彼女の姿を改めて目にして、冬真は悟った。予選での一位は決して偶然ではなかったのだと。そして決勝戦でも、彼女は首位に輝いていた。チャレンジマッチでは、20位の参加者から順に、挑戦したい相手を選ぶことができる。挑戦者は対戦相手に問題を出題できるが、その問題は挑戦者自身も解かなければならない。挑戦を受けた側が問題を解けないか、有効な解法の道筋を示せなければ、その時点で敗退となる。0位、19位、18位の参加者が揃って、夕月への挑戦を表明した!夕月は次々と彼らの問題を解き明かし、挑戦者たちは脱落していった。そして17位、16位、15位の参加者もまた、夕月への挑戦を選択する。生中継を見守る視聴者たちは、夕月への挑戦が集中することに憤りを覚えていた。「なんで皆、藤宮さんばかり狙うの?主婦を甘く見てるわけ?」「まるで、剣豪たちが一人の達人に挑むような展開じゃない」「これじゃまるで、雑魚の群れが大物に立ち向かってるみたいね」会場の参加者たちは、そんな視聴者のコメントを目にすることはない。彼らは一人また一人と夕月に挑戦し、そして一人また一人と去っていく。挑戦台に立って以来、夕月は一度も降りることなく戦い続けていた。大スクリーンに映る夕月の姿に、冬真は目を奪われた。溢れ出る知性と輝きに彩られた彼女は、以前にも増して美しく見えた。本当にこれほどの知識を持っていたのか。大学卒の学歴しかないはずなのに。この七年間、橘家で妻として子育てに専念していたはずの彼女が、誰にも告げずに独学で勉強を重ねていたということか。「藤宮さんをCTOとして招聘してはいかがでしょうか」ある株主が持ちかけた。「彼女は優秀な上に、橘社長の奥様でもありました。CTOの座にこれ以上の適任者はいないでしょう」「私たちは既に離婚している」冬真は表情を引き締めて言った。だが株主たちは、それを大した問題とは考えていないようだった。「離婚したなら、もう一度口説けばいいじゃありませんか」「冬真さんのような方なら、どんな女性でも振り向かせられるはずです」「女というのは、ちょっと甘い言葉をかければすぐに尻尾を振って戻ってくるものですよ」決勝戦で二位となった参加者が挑戦台に上がる。彼に残された選択肢は、夕月への挑戦しかない。冬真
表彰台に上がった夕月は、委員会理事長から金賞を受け取った。マイクの前に立つ彼女に、司会者が質問を投げかける。「七年間専業主婦として過ごされた方が、なぜ金賞を獲得できたのか、皆さん大変興味を持っているようですが」夕月は顔を上げた。舞台照明の熱が彼女を溶かしそうなほど強く照りつける中、透明感のある彼女の美しさが、カメラの前でひときわ輝きを増していた。深く息を吸い込むと、まるで18歳の自分が客席に座っているのが見えるような気がした。漆黒の瞳に、星のような輝きが宿る。「私がここに立ち、このメダルを手にすることができた秘訣は——自分を愛することを学んだからです。大きな勇気を持って、新しい人生に向き合うことを決意しました。もう、誰かの反応に怯えることも、周りの評価に自信を失うこともありません。否定されることも受け入れます。でも、もう他人からの承認は必要ありません。私は、私自身の人生の主役なのですから」春風のような優しい笑みを浮かべながら、無数のカメラレンズに向かって夕月は言った。「来た道を振り返ることはあっても、もう後戻りはしません」夕月のALI数学コンテスト金賞受賞は、ネット上で大きな反響を呼んだ。「おめでとうございます!桜国最高峰の数学コンテストで金賞を獲得されました。これからの輝かしい未来を心よりお祝い申し上げます!」「藤宮さん、もっと広い世界があなたを待っています!」「やっぱりね。女性が男性に依存しなくなった時、その世界はもっと広がるのよ」国内の一流大学十数校が次々と夕月への祝福メッセージを送り始めた。その後わずか30分もしないうちに、海外の名門大学までもが公式アカウントを開設し、祝福と招聘の意を表明してきた。この瞬間、人々はようやく、今回のALIコンテストの影響力の大きさを実感したのだった。世界的な名門大学が次々と夕月にラブコールを送る中、国内の大手企業も黙ってはいなかった。国営の軍需企業までもが、夕月への招聘の意を示したのだ。そんな中、例の一件を根に持っていたネットユーザーたちは、あのセレブママたちのアカウントに殺到した。彼らは覚えていた。つい先日、夕月の娘へのいじめで謝罪したセレブママたちが、夕月の予選成績を疑問視する声が上がった途端、謝罪文を削除したことを。「藤宮さんが金賞を獲得しま
まるで凛とした松のように背の高い彼は、端正な立ち姿で佇んでいた。花束と拍手が夕月に注がれる様子を見つめる涼の瞳には、優しい笑みが溢れていた。数人の教授が夕月の前に現れ、挨拶を交わす。夕月は我に返り、学界の重鎮たちへの対応に追われた。挨拶を交わしながら人混みをかき分け、夕月は涼の方へと歩を進めた。桐嶋教授の姿もそこにあった。夕月は教授の前で立ち止まり、深く息を吸うと、「教授、ただいま戻りました」両手を後ろに組んだ教授は、息を詰め、明らかに表情を抑えようとしていた。「ふん、戻ってこられても困るがな」不機嫌そうに口を尖らせる教授を見て、夕月には分かっていた。斎藤鳴に研究成果を奪われた件を、まだ根に持っているのだと。「教授……」と説明しようとする夕月に、教授は言った。「前だけを見て進みなさい。お前が、これからもずっと輝き続けられるのか、この目で見届けてやろう」桐嶋教授の言葉に、夕月の胸が熱くなった。怒りを残しながらも、彼女の成長を願う教授の気持ちが伝わってきた。そこへ、また数人の教授が集まってきた。「藤宮さん、第17回イノベーション・テクノロジー・サミットへの推薦状です。桜都大学を代表して、ぜひご参加いただきたく」夕月の瞳が大きく見開かれた。特許の高値売却を望む彼女にとって、このサミットは絶好の機会だった。「おや、浅田先生、動きが早いですね!」と横から声が上がる。別の教授が同じような推薦状を取り出した。「藤宮さん、花橋大学からもサミットへの推薦状をご用意しました。ぜひ、私どもの推薦状でご参加を」桜都大学の教授が慌てて、その手を制した。「いやいや、私が先に推薦状をお渡ししたはずです。藤宮さんが参加されるなら、当然、桜都大学の推薦状で」二人の教授が言い争う中、さらに数名の教授たちが次々と推薦状を差し出してきた。十数通の推薦状を前に、夕月が戸惑いの表情を浮かべたその時。白磁のように整った指が、雪片のように舞い降りる推薦状の束を遮った。振り向くと、そこには桐嶋涼が立っていた。涼の澄んだ声が玉を打ち鳴らすように響き、周囲の人々は一斉に足を止めて耳を傾けた。「夕月さんは既にサミットから直接の招待状を受け取っています」そう言いながら、涼は金文字で「イノベーション・テクノロジー・
涼が手を上げ、教授の飛沫が夕月にかかるのを防いだ。「なんだ、この妙な空気は!」と教授は鼻を鳴らしながら呟く。他の教授たちも影響され、辺りを嗅ぎまわり始めた。「変な空気?どこにそんなものが?」我に返った夕月は、手持ちの招待状を教授たちに見せながら慌てて言った。「既に公式の招待状を頂いております。皆様のご厚意に感謝いたします」その時、群衆の中に幽鬼のように蒼白い顔を見つけた。平田安人が彼女を見つめていた。夕月の視線に気づくと、まるで猫を見た鼠のように、彼は逃げるように姿を消した。決勝戦で100位以下だった安人には、夕月に挑戦する資格すらなかった。決勝戦2位の挑戦者が夕月に敗れた後も、安人は委員会が2位の参加者に金賞を与えることを祈っていた。彼の目には、その挑戦者の方が夕月より優れて見えたのだ。夕月が金賞を手にした瞬間、安人は完全に取り乱した。夕月との賭けを思い出したのだ。両足が激しく震える。会場を逃げ出しながら、安人は必死に考えていた。どこかに隠れて、この騒ぎが収まるまで待とう。そうすれば誰も賭けのことなど覚えていないはずだ。「うわっ!」通路で誰かにぶつかった安人は、その人物の巨体に弾かれ、尻もちをついた。ぶつかった相手は一言も発せず、安人の傍らを通り過ぎていった。平田は悪態をつきながらよろよろと立ち上がった。自分を倒せるような相手なら手を出すべきではないと、ぶつかった相手の方は見向きもせずに立ち去った。壁につかまりながら建物を出ると、新鮮な空気が肺に染み渡り、ようやく一息つけた。ふと上着のポケットに手を入れると、見覚えのない薬の包みが入っていた。不思議に思いながら取り出してみると、その裏面には説明書きが——便秘改善、スムーズな排便を——まさか……下剤!?なぜ自分のポケットにこんなものが?平田の顔が一瞬にして真っ赤に染まる。「くそっ!」下剤を地面に叩きつけた。「安人!」顔を上げると、以前桐嶋教授の家で一緒に勉強していた仲間たちが立っていた。彼らは平田に近づくと、それぞれのポケットから同じような薬の包みを取り出した。「誰が入れたのかは分からないけど、安人、必要なら使えよ」十数個の下剤が平田の手のひらに載せられた。「まさか本当に……逆立ちし
容赦なく切られた通話音が響く。会議室が凍りつくような静寂に包まれた。冬真の全身から三尺の氷柱が生えたかのような冷気が漂う。またしても夕月に意地を張られた形だ。いったいいつまでこんな駆け引きを続けるつもりなんだ?冬真の表情が凍りつき、暗い瞳には抑えきれない感情が渦巻いていた。再度電話をかける。今度は機械的な声が返ってきた。「お客様のお掛けになった電話番号は……」「!!!」ブロックされた——深く息を吸い込んだ冬真が顔を上げると、株主たちと目が合う。気まずい沈黙が流れる。「私から電話してみようか」凌一の声に、一同の視線が集中した。凌一が携帯を取り出し、スピーカーモードで電話をかける。株主たちは思わず息を潜めた。瞬時に通話が繋がった。「橘博士!私、賞を取れたんですよ!」夕月の弾むような声が響き渡る。これまで聞いたことのない、喜びに満ちた声色だった。冬真は息を呑んだ。あの夕月が、こんなにも嬉しそうな声を出すのか。「おめでとう」淡々とした凌一の返事には、何の感情も読み取れない。「藤宮夕月!」冬真の声が低く唸るように響く。「さっきの電話、切っただろう」三秒の沈黙の後。「橘博士、前にお話しした件について、もう一度ご検討いただけませんでしょうか」「!!!」冬真の顎の筋肉が浮き出るほど強張る。表情は墨を塗ったように暗い。完全に無視された。明らかに意図的だ。なるほど、彼から甘い言葉を引き出したいというわけか。冬真は深く息を整えた。「夕月、食事でもどうかな」まさか自分からこんな譲歩をする日が来るとは。離婚騒動以来、これが彼に出せる最大限の寛容さだった。「博士、私と食事、ご一緒していただけませんか?」夕月の声が凌一の携帯から漏れる。冬真は思わず笑みを漏らした。彼女は怯えているのだ。二人きりの食事を恐れている。愛ゆえの畏れ。愛ゆえの恐れ。二人きりになれば、彼の元に戻りたい気持ちを抑えられなくなる——そう怖れているのだろう。ならば、少しだけ甘やかしてやるか。「叔父上も同席して……」「はい、では今夜に」夕月の即答に、凌一との約束を取り付けられて安心したような様子が滲んでいた。冬真は腕を組み、口元に笑みを浮かべる。夕月の切迫した様子が、妙に心地よ
最初のうちは新鮮だったが、数日も経つと、みんな飽き始めていた。先週から「Lunaが家に来る」と言い続けているのに、いまだに実現していないことも、疑わしく思われ始めていた。クラスメイトたちの態度は次第に素っ気なくなっていった。瑛優の方に向かおうとする子を見つけた悠斗は、すかさず威圧的な声を出した。「藤宮瑛優と組むやつは、放課後に道具の片付けな。用具室の掃除も」その言葉を聞いて、誰も瑛優の側には寄れなくなった。体育教師は悠斗を甘やかしており、体育委員に任命。授業後の片付け当番も悠斗が決めることになっていた。先生は古望時雨と瑛優がたった二人でチームを組んでいるのを見て、「ソフトバレーは五人一組だ!二人とも別々のチームに入りなさい」と声をかけた。教師に新しいチームを割り当てられ、時雨は仕方なく指定されたチームに加わった。「先生!藤宮瑛優とは組みたくありません!」瑛優が新しいチームに加わろうとした瞬間、チームメイトが手を挙げて抗議した。体育教師は他のグループに目を向けた。「じゃあ、藤宮さんは……」「私たちのチーム、もう人数足りてます!」「うちも藤宮瑛優は要りません!」「瑛優はお母さんみたいにずるをするから、一緒に遊びたくない!」子供たちの情報は大人たちより遅れていた。瑛優の母親のことは親から断片的に聞いていただけだった。大人の会話の一部始終を聞いていない子供たちは、学校で情報を持ち寄り、さらに悠斗の影響も相まって、瑛優をクラスの厄介者として扱うようになっていた。誰も瑛優とチームを組もうとしない。教室でも休み時間でも、古望時雨と橘望月以外は瑛優に話しかけることもなかった。でも望月は体が弱く、体育の授業では見学することが多かった。その場に立ち尽くす瑛優。かつての橘美優という名から藤宮瑛優となって以来、クラスメイトたちの輪から完全に外されていた。ピンク色の唇を噛みしめ、小さな手を握ったり開いたりする。ママとの約束を守らなければ。どんなに辛い環境でも、勇気を持って前に進まなければ。瑛優は体育教師に向かって手を挙げた。「私、一人でチームを作ります」体育教師は嘲るように笑った。「藤宮さん、女の子なんだから、どうしてみんなが遊んでくれないのか、よく考えなさい」体育教師がホイッスルを吹き、声を
悠斗のチームメイトたちは、地面に手をつきながら舌を出したり、地面に座って空を見上げたりしていた。「悠斗君、もう立てないよ!やり直しなんてできないって!」悠斗は横で、先生が瑛優に花丸シールを渡すのを眺めていた。先生は五枚の花丸シールを用意していたが、一人で五人分の働きを見せた瑛優に、全てが与えられた。悠斗の表情が見るも無惨に歪む。彼は瑛優を指差し、命令口調で言った。「優勝者は道具の片付け当番!」「どうしてよ!」時雨が瑛優のために抗議する。望月も負けじと声を上げた。「なんで優勝した人が片付けなきゃいけないの?」「だって瑛優のせいでみんな疲れ切ってるじゃん!あいつ、汗一つかいてないし!片付けるのは当然でしょ?」「悠斗君こそ、まだ元気そうじゃない」時雨が小声で呟く。悠斗は仲間の一人の腕を肩に回し、「僕は委員長だから、みんなを教室まで送らなきゃ!」仲間を担ごうとするも、持ち上げることができない。顔を赤らめながら歯を食いしばり、低い声で言う。「行くぞ!本気で担がせる気?」他の子供たちが教室に戻る中、時雨と望月は瑛優と一緒に体育用具の片付けを手伝っていた。「きゃあああ!!助けて!」突然響き渡った悲鳴に、時雨と望月は飛び上がった。瑛優は悲鳴の聞こえた方を振り向いた。すぐ近くの校庭で、年少組の子供たちが必死に逃げ惑っていた。黒いジャージ姿で、マスクを着けた男が木の棒を手に、幼い子供たちを追いかけ回していた。時雨と望月はその場に釘付けになる中、瑛優が駆け出した。「瑛優ちゃん、戻って!」「ダメ!行っちゃだめ!」二人の女の子の叫び声が裏返る。瑛優は手にしていたソフトバレーボールを全身の力を込めて放った。ボールは男の背中を直撃した。「ぐああっ!」マスクの男が地面に倒れ込む。男が這い上がろうとした瞬間、瑛優は背中を踏みつけ、棒を握る手首を掴んだ。その手を後ろにねじ上げると、乾いた音が響いた。「ぎゃああああっ!」男の絶叫が校庭に木霊する。逃げ惑っていた年少組の子供たちが一斉に振り返った。そこには、ピンクのワンピースを着た女の子が立っていた。両サイドの髪を可愛らしくまとめ、ピンクのリボンが風になびいている。お人形のような愛らしい顔立ち。まんまるな顔に、黒く澄んだ瞳、桜
ある母親が小声で耳打ちした。「藤宮さん、桐井園長を追い出してくださって、本当にありがとうございます。教務主任が園長代理になってから、色々改革してくれて。今年の表彰は公平になると思います」夕月は謙虚に答えた。「私がしたことじゃありません。瑛優の退学騒動がなくても、桐井先生はいずれ……」保護者たちや教師の多くは夕月に感謝していた。桐井健の横暴に長年悩まされていたのだ。「夕月さん!」橘京花が望月の手を引きながら、にこやかに近づいてきた。その横には夫の斎藤鳴の姿もあった。京花は真っ白に塗った顔に細い眉を描き、ゆったりとしたカシミアのコートを纏っていた。エルメスのバーキンを手に下げ、首元には1億円相当の翡翠のペンダントが揺れている。以前、橘家で夕月にわざわざ自慢げに見せびらかしたものだ。斎藤鳴は端正な容姿の持ち主で、その身なりからして学者然としていた。「夕月!大変なことになったわ!瑛優ちゃん、また暴力事件を起こしたのよ!」京花の甲高い声が、周囲の保護者の注意を引く。夕月の前に立った京花は、目尻を吊り上げ、興奮気味に噂話を始めた。「望月が教えてくれたの。瑛優ちゃんが休み時間に暴力振るって、骨折させちゃったんですって!」周囲の保護者たちは動揺を隠せず、我が子を夕月から遠ざけるように引き寄せた。「あの子、藤宮瑛優には近づかないのよ」と耳打ちする母親もいる。「でも母さん!僕、瑛優ちゃんのこと超かっこいいと思う!」瑛優の名前が出るや否や、子供たちは興奮気味に親に話し始めた。「瑛優ちゃんってすごいんだよ!僕も瑛優ちゃんみたいになりたい!」子供の言葉に憤る保護者たち。「まさか!あの子のマネなんてしちゃダメよ!」しかし子供たちは止まらない。「瑛優ちゃんね、年長組の全員に勝ったんだよ!」「たった一人で、クラスのみんなをやっつけちゃったの!」保護者たちは子供の話を聞きながら、ボディビルダーのような筋肉質の女の子を想像して背筋が凍る。クラス中の子供たちを投げ飛ばし、校庭に転がった子供たちが悲鳴を上げている光景が頭に浮かぶ。桜井が桜都一の名門でなければ、とっくに転校を考えていただろう、と皆が顔を曇らせる。周囲の動揺を見て、京花は更に意地悪く続けた。「夕月さん、女の子をそんな風に育てちゃダメよ。瑛優ちゃんを筋肉アイドル
冬真がドアに手をかけ、夕月を引きずり出そうとした瞬間。スタッフ数人が駆け寄り、彼とコロナの間に割って入った。「橘社長!レースが始まります!」「橘社長、Lunaの集中の妨げになります」「あれは藤宮夕月だ!」冬真は声を荒らげた。「彼女がLunaのはずがない!」その言葉は、まるで自分に言い聞かせるかのようだった。コロナのドアが閉まり、夕月はコースへと向かった。「邪魔するな!」冬真の身のこなしは素早かった。スタッフを押しのけ、コースの端まで走り寄った。ウォームアップを終えても、夕月はコロナから降りる気配を見せなかった。コロナがみんなの視界に入った瞬間、観客席から歓声が沸き起がった。「Luna!Luna!」ファンたちは最も忠実な信者のように、コロナがスタートラインに向かう姿を見つめ、思わず涙を流す者も数多くいた。なぜまだ夕月はコロナから降りてこない?冬真は周囲を見回した。本物のLunaはどこにいる?レース開始が迫っているのに、なぜLunaは姿を現さない?一方、マシンの中の楓は、コース脇に立つ冬真の姿を見つけ、思わずウィンドウを下ろそうとした。VIPルームで観戦できるはずなのに、わざわざコースまで来てくれた。これは自分に関心を持ってくれている証拠だわ。楓は内心で得意げに思った。窓を下ろし、楓は興奮した様子で冬真に手を振った。「冬真!」ヘルメット越しの声は籠もって聞こえた。だが冬真は、楓のマシンには一瞥もくれなかった。「何してるんだ藤宮楓!窓を開けるな!レースが始まるぞ!」管制台に立つヴィンセントは、楓が突然窓を開けるのを見て、血圧が急上昇した。無線を握りしめ、M国語で罵声を浴びせかける。M国語の分からない楓は、逆に不満気な声を上げた。「何よ、そんな怒鳴って!」通訳が慌てて無線を取り、息を切らしながら叫んだ。「窓を閉めてください!集中してください!」楓の通訳を担当している若い男性も、酸素マスクが必要なほどの疲労感を覚えていた。エキシビションとはいえ、楓のこの態度は到底理解できなかった。そのとき、レース開始を告げるホーンが鳴り響いた。三度目のホーンと共に、スタートラインに並ぶマシンたちが、弦を放たれた矢のように飛び出した。最も出遅れた楓の姿を見て、
小さな丸みを帯びた顎に、整った卵型の顔立ち。その唇は誘うような桜色を湛え、筋の通った鼻筋と柔らかな目元が印象的だった。漆黒の髪を後ろで纏め上げ、耳元には繊細な毛束が風に揺れていた。冬真にとって、あまりにも見覚えのある顔立ちだった。その場に凍りついたように、冬真は目を見開いたまま夕月を凝視していた。頭の中が真っ白になった。なぜLunaが夕月の顔を持っているのか?これは笑い話としか思えない。まるで、あの荒唐無稽な夢の中にいるかのようだった。観客席からの歓声が押し寄せる波のように、冬真を包み込んだ。彼は震えながら我に返った。夕月は彼の存在など無いかのように、そのまま横を通り過ぎようとした。冬真は咄嗟に振り返り、夕月の腕を掴んだ。「なぜここにいる?」男の眼差しには疑惑と困惑が入り混じっていた。「なぜそんな格好を?」彼は夕月の手にしたヘルメットを見下ろした。確かにそれはLuna専用のものだ。何か言おうとして言葉に詰まり、喉に紙を詰め込まれたような感覚に襲われた。「Lunaのボランティアスタッフか?」自分でも信じられないような声が漏れた。きっとそうに違いない!彼はその考えに必死にしがみついた。Lunaの出場が発表された途端、国際レースのボランティア募集は熱狂的なファンで埋め尽くされた。仕事を投げ出し、給料カットも厭わず、ボランティアに志願する者も少なくなかった。ただLunaのレースを間近で見たい一心で。憧れの女神の素顔を一目見られる機会を求めて。冬真の問いに、夕月は笑みを浮かべた。「こんな馬鹿げた質問をするなんて、どれだけ頭が悪いの?」レーシングスーツを着て、ヘルメットを手に持って目の前に立っているのに、この男は未だに彼女をLunaと結びつけようとしない。バカなの?心の底から彼女を見下しているのね。若く血気盛んだった頃、夕月は純粋に冬真を愛していた。なのに結局、この男には「本当の藤宮夕月」と向き合う勇気すらないというわけ。「Lunaの車のウォームアップでもするつもりか?そもそもレースライセンスは持ってるのか?」高圧的な目線で夕月を見下ろしながら冷たく言い放った。「コロナを壊すなよ」もし壊したら、Lunaへの弁償なんて絶対にしてやらないと言わんばかり
足音を聞いて振り返った冬真の目に、レーシングスーツ姿の女性が歩み寄る姿が映った。冬真の背後から差し込む澄んだ日差しが、その肩の輪郭を縫うように流れていく。彼女が手にしているヘルメットは見覚えがあった。濃紺の地に金色の月が星々に囲まれた模様が描かれた、あのLuna専用のものだ。女性の上半身は、深い影に覆われていた。彼女が暗がりから一歩踏み出した瞬間、冬真は思わず息を呑んだ。Lunaはヘルメットを被っていない――つまり、ついに素顔のLunaと向き合うことになる。夕月も意外だった。冬真がわざわざ自分を待っていたとは。彼女は影の中で足を止めた。男は彼女に向き直り、スラックスのポケットに片手を入れたまま立っていた。オーダーメイドのスーツに包まれた背筋の伸びた佇まい、幅の広い肩から腰にかけての優美なラインは、まるで彫刻のように完璧だった。「Lunaともあろう人が約束を破るとは思わなかったぞ。指定の時間にガレージに来なかったから、お前が気に入っていたスポーツカーたちは、もう新しいオーナーの手に渡ってしまった」二度目の対面だというのに、冬真は自分の中に湧き上がる悪意に気付いていた。彼女を壊してしまいたい衝動。からかって、恥じらわせて、赤面させて、自分の前で膝を屈させたい――そんな欲望が抑えきれなかった。男はさりげない立ち姿ながらも、その佇まいから放たれるオーラは鋭く冷たかった。その冷徹な眼差しは矢のように彼女に向けられ、Lunaを包む影を打ち払おうとするかのようだった。「最後のチャンスだ。年俸2億円で藤宮楓のコーチを引き受けてもらいたい。正直、彼女の実力は並以下だ。トップに立つ必要もない。ただ三年以内に国内で名の知れた選手になってくれれば、それでいい」これは橘汐が叶えられなかった夢。冬真は楓にその夢を託そうとしていた。「引退して五年、突然復帰を決めたのは金のためだろう」嘲笑うように冬真は言った。「だが、もうお前は全盛期を過ぎている。月光レーシングのように高額な契約を結んでくれるクラブはもうない。これは今のLunaが市場で得られる最高の条件だぞ」言葉が途切れぬうちに、夕月は影から一歩前に出た。まるで映画のスローモーションのように。影が彼女の首筋から肩へと、ゆっくりと剥がれていく。冬真の瞳が大き
夕月は眉間に皺を寄せ、一瞬だけ憂いの色が浮かんだ。この五年間、必死に悠斗の性格を正そうとしてきた。でも橘家の面々は、長男で跡取りである悠斗の言動は全て正しいと言い聞かせ続けてきた。一度母親への偏見が芽生えてしまえば、二人の間には越えられない壁が築かれてしまう。夕月は棚に向かい、ヘルメットを手に取ると、「スマホのライトを点けてくれる?」と鹿谷に声をかけた。「どうしたの?」鹿谷はライトを点けながら近寄った。夕月が鹿谷のスマホの光をヘルメットの中に当てると、砂粒よりも小さな虫が数匹、パッと飛び出した。明るいLEDの光に照らされて、やっとその姿が確認できる。「なんで中に虫が?」鹿谷は困惑気味に呟いた。桜都の乾燥した寒い気候では、虫なんて発生しないはず。しかも、このスペアヘルメットは新品で、たった30分前に出してきたばかり。どうして虫が入り込むことができたのか?「唯一ヘルメットに触れたのは、あの照明スタッフね」夕月は静かに言った。「まさか、細工でもしたのか!?」鹿谷は思わず声を上げた。そして、急に閃いたように、「楓の差し金に決まってる!」と断定的な口調で告げた。夕月は冷静な面持ちで携帯を取り出し、涼に電話をかけた。「桐嶋さん、申し訳ないけど、全出場者のヘルメットに細工がされていないか、至急確認していただけない?」続けて付け加えた。「できるだけ人目を避けてお願いします」今回の国際レースで、高い権限を持つのは涼だった。月光レーシングクラブは解散したものの、彼は依然として国際レースの主催者側のオーナーだった。「分かった、すぐに調べさせる」低く渋い声が受話器から響いた。なぜそんな調査が必要なのか、彼は問わなかった。夕月の判断を完全に信頼していた。「お願いします」夕月が電話を切ろうとした時、彼の声が再び聞こえた。「ちょうどいい。面白い映像が見つかったんだ。共有したいことがある」すぐに監視カメラの映像が送られてきた。鹿谷は夕月の隣に寄り、二人で映像を見つめた。整備室で撮影された映像だった。メカニックの一人が、コロナのボンネット内側で何かをいじっている。明らかに人目を避けようとしている様子で、ボンネットの留め具をいじりながら、周囲を警戒するように目を光らせていた。映像は3分前に撮
「私が誰だか分かってるの?」楓は参加者証を作業員たちに突きつけた。よく見るようにと迫るその態度に、作業員たちは参加者証を確認すると、何とも言えない表情を浮かべた。今大会で楓の名前は、確かに話題を呼んでいた。「ええ、存じ上げてますとも。レーシングライセンスすら持っていないアマチュアドライバーの藤宮楓様。初めての国際レース参加とのことで、基本的なマナーをご説明させていただきましょうか」作業員は言葉に力を込める。「他のレーサーの控室に無断で入るのは厳禁です!」周囲を見回してから、「誰の許可で入室したんです?」照明スタッフやカメラマンたちは、思わず楓の顔を見た。「私の部下よ!」楓は威勢よく叫んだ。「レース開始直前にこれだけの人数を連れて来るなんて、Lunaの邪魔をする気でしょう!」作業員は怒りを含んだ声で言い放った。その瞬間、「ガチャン!」という音と共に、棚に置かれていたヘルメットが床に転がり落ちた。照明スタッフの一人が真っ赤な顔で慌ててヘルメットを拾い上げ、元の位置に戻す。夕月の目が、そのスタッフの手にある細い管状の物に釘付けになる。パッと見は撮影用の道具にも見えるが。スタッフは慌てて、その細い管をズボンのポケットに押し込んだ。もし本当に撮影用の道具なら、なぜ急いで隠す必要があったのか。楓のスタッフがヘルメットを落としたことで、作業員の怒りは頂点に達した。「これはLunaのヘルメットですよ!さあ、全員出て行ってください!さもないと警察を呼びますからね!」作業員たちは鳥を追い払うように手を振りながら、楓たちを外へ追い出そうとする。「僕、Lunaを待つんだ!」悠斗が抵抗すると、作業員は彼の腕を掴んで小さな体を持ち上げた。悠斗は必死に足をバタつかせ、作業員の太腿を蹴ろうとする。「僕は橘グループの御曹司だぞ!」悠斗は怒りに任せて叫び、ムチムチした頬を膨らませた。「たとえ橘社長でも、Lunaの控室に無断で入って、試合前の邪魔をする権利はありません!」「離せよ!下ろせ!!」作業員は悠斗を控室の外まで運び出してから、やっと地面に降ろした。暴れる間に帽子とサングラスが床に落ちる。悠斗は不機嫌な顔で、わざとサングラスを踏みつけた。「フン!パパに全員クビにしてもらうからな!」
その言葉が夕月の心を刺すことを、悠斗は分かっていた。その棘で、夕月を傷つけてやりたかったのだ。悠斗は勝ち誇ったような目で夕月を見つめ、彼女が苦痛に歪む表情を見せるのを待った。最も近しい存在だからこそ、最も深い傷を与えることができる。田舎育ちで、レースのことなんて何も分からないような女が、橘家の御曹司のママなんて務まるはずがない!「悠斗くん、もし私が一位を取ったらどうする?」楓は目を細め、冷たい笑みを隠しきれない。悠斗の言葉が明らかに楓の癇に障った。これまで悠斗に尽くしてきた心遣いが、全て無駄になったような気がした。Lunaの名前を聞いた途端、楓を新しいママにすると約束したことなど、すっかり忘れてしまったようだ。雲上牧場の斜面での一件以来、悠斗の目には、楓の強くて何でもできるイメージは完全に崩れ去っていた。強い人が親に尻を叩かれるなんてありえない!自分だって手のひらを十回叩かれただけなのに。楓があんなに泣き叫んで、よだれを垂らしながら謝る姿なんて、見ているのも辛かった。しかも翌朝、楓は気を失ってしまった。蚊に刺されて豚のような顔になり、提灯のように目が腫れ上がった楓が、冬真の部下に斜面から引きずり上げられる姿を見て、悠斗は楓との知り合いだということすら認めたくなくなった。早く、強くて凄いママを見つけなければ。楓の視線を避けながら、悠斗の声は小さくなっていく。「楓兄貴が一位取れたら……考えないこともない……」最後の言葉は、はっきりとしない呟きになっていった。楓の表情が途端に得意げになる。「夕月姉さん、早く出てった方がいいわよ。関係者以外がLunaの控室に入ってたって知れたら、追い出されるわ。みっともないことになるんじゃない?」夕月の視線が楓の太腿に注がれる。「感心するわ。厚顔無恥な人間は、皮も分厚いのね」その言葉に、楓の太腿と尻がズキズキと疼きだす。厚く塗ったファンデーションの下には、蚊に刺された跡がまだ赤く残っている。スモーキーなアイメイクも、まだ腫れぼったい目を隠すためのものだった。先週、夕月の通報で警察に連行され、拘留時間を減らすため、冬真を通じて夕月に連絡を取った。ところが夕月は警察に意地の悪い提案をし、SNSで謝罪動画を投稿して999いいねを集めなけ
「Luna!会えて嬉しい!」悠斗の澄んだ声が響いたが、控室に座る人物を見た途端、その場に凍りついた。更衣室に向かおうとしていた夕月と悠斗の視線が絡む。悠斗の弾けるような表情が一瞬にして固まり、眉を寄せたまま夕月を見つめていた。「なんでここにいるの!?」楓と悠斗の後ろには黒山のような人だかりができていた。カメラマンのレンズが夕月と鹿谷に向けられる。ドア前に群がる人々を見て、鹿谷は思わず身を縮めた。夕月の傍らにそっと寄り添う。「夕月、なぜLunaの控室に!?」楓の声が驚きのあまり裏返った。悠斗は目を丸くして鹿谷を見つめ、「君がLunaなの?」そう言って首を傾げる。ガンメタルのルーズなジャージ姿の鹿谷は、すらりとした体格に凛とした顔立ち、さらにベリーショートの髪型で、誰もが一目で性別を見誤るほどだった。周囲からは、あどけない少年にしか見えない。周囲からは、あどけない少年にしか見えない。鹿谷は夕月の袖をつかみながら、首を振った。「僕はLunaじゃないよ」楓は夕月にぴったりと寄り添う鹿谷を眦を吊り上げながら観察した。どこかで見た顔だと思ったら、七年前のあの「男」だった!夕月が実の姉だと分かってから、楓は何度も尾行し、私立探偵まで雇って調べ上げた。その時、夕月には幼馴染がいて、その「男」は間もなくLunaのコ・ドライバーという大役を掴んだのだ。鹿谷が有名になるや否や、夕月を置き去りにして海外に飛び立った。楓はその事実を内心で喜んでいた。後に冬真から鹿谷を自分の教官として迎えると聞いた時も、夕月のこの身分の低い「幼馴染」に対して、軽蔑と好奇心が入り混じった感情を抱いていた。腕を組んで、夕月と鹿谷の間を意地の悪い視線で行き来させる。「夕月姉さん、酷くない?ここはLunaの控室よ!Lunaのコ・ドライバーと密会なんて、レースの邪魔になるでしょう?」その言葉に、後ろのカメラクルーは名家の醜聞の匂いを嗅ぎ取った。橘家の奥様で、つい先日社長と離婚騒動を起こした夕月が、レーサーの控室でコ・ドライバーと密会。しかも実の息子に見つかるとは!楓の後ろに控える男たちの顔に、冷ややかな笑みが浮かんだ。悠斗は部屋を見回し、Lunaの姿が見当たらないことに気づくと、夕月の存在がますます目障りにな
楓の派手な演出に、通りかかるスタッフたちが首を傾げている。「誰だよあれ?芸能人にも見えないのに、随分大掛かりだな」首を伸ばして楓の顔を確認したスタッフは、がっかりしたような困惑した表情を浮かべた。「スポンサーのコネで潜り込んできたアマチュアレーサーよ。確か藤宮楓って言うんだったかしら」腕を組んだ別のスタッフが嫌味な口調で言った。国際レースのエキシビションとはいえ、開会式に出場できるのは、現役の有名レーサーか、輝かしい実績を持つ引退選手、もしくはモータースポーツ界に多大な貢献をした経営者や重鎮に限られる。そういった実力者たちが集うショーレースに花を添えるのが通例だ。実績も知名度もゼロの楓の名前がエントリーリストに載った時、他のレーサーたちは眉をひそめ「誰だ、この素人は」と囁き合った。真相を知って驚愕する者も多かった。要するに彼女はSNSで少し話題になった程度のインフルエンサーで、しかも5歳児とバイクに乗る危険な動画で注目を集めただけの存在だった。視聴者から非難の声が上がり、通報も相次いだ。だが橘グループ傘下の芸能事務所に所属し、社長の義理の妹という立場を利用して、批判の声はすべて闇に葬られていった。先週、レース界を揺るがす衝撃的なニュースが流れた。橘グループ社長が莫大な資金を投じ、月光レーシングクラブの精鋭エンジニアとメカニックを一斉に引き抜いた。彼らは楓一人のために海を渡ってきたのだ。この前代未聞の采配に、レース界全体が騒然となった。楓はプロのカメラクルーやヘアメイクチームを雇い入れ、自身のイメージ作りに余念がなかった。国際レースの舞台裏を収めたVlogを配信すれば、一気にトレンド入り間違いなしだと確信していた。SNSで大きな反響を呼ぶのは目に見えていた。身の出場に物議を醸していることは重々承知していたが、それも所詮は嫉妬だと考えると、むしろ心地よささえ感じていた。「悠斗お坊ちゃま、こちらを向いて」カメラマンが楓の傍らにいる悠斗に声をかけた。黒と白のストライプ模様のキッズ用レーシングスーツを着た悠斗は、キャップを被り、その上からサングラスを乗せていた。だが、その表情には明らかな苛立ちが浮かんでいる。「楓兄貴、いつLunaに会えるの?」朝、Lunaに会わせてあげると言われ、
投稿を終えた弁護士は、安堵の溜息をつく。「橘社長、楓様の謝罪動画、アップ完了いたしました」更新された投稿を確認すると、最初のいいねは冬真からだった。冬真は楓の投稿画面を夕月に見せる。夕月はスマホのストップウォッチを停止し、何も言われずとも示談書に署名を済ませた。警察に書類を手渡しながら、夕月は冬真に微笑みかける。「早く999いいねが集まるといいわね」冬真が何か言いかけたその時、夕月が続けた。「ヴィンセントたちが楓を引き連れてエキシビションに現れる時、あなたと楓がどれだけ恥をかくか、楽しみですわ」冬真は上から夕月を見下ろし、冷笑を漏らす。「ヴィンセントの名前を知っているとはね」彼は鹿谷に視線を向けた。その目には明確な敵意が宿っている。楓のために月光レーシングクラブのエンジニアチームを高額で引き抜いた件を、きっと鹿谷が夕月に話したのだろう。レースなど素人の夕月が、どうしてそんなことを知っているはずがない。夕月は二人の警官に向かって言った。「申し訳ありませんが、元夫には速やかに退出していただきたいのです。私の生活圏内への立ち入りは、できればご遠慮願いたくて」警官たちも冬真の存在が更なる騒動を引き起こすことを懸念していた。「橘さん、そろそろ」「藤宮さん、示談書の件、ご協力ありがとうございました。これで失礼いたします」夕月は静かに告げた。「示談書を書いたからといって、許したわけではありません。楓が二度謝罪したように見えても、本心から反省しているとは思えない」そして冬真に向かって、微笑みを浮かべながら「レース会場でお会いしましょう〜」その表情には、どこか軽やかな風のような優しさが漂っていた。冬真は一瞬、目を奪われた。まるで、かつて彼のためにサプライズを用意していた頃の、あの表情そのものだった。離婚した今となって、この女は一体どんなサプライズを仕掛けようというのだろう?レース当日:国際レース開会式エキシビションまで残り一時間。すでにスタンドは観客で埋め尽くされていた。普段から楓と付き合いのある御曹司たちが、次々とVIP席に姿を現す。周囲を見回した一人が溜め息交じりに呟いた。「なんか今日、女性客多くないか?」「単なるブームだろ。レースなんて分かりゃしない。金持ちの金使って写真撮って、SN