LOGIN「もう、あんなことしないでくれる?」紗枝は顔を真っ赤にし、啓司に背を向けると、素早くベッドを降りてクローゼットへ向かい、着替えを始めた。鏡に映る自分の姿を見た瞬間、首元にいくつも残る赤い痕が目に入る。啓司め……心臓は理由もなく激しく脈打ち、意識しないつもりでも、夢の中で見た光景が鮮明によみがえってきた。啓司は外に腰掛けていたが、その目には、紗枝が相当に怒っているように映っていた。彼の瞳の色は次第に深みを帯び、視線は終始クローゼットの方へと注がれている。やがて紗枝は部屋を出てきて、長い髪を下ろし、首元の痕を巧みに隠した。季節は次第に暖かくなり、重ね着はできない。まして妊娠中の身では、厚着をすればすぐに息苦しくなってしまう。「もう行くわ。逸ちゃんがきっと心配してるに違いないから」紗枝は、どこか冷えた声でそう言った。啓司はその様子を見て、彼女の手を掴み、戸惑いながら尋ねた。「……怒ってるのか?」最近、啓司にはますます紗枝の気持ちが分からなくなっていた。なぜ彼女が怒っているのか理解できない。まして、彼女の心の中で、自分と拓司のどちらがより大切なのかなど、知る由もなかった。紗枝は怒ったふりをして言い放つ。「当然でしょ。夜中に帰るって言ったはずよ。もう、あんなことしないで」そう言うと、彼女は啓司の手を振りほどき、足早に外へ出て行った。なぜか、啓司と一緒に過ごす時間が長くなるほど、胸が詰まるような息苦しさを覚えてしまう。彼女自身も、自分が照れるたびに、朴念仁の啓司に「嫌われている」と誤解させているとは、思いもよらなかった。紗枝が去ったあと、使用人たちは、啓司がまた一人で窓辺に座り、虚ろな表情を浮かべているのを目にした。「啓司様、毎日ベランダでぼんやりなさって……どうなさったのかしら」朝食を運んでも、啓司はほとんど手をつけない。「今度は朝食まで召し上がらないなんて……誰かに腹を立てていらっしゃるのかしら?」その問いに答えられる者は、誰一人いなかった。一方、紗枝が家に戻ると、逸之はすでに朝食を済ませており、顔いっぱいに笑顔を浮かべていた。「ママ、おかえり」一晩帰らなかったのだから、きっと怒っているだろう――そう思っていた紗枝は、逸之が何も問いたださないことに、かえって驚かされた。「
「早く降ろして」紗枝は啓司のたくましい腕をそっと叩いたが、まるで効果がなく、仕方なく指先に力を込めて彼をつねった。「うっ……」啓司は小さく呻き声を上げ、今度は丁寧に彼女をベッドへ横たえた。「もう少しだけ、俺のそばにいてくれないか」啓司もベッドに身を横たえ、紗枝をぎゅっと抱き寄せて囁いた。「目が見えなくなってから、俺は暗闇が本当に怖くてな」暗闇が怖い?紗枝は思わず耳を疑った。啓司が暗闇を怖がるなんて、どう考えても信じがたい。もちろん、啓司は本当は怖がってなどいなかった。ただ、彼女を引き留める他の理由が思いつかなかったのだ。情に厚い紗枝なら、こう言われれば簡単には立ち去らない――彼はそう読んでいた。そして、その読みは見事に当たった。紗枝はもう「帰る」とは言わず、どんなに強い男にも弱い一面はあるものだ、と心の中でそっと納得した。「……じゃあ、そばにいるわ。あなたは早く寝て。眠ったら、私は帰るから」その言葉は、まさに啓司の思うつぼだった。三十分が過ぎても、啓司は眠らなかった。一時間が経っても、目を閉じる気配すらない。一方、紗枝は彼の腕の中で先に眠気に負け、やがて深い眠りに落ちていた。そのとき、彼女のスマートフォンがけたたましく鳴り響いた。啓司は紗枝を起こさぬよう静かにスマートフォンを手に取り、部屋の外へ出た。「ママ、まだ帰ってこないの?」電話口から聞こえたのは、逸之の声だった。啓司はその声に、薄い唇をわずかに開く。「ママは今夜、俺のところに泊まってる。今日は帰らない」低く魅力的な声が伝わり、逸之は一瞬固まったあと、すぐに叫んだ。「バカパパだ!」「ああ、俺だ」「病気じゃなかったの?」逸之は満面の笑みを浮かべている様子だった。啓司はそれには答えず、静かに問いかけた。「秘密を守れるか?」逸之は勢いよく何度も頷いた。「うんうん、分かってるよ。心配しないで、誰にも言わない。お兄ちゃんにも言わないから」「よくできたな。じゃあ、おやすみ。夜更かしするなよ」そう言って、啓司は電話を切った。通話が終わったのを見て、逸之は大喜びした。やっぱりバカパパは大丈夫だったんだ。これで安心して、バカママをパパのそばにいさせてあげられる。ママが一人で、誰にも頼
昭惠はその言葉を聞き、目に見えて焦り始めた。「この子ったら、どうしてそんなに言うことを聞かないの?もう帰るって言ってるでしょう、さあ帰るわよ!」昭惠の額には細かな汗がびっしりと浮かび、長居しすぎて紗枝にすべてを見透かされるのではないかという不安が滲んでいた。結局、冬馬は泣きじゃくりながら、無理やり連れて行かれることになった。紗枝は玄関に立ち、去っていく母子の背中を見送りながら、複雑な感情をその瞳に宿していた。「ママ、どうしたの?」玄関でぼんやりと立ち尽くす紗枝を見て、逸之は昭惠親子が嫌いなのだと思い込み、すぐに言った。「ママ、もしあの人たちが嫌なら、今度から僕、あの子とは遊ばないよ」「ううん、逸ちゃん。明日、冬馬がまた来たら、一緒に遊んであげてね」紗枝は穏やかにそう言った。逸之は首を傾げた。「どうして?」「ママのお手伝いってことで、お願いできる?」紗枝はその場にしゃがみ込み、目線を合わせた。自分が役に立てると聞いて、逸之は迷いなく答えた。「うん。ママの手伝いができるなら、誰とでも遊ぶよ」その無邪気な言葉に、紗枝は思わず吹き出した。「ありがとう。でも、もし遊びたくない時は、無理しなくていいからね」紗枝はやはり、子供自身の意思を何より大切にしたかった。逸之は首を横に振った。「実はね、彼と遊ぶの、すごく楽しいんだ。初めて僕のことを『逸之兄ちゃん』って呼んでくれたんだもん」いつも「弟」でいる立場だった逸之にとって、初めて「お兄ちゃん」になる体験は、胸が弾むほど嬉しいものだった。「そうだったのね。それなら、これからも冬馬と遊んであげて」「うんうん」逸之は何度も力強く頷いた。その夜、夕食を終えた後、紗枝は啓司のもとを訪れ、昼間に起きた出来事を一通り話した。「まさか青葉が、あそこまでの人物だとは思わなかったわ。おじいさんまで、彼女には何も言えないなんて」使用人から聞いた話によれば、青葉が明一を叱りつけた際、黒木お爺さんもまた、彼女と並んで明一を叱責していたという。「鈴木グループの影響力は、帝都では確かに侮れない。それに青葉は大胆で型破りだ。彼女のやり方に翻弄された男も少なくない」啓司は静かにそう語った。「そうなのね……」紗枝の胸に、重たい憂鬱が広がった。これ
紗枝は子供たちに果物を届けようと部屋の前まで来たところで、ちょうど冬馬の言葉を耳にした。その瞬間、胸の奥で何かが静かに繋がった。以前から、昭惠と冬馬にどこか見覚えがあると感じていた。だが、どこで会ったのか思い出せず、その違和感だけが引っかかっていたのだ。そして今、冬馬の言葉を聞いて、ようやく記憶が輪郭を結んだ。そうだ。以前、美希の介護士である美枝子の娘夫婦を助けたことがあった。この子と昭惠は、その美枝子の娘ではなかっただろうか。紗枝は一歩近づいた。「冬馬くんのおばあさんって、美枝子という名前なの?」冬馬は素直に頷いた。「そうだよ。みんな、僕のおばあちゃんのことを美枝子さんって呼んでるよ」その答えを聞いた紗枝は部屋を出て、かつて確認した美希の介護士の資料を思い返した。そこに記されていたフルネームは――田中美枝子(たなか みえこ)。確信した瞬間、紗枝は思わず自分の額を軽く叩いた。どうしてこんなにも記憶力が鈍く、人の顔を覚えられないのだろう。紗枝は、昭惠の素性に長い間気づかずにいた。おそらく、あのとき人を助けたのが夜だったこともあり、昭惠一家の顔をじっくり見る余裕がなかったのだろう。だが、昭惠のほうは、自分を知っているはずだ。それなのに、初めて会ったとき、彼女はまるで初対面であるかのように振る舞った。なぜだろう。どう考えても、昭惠を助けたのは自分だし、美枝子もきっと、彼女に自分の名前を話していたはずだ。紗枝の頭の中は混乱し、その理由がまったく見えてこなかった。しかも、昭惠たちを助けて間もなく、美枝子とは連絡が取れなくなっている。そのとき、紗枝はふと、美枝子が最後にかけてきた電話を思い出した。あの時、確かに――「助けて」と言っていた。あれは、もしかすると文字通り命を助けてほしいという意味だったのではないだろうか。紗枝はすぐに雷七へ電話をかけた。「美枝子……つまり、以前の美希の介護士の行動について、今月の初めから調べてほしいの」当時、紗枝は美枝子の電話の内容をはっきり聞き取れず、具体的な事情までは分からなかった。住居を訪ねたときには、すでに引っ越した後だと聞かされ、それ以上は追わなかったのだ。「承知しました」雷七は理由を問うこともなく、指示を受けるとすぐに調
その言葉に、大人たちは皆、どこか気まずそうな表情を浮かべた。青葉もまた、まさか逸之がこれほど大人びた言葉を口にするとは思っておらず、驚きを隠せずにいた。一方、紗枝はすでに慣れたものだった。何しろ逸之はドラマ好きで、以前は出雲おばさんと、今では梓や心音と一緒に、日常的にドラマを観ているのだ。冬馬は逸之に許してもらえず、堪えきれずに涙をぽろぽろとこぼした。昭惠はその姿を見て、胸が締めつけられるような思いになった。「逸之くん、どうか私たちを許してちょうだい。冬馬くんはさっきから一生懸命説明しようとしていたの。でもまだ小さいから、うまく伝えられなかったのよ」青葉も続けて言った。「そうよ。もし冬馬くんを許してくれるなら、あなたの願いを一つ叶えてあげるわ。何でもいいから、言ってちょうだい」その言葉を聞いた瞬間、逸之の目がきらりと輝いた。「本当?何でもって?」子供の願いなど、叶えられないものはないだろう。青葉はそう思った。「もちろん本当よ。さあ、何が欲しいの?」「おばあさんって、ママのこと、ずっと意地悪ばっかりしてるじゃないか。だから、ママにもごめんね、って言ってほしいんだもん」逸之はそう言った。彼はまだ幼く、母のためにできることは限られている。それでも、この機会があるのなら、逃す理由などなかった。青葉は思いもよらない条件に言葉を失い、思わず紗枝の方を見て、気まずそうな表情を浮かべた。二人の娘と紗枝の間には確執があり、青葉自身もまた紗枝を好んでいない。理由もなく謝罪するなど、簡単なことではなかった。紗枝もまた戸惑っていた。逸之がなぜこんな条件を思いついたのか、理解できなかったのだ。青葉がなかなか口を開かないのを見て、逸之は冷たく鼻を鳴らした。「やっぱり口だけの人だったんだ。大会社の社長だなんて言うけど、うそつきだよ!そんな人の孫と遊ぶなんて、いやだもん!」そう言い放つと、逸之は踵を返し、自分の子供部屋へ戻って遊び始めた。青葉は、生まれて初めて子供に叱責され、苦笑するほかなかった。子供に謝るのは容易い。しかし、紗枝に謝るとなると、話は別だった。冬馬がそっと青葉の手を引いた。「おばあちゃん」その仕草に、青葉の心はたちまち和らいだ。「ごめんなさい、紗枝さん。以前は、あなたに対して十分
甘やかされて育った明一にとって、大人の手で殴られるという経験は、これが生まれて初めてだった。「ひどい!僕を殴ったな!ママ、この人が僕を殴ったんだ!」青葉は構わず、さらに何度か彼を叩いた。夢美はなすすべもなく、その場で見ていることしかできなかった。今はまだ小さな騒ぎで済んでいるが、ここで息子をかばえば、事態が一気に深刻化することを、彼女は痛いほど理解していた。明一は殴られて初めて、この世には自分よりもはるかに恐ろしい存在がいること、そして世界が自分を中心に回っているわけではないことを思い知らされた。両親は決して万能ではないし、彼らにだって逆らえない相手がいるのだ。紗枝が帰宅すると、家政婦から、明一がひどく叱責され、泣き叫んでいたことを聞かされた。しかも、泣きながら冬馬に謝っていたらしい。黒木家のお爺さんも駆けつけたが、明一が鈴木家の孫を殴ったと知っても、特に何も口にしなかったという。紗枝は、どこか複雑な思いにとらわれた。結局のところ、権力と財力は、何よりもものを言うのだ。もし自分が青葉のような強さを持っていたなら、果たして誰が逸之や景之に嫌がらせなどできただろうか。綾子が戻ってきてからも、感心したように語っていた。「この青葉という人、本当に調べた通りの人物ね。明一への容赦のなさといったら……今後は、逸之にも冬馬と揉め事を起こさないよう、くれぐれも言い聞かせておきましょう」綾子までそう言うものだから、紗枝は、青葉がどのようにして今の地位まで上り詰めたのか、ますます興味を覚えた。「ええ、わかったわ」紗枝は静かに頷いた。——医師が冬馬を診察した結果、擦り傷以外に大きな異常は見当たらなかった。昭惠と青葉は、揃って安堵の息をついた。「何事もなくてよかったわ。次に誰かに殴られたりしたら、すぐに私に言うのよ」青葉の言葉に、冬馬は「うん」と小さく頷いた。そして、辺りを見回して尋ねた。「逸之兄ちゃんは?」「多分、もう帰ったわ。どうかしたの?」青葉が心配そうに問いかける。「逸之兄ちゃんと遊びたいんだ。きっと、まだ僕に怒ってるよ」冬馬は唇を尖らせた。それを聞いた青葉は、胸の奥に申し訳なさが込み上げるのを感じた。逸之はまだ幼く、それでも冬馬を助けてくれたというのに、自分は事情も十分に知らな