「田中家か……」悟は唇をわずかに歪めた。「大したことはない」悟が軽い口調で答えると、晴は怒りで体が震えた。一方、悟の淡々とした口調を聞いていた紀美子の心は、不安でざわついた。「晴、もうやめて!」紀美子は晴を見て言った。しかし、晴は怒りを抑えきれず、紀美子に向かって言い返した。「お前は我慢できるかもしれねぇが、俺には無理だ!!」「もういい!!」紀美子は声を張り上げた。「いくら感情的になっても、晋太郎は戻ってこない!!」晴は驚いたように紀美子を見つめた。龍介は深くため息をついた。晋太郎はあれだけ頭が切れたのに、どうして彼の友人はこんなにも衝動的なんだ?何も知らないふりをしながら、龍介は紀美子に向かって言った。「入江社長、お忙しいようですし、今日の昼食はキャンセルしましょう」紀美子は龍介の意図を理解していた。今、悟に気づかれないようにすることが一番だ。紀美子は申し訳なさそうな表情で頷いた。「すみません、吉田社長、後の契約の件は弁護士に整理させてからお送りします。次回、ご馳走させていただきます」龍介は「うん」とだけ言って、背を向けて去って行った。龍介が去った後、紀美子は晴の側に歩み寄り、悟を冷たい目で見つめた。彼女は冷徹な口調で言った。「何をしに来たの?」悟は手に持った袋を少し上げた。「薬を届けに来た」晴は冷たく笑った。「紀美子がそんな薬を飲むわけないだろ!お前が毒を入れてないかどうかどうやって証明するんだ!」紀美子は素早く晴を一瞥した。晴は不快そうに顔を背け、見えなかったふりをした。紀美子は頭を抱えた。この男は一度感情的になると、何でもかんでも言い出しそうだ。悟は晴に構わず、紀美子の手に薬を押し込んだ。「時間通りに食事と薬をとることを忘れるな」そう言うと、悟は晴を深く一瞥し、車に乗り込んで去っていった。車が動き出すと、晴は紀美子が持っていた薬を奪い取り、勢いよく地面に投げつけた。「飲むな!」晴は言った。「調子が悪ければ、俺が晋太郎の代わりに病院に連れて行く!あんな奴の薬、誰も飲まねえよ!」「晴!」紀美子はまだ遠くにある車を心配そうに見つめ、声を低くして警告した。「悟がどんな人か忘れないで!」「俺には関
ステーキが運ばれてくると、藍子は微笑みながら悟を見つめた。「今日、私を呼び出したのは何か話があるんでしょう?」悟はステーキを切りながら、伏し目がちに尋ねた。「田中家のこと、どれくらい知ってる?」田中を聞いた瞬間、藍子は体が無意識に固まった。そして目の奥を一瞬失望の色がかすめ、声の調子も冷たくなった。「うちとそれなりに付き合いはあるけど、深くは知らないわ。それがどうかしたの?」「別に。ただ、今日晴を見かけたから」藍子は一瞬目を輝かせた。「話をしたの?」「うん。紀美子と一緒だった」悟は視線を上げた。「たぶん、佳世子の話をしていたんじゃない?」その瞬間、藍子のナイフが皿の上で不快な音を立てた。悟は彼女の動きを横目で見ながら、静かに言った。「お前は本当に好きになる価値もない相手に惚れたんだな。何年も尽くしたのに、結局看守所に送られるとは」藍子はナイフとフォークを握る手の力を強めながら、沈黙を守った。「そんな田中家すらお前のために一言も言わなかったのに、自分が可哀想だとは思わないのか?」藍子はあごをぎゅっと締め、深呼吸をしてから言った。「過去のことを持ち出しても意味がないわ」悟はナイフとフォークを置き、コーヒーを一口すすった。「悔しいなら我慢する必要はない」藍子は彼を見つめた。「どういう意味?」悟は淡々と窓の外を見ながら言った。「君が知っている通り、今の俺は力がある。十分だろ」その言葉を聞いた藍子は一瞬目を輝かせた。これは、復讐してもいいという暗示?たとえ何が起こっても、彼が支えてくれるということ?藍子は無言でテーブルのレモン水を手に取り、一口飲んだ。二十年以上の感情を蔑まれ、刑務所に入る結果で終わった。それが平気なわけがない。田中家だって、自分を嫁にとってくれるって散々言ってたくせに——晴に刑務所送りにされかけた時、あいつらは一度も見舞いに来なかった。藍子の心には、もはや失望ではなく、燃え上がるような憎しみしかなかった。今の私には後ろ盾がある。私を傷つけた人間たちを自分の手で裁いて何が悪い?しばらく沈黙した後、藍子の瞳に揺るぎない決意が宿った。「悟、私を助けて」藍子は彼に向かって言った。悟は依然として淡々としていて、
その言葉を聞いて、晴の母親は隣に座っている晴の父親を見た。晴の父親の表情も次第に固くなった。MKが貸してくれていた土地は、彼らの最大の機械生産工場の土地だった。今、それを返すとなると、代わりの土地はどうしたらいいんだ?!晴の父親は慌てて笑いながら言った。「藍子、契約には50年と書いてある。まだ少なくとも10年は残っているだろう」「違約金はきちんとお支払いします。三日以内にあなたたちの口座に振り込みます。ただし、田中家は直ちにすべての設備を撤去していただきます」藍子は言った。晴の父親の顔の色がどんどんと曇っていった。「それは塚原社長の決定か?」藍子は微笑んだ。「私の決定は、悟の決定でもあります」晴の父親はもはや笑顔を見せなかった。「君は一体何をしようとしているんだ?俺たちは君に悪くはしなかったはずだ。どうしてこんなことをするんだ?」「悪くしていない?」藍子はまるで何か面白い話を聞いたかのように、冷笑を浮かべながら言った。「私があんなに長い間留置場にいたのに、晴は私を助けてくれなかった。それが悪くしていないということか?」「それは君と晴の問題だろ!」晴の父親は言った。「むしろ、それは君が自分で招いた結果だ」藍子は口元に冷たい笑みを浮かべ、晴の母親を見ながら言った。「では、伯母さんに聞きます。伯母さん、どうして私に佳世子に手を出さないでと忠告しなかったんですか?それどころか、必ず私を田中家の嫁に迎えるなんて言って。伯母さんのその言葉があったから、私は迷わずに動いたんですよ。なのに、どうして最後の最後で私を見捨てたんですか?」晴の母親の表情は固まった。晴の父親は晴の母親を睨みつけながら言った。「お前、何を言ったんだ!?」晴の母親は体を震わせながら言った。「わ、私は何も言っていない!」すると、藍子はわざと納得したように微笑んだ。「ああ、そういうことですか。私を利用して佳世子を排除し、用が済んだら切り捨てたんですね。伯母さん、本当に素晴らしい母親ですね」晴の母親は怒りをあらわにした。「私はそんなつもりじゃなかった!あなたが自分であの女を片付けるって言ったんじゃない!私は何も頼んでいないわ!」「そうですか。それならもう話すことはありませんね」藍子は立ち上
晴は呆然としたまま言った。「俺がどうしたっていうんだ??」晴の母親は突然立ち上がり、晴を指さしながら叫んだ。「もしあなたがあの女のために藍子を牢屋に送らなければ、彼女が今私たちを恨むことなんてなかった!」晴はぼんやりとした顔で答えた。「どういうことだ??」晴の母親は泣きながら、藍子が言ったことを繰り返した。その言葉を聞いた晴は背筋が冷たくなるのを感じた。頭の中には悟の顔が浮かんだ。これは……悟の仕掛けた罠なのか?昨日悟に手を出したばかりなのに、今日こんなことが起こるなんて!悟は一体……どれだけ復讐心が強いんだ?!「出て行け!!」晴の父親は怒鳴りながら晴に向かって叫んだ。「今すぐ出て行け!!この家から出て行け!!」……家を出た後、晴はそのまま車を飛ばしてMKのビルの前に到着した。車を停めると、後部座席からバットを掴み、飛び出そうとした。しかしその瞬間、携帯が鳴った。苛立ちながら画面を確認すると、画面には佳世子の名前が表示されていた。晴は深く息を吸い、通話ボタンを押した。「……もしもし?」晴は怒りを堪えながら話しかけた。電話の向こうで、佳世子がすぐに異変を察した。「どうしたの?声がおかしいけど、何かあったの?」佳世子の気遣いを感じた晴は、目頭が熱くなった。バットをしっかりと握りしめたまま、彼は言った。「佳世子、うちが……大変なことになった……」長々と説明を終えると、佳世子はようやく状況を整理した。「もう、男のくせにウジウジしないの!起こったことは仕方ないでしょ?だったら解決策を考えなきゃ!」「……でも、どうすればいいんだよ!」晴は叫んだ。「藍子に完全に弱みを握られてるんだぞ!」「じゃあ、こっちも彼女の弱みを握ればいいじゃない」晴は少し驚いた様子で言った。「どういう意味?」佳世子はため息をつきながら言った。「晴、私が藍子が出所したって知ったとき、何て言ったか覚えてる?」晴は少し考えた後、言った。「たとえ自爆してでも、あの女だけは絶対に道連れにするって言ってたような……」「そう」佳世子は言った。「私が戻ったら、この件を片付けてあげる」その言葉を聞いた瞬間、晴の胸に自責の念が押し寄せた。喉の奥が詰まるよ
「どういう意味だ?」晴は驚きながら聞いた。「うちにはまだ工場が空いてるから、お父さんに言って、うちの工場に移転させればいいよ。それほど広くはないけど、十分使えるはずだ」晴は感謝の気持ちを込めて答えた。「隆一、本当にありがとう!お礼にお酒をおごるよ!」「おいおい、そんなこと言わなくてもいいよ。兄弟が困っているのに放っておけるはずがないだろ?」夜。紀美子が仕事を終えて帰宅すると、佳世子からメッセージが届いた。「紀美子、私、帰ることにした」メッセージを見た瞬間、紀美子の表情には喜びが浮かんだ。しかしすぐにその笑顔は消えた。佳世子が突然帰ってくるということは、何か大きな問題があるに違いない。「急にどうしたの?」紀美子は尋ねた。佳世子は簡潔に晴の状況を説明した。紀美子はため息をついた。「昨日の晴の暴走を見て、いつかこうなるとは思ってたけど……まさか、こんなに早いとはね」「別に晴が軽率だったわけじゃないよ。私だって同じ立場なら、悟をぶっ飛ばしに行ってたと思う。あの二人、いつかは決着をつけなきゃならない。紀美子、もうすぐ飛行機に乗るから、明日の夜会おう」「……分かった」晴がトラブルに巻き込まれると、佳世子の行動は早い。まぁ、そうだよね。佳世子は本当に晴を愛しているから。田中家。晴は隆一の提案を父親に伝えた。晴の父親はまだ顔色が悪かったが、少し落ち着いたようだった。晴は泣き腫らした目をしている母親に目を向けた。「母さん、父さん、もう一つ言いたいことがあるんだ」夫婦は晴を見つめた。晴は続けた。「佳世子が帰ってくる。彼女の身を守るために、何人か護衛をつけたい」「まだあの女と関わる気なの!?あの女、エイズ持ちなのよ!!」晴の母親は震える手で指差しながら怒鳴った。「全部、あの女のせいよ!!うちがこんな目に遭ったのは、全部!!」晴は眉をひそめた。「……佳世子のせい?本当にそう思ってるのか?嘘のインボイスを発行したのは、佳世子が無理やりやらせたのか?違うだろ?それに、藍子はともかく、佳世子がうちに不利益をもたらしたことがあるか?ただあなたたちが、彼女の家柄を気に入らないからって排除しようとしただけじゃないか!言っとくが、佳世子は、俺たちを助けるために戻ってくる
佳世子を見つけた瞬間、紀美子の唇には微笑みが浮かんだ。彼女は手を高く上げて、佳世子に向かって大きく手を振った。「佳世子!」その声に反応し、佳世子は紀美子の方を振り向いた。しかし、紀美子の顔に派手なメイクが施されているのを見て、一瞬誰だか分からなかった。佳世子は驚きの表情を浮かべ、早足で近づいた。「ちょっと、紀美子!?しばらく見ない間にイメチェンしたの?!クラブにでも行くつもり?」紀美子は佳世子の腕を軽く引っ張った。「違うの。話せば長くなるから、車に乗ったら説明するよ」それを聞いた佳世子は、ふと納得したように言った。「ああ、分かった。晴から話は聞いたわ」紀美子の瞳が一瞬暗くなった。「うん……その話は今は置いておこう。まずは、あなたが海外でどうしていたか、ゆっくり話して」しかし、二人が車に乗り込んだ後にも佳世子は一度も海外のことを口にしなかった。代わりに紀美子に言った。「食事は後にしよう。まず藍子のところへ行きたい」紀美子は驚いて目を瞬かせた。「そんなに急ぐの?」佳世子は深く息を吸い込むと、力強く頷いた。「うん。じゃなきゃ、話を聞いたその日のうちに飛んで帰ってきたりしないわ。晴にもまだ何も言ってないのよ」紀美子はしばらく考え込んでから言った。「分かった。悟の別荘に行きましょう。藍子はそこにいるはず」「あの二人、一緒に住んでるの?」「そう。ずっとニュースを見てたから、藍子が悟の別荘にいるのは知ってる」佳世子は少し心配そうに紀美子を見つめた。「紀美子、晋太郎のことも聞いたよ。あなた……」「大丈夫よ、佳世子」紀美子は彼女の言葉を遮るように言った。「私は乗り越えられる。それに、彼が本当に死んだなんて、信じられないもの」「そうだ、肇のこと知ってる?それと小原のことも」紀美子は眉をひそめた。「肇が今悟の側についてるのは知ってるけど、小原のことは聞いてないわ」「小原、死んだよ」佳世子は言った。「喉に深い切り傷があった」紀美子の顔色は一瞬で青ざめた。「それって……エリーがやったのか?」「エリー?」佳世子は少し考え込んでから続けた。「晴がそんな名前を言ってた気がする。でもどんな人物かは知らない」紀美子はすぐに携帯を取り出し、エリー
藍子は無意識に周囲の住人を見回し、誰かが窓を開けてこちらを見ているのを確認すると、顔色を急に変えた。怒りと悔しさを飲み込み、藍子は低い声で言った。「話があるなら、中で話しましょう」佳世子は動かずに立っていた。「どうしたの?まさか、自分がやったことを他人に知られたくないの?」藍子は体が固まり、感情が制御できなくなった。「中で話せって言ってるでしょ!!」「そう言われたからって素直に入ると思う?」佳世子は鼻で笑った。「あんな巣窟に足を踏み入れたいわけないでしょ?」藍子は両手をぎゅっと握りしめて言った。「一体、何の用で来たの?」佳世子は一歩前へ出た。ボディガードがすぐに佳世子の前に立ちはだかった。佳世子は何も言わず、ボディガードを一瞥した後、藍子に向かって言った。「ちゃんと話す気があるなら、彼らを引き下げさせなさい」藍子は息を深く吸い込みながら、呼吸を整えた。「下がって」ボディガードたちは道を開けた。佳世子は藍子の前に歩み寄ると、藍子は無意識に二歩後ろに下がった。佳世子は冷笑した。「私をそんなに恐れているなら、どうして私にあんなことしたの?」藍子は反論できる立場ではないため、佳世子の言葉に何も言い返せなかった。「今日は、あんたに伝えに来たの。晴を脅すのは今すぐやめなさい。さもないと、明日記者会見を開いて、加藤家のお嬢様が私を陥れてHIVを感染させたことを公にする!」藍子の顔が一瞬で青ざめた。「そんなことをして、あんたに何の得があるの!?帝都中に自分がHIVだって知られてもいいの!?」「それがどうしたの?」佳世子は嘲笑しながら言った。「あんたが痛い目を見れば、私はどうなろうと構わないわ!」藍子は必死に冷静さを保とうとした。「証拠もないのに、そんなことを言ったって、誰も信じないわよ」「自分が留置場に入ったこと、もう忘れたの?」佳世子は冷たく言った。「それだけじゃない。晴の手元には証拠があるわ」藍子は歯を食いしばった。「佳世子、たかが田中家のために自分の名誉を捨てるつもり?晴の母の態度は覚えてるでしょ?彼らにはあなたを受け入れる気なんてないのに、そこまでして何になるの?」佳世子は、藍子が彼女の感情を刺激しようとしていることを分かっていた。
今、この薬が役に立ちそうだ。次は、どうやってこの薬を使って佳世子と紀美子の二人を苦しませるか、じっくり考えないと。藍子が薬を元の場所に戻したちょうどその時、廊下から聞き慣れた足音が響いてきた。すぐに、ドアの開く音がした。ドアが開くと、悟が部屋の前に立っていた。藍子がいるのを見て、彼は少し眉をひそめた。「客室で何しているんだ?」藍子の心臓がドキリと跳ねた。普段は悟がこの部屋にいるので、彼の問いに対して藍子は明らかに動揺した。彼女はクローゼットを一瞥してから言い訳をした。「ちょっと、あなたのクローゼットを整理しようかと思って」悟は開けられたクローゼットを見て、冷ややかに言った。「家政婦を雇って整理させればいいだろ」藍子は頷いた。「うん、わかった。明日、家政婦を呼ぶわ。あの、話したいことがあるの」悟はネクタイを緩めながら言った。「話せ」「今晩、佳世子と紀美子が来たの」悟は手を止め、冷たく言った。「佳世子が戻ってきたのか?」「そう」藍子が答えた。「彼女は私に、田中家に手を出さないよう脅してきた」「お前、承諾したのか?」悟は冷たい口調で尋ねた。藍子は目を伏せた。「ごめん。無理だったの。彼女は私に、撤回しなければ私が彼女にしたことを公表すると脅してきたの。名誉に関わることだから、どうしてもそうするしかなかった」悟は無関心そうに言った。「そうか、わかった」「彼女には別の方法で対処するつもりよ。田中家の態度は耐えられるものじゃないから」「好きにしろ」悟は冷たく言った。「もう出ていけ」藍子は頷いた。「わかった、明日家政婦を探しておくわ」藍子は部屋を出て、ドアを閉めると、悟の目には冷徹な光が宿った。彼女の能力を少し甘く見ていたかもしれない。だが、構わない。まだ時間はある。一方。紀美子は佳世子を引き連れてレストランへ向かっていた。注文を済ませた後、紀美子はため息をつきながら佳世子を見た。「佳世子、これから悟にどう対処するか考えないと。田中家への指示はきっと悟も関係がある。あなたが彼の計画を妨害したんだから、絶対に黙ってはいないはずよ」佳世子は少し考え込んでから言った。「紀美子、私たちは受け身ではダメよ。彼らが動く前
「大河さんからいろいろ聞いた」紀美子は優しい口調で、悟のそばに座った。「全ての恨みを捨てて、どこかでまたやり直そう」悟は大河を一瞥し、明らかに不満げな視線を向けた。「君もついて来てくれるか?」紀美子は悟の浅褐色の、澄み切った瞳を見つめた。これほどの苦難を乗り越えたとは信じ難いほどの、純粋な眼差しであった。彼には彼の事情があるが、彼女にも許せないことがあった。悟を去るように説得することは、彼女の最大の譲歩だった。「それができないのは分かっているでしょう?晋太郎は私を探すのを諦めないわ。一生ビクビクしながら生きていきたいの?」紀美子は言った。「君がそばにいてくれれば、私はどうなっても構わない」悟はそう言いながら、紀美子の手に触れようとした。しかし、紀美子はとっさに手を引っ込めた。悟の手は空中で止まり、数秒間硬直した後、静かに下ろされた。「紀美子、もうこれ以上言わなくていい。君がここに少しでも長くいてくれるだけで十分だ」悟は紀美子に言った。「そして大河、お前の気持ちは分かるが、彼女を脅す必要はない」大河は一瞬呆然とした。「しかし、社長……」「もうこれ以上言うな」悟は言った。「もう十分に話したはずだ。これ以上説明しても無駄だ。お前は大海と行け」大河は納得いかず、まだどう説得しようか考えていたその時、民宿の入り口から二人の男が入ってきた。大河はその二人の体格から、彼らは訓練を受けた者たちだとすぐに分かった。彼らは普段着を着ていたが、明らかに危険なオーラを帯びていた。大河は視線を紀美子に移し、いきなり彼女を掴んだ。その急な挙動に、紀美子も悟も反応できなかった。次の瞬間、大河は悟の目の前で、再び銃を紀美子のこめかみに突きつけた。「大河、紀美子を放せ!」悟の表情は一気に冷たくなった。「嫌です!」二人の男は足を止め、険しい表情で大河を見つめた。「社長、奴らが来ました。この女を人質にして逃げましょうよ!社長もこの女を連れていきたいでしょう?俺が無理やり連れていきます!」「大河!」悟は怒声を上げた。「お前、そんなことをして何の得がある?そう簡単に彼女を連れ去れるとでも思うのか?私は強要ではなく、彼女自身の意思でついて来てほしいんだ!」「社長!
大河は一歩ずつ紀美子に迫ってきた。「社長があいつらに手を出したのは仕方がなかったんだ!本当は社長だってそうしたくなかった!あの忌まわしい父親さえいなかったら、社長だって子供の頃からお前たちと同じように過ごせた!あいつに脅迫されなかったら、彼は一生消えない傷を負わされずに済んだんだ!」「社長が最も惨めだった頃のこと、お前は知らないだろうけど、俺はよく知っている!俺は社長の資料を調べ、昔の監視カメラの録画映像も観たからな。社長は毎日のように殴られ、ドブ川の汚水をぶっかけられるどころか豚や犬の餌を食わされそうになっていた。いかがわしい女を呼び寄せ、社長の体をボロボロになるまで弄んだこともあった!社長は一人でその時期を耐え抜いたんだ!あんなことをされたら、誰でもあいつらを恨むのは当然だ。」「確かに社長の手によって多くの人の命が失われた。だが彼は、正当な理由がなければ絶対に命を奪ったりしない!社長が、自分の医療技術でどれだけの人を救い、どれだけの家庭を助けてきたかわかってるのか?俺と外にいる運転手の大海も、社長の助けがあってここまで来られたんだ!社長は資金援助だけでなく、生きる希望を与え、病気を治し、薬を提供してくれた!あんな素晴らしい人間に、なぜ世界はこんなにも不公平なんだ?」大河が怒りに震えながら吐き出した言葉を聞いて、紀美子は完全に呆然とした。彼の話からすると、悟に関してまだまだ知らないことがたくさんあるらしい。いや、知らなかったわけではない!聞いていたとしても、自分の同情を引くための嘘だと思い込んでいたのだろう。本人が話すのと、他人から聞かされるのとでは全く印象が違う。「悟に話がしたいと伝えてくれる?できるだけ早く、彼を説得してみるから」「お前のような女、何を考えてるかわかったもんじゃない!」大河は紀美子の話を遮り、いきなり彼女の襟首をつかんだ。彼は紀美子を拘束しながら、拳銃を彼女のこめかみに突きつけた。紀美子は全身が硬直したが、それでも冷静さを保ち、交渉を続けようとした。「私を殺したら、悟があんたを許すと思う?」落ち着いて話すのは通じない。紀美子は強気に出るしかなかった。「怒られるのはわかってる。俺は殺されても構わない。社長の命さえ救えればそれでいい!」「私が死んで、彼は一人で生きようとすると思
悟の部屋を出て、大河はしばらく躊躇ってからエレベーターに乗り込んだ。三階に着くと、彼は紀美子の部屋の前へと歩み寄った。「お前一人で来たのか?社長は?」佳世子を見張っていた大海は不審そうに尋ねた。「社長に内緒で来た」そう言って、大河は殺意に満ちた視線を紀美子の部屋のドアに向けた。「お前、何をする気だ?」大河の視線に気づいた大海は尋ねた。「この女さえいなければ、社長はきっと俺たちと一緒に逃げてくれる!」大河は歯を食いしばって言った。「大海、お前は社長が命を落とすのをただ見てるつもりか?こんな女のせいでよ!」「どういう意味だ?」大河は今の状況を説明した。「どんな事情があろうと、社長の命令なしでは彼女に手を出してはならん!彼女はお前に何の恨みもないだろ!」「恨みがないだと?」大河は問い詰めた。「もし社長が本当に行かなかったら、社長の言う通りに俺達だけで逃げるのか?」大海は黙り込んだ。「いや……社長は俺の家族を六年も面倒見てくれた。この恩は命をかけても返しきれない」「だから社長を連れて逃げないと、俺たち全員がこの女のせいで殺されるんだ!」大河は警告した。「たとえそうだとしても、彼女を殺しちゃいけない。彼女は社長が最も愛した女だ。もし殺したら、社長はどうなる?」大海は依然として反対した。「時間が全てを癒やしてくれるはずだ!」大河は言い放った。「俺は、たとえ社長に恨まれ、殺されても構わない!」そう言い残すと、大河はドアを押し開け紀美子の部屋に入った。その時、背後からドアが開く音がした。二人の会話を聞いていた佳世子が、我慢できずに部屋から出てきたのだ。「部屋に戻れ!」大海は慌てて振り返り、彼女を遮った。「紀美子に手を出すなんて、許さないわよ!」佳世子は焦って横を見ながら叫んだ。「紀美子!早く逃げて!この二人があんたを殺そうとしてるわ!!紀美子!!」佳世子は身を乗り出しながら叫び続けた。部屋の中では、紀美子が驚いた様子で入ってきた男を見つめた。そして外から聞こえる佳世子の叫び声に耳を澄ませた。大河が速足で近づいてくるのを見て、紀美子はすぐに布団を蹴り飛ばし、ベッドの反対側に立った。「何をする気?」彼女は警戒しながら大河に問いかけた
「お父さん、悟の車の位置がわかった!前僕たちが泊まってたホテルだ!」晋太郎は早急に電話を切り上げ、立ち上がって佑樹の元へ駆け寄り、パソコンの画面を見た。確かに、以前宿泊していたホテルだ。「悟ってやつは本当に計算高い。父さんが監視役を引き上げた途端、そこを選んぶだなんて。父さんをバカにしてるの?それとも、父さんがそこを狙わないと踏んだのか?」「今はそんなことを言っている場合じゃない。すぐに人を送って状況を確認させる」晋太郎は美月の携帯に電話をかけた。「森川社長、何かご指示ですか?」美月はすぐに応答した。「前の民宿だ。佑樹が悟の車の場所を突き止めた」美月は佑樹がこんなに早く手がかりを見つけ出したことに驚いた。彼女は携帯を持ちながら、隣でまだコードを打ち続ける技術者たちに目をやった。こいつら、子供二人にも及ばないのね!口元を少し歪ませながら、美月は心の中でそう思った。「わかりました、すぐ偵察班を向かわせます」電話を切ると、晋太郎もテーブルの上の車の鍵を手に取った。「父さんも行くの?」佑樹が声をかけた。「母さんが悟の手中にいるんだ。ここに座っていられない」晋太郎は頷いた。「俺も行く!」晴は慌てて立ち上がり、晋太郎の側へ歩み寄った。「佳世子は抑えられてるし、俺もじっとしていられない」「分かった」晋太郎は佑樹を見た。「お前と念江はここで大人しく待っていろ。何かあったらすぐに電話しろ。ボディガードも外で待機させておく」「わかった。父さん、必ず母さんと佳世子おばさんを助けてきて!」今回の民宿への移動では、晋太郎は多数のボディガードを分散させて配置した。しかし、どれだけ慎重に行動しても、大河の監視網から逃れることはできなかった。ホテル。大河は再び悟のもとへ駆けつけた。「社長、もうここはバレています!晋太郎の手下がすでに向かってきています!」しかし、座って茶を飲んでいた悟は、大河の言葉にも大して動揺を見せなかった。「彼女が行きたがらない」声は淡々としていたが、悟の心は万本の針で刺されるように痛み苦しくなっていた。「社長!命あっての復讐です!女なんかより、自分の命の方が大事じゃないんですか!」「大河、行くならお前と大海だけで行け。もう私のことを構うな
紀美子は体を無理やりに起こそうとした。悟は手を差し伸べたが、触れる前に紀美子に冷たく払いのけられた。「触らないで!」紀美子は憎悪に満ちた目で悟を睨んだ。悟は手を引っ込め、紀美子が自力で体を起こしてベッドにもたれかかるのをただ見守った。「何度も言ったはずでしょう?馬鹿でもわかるくらいに!」「ああ、わかっている」悟は目を伏せた。「わかってるなら、なぜ何度も私を連れ去ろうとするの?」紀美子の声は次第に激しくなっていった。「あんたほど意地の悪い人間は見たことないわ!」悟は唇を噛み、深く息を吸ってから顔を上げた。「紀美子、私と一緒に来てくれないか?」「行く?」紀美子は冷笑した。「どこへ?あんたの頑固さと身勝手さで、どれだけの無実な命が奪われたか知ってる?自首して、あの世で彼らに悔い改めるべきよ!あんたが生きていると思うと、呼吸すら苦しくなってくるの!」「彼らが無実だというが、私はどうなんだ?」悟の目には苦痛が溢れていた。「私には少しの情さえないのか?他人ならともかく、私の全てを知っている君まで……少しも分かってくれないのか?」悟の言葉に、紀美子は心の底から嫌悪を感じた。「情?」紀美子は冷ややかに嘲った。「野良犬の方が同情できるわ。ましてやついてこいなんて!もし無理やり連れ去ろうとするなら、警察に通報される覚悟でいてね!」悟は体が鉛のように重くなり、突然ひどく疲弊感を感じた。「じゃあ、私にどうしてほしいんだ?」悟は力なく尋ねた。「死んでほしい!」紀美子の声は冷たく、なんの感情も見えなかった。「天国に行けないような死に方を!」「そうすれば、君は私を許してくれるのか?」悟は苦笑した。「それで許せると思う?」「君が許してくれるなら、私は何でもする!」「そう?」紀美子は嘲るように笑った。「じゃあ、私の母と初江さん、それに朔也の命を返してよ。できたら許してあげる。どうなの?」「……つまり、君の許しは得られないのか」悟の表情は完全に暗くなった。「わかってるでしょう?悟、みっともない死に方をしたくなければ、今すぐ私を帰らせなさい!」「できない」悟の声は次第に弱くなっていった。「君だけは、死ぬまで手放す気になれない」「往生際が悪
悟は唇を強く結んだ。「ほら、私が提案したって無駄でしょ?あんたの結末はもう決まってるわ」「それでも、紀美子を諦めない」悟は立ち上がった。「三日あれば、全てを整えて彼女を連れていける。たとえ手下はいなくとも、金さえあれば何とかなる!」その最後の言葉に、佳世子の背筋が凍った。悟は、三日もあれば莫大な資金で逃亡経路を確保できる!「目を覚ましてよ!あんたに紀美子を連れ出せるはずがない!」佳世子は叫んだ。「道は二つだけだろ?」悟は、そう言い残すとドアを開けて出て行った。佳世子は急いでベッドから飛び降り悟を追いかけようとしたが、屈強な男に阻まれた。力づくでは無理だと悟ると、彼女は不貞腐れてベッドに戻った。一方、別の部屋では——悟はまだ眠っている紀美子の寝室に入った。ベッドの縁に座り、悟は彼女の整った顔に見入った。彼は手を伸ばし、そっと頬に触れて髪をかきあげた。「紀美子」悟は嗄れた声で呼びかけ、目に優しい眼差しを浮かべた。「五年前と何も変わっていないな。もしもっと早くこの気持ちに気づいていたら、全てが違っていただろうか?一歩踏み出していれば、今頃君は私のものになっていただろうか?」悟は声が震え出した。「負けを認めたくないが、これが現実だ。私は全てを失ってもいい。ただ……側にいてくれないか?」涙が紀美子の手の甲に落ちたのを見て、悟は慌てて拭いた。彼女には、まだ目覚めてほしくなかった。ただ静かに傍にいてくれればいい。冷たい言葉を浴びせなければいい。そう考えると胸がさらに締め付けられ、悟は涙を堪えれなかった。彼は手を引くと、シーツを強く握りしめた。その時突然、ドアがノックされた。悟は急いで涙を拭い、深く息を吸って顔を上げた。「入れ」「社長、我々のIDが特定されました!ここは時期に探知されます!」大河が慌てた様子でタブレットを持って入ってきた。「静かに」悟は唇に指を立て、紀美子の方を見た。「起こすな」大河は眠っている紀美子、そして悟の赤い目に気づいた。「社長、なぜこんな女のために危険を冒すのですか?馬鹿げています!」「お前も愛する女ができたら、きっとこの気持ちがわかるだろう」悟は静かに言った。大河には、今逃げなければ終わりだという
「馬鹿な真似はよしてよ!」佳世子は再び激怒した。「晋太郎が逃がしてくれると思う?寝言は寝てから言って」「不可能だと分かっているからこそ、君に頼んでいるんだ」悟は静かに答えた。「何で私が親友を裏切り、あんたのような悪者を助けなきゃいけないの?私の両親の命でもかけて脅すつもりなの?バカバカしい。あんたに手を貸す人なんて、もう誰もいないわ!」佳世子の言葉に、悟は無力感を感じた。「ああ、今の私には、もう紀美子しか残っていない」声を落として彼は言った。「そんな情に訴えても無駄よ。あんたは紀美子を撃ったのよ。忘れたの?彼女は、あんたの卑劣な手口のせいで飛び降り自殺しそうにもなったよね?」「嫌だ、死んでも絶対に協力しないわ!」「こうなることは分かっていた」悟は前かがみになり、肘を膝につけてうつむいた。「私は完全に敗北した。しかしまだ生きたいんだ」「生き延びてどうすんの?あんたのような悪魔は早く地獄に落ちてくれればいいのに」佳世子は罵った。「今の私が生きる唯一の希望は、紀美子の人生を見届けることだ」悟は言った。「何それ?」佳世子は問い詰めた。「好きな人を利用して、自分の人生の心残りを埋めようとしてるの?」悟は黙り込んだ。複雑な感情が佳世子の胸をよぎった。悟は確かに悪だが、その境遇は憐れでもあった。だが、そんな感情で人を傷つける権利などない!「もしあんたにまだ良心が残ってるなら、私と紀美子を帰しなさい。あんたはもう昔の力を完全に失ったのよ。それに、紀美子の子供たちがどれほど優秀かも知ってるでしょ?ここもいつか必ず晋太郎に見つかるし、その時のあんたの末路は言うまでもないわ」「一度始めたことはもう引き返せない」悟は目を上げて断言した。「死ぬか、紀美子を連れて行くかだ」「どうしてそんな極端な考え方しかできないの?」佳世子は眉をひそめた。「私に他に道があると思うか?」悟は自嘲的に笑った。「捕まれば獄死、見つかれば殺される。そうだろう?」それを聞いて、佳世子の胸は苦しくなった。昔仲が良かった頃のことを思えば思うほど、言葉は重くのしかかった。「悟、本当のことを教えて」佳世子は真剣な眼差しで悟を見つめた。「後悔しているかどうか聞きたいんだろう」
「念江がファイアウォールを突破したIDを特定してからでないと追跡できない」佑樹は小さな眉をひそめて説明した。「30分くれ。長くても30分で特定できる!」念江は言った。30分は長くないが、今は一分一秒が耐えがたいほど長く感じた。十数分経った頃、念江は極度の緊張で鼻血を出してしまった。周りの者は皆、念江の様子に胸を締め付けられた。だが念江は気に留めずに手で鼻血を拭うと、再びハッキングに集中した。「心配しないで。お医者さんに、回復期に時々鼻血が出るのは正常だと言われてるんだ。お母さんが見つかったら少し休めばいい」念江の説明を聞いて、皆はやや安心した。ちょうど29分経った時、念江はエンターキーを叩いた。「よし、IDを特定した。佑樹、後は任せた」「君は休んでおいて。残りは僕がやる」念江は青白い顔でうなずき、椅子にもたれかかった。晋太郎は彼の小さな体を抱き上げた。「父さん、大丈夫…」念江は疲れた目を開いた。「暫く休め。何かあればすぐ知らせる」晋太郎は息子をベッドに運びながら言った。「うん…」わずか数時間で、晴の顔には疲労の色が濃く出ていた。「何だか最近、自分が子供たちにすら及ばないのではないかと不安になるんだ」晋太郎が寝室から出てくると、晴は自嘲気味に笑った。「お前が役に立ったことなどあったか?」晋太郎は冷たく見下ろした。「まあ……そうだな」晴は言葉に詰まった。「唯一の長所は一途なことだな」晋太郎は軽く一言を付け加えた。「確かにその通りだ。俺の心には佳世子しかいない」晴は頭をかいた。一方、別の場所では——悟は、意識を失っている紀美子を以前滞在していた民宿に連れ込んだ。そこのボディガードは既に全員が撤収しており、最も安全な場所だった。佳世子は紀美子とは別の部屋に閉じ込められていた。悟は紀美子の布団を整えてから、佳世子の部屋に向かった。佳世子のベッドの横に座ると、悟は彼女の手を掴み、特定のツボを強く押した。すると、佳世子はパッと目を開いて、そして反射的に手を引っ込めた。見慣れない景色を見て彼女は慌てて起き上がり、ようやく隣に人が座っていることに気付いた。悟と目が合うと、佳世子は眉をひそめた。「悟!やはりあんただったのね!」
その時、晋太郎もボディガードからの連絡を受け取った。隅々まで探したが、結局紀美子と佳世子の姿は見つからなかった。警察もすぐに到着し、ホテル全体を捜索し始めた。それでも、二人が見つかることはなかった。その報告を聞いた晋太郎は、怒りで窓ガラスに拳を叩きつけた!ガラスの割れる大きな音に、佑樹と念江は体を震わせた。二人はそのまま、手から血を流しながら震える父を驚いた表情で見つめた。父に何を言っても無駄だということも分かっていたため、ただ歯を食いしばった。「悟の仕業だ」晋太郎は険しい表情で窓際に立った。ここまで完璧に痕跡を消せるのは、奴しかいない!今、彼を悩ませているのは、悟が紀美子たちをどこに隠したかということだ。奴の勢力はもう完全に潰したはずだが、今最も恐れているのは、奴が紀美子を連れて完全に姿を消すことだった。そうなると、大海原で針を探すようなもので、手がかりすらつかめないだろう。晴が事情聴取を終え警察署から戻ってきても、子供たちはまだパソコンを操作していた。晴はソファに崩れ落ち、頭を抱えてうなだれた。「くそっ!!!絶対に悟だ!!あいつに違いない!!晋太郎、何とかして二人を助けてくれ!悟は紀美子を傷つけないかもしれないが、佳世子は殺されるかもしれない!」晴は晋太郎に助けを求めた。「分かってる!既にあの辺りに配置していたボディガードを引き上げさせた。これからは山と町内を徹底的に調べさせる!美月も動き出している!」晋太郎は歯を食いしばりながら言った。「お父さん、相手の車のナンバーは分かる?正確な情報があれば、もっと早く調べられる!」突然、佑樹が振り返って言った。晋太郎は直ちに美月に電話をかけた。通話が繋がると、美月が話す前に佑樹が切り出した。「美月さん、悟たちの車のナンバーって分かる?」「分かるわ」美月は答えた。「9000だけど、あっちの技術者が、通った場所の監視カメラの録画データを全て消してるわ」佑樹は念江を見た。「念江、ダメなら先生に頼ろう!できるだけ早く母さんと佳世子さんを見つけないと」「わかった、今電話する!」念江は言った。隆久はすぐ電話に出た。念江が状況を説明しようとした時、電話の向こう側からマウスボタンのクリック音が聞こえてきた。