これまで、紗枝は重要な祝日であろうとなかろうと、祝日には啓司と一緒に黒木家の本家に帰らなければならなかった。クリスマスは特に欠かせない日だった。しかし、今回はどうしても行きたくなかった。「私は忙しいから行けない。もし啓司が行きたいなら、あなたが連れて行って」そう言って、紗枝は電話を切った。一方、電話を切られた綾子は、怒りで顔を歪めた。「本当にますます礼儀知らずになってきた。啓司が記憶喪失じゃなかったら、こんな勝手な振る舞いは許されるはずがないのに!」傍らにいた秘書が小声で尋ねた。「では、啓司さまを迎えに行きますか?」「行きなさい。紗枝が来たがらないなら、啓司だけでも来させる。彼は黒木家の長男なのよ」綾子自身も、啓司を今夜のパーティーに連れて行きたくはなかった。彼は今、目が見えず、記憶も失っているため、恥をかくことになるのではないかと心配していた。しかし、黒木おお爺さんが、啓司に一度会いたいと指定してきたのだ。黒木おお爺さんは長年、会社から退いていたものの、会社には彼の信頼する部下が多く、拓司や綾子ではその影響力に対抗することができなかった。「でも、もし啓司さまがどうしても来たくないと言ったら?」秘書がさらに尋ねた。「そんなもの、縛ってでも連れてきなさい。目の見えない相手一人くらい、どうにかできないの?」綾子は怒りを込めて言いだ。秘書はそれ以上口を閉ざした。......桑鈴町。紗枝は、綾子からの電話で啓司に本家に戻るよう言われたことを伝えた。「ママ、啓司おじさんは孤児なんじゃなかったの?」逸之がすぐに聞いてきた。紗枝は少し言葉を詰まらせ、彼の頭を撫でながら言った。「捨てられたのよ」「じゃあ、今その人が啓司おじさんを迎えに来たってこと?」「まあ、そんなところね」紗枝は啓司の方をちらりと見た。その時、逸之は啓司に向かって言った。「黒木おじさん、だったら早くママのところに戻ればいいじゃない。僕たちのママを取らないでね」彼は一見無邪気そうに言いながら、実際には誰もが言いたいことを代弁するような言葉を口にした。しかし、啓司は全く気にする様子もなく、淡々と答えた。「ママを探すのは子供だけだ」逸之はすぐに口を尖らせ、不満げな表情を浮かべてさらに反論しようとしたが、紗枝が2人の言い合い
今年のクリスマス、黒木家では家族パーティーが開かれ、黒木家の直系親戚以外は誰も招待されなかった。それでも黒木家の屋敷には人でいっぱいだった。黒木家のおお爺さんは最上席に座り、ひ孫の明一に自らみかんの皮を剥いてあげていた。その様子からは、溺愛ぶりが伝わってきた。明一もまた得意げな表情で、周りの人々を見下ろしていた。「おおじいちゃん、あれが欲しい!」明一は中年男性が手に着けているブレスレットを指差して言った。中年男性は黒木おお爺さんの兄弟の息子であり、自分のブレスレットを明一に奪われそうになり、渋々と引き寄せながら答えた。「明一、これは遊び道具じゃないんだよ。もし好きなら、明日新しいものを一箱持ってきてあげよう」このブレスレットは、彼が8年かけて大切にしてきたものだった。4歳の子供に簡単に渡せるものではない。「いやだ、いやだ!それが欲しい!おおじいちゃん......」黒木おお爺さんはその様子を見て、すぐに明一の手を軽く叩いて宥めた。「わかった、わかったよ」その後、黒木おお爺さんが中年男性に視線を送ると、彼はしぶしぶブレスレットを明一に渡した。明一はそれを手に取って少し触れることもなく、直接地面に叩きつけた。ブレスレットが壊れて、あちこちに散らばった。「つまんない。なんだこのガラクタ」中年男性の心も一緒に粉々になったが、大声で抗議することはできなかった。今の黒木家では、明一が唯一の直系の跡継ぎで、黒木さんに一番大事にされている。黒木おお爺さんの血筋は明一一人で、他の孫には娘すらいなかった。そのため、明一はまるで王様のように甘やかされて育った。明一の両親である昂司と夢美は、それを見て得意満面の表情を浮かべていた。その時、冷静で落ち着いた雰囲気の人物が部屋に入ってきた。「おじいさま」おじさんの啓司とまったく同じ顔を見た途端、明一はすぐに大人しく座り直した。「うん、座りなさい」黒木おお爺さんは拓司を見て、良い顔をしなかった。この数ヶ月、彼はその場にいる皆を大いに欺いてきた。拓司が到着すると、他の人々も次々に集まり、黒木おお爺さんはまだ啓司の姿が見えないことに苛立ち、綾子に尋ねた。「啓司はどこだ?」「向かっている途中です」黒木家の人たちは今日、啓司に会いたがっていた。彼のようにあん
侮辱?紗枝は牧野の話を聞き終えると、表情は依然として穏やかだった。「それが私に何の関係があるの?」昔、彼女が黒木家にいた時も、あらゆる侮辱を受けてきた。その時、啓司が彼女を助けることは一度もなかったではないか。牧野は言葉を失い、声を低くして懇願するように言った。「社長があなたを助けたことがあるじゃないですか。それに免じて、助けていただけませんか?」紗枝は国外での出来事を思い出した。あの時、啓司が彼女を助け、「佐藤先生」の問題を処理してくれたことがあったのだ。彼女はしばらく黙ってから答えた。「私が行ったところで、何ができるの?私たちは一人は目が見えず、もう一人は耳が聞こえない。私が彼を助けられると思う?」彼女の言葉は事実だった。黒木家のような名門大族が、彼女のような人間に敬意を払うはずがなかった。「それは......」牧野は躊躇した。紗枝は彼が諦めたと思い、席を立って会計に向かった。すると牧野は再び彼女を引き留めるように言った。「ただ、奥さまがいてくださると、私は安心できるんです」牧野は紗枝が非常に粘り強い女性であることを知っていた。彼女がいれば、少なくとも本家で大きな問題は起こらないだろうと思ったのだ。紗枝がまだ答える前に、傍らにいた逸之が口を開いた。「ママ、啓司おじさんは捨てられて可哀想なんだよ。助けてあげてよ」景之は、弟がどうして急にクズ親父の味方をするのか理解できなかった。「分かったわ。じゃあ、まずは二人を家に送ってからね」紗枝は逸之のお願いを聞いて同意した。牧野はすぐに会計を済ませ、彼らを自分の車に乗せた。二人の子供を家に送り届けた後、紗枝は雷七に頼んで本家へ向かわせた。家では。景之は逸之に問いただした。「どうしてママにクズ親父を助けさせるんだ?もしママが向こうでいじめられたら、どうするんだよ?」「お兄ちゃん、僕も本家に行ってみたいんだ。何か方法ある?」逸之は突然提案した。景之は弟の意図に気づき、すぐに反対した。「ダメだ。あそこは危険すぎる」「虎穴に入らずんば虎子を得ず、だよ。黒木家のことを知らなきゃ、どうやって復讐するのさ?僕たちの全てを取り戻すにはどうする?」逸之は真剣な顔で問いかけた。彼の心の中では、黒木家とクズ親父のせいで、ママが不幸になり、家族がばらばら
黒木家屋敷。綾子は電話を受けてから上機嫌だった。景之が自分から連絡を取ってきた。以前の景之が自分に対してとても疎遠だったことを考えると、驚きだった。しかしこの時、啓司はまだ来ておらず、周りでは小さな囁き声が聞こえ始めた。「啓司、もしかして来ないんじゃない?」「来るって約束してたじゃないか。どうしてまだ来ないんだ?彼はこれまで一度も約束を破ったことがないのに」「噂を聞いたことない?啓司、目が見えなくなったらしいよ。来ても恥をかくだけだってさ」「え?本当?」みんなは、啓司が本当に盲目なのか、それとも装っているだけなのか興味津々だった。本当なら、面白いことになりそうだと思っていた。ついに、啓司が執事に付き添われて入ってきた。全員が入口に視線を向けると、男性が高級そうな服を着て現れた。しかし、元々鋭かった目はもはや輝きを失い、執事に連れられて大広間に入っていった。啓司は到着後も、誰にも声をかけなかった。綾子は前に出て、黒木おお爺さんに向かって言った。「お父さん、啓司は事故の後、医者から十分な静養が必要だと言われています。彼は顔を見せに来ましたし、これで帰らせてもいいんじゃないでしょうか?」黒木おお爺さんは、啓司が本当に目が見えないことを確認すると、もう彼を困らせることはせず、帰らせようとした。その時、横から昂司が口を開いた。「綾子おばさん、啓司がせっかく来たんだから、少しみんなと話をさせてもいいんじゃないですか?」「そうだ、そうだ。俺たちも啓司と話したいよ」他の人たちもそれに賛成した。綾子は不機嫌そうに黒木おお爺さんを見たが、黒木おお爺さんは杖をついて立ち上がり、こう言った。「夕食を済ませた後、先祖を供養しなければならないから、静養は急がなくても大丈夫だ」「綾子、お前は書斎まで来なさい」「はい」綾子はわかっている。これは責任を問うために来たのだと。その場を離れると、彼女がいなくなった途端、他の人たちは遠慮せずに啓司のことを好き勝手に話し始めた。その一方で、拓司は静かにお茶を飲みながら、冷ややかな目でその光景を見守っていた。昂司が啓司の前に歩み寄り、「啓司、お前がこんな目に遭うなんて、思いもしなかったよ!」と言った。啓司は冷たい表情を浮かべたまま答えた。「どちら様だ?」昂司は一瞬動
昂司は、啓司が一人で隅に座っているのを見て、なおも執拗に絡もうとしていた。彼は、かつて啓司が何事にも屈せず、傲慢な態度をとっていた頃を思い出していた。昂司は拓司の方を一瞥したが、拓司が啓司のために動く気配はなく、それを見てますます図に乗り、酒を手に持って近づいた。「啓司、この酒を飲んで俺に謝罪しろ。そうすれば、昔のことは水に流してやる」そう言いながら、昂司は手に持った赤ワインに唾を吐きかけて差し出した。啓司はその言葉を聞いても、顔を上げることはなかった。昂司は彼が自分を無視していることに気づき、怒りを抑えきれず、身をかがめて声を低くして言った。「お前はまだ昔の啓司だと思っているのか?今の俺は、お前なんか虫を潰すくらい簡単だ。忠告しておくが、身の程を知れ」周りの人たちはこちらを見ていたが、誰も助けようとはしなかった。啓司の手はゆっくりと拳を作り、次の瞬間には昂司を殴りかかろうとした。しかし、その時、聞き慣れた声が耳に届いた。「啓司、一人で戻ってくるなんて、私を待ってくれればよかったのに」それは紗枝だった。紗枝が到着すると、啓司が隅に座っていじめられている様子を目にした。彼女は、かつて啓司に助けられたことを思い出し、今、彼が記憶も視力も失い、さらに二人の子供の父親であることを考えると、放っておけなかった。啓司は紗枝の声を聞くと、すぐに拳を開き、立ち上がり、可哀想な様子を装いながら彼女に歩み寄った。「紗枝、来ないかと思っていたよ」紗枝が近づくと、場の視線が二人に集中した。それまでお茶を飲んでいた拓司も目を向け、喉仏がわずかに動き、手に持っていたお茶がまるで温かくなったかのように感じた。紗枝は啓司のそばに来ると自然に彼の腕を取り、昂司のやや歪んだ顔に視線を向けた。「お兄さん、啓司はまだ体調が万全じゃないのでお酒は飲めません。このお酒はあなたが飲んでください」紗枝は昂司が酒に唾を吐いたのを見てしまった。黒木家の人々が盲目の人をいじめる光景を見て、豪邸の真実を思い知らされたのだ。昂司は紗枝が現れたことに驚き、かつての地味な彼女とは全く違う、華やかな姿に目を奪われた。「啓司が飲めないなら、妻のお前が代わりに飲めばいい!」昂司はこの機会に、かつて自分を恥辱した啓司を辱めようと考えた。彼は酒を紗枝
紗枝は知らなかった。啓司はずっと我慢していた。彼は誰よりも自分の立場を理解していた。視力を失った今、自分を狙う者がどれだけいるか、痛いほど分かっている。今はプライドを気にする時ではない。「ありがとう」紗枝が席に座り、彼にもケーキを一つ差し出した。「あなたもどうぞ」二人が一緒にケーキを食べる様子が拓司の目にも映り、その温かな視線が一瞬冷たさを帯びた。秘書の清子が来たとき、最初に目にしたのは隅の方に座る紗枝と啓司だった。二人とも周囲から散々侮辱されているにもかかわらず、まるで気にせず、自分たちの世界に浸っているようだった。清子は紗枝をじっと見つめ、彼女が本当に美しいことに気づいた。彼女の一挙手一投足からは温かみと優雅さがにじみ出ており、特にその瞳は、まるで澄んだ泉のように輝いていた。だからこそ、啓司が彼女と離婚したがらないのも納得できた。一方、書斎では綾子が黒木おお爺さんに厳しく叱られていた。話の内容は、彼女が皆を騙し、拓司に啓司の代役をさせた件に他ならなかった。綾子は言い返すことなく、叱責をただ黙って受けていた。やがて執事が時間を告げると、綾子は部屋を出た。黒木おお爺さんは杖をつきながら部屋を出て、紗枝が来ているのに気づいたが、何も言わずに皆に食事を先に済ませるように言い、その後に先祖供養を行うことにした。綾子はその時、使用人から景之が来ていると聞いた。「寒いから、彼にゆっくり休むように言って、美味しいものを用意してあげて」使用人は頷いた。逸之は家政婦に連れられて部屋へ向かい、周囲の豪華な室内装飾を見渡していた。「綾子おばあさんはどこ?」「今日は綾子さまが忙しいから先にお部屋でゆっくり休んでいてください。忙しいのが終わったら、すぐにお見舞いに行きますから。今晩はここに泊まってくださいね」「ありがとうございます」逸之はおとなしく微笑みながら礼を言った。かわいくてお利口な逸之を見て、すぐに彼に心を奪われた家政婦は、思わず言った。「ほんとうにお世辞がうまいわね」紗枝はまだ、次男がこっそりタクシーでここに来たことを知らなかった。彼は啓司と一緒に食事をした後、先祖供養を済ませてから帰るつもりだった。食事の後、予想に反して黒木おお爺さんは二人を家に留めることにした。「今日は家に泊まっていき
紗枝は言い終わると布団を整え始めた。「夜は私がソファーで寝るわ」啓司は少し眉をひそめた。「君は妊娠しているんだ。ベッドで寝なさい」紗枝は、彼が今でもこんなに紳士的であることに驚きつつ、妊娠中の自分には確かにベッドが楽だと思い、頷いた。お風呂を済ませてから、紗枝は大きなベッドに横たわった。そこにはかすかに清潔な香りが漂っていた。啓司は少し離れたソファーで横になっていたが、その長い脚はどうにも収まりがつかないようだった。紗枝は部屋の明かりを消したが、なかなか眠れなかった。目を閉じるたびに、拓司の穏やかな笑顔が頭に浮かんできた。心の中に多くの疑問があったが、それを聞くべきかどうか迷っていた。どれくらいの時間が経ったのか、紗枝はようやく眠りについた。しかし、外では強風が吹き荒れ、彼女は長く眠ることができず、悪夢にうなされて突然目を覚ました。「啓司!」彼女は無意識のうちに彼の名前を呼んでいた。ほどなくして、大きな手が彼女の手をそっと包み込んだ。「どうした?」啓司がいつの間にかベッドのそばに来ていた。紗枝の心臓は速く鼓動しており、夢の中で自分をいじめる人々の姿が頭の中に次々と浮かんできた。彼女は思わず深く息を吸い込んだ。「大丈夫。ただ悪夢を見ただけ」啓司はそれを聞くと、何も言わずに布団を引き開け、ベッドに入り、紗枝をその腕の中に抱きしめた。紗枝は驚いて拒もうとしたが、彼の低い声が耳に届いた。「怖がるな。俺がそばにいる」彼の言葉を聞いて、紗枝は不思議と安心し、それ以上何も言わず、彼に身を委ねた。しばらくして、彼女は堪えきれずに尋ねた。「啓司、本当に私のことしか覚えていないの?」啓司は胸がざわつき、すぐに頷いた。「そうだ」紗枝は肯定的な答えを聞いて、さらに問いかけた。「本当に私のことが好きなの?」「はい」彼はためらうことなく答えた。記憶を失う前の啓司なら、決して紗枝を愛しているとは認めなかっただろう。紗枝は彼の胸に寄り添いながら、ある思いがますます強くなっていった。それは、このまま全てを受け入れてもいいのではないかということだ。どうせ医者によると、啓司が記憶を取り戻す可能性は低いのだから、このまま続けていけばいいのではないかと。「でも、昔の君は私のことを少しも好きじゃなかった
啓司はそれでようやく動きを止めた。紗枝が再び眠りにつくのを待って、浴室に行き、冷水シャワーを浴びた。一方その頃――逸之は使用人に案内され、使用人に極めて豪華な子供部屋に案内され、綾子は来客を見送った後、急いで部屋に向かった。「景ちゃん、待たせてごめんね。何か食べたいものある?」と、綾子は優しい笑顔で話しかけた。逸之は目の前の美しい、そして年齢を重ねても優雅さを失わない女性を見て、「意地悪な姑だ」と思いつつ、表面上は愛嬌たっぷりに振る舞った。「綾子おばあさん、僕、おばあさんに会いたかった!どうしてもっと早く来てくれなかったの?」そう言って彼は彼女の足に抱きつき、鼻水をこすりつけた。綾子は驚いた。景之がこんなに自分に甘えてくるのは初めてだった。「ごめんなさいね、おばあさんが悪かった。君を一人ここに残すつもりはなかったのよ」「君が来たって聞いて、おばあさん、すぐにでも君のそばに飛んで行きたかったんだから」逸之は少し驚いた。兄がこんなに祖母に気に入られているなんて信じられなかった。「本当?」彼は可哀想な顔をして綾子を見つめた。「もちろん本当よ」と綾子は言った後、こう尋ねた。「でも、どうして急におばあさんのところに来ようと思ったの?お家でママに叱られたの?もしよければ、これからおばあさんと一緒に住まない?おばあさんが君をちゃんと大事にしてあげるわ」逸之は黒木家の事情を知りたかったので、すぐに答えた。「うん、いいよ」綾子は喜びを隠せず、すぐに秘書に指示して、景之のためにもっと大きな部屋を用意するよう命じた。逸之は彼女がこれほど親切にしてくれることに疑問を抱いた。自分が彼女の実の孫であることを知らないはずなのに、なぜこんなに優しいのか?「おばあさん、僕眠くなっちゃった。寝たいな」「いいわ、寝なさい」逸之は彼女の服を引っ張りながら言った。「おばあさん、ここで僕のそばにいてくれる?怖いから」「いいわよ」綾子はもちろん断ることはなかった。啓司を小さくしたようなこの子を見ていると、綾子は何とも言えない愛しさを感じていた。しかし夜、逸之は綾子を全く休ませなかった。時には水を頼み、時にはトイレに連れて行ってほしいとせがむなど、彼女はほとんど眠ることができなかった。こんなに忍耐強い綾子を前に、逸之は
まずは身支度を整えて朝食を済ませてから、資料探しに取り掛かろう——紗枝はそう決めた。階段を降りると、意外なことに啓司が客間に座っていた。今日も会社を休んでいるようだ。「今日も仕事はないの?」紗枝は階段を下りながら声をかけた。「ああ」啓司は会社の大半の業務をすでに整理済みで、特に処理すべき案件はなかった。やっぱり小さな会社だから、仕事が少ないのね——紗枝は内心で思った。こんな状況で私を脅すなんて……適当に朝食を済ませようと厨房に向かうと、テーブルには栄養バランスの整った朝食が並んでいた。シェフと家政婦がいれば、何もかも便利なものだ。最近は食欲も旺盛で、紗枝は二人分の量をぺろりと平らげていた。たっぷり食べ終わり、少し膨らんだお腹を抱えながら立ち上がる。片付けようとした時、啓司が厨房に入ってきた。「休んでいろ。後で家政婦が来るから」「大丈夫よ。少し体を動かしたいの」「運動がしたいなら、散歩がてら病院にでも行けばいい」「病院?どうして?」紗枝は反射的に不安げな声を上げた。「妊婦健診に決まってるだろう。他に何があると?」啓司は最近の紗枝の食事量の増加が気になっていた。牧野の報告では、お腹も目に見えて大きくなってきているという。作曲に没頭するか、幼稚園の雑務に追われるかで、自分の健康管理も疎かになっているようだった。「必要ないわ。先生は月に一度で十分って。まだ検診の時期じゃないもの」紗枝は病院という場所自体に行きたくなかった。「念のためだ」啓司は重ねて言った。昨日まで脅かしていたかと思えば、今日は妊婦健診に付き添うだなんて——紗枝には啓司の態度が理解できなかった。「行かないわ」断固として拒否する紗枝が立ち去ろうとした時、啓司が口を開いた。「夏目グループの過去の資料が欲しいんじゃなかったのか?」紗枝の足が止まった。そうだ、夏目グループを買収する際、啓司は徹底的な調査をしていたはずだ。「持ってるの?」「ああ。それどころか、お前の父親の全財産についても調べ上げている」啓司は平然と答えた。「じゃあ、最初から私たちの財産が目的だったの?」紗枝は目の前の男の恐ろしさを改めて感じていた。啓司は眉をひそめた。「当時はお前との間に感情などなかった。何の後ろ盾もない女を選ぶとでも?」
夢美はメッセージを送り終えるなり、二人のママをブロックした。用済みの駒を切り捨てるのは、彼女の得意とするところだった。だが、保護者会のLINEグループの存在を忘れていた。夜の十時。紗枝のスマートフォンが絶え間なく通知音を鳴らし始めた。この時間に誰から?と思いながら画面を開くと、グループが爆発していた。「みなさん、よく見極めてください。夢美さんの甘い言葉に騙されないで。景之くんのお母さんを追い出せば面倒を見るって約束したのに」聡くんのママが立て続けにメッセージを送っていた。「今になって私たちのことを馬鹿にして、自分で何とかしろだって。」「最初は何かあったら全部引き受けるって言ってたじゃない」成彦くんのママも続いた。「夢美!この薄情者!あなたのせいで夫に捨てられたのよ!」紗枝は流れてくるメッセージを斜め読みした。全て夢美への罵倒で埋め尽くされていた。おそらく夢美は何か用事があって気付いていないのか、まだ二人をグループから追放していなかった。他の保護者たちは傍観を決め込み、誰一人として発言しない。もう失うものがない二人は、まるで魚市場のおかみのように容赦ない罵詈雑言を浴びせ続けた。夢美が気付いた時には、すでに九十九を超える罵倒の言葉が記録されていた。激昂する夢美だが、もはや何も恐れない二人に対して手の打ちようがない。グループから追放することしかできず、すでに投稿された醜い言葉の数々は、もう消すことができなかった。どれほど悔しくても、なかったことにするしかなかった。多田さんは絶好の機会を逃さず、へつらうように大量のスタンプを送信した。「すみません、子供が誤って押してしまったみたいで……」と、すぐに謝罪のメッセージも。実を言えば、多田さんのような世渡り上手な人なら、もっと良い立場にいてもおかしくなかった。ただ、両方の顔色を伺い過ぎるのが玉に瑕だった。紗枝は、今回の一件で多くの保護者が夢美の本性を理解したはずだと確信した。ここが自分の陣営に取り込むべき時機だった。先日、買い物の相談をしてきた保護者たちに個別にメッセージを送る。依頼の件は手配済みだから、近々集まって商品を渡したい、と。彼女たちは配信も見ていて、紗枝が単なる資産家ではなく、幼稚園の筆頭株主でもあることを知っていた。即座に賛同の返信が
啓司は紗枝とこの冷戦を続けたくはなかった。だが、これほど長い間騙され続けていたことが、どうしても納得できなかった。「もしそうだとしたら?怖いか?」紗枝は息を呑んだ。まさかこんな問いかけが返ってくるとは思わなかった。昔の啓司なら、こんな質問の後には必ず何かしでかしていただろう。手のひらに力を込めながら、紗枝は言った。「怖いって言えば、許してくれるの?」啓司は紗枝の腕を更に強く握りしめたまま、黙り込んだ。その沈黙に、紗枝の心臓が早鐘を打った。やがて啓司は紗枝から手を放し、立ち上がった。その高い背丈が、紗枝の前に落ちる光を遮った。紗枝の心拍が少し落ち着いてきた。今の啓司は、ただ自分を威圧しようとしているだけなのだと悟った。目が見えないくせに、相変わらず意地の悪い男だわ。紗枝は目を潤ませながら、啓司が立ち去ろうとするのを見て、咄嗟に椅子を掴んで彼の前に立ちはだかった。「痛っ」椅子が脛に当たり、啓司は眉をひそめた。「紗枝!」「仕返しを始めたのはあなたでしょ。私だって自分を守るわ」紗枝は声を強めた。「これは始まりに過ぎないわよ。もし私に何かしようとしたら、もう昔みたいに大人しくしてるつもりはないから」覚悟の滲んだ声音に、啓司は苦笑を噛み殺した。本当に何かするつもりなら、とうに実行していただろう。その日一日中、紗枝は啓司が何か仕掛けてくるのではないかと落ち着かなかった。確かに彼は目が見えない。でも先日、何の前触れもなくブラックカードを取り出したことを思えば、まだまだ隠し事があるはずだった。夜、逸之が帰宅すると、紗枝は息子を部屋に呼び出した。「ねぇ、パパの会社に行ったことあるでしょう?」逸之は首を傾げた。どうしてママが突然パパの会社のことを?もしかして、お金と権力のあるパパに、自分と兄さんを取られるのを心配してるのかな?「うん、行ったよ。どうしたの、ママ?」「パパの会社って、大きいの?」逸之はママの不安を察したのか、すぐに首を振った。「全然大きくないよ!たった一つのフロアだけで、うちよりずっと小さいの」小さな口をぺちゃくちゃと動かしながら続けた。「パパ、自分の部屋もないんだよ。みんなと一緒の部屋で働いてるの」紗枝は思わず目を丸くした。まさか啓司がそんなに困窮していたとは。今日の威
「じゃあ、聞いてみようか?」紗枝は冗談めかして言った。「ええ!もし雷七さんが一緒に配信してくれたら最高なのに!アカウント名も『景ちゃんの美人おばさま』に変えようと思ってるの」以前は身元を隠すために『景ちゃんママ』というアカウント名にしていたけど、もうその必要もない。景之のママである紗枝の素顔が明かされた今、次は自分の番だと唯は考えていた。景之も賛成していた。どうせこのアカウントは暇を持て余している唯おばさんのためのものなのだから。「雷七は絶対に断るわよ」紗枝は尋ねるまでもなく分かっていた。「そっか……」唯は少し肩を落とした。「ねぇ紗枝ちゃん、私たちが勝手にアカウント作っちゃって、怒ってない?」「もちろん怒ってないわ。でも、インフルエンサーとして活動するなら、安全面には気を付けてね。個人情報の開示は控えめにした方がいいわ」紗枝は子供たちや友人の成長の邪魔をしたくなかった。やりたいことがあるなら、むしろ応援したいと思っていた。「分かってるわ、安心して」唯は力強く頷いた。電話を切った後、紗枝は逸之の様子が気になり始めた。啓司が部屋に入って来た時、「逸ちゃんの幼稚園には保護者のLINEグループとかないの?」と尋ねた。「牧野に確認させよう」「ええ、お願い」啓司が電話をかけると、間もなく紗枝はグループに招待された。このクラスには、まだ正式な保護者会のグループは作られていないようだった。先生から逸之の幼稚園での様子を写真付きで報告してもらえることになり、紗枝は息子が予想以上に人気者になっていることを知った。「逸ちゃんのお母さん、ご心配なさらないでください。逸ちゃんは来た初日から、クラスの女の子たち全員と仲良くなってしまいましたよ」女の子たち、か……「男の子たちとは?」紗枝は少し心配になって尋ねた。「男の子たちも逸ちゃんのことが大好きですよ」紗枝は一安心したものの、監視カメラの映像をもう少し見てみると、先生の言う「男の子たちに好かれている」という意味が分かってきた。ある男の子が逸之と話をしている時の頬を染めた表情を見て、紗枝は妙な感覚に襲われた。突然、背後から啓司が顔を寄せてきた。「どうだ?」耳元に感じる熱い吐息に、紗枝はくすぐったさを覚えた。「先生は上手くやれてるって。監視カメ
視聴者数は億を超え、投げ銭だけでも16億円を突破していた。商品紹介も何もない、ただの配信で16億円……景之は視聴者たちにお別れの言葉を打ち込んでから、配信を終了した。自分もニュースに映り、景之の配信画面にも写っていたことを、和彦はまだ知らなかった。スマートウォッチを触っている景之の肩を軽く叩き、「電子機器の見すぎは目に良くないぞ」と諭した。「はい」素直に従う景之の態度に、和彦は首を傾げた。いつもの生意気な小悪魔が、今日に限って随分と大人しい。澤村家に着いて、唯に「景ちゃん、大丈夫だった?」と声をかけられるまで、和彦にはその理由が分からなかった。景之は首を横に振った。「どうして事件のことを知っていたんだ?」和彦が尋ねた。「トレンド入りした生配信に映ってたわよ。和彦さんも話題になってるのに、知らなかったの?」唯は言いながら、スマートフォンを差し出した。画面を見た和彦は、やっと景之が急に素直になった理由を理解した。「この小僧め……」叱ろうと振り向いた時には、すでに景之は自室に逃げ込み、内側から鍵をかけていた。「まあまあ」唯は和彦が事情を知らなかったことに気づき、宥めるように「あの親たちの本性を暴くためだったんだから。大目に見てあげなさいよ」「ほら」和彦は唯にバッグを手渡した。紗枝からの贈り物とすぐ分かった唯は、途端に満面の笑みを浮かべた。「んー、可愛い!」バッグにキスをする唯。「たかがバッグ一つで、そんなに喜ぶことか」和彦は呆れた表情を浮かべた。「あなたには分からないのよ」唯は軽く睨みつけると、自室へと消えていった。リビングに一人取り残された和彦は、暇を持て余して病院へ向かった。......一方、牡丹別荘への帰り道。「景ちゃんのことがあったのに、なぜ俺に連絡しなかった?」啓司が尋ねた。「私だって駆けつけるまで何も知らなかったのよ」紗枝は答えた。啓司はそれ以上追及しなかった。別荘に到着すると、紗枝が先に降りた後、車の中で部下に電話をかけた。「処理は済んだか?」「社長、実は景之様と奥様への一件が全て生配信されていまして……お坊ちゃまを侮辱した田中大輝夫婦ですが、田中大輝は既にグループの座を追われ、成彦くんの母親の方は、パトロンに見捨てられたそうです」部下が報告した。
聡くんの両親と成彦くんママは、ついに頭を下げ、景之に向かって「申し訳ありませんでした」と謝罪した。紗枝は目の前の光景に、深い悲しみを覚えた。もし自分に経済力がなく、和彦が現れていなければ、この人たちは謝罪などしただろうか。いや、きっとしない。むしろ金の力を笠に着て、さらなる嫌がらせを続けていたに違いない。調べるまでもない。この連中が今まで数々の悪事を重ねてきたことは明らかだった。今回の謝罪で済ませてやるだけでも、甘すぎるくらいだ。ただ、子供たちの前という場を考慮して、紗枝はこれ以上の要求はしなかった。この一件は、これで決着となった。田中大輝と妻は安堵の息をついた。もし和彦が本気で責任を追及すれば、とても太刀打ちできないことは分かっていた。傍らの成彦くんママも、冷や汗を流していた。だが、彼らの安堵は束の間だった。職員室を出た直後、田中大輝の携帯が鳴った。秘書からの着信だった。「何だよ、しつこく電話してくんじゃねえよ。首にして、二度と桃洲市で仕事なんか見つからないようにしてやるぞ」田中大輝は苛立ちながら怒鳴った。「社長……先ほど、お子様の幼稚園にいらっしゃいましたよね」秘書は恐る恐る切り出した。「なんでそれを?」田中大輝は不審げに問い返す。「あの……お子さんへの暴言や、母子への暴力の様子が生配信されてしまって……株価が……ストップ安です」田中大輝の頭の中が真っ白になる中、秘書は続けた。「取締役の皆様が緊急会議を招集されています。早急にご出社を……社長解任の動議が提出されるそうです」その瞬間、田中大輝は全身から血の気が引いていくのを感じた。一方、成彦くんママも同様に、愛人であることを誇らしげに語る様子が配信で拡散されていた。その映像は成彦くんのパパの目にも届いていた。彼女の携帯が鳴る。「速人さん、今日ね、実は……」甘えた声を出そうとした瞬間、電話の向こうの冷たい声に遮られた。「迎えを寄越す。今後は子供を妻が育てる。もう俺に連絡するな」整った顔立ちが一瞬にして歪んだ。「どうして?私が何をしたっていうの?」「ニュースを見ろ」スマートフォンでニュースを開くと、景之への罵倒や、「うちの子は他の子供の99%より上」と傲慢な発言をした自分の姿が……でも、これくらい。以前、正妻と争った時の方が、
そこに現れたのは澤村和彦だった。背後には十数人の黒服のボディーガードが厳めしい表情で控えている。景之からの連絡を受け、すぐさま駆けつけた和彦は、職員室の外で状況を窺っていた。どうやら権力を笠に着ていばり散らしている連中らしいと気づいた。澤村和彦——その名は上流階級に限らず、一般市民の間でもよく知られていた。国内最大手の製薬会社の跡取りでありながら、破天荒な遊び人として有名な男。その影響力は絶大で、誰一人として敵に回したがらない存在だった。彼の登場により、配信の視聴者数は瞬く間に三千万から一億へと跳ね上がった。システムが視聴者数を捌ききれないほどの人気っぷりに、配信は崩壊寸前だった。聡くんの父、田中大輝の顔から血の気が引いた。ここで和彦と鉢合わせるとは。黒木啓司に次ぐ冷酷な手腕の持ち主として知られる和彦。しかも啓司と違い、利害関係なく、気に入らない相手は容赦なく潰す男だ。「澤、澤村様」高慢な態度は一瞬で消え失せ、田中大輝は頭を下げた。「私めの小さな会社など、澤村グループには足元にも及びません」媚びる態度など無視し、和彦は冷たく言い放った。「俺の義理の息子を退園させるつもりだったのか」その瞬間、外の車中で音声を聞いていた啓司の眉間に深い皺が刻まれた。義理の息子?いつの間に景之を認知したというのだ。啓司は来る途中で和彦と出くわし、この件の処理を任せたのだ。自身の視力の問題もあり、現場での対応は難しいと判断したからだ。傍らで音声を再生していた運転手も、思わず目を見開いた。職員室内は静まり返った。「ぎ、義理の……息子?」田中大輝の膝が震えた。他の三組の保護者たちも、驚きのあまり言葉を失っていた。まさか景之が和彦の義理の息子だったとは。澤村家の一人息子である和彦の存在は絶大だ。将来の澤村グループの全てを継ぐ男に睨まれては、もう生きた心地もしない。最初は夏目紗枝が園の大株主と分かり、次は景之が和彦の義理の息子と判明し——もはや誰も子供の件など蒸し返す気はなく、むしろどうやって紗枝に取り入るかばかりを考えていた。紗枝自身、和彦が自分たちを庇うために現れるとは思ってもみなかった。彼への反感が、ほんの少しだけ……本当にわずかだけ薄れた気がした。「黒木さんの息子は、当然俺の義理の息子だ。何か問題で
聡くんの父は電話を切ると、紗枝を睨みつけた。「謝罪が嫌なら、お前もガキも、さっさと出てけ」学校の株主である彼には、一般の園児を退園させる権限があった。紗枝は驚いた。まだ自分に売却していない株式があったとは。今は園長が来るのを待つだけだ。本当に景之を退園させる勇気があるのか、見物だった。周囲の人々は、この成り行きを面白がっているようだった。ネット上では紗枝への同情の声が相次いだ。『金と権力があるってだけで、人の子供の未来を左右できるの?』『調べたら、某チェーンストアの社長じゃない』『あそこか。もう二度と利用しないわ』自社の株価が急落していることにも気付かない聡くんの父。秘書からの着信も無視し、紗枝親子を追い詰めることだけに執着していた。ついに園長が到着。混乱した状況を目の当たりにして、困惑した様子で尋ねた。「一体何が起きているんですか?」「園長先生、あの子が四人の園児を殴ったんです」先生は曖昧な言い方で説明した。まるで一方的に景之が悪いかのような言い回しに、紗枝は目を細めた。「先生、それは違うでしょう?さっき防犯カメラの映像を皆で確認したはずです。この四人のお子さんが先に景ちゃんに手を出し、景ちゃんは正当防衛だったはずです」先生は明らかに夢美の味方だった。紗枝を横目で睨みながら、心の中で思った。どんなに正論を言おうと、大株主には敵わないでしょう、と。しかし、次の瞬間の園長の態度に、その場にいた全員が度肝を抜かれた。「まあ、夏目理事!お子様が当園に?」園長は紗枝に向かって、にこやかに近づいてきた。昨日の株式取得の際、紗枝は自分の子供が園児であることは一切明かしていなかった。「ええ」紗枝は静かに頷き、景之の方を向いた。「景ちゃん、園長先生よ」「園長先生、こんにちは」「やあやあ」園長は慈愛に満ちた笑顔を浮かべながら、景之を見守った。その様子に、周囲は唖然とした。これはどういうことなのか。「園長!」聡くんの父が我慢できずに割って入った。「呼んだのは景之くんを退園させるためですよ」園長は一瞬戸惑いの表情を見せ、聡くんの父親の方を振り向いた。「田中理事、それはどういうおつもりですか?権力を私物化するというのですか?何の咎もない子供を退園させろとは」「私は理事会のメンバーだ。退園
「あなた!大丈夫?」聡くんママは夫に駆け寄った。「警察を呼びましょう!暴力を振るわれたんですから!」よくもそんな身勝手な言い分が——紗枝は心の中で冷笑した。「聡くんママ」紗枝は冷ややかな視線を向けた。「皆さんの目の前で、あなたの旦那様が先に私たち母子に暴力を仕掛けたんです。私のボディーガードは、ただ私たちを守っただけ」「嘘よ!あなたがボディーガードを使って暴力を……」「ボディーガード」という言葉に、配信視聴者たちは再び沸き立った。「はぁ……」雷七は呆れたように胸ポケットからマイクロカメラを取り出した。「奥様、このカメラが全て記録していますよ。ご安心ください、こちらは故障していません」景之は自分がライブ配信中だということをすっかり忘れていた。視聴者数が急上昇し、投げ銭の嵐が続いていることにも気付いていない。証拠の存在を知った聡くんママは、論点を急いで変えた。「私たちはただ、子供たちのために正義を求めているだけよ」「だから申し上げているでしょう。映像を確認して、皆さんの仰る通りなら、即座に謝罪いたします」「でも先生がカメラは壊れてるって……」成彦くんママが割って入った。「このまま済ませるつもり?うちの子の怪我はどうなるの?」他の母親たちも続いた。「同じ母親として、私たちの気持ちも分かってくださいませ!」紗枝も理解していた。防犯カメラの映像がなければ、誰も納得しない。「映像は?」紗枝は雷七に尋ねた。実は雷七が遅れてきたのは、まさにその映像を確保するためだった。雷七はスマートフォンを取り出し、警備室から複製した映像を開いた。「ま、まさか……どうやって?」先生は信じられない様子で声を震わせた。夢美は既に園の関係者に指示を出し、映像を破棄するよう手配していたはずだった。実は雷七は、映像が破壊される寸前に到着していた。今も数人の警備員が警備室で身動きできない状態で横たわっているはずだ。「誰かが、映像を消そうとしていましたね」雷七は意味深な口調でゆっくりと告げた。その言葉に、先生は一瞬で口を閉ざした。紗枝は先生の態度には目もくれず、雷七に映像の投影を指示した。全員で確認できるように。職員室のスクリーンに、鮮明な映像が映し出される。配信の視聴者を含む全員の目の前で、真実が明らかになった。一