見せつけた。仲間がその様子を撮影しながら、イヤホンマイクで囁いた。「パーフェクト!」「楓さん、賭けてもいいよ。これ、十万イイね超えは堅いって!」夕月の日常は変わらなかった。瑛優を学校に送り届けた後は家に戻り、様々な数学の問題に取り組む。大学時代と同じカリキュラムを自分に課し、この五年間で取り残された知識を必死に取り戻そうとしていた。夜になると、瑛優と夕食を済ませてから、二人で桐嶋家を訪ねるのが習慣となっていた。昼間に遭遇した難問をまとめ、桐嶋教授に直接指導を仰ぐつもりだった。リビングに入ると、桜都大学の学生たちが居座っていた。普段なら夕月に対して親しげな態度を見せる彼らだったが、ネット上で桐嶋教授による不正疑惑が持ち上がって以来、明らかに視線が変わっていた。彼らも今日、他のネットユーザーと同様、夕月の予選試験の様子を映した動画を何度も繰り返し見直していた。不正の証拠は見つからなかったものの。だ
誰もが冬真のルールに従わなければならない。「ブラックホール、ブガッティ・夜声、アストンマーティン・ヴァルキリー」夕月は英語で欲しい車を告げた。冬真のガレージで最も高価な三台だ。一瞬にして、男の眼差しが鋭い光を帯びる。ヘルメットの向こうの素顔を見透かそうとするかのように。「なぜ知っている。夜声とヴァルキリーが俺のガレージにあることを」冬真の威圧的なオーラに、普通なら震え上がるところだ。だが夕月は長年の付き合いで、もはやその重圧に動じない。「ブラックホールほどの完璧なマシンを造れる方なら、きっと車がお好きなはず。あの二台のスーパーカーも、お持ちだろうと思いました。橘さん、譲っていただけますか?」プロレーサーならではの推測として、それなりに説得力のある説明だった。しかし、男の視線は更に深く彼女を捉えた。「お前は俺のことをよく知っている」まるで昔からの古い知り合いのような——不思議な既視感が彼の胸の内を掠めた。冬真は思わず手を伸ばし、ヘルメットを外してその素顔を確かめたくなった。「三日以内なら、いつでも取りに来てくれ」ヘルメットを脱ぎ、レーシングスーツを脱いだLunaは、一体どんな女性なのか。そう考えながら、私的な場での対面を期待していた。夕月は臆することなく言い放つ。「では、ブラックホールのキーを今いただけますか?」英語で話す声は、ヘルメット越しに聞こえ、普段とは少し違って聞こえる。目の前にいるのは夫であり、血を分けた息子なのに。普段からどれだけ彼女のことを見ていないのか。今では声さえも聞き分けられないほどに。だが今では、冬真との駆け引きの仕方を心得ていた。冬真は獰猛な猟犬のよう。今の自分は獅子の口から餌を奪おうとしているようなものだと、夕月にも分かっていた。冬真はブラックホールのキーを取り出し、軽く放り投げた。楕円形のキーが、完璧な放物線を描いて夕月の手の中に収まる。ブラックホールは汐のために作られたマシン。もし天国で見ているなら、憧れのレーサーLunaが自分の代わりにコースを駆け抜けることを、きっと喜んでくれるはず。涼が近づき、夕月の傍らに並ぶ。冬真の眉間に深い皺が刻まれる。Lunaの隣に立つ涼の姿が、どこか目障りだった。夕月はキーを涼に手渡しながら、「修理工場に持って
バイク歴何年という楓だが、こんな無力感、こんな圧倒的な差を感じたのは初めてだった。まるで次元が違う。これはもはや勝負ですらない。一方的な支配。完璧な粉砕。悠斗はLunaを見つめていたが、ふと楓に気付いた。腕を組んで、頬を膨らませながら不満げに言う。「楓兄貴、遅すぎだよ!カメさんみたい!」冬真は椅子に座ったまま。厚手のレーシングスーツは開かれ、鍛え上げられた胸板が呼吸に合わせて上下している。その鋭い眼差しは、Lunaの姿を追い続けていた。こんなに強く惹きつけられたのは初めてだった。極限に挑む者の持つ魔力か。目を離すことなど、できない。夕月が三周を終え、ゴール地点で停止する。涼に手で合図を送った。涼は即座にスタッフに指示を出した。管制室からの声が、楓の耳に響く。「藤宮さん、Lunaさんがレースを終えました。約束通り、バイクを降りて、ゴールまで走ってきてください」楓は約一周半も遅れていた。つまり、これから5キロ近くも走らなければならない計算だ。だが楓は管制室の指示を完全に無視し、走り続けた。彼女は気付いていなかった。その指示が場内アナウンスとして、観客全員に聞こえていたことを。観客席からは怒号が飛び交い始めた。「降りろよ!」「勝負の約束守れよ!」「ずるいぞ!走る距離を少しでも短くしようって魂胆か?」楓の仲間たちは観客席で顔を伏せた。周囲の非難の声に耐えられない。管制室に駆け寄った御曹司の一人が、特別チャンネルで楓のインカムに呼びかけた。「楓!早く止まれ!みんなが怒ってるぞ!」楓は我に返ったように止まり、ヘルメットを脱いだ。そこで初めて、観客席からの罵声が波のように押し寄せてくるのが聞こえた。「負け犬かよ!」「降りろ!降りろ!」「Lunaに挑む勇気はあっても、負けを認める勇気はないのか!」楓の顔が瞬く間に真っ赤に染まった。確かに、少しでも長く乗っていれば、走る距離が短くなると思った。バイクを降りて走るなんて、確かに恥ずかしい。でも約束の内容は、もう会場中が知っている。このまま歩いて戻らなければ、全員から軽蔑される。笑い者になるのは目に見えている。「クソッ!」楓はヘルメットを地面に叩きつけた。インカムを通して管制室に怒鳴る。「Lunaのマシンの方が性
「桜国最強の女性ドライバーですって?たいしたことないわね」今夜、Lunaを打ち負かし——明日には、自分の名が轟くはず!最初のコーナーが迫る。「シュッ!」黒いバイクが、まるで軽やかな舞のように楓の横を抜け去り、瞬く間に差をつけていった。楓は目を疑った。どうして?一瞬で抜かれて——?フルスロットルで追い上げを図るも、コーナーを重ねるごとに、その差は開くばかり!「マジかよ!コーナーでブレーキ踏んでないぞ!」「やべえ!初めてのコースで、慣らし走行もなしでこれかよ!」「さすが桜国のエースライダーだな!化け物かよ!」楓は奥歯を噛みしめた。追いつけない——となれば、あの手を使うしかない。観客席から、ミネラルウォーターのボトルがコースに投げ込まれた。時速200キロを超える走行中、小石一つでさえ事故の原因になりかねない。バイクが轟音を立てて近づく。観客たちが息を呑む間もなく、誰もが直感的に悟った——Lunaのマシンはボトルを踏んでしまう。事故は避けられない。たとえボトルが直撃しなくても、避けようとして減速せざるを得ない。だが、ボトルまで残り3メートル。黒いバイクが突如30度の角度で傾く。夕月の手が伸び、地面のボトルを掬い取った。観客が状況を把握する前に「ポン!」という音。ボトルはコース脇の大型ゴミ箱に見事に投げ込まれていた。月光レーシングが走り去った後、やっと皆が目撃した光景を理解し始めた。「マジかよ!!」「うわあああ!!」誰かが額を叩きながら、驚愕の声を上げる。口は鳥の卵が入るほど開いていた。膝から崩れ落ちそうになりながら、Lunaに跪きたい衝動に駆られる者も。「な、なんだ今の!」「リプレー!リプレー見せてくれ!」金持ち息子たちの声に応え、管制室のスタッフがコース脇に設置された高速カメラの映像をスローモーションで大画面に映し出す。「やべえ!言葉が出ねえ!ただただスゲエ!」「コーナリングバンクからのゴッドハンドか!」「人類に可能な技なのかよ!Luna様!俺も高速ボトル投げ習いてえ!!」レースは続いていたが、もはや誰も楓のことなど気にしていなかった。かつての仲間たちさえ、コース脇で跳び跳ねながらLunaを応援している。悠斗は冬真の傍らで、呆然と口を開けたまま。
母の英語を聞き慣れていた悠斗だったが、楓は鼻で笑い、冬真も息子の言葉を気に留める様子はなかった。悠斗は呆然とLunaの後ろ姿を追いかけた。きっと、気のせいに違いない!あのカッコいいLunaを、あのうざったいママと間違えるなんて、失礼すぎる!重機レースの話を聞きつけた富豪の息子たちが、我先にとLunaに自分のバイクを勧め始めた。「Luna!僕のバイクを!」「こっちこっち!僕のを使って!」周りを取り囲む富豪の息子たち——夕月は彼らの顔を全て知っていた。もしヘルメットを脱いだら、この熱狂的な態度は一変するだろう。彼らは楓の親友で、18歳で藤宮家に戻った時から敵意を向けられていた。橘家の嫁になってからも状況は変わらなかった。冬真の権力があれば、普通なら彼女への態度も変わるはずだったのに。でも、冬真の態度こそが、この御曹司たちの対応を決定づけていた。楓は愛車を押して現れ、かつての親友たちがLunaの周りに群がる様子を見つめた。その眼差しには、もはや憎しみしか残っていなかった。自分のライディングスキルには絶対の自信があった。今やネットで人気の女性ライダーだ。しかもLunaは借り物のバイク。勝算は更に高まった。楓は観客席の方を見上げた。ある女性が合図を送る。楓は小さく頷き返した。瞳に浮かぶ勝ち誇った笑み。あと10分もすれば、Lunaを神の座から引きずり落としてやる。夕月は人混みの向こうに、涼の姿を見つけた。カスタムバイクを押しながら、こちらへ向かってくる。涼は黒いバイクを見やり、夕月に告げた。「これを使ってくれ」近づいてみると、サイドパネルには三日月のデザインが描かれていた。夕月の胸が高鳴った。まさか、自分のために用意されたものなのか?すぐに思い上がりだと打ち消し、「ありがとう」と涼に伝えた。「賞金の配分は三対七でどう?私が三で」涼は微笑んで言った。「勝ってくれれば、それが俺とこのバイクへの、最高の応えになる」シートを軽く叩きながら、告げる。「名前は『月光レーシング』だ」かつての月光レーシングクラブは消えたが、彼は暇を見つけては、このバイクを手作りで仕上げてきた。地面に座り込んで、一筋一筋、サイドパネルに月のデザインを彫り込んだ日々。ガレージで眠らせたまま、永遠に日の目を見ることはない
橘家で丁寧に育てられた坊ちゃまは、大物にも華やかな場面にも慣れているはずなのに、コロナの横に立ってLunaに話しかける時は、緊張で胸が高鳴っていた。しかし、車内の人物からは何の反応もない。「Luna選手?」悠斗はつま先立ちになって、首を伸ばし、好奇心いっぱいの表情で車内を覗き込んだ。藤宮楓は車から降りると、父子揃ってコロナの前に立っている姿を目にして、直感的な危機感が走った。大股で近づきながら、「Lunaさん、噂は聞いていました。重機のライダーとしても有名だとか。私もバイクに乗るんですけど、一対一で勝負してみません?」冬真がLunaに負けた分、楓が取り返そうという魂胆だった。Lunaはプロのレーサーだが、バイクの方は素人レベルのはず。それに、過酷なレースを終えたばかりで体力も消耗している。今なら勝てる——楓はそう踏んでいた。しかし、車内の女性は沈黙を守ったまま。「そんなに冷たくしないでよ。せっかくだから、一戦やりましょうよ」楓は不満げに声を上げた。「えっ!Lunaさん、バイクも乗れるの?!」悠斗の瞳が輝きを増す。その様子を見て、楓は片側の唇を上げた。もしLunaに勝てば、悠斗の視線は自分に戻ってくるはず。冬真は足元に落ちた名刺を見下ろした。身のほど知らずな女が桐嶋に持ち上げられて、舞い上がっているとでも言うのか。「2千万円で買おう。楓の相手をしてくれ」権力者特有の傲慢さで、冬真は金で全てが解決できると思い込んでいた。夕月は思わず笑みがこぼれそうになった。冬真の楓への溺愛は、ここまで来てしまったのか。男は携帯を取り出し、送金用のQRコードを表示させ、Lunaに向かって差し出した。夕月は男の存在を完全に無視し、涼の方に身を寄せて、耳元で何かを囁いた。その親密な仕草に、冬真の眉間に深い皺が刻まれた。二人の距離の近さが、どこか胸につかえた。涼は夕月の言葉に頷き、冬真の方を向いた。「Lunaの提案だが——バイクレースを受けよう、と。ただし彼女が勝った場合、その性別不詳の方には徒歩で戻ってもらう。Lunaとの差がついた距離分をな」「誰が性別不詳だって?」楓は声を荒らげ、車内に向かって怒鳴った。「ちょっと!ヘルメット取って、よく見なさいよ!私だって立派な女よ!」楓は車窓から手を
コロナが終点に到着した時、夕月はまだ夢心地だった。両手でステアリングを握ったまま、現実感が戻らない。「Luna!優勝だ!!」夕月が我に返ったように顔を向けると、ヘルメットを脱いだ桐嶋涼の切れ長の瞳が、星のように輝いていた。彼が手を伸ばし、夕月のヘルメットを外す。絹のような黒髪が、なだれ落ちるように肩に零れた。夕月は極限状態から戻ろうと、荒い息遣いを落ち着かせようとしていた。顔を上げると、涼の琉璃色の瞳に映るのは、自分だけだった。「おかえり、Luna」涼の眼差しには、宝物を見るような温もりが滲んでいた。「俺の中で、お前はずっとチャンピオンだ」涼の声には確信が満ちていた。まだグランドエフェクトの興奮が収まらないのか、胸が大きく上下し、車内の温度が上がっていく。夕月は真剣な面持ちで彼を見つめた。「コロナを見た時から気になってたんだけど、私がLunaだって、どうして分かったの?」藤宮家に戻る前、天野夕月として生きていた頃、レーシングライセンスもその名前で取得していた。レーサーとしての素性は、完璧に隠しているはずだった。涼は左肩をシートに預けるように体を傾け、真っ白な歯を見せて笑った。「月光レーシングのオーナーが俺だからさ」夕月の瞳が大きく見開かれた。「月光レーシングクラブにスカウトしたのが、あなただったの!?」「ああ」切れ長の瞳を細め、男は魅惑的な笑みを浮かべた。夕月は桐嶋涼を見つめたまま、呟いた。「私をLunaにしてくれたのは、あなただったのね」当時、夕月がクラブに入る時に出した条件はたった一つ。素性と素顔を公表しないでほしい、ということだった。まだ無名の頃だった。女性ドライバーなど珍しく、誰も彼女に投資しようとは思わなかった。そんな彼女に手を差し伸べたのが、月光レーシングクラブのオーナーだった。株で資産を築いていた夕月は、レースへの情熱のままに、稼いだ金を全てつぎ込んで、無敵の走りを誇るコロナを作り上げた。若かった。夢のためなら全てを捧げられると信じていた。何事にも情熱的で、全てを愛していた。人を愛することだってそうなのだと思い込んでいた——自分が熱い想いを注げば、きっと応えが返ってくるはずだと。夕月は俯いた。墨のような黒髪が、表情を雲のように隠した。「ごめんなさい」「謝ることなんて
涼は頭の中でオフロードコース全体を走破し、目尻に笑みを浮かべた。「この先、コース安定してる。思いっきり攻めていいぞ!」漆黒の闇の中、ライト無しで全開のコロナ。夕月は涼を完全に信頼し、ついに暗闇を抜けて光明を見た。エンジン音が遠くから近づいてくる。フィニッシュラインで待つ観衆が首を伸ばした。マシンがブラックゾーンに入ってからは、観客席後方の大型スクリーンも真っ暗になっていた。誰もが固唾を飲んで見守る。どのマシンが最初にブラックゾーンを抜け、通常コースに戻ってくるのか、誰も予想できない。悠斗は柵に登り、冷たい風の中、遠方を食い入るように見つめていた。突然、漆黒のマシンが視界に飛び込んできた。大型スクリーンが再び明るくなり、観客席からは歓声と悲鳴が響き渡る。コロナだ!ブラックゾーンを抜け、トップに躍り出た。その後ろを追うのは、冬真の操るブラックホール。「Luna!パパ!!」悠斗は声が枯れんばかりに叫び、両手を合わせて祈った。パパもLunaも、どちらも一位になれますように!光が冬真の漆黒の瞳を照らす。目前のコロナに、彼の勝負魂が完全に目覚めた。ビジネスの世界で幾度となく戦い、極限まで追い詰められても、感情を乱すことはなかった。だが、コロナを追いかける中で、アドレナリンが急上昇。最も原始的な本能が全身を支配していく。礼節という仮面が剥ぎ取られ、全力で疾走する野獣は、ただ前を行く獲物の首筋に噛みつきたいだけだった。しかし、フィニッシュまであと二キロを切っている!「シュッ!」コロナがフィニッシュラインを駆け抜けた。待ち構えていた観衆から歓声が沸き起こる。カラフルなテープが噴き出し、黄金の雨のようにコロナのボディを覆った。「うわぁ!!」悠斗は目を丸くし、視界にはコロナしかなかった。胸に手を当てる。まるで金の矢に射抜かれたかのように、コロナとLunaに完全に心を奪われていた。コロナがブラックホールを打ち破った。Lunaがパパを倒した。今日からLunaは、彼の心の中で超えられない神様になった。冬真の操るブラックホールは路肩に停車した。ヘルメットを外し、レーシングスーツのジッパーを下ろしたものの、シートベルトを解く力さえ残っていない。シートに深く沈み込み、荒い息を繰
「フルスロットル、左ハンドル」「右カーブ3、下り坂、アクセルオフ!」夕月はコースマップを必死に頭に叩き込んでいたが、この速度では考える暇など無かった。今の彼女にとって、涼こそが頭脳だった。涼は的確な指示を次々と繰り出す。鐘山の複雑なオフロードコースが、彼の頭の中で3Dマップとして構築されているかのようだ。まるで将棋盤を前に全体を見渡す指し手のように、夕月の進路を導いていく。「冬真!攻めて!」楓は橘冬真がスピードを上げるのを見て、興奮気味に叫んだ。コ・ドライバー用のコースマップなど、とうに忘れてどこかに置きっぱなしだ。助手席で、ただ冬真の伴走者に徹している。しかし冬真には楓のナビゲートは必要なかった。常に自分の判断だけを信じてきた男だ。鐘山のレースコース——その設計にも関わった冬真は、誰よりもコースの複雑な状況を把握していた。「ブラックホール」は他のマシンと並走していたが、第二集団はすでにコロナに大きく引き離されていた。ヘアピンカーブで、コロナが完璧といえるほどのUターンドリフトを決める。冬真の暗い瞳が大きく見開かれた。かつてレース場で、コロナの走りを目にしたことがある。コロナの元オーナーは謎に包まれた存在で、Luna という女性ドライバーだということ以外、冬真には何も分からなかった。徹底的に調査を試みても、彼女の素性も容姿も、一切の個人情報にたどり着けなかった。まさか自分がコロナと対峙する日が来るとは。「お兄様!Lunaを私たちのチームにスカウトして!師匠になってもらいたいの!」汐の声が耳に響く。仲介人を通じてLunaへの連絡を試みた時、帰ってきたのは引退を決意したという知らせだった。その後、コロナがオークションに出品された日、冬真も会場にいた。購入の意思はあったが、競売開始と同時に途方もない価格が提示された。ビジネスマンとしての冬真は、たとえレースを愛していても、市場価値を大きく超える価格でコロナを手に入れることは非合理的だと判断した。採算の合わない取引はしない。数回の値上げの後、彼は競りから撤退した。そして、コロナを法外な値段で手に入れたのが桐嶋涼だった。五年の時を経て、元オーナーのLunaまでレースに呼び戻すとは。長年にわたり打ち負かしたいと思い続けてきたラ
楓は橘冬真の車の中で、余裕の表情を浮かべながら、コロナに迫る二台のマシンを見つめていた。レースに参加する御曹司たちにも、それなりの戦術があった。これだけの参加者がいれば、勝利のためには犠牲になる車も必要というわけだ。重いヘルメットの下、夕月の瞳には緊張も恐れも見当たらなかった。素早いシフトチェンジ——右側のタイヤが地面から浮き上がった!涼は急激な視界の変化に目を見開いた。胸の中で心臓が激しく鼓動を打つ。これは……片輪走行!右側の前後輪が完全に地面から離れ、マシン全体が45度の角度で横倒しになったまま、猛スピードで突っ走る。コロナを挟み込もうとしていた一台のドライバーの頭上に、突如として黒い影が覆いかぶさった。助手席の御曹司が振り向くと、窓際に漆黒のアンダーパネルが迫っていた!まるで沼から這い出した怪物が、血に飢えた口を開いているかのよう!黒いタイヤが車の屋根の上で回転している——まさに頭上に突きつけられた剣のように。彼らは怪物の口に落ちていた。タイヤはいつ屋根に接触してもおかしくない!「うわっ!やべぇ!!」レース好きとはいえ所詮は素人の御曹司たち。こんな光景、見たこともない。「はッ……!」歓声を上げていた観客席から、一斉にため息が漏れた。これはスタントドライビングの技だ!オフロードレースで、こんな危機的状況でスタントを決めるなんて——コロナのドライバーは一体どれほどの実力の持ち主なんだ?コロナの片輪走行を目の当たりにした悠斗の小さな世界観が、大波に呑まれたように揺らいだ。鳥肌が立ち、思わず体が震える。黒い瞳が揺れ動いた。反対側から迫ってきたマシンの助手席の御曹司も、コロナの屋根とタイヤが宙に浮くのを目撃した。「マジかよ!」御曹司の頭の中が真っ白になる。本能が叫んでいた——逃げろ!このまま追い詰めれば、コロナの浮いたタイヤがもう一台の車の屋根を直撃する。そうなれば、ただの接触事故では済まない。これは心理戦、臆病者のゲーム。死の影を前に、二台のマシンは引き下がるしかなかった。二台が急いでコロナから距離を取ると、コロナは片輪走行を解除し、全開で前進を続けた!コロナの排除に失敗した二台は、はるか後方に取り残された。助手席の御曹司二人は、まだ生きた心地がせず、荒