ペンを置くと、悟は窓側に近づき、下を見下ろした。会社の入り口の前に、うじゃうじゃ待ち構えている記者たちを見て、ぶつぶつと言った。「本当に根性があるな。昨晩から今までずっとあそこに待ち構えてやがる。理仁も理仁で、珍しくのろけてこんな大袈裟にアピールするとはね」天地をひっくり返したような騒動なのに、肝心の理仁の奥様は相変わらず平穏な日常を送っている。理仁は妻を完璧に守っていた。会社の社員は大体唯花に会ったことがあるが、誰一人としてそのことを口に出す者はいない。結城家の人間ならさらに言うまでもない。メディアにどんなに詰め寄られても、誰も一言も何も言わなかった。今日、星城の上流社会では、誰もが人と会うたびに、最初に口に出すのは必ず「結城社長の奥様は誰か知っていますか」という言葉だった。ビジネスの商談の場でさえ、最後お開きになったら、取引先たちが「結城社長の奥さんは一体どの方ですか」と聞かずにはいられない状況だった。悟もこの状況に対して煩わしいと思っていた。彼は理仁と最も親しいから、多くの人が彼から情報を聞き出そうとしていたのだ。あいにく、彼は一番知りながら、何も語れない立場なのだ。これほどの騒動を引き起こした張本人である理仁は、いたって穏やかで、普段通りに仕事をこなしていた。昼休みになると、いつものようにボディーガードに囲まれてスカイロイヤルホテルまで行き、日高マネージャーに電話で唯花の好物の料理を届けるように頼んだ。ついでに、花屋で花束を買って一緒に送るように依頼した。唯一、予想外だったのは、ホテルの入り口で玲凰と出くわしたことだった。神崎グループも傘下にホテルを所有している。玲凰と理仁はライバル同士だった。普段なら、玲凰は絶対スカイロイヤルに来るはずがない。今日は玲凰は顧客とのビジネスのためここに来ていたのだ。顧客がスカイロイヤルでビジネスのことを話し合おうと頼んだのだろう。二人の社長はホテルの前で止まり、周りの空気も一瞬凍り付いた。理仁の後ろにはボディーガードたちが、玲凰の後ろには神崎グループの管理職の社員と秘書が数名いた。両方の威圧感はどちらも相当なものだった。二人の後ろにいる人たちは、その二人が対峙したとたん、無意識にその場で止まった。玲凰の視線は真っ先に理仁の左手へ向かった。その薬指
「その幸運な方は一体どこのお嬢様でしょうかね?」玲凰は答えが得られないとわかっていながら、それでも尋ねた。妹が誰に負けたのか知りたがっているのだ。理仁は玲凰を暫く見つめて、口を開いた。「神崎社長、これは俺のプライバシーですから、お答えできませんな」やはり答えてくれなかった。玲凰はその結果を受け入れ、怒らず落ち着いて微笑んだ。「結城社長は本当に奥様を大切にしていますね」「妻と結婚する時、彼女を愛し、守り、一生彼女一人だけ愛すると誓いましたから」玲凰「……結城社長は奥様にぞっこんですね」妹の姫華はやはり理仁と縁がなかったのだ。結構前から妹に理仁のことを諦めるよう説得していたが、妹がそれを聞き入れなかったから、今はこうして苦しんでいるのだ。玲凰は心の中でため息をついた。もし理仁が姫華を愛してくれるなら、彼はもちろん妹を支持し、結城グループとの不仲な状況を解消するために全力を尽くすつもりだった。なぜなら、それは理仁が誰かを愛すると絶対浮気しない人だということを知っているからだ。理仁に愛された女性は、一生溺愛される。同時に、もし理仁が裏切られたら、彼は一生立ち直れないだろう。「神崎社長も奥様にぞっこんでしょう?奥様はいつも幸せそうですね。神崎さんも周りでは有名な愛妻家だと知られていますよね」最愛の妻の話題になると、玲凰の目元が優しくなり、微笑みながら言った。「結城社長のおっしゃった通り、俺も結婚した時、妻を愛し、守り、一生愛すると誓いましたよ」「ご夫婦の仲良しさが羨ましいですよ。いつか時間があったら、どうすれば神崎社長のような愛妻家になれるか、ぜひ教えていただきたいですね」周りの人たち「……」不仲な二人が一緒に座り、どうすれば愛妻家になれるかを話し合うシーンなど、到底想像はできなかった。玲凰は笑った。「結城社長はもう立派な愛妻家ですよ」そうでなければ、わざわざ立ち止まって話したりしないだろう。暫く沈黙してから、理仁はまた微笑んだ。彼は玲凰に「こちらへどうぞ」というジェスチャーをしながら言った。「せっかく神崎社長がうちのホテルにいらっしゃったんですから、食事をご一緒しませんか」玲凰は自分の顧客へ視線を向けた。相手はすぐ返事した。「結城社長とご一緒できるとは光栄ですよ」食事だけして商談
一日中、ずっと結城社長が実は既婚者であり、愛妻家でもあるというゴシップを見ていた唯花は、夜ドレッサーの前でフェイスパックを貼りながら理仁に言った。「今日は一日中ずっと結城社長の噂を聞いたのよ」理仁は「うん」と返事し、何事もなかったように聞いた。「どんな噂?」「知らないの?」唯花は振り向いて彼を見た。「結城社長が実は既婚者ということを公表したけど、その奥さんが誰なのか誰も知らないんだって。姫華の話だと、上流社会ではもう大騒ぎになってるそうよ。理仁さん、あなた結城グループで働いているでしょ?情報とか持ってない?社長夫人は一体誰なの?芸能記者たちが長い間会社の前で待ち構えていたけど、結局何も掴めず、仕方なく諦めて帰って行ったそうよ」理仁は椅子を引き寄せ、妻の傍に座り、彼女がパックを貼っているのを見た。そして、そのパッケージを取り、ブランド名を確認した。それはなかなかいいブランドで、値段も高い。「姫華にもらったのよ。普段あまり使ったことないけど、今夜使ってみるわ」それを聞くと、理仁は眉をひそめて言った。「これから神崎さんからもらったスキンケア用品を使わないで。普段どんなブランドを使っているか教えて、俺が買ってあげるから」「姫華からたくさんもらったの。使わないともったいないわよ。それに、姫華は女の子だよ?それでもヤキモチ?」理仁は手を伸ばし、指で彼女の顔をつついた。「君が俺を心の第一位に置いてくれるまでは、誰であろうと君の視線を俺から奪ったらヤキモチを焼くよ」「ふふ、前に『ヤキモチなんか絶対焼かない!』って言ってたのはどこの誰なのかしらね?」理仁「……」「理仁さん、早く教えてよ。社長夫人は誰なの?」理仁はおかしそうに笑った。「うちの社長のことに興味ないって言わなかった?」「全く興味がないわけじゃないけど、わざわざ聞き回ったりはしないよ。だって私と結城社長は全く別世界の人間のようなものだからね。あなたは結城グループで働いているのに、社長に会うのも難しいんだから。私なんて一生会えないでしょう。だから、彼の噂なんてわざわざ聞き回る気がないのよ。でも、今回の件はあまりにも話題になってたから、ちょっと聞いてみたいだけ。一番重要なのは、姫華が社長夫人が誰かを知りたがっているってこと」理仁は警戒して尋ねた。「神崎さんは
「唯花さん、神崎夫人とのDNA鑑定結果はもうすぐ出るだろう?」理仁は素早く話題を変えた。これ以上自分のゴシップを聞きたくなかったのだ。彼はただのろけたくて、インスタで自分がもう結婚したというアピールをしただけなのに、まさかこんな大事になるとは思わなかった。妻まで彼のゴシップに一日中夢中になっている。「姫華が明日結果を取りに行くって」理仁は「そう」と返事し、すぐに言った。「もし結果で神崎夫人と血縁関係があるとわかったら、きっとまた会うことになるだろう。俺はたぶん行けないんだ。明日から出張だから」唯花は顔を上げて彼を見た。「出張に行く必要はなくなったかと思った」理仁は無言で彼女を見つめた。やはり、彼女は自分が早く出張に行くのを待っているようだ。出張から戻った時、彼女が彼の顔すら覚えてなかったらどうすればいいんだ?「チケットはもう予約したの?何時のフライト?空港まで送るよ。明日早く起きて、荷物をまとめてあげるね」唯花は自分がよくできる妻だと思った。夫が出張するのに、荷物をまとめて空港まで送ってあげるのだから。「午前十時三十五分のフライトなんだ。送ってくれなくていいよ。先に会社へ資料を取りに行かないと。その後、同僚と一緒に会社の車で空港に向かうよ」唯花は頷いた。これなら彼女の手間も省けるのだ。「神崎夫人との鑑定結果が出たら、メッセージを送ってくれる?出張中は忙しくて、深夜にならないとメッセージをチェックする暇がないかも。でも送ってくれれば必ず見るよ」「わかった。結果が出たらすぐ教えるよ」理仁がわざと出張中は深夜まで働くと言ったのは、唯花が昼間に電話をかけてきた時、姫華も同席している可能性を考慮していたからだ。「ところで、明凛と九条さんのことなんだけど、私たちもっとあの二人を押してみる?今日、明凛は九条さんの本当の役職を知って、レベルが高いって尻込みし始めたのよ」理仁は「それはあの二人のことなんだから、俺らは見守るだけでいいよ。紹介してあげた後はどうなるか、彼ら次第だろう」と言った。唯花は笑った。「そうよね。自然の成り行きに任せるといいね。あの二人は本当にお似合いだと思うの。うまくいってほしいわ」明凛は悟にあまり興味がないようだった。悟もそれほど積極的ではなかった。たぶん仕事が忙しいのだろう。
彼らの家には貸出している不動産がたくさんあり、家賃をもらうだけでもちゃんと食べていけるということを誰が想像できるだろう?牧野家はまさにこれだ。「やっぱり、九条さんと付き合ってみるように勧めてみよう。彼女も九条さんと親しくなれば、きっと愛が芽生えるはずよ」明凛から悟について聞いた後、唯花は悟と明凛が似た者同士だと感じた。二人とも賑やかなのが好きで、悟から一番早く面白いゴシップが聞けるだろうし。「悟に聞いたんだ。彼は牧野さんが印象深い女性だって言ってたぞ。少し時間をあげればきっと行動するよ。今はもうすぐ年越しだろう、社員全員が忙しいから、悟のような立場の人はなおさらだ。年明けの休みに入れば、彼も余裕があって、プライベートに費やす時間ができるよ」彼が出張している間、悟は辰巳と一緒に会社を管理しなければならないから、当然忙しくなるのだ。唯花は頷いた。彼女も明凛が結婚して遠くに行ってしまうのが嫌だった。もし明凛が悟とうまくいけば、そう、理仁にもメリットがあるのだ。彼は悟のバックアップがあり、昇進や昇給もでき、唯花たちは今よりも裕福になるだろう。だがしかし、なんだか友達を売ってお金を稼いでいるようだが……夫婦二入は赤い糸を引く話で盛り上がり、唯花は時間だと気づいて、フェイスパックを外しに立ち上がり、洗面所へ行った。暫くして洗面所から出てくると、まっすぐベッドに向かい、ベッドに上がりながらスリッパを脱いだ。彼女はベッドに横になると、隣のスペースを叩いて理仁に言った。「理仁さん、早くこっち来て。抱き付いて温まりたいの。そうしたらよく寝れるから」理仁は顔色が暗くなった。「俺のことをホッカイロか何かと思っているの?」「ホッカイロは時間がきたら冷めるけど、理仁さんならずっと温かいし、ホッカイロより長持ちで便利なのよ」理仁「……」彼は近づき、彼女の隣に寝た。横向きになって彼女に向き合い、軽く彼女の頭を叩いた。「俺は君にとってただの暖を取るものなのか?他にないの?」「今の私にはほかに何が考えられるっていうの?」唯花は自然に彼の胸に潜り込んだ。「暖房をつけようって言ったら、乾燥して耐えられないってあなたが言ったでしょ?最近特に寒いし、あなたに抱きついて暖かくするしかないよ」ドアと窓をきっちり閉めても、やはり寒い。最大の原因は彼
十月の東京は残暑でまだ汗ばむほど暑く、朝夕だけ秋の気配があり涼しさを感じられた。 内海唯花は朝早く起きると姉家族三人に朝食を作り、戸籍謄本を持ってこっそりと家を出た。 「今日から俺たちは生活費にしろ、家や車のローンにしろ、全部半々で負担することにしよう。出費の全部だからな!お前の妹は俺たちの家に住んでるんだから、彼女にも半分出させろよ。一ヵ月四万なんて雀の涙程度の金じゃ、タダで住んで飲み食いしてるのと同じじゃないか」 これは昨夜姉と義兄が喧嘩している時に、内海唯花が聞こえた義兄の放った言葉だった。 彼女は、姉の家から出ていかなければならなかった。 しかし、姉を安心させるためには結婚するのがただ一つの方法だった。 短期間で結婚しようとしても、男友達すらいない彼女は結城おばあさんの申し出に応えることにした。彼女がなんとなく助けたおばあさんが、なかなか結婚できない自分の孫の結城理仁と結婚してほしいと言ってきたのだった。 二十分後、内海唯花は役所の前で車を降りた。 「内海唯花さん」 車から降りるとすぐ、内海唯花は聞きなれた声が自分を呼ぶのが聞こえた。結城おばあさんだ。 「結城おばあさん」 内海唯花は速足で近づいていき、結城おばあさんのすぐ横に立っている背の高い冷たい雰囲気の男の姿が目に入った。おそらく彼が結婚相手である結城理仁なのだろう。 もっと近づき、内海唯花が結城理仁をよく見てみると、思わず驚いてしまった。 結城おばあさんが言うには孫の結城理仁は、もう三十歳なのに、彼女すら作らないから心配しているらしかった。 だから内海唯花は彼がとても不細工な人なのだと勝手に思い込んでいたのだ。 しかも、聞いたところによると、彼はある大企業の幹部役員で、高給取りらしいのだ。 この時初めて彼に会って、自分が誤解していたことに気づいた。 結城理仁は少し冷たい印象を人に与えたが、とてもハンサムだった。結城おばあさんのそばに立ち、浮かない顔をしていたが、それがかえってクールに見えて、人を近づけない雰囲気を醸し出していた。 目線を少しずらしてみると、近くに駐車してある黒い車はホンダの車で、決して何百万もするような高級車ではなかった。それが内海唯花に結城理仁との距離を近づけされてくれた。 彼女は同級生の友人と一緒に公立星城
「もう決めたことですから、後悔なんてしませんよ」 内海唯花も何日も悩んだうえで決断した。一度決めたからには決して後悔などしないのだ。 結城理仁は彼女のその言葉を聞くと、もう何も言わずに自分が用意してきた書類を出して役所の職員の前に置いた。 内海唯花も同じようにした。 こうして二人は迅速に結婚の手続きを終えた。それは十分にも満たない短い時間だった。 内海唯花が結婚の証明書類を受け取った後、結城理仁はズボンのポケットから準備していた鍵を取り出し唯花に手渡して言った。「俺の家はトキワ・フラワーガーデンにある。祖母から君は星城高校の前に書店を開いていると聞いた。俺の家は君の店からそんなに遠くない。バスで十分ほどで着くだろう」 「車の免許を持っているか?持っているなら車を買おう。頭金は俺が出すから、君は毎月ローンを返せばいい。車があれば通勤に便利だろうからな」 「俺は仕事が忙しい。毎日朝早く夜は遅い。出張に行くこともある。君は自分の事は自分でやってくれ、俺のことは気にしなくていい。必要な金は毎月十日の給料日に君に送金するよ」 「それから、面倒事を避けるために、今は結婚したことは誰にも言わないでくれ」 結城理仁は会社で下に命令するのが習慣になっているのだろう。内海唯花の返事を待たず一連の言葉を吐き捨てていった。 内海唯花は姉が自分のために義兄と喧嘩するのをこれ以上見たくないため喜んでスピード結婚を受け入れた。姉を安心させるために彼女は結婚して姉の家から引っ越す必要があったのだ。これからはルームメイトのような関係でこの男と一緒に過ごすだけでいいのだ。 結城理仁が自分から家の鍵を差し出したので、彼女も遠慮なくそれを受け取った。 「車の免許は持ってますけど、今は車を買う必要はないです。毎日電動バイクで通勤していますし、最近新しいバッテリーに交換したばかりです。乗らないともったいないでしょう」 「あの、結城さん、私たち出費の半分を私も負担する必要がありますか?」 姉夫婦とは情がある関係といえども、義兄は出費の半分を出すように要求してきた。いつも姉のほうが苦労していないのに得をしていると思っているのだろう。 子供の世話をし、買い物に行ってご飯を作り、掃除をするのにどれほど時間がかかるか知りもしないだろう。自分でやったことのない男
「おばあちゃん、頼りにしてるよ」 内海唯花は適当に答えた。 結城理仁は血の繋がった孫で、彼女はただの義理の孫娘だ。結城おばあさんがいくら良い人だといっても、夫婦間で喧嘩した時に結城家が彼女の味方になるだろうか。 内海唯花は絶対に信じなかった。 例えば彼女の姉の義父母を例に挙げればわかりやすい。 結婚前、姉の義父母は姉にとても親切で、彼らの娘も嫉妬してしまうほどだった。 しかし、結婚したとたん豹変したのだ。毎回姉夫婦間でいざこざがあった時、姉の義母は決まって姉を妻としての役目を果たしていないと責めていた。 つまり、自分の息子は永遠に内の者で、嫁は永遠に外の者なのだ。 「仕事に行くのでしょうから、おばあちゃんは邪魔しないことにするわね。今夜理仁くんにあなたを迎えに行かせるわ。一緒に晩ご飯を食べましょう」 「おばあちゃん、うちの店は夜遅くに閉店するの。たぶん夜ご飯を食べに行くのはちょっと都合が悪いわ。週末はどうかな?」 週末は学校が休みだ。本屋というのは学校があるからこそやっていけるもので、休みになると全く商売にならなくなる。店を開ける必要がなくなって彼女はようやく時間がとれるのだ。 「それもいいわね」 結城おばあさんは優しく言った。「じゃあ、週末にまたね。いってらっしゃい」 おばあさんは自分から電話を終わらせた。 内海唯花は今すぐ店に行くのではなく、先に親友の牧野明凛にメッセージを送った。彼女は高校生たちが下校する前に店に戻るつもりだった。 人生の一大イベントを終え、彼女は姉に一言伝えてから引越しなければならなかった。 十数分が経った。 内海唯花は姉の家に戻ってきた。 義兄はすでに仕事に行って家にはおらず、姉がベランダで服を干していた。妹が帰ってきたのを見て、心配して尋ねた。「唯花ちゃん、なんでもう帰ってきたの?今日お店開けないの?」 「ちょっと用事があるから後で行くの、陽ちゃんは起きてないの?」 佐々木陽は内海唯花の二歳になったばかりの甥っ子で、まさにやんちゃな年頃だった。 「まだよ、陽が起きてたらこんなに静かなわけないでしょう」 内海唯花は姉が洗濯物を干すのを一緒に手伝い、昨晩の話になった。 「唯花ちゃん、あの人はあなたを追い出したいわけじゃないのよ。彼ストレスが大きいみたい
彼らの家には貸出している不動産がたくさんあり、家賃をもらうだけでもちゃんと食べていけるということを誰が想像できるだろう?牧野家はまさにこれだ。「やっぱり、九条さんと付き合ってみるように勧めてみよう。彼女も九条さんと親しくなれば、きっと愛が芽生えるはずよ」明凛から悟について聞いた後、唯花は悟と明凛が似た者同士だと感じた。二人とも賑やかなのが好きで、悟から一番早く面白いゴシップが聞けるだろうし。「悟に聞いたんだ。彼は牧野さんが印象深い女性だって言ってたぞ。少し時間をあげればきっと行動するよ。今はもうすぐ年越しだろう、社員全員が忙しいから、悟のような立場の人はなおさらだ。年明けの休みに入れば、彼も余裕があって、プライベートに費やす時間ができるよ」彼が出張している間、悟は辰巳と一緒に会社を管理しなければならないから、当然忙しくなるのだ。唯花は頷いた。彼女も明凛が結婚して遠くに行ってしまうのが嫌だった。もし明凛が悟とうまくいけば、そう、理仁にもメリットがあるのだ。彼は悟のバックアップがあり、昇進や昇給もでき、唯花たちは今よりも裕福になるだろう。だがしかし、なんだか友達を売ってお金を稼いでいるようだが……夫婦二入は赤い糸を引く話で盛り上がり、唯花は時間だと気づいて、フェイスパックを外しに立ち上がり、洗面所へ行った。暫くして洗面所から出てくると、まっすぐベッドに向かい、ベッドに上がりながらスリッパを脱いだ。彼女はベッドに横になると、隣のスペースを叩いて理仁に言った。「理仁さん、早くこっち来て。抱き付いて温まりたいの。そうしたらよく寝れるから」理仁は顔色が暗くなった。「俺のことをホッカイロか何かと思っているの?」「ホッカイロは時間がきたら冷めるけど、理仁さんならずっと温かいし、ホッカイロより長持ちで便利なのよ」理仁「……」彼は近づき、彼女の隣に寝た。横向きになって彼女に向き合い、軽く彼女の頭を叩いた。「俺は君にとってただの暖を取るものなのか?他にないの?」「今の私にはほかに何が考えられるっていうの?」唯花は自然に彼の胸に潜り込んだ。「暖房をつけようって言ったら、乾燥して耐えられないってあなたが言ったでしょ?最近特に寒いし、あなたに抱きついて暖かくするしかないよ」ドアと窓をきっちり閉めても、やはり寒い。最大の原因は彼
「唯花さん、神崎夫人とのDNA鑑定結果はもうすぐ出るだろう?」理仁は素早く話題を変えた。これ以上自分のゴシップを聞きたくなかったのだ。彼はただのろけたくて、インスタで自分がもう結婚したというアピールをしただけなのに、まさかこんな大事になるとは思わなかった。妻まで彼のゴシップに一日中夢中になっている。「姫華が明日結果を取りに行くって」理仁は「そう」と返事し、すぐに言った。「もし結果で神崎夫人と血縁関係があるとわかったら、きっとまた会うことになるだろう。俺はたぶん行けないんだ。明日から出張だから」唯花は顔を上げて彼を見た。「出張に行く必要はなくなったかと思った」理仁は無言で彼女を見つめた。やはり、彼女は自分が早く出張に行くのを待っているようだ。出張から戻った時、彼女が彼の顔すら覚えてなかったらどうすればいいんだ?「チケットはもう予約したの?何時のフライト?空港まで送るよ。明日早く起きて、荷物をまとめてあげるね」唯花は自分がよくできる妻だと思った。夫が出張するのに、荷物をまとめて空港まで送ってあげるのだから。「午前十時三十五分のフライトなんだ。送ってくれなくていいよ。先に会社へ資料を取りに行かないと。その後、同僚と一緒に会社の車で空港に向かうよ」唯花は頷いた。これなら彼女の手間も省けるのだ。「神崎夫人との鑑定結果が出たら、メッセージを送ってくれる?出張中は忙しくて、深夜にならないとメッセージをチェックする暇がないかも。でも送ってくれれば必ず見るよ」「わかった。結果が出たらすぐ教えるよ」理仁がわざと出張中は深夜まで働くと言ったのは、唯花が昼間に電話をかけてきた時、姫華も同席している可能性を考慮していたからだ。「ところで、明凛と九条さんのことなんだけど、私たちもっとあの二人を押してみる?今日、明凛は九条さんの本当の役職を知って、レベルが高いって尻込みし始めたのよ」理仁は「それはあの二人のことなんだから、俺らは見守るだけでいいよ。紹介してあげた後はどうなるか、彼ら次第だろう」と言った。唯花は笑った。「そうよね。自然の成り行きに任せるといいね。あの二人は本当にお似合いだと思うの。うまくいってほしいわ」明凛は悟にあまり興味がないようだった。悟もそれほど積極的ではなかった。たぶん仕事が忙しいのだろう。
一日中、ずっと結城社長が実は既婚者であり、愛妻家でもあるというゴシップを見ていた唯花は、夜ドレッサーの前でフェイスパックを貼りながら理仁に言った。「今日は一日中ずっと結城社長の噂を聞いたのよ」理仁は「うん」と返事し、何事もなかったように聞いた。「どんな噂?」「知らないの?」唯花は振り向いて彼を見た。「結城社長が実は既婚者ということを公表したけど、その奥さんが誰なのか誰も知らないんだって。姫華の話だと、上流社会ではもう大騒ぎになってるそうよ。理仁さん、あなた結城グループで働いているでしょ?情報とか持ってない?社長夫人は一体誰なの?芸能記者たちが長い間会社の前で待ち構えていたけど、結局何も掴めず、仕方なく諦めて帰って行ったそうよ」理仁は椅子を引き寄せ、妻の傍に座り、彼女がパックを貼っているのを見た。そして、そのパッケージを取り、ブランド名を確認した。それはなかなかいいブランドで、値段も高い。「姫華にもらったのよ。普段あまり使ったことないけど、今夜使ってみるわ」それを聞くと、理仁は眉をひそめて言った。「これから神崎さんからもらったスキンケア用品を使わないで。普段どんなブランドを使っているか教えて、俺が買ってあげるから」「姫華からたくさんもらったの。使わないともったいないわよ。それに、姫華は女の子だよ?それでもヤキモチ?」理仁は手を伸ばし、指で彼女の顔をつついた。「君が俺を心の第一位に置いてくれるまでは、誰であろうと君の視線を俺から奪ったらヤキモチを焼くよ」「ふふ、前に『ヤキモチなんか絶対焼かない!』って言ってたのはどこの誰なのかしらね?」理仁「……」「理仁さん、早く教えてよ。社長夫人は誰なの?」理仁はおかしそうに笑った。「うちの社長のことに興味ないって言わなかった?」「全く興味がないわけじゃないけど、わざわざ聞き回ったりはしないよ。だって私と結城社長は全く別世界の人間のようなものだからね。あなたは結城グループで働いているのに、社長に会うのも難しいんだから。私なんて一生会えないでしょう。だから、彼の噂なんてわざわざ聞き回る気がないのよ。でも、今回の件はあまりにも話題になってたから、ちょっと聞いてみたいだけ。一番重要なのは、姫華が社長夫人が誰かを知りたがっているってこと」理仁は警戒して尋ねた。「神崎さんは
「その幸運な方は一体どこのお嬢様でしょうかね?」玲凰は答えが得られないとわかっていながら、それでも尋ねた。妹が誰に負けたのか知りたがっているのだ。理仁は玲凰を暫く見つめて、口を開いた。「神崎社長、これは俺のプライバシーですから、お答えできませんな」やはり答えてくれなかった。玲凰はその結果を受け入れ、怒らず落ち着いて微笑んだ。「結城社長は本当に奥様を大切にしていますね」「妻と結婚する時、彼女を愛し、守り、一生彼女一人だけ愛すると誓いましたから」玲凰「……結城社長は奥様にぞっこんですね」妹の姫華はやはり理仁と縁がなかったのだ。結構前から妹に理仁のことを諦めるよう説得していたが、妹がそれを聞き入れなかったから、今はこうして苦しんでいるのだ。玲凰は心の中でため息をついた。もし理仁が姫華を愛してくれるなら、彼はもちろん妹を支持し、結城グループとの不仲な状況を解消するために全力を尽くすつもりだった。なぜなら、それは理仁が誰かを愛すると絶対浮気しない人だということを知っているからだ。理仁に愛された女性は、一生溺愛される。同時に、もし理仁が裏切られたら、彼は一生立ち直れないだろう。「神崎社長も奥様にぞっこんでしょう?奥様はいつも幸せそうですね。神崎さんも周りでは有名な愛妻家だと知られていますよね」最愛の妻の話題になると、玲凰の目元が優しくなり、微笑みながら言った。「結城社長のおっしゃった通り、俺も結婚した時、妻を愛し、守り、一生愛すると誓いましたよ」「ご夫婦の仲良しさが羨ましいですよ。いつか時間があったら、どうすれば神崎社長のような愛妻家になれるか、ぜひ教えていただきたいですね」周りの人たち「……」不仲な二人が一緒に座り、どうすれば愛妻家になれるかを話し合うシーンなど、到底想像はできなかった。玲凰は笑った。「結城社長はもう立派な愛妻家ですよ」そうでなければ、わざわざ立ち止まって話したりしないだろう。暫く沈黙してから、理仁はまた微笑んだ。彼は玲凰に「こちらへどうぞ」というジェスチャーをしながら言った。「せっかく神崎社長がうちのホテルにいらっしゃったんですから、食事をご一緒しませんか」玲凰は自分の顧客へ視線を向けた。相手はすぐ返事した。「結城社長とご一緒できるとは光栄ですよ」食事だけして商談
ペンを置くと、悟は窓側に近づき、下を見下ろした。会社の入り口の前に、うじゃうじゃ待ち構えている記者たちを見て、ぶつぶつと言った。「本当に根性があるな。昨晩から今までずっとあそこに待ち構えてやがる。理仁も理仁で、珍しくのろけてこんな大袈裟にアピールするとはね」天地をひっくり返したような騒動なのに、肝心の理仁の奥様は相変わらず平穏な日常を送っている。理仁は妻を完璧に守っていた。会社の社員は大体唯花に会ったことがあるが、誰一人としてそのことを口に出す者はいない。結城家の人間ならさらに言うまでもない。メディアにどんなに詰め寄られても、誰も一言も何も言わなかった。今日、星城の上流社会では、誰もが人と会うたびに、最初に口に出すのは必ず「結城社長の奥様は誰か知っていますか」という言葉だった。ビジネスの商談の場でさえ、最後お開きになったら、取引先たちが「結城社長の奥さんは一体どの方ですか」と聞かずにはいられない状況だった。悟もこの状況に対して煩わしいと思っていた。彼は理仁と最も親しいから、多くの人が彼から情報を聞き出そうとしていたのだ。あいにく、彼は一番知りながら、何も語れない立場なのだ。これほどの騒動を引き起こした張本人である理仁は、いたって穏やかで、普段通りに仕事をこなしていた。昼休みになると、いつものようにボディーガードに囲まれてスカイロイヤルホテルまで行き、日高マネージャーに電話で唯花の好物の料理を届けるように頼んだ。ついでに、花屋で花束を買って一緒に送るように依頼した。唯一、予想外だったのは、ホテルの入り口で玲凰と出くわしたことだった。神崎グループも傘下にホテルを所有している。玲凰と理仁はライバル同士だった。普段なら、玲凰は絶対スカイロイヤルに来るはずがない。今日は玲凰は顧客とのビジネスのためここに来ていたのだ。顧客がスカイロイヤルでビジネスのことを話し合おうと頼んだのだろう。二人の社長はホテルの前で止まり、周りの空気も一瞬凍り付いた。理仁の後ろにはボディーガードたちが、玲凰の後ろには神崎グループの管理職の社員と秘書が数名いた。両方の威圧感はどちらも相当なものだった。二人の後ろにいる人たちは、その二人が対峙したとたん、無意識にその場で止まった。玲凰の視線は真っ先に理仁の左手へ向かった。その薬指
明凛は姫華に激しく揺さぶられ、目が回りそうになった。彼女は姫華の手を押しながら慌てて言った。「姫華、私は九条さんとはただ一度お見合いをしただけよ。それ以外何もないの。私が聞いてもきっと教えてくれないわよ」「明凛、あの九条悟とお見合いしたの?」姫華は驚きのあまり、声を上げた。「九条悟と言ったら、星城で最もハイスペックな独身男性の一人よ」明凛が悟とお見合いできる資格があるかどうかについては、姫華は疑わなかった。なぜなら、明凛は星城にある富豪家の娘で、そのおばが金城家の奥様だからだ。上流社会のパーティーに、そのおばはよく明凛を連れて行っていた。しかし、明凛が大塚夫人の誕生日パーティーで床に寝転がるという大胆な行動に出てからというもの、おばはもう彼女を連れてパーティーへ行かなくなった。「唯花の旦那さんが紹介してくれたのよ」唯花は笑って、大人しく白状した。「うちの旦那は九条さんを完全に味方につけたようね。九条さんが仕事が忙しすぎて、まだ独身なことを知って、明凛ならちょうどふさわしいと思ったのよ。それで、勇気を出してその赤い糸を引こうとしてみたの」「唯花、旦那さんもなかなかすごい人だわ。九条さんを味方につけられるなんてね。どうりで結城グループでも、うまくやっていけるわけね。九条さんは結城社長の最も信頼する人物なの。結城グループで結城家の他の坊ちゃんたちよりも高い地位についているのよ。同じ会社の同僚だけでなく、私たちのような人間でも彼に贔屓されたいと思っているわ。残念だけど、彼は結城社長の親友で、結城社長が私のことが好きじゃないから、九条さんも私を見るたびに、すぐ避けてしまうの。だからこちら側についてもらうことなんかできやしないわ」明凛と唯花は言葉を失った。九条悟ってそんなにすごい人なのか。姫華のようなお嬢様でも彼を味方につけたいと思うとは。九条悟でもこんな感じだったら、結城社長を味方につけてしまえば……この世にできないことなどなくなるじゃないか!唯花は思わず、誰かが結城社長に贔屓されたら、星城で無敵になるだろうと思った。「明凛、九条さんって人、どうだった?」姫華は今すぐにでも悟を通じて結城家の若奥様の正体を知りたかった。たとえ負けたとしても、どんな人物に負けたのかをはっきりと知りたいのだ。明凛は手を広げて見せた。「
姫華はお茶を一杯飲んだ後、つらそうに口を開いて言った。「唯花、結城社長、本当に結婚していたのよ」唯花はそれを聞いて目をパチパチさせた。「この間、彼は結婚指輪をはめていたって言ってなかったっけ?」それなのにどうしてまた結城社長が結婚しているなどと今日も言ってきたのだろうか。姫華は少し黙ってから言った。「彼が結婚指輪をしているのは見たけど、心の中では少しそうじゃないって期待もしていたの。彼がわざと指輪をつけているのを見せて私を諦めさせようとしているんじゃないかって」明凛は彼女に尋ねた。「もう確定したの?結城社長が本当に既婚者だって」姫華は頷いてそれに答えた。「結城社長がインスタで自分は結婚しているっていうのを公表したのよ。これは今星城の上流社会でかなりの衝撃を与えているわ。多くの人が結城社長の奥さんは誰なのか知りたがっているの。今も芸能記者たちが結城グループと結城社長の邸宅を見張って、一番最初にビッグニュースを手に入れようと争っているわよ。だけど、ここに来る前にどんな報道もされていないから、きっと何も情報が得られてないんでしょうね」唯花は驚いて一瞬言葉が出せなかった。「メディアはそんなに彼の結婚に注目してるわけ?」明凛と姫華は同時に唯花のほうを見た。唯花は気まずくなってハハハと笑った。「私、ずっと結城社長なんて全然知らなかったし、私からはかなり遠い存在だって思ってるし、一生関わりを持つような相手ではないでしょう。だから私がこんなことに注目するはずないじゃない。そんな時間があったら、招き猫でも作ってお金を稼いでいたほうがマシよ。明凛が彼の噂をするのが好きで、よく私に話していたから、彼のことを知ってるだけよ」姫華「……星城一のトップ富豪である結城御曹司で、かつ結城グループのトップに立つ人よ。高貴な身分だし、おまけにかなりのイケメンでしょ、ずっと独身を貫いていて、恋愛話すらも聞いたことがなかったのに、突然『結婚しました』だなんて宣言したんだから、そのひとことで世間はかなり大騒ぎなのよ。だから記者たちはどこの令嬢が結城社長の妻になるっていう、そんな幸運の持ち主なのか知りたくて知りたくてたまらないの。芸能記者たちだけじゃなく、私たちだって知りたいのよ。だけど、お兄ちゃんでも調べることができなかったわ。一体結城家の若奥様になったのはど
姫華はただ自分の見間違いだと思った。理仁はいつもあのロールスロイスに乗っているのだ。それにいつも黒い何台かのボディーガードの車もしっかりと後についている。また、理仁がこんなところに現れるわけもない。彼の家族で、星城高校に通っている人もいない。それで、姫華はさっきのことを記憶に留めなかった。唯花の本屋の前に着くと、彼女は車を止めた。すると、唯花が陽を抱っこして店から出てきた。「唯花、私が来たってわかったの?」姫華は車を降りながら笑って言った。「しかもわざわざ陽ちゃんと一緒に出迎えに来てくれるなんてね」「そうじゃないのよ。これから陽ちゃんを連れてスーパーに行こうと思って」姫華はやって来て、陽を抱っこしようと手を伸ばしたが、陽のほうはぷいっとそっぽを向いてしまって唯花の首にしっかりと抱きつき「おばたんがいい」と言った。それで唯花はどういうことか説明した。「陽ちゃんは今だいぶ良くなったんだけど、いつもよく一緒にいる人とじゃないとまだ嫌がるのよ」「あの佐々木一家のクズ共のせいね!」姫華は可愛い陽を抱っこすることができず、思わずまた佐々木家を罵った。そして、尋ねた。「お姉さんはあのクズと離婚できた?」「したわ。昨日離婚したの。財産分与した分もちゃんと口座に入金されたわ。住んでいた家の内装費だってしっかりといただいたしね」唯花は陽を抱っこしたまま店に戻った。姫華が来たので、彼女はひとまずスーパーに行くのはやめることにしたのだ。「こんなに朝早く来るなんて、鑑定結果が出たの?」姫華一人だけで、神崎夫人の姿は見えなかった。恐らく、結果が出て彼女と神崎夫人には血縁関係がなかったのだろう。「結果はまだ出てないの。お母さんが明日の昼に出かけて取りに行くって。私今日あんまり気分が良くなくて、あなたの所に来たってわけ。あなたとおしゃべりしたら気分も良くなるからね。お母さんも一緒に来たがっていたんだけど、来ないでって言ったの。だって、私がこの鬱憤をスッキリ晴らしたいんだもん」姫華は理仁に長年恋焦がれていたので、短い時間で彼への気持を整理しろと言われても、それはなかなか難しい問題なのだ。彼女は辛く、心に傷を負っていたが、家族の前では泣きたくないのだった。それは家族に心配をかけたくないからだ。唯花は彼女の気持ちを理解してくれる
玲凰はため息をついた。そうだ、人生には後悔はつきものなのだ。……唯花は姉が借りているマンションへと向かった。そして、清水と陽を連れて、理仁と一緒に店に出勤した。彼女は理仁の車に座ってはいなかったが、彼が車で彼女の車の後に続いて送ると言ってきかないので、それをおとなしく受け入れるしかなかった。陽は母親と一緒にいたことで、だいぶ落ち着きを取り戻していた。それに清水に遊んでもらうこともまた慣れたので、唯月はようやく働き始めることができたのだ。試用期間はまだ終わっていないので、ずっと休みを申請するわけにもいかなかった。店に到着してすぐ、理仁は唯花に催促した。「エタニティリングを早く」唯花「……つけるわ、今すぐつけるから。今後はずっとこの手につけ続けるって約束するから」そして、彼女はレジの前に行き、鍵で引き出しを開けた。あの相当に価値のあるエタニティリングはその引き出しの奥の方におとなしく眠っていた。それを見た理仁の顔色が闇夜の如く暗くなっていた。彼女はなんと適当なのだろうか。唯花はその指輪を取り出すと、再び薬指にはめ直した。昨夜、とりあえず応急措置でつけていたあのゴールドの指輪は、この日家を出る前にすでに外してあった。「ほら、確認した?」唯花はわざとらしく自分の手を彼に見せびらかした。理仁はこれでようやく満足してくれた。「ほらほら、早く会社に向かって。送れちゃうわよ」理仁「……」いつもいつも、早く早くと彼を追い出そうとするよな!彼女はちっとも彼のことを恋しいと思ってくれないのか。「陽ちゃん」明凛が店の奥から出てきて、陽が来たのを見ると、笑顔で向かってきて清水のもとから陽を抱き上げた。そして、理仁に挨拶代わりに少し会釈をした。本来は妻からキスの一つでももらってから出勤するつもりだったが、明凛が出てきたので、この淡い期待は悲しくも消し去るしかなかった。理仁は淡々と「どうも」と明凛に返事し、挨拶を済ませてから、すでに自分の近くからは去っていたあの人にもう一回意味深な目線をやり、背中を向けて店を去っていった。数歩進んで、また足を止め、振り返って唯花のほうを見た。明凛が唯花がつけているあのダイヤの指輪を見てきたので、唯花は手をまっすぐと伸ばして親友にそれをじっくりと見せていた。理仁