今の太郎は当然、鈴木家父娘の戯言を信じるはずもなかった。「いらないよ。姉さんが時々小遣いをくれればそれでいいんだ」太郎は笑顔で言った。「それなら問題ないわ」昭子は大きくため息をつき、目をわずかにそらした。どうして自分に、こんな怠け者の弟がいるのか。それも異父兄弟だなんて。車に乗り込んでその場を離れると、彼女はどうやって紗枝に一つお灸を据えるかを考え始めた。彼女はアシスタントに尋ねた。「夏目紗枝ってどんな仕事をしているの?」以前、彼女はアシスタントに紗枝のことを調査させていた。「アイサに小さなスタジオを持っています。かろうじて生活を維持している程度です」アシスタントが答えた。小さなスタジオ?「あのスタジオに少し痛い目を見せてやりなさい。営業できなくなるようにして」今の鈴木家の力をもってすれば、海外のスタジオくらい潰すのは簡単なことだ。しかし、昭子が調べたでもらった情報は、紗枝が外部に公開しているものだけだった。彼女はまだ知らない。かつて自分を国内で大ヒットさせた曲、実は紗枝によって作曲されたものだったことを。たとえ鈴木世隆がどれだけ金持ちでも、紗枝のスタジオを倒産させることは不可能だった。「分かりました」それでも昭子はまだ怒りが収まらない。「人を何人か連れて、私と一緒に桑鈴町に行きなさい」彼女は侮辱を受けたのに、紗枝だけがいつまでも潔白でいられるなんて許せない。拓司が彼女に惹かれるのも、あの表面的な清純さに騙されているだけよ。......一方。桑鈴町、紗枝の家のリビングで。黒木啓司はリビングで背筋を伸ばして座っていた。その正面には紗枝がいて、彼を問い詰めていた。「あなた、たくさんの借金を返さなきゃいけないって言ったけど、借用書はどこにあるの?」啓司は、弟の拓司が余計なことを言ったに違いないとすぐに察した。「牧野が持っている。もし見たいなら、彼に電話して持って来させるよ」「拓司が、あなたが実際には会社の3割の株を持っていて、お金には全く困っていないとも言ってた」紗枝はさらに続けた。紗枝は彼と早く話をはっきりさせたいと思っていた。もしまた嘘をつかれているなら、もう彼との関係を続けたくないという決意を内心で固めていた。啓司はそのことをよく分かっていた。「もし俺が本当にそれ
紗枝は彼の態度が良いのを見て、これ以上追及しなかった。「拓司は他に何を言ってたの?」啓司はつい聞かずにはいられなかった。「当ててみたら」紗枝はわざと彼をからかうように言った。啓司は身を乗り出し、紗枝を抱き寄せ、耳元で静かに囁いた。「彼が何を言おうと、俺を信じてくれ。これから何が起きても、もう二度と君を傷つけない」紗枝は少し疑問に思った。「二度と」というのはどういう意味だろう?「ママ、啓司おじさん」2階から逸之が何か言いたげな目でこちらを見つめていた。彼はちょっと油断した隙に、クズ親父がまたママに手を出しているのを見つけてしまったのだ。紗枝は逸之の声に気づき、慌てて啓司を押しのけた。彼女の頬は真っ赤で、まるで火が燃えているようだった。啓司はまた邪魔が入ったせいで、機嫌が悪くなった。逸之は階段を降りて紗枝の前に立ち、こう言った。「ママ、僕も抱っこして」「いいよ」紗枝は彼を抱き上げた。逸之は啓司に向かって変顔をしたが、残念ながら彼には見えなかった。「啓司おじさん、抱っこしてほしいなら、自分のママにお願いしたら?」その一言に、紗枝も思わず笑ってしまった。啓司は容赦なく言い返した。「ママだけじゃなく、奥さんを抱っこすることだってできるんだぞ」紗枝はそれを聞いて、そっと彼の手をつねった。逸之はクズ親父を何回か噛みついてやりたい気分だった。こんな図々しい父親がママを奪おうとするなんて!「ママ、今夜も一緒に寝たいな。いい?」紗枝が彼を拒むはずがなかった。「いいわよ」啓司は思わず不満げな顔をした。昨夜、紗枝の部屋に行った時、彼女がいなかった理由がこれだったのか。もしこのまま続くなら、自分はずっと紗枝を抱くことができないのでは?「お前、三歳の子供か?ママと一緒に寝るなんて」景之だったら、恥ずかしくて絶対に紗枝と一緒に寝たがらないだろう。でも逸之は違った。彼は紗枝の腕をぎゅっと抱きしめてこう言った。「僕は百歳になってもママの大切な子どもだよ!ママと一緒に寝たい!啓司おじさん、あなたのママはどこ?ママがいないから、僕のママにくっついてるの?」啓司はその言葉に詰まった。紗枝は笑いが止まらず、目が細くなるほどだった。「啓司おじさんは大人だから、もちろんママと一緒に住むわけないよ」
夜、逸之はたくさんのことを考え込んでいた。紗枝が眠りについた後、彼は紗枝の腕を抱きしめながら、ぽつりと呟いた。「ママ、僕はママに幸せでいてほしい。もし彼が本当にママを愛しているなら、僕も彼を受け入れる」「でも、もし彼がまだママを騙しているなら、僕は彼を殺すよ」紗枝は逸之のそんな考えを全く知らなかった。もし知っていたら、早めに彼に諭していただろう。逸之の骨はまた少し痛んでいた。彼はそっと起き上がり、紗枝の額にキスをしてから、再び眠りについた。......もうすぐ年末になる。紗枝は家で仕事を片付けた後、二人の子供たちと出雲おばさんのために、服と靴を選ぼうと思っていた。逸之と出雲おばさんは体が弱いため、長時間の買い物は無理だ。紗枝は彼らの体型を測り、後で買いに行く準備をした。その日、啓司は仕事に行っていなかった。「俺も一緒に行こうか?」「あなたは目が見えないから不便よ。それに、雷七に運転と荷物を頼んでいるから大丈夫」紗枝が答えた。雷七は今、彼女専属のボディーガードであり、ほとんどいつも彼女のそばにいる。啓司は目が見えないが、記憶は戻っており、雷七の顔を覚えている。正直に言えば、なかなか悪くない。彼は少し不機嫌だったが、それを表に出すことはできなかった。「もう出かけるのか?」啓司がさらに尋ねた。「ええ、そうよ」紗枝は少し首をかしげながら彼を見つめて言った。「どうしたの?」「後で牧野に俺の体型データを送らせるよ」啓司は仕方なくそう言った。これはつまり、自分の服も買ってほしいという意味だった。実際、彼が言わなくても、紗枝は彼のサイズを覚えている。二人がまだ結婚していない頃、紗枝はこっそり彼の身長や体型を測り、一緒にたくさんの服を買ったことがある。彼の誕生日でも、それ以外でも、何かにつけて彼のことを気にかけていた。たとえ何年経っても、少し考えれば、彼に関するすべての情報が自然と思い浮かんでくるのだった。しかし、当時どんなに彼を想っても、彼は全く気に留めなかった。紗枝が買った服は捨てられるか、燃やされるかのどちらかだった。紗枝が無言のままでいると、啓司はさらに言葉を重ねた。「俺は目が見えないから、君が服を2着選んでくれないか?」彼は紗枝が断るのを恐れて言った。「もし面倒ならいいよ。古
桑鈴町のショッピングモールに到着した。紗枝が車を降りて買い物に向かうと、雷七が後ろについてきたが、突然足を止めた。「誰かがつけてきています」紗枝はそれを聞いて立ち止まり、問いかけた。「啓司のボディーガードたちじゃない?」距離はそれほど遠くないし、紗枝は大勢の人に付きまとわれるのが好きではなかった。普通なら、彼らが来るはずもないのに。「違います。見慣れない顔ぶれです。とりあえず買い物を続けましょう」「分かった」紗枝は雷七をいつも信頼していた。辰夫も言っていたが、普通の人では20人以上でも雷七には敵わない。雷七は文字通り、死地を生き抜いてきた男だった。ショッピングモールの中。紗枝は家族のために服を選んでいた。子供たちと高齢者の服はすぐに選べたが、啓司の服を選ぶとき、少し迷った。以前、啓司が着ていた服はどれも高価でオーダーメイドだった。そして、そのほとんどが黒や白といったモノトーンで、どこか無気力で暗い印象だった。それを思い出し、紗枝はわざと派手な色合いの服を選んだ。値段も手ごろなものを選ぶことにした。「雷七、あなたも服を2着選んだらどう?」店の入り口に立っていた雷七は紗枝の言葉を聞いて一瞬驚いたが、すぐに断った。「必要ありません。ありがとうございます」紗枝は少し考えた。彼女は雷七が以前、実家に戻って婚約者との婚約を解消したことを覚えていた。もしかして、今は彼女がいて、自分が買ってあげると誤解されるのを避けたいのかもしれない。紗枝はすぐに説明した。「誤解しないでね。自分で選んでいいから。これは雇い主としての出費だから、もし彼女が知っても怒らないよ」女性として、紗枝は、彼女持ちや既婚男性に服を買うべきではないと理解していた。雷七の冷たい表情がわずかに揺れた。「彼女はいません」「断ったのは、給料をもらっているのでそれで十分だからです」昔、婚約者との婚約を解消したのは、そもそも親同士が決めた縁談でお互いに感情がなかったこと、そして婚約者が裏切ったことが理由だった。紗枝はさらに気まずくなった。「そう......分かった」紗枝は雷七というボディーガードが本当にしっかりしていると感じた。雇い主からの福利厚生さえも断るなんて、珍しい人だと思った。紗枝は、今月の給与計算の際に、雷七
雷七は情報を得た後、警察に通報して男たちを連行させた。その後、車に乗り込むと紗枝に報告した。「誰かに雇われた連中のようです。戻ったら調べてみます」「分かった」紗枝も、自分を狙っているのが一体誰なのか知りたかった。一方、鈴木昭子はショッピングモールからそれほど遠くない場所に車を停めて待機していた。紗枝が窮地に陥る様子を見ようと待っていた。しかし、電話が鳴り、秘書から報告が入る。「昭子さま、紗枝のそばにかなり腕の立つボディーガードがいて、うちの人間を全員倒して警察に引き渡しました」「1人のボディーガードが?うちの何人を倒したって?」昭子は信じられないという様子だった。「はい......」昭子は怒りでスマホを強く握り締め、言い放った。「本当にあの女は運がいいわね!あんたたち、何の役にも立たない!どんな無能を雇ってるのよ!」秘書は恐ろしくて答えることができなかった。昭子はさらに問い詰めた。「彼女のスタジオを潰せと言った件、どうなってるの?」「ま、まだスタジオの詳しい住所が分かっておりません......」秘書は昭子の怒りを恐れて、うつむいたまま答えた。昭子は怒りに任せて手元のスマホを秘書に投げつけた。「何の役にも立たないじゃないの!」秘書の額には傷がつき、血が滲んでいた。昭子はさらに怒鳴ろうとしたが、ふと通行人が車内を覗き込んでいるのに気付き、すぐに姿勢を正して座り直した。「ちゃんと座って。運転手に車を出させなさい」声のトーンを落としながら言った。「あなたも少し注意しなさいよ。今、私のスマホが滑ってたまたま当たっただけだから。後で戻ったら、医者に包帯をしてもらいなさい」昭子は外では、まるで優雅な白鳥のように振る舞い、少しの施しでも恩着せがましく見せるのが得意だった。「分かりました」秘書は何も言えず、ずっとうつむいたまま頭を上げることができなかった。昭子はこのまま終わらせるつもりはなかった。紗枝が桑鈴桃洲を行き来しているせいで、彼女を狙うのが難しくなっていた。夜になって、昭子はようやく家に戻った。美希がすでに待っていた。「昭子、帰ってきたわね。今日はどこに行ってたの?」「桑鈴町よ。何か用?」昭子はバッグをソファに投げ出し、足を組みながら不機嫌そうに座った。美希は彼女が桑鈴町に
紗枝はもともと出雲おばさんの言うことをよく聞いていたが、今は出雲おばさんが病気ということもあり、さらに彼女の言葉に逆らうことはなかった。紗枝は立ち上がり、啓司を彼の部屋へ連れて行き、服を試着させることにした。紗枝が啓司のために買った服は、ほとんどがカジュアルなデザインで、着替えも簡単なものだった。「服を脱いで」紗枝がそう指示し、新しい服を整理しながら取り出していた。準備が整い、啓司に服を渡そうと振り向いた瞬間、紗枝は驚きで目を見開いた。「ちょ、ちょっと!なんで全部脱いでるの!?」目の前の男は何も身につけておらず、完璧なバランスの体格、鍛えられた筋肉、そして8つに割れた腹筋が堂々と露わになっていた......紗枝は慌てて視線をそらし、顔が火のように熱くなった。彼女は景之と逸之を生んでいるだけで、まだ啓司の子供を身ごもったこともあったが、実際に関係を持った回数は多くはなかった。今回帰ってきた彼女は、啓司との間にもう一人子どもを作りたいと思い、大人びた振る舞いをしていた。しかし、いざそういう場面になると、いつも主導権を握るのは啓司だった。啓司の整った顔立ちは平然としており、自分の体に誇りを持っている様子だった。「中の服もあるだろ?」紗枝は下を向いて彼を直視できず、震える声で言った。「下着は買ってないから、早く履いてよ!」啓司は言われるがまま、こう答えた。「さっき急いで脱いだから、どこに置いたか忘れた。探してくれないか?」紗枝は彼がわざとだと感じた。早く終わらせたくて、紗枝は衣類が置いてある場所を探しに行った。しかし、まだ見つける前に、後ろから啓司が近づいてきた。紗枝の体は思わず硬直した。その瞬間、啓司の全身の血液が沸騰するかのように熱くなった。紗枝は彼のあそこが自分に触れたのを感じ、さらに顔が赤くなった。「何してるの!?」啓司はすぐに一歩後ろに下がり、言い訳するように言った。「君が探すのが大変そうだから、自分で探そうとしただけだ。わざとじゃない」彼が話すとき、その喉は火がついたように熱くなり、耳まで赤くなっていた。紗枝は急いで服を探し、ついに見つけて彼に渡した。「早く履いて!」啓司はそれを受け取り、下着を履いた。紗枝は、この状況で彼に服を着せるのは、なんだか少し気まずいと感じた。
啓司は彼女をもっと強く抱きしめたくてたまらなかった。紗枝はどうしても彼の腕を振り払えず、全身が熱くなり、少し焦り始めた。「啓司、放して!」啓司は喉が詰まるように息が詰まり、腕を緩める素振りも見せなかった。「今夜、一緒に寝よう」熱い吐息が紗枝の耳元にかかり、彼女の耳は真っ赤に染まった。啓司は彼女を軽々と抱き上げ、そのままベッドにそっと降ろした。「やめて......」紗枝がそう言いかけたとき、ドアの外から逸之の慌てた叫び声が聞こえてきた。「ママ、ママ......!」啓司は眉をわずかにしかめた。紗枝は起き上がろうとしたが、啓司がまるで山のように動かず、どうにもならなかった。「啓司、早くどいて!」紗枝は声を落として言った。啓司は彼女の言葉を無視し、ドアの方を振り返りながら低い声で言った。「紗枝ちゃんなら、もう寝た。明日また来い」逸之はドアの前で立ち尽くし、しばらくするとさらに激しくノックし始めた。「この悪い人!早くママを返せ!ママ、ママ......!」彼はどうしてもクズ親父にママを奪われるわけにはいかなかった。紗枝は逸之の泣き声を聞き、嘘泣きか本気の泣きか分からず焦り、思わず啓司の肩に噛みついた。啓司は痛みで息を呑んだが、それでも腕を解かず、むしろさらに強く抱きしめた。「大人しくして。今夜だけ付き合ってくれれば、これからは何でも君の言うことを聞く」紗枝は抵抗し、さらに噛む力を強めた。啓司は低く呻き声を漏らした。外では逸之がさらに叫び続けていた。「この悪人!ママを返さないなら、警察を呼ぶぞ!」紗枝は血の味を感じ、噛むのをやめて一息つきながら再び言った。「啓司、もしこれ以上続けるなら、私はもう二度とあなたを相手にしない」以前の啓司なら、こんな脅しには動じなかっただろう。しかし、紗枝が4、5年もいなくなった時のことを思い出し、彼は恐れて腕を解いた。紗枝は彼の腕から慌てて抜け出し、ドアを開けて外に出た。逸之はママを見つけると、目が赤くなった。「ママ、大丈夫だった?」「もちろん大丈夫よ。ママはただ啓司おじさんに服を着せていただけ。さっきはちょっと都合が悪かったの」紗枝の顔はまだ真っ赤だった。逸之はほっと息をついた。クズ親父がママをだまそうとしたけど、自分が諦めな
鈴木昭子——紗枝と同母異父の実の姉だった。この答えを知った瞬間、紗枝は少し呆然としてしまった。雷七はさらに続けて言った。「昨日、あいつらを片付けた時に聞いた話ですが、奴らはあなたを拉致して、辱めるつもりだったようです」最後の言葉を雷七は少しぎこちない口調で口にした。紗枝はそれを聞き、拳を固く握りしめた。「分かった」電話を切った後、紗枝は昭子がなぜそこまで自分を恨むのか理解できなかった。彼女を怒らせたといえば、黒木拓司に関することくらいだったが、今では拓司とは何の関係もない。紗枝はアシスタントの遠藤心音に、昭子の電話番号を送るよう頼んだ。以前、二人が協力したことがあったからだ。心音はすぐに番号を送ってきたが、同時に尋ねた。【ボス、彼女とまた何かお仕事をするつもりですか?彼女、この前も曲を購入したいと言っていて、まだお伺いできていませんでした】紗枝はメッセージを打って返事をした。【違うの。私用よ】【はい、了解です!】心音は少し考えた後、ふと思い出したように書き込んった。【そういえば、ボス、最近誰かが私たちの対外的に登録している空のスタジオを調べているみたいです】そのスタジオは紗枝が帰国後、表向きの仕事場として登録していたものだった。その話を聞き、紗枝はすぐに桃洲の誰かが自分を調査していると悟った。【気にしなくていいよ。あなたは自分の仕事をしっかりやって】【オッケーです!】心音はもし調査している連中が何かしてきたら、きっちり対応してやるつもりだった。見た目は可愛らしくお淑やかだが、彼女は国際女子柔道のチャンピオンで、普通の男性では太刀打ちできない。紗枝はその空のスタジオを調べられても気にしていなかった。元々、啓司に自分の仕事を知られないようにするためのものだったが、今では啓司が記憶喪失になったため、特に恐れる必要はなかった。心音とのやりとりを終えた後、紗枝は昭子に電話をかけ、直接話をすることにした。昭子はちょうど公演を終え、楽屋でメイクを落としている最中だった。電話が鳴り、彼女は何気なく出た。「私よ、夏目紗枝」昭子の呼吸が一瞬止まった。彼女が紗枝に拉致するを指示したやり方は雑だったため、少し調べればすぐにバレることは分かっていた。「何の用?」昭子の声には若干の後ろめたさが滲
病室には、紗枝が去って間もなく異変が起きた。激痛に耐えかねた美希の容態が急変し、昭子が部屋に入った時には、既に不快な臭気が漂っていた。「昭子……」美希は恥ずかしそうに娘を見つめた。「介護人を呼んでくれない?我慢できなくて……シーツを汚してしまったの」その言葉の意味を理解した昭子の顔に、一瞬、嫌悪の色が浮かんだ。「お母さん、まだそんな年じゃないでしょう。どうして……」「ごめんなさい。病気の後遺症なの。昭子……私のこと、嫌いにならない?」昭子の前での美希は、いつになく卑屈な様子を見せていた。昭子は知っていた。確かに美希は資産の大部分を鈴木家に持ち込んだものの、まだ隠し持っている財産があるはずだ。父にも知らせていない秘密の貯金を。その分も死後は自分のものになるはず――「まさか!実の娘があなたを嫌うわけないじゃない。ただちょっとびっくりしただけ。これからどうしましょう……」昭子は優しく声を掛けた。「すぐに介護人を呼んで、それから医師や看護師にも診てもらいましょう」「ありがとう……」美希は安堵の表情を浮かべた。目の前にいるのは自分の実の娘。きっと自分を嫌うことも、傷つけることもないはず――昭子は急いで部屋を出ると、介護人に電話をかけた。やがて介護人がシーツ交換にやって来た。かつての誇り高い名バレリーナが、こんな姿になるなんて――誰が想像できただろう。医師の治療を受けた美希の容態は、何とか持ち直した。昭子は消毒液の匂いが漂う病室に居たくなかった。適当な言い訳をして、すぐに外へ出た。美希の前で孝行娘を演じなければならないとはいえ、こんな場所に長居する気など毛頭なかった。外に出ると、やっと新鮮な空気が吸える。昭子は太郎に電話をかけた。すぐに電話が繋がると、昭子は姉らしい口調で切り出した。「太郎、お母さんが病気なの。いつ戻ってくる?」拓司の支援で自分の会社を持つまでになった太郎は、その話を一蹴した。「昭子、母さんに伝えてくれ。もうそんな古い手は通用しないって。紗枝姉さんが母さんを告訴しようとしてるからって、病気のふりをしたところで無駄だ」もう鈴木家に頼る必要のない太郎は、昭子の名前を呼び捨てにしていた。「今回は本当よ。子宮頸がんの末期なの」昭子は不快感を隠しながら説明した。がんが見つかってから
美希は一瞬固まった。紗枝の言葉に何か引っかかるものを感じ、思わず聞き返した。「どういう意味?」「お父さんの事故……あなたと関係があるんじゃない?」「何を言い出すの!」美希の目に明らかな動揺が走った。その反応を見た紗枝の心は、さらに冷めていった。紗枝が黙り込むと、美希は自らの罪悪感に追い詰められるように話し始めた。「あの人の遺書に……他に何か書いてあったの?」紗枝は目の前の女性を見つめた。この人は自分の実の母親で、父の最愛の妻だったはずなのに、まるで見知らぬ人のようだった。「どうだと思う?」紗枝は逆に問い返した。美希の表情が一変し、紗枝の手首を掴んだ。「遺書を見せなさい!」紗枝は美希の手を振り払った。「安心して。法廷で公開するわ」実際の遺書には、太郎が役立たずなら紗枝が夏目家の全財産を継ぐことができる、とだけ書かれていた。美希の悪口など一切なかった。でも、紗枝は美希に疑わせ、恐れさせたかった。また激しい腹痛に襲われ、美希の額には冷や汗が浮かんでいた。「このバチ当たり、恩知らず!育てるんじゃなかったわ!」紗枝は美希の様子を見て、確信した。本当に重病を患っているのだと。因果応報というものかもしれない。紗枝が部屋を出ようとすると、美希が引き止めた。「なぜ私が昭子を可愛がって、あなたを嫌うのか、知りたくない?」紗枝の足が止まる。「昭子はあなたより優秀で、思慮深くて、私に似てる。でもあなたは……吐き気がするほど嫌!」その言葉だけでは飽き足らず、美希は更に罵倒を続けた。「このろくでなし!あなたの父が『残せ』と言わなければ、とっくに捨てていたわ。人間のクズね。実の母親を訴えるなんて。その母親が病気になったら、嘲りに来るなんて。覚えておきなさい。あなたには絶対に、永遠に昭子には及ばないわ」「呪ってやる。一生不幸になれ!」紗枝は背後からの罵声を無視し、廊下へと出た。そこで向かいから来た昭子とばったり出くわした。「妹よ」昭子は紗枝の顔の傷跡に視線を這わせながら、内心で愉悦を感じていた。こんな醜い顔になって、拓司はまだあなたを望むかしら?紗枝は冷ややかな目で昭子を見据えた。「義姉さんと呼んでください。私と美希さんは、もう母娘の関係は終わっています」それに、昭子のような冷酷な女の妹にな
牡丹別荘で、切れた通話画面を見つめながら、紗枝は最後に美希と会った時のことを思い出していた。顔面蒼白で、腹を押さえ、全身を震わせていた美希の姿が。あの様子は、演技とは思えなかった。しかも、二度も癌を言い訳にするなんて、逆に不自然すぎる。そう考えを巡らせた末、紗枝は病院へ様子を見に行くことを決めた。市立病院で、紗枝が病室へ向かう途中、思いがけず澤村和彦と鉢合わせた。紗枝の姿を認めた和彦は、彼女がマスクを着用していても、右頬から口元にかけて伸びる傷跡がはっきりと確認できることに気付いた。「お義姉さん」以前、幼稚園で景之を助けてくれた一件があり、紗枝は昔ほど冷たい態度ではなかったものの、親しげでもなかった。「ええ」そっけない返事を残し、紗枝は急ぎ足で上階の病室へと向かった。和彦は不審に思い、傍らの秘書に尋ねた。「病気か?」秘書はすぐにタブレットで確認したが、首を振った。「いいえ」そして見覚えのある名前を見つけ、報告した。「夏目さんのお母様が入院されているようです」「夏目美希が?」「はい」「どういう容態だ?」秘書はカルテを開き、声を潜めて答えた。「子宮頸がん末期です」和彦の目に驚きの色が浮かんだ。末期となれば治療の余地はほとんどない。生存期間は長くて一年か二年というところだ。「偽装の可能性は?」和彦は美希の収監が迫っていることを知っていた。「当院の専門医による診断です。通常、偽装は考えにくいかと」秘書は答えた。和彦は金の力の大きさを痛感していた。「念入りに調査しろ。この件に関してはミスは許されん」「承知いたしました」......病室の前に到着した紗枝は、軽くノックをした。美希は昭子が戻ってきたのだと思い、満面の笑みを浮かべた。「何よ、ノックなんてして。早く入っていらっしゃい」しかし扉が開き、紗枝の姿を目にした途端、その笑顔は凍りついた。「なぜ、あなたが……」紗枝は、この急激な態度の変化を予想していたかのように、平然としていた。「昭子に電話をさせたということは、私に来てほしかったんでしょう?」美希は冷笑を浮かべた。「不孝者に会いたいなんて誰が思うもんですか。これで満足でしょう?本当に癌になって、余命は長くて二年よ」いつもプライドが高く、美しさ
そこへ追い打ちをかけるように、紗枝から新しい通達が出た。園児の送迎時の駐車場の使用方法から、その他の諸々の規則まで、全面的な見直しを行うという内容だった。「明らかに私への報復じゃない!」夢美は歯ぎしりしながら、紗枝にメッセージを送った。「明一は黒木家の長孫よ。私のことはいいけど、明一に何かしたら、黒木家が黙ってないわよ」紗枝は苦笑しながら返信した。「あなたが私の子供をいじめていた時は、彼も黒木家の人間だって考えなかったでしょう?」夢美は不安に駆られた。このまま他のクラスメートが明一を避けるようになったらどうしよう……「紗枝さん、あなたは明一の叔母なのよ。あまりみっともないことはしないで」紗枝は夢美の身勝手な言い分を見て、もう返信する気にもなれなかった。人をいじめる時は平気で、自分が不利になると途端に「みっともない」だなんて。紗枝は前から言っていた。誰であれ、自分の子供に手を出せば、必ず百倍にして返すと。それに、子供が間違ったことをしたなら、叱らなければならない。明一の親でもない自分が、なぜ彼の我儘を許さなければならないのか。紗枝は早速、最近自分に取り入ろうとしていたママたちにメッセージを送った。要するに、以前景ちゃんに対してしたことと同じように、明一くんにも接するようにと。ママたちは今、夢美に対して激しい憤りを感じていた。多額の損失を出し、夫の実家でも顔が上げられなくなったのは、全て彼女のせいだと。明一は景之ほど精神的に強くなかった。幼稚園で遊び時間になっても、誰も相手にしてくれず、半日も経たないうちに心が折れてしまった。この時になって、やっと景之をいじめたことが間違いだったと身をもって知ることになった。帰宅後、夢美は息子を諭した。「今は勉強が一番大事なの。成績が良くなれば、お爺様ももっと可愛がってくれるわ。そうすれば欲しいものだって何でも手に入るのよ」「遊び相手がいないくらい、大したことじゃないでしょう?」明一は反論できなかった。でも、自分は絶対に景之には及ばないことを知っていた。だって景之は桃洲市の算数オリンピックのチャンピオンなのに、自分は問題の意味さえ分からないのだから。夢美には言えず、ただ黙って頷くしかなかった。幼稚園での戦いがこうして決着すると、紗枝は夏目美希との裁判
「それで、どう返事したの?」紗枝が尋ねた。「『お義姉さん、私に紗枝さんと付き合うなって言ったの、あなたでしょう?もう私、紗枝ちゃんをブロックしちゃったから連絡取れないんです』って答えたわ」唯は得意げに話した。「うん、上手な対応ね」紗枝は頷いた。「でしょう?私だってバカじゃないもの。投資で損した金額を他人に頼んで取り戻せるなんて、甘すぎる考えよね」「いい勉強になったでしょうね」唯は親戚たちの本質を見抜いていた。結局、自分のことなど何とも思っていないのだ。それならば、なぜ自分が彼女たちのことを考える必要があるだろうか。「そうそう、紗枝ちゃん。澤村お爺さまが話したいことがあるって」「じゃあ、かわって」紗枝は即座に応じた。電話を受け取った澤村お爺さんは、無駄話抜きで本題に入った。「紗枝や、保護者会の会長に立候補したそうだな?」紗枝と夢美の保護者会会長争いは幼稚園のママたちの間で大きな話題となっており、澤村お爺さんも老人仲間との話の中で耳にしたのだった。景之のことだけに、特に気にかかったようだ。「はい……でも選ばれませんでした」紗枝は少し気まずそうに答えた。「なぜ私に相談してくれなかったんだ?」老人の声は慈愛に満ちていた。「会長の席など、私が一言いえば済む話だ。任せておきなさい」「お爺さま、そんな……」紗枝は慌てて断ろうとした。澤村お爺さんが景之を可愛がっているがゆえの申し出だということは分かっていた。「遠慮することはないよ。私が若かった頃は、お前の祖父とも親しかったのだからな」澤村お爺さんはそう付け加えた。紗枝には祖父の記憶がほとんどなかった。生まれてすぐに出雲おばさんに預けられ、三歳の時には祖父は他界してしまっていたのだから。「お爺さま、もう保護者会の会長選は終わってしまいましたから……」「なに、もう一度選び直せばいい。お前が選ばれるまでな」澤村お爺さんは断固とした口調で告げ、紗枝の返事も待たずに電話を切ると、すぐさま行動に移った。この件で最も難しいのは、黒木おお爺さんの説得だった。しかし、澤村お爺さんが一本の電話を入れると、間もなく園長から通達が出された。前回の保護者会会長選出に公平性を欠く点があったため、本日午後にオンラインで記名投票による再選挙を行うという。マ
紗枝は足早に出てきたせいで、啓司に体が寄りかかりそうになった。啓司は手を伸ばし、紗枝を支えた。「ありがとう」お礼を言った後、紗枝は尋ねた。「逸ちゃんに会いに来たの?」「ああ」「早く行ってあげて。もうすぐ寝る時間だから」紗枝は声を潜めて言った。その吐息が啓司の喉仏に触れる。啓司の喉仏が微かに動き、声が低く沈んだ。「分かった」しばらくして紗枝が身支度を整え、部屋に戻ろうとした時、逸之が泣き叫ぶ声が聞こえてきた。「ママと一緒に寝たい!」逸之は涙声で訴えた。「幼稚園では我慢して一人で寝てたけど、お家に帰ってきたら、パパとママと一緒がいい!」紗枝は諦めて逸之の横に横たわり、啓司は反対側に寝た。三人で寝ることになった逸之は、両親の手を一本ずつ握り、自分の胸の上で重ねると、「ママ、パパ、手を繋いでよ」とねだった。紗枝は首を傾げた。「どうして手を繋ぐの?」「幼稚園のみんなのパパとママは手を繋いでるの。でも、僕のパパとママは一緒にいても手を繋がないよね。お願い、繋いで?」紗枝は頬を赤らめながら「でも、手を繋がないパパとママだっているわよ……」と言いかけたが、啓司はすでに紗枝の手を掴んでいた。逸之はさらに「パパ、指を絡めてやって!」とせがんだ。指を絡める……啓司は息子の願いを叶えるべく、紗枝の指と自分の指をしっかりと組み合わせた。紗枝は啓司に握られた手を見つめながら、頬が熱くなるのを感じていた。啓司にもう興味はないはずなのに。たぶん、あの整った顔立ちのせいね、と自分に言い聞かせた。夜、紗枝の心は少しざわめいていた。翌朝、目を覚ますと、なんと啓司の腕の中にいた。紗枝がぼんやりと目を開けると、啓司の端正な顔が目に飛び込んできた。少し身動ぎした時、啓司に強く抱きしめられていることに気付き、横を見ると逸之の姿はなかった。「啓司さん」思わず声が出た。啓司は声に反応し、ゆっくりと目を開けた。まるで今気づいたかのように「なぜ俺の腕の中で寝てるんだ?」と尋ねた。紗枝は本気で彼を殴りたくなった。よくもそんな厚かましいことが。「あなたが抱きしめていたんでしょう。夜中にこっそり抱きついてきたんじゃないの?」「むしろ、自分から俺の方に転がり込んできたんじゃないのか」紗枝は彼の厚顔無恥
綾子は夢美の母の前に立ちはだかった。「先日、私が外出している間に、逸ちゃんに明一への土下座を要求したそうですね?」夢美の母は綾子の威圧的な雰囲気に、思わず一歩後ずさりした。「ふん」綾子は冷ややかに笑った。「親戚だからと多少の面子は立ててきたつもり。それを良いことに、私の頭上で踊るおつもり?私の孫に土下座?あなたたち程度の身分で?」「仮に逸ちゃんが明一に何かしたとしても、それがどうだというの?」木村家の面々は、夢美も昂司も、一言も返せなかった。逸之は元々綾子が好きではなかったが、今の様子を見て驚きを隠せない。この祖母は、本当に自分のために声を上げてくれているのだ。綾子は更に続けた。「最近の経営不振で、拓司に融資や仕入れの支援を求めに来たのでしょう?」木村夫婦の目が泳いだ。「はっきり申し上げましょう。それは無理です」「この会社は私の二人の息子が一から築き上げたもの。なぜあなたたちの尻拭いをしなければならないの?息子か婿に頼りなさい」結局、木村夫婦は夕食も取らずに、綾子の痛烈な言葉に追い返される形となった。黒木おお爺さんは綾子に、あまり激しい物言いは控えるようにと軽く諭しただけで、それ以上は何も言わなかった。昂司と夢美も息子を連れて、しょんぼりと屋敷を後にした。夕食の席で、綾子は逸之の好物を次々と運ばせた。「逸之、これからお腹が空いたら、いつでも来なさい。おばあちゃんが手作りで作ってあげるわ」逸之の態度は少し和らいだものの、ほんの僅かだった。「いいです。ママが作ってくれますから」その言葉に、綾子の目に落胆の色が浮かんだ。紗枝も息子が綾子に対して、どことなく反感を持っているのを感じ取っていた。夕食後、綾子は紗枝を呼び止めて二人きりになった。「あなた、子供たちに私と親しくするなと言ってるんじゃないの?」「私は子供たちの祖母よ。それでいいと思ってるの?」紗枝は心当たりがなかった。これまで子供たちに祖母の話題を出したことすらない。「そんなことしていません。信じられないなら、啓司さんに聞いてください」「啓司は今やあなたなしでは生きていけないのよ。きっとあなたの味方をするわ」紗枝は言葉を失ったが、冷静に答えた。「綾子さんが逸ちゃんと景ちゃんを本当に可愛がってくれているのは分かります。ご
黒木おお爺さんは彼らの突然の来訪に少し驚いたものの、軽く頷いて啓司に尋ねた。「啓司、どうして景ちゃんを連れてこなかったんだ?」もう一人の曾孫にも会いたかったのだ。側近たちの報告によると、景之は並外れて賢く、前回の危機的状況でも冷静さを保ち続けた。まるで啓司そのものだという。「景ちゃんは今、澤村家にいる。数日中には戻る」啓司は淡々と答えた。「まだあそこにいるのか。あの澤村の爺め、自分に曾孫がいないからって、私の曾孫にべったりとは」黒木おお爺さんはそう言いながらも、目に明らかな誇らしさを滲ませていた。その時、遠く離れた別の区に住む澤村お爺さんがくしゃみをした。黒木おお爺さんは啓司たちに向かって言った。「座りなさい。これから一緒に食事だ」「はい」一家は応接間に腰を下ろした。この状況では、木村夫婦も金の無心も支援の要請もできなくなった。夢美は焦りを隠せず、昂司の袖を引っ張った。昂司は渋々話を続けた。「お爺様、夢美の両親のことですが……」黒木おお爺さんはようやく思い出したという顔をした。「拓司が来たら、彼に相談しなさい。私はもう年だから、経営には口出ししない」確かに明一を溺愛してはいた。幼い頃から側で育った曾孫だからだ。だが黒木おお爺さんは愚かではない。木村家は所詮よそ者だ。軽々しく援助を約束して、万が一黒木グループに悪影響が出たら取り返しがつかない。木村夫婦の顔が更に強ばる中、逸之が突然口を開いた。「ひいおじいちゃん、お金借りに来たの?」黒木おお爺さんが答える前に、逸之は大きな瞳を木村夫婦に向け、過去の確執など忘れたかのような無邪気な表情で言った。「おじいさん、おばあさん、僕の貯金箱にまだ数千円あるよ。必要だったら、貸してあげるけど」木村夫婦の顔が一瞬にして真っ赤に染まった。たかが数千円など、彼らの求めているものではなかった。夢美の母は意地の悪い口調で言い放った。「うちの明一の玩具一つの方が、その貯金箱より高価よ」啓司が静かに口を開いた。「ということは、お金を借りに来たわけではないと」夢美の母は言葉を詰まらせた。紗枝は、なぜ啓司が自分たちをここへ連れてきたのか、やっと理解した。啓司から連絡を受けていた綾子は、孫が来ると知って早めに屋敷を訪れていた。夢美の母が孫を皮
本家での夕食と聞いて、紗枝は首を傾げた。「急なのね」「食事ついでに、面白い芝居でも見られそうだ」啓司はそれ以上の説明はしなかった。紗枝もそれ以上は詮索せず、逸之の服を着替えさせると、三人で車に乗り込み黒木本家へと向かった。本家の黒木おお爺さんの居間では、おお爺さんが上座に座り、ただならぬ不機嫌な表情を浮かべていた。曾孫の明一が傍にいなければ、とっくに昂司を殴っていただろう。広間には、昂司の義父母が両脇に座り、昂司夫婦が立ったまま叱責を受けている。「お爺様、あのIMという会社が私の足を引っ張ってきたんです。あれさえなければ、とっくに桃洲市の市場の大半を掌握できていたはずです」昂司は相変わらず大言壮語を並べ立てる。黒木おお爺さんは抜け目のない人物だ。数百億円の損失と負債を知るや否や、すぐに調査を命じた。新しい共同購入事業だと?革新的なビジネスモデルと謳っているが、保証も何もない。ただ金を注ぎ込むだけの愚策だった。「啓司が黒木グループを率いていた時も、桃洲市の企業は総出で足を引っ張ろうとした。それでも破産申請なんてしなかっただろう。結局、お前に器量がないということだ」黒木おお爺さんは昂司に容赦ない言葉を浴びせた。昂司は顔を歪めた。啓司がどれほど優秀だったところで、今は目が見えない身だ。盲目の人間に何ができる?誰が目の見えない者に企業グループの運営を任せるというのか?「お爺様、損失を出したのは私だけじゃありません。拓司だって、グループを継いでからは表向き順調に見えても、IMに押され気味なはずです」昂司は道連れを作るつもりで言い放った。十年以上も経営から退いている黒木おお爺さんは、この言葉に眉を寄せた。「拓司は就任してまだ半年も経っていない。これまでの社員たちを纏められているだけでも十分だ。お前とは立場が違う。何年も現場で揉まれてきたんだろう?」昂司は再び言い返す言葉を失った。「今後はグループ内の一部長として働け。分社化などという無駄な真似は二度とするな。恥さらしだ」黒木おお爺さんの言葉は厳しかった。部長とは名ばかりの平社員同然。昂司夫婦がこれで納得するはずもない。夢美は明一に目配せした。明一は黒木おお爺さんの手を握りながら、「ひいおじいちゃん、怒らないで。明一が大きくなったら、き