唯月は車を持っていない。妹と電話をした後、妹夫婦は陽を探しに行き、彼女のほうは佐々木俊介と決着をつけに来たのだ。ただ彼女はたった一人で、佐々木俊介のほうは一家総出で来ていたので、彼女のほうが劣勢だった。幸いにもおばあさんと清水が駆けつけてくれて、彼女の危機をなんとか回避できた。佐々木俊介はタイミングを見計らい、彼が昨晩作成した離婚協議書を取り出して、唯月に言った。「唯月、俺がお前にやっちゃいけないことをしたってのは認める。お前が許してくれるとは思ってねえよ。俺ら二人はお互いに何の感情もなくなってしまったんだ。この結婚生活もこれ以上続けていくことはできない、スッキリ別れようじゃないか。これは俺が作った離婚協議書だ。見てくれ、問題がなければ、そこにサインをしよう。来週の月曜日、市役所に行って離婚手続きをするんだ」唯月は冷たい顔でその離婚協議書を手に取った。一目見て、彼女はまた佐々木俊介を殺したいほど怒りが込み上げてきた。おばあさんも佐々木俊介が作ったその離婚協議書を手に取り目を通した後、彼女は何度も深呼吸をして自分の怒りを抑えようとした。佐々木家は本当に一家揃ってクズばかりだ!佐々木俊介は唯月が怒りに満ちた顔になっているのを見て、図々しく言った。「この家は俺が結婚前に個人で買った財産だし、不動産権利書には俺一人の名前しか記載されていない。だから、家は俺のものだ。車も俺が買ったもんだから、当然俺のもんだろ。お前は今働いているが、働き始めてまだ数日しか経っていない。試用期間ですらまで終わっていないから、お前の収入が安定してるって証明はできない。だから、俺がちょっと損してもいいぜ。陽の親権は俺がもらうから、お前は離婚した後は毎月四万の養育費を出すだけで勘弁してやる。陽はまだ2歳ちょっとだから、まだミルクを飲まないといけないし、夜寝る時だって、まだオムツが必要だ。3歳になって幼稚園に通い出したら、幼稚園の費用はだんだん負担が増えてるし、小学校、中学校は授業料はタダだけど、高校、大学に上がったら金がかかるだろ。大人になったら、結婚して家を買ったりするだろうし、俺が一部分は負担してやらないといけないから、一生金がかかるんだよな。俺は陽の親権をもらうから、お前には毎月四万の養育費だけでいいって言ってるんだ。もうかなりお前には譲歩してやってる
唯月は冷ややかに笑った。「私が出したリフォーム代を返してもらえば、私のほうから勝手に出て行くわ。別にあんたらに追い出していただく必要はないわよ」「リフォーム代は一円たりとも返さないよ!」佐々木英子は大声で叫んだ。そうすると顔にもっと痛みが走った。唯月は顔を氷で冷やしているが、彼女の分はないので、余計に痛かった。彼女の両頬はヒリヒリと火照って痛かった。鏡を見るまでもなく、この時の彼女の顔がまるで豚のようにぶくぶくと腫れあがっているのがわかった。唯月の奴!絶対に一生幸せな生活など送らせないからな!「法廷で会いましょう」おばあさんが口を開いた。「あんたたち佐々木家は人を苦しめるにもほどがあるわ。話し合いで決着がつかないというなら、もうこれ以上続ける必要はないわ。唯月さん、離婚訴訟を起こして、裁判で決着をつけましょう」佐々木俊介は唯月を脅して言った。「唯月、本気で裁判沙汰にしようっても、お前には全くメリットはねえぞ。てめえの妹もこいつらもお前の助けにはならねえよ。ここまでの騒ぎにもってきやがって、今後、陽に会えるとは思わないことだな」もし唯月が離婚訴訟を起こして、財産分与を求めるなら、彼は陽をどこかに隠して、彼女には一生息子と会えないようにするつもりだ。唯月は冷たく彼を睨みつけた。彼のその威嚇にはまったく関心を向けていないようだ。彼女が訴訟を起こすなら、財産の分与、息子の親権、全てにおいて彼女が得られるものはすべて奪うつもりだ。絶対に佐々木俊介と成瀬莉奈に美味しい思いをさせてはいけない。唯月と佐々木俊介の離婚話がなかなかまとまらない中、内海唯花のほうは結城理仁と彼の兄弟、従兄弟たちを連れて英子の夫の家である柏木家に到着していた。陽は柏木家が連れて帰っていた。内海唯花は彼らが陽を佐々木家のほうではなくて、柏木家の実家のほうに連れて行くと読んでいたのだ。柏木家は三階建ての一軒家で、外も内側もかなり豪華な造りだった。村の中では一際目を引く建物だ。佐々木英子の夫が陽を連れ去って帰ってきてから、そう長くは経っていなかった。彼は唯月姉妹が陽はここにいるとわかっていても、ここまで陽を取り返しにくるはずがないと考えていた。佐々木家が唯月姉妹の邪魔をするはずだからだ。だから、彼は陽を連れて帰ってきた後、陽を自分の息子と遊ばせ
内海唯花は彼らのところまで駆け寄って行き、両手で柏木智哉の手から陽を奪い返した。そして、片手をあげて、その手を大きく振りかぶり彼の顔を力強くビンタした。柏木智哉は10歳くらいだが、背が高めなので、見た感じは14、5歳の少年と同じ感じだった。突然内海唯花にビンタを食らって、怯えるどころか逆に頭に血を上らせて、まるで狂ったかのように唯花のほうへと飛びかかってきた。しかし、彼は内海唯花に触れることすらできず、飛びかかっていった途中で、突然両足が地面につかなくなり持ち上げられた。まったく反応することができず、彼は壁に完全に押し付けられてしまった。顔は壁と向かい合う形で、両手は後ろに押さえ付けられてしまい、彼がもがこうとしても、ガッチリと身動きが取れないくらいに体を固められてしまった。押さえ付けられた両手は、だんだん痛みを増していった。「放せ!」智哉は、わあわあと大声を上げた。「よくもこんなことする度胸があるな。俺をさっさと放せ、勝負してやる!」弟の智哉が壁に押さえ付けられたのを見て、彼の姉が何も考えずに弟を助けに行こうとしたが、そこへやってきた数人に壁を作られて行く手を阻まれてしまった。彼女がはっとして見てみると、いつの間にか、彼女の家には背の高い男たちが集まってきていた。その男たちは全員イケメンだった。彼女はまだ12歳だが、カッコイイ男には目がなかった。普段同級生たちとどの男性アイドルがカッコイイかをよく話し合っているのだ。彼女は目の前にいるイケメンたちを見て、ぼうっとしてしまった。これは、テレビの中の芸能人たちがここに現れたのか?本当に、イケメン揃いだ!「あ、あなた達は誰ですか?」さっき、陽のことをほったらかしていた柏木家の父親と母親が現れて、家に多くの人がやって来たのを見て、驚いていた。内海唯花は彼らのことは無視し、陽のほうへ顔を下へと向けた。陽の両頬は智哉に叩かれて赤く腫れあがり、赤いくっきりとした手の痕が残っていた。しかも口を切ったらしく血まで出ていた。いつもキラキラと輝かせている無邪気な瞳はこの時、恐怖に怯えていた。陽は口を開いて泣きたい様子だったが、かなりのショックを受けているようで、呆然としてしまい、泣くことすらできなかった。その瞬間、内海唯花の瞳からは涙が溢れ出した。彼女は顔を
「辰巳、ここはお前たちに任せた。あいつらが陽君をどう扱ったか、同じことを倍にして返してやれ!」結城理仁は柏木智哉を引っ張り、床に押し倒した。彼は床からまだ起き上がる前に、なんと結城理仁に向って蹴りを一発入れた。結城理仁は彼のほうを見ることもなく、自分の感覚を頼りに蹴りをお返しし、さっき智哉が蹴りを入れてきたほうの足を力強く踏みつけた。智哉はあまりの痛さで叫び声を上げた。理仁は冷ややかな目で智哉を睨みつけ、ここにいる人間のことは無視し、急いで内海唯花の後を追った。彼女はすでに陽を車の座席に横たわらせ、車を出そうとしているところだった。「内海さん、俺が運転する」結城理仁は急いで内海唯花を運転席から引っ張り降ろし、後部座席に座らせると、彼が車を運転した。内海唯花も大人しくそれに従い、殴られて気を失ったのか、あまりのショックで気を失ったのかわからない陽を再び抱き上げた。そして結城理仁に「一番近くの病院を探して」と頼んだ。彼女に言われるまでもなく、結城理仁も一番近くの病院を探すつもりだった。車はすぐに走りだした。内海唯花はぎゅっと陽をしっかり抱きしめ、心を痛めて涙をぽろぽろ流していた。陽はこんなに可愛いのに、どうしてこのような目に遭わなければならないのか。病院までの道のり、夫婦はどちらも話をしなかった。内海唯花のほうはそのような心の余裕がなかったのだ。彼女は陽になにかあったらどうしようとずっと心配していた。陽にもしものことがあったのなら、彼女は絶対にあの柏木家を生かしておけない!そしてすぐに病院に到着した。結城理仁が車を止めると、内海唯花は陽を抱いたまま車を飛び出していった。「先生、先生!」彼女はかなり焦って病院に駆け込み、医者を呼び続けていたので、病院にいた多くの人の目を引いた。彼女がこのように叫び続けるので、医者と看護師たちも驚いていた。彼女はどの医者が何の専門なのかも確かめることもせず、ある一人の医者を掴まえて、急いで「先生、甥を助けてください。虐待を受けて気を失ってしまったんです」と助けを求めた。医者は急いで陽を抱きかかえ、急ぎ足で手術室へと向かい、他の医師と看護師もそれに続いた。そして一人の看護師が内海唯花に注意を促した。「子供が虐待を受けたのであれば、すぐに警察に通報してください」そう
間もなく、手術室のドアが開いた。陽はベッドの上に寝かされた状態でその中から運ばれて出てきた。「陽ちゃん!」唯花夫婦はそのベッドの近くまで駆け寄り、唯花は慌てて医者に尋ねた。「先生、甥は大丈夫ですか」「顔がこのようになるまで殴られて、皮下組織には損傷があります。それに、片方の太ももにもあざがあって、誰かに蹴られたのでしょう?服にも足跡がついていますから。それ以外には大事ないのですが、今ショックを受けていて意識不明状態です」看護婦は氷で陽の顔を冷やしている。「一体誰がこんな小さな子にこんなにひどいことをしたんですか?」医者も陽がこんな目に遭って、可哀想だと思っていた。こんなに可愛い子なのに、顔が腫れて紫色になるほど殴られているのだ。こんな真似をした人間がどれほど残酷なのか、一目見ればわかる。気でも狂っているのか。「この子の従兄です」医者「……」何か恨みでもあるのか。従弟にこんなひどいことをするなんて。「さっき、写真でこの子の怪我の状況を記録しました。あとで送ります。それを証拠として、警察に見せたら、訴訟を起こすことができるはずです」唯花は急いで医者に礼を言いながら、メールアドレスを伝えた。すると、メールで陽の怪我の写真が送られてきた。「そこまでひどい致命傷ではありませんが、メンタルのダメージは体の怪我よりひどく残るでしょうね。これから、ちゃんとこの子のメンタルケアをしてあげてください。彼はまだ幼いですから、信頼できる大人が傍にいれば、だんだん良くなるはずですよ」唯花は何度も頷いた。「先生、ありがとうございます」理仁も改めて医者に礼を言った。医者は「やるべきことをやっただけです」と返事し、仕事に戻っていった。夫婦二人は看護師に連れられて病室に入り、陽を病室のベッドに寝かせた。すると、看護師は言った。「すぐ目が覚めるはずです。意識が戻ったら、できるだけその子を安心させるために慰めてあげてください。彼はショックで気絶したんですから。それに、顔が腫れているので、氷で顔を冷やしてくださいね。二十四時間後に今度はお湯で濡らしたタオルを絞って顔にあててあげてください」「わかりました。ありがとうございます」唯花はすぐ礼を言った。彼女は看護師に代わり、ベッドに腰をかけ、氷で陽の顔を冷やしてあげた。
精神的ダメージなら、長い時間かけて少しずつ癒していく必要があるのだ。「あのクソガキはどうした?」理仁は冷たい声で聞いた。「俺は手を出さなかったよ。ただあのガキの父親の手を借りて、しっかりしつけしてやったんだ。顔も腫れたし、口内も切れて血も出てたな。それに、あいつの家の中もぶち壊してやったぞ。警察に通報するって騒いでたから、親切にそうさせてやったんだよ。だって、陽君がこんな目に遭ったから、万が一何かあったら、警察に頼んでさっさとあのクソガキを連行してもらえるじゃんか。そうしたら、あいつらすっかり大人しくなったんだ」辰巳は相手がまだ子供であることを考慮し、もし彼自身が手を出して、逆に柏家に訴えられたら元も子もないと思ったのだ。幸い彼らは大勢で押しかけたので、英子の夫は自分の身を守るため、容赦なく長男の顔を殴って腫らし、血を吐くほどしつけたのだった。英子の夫は本当に容赦なかった。長男の顔を腫れるまで殴っただけでなく、ベルトで鞭のように体中を痛めつけた。彼がこんなに手ひどく長男を殴ったのは、長男が陽を殴る時に周りをしっかり見ておらず、ちょうどその光景を内海唯花達に見られて、家が荒らされ、大きな損をしたからだった。もし陽に本当に何かあったら……さすがに英子の夫もビビりだした。まさかこんなことになるとは思っていなかった。義弟と義母に説明できなくなり、せめて態度を示すため、厳しく長男をしつけたのだった。彼の両親は、智哉はまだ子供じゃないか、辰巳たちはどれほど横暴なのかと泣きながら訴えた。その時、辰巳は彼らにこう反論した。「なら陽君は可哀想じゃないのか?彼はまだ2歳過ぎの子供なんだぞ。それが、そこの智哉とやらに暴力を振るわれたんだぞ」それを聞いた柏木家の人達はぐうの音も出なかった。自分の子供が過ちを犯しても、責任を他人に押し付けて、子供同士の喧嘩だからよくあることじゃないかなどと言い訳を並べてばかりだ。あれは本当に子供同士の喧嘩なのか?陽は入院までしたのだぞ。「兄さん、あいつらの家で騒いだ時、その家に設置されてたカメラを発見したよ。だから、そのカメラを確認しておいた。陽ちゃんが殴られた時の画像はすべて残されてたから、そのメモリースティック持ってきたんだ。今車に置いてあるよ」理仁は落ち着いた表情で言った。「こっちも警
九条悟はそれを聞いて、すぐ状況がひどくなったのだと理解した。それは、理仁がすごく歯を食いしばって怒りを抑えているような口調で話していたからだ。「佐々木家の奴らが陽君をさらったんだ。陽君を見つけた時、佐々木俊介の甥が陽君に暴力を振るったところだった。今陽君は病院にいる。顔の皮下組織に損傷があって、かなり精神的なショックを受けているんだ」悟はきつい口調で罵った。「あのクズとも!佐々木家のクズらはどうしてこんなにのうのうと生きているんだ。そんなことするなんて男の恥だろう!それで、陽君は今どうなんだ?」悟は心配そうに尋ねた。「体の傷ならすぐ治るだろう。でも、メンタルのダメージには治るまで長い時間が必要なんだ」「陽君を殴ったそのクソガキはどうした?誰かを連れてそいつを懲らしめに行こうか?あんなに小さい子供に手を出すなんて、人の心がないのか」暫く黙ってから、理仁は口を開いた。「まだ10歳くらいの男の子だ。もう警察に通報したが、この年齢のガキならせいぜい指導を受けて、親にしっかりしつけするように注意されるだけだな。慰謝料は請求できるけど、そいつを牢屋に入れるのはまず無理だ。でもまあ、もう奴の父親にしっかり痛めつけさせたからな。あのクソガキの顔も今頃腫れあがってるだろうな」父が子供を手を出してしつけするのは、親子の間の問題だから、彼らには何の関係もないのだ。「聞くに堪えない言葉で悪いが、クソ、まだ10歳くらいの子供がそんなことできるなんて、人の心のない畜生なのか?将来社会に出ても、すぐ何かをやらかして、牢獄に一直線だろう。理仁、安心して、今すぐ部下に頼んで、やつらに地獄を見せてやるぞ!」理仁は少し申し訳なさそうに言った。「せっかくのお見合いなのに、気分を害したらすまん」「牧野さんは奥さんの親友だろう。初めての印象がちょっと悪くても、今後会う機会がまだあるから。気が合いそうなら俺たちの間に自然に何かが芽生えるだろうよ。そうじゃないなら、ずっと一緒にいても無理なものは無理だろう」悟は確かに明凛とのお見合いを重視しているが、それほどこだわっていなかった。自然の流れに任せようと思っているのだった。「警察が来た、先に病室に戻るぞ」「わかった。また俺にできることがあったら、遠慮せずに言ってくれ。理仁なら一番わかってるだろう?俺は
明凛はお化粧していなかったし、特に綺麗な服も準備していなかった。今の彼女は普段の自然体のようで、いや、普段なら軽い化粧もするはずだが、今日はすっぴんで来てしまった。「牧野さん、遅れてすみません。お待たせしてしまいましたか」明凛は笑いながら返事した。「そんなに待っていませんよ。九条さんですよね、どうぞ」悟は明凛に向かい合って座り、何も考えず手にしたバラを彼女に渡したが、明凛は受け取らなかった。「九条さん、さっきまで口でこれを咥えて来たでしょう……」彼女はこれ以上は言わなかった。悟ははっとして、すぐ言った。「……すみません、また今度花束を買って、ちゃんと手で持って渡します。絶対口で咥えませんから」「花束なら、口で咥えるなんてできないでしょう?」悟「……た、確かにですね」彼はそのバラをテーブルの下にあるごみ箱に捨てた。明凛がもうコーヒーを頼んでいたのを見て、悟は店員に彼の分のコーヒーだけ注文した。店員が彼のコーヒーを運んできた時、チラッと二回も彼の顔を確認したのに気づいて、悟は笑って店員に言った。「今お見合い中です」その店員はすぐ顔が赤くなり、何か言いたげな様子をしていたが、上司の言いつけを思い出し、彼女は恥ずかしそうに返事した。「すみません」彼女はただこの人は本当に九条さんかどうか、確認したいだけだったのだ。言い終わると、店員はすぐ離れた。悟は自分の顔を触りながら言った。「親からこんな顔を受け継ぐも、一種の負担ですね」明凛は、ぶはっと思わず笑い出した。「九条さんは確かに整った顔をしています。私の知っているイケメンの中の一人ですよ」「俺よりもイケメンな人を知っているんですか」「同僚の結城さんですよ」悟はすぐしゅんとした。「彼と比べられたら、勝ち目なんかありませんよ、ショックです。牧野さん、別に結城さんに好意を持っているわけじゃないんですよね?」明凛は危うく口の中のコーヒーを吹き出しそうになった。むせて何回も咳をしてから、慌てて説明した。「それは絶対ありませんよ。結城さんは親友の旦那さんですよ。他人の婚姻を壊す真似なんかしませんよ。それに、失礼ですが、同僚さんはずっと冷たい顔をしているから、そういう男性はタイプじゃないんです」彼女は唯花のように、理仁とうまくやっていけるような根性などない
「唯花さん、どうしたんだ?」理仁は彼女の異様な様子に気づき、急いで近寄ってベッドの端に腰をおろした。そして手を伸ばして彼女の身体に当て心配そうに尋ねた。「具合が悪いの?」「お腹が痛いの」「お腹が?もしかして夜食を食べた時に、食べ過ぎで痛くなったの?」唯花は彼をうらめしそうに見ていた。「違うの?だったら、どうしてお腹が痛くなった?」唯花は体の向きを変えて彼に背を向けた。「あなたにはわからないわ。ちょっと横になって我慢してたら良くなるわよ」理仁は眉をひそめた。彼は立ち上がって、すぐに腰を曲げ唯花をベッドから抱き上げた。そして整った顔をこわばらせて言った。「俺には医学的なことはわからない。でも医者にならわかるだろう。病院に連れて行くよ。我慢なんかしちゃだめだ。もし何かおおごとにでもなったら、後悔してももう遅いだろ」「病院なんか行かなくていいの。私はその……月のものが来ただけよ。だからお腹が痛くなったの」理仁「……月のもの……あ、あー、わ、わかったよ」彼は急いで唯花をまたベッドに寝かせた。「どうして痛くなるんだ?」彼は女性が生理中にお腹が痛くなるということを知らなかった。彼の家には若い女の子はいないのだ。両親の世代には女性がいるが、若い女性には今まで接したことがない。そう、だから本気でこんなことは知らなかったのだ。唯花が生理になった当日は、彼は彼女にジンジャーティーを入れてあげたが、あれは彼が以前、父親が母親にそのようにしてあげていたのを見たからだった。それで女性は生理中にはジンジャーティーのようなものをよく飲むのだと理解していた。「たぶん昼間たくさん動いたし、寒かったし、それで痛くなったんだわ。またジンジャーティーでも作ってくれない?」「わかった。暫く耐えてくれ。すぐに作ってくるから」理仁はすぐにジンジャーティーを作りに行った。キッチンで彼は母親に電話をかけた。「理仁、お母さんは寝ているぞ。何か用があるなら明日またかけてくれ」電話に出たのは父親のほうだった。「父さん、母さんを起こしてくれないか?ちょっといくつか聞きたいことがあるんだ」「聞きたいことって、今じゃないとダメなのか?言っただろ、母さんはもう寝てるんだって。彼女を起こすな。何だ、どんな問題なんだ?父さんに言ってみろ、解決できるかも
俊介はかなり怒りを溜めていた。一方、唯花のほうは今日、かなりスッキリしているようだ。夫婦二人が姉の賃貸マンションから出て来た後、唯花はずっと笑顔だった。理仁は可笑しくなって彼女に言った。「そんなに豪快に笑ってないでよ。お腹が痛くなるよ」「笑いでお腹が痛くなるっていうなら、ウェルカムよ。今頃、佐々木俊介はあの家に帰ってる頃よ。あいつ家に着いてどんな反応をしたかしらね?絶対入る家を間違えたって思ってるわよ。あはははは、あいつの反応を想像しただけで、思わず笑いが込み上げてくるわ。またちょっと大笑いさせて、あはははははっ……」理仁も彼女につられて笑ってしまった。そして危うく街灯にぶつかってしまうところだった。驚いた彼は急いでハンドルを切り、それをなんとかかわした。唯花もそれに驚いて笑いを止めた。安全運転になってから唯花は言った。「理仁さん、あなたの運転技術は如何ほどなの?下手なら、今後は私が運転するわ。私運転は得意なのよ。カーレースだって問題ないわ」「俺は18歳の時に免許を取ったもう熟練者だぞ。さっきはちょっとした事故だ、笑いすぎて集中力が落ちてたんだよ」唯花「……まあいいわ。もう言わないから、運転に専念してちょうだい」彼女は後ろを向いて後部座席に座っているおばあさんを見た。おばあさんが寝てしまっているようだから、夫に注意した。「おばあちゃん、寝ちゃったみたい。音楽をちょっと小さくして」清水はまだ唯月の家にいて、一緒に帰ってきていないのだった。理仁は彼女の指示に従った。そして唯花はあくびをした。「私も眠くなってきちゃった」「もうすぐ家に着くよ」「ちょっと目を閉じてるから、家に着いたら起こしてね」「君は一度目を閉じたら朝までその目を覚まさないだろうが。寝ないで、あと十分くらいだから。おしゃべりしていよう」唯花は横目で彼を見た。「あなたとおしゃべりしたら、優しい神様ですら飽きて寝ちゃうかもしれないわよ」理仁「……」暫くして、彼は言った。「唯花さん、俺は大人になってから、君を除いて俺にそんなショックを与えられる人間は一人もいなかったよ」「私は事実を述べただけよ」唯花は座席にもたれかけ、携帯を取り出してショート動画を見始めた。ショート動画によってはとても面白いので、眠気も全部消えてしまった。そし
俊介「……こんなにあるゴミも片付けてねぇじゃねえか!」唯月は可笑しくなって笑って言った。「私が当時、内装を始めた時には同じようにゴミが散らかっていたじゃないの。それは私がお金を出してきれいに片付けて掃除してもらったのよ。その時に使ったお金もあんたは私にくれなかったじゃないの。今日、それも返してもらっただけよ」「人を雇って掃除してもらったとしても、いくら程度だ?そんなちっぽけな金額ですらネチネチ俺に言ってくるのかよ」「どうして言っちゃいけないの?あれは私のお金よ。私のお金は空から降ってきたものじゃあないのよ。どうしてあんたにあげないといけないのよ。一円たりともあんたに儲けさせたりするもんか」俊介「……」暫く経ってから、彼は悔しそうに歯ぎしりしながら言った。「てめぇ、そっちのほうが性根が腐ってやがる!」「私はただ私が使ったお金を返してもらっただけよ。そんなにひどいことしてないわ。あんたが当時、自分のお金で買った家と同じものにしてやっただけでしょ」俊介は怒りで力を込めて携帯を切ってしまった。そして、携帯を床に叩きつけようとしたが、莉奈がすぐにその携帯を奪いにいった。「これは私の携帯よ、壊さないでよね」「クッソ、ムカつくぜ!」俊介はひたすらその言葉を繰り返すだけで、成す術はなかった。唯月の言葉を借りて言えば、彼女はただ自分が内装に使ったお金を返してもらっただけだ。彼が買ったばかりの家はまだ内装工事が始まる前のものなのだから、誰を責めることができる?「俊介、これからどうするの?」莉奈も唯月は性根の腐った最低女だと思っていた。なるほど俊介が彼女を捨ててしまうわけだ。あんな毒女、今後一生お嫁には行けないだろう。莉奈は心の中で唯月を何万回も罵っていた。「こんな家、あなたと一緒に住めないわ」彼女は豪華な家に住みたいのだ。「私もマンションは大家さんに返しちゃったし、私たちこれからどこに住むの?」俊介はむしゃくしゃして自分の頭を掻きむしって、莉奈に言った。「ホテルに行こう。明日、部屋を探してとりあえずそこを借りるんだ。この家はまた内装工事をしよう。前は唯月の好みの内装だったことだしな。また内装工事するなら、俺らが好きなようにできるだろ。莉奈、君のところにはあといくらお金がある?」莉奈はすぐに返事をした。「
「ドタンッ」携帯が床に落ちた時、画面がひび割れてしまった。俊介は急いで屈んで携帯を拾い、携帯の画面が割れてしまったことなど気にする余裕もなく、再び部屋の中を照らして見渡してみた。莉奈も携帯を取り出して、フラッシュライトで彼と一緒に部屋の状況を確認するため照らしてみた。豪華な内装がないだけでなく、ただの鉄筋コンクリートの素建ての家屋にも負けている。「俊介、やっぱり私たち入る家を間違えてるんじゃないの?」莉奈はまだここは絶対に自分たちの家ではないと希望を持っていた。俊介は奥へと進みながら口を開いた。「そんなわけない。間違えて入ったんじゃない。それなら、この鍵じゃここは開かないはずだ。ここは俺の家だ。どうしてこんなことになってるんだ?うちの家電は?たったのこれだけしか残ってないのか?」俊介の顔がだんだんと暗い闇に染まっていった。彼は食卓の前に立った。このテーブルは彼がお金を出して買ったものだ。この時、頭の中であることが閃いた。俊介はようやく理解したのだ。唯月の仕業だ。「あのクッソ女ぁ!」彼はどういうことなのか思いつき、そう言葉を吐きだした。「あいつが俺の家をこんなにめちゃくちゃにしやがったんだ!」俊介がこの言葉を吐いた時、怒りが頂点に達していた。莉奈はすぐに口を開いた。「早く警察に通報してあの女を捕まえてもらいましょう。賠償請求するのよ。あなたの家をこんなふうにしてしまったんだから、どうしたって内装費用を要求しなくっちゃ」内装費?俊介は警察に通報しようと思っていたが、莉奈の言った内装費という言葉を聞いて、すぐにその考えを捨ててしまった。そして、警察に通報しようとしていたその手を止めた。「どうして通報しないの?まさかしたくないとでも?まだあの女に情があるから?」莉奈は彼が電話をかけたと思ったらすぐに切ってしまったのを見て、とても腹を立て、言葉も選ばず厳しく責めるような言い方をした。彼女は自分が借りていたあの部屋はもう契約を解消してしまったし、全てを片付けて彼と一緒にこの家に帰ってきたのだ。ここに着くまでは、豪華な部屋に住めると思っていて、家族のグループチャットにキラキラした自分を見せつけようと思っていたというのに。結果、目に入ってきたのは素建ての家屋にも遠く及ばない廃れ果てた家だったのだ
「私たちの家は何階にあるの?」「十六階だよ」俊介は莉奈のスーツケースを車から降ろし、それを引っ張って莉奈と一緒にマンションの中へと入っていった。エレベーターで、ある知り合いのご近所さんに出くわした。彼らはお互いに挨拶を交わし、そのご近所さんが言った。「佐々木さん、あなたの奥さん、午後たくさんの人を連れて来てお引っ越しだったんでしょ?どうしてまたここに戻ってきたんですか?」「彼女は自分の物を引っ越しで運んで行っただけですよ」相手は莉奈をちらりと見やり、どういう事情なのか理解したようだった。そして俊介に笑いかけて、そのまま去っていった。なるほど、この間佐々木さんが奥さんに包丁で街中を追い回されていたのは、つまり不倫していたからだったのか。夫婦二人はきっと離婚したのだろう。唯月が先に引っ越していって、俊介が後から綺麗な女性を連れて戻ってきたのだ。もし離婚していないなら、ここまで露骨なことはしないだろう。「さっきの人、何か知っているんじゃないの?」莉奈は不倫相手だから、なかなか堂々とできないものなのだ。俊介は片手でスーツケースを引き、もう片方の手を彼女の肩に回し彼女を引き寄せてエレベーターに入っていった。そして微笑んで言った。「今日の午後、俺が何しに行ったか忘れたのか?あの女と離婚したんだぞ。今はもう独身なんだ。君は正式な俺の彼女さ、あいつらが知ってもなんだって言うんだ?莉奈、俺たちはこれから正々堂々と一緒にいられる。赤の他人がどう言ったって気にすることはないさ」莉奈「……そうね、あなたは離婚したんだもの」彼女は今後一切、二度とこそこそとする必要はないのだ。エレベーターは彼ら二人を十六階へと運んでいった。「着いたよ」俊介は自分の家の玄関を指した。「あれだよ」莉奈は彼と一緒に歩いていった。俊介は預けてあった鍵をもらって、玄関の鍵を開けた。ドアを開くと部屋の中は真っ暗闇だった。彼は一瞬ポカンとしてしまった。以前なら、彼がいくら遅く帰ってきても、この家は遅く帰ってくる彼のためにポッと明りが灯っていたのだ。今、その明りには二度と火が灯ることはない。「とっても暗いわ、明りをつけて」莉奈は俊介と部屋の中へ入ると、俊介に電気をつけるように言った。俊介はいつものようにドアの後ろにあるスイッチ
賑やかだった午後は、暗くなってからいつもの静けさへと戻った。唯月は結婚当初、この家をとても大切に多くのお金を使って内装を仕上げた。それが今や、彼女が当時買った家電は全て持ち出してきてしまった。そして、新しく借りた部屋には置く場所がなかった。彼女は中からよく使うものだけ残し、他のものは妹の家にではなく、中古として売ることにした。それもまた過去との決別と言えるだろう。唯月が借りた部屋はまだ片付けが終わっていなかったので、料理を作るのはまだ無理で、彼女はみんなを連れてホテルで食事をすることにした。そして、その食事は彼女がまた自由な身に戻ったお祝いでもあった。唯月のほうが嬉しく過去と決別している頃、俊介のほうも忙しそうにしていた。夜九時に成瀬莉奈が借りているマンションへとやって来た。「莉奈、これだけなの?」俊介は莉奈がまとめた荷物はそんなに多くないと思い、彼女のほうへ行ってスーツケースを持ってあげて尋ねた。「もう片付けしたの?」「普段は一人暮らしだから、そんなに物は多くないのよ。全部片づけたわ。要らない物は全部捨てちゃったの」莉奈はお気に入りのかばんを手に持ち、それから寝る時に使うお気に入りの抱き枕を抱えて俊介と一緒に外に出た。「この部屋は契約を解消したわ」「もちろんそれでいいよ。俺の家のほうがここよりもずっと良いだろうし」「あの人はもう引っ越していったの?」莉奈は部屋の鍵をかけて、キーケースの中からその鍵だけ外し、下におりてから鍵をそこにいた人に手渡した。その人は大家の親戚なのだ。「もう大家さんには契約を解消すると伝えてあります。光熱費も支払いは済ませてありますから。おじさん、後は掃除だけです。部屋にまだ使える物がありますけど、それは置いたままにしています」つまり、その人に掃除に行って、彼女が要らなくなったまだ使える物を持っていってくれて構わないということだ。おじさんは鍵を受け取った後、彼の妻に掃除に行くよう言った。俊介はスーツケースを引いて莉奈と一緒に彼の車へと向かい、歩きながら言った。「暗くなる前に、あいつから連絡が来たんだ。もう引っ越したってさ」同時に唯月は彼女の銀行カードの口座番号も送っていた。今後、彼に陽の養育費をここに振り込んでもらうためだ。そして彼女は俊介のLINEと携帯番号を全て削
理仁は悟のことを好条件の揃った男じゃなかったら、彼女の親友に紹介するわけないと言っていた。確かに彼の話は信用できる。一方の悟は、来ても役に立てず、かなり残念だと思っていた。彼が明凛のほうを見た時、彼女はみんなが荷物を運ぶのを指揮していたが、悟が来たのに気づくと彼のもとへとやって来た。そして、とてもおおらかに挨拶をした。「九条さん、こんばんは」「牧野さん、こんばんは」悟は微笑んで、彼女に心配そうに尋ねた。「風邪は良くなりましたか?」「ええ。お気遣いありがとうございます」唯花はそっと理仁を引っ張ってその場を離れ、悟と明凛が二人きりで話せるように気を利かせた。そして、唯花はこっそりと夫を褒めた。「理仁さん、あなたのあの同僚さん、本当になかなかイイじゃない。彼も会社で管理職をしているの?あなた達がホテルから出て来た時、彼も一緒にいるのを見たのよ」「うん、あいつも管理職の一人だ。その中でも結構高い地位にいるから、みんな会社では恭しく彼に挨拶しているよ」そしてすぐに、彼は唯花の耳元で小声で言った。「悟は誰にも言うなって言ってたけど、俺たちは夫婦だから言っても問題ないだろう。彼は社長の側近なんだ。社長からかなり信頼されていて、会社の中では社長の次に地位の高い男だと言ってもいいぞ」唯花は目をパチパチさせた。「そんなにすごい人だったの?」理仁はいかにもそうだといった様子で頷いた。「彼は本当にすごいんだ。職場で悟の話題になったら、誰もが恐れ敬ってるぞ」唯花は再び悟に目を向けた。しかし、理仁は彼女の顔を自分のほうに向けさせ、素早く彼女の頬にキスをした。そして低い声で言った。「見なくていい、俺の方がカッコイイから」「彼って結城家の御曹司に最も近い人なんでしょ。だからよく見ておかなくちゃ。結城社長の身の回りの人がこんなにすごいんだったら、社長自身もきっとすごい人なんでしょうね。だから姫華も彼に夢中になって諦められなかったんだわ」理仁は姿勢を正して、落ち着いた声で言った。「悟みたいに優秀な男が心から補佐したいと思うような相手なんだから、結城社長はもちろん彼よりもすごいに決まってるさ」「お姉ちゃんのために佐々木俊介の不倫の証拠を集めてくれた人って、彼なんでしょう?」理仁「……」彼は九条悟が情報集めのプロだということを彼女
部屋の中から運び出せるものは全て運び出した後、そこに残っている佐々木俊介が買った物はあまり多くなかった。みんなはまた、せかせかと佐々木俊介が買った家電を部屋の入り口に置いて、それから内装の床や壁を剥がし始めた。電動ドリルの音や、壁を剥がす音、叩き壊す音が混ざりに混ざって大合唱していた。その音は上の階や階下の住人にかなり迷惑をかけるほどだった。唯月姉妹二人は申し訳ないと思って、急いで外に行ってフルーツを買い、上と下のお宅に配りに行き謝罪をし、暗くなる前には工事が終わることを伝えた。礼儀をもって姿勢を低くしてきた相手に対して誰も怒ることはないだろう。内海家の姉妹はそもそも上と下の住人とはよく知った仲で、フルーツを持って断りを入れに来たので、うるさいと思っても住人たちは暫くは我慢してくれた。家に子供がいる家庭はこの音に耐えられず、大人たちが子供を連れて散歩に出かけて行った。姉妹たちはまたたくさん食べ物を買ってきて、家の工事を請け負ってくれている人たちに配った。このような待遇を受けて、作業員たちはきびきびと作業を進めた。夕方になり、外せるものは全て外し、外せないものは全て壊し尽くした。「内海さん、出たごみはきれいに片付けますか?」ある人が唯月に尋ねた。唯月はぐるりと一度部屋を見渡して言った。「必要ありません。当初、内装工事を始めた時、かなりお金を使って綺麗に片付けてもらいましたから。これはあの人たちに自分で片付けてもらいます。私が当初、人にお願いして掃除してもらった時に払ったお金とこれでチャラになりますからね」唯花は部屋の中をしげしげと見て回った。壁の内装もきれいさっぱり剥がして、床もボロボロにした。全て壊し尽くしてしまった。姉が掃除する必要はないと言ったのだから、何もする必要はないだろう。これは佐々木俊介たちが自分で掃除すればいいのだ。「明凛、あなたの話を聞いてよかったわ。あなたの従兄に作業員を手配してもらって正解ね。プロの人たちだから、スピードが速いのはもちろん、仕上がりもとても満足いくものだわ」明凛は笑って言った。「彼らはこの道のプロだから、任せて間違いなかったわね」「彼らのお給料は従兄さんに全部計算してもらって、後から教えてちょうだい。お金をそっちに入金するから」明凛は頷いた。「もう従兄には言ってあ
「あ、あなたは、あの運転代行の方では?」唯花は七瀬に気づいて、とても意外そうな顔をした。七瀬は良い人そうにニカッと笑った。「旦那さんに名刺を渡して何かご用があれば声をおかけくださいと伝えてあったんです。仕事に見合うお給料がいただければ、私は何でもしますので」唯花は彼が運転代行をしていることを考え、代行運転の仕事も毎日あるわけじゃないから、アルバイトで他のことをやっているのだろうと思った。家でも暇を持て余して仕事をしていないのではないかと家族から疑われずに済むだろう。「お手数かけます」「いえいえ、お金をもらってやることですから」七瀬はそう言って、すぐに別の同僚と一緒にソファを持ち上げて運んでいった。明凛は何気なく彼女に尋ねた。「あの人、知り合い?」「うん、近所の人よ。何回か会ったことがあるの。普段は運転代行をしているらしくて、理仁さんが前二回酔って帰って来た時は彼が送ってくれたのよ。彼がアルバイトもしてるなんて知らなかったけどね。後で名刺でももらっておこう。今後何かお願いすることがあったら彼に連絡することにするわ。彼ってとても信頼できると思うから」陽のおもちゃを片付けていたおばあさんは、心の中で呟いていた。七瀬は理仁のボディーガードの一人だもの、もちろん信頼できる人間よ。人が多いと、作業があっという間に進んだ。みんなでせかせかと働いて、すぐに唯月がシールを貼った家電を外へと運び出した。唯月と陽の親子二人の荷物も外へと運び出した。「プルプルプル……」その時、唯花の携帯が鳴った。「理仁さん、今荷物を運び出しているところよ」唯花は夫がこの場に来て手伝えないが、すごく気にかけてくれていることを知っていて、電話に出てすぐ進捗状況を報告したのだった。理仁は落ち着いた声で言った。「何台かの荷台トラックを手配したんだ。きっともうすぐマンションの前に到着するはずだよ。唯花さんの電話番号を運転手に伝えておいたから、後で彼らに会って、引っ越し荷物を義姉さんの新しいマンションまで運んでもらってくれ。もし義姉さんのマンションに置く場所がなければ、とりあえずうちに荷物を置いておいていいから」彼らの家はとても広いし、物もそんなに多くないのだ。「うん、わかったわ。理仁さん、本当にいろいろ気を配ってくれるのね。私たちったら