「ママ……」ゆみは泣きながら言った。「ママに会いたかった……」「ゆみ、泣かないで……ママはここにいるよ。もう泣かなくていい……」紀美子はゆみをしっかりと抱きしめ、嗚咽交じりに言った。ゆみは必死で自分を紀美子の胸に押し込もうとしたが、母の胸の傷に触れないよう、力加減を慎重に保った。「ママ、もう自殺なんてしないで」 ゆみは泣きながら続けた。「ゆみはもう叔父さんもパパも朔也おじさんも失ってしまったの……ママまで失いたくない!」「ごめんね、ゆみ……ママが自分勝手で、弱かったから……ママが悪かった……」紀美子は胸が締め付けられるような思いで嗚咽しながら謝った。ゆみは首を横に振った。「ママが辛いのはわかってるよ。でもママにはゆみとお兄ちゃんがいる。私たちにはママが必要なの!」「分かったよ、ママはもうあなたたちを置いていかない……絶対に」紀美子は涙を拭い、小さく頷いた。「ママ、ゆみはパパと叔父さんを見つけに行くよ」ゆみはすすり泣きながら言った。「生きてるなら会いに、亡くなってるなら魂を見つける!」その言葉に、紀美子は愕然とした。彼女はそっとゆみを離し、その小さな顔を覗き込んだ。「ゆみ……何を言っているの……生きてるなら会いに、亡くなってるなら魂を見つけるって……どこで聞いたの?」「わからない。ただ、ゆみの頭にふと浮かんだの……」ゆみは涙を拭きながら言った。「……それで、パパと叔父さんを探しに行くって、どういうこと?」「ママ、ゆみは師匠に会いに行く」ゆみは真剣な目で紀美子を見つめた。「それって……小林さんのこと?」紀美子が尋ねた。ゆみはうなずき、小さな手で自分の頭を指しながら言った。「ゆみにはただ一つしか思いつかなかった。それは師匠に会いに行くこと。師匠を通じて叔父さんやパパを見つけられるかどうかはわからないけど、そうすべきだって感じるの」娘の成熟した考えに、紀美子は胸が痛むほどの辛さを感じた。「もう、行くの?」紀美子は別れを惜しんだ。子どもに次いつまた会えるかもわからないこの状況がつらかった。「明日出発するの」ゆみはそう言いながら、再び紀美子の胸に顔を埋めた。「ちゃんと自分を大事にしてね」紀美子はこの日がいつか来ると覚悟していた。
舞桜は紀美子の手を握りしめた。「しっかり体を治して、悟の犯罪の証拠を何としても掴み取って!朔也のためにも、翔太君のためにも、森川社長のためにも、そしてあなた自身と子どもたちのためにも!」紀美子は深く息を吸い込み、力を込めてうなずいた。「わかっているわ、舞桜。この仇は必ず晴らしてみせる!」舞桜はその言葉を聞いて頷いてさらに続けた。「紀美子さん、自分のことをちゃんと大事にしてね。私たちがずっとそばにいるから」紀美子はしばらく黙った後、ゆみの手をそっと舞桜の手に託した。「ゆみのこと、お願いね……」紀美子は声を震わせながら続けた。「彼女をしっかり守ってあげて。道中も気をつけてね」「はい、任せて!」……翌朝。真由はボディーガードが注意を払っていない隙を狙い、ゆみを舞桜の車にこっそりと乗せた。ゆみのために用意しておいた服も車のトランクに詰め込んだ。すべての準備が整うと、真由は車の横に立ち、ゆみの手をぎゅっと握りしめた。「ゆみ、到着したらおばあちゃんに教えてね」ゆみはうなずいた。「おばあちゃん、お願いだから兄ちゃんたちに伝えて。ゆみのことは心配しないでって」真由は涙を拭いながらうなずいた。「わかったわ、おばあちゃんが必ず伝えるからね。師匠の言うことをしっかり聞くのよ」「わかった!ゆみはお利口に、どんな困難も乗り越える!」ゆみは力強く頷いた。真由はゆみの頬を優しく撫でながら言った。「行きなさい。そして、自分の道を切り開くのよ。疲れたら帰っておいで。ここはいつまでも、あなたの帰る場所だから」「うん!ちゃんと覚えておくよ!」舞桜はエンジンをかけた。「そろそろ行く時間よ」真由はゆっくりと手を離し、別れの挨拶をした。「ゆみ、元気でね」ゆみは車の窓に身を乗り出しながら、別れを告げた。「おばあちゃんも元気でね!」車が走り出すと、真由はつい追いかけたい衝動に駆られたが、ゆみを泣かせないためにぐっと我慢した。ただ手を振って遠ざかっていくゆみを見送った。上階。佑樹と念江の二人は、窓際に立って下の光景をじっと見つめていた。佑樹は顔をこわばらせ、目元が赤く潤んでいた。念江もまた目を赤くし、視界から徐々に消えゆく車を見つめた。彼は感情を抑え、唇を震わせなが
午前九時。ゆみがいなくなったと知った悟は、真っ先に病院へ向かった。病室の扉に近づいたその瞬間、苛立った口調のボディーガードの声が耳に入った。「絶食したところで、君を解放するとでも思っているのか?全く馬鹿げた考えだ!」悟は足を止め、軽く眉をひそめた。傍らにいたエリーが彼の様子を見て問いかけた。「影山さん、あの者を始末しましょうか?」エリーの言葉が終わるか終わらないうちに、再び中からボディーガードの声が聞こえてきた。「食べないつもりなら、無理やり口に押し込むぞ!」悟の顔色が次第に曇り、扉を押し開けて病室に入った。すると、窓の外をじっと見つめて物思いにふける紀美子の姿が目に飛び込んできて、彼の胸の奥には言いようのない不快感が広がった。悟の登場に驚いたボディーガードは、一瞬固まったが、すぐに頭を下げて挨拶した。「影山さん!」悟は冷え切った目でボディーガードを見た。「お前に、彼女にそんな態度で接する権利を与えた覚えはない」その声は穏やかだったが、どこか冷たい威圧感が漂っていた。ボディーガードは体を硬直させ、すぐに弁解しようとした。「申し訳ありません、影山さん。ただ、彼女はもう何日もまともに食事を取っていなくて、彼女の体が心配で……」「エリー」悟はボディーガードの言葉を遮った。エリーが一歩前に出た。「はい」「もう必要ない」エリーは即座に頷いた。「かしこまりました」そのやり取りを耳にしたボディーガードの目は大きく見開いた。紀美子もは眉をひそめ、エリーがボディーガードに近づく様子を不安げに見つめた。次の瞬間、エリーが急に素早く動いた。ボディーガードが反応する間もなく、その喉元が切り裂かれた。空中に血が弧を描くように飛び散った。その光景を目にした紀美子は、目を大きく見開いたまま凍りついた。恐怖が彼女の理性と思考をすべて奪い去っていった。つい先ほどまで自分に食事を強要していた男が、悟のたった一言で命を失った。しかし、悟は何事もなかったかのように冷静で、平然としていた。彼は紀美子のベッドの傍らまで歩み寄ると、椅子に腰を下ろした。そして食事にまで血が飛び散ったのを見ると、顔に嫌悪の色を浮かべた。「エリー、これ、変えてきてくれ」「かしこまりました
その言葉を聞いた瞬間、悟の瞳が冷たく光った。「紀美子、俺の限界を試すな」「限界?」紀美子は抑えきれない笑いを漏らした。「限界があるって言うの?好き勝手に人を殺し、侮辱して!あなたなんて、この世に存在すべきじゃない!死ぬべきよ!」悟の目に暗い影がよぎった。「感情に任せて言いたいことを言う前に、子どもたちの状況を考えろ」その一言で、紀美子の怒りは瞬く間に消えた。ハッと我に返り、子どもたちが悟の手中にあることを思い出した。紀美子が静かになったのを見ると、悟も態度を改めた。「今日は二つ話がある」悟は言葉を続けた。「一つ目だが、ゆみはどこに行った?」紀美子がシーツをぎゅっと掴み何かを言いかけたその時、悟がまた口を開いた。「紀美子、嘘をつこうとするな。俺のことはよく分かっているだろう?」紀美子は唇をかみしめ、しばらく考えた末、正直に答えた。「ゆみは師匠について修行に行ったの。私は、子どもたちの選んだ道は邪魔しない」「分かった」悟はあっさりとした様子で頷いた。「それについては約束しよう。ゆみのことにはこれ以上口を出さない」悟があまりにもあっさりと承諾したので、紀美子は一瞬、耳を疑った。「それから」悟は続けて言った。「俺はMKを引き継いだ。明日のニュースで取り上げられるだろう」引き継いだ!?紀美子は驚いた。彼は一体どうやってMKを引き継いだのか。晋太郎がいなかったとしても、次郎や裕太がいるはずだ。悟と森川家には何の関係もないのに、どうやって実現させたのだろうか?また幹部達を脅迫したのか?「どうして俺がMKを引き継げたのか、不思議だろう?」悟は薄く笑った。「次郎はすでに死んだ。そして裕也は、いまだに行方不明だ。さらに……俺の手には遺言書がある」「どうしてあなたが遺言書を持っているの!?」悟の言葉に、紀美子は背筋が凍るような感覚に襲われた。まさか悟は貞則と関係があるのか!?悟は唇をわずかに動かし、ゆっくりとベッドサイドテーブルにある水を手に取り、紀美子に差し出した。「喉を潤せ。それから話してやる」コップの水を見た瞬間、紀美子は先ほど鮮血が飛び散ったボディーガードの姿を思い出した。胃の奥から嫌悪感が込み上げ、思わず顔を背けた。そん
しかし、表情に出すわけにはいかなかった。何しろ悟の思考は非常に緻密だからだ。紀美子は、感情を抑え込み冷淡な声で言った。「好きにすれば」「分かった」悟は立ち上がりながら言葉を続けた。「三日後に迎えに来る」病室を出ると、エリーはすでに遺体の処理を終えて戻ってきていた。彼女は病室にちらりと目をやり、悟を見つめて言った。「影山さん、この女……」言いかけたところでエリーは言葉を止めた。悟が眉をひそめ、不快感をあらわにしていたからだ。「何だ?」悟は短く問いかけた。エリーは言葉に詰まりつつ、思い切って口を開いた。「影山さん、この女はあなたの秘密を知りすぎています。どうして殺さないのですか?」どうして殺さないか?悟は視線を落とした。時折自分もその問題については考えていた。紀美子が銃で撃たれたその瞬間を目にした時から、自分の中で何かが揺らぎ始めたのは感じていた。紀美子を手放せないというわけではない何しろ、紀美子には利用価値しか感じておらず、一片の感情もない。では、この胸騒ぎの正体は何なのか?おそらく今は、その答えを探るためだけに、紀美子を生かしている。「エリー、自分の仕事をきちんとしろ。これはお前には関係のないことだ」悟は冷たく言い放った。「影山さん!」エリーは焦った様子で言った。「彼女をずっと閉じ込めておけないなら、災いは起こり続けます!」「俺が決めたことに、お前が口出しする権利はない!」悟の声には、怒りがあらわれていた。「影山さん、まさか彼女のことを好きになったのではないですか?」悟の温和な表情に、不機嫌の影が差した。「今日は余計なことばかり話すな」しかし、エリーは心配そうに続けた。「影山さん、ここまで来るのにどれだけ苦労されたか、どうか慎重に……」「もう黙れ!」悟は冷たく一喝した。エリーは悔しそうに唇を噛んだ。エリーは、悟が去って行くのを見送りながら病室を忌々しげに睨みつけ、彼の後を追った。翌日。いくつかのホットニュースが、金融界や帝都全体を震撼させた。──《MKの森川晋太郎社長、飛行機事故で爆発。遺体はいまだ見つからず!》──《森川家の長男、森川次郎が交通事故で死亡!》──《森川家の当主、他者を陥れた罪
「お前はこの問題をあまりにも簡単に考えすぎだ!」晴は隆一を一瞥した。「晋太郎すらも眼中に入れない男が、俺たちを相手にすると思うか?」隆一は肩を落とし、意気消沈した様子で言った。「じゃあどうすればいいんだ?何日も経つのに、糸口が全然見つからないじゃないか!」晴はしばらく考え込むと、こう提案した。「紀美子に会いに行こう」「紀美子に?」隆一は困惑した表情で聞き返した。「会える見込みでもあるのか?」「何か方法を考えるしかない」晴は言った。「今の俺たちでは、どんなに彼女を助けたいと思っていても意味がない。鍵となるのは紀美子自身がこれから何をするつもりなのかだ」隆一は驚きのあまりしばらく黙った。「つまり、紀美子が悟と一緒になる可能性があるってことか?」「その可能性も否定できない」晴は頷いた。「お前だったら、復讐したいと思わないか?」「そんなの当たり前だろ!」隆一は呆れたように言い返した。晴は彼をじっと見つめながら言った。「だからこそ、俺たちがどう動くかではなく、紀美子をどうサポートすべきかを考えよう。彼女が悟のそばに残れば、必ず奴の犯罪の証拠を手に入れることができる。それこそ、ここで頭を悩ませているよりも有効だ」「……確かに一理あるな」隆一は眉間に皺を寄せながら小声で呟いた。その時、晴の脳裏にある人物の名前が浮かんだ。「そうだ、瑠美だ!」隆一はきょとんとして彼を見つめた。「何が言いたい?」晴は悔しそうに頭をかきながら言った。「どうして今まで瑠美のことを忘れてたんだ!彼女なら紀美子と連絡を取れるかもしれない!」「でも、皆悟に捕まってるんじゃないのか?」「いや」晴は答えた。「裕也さんは悟が子どもたちとおばさんだけを監禁したって言ってた」「瑠美の連絡先は持ってるか?」隆一は興奮気味に言った。「早く彼女に連絡してみろ!」「裕也さんに聞いてみる!」数分後、晴は瑠美の電話番号を入手した。彼女に電話をかけると、すぐに繋がった。「瑠美か?」晴が尋ねると、電話の向こうで瑠美が驚いた声を上げた。「晴兄さん?」「そうだ」晴は続けた。「時間あるか?ちょっと会って話したいんだ」「いいわ。場所を教えて」それから二十分後、
「分かったわ、任せて」瑠美は言った。隆一は少し考えて言った。「瑠美、今君は何してるんだ?」瑠美はしばらく考え込んで答えた。「悟を追跡するつもりよ。今のところまだ彼に気づかれていないから」「いいだろう」隆一は言った。「もし助けが必要になったら、いつでも俺や晴に連絡してくれ。手伝うよ」瑠美は頷き、隆一と連絡先を交換した後、その場を離れた。その日の午後、瑠美は紀美子に密かに携帯を渡すことに成功した。携帯を受け取った紀美子は、呆然と瑠美を見つめた。瑠美は言った。「晴兄さんと隆一兄さんがあなたと連絡を取りたいって。携帯をしっかり隠して、絶対に見つからないようにしてね」「わかったわ、瑠美、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」瑠美は腕時計を見て言った。「言ってみて。ただ、あまり時間はないからね」「朔也の遺体は……」紀美子の目には悲しみが宿っていた。瑠美は小さくため息をついた。「お父さんがちゃんと葬儀を手配したよ。心配しなくていい」「叔父さんに迷惑をかけたわね」紀美子は静かに頷いた。「あなたが自殺なんて考えさえしなければ、誰も迷惑だなんて思わないわ」瑠美はつぶやくように言った。「携帯には私の連絡先も入れておいたわ。これからも悟の動きを追い続けるつもりだから。進展があったら知らせるわ」紀美子はその顔を見つめながら、胸中に込み上げてくる感情を押し殺して一言だけ言った。「気をつけて」瑠美は一瞬言葉を失い、その後、耳まで赤く染まった。「べ、別に病弱なあなたに心配されるほどヤワじゃないわ!」そう言い捨てて、瑠美はそっけなく背を向けて去っていった。紀美子は少し感動した。瑠美はただツンデレなだけで、本当はとても優しい人なのだ。そうでなければ、危険を冒してまで何度も自分の様子を見に来るはずがない。瑠美が去った後、紀美子は布団に潜り込んで晴の番号にメッセージを送った。「私よ、紀美子」晴は紀美子からの連絡を確認し、すぐに返信した。「紀美子?無事なのか?」「大丈夫。要件を簡潔に言って」「分かった、じゃあ、はっきり言うよ。今、出たいか?それとも悟のそばに留まるつもりか?」晴は返信した。「私は出ないわ。証拠を手に入れる必要があるの」「もう決め
「佑樹くん、お母さんだよ」ご飯を食べていた入江佑樹は、携帯がポケットの中で振動しているのに気づいた。彼は携帯を取り出し、見覚えのない電話番号からのメッセージを見て、疑問に思いながらも開いた。メッセージの内容を読んで、彼は持っていた箸をパタっとテーブルに落とした。「どうしたの、佑樹くん?」その音に気づいた森川念江は尋ねた。佑樹は少し離れたところにいるボディーガードを見て首を振った。「ううん、ただのスパムメールだ」ただのスパムメールだったら佑樹はあんな反応を取るはずはなかった。念江は疑った。しかし、佑樹がきっと濁して教えてくれないというのを分かっていたので、念江は敢えて聞かなかった。「お母さんは……どうしてるの?」佑樹は小さな手を震わせながら母に返信した。佑樹からの返信をもらい、入江紀美子はやっと安心できた。「お母さんは大丈夫よ、そっちは?」「僕達は渡辺家にいて、携帯も返してくれたけど、前使ってた携帯はきっと全部監視プログラムを仕込まれているだろうから、こっそり新しいのに換えた」「分かった。用心に越したことはないわ。ところで、彼達に暴力を振るわれたりはしてない?」「うん、そんなことはないけど、沢山のボディーガードに監視されてる。お母さん……自殺とか、もうしないで……」紀美子は心が痛み、自分の愚行で子供達を悲しませてしまったことを後悔した。「ごめん。また心配をかけるなんて、お母さんがバカだった」「お母さんが無事でいることが分かったから安心した。僕と念江くんは瑠美おばちゃんにパソコンを用意して貰ってる。できるだけ早く塚原悟の犯罪の証拠を集めて、お母さんを助け出すから!」「この件は、そんなに簡単なことじゃないわ。くれぐれも慎重にね」もちろん彼は無暗に動くつもりはなかった。母が塚原悟に捕まっている今、絶対に慎重に動かなければならない。さらに母がそう言ってくるのを聞いて、反論できなかった。でないとまたお母さんに心配をかけさせてしまう。「分かった、お母さん。いつお母さんに会えるの?」「彼はお母さんを藤河別荘に連れ帰ると言ってるわ。佑樹くん、これから、隙をついてはあなたと念江くんの技術的支援が必要になるかも」佑樹は警戒しながら周りのボディーガードを眺めた。「何をやってほ
悟は紀美子をじっと見つめた。まだ語り尽くせない思いは山ほどあったが、全ては言葉にできなかった。長い沈黙の後、悟は紀美子の手を離し、立ち上がってドアに向かった。ドアノブに手をかけた瞬間、彼は再びベッドに横たわる彼女を振り返った。淡い褐色の瞳には純粋で、ただ未練と後悔だけが満ちていた。ゆっくりと視線を戻すと、悟は決然とドアを開けた。ドアの外で、ボディガードは悟が出てくるのを見て一瞬たじろいだ。「お前は私の部下ではない。何もしなくていい。私が自分で行く」悟は彼を見て言った。「悟が降りてきます!」悟の背中を見送りながら、ボディガードは美月に報告した。報告を受け、美月は晋太郎を見た。悟が紀美子にかけた言葉をはっきりと聞いていた晋太郎は、端正な顔を険しくした。次に……彼は唇を強く結び、ドアを開けて車から出た。美月も続いて降りてきた。晋太郎たちがホテルの入り口で立ち止まると、悟が中から出てきた。「あんたと俺は同じ汚れた血が流れている。たとえあんたが認めたくなくても、これが事実だ」悟は平静な笑みを浮かべた。「上で紀美子に何をした?」晋太郎は怒りを抑え、冷たい声で詰め寄った。「私が彼女に本当に何かしたとして、あんたの出番などないだろう」悟は反問した。「だが心配するな。彼女はただ眠っているだけだ」「お前は自分で自首するか、俺がお前をムショに送るか選べ」「刑務所だと?」悟は嘲笑った。「私があの男と同じ場所に行くと思うか?」「それはお前が決めることじゃない!」「降りてきたのは、ただ一つ聞きたいことがあったからだ」悟は一歩踏み出し、ゆっくりと晋太郎に近づいた。二人の距離が縮まるのを見て、美月は慌てて止めに入ろうとした。「来るな」背後からの気配に、晋太郎は軽く振り返って言った。美月は焦りながらもその場で止まった。社長は目の前の悟がどれほど危険か分かっているのか?本当に傲慢で思い上がりも甚だしい!!「最後のチャンスだ。聞きたいことは一度で済ませろ」晋太郎は視線を戻し、悟の目を見据えた。「貞則があんたの母親にあんなことをしたのを知って、彼を殺そうと思ったことはあるか?」「お前があの老害を始末してくれたおかげで、俺は手を汚さずに済んだ。礼を言
「俺は何も言わない!」ボディガードが運転手の口に貼られたテープを剥がすと、運転手は晋太郎を見上げて言った。晋太郎は冷たく笑った。「美月」運転手は晋太郎の側に来た女性を見て、次に何が起こるかをよく理解していた。「暴力で自白させようとしても無駄だ。俺は塚原社長を裏切るつもりはない。殺すならさっさとやってくれ!」運転手は歯を食いしばって言った。「誰が暴力を振るつもりだと言った?」「どういう意味だ?」運転手は一瞬呆然とした。「この世には特殊メイクがあるじゃない」美月が笑いながら言った。運転手は一瞬固まったが、すぐに気づいた。自分は、捕まってからただ口を塞がれ連れて来られたが、暴力を振るわれることはなかった。その間の動きは非常に静かで、部屋の中からは何の音もしなかっただろう。「社長がそう簡単に騙されると思うのか?」そう言い終わると、運転手は内心不安になり上階に向かって叫ぼうともがいたが、傍らのボディガードに素早く再び口を塞がれた。すぐに美月は道具を取り出し、彼とよく似た体型のボディガードの変装を始めた。30分後、美月はそのボディガードを完全に運転手に化けさせた。自分とそっくりに変装したボディガードを見て、運転手の瞳は恐怖に満ちた。美月は変声器を取り出してボディガードにつけた。「ほら、何か喋ってみて」ボディガードが声を出すと、運転手はひどく衝撃を受けた。もう終わりだ、完全に終わりだ!「上に行ったら、悟に夕食が要るかどうかと尋ねるだけ。もし『要る』と言われたら、食事を届けながら部屋の様子を窺う。もし『要らない』と言われたら、この盗聴器を中に入れ、ドアの前で待機して。中の状況を常に把握したいの」運転手の表情を見て、美月はボディガードに言った。「分かりました、美月さん」そう言うと、ボディガードはホテルに入り、美月の指示通りに三階に上がった。「社長、夕食はいかがですか?」悟の部屋の前で、彼はドアをノックして尋ねた。「いい」部下の声を聞いて、悟は疑うことなく答えた。「入江さんの分もいいのですか」ボディガードはゆっくりしゃがみ込み、盗聴器を入れた。「ああ、彼女は寝ている」美月と晋太郎の耳には悟の声がはっきりと届いた。晋太郎は眉をひそめた。悟はま
「あんたはもう逃げられないわ。いつ私を解放してくれるの?」紀美子が尋ねた。「紀美子、私に二つだけ約束してくれないか?」悟は俯いて、掠れた声で言った。「私のできる範囲なら、約束するよ」早くそこを離れるために、紀美子は悟の話に合わせた。「ありがとう」悟は笑みを浮かべた。紀美子は彼の要求を待ったが、しばらく経っても悟は何も言わなかった。「約束って何?」紀美子が怪訝そうに尋ねた。「一つは後で教える」悟は再び立ち上がった。 そして、彼は彼女に向かって一歩ずつ近づいた。紀美子は緊張して椅子の肘掛けを握りしめた。「もう一つは、今夜だけ、私と一緒にいてくれないか、紀美子」悟は彼女の前で止まり、跪いて耳元で囁いた。「悟、変なことを言わないで」紀美子は目を見開いて彼を見た。悟は首を振った。「心配するな。ただ静かに眠って、そばにいてほしいだけだ」そう言うと、悟はそっと一本の針を取り出し、紀美子が気づかないうちに彼女の手のツボに素早く刺した。 「痛っ!」紀美子は手を引っ込め、恐怖に満ちた目で悟を見た。「何をしたの?」 「言っただろう。ただ一晩眠って、一緒にいてほしいだけだって」悟は冷静に答えた。その言葉と同時に、紀美子は急激な疲弊感に襲われた。彼女はまだ何か言おうとしたが、猛烈な睡魔に脳を支配され、次第に視界がぼやけていった。やがて紀美子はゆっくりと目を閉じ、横に倒れこんだ。悟は彼女の体を受け止め、腰をかがめてベッドに運んだ。階下。晋太郎が民宿に着くと、美月は車から飛び出して彼の元へ駆け寄った。 晋太郎が質問する前に、晴が先に詰め寄った。「彼女たちはどこにいるんだ?」 「佳世子さんは無事ですが、紀美子さんはまた部屋に連れ戻されました」美月は答えた。「森川社長、無闇に上るのは控えた方がいいでしょう。悟が部屋に爆発物を仕掛けている可能性がありますので、不用意に動けません」美月は晋太郎に向き直って忠告した。「偵察班を出せ」晋太郎は険しい表情で言った。「もう手配済みです」美月は答えた。「既に悟の部下の一人を排除しました」晋太郎はホテルの窓を見上げた。「奴はどの階にいるか特定できたか?」「3階です。廊下には悟の
「美月さん、山田大河という技術者が紀美子さんを人質に取っています。奴らは銃を持っていますが、どうしますか?」少し離れた場所に立っていた二人の男は、彼らの会話を聞きながら、通信機を通じて美月に低い声で報告した。「騒ぎ立てる必要はないが、その場を離れるな。とりあえずは威圧感を与えるだけでいいわ。紀美子さんは私が何とかする」美月は周囲を見回して、指示を出した。 「了解です、美月さん」 二人のボディガードが座るのを見て、大河の緊張はさらに高まった。 彼らは晋太郎の部下に違いない。 一般人であれば、銃を持っている奴を見た途端に逃げるはずだ。悟はゆっくりと大河に近づいた。「大河、言うことを聞け、銃を下ろせ」 目が充血した大河は首を振った。「できません、社長……もう逃げられません。奴らがここにいるということは、外も囲まれているはずです」 「分かっているさ。だから、銃を下ろせと言っているんだ」 「社長……」大河は涙を浮かべた。「どうか生き延びてください。こんな女に惑わされて命を投げ出さないで!彼女は災いのもとです。俺が彼女を始末します!社長、生きて……」そう言い終わると、大河は銃の安全装置を外し、再び紀美子の額に銃口を向けようとした。その瞬間、彼の視覚には悟が銃を抜く姿が映った。「社長……」大河は動きを止め、驚愕して目を見開いた。「バン——」突然、ガラスが砕ける音が響いた。紀美子が慌てて振り向くと、顔に温かく湿った感触と強烈な血の匂いがした。背後からの拘束が弱まり、紀美子は大河が目を見開いたまま倒れるのを見た。銃弾は彼のこめかみを貫通し、傷口から血が止めどなく噴き出してきた。顔が青ざめた彼女の目を覆い、悟は最速で彼女を連れてエレベーターに乗り込んだ。ロビーに座っていた二人のボディガードはすぐに追いかけようとしたが、エレベーターの扉はすぐに閉まってしまった。「美月さん、奴らは上の階へ逃げました!」ボディガードの一人が報告した。「大河が手を出さなければ、こっちも動くつもりはなかったのに。困ったわ。部屋のカーテンを閉められたら、こちらの狙いは定まらない」「強行突破しましょうか、美月さん!」 「ダメだ!部屋に爆弾を仕掛けられたかもしれない。悟が危険
「大河さんからいろいろ聞いた」紀美子は優しい口調で、悟のそばに座った。「全ての恨みを捨てて、どこかでまたやり直そう」悟は大河を一瞥し、明らかに不満げな視線を向けた。「君もついて来てくれるか?」紀美子は悟の浅褐色の、澄み切った瞳を見つめた。これほどの苦難を乗り越えたとは信じ難いほどの、純粋な眼差しであった。彼には彼の事情があるが、彼女にも許せないことがあった。悟を去るように説得することは、彼女の最大の譲歩だった。「それができないのは分かっているでしょう?晋太郎は私を探すのを諦めないわ。一生ビクビクしながら生きていきたいの?」紀美子は言った。「君がそばにいてくれれば、私はどうなっても構わない」悟はそう言いながら、紀美子の手に触れようとした。しかし、紀美子はとっさに手を引っ込めた。悟の手は空中で止まり、数秒間硬直した後、静かに下ろされた。「紀美子、もうこれ以上言わなくていい。君がここに少しでも長くいてくれるだけで十分だ」悟は紀美子に言った。「そして大河、お前の気持ちは分かるが、彼女を脅す必要はない」大河は一瞬呆然とした。「しかし、社長……」「もうこれ以上言うな」悟は言った。「もう十分に話したはずだ。これ以上説明しても無駄だ。お前は大海と行け」大河は納得いかず、まだどう説得しようか考えていたその時、民宿の入り口から二人の男が入ってきた。大河はその二人の体格から、彼らは訓練を受けた者たちだとすぐに分かった。彼らは普段着を着ていたが、明らかに危険なオーラを帯びていた。大河は視線を紀美子に移し、いきなり彼女を掴んだ。その急な挙動に、紀美子も悟も反応できなかった。次の瞬間、大河は悟の目の前で、再び銃を紀美子のこめかみに突きつけた。「大河、紀美子を放せ!」悟の表情は一気に冷たくなった。「嫌です!」二人の男は足を止め、険しい表情で大河を見つめた。「社長、奴らが来ました。この女を人質にして逃げましょうよ!社長もこの女を連れていきたいでしょう?俺が無理やり連れていきます!」「大河!」悟は怒声を上げた。「お前、そんなことをして何の得がある?そう簡単に彼女を連れ去れるとでも思うのか?私は強要ではなく、彼女自身の意思でついて来てほしいんだ!」「社長!
大河は一歩ずつ紀美子に迫ってきた。「社長があいつらに手を出したのは仕方がなかったんだ!本当は社長だってそうしたくなかった!あの忌まわしい父親さえいなかったら、社長だって子供の頃からお前たちと同じように過ごせた!あいつに脅迫されなかったら、彼は一生消えない傷を負わされずに済んだんだ!」「社長が最も惨めだった頃のこと、お前は知らないだろうけど、俺はよく知っている!俺は社長の資料を調べ、昔の監視カメラの録画映像も観たからな。社長は毎日のように殴られ、ドブ川の汚水をぶっかけられるどころか豚や犬の餌を食わされそうになっていた。いかがわしい女を呼び寄せ、社長の体をボロボロになるまで弄んだこともあった!社長は一人でその時期を耐え抜いたんだ!あんなことをされたら、誰でもあいつらを恨むのは当然だ。」「確かに社長の手によって多くの人の命が失われた。だが彼は、正当な理由がなければ絶対に命を奪ったりしない!社長が、自分の医療技術でどれだけの人を救い、どれだけの家庭を助けてきたかわかってるのか?俺と外にいる運転手の大海も、社長の助けがあってここまで来られたんだ!社長は資金援助だけでなく、生きる希望を与え、病気を治し、薬を提供してくれた!あんな素晴らしい人間に、なぜ世界はこんなにも不公平なんだ?」大河が怒りに震えながら吐き出した言葉を聞いて、紀美子は完全に呆然とした。彼の話からすると、悟に関してまだまだ知らないことがたくさんあるらしい。いや、知らなかったわけではない!聞いていたとしても、自分の同情を引くための嘘だと思い込んでいたのだろう。本人が話すのと、他人から聞かされるのとでは全く印象が違う。「悟に話がしたいと伝えてくれる?できるだけ早く、彼を説得してみるから」「お前のような女、何を考えてるかわかったもんじゃない!」大河は紀美子の話を遮り、いきなり彼女の襟首をつかんだ。彼は紀美子を拘束しながら、拳銃を彼女のこめかみに突きつけた。紀美子は全身が硬直したが、それでも冷静さを保ち、交渉を続けようとした。「私を殺したら、悟があんたを許すと思う?」落ち着いて話すのは通じない。紀美子は強気に出るしかなかった。「怒られるのはわかってる。俺は殺されても構わない。社長の命さえ救えればそれでいい!」「私が死んで、彼は一人で生きようとすると思
悟の部屋を出て、大河はしばらく躊躇ってからエレベーターに乗り込んだ。三階に着くと、彼は紀美子の部屋の前へと歩み寄った。「お前一人で来たのか?社長は?」佳世子を見張っていた大海は不審そうに尋ねた。「社長に内緒で来た」そう言って、大河は殺意に満ちた視線を紀美子の部屋のドアに向けた。「お前、何をする気だ?」大河の視線に気づいた大海は尋ねた。「この女さえいなければ、社長はきっと俺たちと一緒に逃げてくれる!」大河は歯を食いしばって言った。「大海、お前は社長が命を落とすのをただ見てるつもりか?こんな女のせいでよ!」「どういう意味だ?」大河は今の状況を説明した。「どんな事情があろうと、社長の命令なしでは彼女に手を出してはならん!彼女はお前に何の恨みもないだろ!」「恨みがないだと?」大河は問い詰めた。「もし社長が本当に行かなかったら、社長の言う通りに俺達だけで逃げるのか?」大海は黙り込んだ。「いや……社長は俺の家族を六年も面倒見てくれた。この恩は命をかけても返しきれない」「だから社長を連れて逃げないと、俺たち全員がこの女のせいで殺されるんだ!」大河は警告した。「たとえそうだとしても、彼女を殺しちゃいけない。彼女は社長が最も愛した女だ。もし殺したら、社長はどうなる?」大海は依然として反対した。「時間が全てを癒やしてくれるはずだ!」大河は言い放った。「俺は、たとえ社長に恨まれ、殺されても構わない!」そう言い残すと、大河はドアを押し開け紀美子の部屋に入った。その時、背後からドアが開く音がした。二人の会話を聞いていた佳世子が、我慢できずに部屋から出てきたのだ。「部屋に戻れ!」大海は慌てて振り返り、彼女を遮った。「紀美子に手を出すなんて、許さないわよ!」佳世子は焦って横を見ながら叫んだ。「紀美子!早く逃げて!この二人があんたを殺そうとしてるわ!!紀美子!!」佳世子は身を乗り出しながら叫び続けた。部屋の中では、紀美子が驚いた様子で入ってきた男を見つめた。そして外から聞こえる佳世子の叫び声に耳を澄ませた。大河が速足で近づいてくるのを見て、紀美子はすぐに布団を蹴り飛ばし、ベッドの反対側に立った。「何をする気?」彼女は警戒しながら大河に問いかけた
「お父さん、悟の車の位置がわかった!前僕たちが泊まってたホテルだ!」晋太郎は早急に電話を切り上げ、立ち上がって佑樹の元へ駆け寄り、パソコンの画面を見た。確かに、以前宿泊していたホテルだ。「悟ってやつは本当に計算高い。父さんが監視役を引き上げた途端、そこを選んぶだなんて。父さんをバカにしてるの?それとも、父さんがそこを狙わないと踏んだのか?」「今はそんなことを言っている場合じゃない。すぐに人を送って状況を確認させる」晋太郎は美月の携帯に電話をかけた。「森川社長、何かご指示ですか?」美月はすぐに応答した。「前の民宿だ。佑樹が悟の車の場所を突き止めた」美月は佑樹がこんなに早く手がかりを見つけ出したことに驚いた。彼女は携帯を持ちながら、隣でまだコードを打ち続ける技術者たちに目をやった。こいつら、子供二人にも及ばないのね!口元を少し歪ませながら、美月は心の中でそう思った。「わかりました、すぐ偵察班を向かわせます」電話を切ると、晋太郎もテーブルの上の車の鍵を手に取った。「父さんも行くの?」佑樹が声をかけた。「母さんが悟の手中にいるんだ。ここに座っていられない」晋太郎は頷いた。「俺も行く!」晴は慌てて立ち上がり、晋太郎の側へ歩み寄った。「佳世子は抑えられてるし、俺もじっとしていられない」「分かった」晋太郎は佑樹を見た。「お前と念江はここで大人しく待っていろ。何かあったらすぐに電話しろ。ボディガードも外で待機させておく」「わかった。父さん、必ず母さんと佳世子おばさんを助けてきて!」今回の民宿への移動では、晋太郎は多数のボディガードを分散させて配置した。しかし、どれだけ慎重に行動しても、大河の監視網から逃れることはできなかった。ホテル。大河は再び悟のもとへ駆けつけた。「社長、もうここはバレています!晋太郎の手下がすでに向かってきています!」しかし、座って茶を飲んでいた悟は、大河の言葉にも大して動揺を見せなかった。「彼女が行きたがらない」声は淡々としていたが、悟の心は万本の針で刺されるように痛み苦しくなっていた。「社長!命あっての復讐です!女なんかより、自分の命の方が大事じゃないんですか!」「大河、行くならお前と大海だけで行け。もう私のことを構うな
紀美子は体を無理やりに起こそうとした。悟は手を差し伸べたが、触れる前に紀美子に冷たく払いのけられた。「触らないで!」紀美子は憎悪に満ちた目で悟を睨んだ。悟は手を引っ込め、紀美子が自力で体を起こしてベッドにもたれかかるのをただ見守った。「何度も言ったはずでしょう?馬鹿でもわかるくらいに!」「ああ、わかっている」悟は目を伏せた。「わかってるなら、なぜ何度も私を連れ去ろうとするの?」紀美子の声は次第に激しくなっていった。「あんたほど意地の悪い人間は見たことないわ!」悟は唇を噛み、深く息を吸ってから顔を上げた。「紀美子、私と一緒に来てくれないか?」「行く?」紀美子は冷笑した。「どこへ?あんたの頑固さと身勝手さで、どれだけの無実な命が奪われたか知ってる?自首して、あの世で彼らに悔い改めるべきよ!あんたが生きていると思うと、呼吸すら苦しくなってくるの!」「彼らが無実だというが、私はどうなんだ?」悟の目には苦痛が溢れていた。「私には少しの情さえないのか?他人ならともかく、私の全てを知っている君まで……少しも分かってくれないのか?」悟の言葉に、紀美子は心の底から嫌悪を感じた。「情?」紀美子は冷ややかに嘲った。「野良犬の方が同情できるわ。ましてやついてこいなんて!もし無理やり連れ去ろうとするなら、警察に通報される覚悟でいてね!」悟は体が鉛のように重くなり、突然ひどく疲弊感を感じた。「じゃあ、私にどうしてほしいんだ?」悟は力なく尋ねた。「死んでほしい!」紀美子の声は冷たく、なんの感情も見えなかった。「天国に行けないような死に方を!」「そうすれば、君は私を許してくれるのか?」悟は苦笑した。「それで許せると思う?」「君が許してくれるなら、私は何でもする!」「そう?」紀美子は嘲るように笑った。「じゃあ、私の母と初江さん、それに朔也の命を返してよ。できたら許してあげる。どうなの?」「……つまり、君の許しは得られないのか」悟の表情は完全に暗くなった。「わかってるでしょう?悟、みっともない死に方をしたくなければ、今すぐ私を帰らせなさい!」「できない」悟の声は次第に弱くなっていった。「君だけは、死ぬまで手放す気になれない」「往生際が悪