「啓司さん、いつ出発するの」鈴は抑えきれない胸の高鳴りをそのままに尋ねた。「九時過ぎだ」啓司は短く答えた。彼が紗枝に伝えていたのは九時半だった。その差に鈴はほっと胸をなでおろしたが、表向きは冷静を装い、こう問いかけた。「離婚なんて大事なこと、叔母さんたちに知らせなくていいの?」「離婚してからでいい」もちろん啓司には、黒木家にきちんと知らせるつもりがあった。さもなければ、彼らは事実を知らぬままになってしまう。その言葉を聞いた鈴は、啓司が紗枝ともう二度と共に生きるつもりはないのだと確信した。「そうよね。結婚するもしないも、離婚するもしないも、今はもう啓司兄さんが自分で決められることだもんね」啓司は椅子の背に身を預け、耳元で絶え間なく言葉を重ねる鈴に苛立ちを募らせた。「少し静かにしてくれないか」その一言に、鈴の頬はたちまち赤くなり、居場所を失ったように視線を泳がせた。傍らにいた家政婦は吹き出しそうになり、慌てて口を手で押さえた。啓司が鈴に何の好意も抱いていないことは、誰の目にも明らかだった。ただ、鈴という女があまりに厚かましいだけなのだ。彼女は、女が男を手に入れるのは造作もないことだと信じ込んでいるようだった。やがて九時を迎えた。鈴は待ちわびたように啓司のあとを追い、車へ乗り込んだ。助手席に座っていた牧野は、鈴が当然のように乗り込んでくるのを見て怪訝そうに眉をひそめる。「鈴さん、どうして……」問いかけを最後まで言い切る前に、啓司が遮った。「俺が連れてきた」その一言に、牧野はそれ以上口を閉ざした。いまや彼には、啓司の胸の内がますます理解できなくなっていた。九時二十分を過ぎたころ、一行は役所の入口に到着した。そこにはすでに紗枝の姿があった。「社長、奥様がお見えです」紗枝を見つけた牧野が声をかける。「ああ」啓司は軽く頷き、鈴に言った。「お前が案内しろ」「はい」鈴は急いで車を降り、ドアを開けると、啓司を支えようと手を差し出した。しかし、啓司は触れられることを好まず、その不快感を無理に押し殺した。遠くに紗枝が立っていた。一晩眠ったおかげで頭は冴えていたが、考えれば考えるほど、やはり何かがおかしいと思えた。結婚の終わりには必ず理由や経緯がある
逸之は力強くうなずいた。「うん、わかってるよ」彼は、母が少しでも傷つく姿に耐えられなかった。紗枝はうつむき、逸之の額にそっと口づけると、申し訳なさそうな声で言った。「ごめんね。さっき事情もわからないまま、逸ちゃんにきつく当たっちゃって」逸之は首を横に振り、柔らかな声で答えた。「ママのこと、絶対に怒ったりしないよ」その言葉に、紗枝の唇から自然と笑みがこぼれ、胸の奥が温かさに満たされた。彼女の人生で最も誇れること――それはこの二人の息子を産んだことだった。彼らは彼女が歩みを止めないための原動力であり、何よりも優しく、強い支えだった。逸之を部屋に送り、寝かしつけたあと、紗枝も自室に戻った。彼女は十分な睡眠をとり、簡単に心を乱してはいけなかった。何といってもまだ妊娠中なのだ。啓司が狂ったように振る舞おうとも、自分まで乱されるわけにはいかない。一方その頃。夏目家の旧宅の一室で、梓は牧野に電話をかけた。通話が繋がるなり、いきなり問いかける。「紗枝さん、啓司さんと喧嘩したの?」思いがけない言葉に、牧野は目を見開いた。「どうして急にそんなことを聞くんだ?」「だって今夜、子どもを連れて夏目家に戻ってきたんだよ!普通、女の人が子ども連れて実家に帰るなんて、たいてい夫婦喧嘩したからでしょ」梓は馬鹿ではない。紗枝が心に悩みを抱えていることはとっくに気づいていた。ただ、必要以上に問い詰めるのは避けていただけだった。それを聞いた牧野は、あわてて言った。「紗枝さんは今、妊娠中なんだ。しかも子どもも一緒にいる。時間があればできるだけ彼女のことを見てあげてくれ。絶対に何かあっちゃいけない」つい先ほど、啓司から直々に電話があったばかりだった。紗枝の護衛をさらに増やし、何としても彼女の安全を守れと念を押されたのだ。「私だって紗枝さんの友達だよ。何かあったら絶対だめ!それより私の質問に答えてよ。二人は一体どうして喧嘩になったの?」梓はしつこく食い下がった。牧野は声を低め、真剣な調子で言った。「聞くべきじゃないこともある」啓司は特に念を押していた――この件は他人に漏らすなと。まず紗枝に離婚手続きを済ませてもらい、その後なら、たとえ真実を知られたとしても構わない。その頃には自分は手術を終えているはずだからだ。
つい先日まであれほど仲睦まじかった二人が、ほんの数日で離婚話にまで発展するなんて――鈴の顔には、抑えきれない喜びが浮かんでいた。彼女はずっと前から「啓司が本気で紗枝を愛しているはずがない。いずれ離婚するに違いない」と言い続けてきたが、その予想は見事に的中したのだ。その時、紗枝が逸之を連れて書斎から出てきて、廊下で鈴と鉢合わせた。今の彼女に、なぜ鈴がここにいるのか問いただす余裕などない。ただしっかりと息子の手を握り、牡丹別荘を後にしようとした。鈴はわざと二歩前に進み出て、取り繕うように声をかけた。「お義姉さん、こんな夜更けにどちらへ?」「私のことに口を挟まないで」紗枝の声音は氷のように冷たく、そこには一片の情も宿っていなかった。心の奥では小躍りするほど喜んでいながらも、鈴はなお白々しく諭すように続けた。「夫婦喧嘩なんてどこの家でもあることです。衝動的に家を飛び出すなんて、お子さんにだって良くありませんわ」紗枝は、この女がろくでもない思惑しか抱いていないことを知っていた。無駄な言葉を交わす気もなく、逸之の手を引いて玄関へと向かいながら、同時にスマホを取り出し、雷七に連絡を入れた。自分と逸之を夏目家の旧宅まで迎えに来てもらうためだ。紗枝親子が去った後、鈴の口元にはもう隠しようもない笑みが広がり、唇は大きく吊り上がった。彼女は台所へ行ってお湯を一杯注ぎ、それを手に啓司のもとへ向かおうと二階へ上がった。使用人はその様子を見て、慌てて前に出て制した。「鈴さん、ご主人様にお湯をお持ちするのは私の役目です」使用人たちはすでに鈴の人間性を見抜いていた。彼女は内心で家の者を見下し、日頃から横柄な態度を取っていたからだ。今、奥様とご主人様が揉めている状況では、当然彼らはいつも優しく接してくれる紗枝の味方をする。鈴がこの混乱に乗じて何かしでかさぬよう、目を光らせていたのだ。だが鈴は、使用人を射抜くように睨みつけ、鋭い口調で吐き捨てた。「どきなさい!あなた、何様のつもり?ここもすぐに女主人が変わるって、わかってないの?」その言葉に使用人は顔をしかめ、憤りを隠さなかった。「なんて恥知らずな!ご主人様と奥様はまだ離婚していません。それに三人のお子さんがいらっしゃるのに、妄想もたいがいにしてください!」鈴は平然と笑って
紗枝が牡丹別荘の門をくぐった瞬間、中から騒々しい物音が聞こえてきた。「坊ちゃま、それを投げてはいけません!ご主人が一番大切にしている骨董品で……」カシャーン!使用人の声が言い終わらぬうちに、澄んだ破砕音が空気を切り裂いた。紗枝は慌ててドアを押し開ける。すると使用人が彼女を見つけ、まるで救いを得たかのように駆け寄ってきた。「奥様、お帰りくださって本当に助かりました!坊ちゃまがご主人と口論になってしまい、私たちが何を言っても聞く耳を持たないのです」昼間に逸之を送り出した時には穏やかだったのに、なぜ夜になってこんな騒ぎに?不安を胸に、紗枝は急いで屋内へと歩を進めた。ほどなく鈴も到着し、警備員に紗枝と一緒に戻ったのだと説明すると、彼女も中へ通された。別荘に足を踏み入れた瞬間、リビングもダイニングも荒れ果てているのが目に飛び込み、さらに二階の書斎からは何かを壊す音が響いていた。「坊ちゃま!それはパソコンです!水につけてはいけません!」紗枝は息を切らせながら階段を駆け上がり、書斎のドアを押し開けた。そこには、ノートパソコンを洗面器に押し込もうとする逸之の姿があった。「逸ちゃん!」思わず声を張り上げる。破壊の手を止めた逸之は、はっとして紗枝を見上げ、小さな声で呟いた。「ママ……帰ってきたんだ」慌てて手を拭い、両手を背に回すその仕草は、悪戯を見つかった子供そのものだった。紗枝の目には怒りが宿っていた。体の弱い息子を確かに甘やかしてきたが、ここまでの我儘は決して許したことがない。「いったい何をしているの?」感情を抑えた低い声が響く。叱られる覚悟はあったはずの逸之も、その真剣な眼差しに射抜かれると狼狽え、考えていた言い訳は喉の奥に消えていった。母の目を前にしては、嘘ひとつ口にできない。数歩近づいた紗枝は、なおも厳しい口調で問いただす。「誰が物を壊していいと許したの?」逸之はうつむき、口をつぐんだ。その姿に、紗枝の心はふと揺らぎ、後悔にも似た感情が胸をかすめる。しかし、子を甘やかすわけにはいかない。間違いはきちんと教えなければならないと自らを律し、声を和らげた。「理由を教えて。どうしてこんなことをしたの?」逸之はようやく顔を上げ、赤く滲んだ瞳で叫んだ。「ママ、僕知ってるんだ。あいつ、ママと
牧野にマンションまで送られたあと、逸之は力なく景之に電話をかけた。口を開いた途端、声には悔しさがにじんでいた。「兄ちゃん……あのクソ男、ママと離婚するつもりらしいよ!」その言葉に、景之の顔には信じられないという色が浮かんだ。「今、なんて言った?」逸之は鼻をすすり、涙声で続けた。「昨夜、ママとケンカしてるのを聞いたんだ。その時はまだ信じられなかったけど……今日、あいつの会社に行ったら、離婚協議書を作るよう指示してるのを聞いちゃって……」景之はすぐに険しい表情になり、幼稚園の雑踏から人目のない隅へと移動し、声を潜めた。「詳しく話せ。いったい何があったんだ」逸之はここ数日の啓司の異常な行動、そして昨夜から今日にかけての出来事を一つ残らず語り、最後に悔いをにじませながら言い添えた。「本当に後悔してる。最初から兄ちゃんの言うことを聞いておくべきだったよ。あの男、やっぱり全然いい人じゃなかった!」景之もまた怒りを抑えきれず、低い声で吐き出した。「これからは第六感なんかに頼らず、もっと俺の話を信じろ。俺たちは自分たちだけでやっていくんだ。あいつに期待するな」「うん、わかった」逸之は慌てて頷いた。だが次の瞬間、何かを思いついたように顔を上げた。「兄ちゃん、あいつ今、目が見えないんだよね?仕返ししようよ。兄ちゃんパソコン得意じゃん。あいつの金、全部ハッキングしちゃわない?」しかし景之は首を横に振った。「意味がない」「なんで?」逸之は納得できず問い返す。景之は、自分の技術が啓司には及ばないことを認めたくなく、ただ言い訳を探した。「もし金を奪ったら、なくなった分を取り返そうと、またママにすがりつくかもしれない。まずは離婚が成立するのを待つんだ」その説明に、逸之はしばし考え、やがてうなずいた。「わかった。じゃあ離婚してから考えよう!」そう言って頭を支えながら、さらに提案した。「兄ちゃん、僕ネットであいつの悪行を暴露しようと思うんだ。みんなにクソ男だって知らしめてやる!」「やめろ」景之は即座に遮り、疑う余地もない口調で命じた。「どうして?ただ見てるだけで、あのクソ親父が逃げおおせるのを許すの?」「ネットで暴れれば、現実にも波及する。被害を受けるのはあいつだけじゃない。ママまで巻き込む可能性
「啓司さん、こちらがご指示どおりに作成した離婚協議書です」オフィスで花城が書類を差し出した。啓司はそれを直接手に取ることなく、協議内容を読み上げるよう命じた。花城は一語一句を区切るように声に出し始めた。その扉の外で、逸之は耳をぴたりと押し当て、必死に聞き取っていた。小さな拳をぎゅっと握りしめる。本当に離婚協議書まで用意していたなんて!絶対に許さない!幼い顔は怒りで真っ赤に染まり、ついに勢いよくドアを押し開けた。バタンと響く音に、室内の二人は同時に顔を向けた。「誰だ?」啓司は眉をひそめ、いくらか不機嫌そうな声を発した。花城はドア口に立つ、啓司と瓜二つの小さな影を見て、誰なのか問うまでもないと悟り、慌てて言った。「坊ちゃまでございます」「本当にママと離婚するの?」逸之はオフィステーブルへ駆け寄り、頬をぷくりと膨らませ、震える声で問い詰めた。啓司は花城に退出を合図し、ふたりきりになると、ドア口で怒りに震える幼子に淡々と告げた。「大人の事情に、子供は口を出すな」逸之は全身を震わせ、怒りを押し殺せなかった。兄が言っていた通り、この男はやはり救いようのないクズで、何一つ改心していない!目を真っ赤にし、叫んだ。「僕はあんなに信じてたのに、よくもママを裏切ったね!大人になったら、絶対に許さないから!」啓司はその言葉を聞いても怒ることなく、口元にわずかな笑みを浮かべて静かに返した。「そうか。それなら待っているぞ。お前が大人になって仕返しに来るその日を」本当にその日が訪れることを、彼はどこかで願っているようだった。啓司がまるで意に介さない様子を見て、逸之はさらに激しく憤った。周囲を見回し、テーブルの上にあった中ぶりのコップをつかむと、勢いよく啓司へ投げつけた。ドン!コップは正確に啓司の肩を打ち、そのまま床に落ちて粉々に砕け散った。外にいた牧野は物音を聞きつけ、慌ててドアを開けて駆け込んだ。目にしたのは、逸之がさらに何かを持ち上げ、啓司に投げつけようとしている姿だった。「坊ちゃま、何をなさっているんですか!」「坊ちゃまなんて呼ばないで!僕は夏目逸之だ、黒木家の坊ちゃまなんかじゃない!」怒りで燃える逸之の声は一層高く、激しい憤りを滲ませていた。信じていた父に裏切られ、母まで裏切られた――その