Masuk「課長、先ほど万崎さんがいらっしゃって、着いたら社長室に来るようにとおっしゃっていました」部下が報告する。ちょうど向かおうとしていた紗枝は足を止めたが、部下はさらに付け加えた。「鈴木社長もご一緒だそうです。どうやら課長に文句を言いに来たようですよ」青葉?紗枝は小さく頷いた。「分かりました、ありがとう」まずトイレに立ち寄り、一本電話をかけてから、エレベーターで社長室へ向かった。オフィスの外では、数人の秘書たちが興味津々といった様子で彼女を観察していた。その中から万崎が近づき、低い声で忠告する。「鈴木社長、かなりお怒りですよ。末娘さんの件のようです」まさか万崎がわざわざ声をかけてくれるとは思わず、紗枝は感謝の色を目に浮かべ、軽く会釈して社長室のドアをノックした。「どうぞ」中から拓司の声がした。ドアを開けると、奥の席には拓司が座り、ソファには青葉とその三人の娘が並んでいた。昭惠は気まずそうに視線を逸らし、一度も紗枝を見ようとしなかったが、青葉の目には、娘が紗枝に怯えているように映っていた。「もう十時ですよ、拓司さん。御社の社員の勤務時間はずいぶん自由なんですね」青葉が皮肉を込めて言う。拓司はちらりと紗枝を見て答えた。「紗枝は他の社員とは違う。彼女は毎日三、四時間働けば十分なんです」「なるほどね、やはりコネがある方は違いますね」青葉は冷笑し、バッグから分厚い書類束を取り出すと、拓司の机に投げつけた。「でもね、ビジネスはビジネスです。私たち鈴木グループは甘くありません」そして振り返り、指先を紗枝に突きつける。「拓司、あなたは私たちを軽んじているの?それとも、誰かとの特別な関係のせいかしら。彼女のような取るに足らない部署の課長が、どうして私たちとの提携を任されているの?黒木グループに来て、まだ一年も経っていないでしょう?」紗枝は落ち着いた声で応じた。「鈴木社長。まず、この仕事を私に任せるよう指名したのは昭子さんです。そしてもう一つ。あなたは人の能力を勤続年数で判断されるんですか?もしそうなら、何十年もラインで作業している方々のほうが、こうした案件の処理に向いているということになりますね」青葉はその言葉に一瞬言葉を失い、次の瞬間には顔を真っ青にして冷ややかに笑った。「なるほ
琉生には、つい最近、生まれたばかりの娘がいた。目に入れても痛くないほど可愛がっており、啓司はそんな彼にこれ以上の迷惑をかけたくなかった。「分かった」琉生は昔から啓司の言葉に逆らわない男だった。このところは妻の出産に付き添っていたため、啓司や和彦とほとんど連絡を取っていなかった。そのおかげで、拓司の目もこちらには向かなくなっていた。そう言ってから、琉生はまるで宝物を披露するように、娘を啓司の前にそっと差し出した。「見てくださいよ、啓司さん。この子、泡を吹くんですよ」赤ん坊は両手にすっぽり収まるほど小さく、ちいさな口からよだれの泡をぷくぷくと吹き出している。その無垢な仕草に、琉生は頬を緩めた。かつて彼は、啓司のように息子が二人もできたら、しつけが大変だろうと心配していた。しかし幸運にも、可愛らしい娘が生まれてくれた。啓司は少し呆れたように微笑みながらも、調子を合わせた。「ああ、可愛いな」「いやあ、やっぱり娘はいいですね。娘こそが父親にとっての宝物ですよ。啓司さん、将来は息子さんたちをちゃんと教育しないと。あなたと拓司みたいにならないようにね」琉生は満足げに笑い、自分の娘がきっと親思いの子に育つだろうと、信じて疑わなかった。頬にキスしたくてたまらなかったが、医者から「大人の口には細菌がある。新生児の顔にキスするのはよくない」と言われており、彼はぐっと我慢した。啓司はその自慢話を聞き流しながら、やがて口を開いた。「俺にも娘はできる。紗枝の腹には、二人の子がいるんだ」「それがまた息子二人だったらどうします?」「あり得ない」「いやいや、そればかりは分かりませんよ」琉生はいたずらっぽく笑った。啓司の顔が曇る。これ以上、息子が増えるのはもうごめんだった。琉生の第一子が娘だったことを、心の底から羨ましく思った。「俺はもう休む。お前は奥さんのところへ行ってやれ」妻の話が出ると、琉生の表情にわずかな影が差した。「分かった」そう言い残し、娘をベビーシッターに預けると、主寝室へ向かった。広々としたベッドの上には、雪のように白い肌と黒髪を持つ女性が横たわっていた。物音に気づいても、彼女は目を閉じたまま、ただベッドの端に身を寄せる。琉生が布団をめくって隣に入ると、女性が静かに口を開いた。「産後
「サエさん?」青葉は訝しげに首を傾げた。「どのサエさんのことかしら?」黒木グループが、これほど重要な提携の場に、自分の知らない人間をよこすはずがない——そう思うと、胸の奥に小さな疑念が生まれた。「黒木紗枝という人らしいです」昭惠が答える。その名を聞いた瞬間、青葉の表情が一変した。張り詰めたような険しさが走る。「またあの子なの!」昭惠は母の突然の怒りに思わず肩をすくめた。「な、何があったんですか?」「前にもあの子、あなたのお姉さんをいじめてたのよ。それなのに今度はあなたまで標的にするなんて!まるで自分が黒木家の若奥様にでもなったつもりなのかしら!」青葉の声は憤りに震えていた。傍らの昭子は、黙ってその様子を見つめていたが、ここぞとばかりに口を開く。「お母さん、たぶん今日、私が妊婦健診で出社できなかったからだと思うの。紗枝さん、私がいないのを見て、昭惠をただの社員だと思い込んだのかもしれません」「ただの社員なわけないでしょう!昭惠は私の娘よ!あなた、ちゃんと説明しなかったの?」青葉の怒りはさらに燃え上がった。昭子は困ったように眉を寄せながらも、淡々と答えた。「ちゃんと説明しましたよ。あの時、紗枝に紹介したときも、昭惠は私の実の妹だって言いました。でも……今お母さんの話を聞くと、むしろ紗枝は私のことを見下していたんじゃないかって思っちゃいます」「あなたを見下しているんじゃないわ。うちの鈴木家そのものを見下してるのよ!」これまで自分からは関わらないようにしてきた青葉だったが、ここに来て我慢の限界を迎えた。「明日、私も一緒に黒木グループへ行くわ。あの女がどこまでもつけあがるなら、思い知らせてやる!」「はい、お母さん」昭子は静かにうなずいた。その胸の奥で、密やかな笑みが広がる。明日、紗枝がどんな醜態をさらすのか、その瞬間を思うと、ぞくりとするほど愉しかった。一方その頃、紗枝は邸内で啓司の世話をしながら、机の上に積まれた資料に目を通していた。以前、夢美に任せていたプロジェクトとは別に、今日新たにいくつかの案件がまとまり、昂司はそれらすべてをまた夢美に割り当てていた。どれも、紗枝がかつて海外で築いた企業との長年の取引関係を持つ相手だった。電話の向こうで心音が言った。「社長、夢美がもう少しで契約をま
午後の会議で、紗枝は昭惠と初めて顔を合わせた。最初はどこかで見たことがあるような気がしただけで、彼女が美枝子の娘だとは気づかなかった。「紗枝、こちらが昭惠。私の妹よ。これから仕事の話をするときは、この子もそばで聞くことになるから。もし私が会社にいないときは、何かあれば直接昭惠に言ってちょうだい」そう紹介した昭子の声音には、計算された穏やかさがあった。昭子はよく分かっていた。いま昭惠が青葉の心の中で、どれほど大きな存在になっているのかを。もし昭惠が紗枝のせいで何か問題を起こせば、青葉は決して紗枝を許さないだろう。「はい」紗枝は静かに答え、会議を終えた。その後、人を使って昭惠と鈴木家の関係を調べさせ、ようやく彼女が青葉の実の娘――長年離れ離れになっていた娘だと知った。紗枝は思わず息を呑んだ。「課長、先ほど昭惠さんと打ち合わせをしたんですが……正直、何も分かっていないようです」ノックの音とともに入ってきた部下が報告する。「じゃあ、昭子さんは?」「ご自身が妊娠中で大事な時期だから、静養に専念したいそうです。仕事の話は一切しない、と。それに、何かあれば昭惠さんに聞くようにと」部下は少し呆れたように肩をすくめた。こんな大きなプロジェクトを、何も知らない人間に任せるなんて。「……そう。じゃあ、会社の規定通りに進めてちょうだい」「はい」一方そのころ、昭惠のオフィスでは、彼女が山のように積まれた書類を前に頭を抱えていた。「どうしてこんなにやることが多いの……?」副部長になればもっと楽ができると思っていたのに、現実はまるで違っていた。そんな彼女のもとへ、ハイヒールの音を響かせながら夢美が現れた。ドアをノックし、柔らかく微笑む。「昭惠さん」「……どなたですか?」昭惠はきょとんとした表情で尋ねた。「黒木夢美と申します。昭子さんとは義理の姉妹で、友人でもあります。昭子さんが妊娠中でお帰りになったので、あなたのことを心配して、私に手伝うよう言われたんです」「まあ……!助かります!」昭惠の顔がぱっと明るくなる。「この書類、何が何だか全然分からなくて……」昭惠には裏も計算もなく、社会の駆け引きにも慣れていなかった。昭子の知り合いであれば、善意の人に違いない――そう信じて疑わなかった。「焦らな
昭惠はその言葉を聞くと、憧れの色を宿した瞳で言った。「お姉ちゃん、本当にすごいね」昭子はその崇拝の眼差しを心地よく感じながら、穏やかな笑みを浮かべて言った。「あなたも鈴木家のお嬢様なんだから、いずれ鈴木家の一部はあなたのものになるのよ」「そんなの、いらないです」昭惠は慌てて首を振った。「冬馬くんが早く元気になって、私たち親子が安心して暮らせる場所があれば、それで十分なんです」昭子はその素朴な言葉を聞きながら、内心で冷ややかに笑った。いらないなんて、口ではいくらでも言えるわ。でも、本心では誰だって金と地位を欲しがるものよ。でなきゃ、紗枝の身分を平気で奪ったりはしないでしょうに。「さあ、降りましょう」「はい」二人は車を降り、黒木グループの本社ビルの中へと足を踏み入れた。大理石の床が光を反射し、天井のシャンデリアがきらめくその空間に、昭惠は思わず息を呑んだ。まるで別世界のような豪奢さに、胸の奥で淡い憧れが芽生える。お姉ちゃんの婚約者は、こんなに大きな会社の社長なのね。鈴木家もきっと、途方もない資産家に違いないわ。手首に光るブレスレットに指を滑らせながら、昭惠はふと心の中で呟いた。もし私が本当に鈴木家のお嬢様だったなら……「前はどんな仕事をしていたの?」と、昭子が何気なく尋ねた。「ごく普通の、小さな会社の事務員でした」昭惠は少し恥ずかしそうに答えた。「普通の大学を出て、専門もこれといってなくて……だから、そういう仕事しか見つからなかったんです」昭子は青葉が昭惠を自分の傍で働かせ、いずれは家業を継がせようとしていることを思い出し、にこやかに言った。「じゃあ、こうしましょう。これからは私と一緒に仕事をしてちょうだい。給料は――そうね、いくらでも希望を言っていいわ」「ほ、本当ですか?」昭惠は目を丸くした。「もちろんよ。それと、役職は……副部長なんてどうかしら?」昭子の瞳には、打算がちらりと光った。名ばかりの副部長でもいい。青葉には「私が昭惠を厚遇している」と見せられるし、一石二鳥だわ。「副部長、ですか?でも私、働き始めたばかりで、分からないことばかりで……」昭惠は恐縮したように言った。「大丈夫よ。誰だって最初は何も分からないもの。少しずつ覚えていけばいいの」昭子は優しく言葉を添えた。「それ
啓司が彼女に言葉を返すことはなかった。ただ静かに手を伸ばし、紗枝を抱き寄せた。その腕の温もりに、紗枝ははっと息を呑み、そっと囁いた。「……啓司」男はゆっくりと頭を下げ、彼女の顔に頬を寄せて囁く。「ねんねしよう」「ねんね……?」思わず紗枝は吹き出した。その無垢な響きが可笑しくて、愛おしくて――この瞬間を録画しておき、彼が元気を取り戻したら見せてやりたいと心から思った。彼女は布団をかけ直し、啓司の肩を優しくぽんぽんと叩いた。「うん、ねんねしようね」灯りを落とすと、静寂が部屋を包んだ。紗枝はそっと目を閉じ、穏やかな眠りへと沈んでいった。翌朝。まだ空の端がかすかに白み始めた頃、けたたましい着信音が静寂を破った。紗枝は寝ぼけ眼でスマートフォンを手に取り、表示された名前を見て眉をひそめる。美枝子。こんな時間に電話をかけてくるなんて――まさか昭子が、また何か仕掛けたのだろうか。「……美枝子?」電話を取ると、か細い声が震えながら届いた。「紗枝さん……たすけ……て……」「美枝子、どうしたの!?」叫ぶように問い返したその瞬間、向こうの音がぷつりと途切れた。そして、低く荒々しい男の声がかすかに聞こえた。「くそ、このアマ……誰に電話しやがった!」次の瞬間、通話は強制的に切れた。胸の奥が冷たく締めつけられる。紗枝はすぐにベッドを飛び出し、着替えを掴むようにして身支度を整えると、美枝子の家へ車を走らせた。だが、到着してみると、隣人が首を横に振った。「美枝子さん?もう随分前に引っ越しましたよ。今はもうここには……」紗枝はさらに最近の様子を尋ねたが、隣人は「詳しくは知らないんです」と困ったように答えるばかりだった。考える暇はない。紗枝はすぐに雷七へ電話をかけた。「時間がある時でいいから、美枝子に何かあったのか調べて。お願い」それだけ告げて、彼女は会社へと戻った。その日、会社には新しい社員が入っていた。言うまでもなく、それは心音だった。海外の大学を首席で卒業し、複数のプロジェクトを成功に導いた才媛。午前中の面接で即採用が決まると、夢美はさっそく彼女を第一課のチームリーダーに任命した。すぐに心音からメッセージが届く。【社長、やりました。一課の内部に潜り込みました】







