「聞いてくれ、紗雪。頼む、もう一度だけチャンスをくれ」紗雪はすっかり呆れ果てた。「放して!」「気持ち悪くないの?忘れたの?あんたには緒莉がいるってことを」緒莉の名前を聞くと、辰琉の瞳に暗い影が落ちた。しかし、酒に酔った勢いのまま、彼は構わず紗雪を抱き寄せた。「でも、最初に婚約していたのは俺たちだったじゃないか」「実は俺、お前のことも結構好きなんだ」その言葉を聞いた瞬間、紗雪の全身に嫌悪感が走った。彼女は必死に抵抗したが、男女の力の差は歴然としていた。ましてや、相手は酒に酔っている。どれだけもがいても、辰琉の腕から逃れることはできなかった。「緒莉にバレたら、絶対に許されないわよ」紗雪は彼の紅潮した顔を睨みつけ、心の底から込み上げる嫌悪感を押さえられなかった。「あんたたちの婚約は、もう世間にも知られているのよ。今さらこんなことして、誰にも顔向けできないわ」辰琉の体が一瞬こわばったが、それでも腕の力を緩めることはなかった。「紗雪、頼む......彼女の話はもうしないでくれ......」今の彼には、まともに考える力など残っていなかった。彼の意識のすべては、紗雪の存在に支配されていた。彼女の細い体を抱きしめた瞬間、ふんわりとしたバラの香りが鼻腔をくすぐり、思わず陶然とする。それだけではない。紗雪は性格こそ気が強いが、その整った顔立ちや完璧なスタイルは、まさに辰琉の理想そのものだった。「もう一度やり直さないか?紗雪さえ望むなら、俺たちは昔に戻れる」辰琉は真剣な眼差しを向け、より強く彼女を抱き寄せた。紗雪がどれだけ拒絶しても、彼は決して手を離そうとしなかった。紗雪は仕方なく、彼の足を思い切り踏みつけた。辰琉は痛みを感じながらも、それでも諦めようとはしなかった。「俺は本気なんだ......」「二人とも、何をしてるの!」突然、驚きと怒りの入り混じった女性の声が響いた。二人が振り向くと、そこには緒莉と美月が立っていた。さっきの叫び声は、美月のものだった。一方、緒莉はすでに目を真っ赤にしていた。彼女は何も言わず、美月の隣で震えるように立っていた。その姿は、まるでひどく傷ついた被害者のようだった。紗雪は一瞬、驚きの表情を浮かべた。しかし次の瞬間、まだ状況を
緒莉の声を聞いた美月は、さらに胸を痛めた。なんていい子なのか。自分の妹と婚約者がこんな場面を見られてしまったのに、それでもなお妹を慰めようとしている。そんな中、不意に辰琉が口を開いた。「緒莉、これは俺のせいだ」その言葉に、部屋にいた三人の女性の視線が一斉に彼へと向けられる。紗雪も思わず彼を見つめた。目の奥には驚きの色が浮かんでいる。この男、自分がしたことを認めるつもりなのか?緒莉は嗚咽を漏らしながら声を振り絞った。「辰琉、どうして......」美月もまた、不満げな表情を浮かべた。まさか、彼女は紗雪を誤解していたのか?だが次の瞬間、辰琉は深い後悔の表情を浮かべ、こう続けた。「今日は酒を飲んでしまって、ソファに横になっていたんだ......少し意識がもうろうとしていた」その一言を聞いた途端、紗雪の心に警戒が走った。違和感を覚えたのも束の間、彼の口からさらなる言葉が紡がれる。「まさか紗雪が俺のそばに来て、色々と言い出すとは思わなかった......緒莉が婚約を奪ったと責めるようなこととか」辰琉は顔を上げ、目尻に微かに赤みを帯びた無垢な表情を見せた。まるで何も知らない被害者のように見せかけながら、美月に向かって言葉を続ける。「おばさん、すべては俺の問題だ。俺がしっかりしなかったせいだ。でも俺は緒莉を本気で愛している。紗雪がいなかったとしても、俺は緒莉を選ぶ」「辰琉......」緒莉は感動したように辰琉を見つめ、二人はまるで心を通わせる恋人同士のようだった。その光景は、まるで紗雪が邪魔者であるかのように見えてしまう。紗雪の顔は、瞬く間に怒りで染まった。──やっぱり、この男の口からまともな言葉が出るわけがない。自分は一体何を期待していたんだ?馬鹿馬鹿しいにもほどがある。「本当にそれが本心?」紗雪の目は鋭く光を帯び、真っ直ぐに辰琉を射抜いた。彼は視線を逸らし、彼女と目を合わせようとしない。それでも、口でははっきりと答えた。「当然だ。俺とお前の姉は、ずっと安定した関係を築いてきた。俺が緒莉を捨ててまでお前を選ぶ理由なんてどこにもない」「それに、お前は過去三年間、西山の後ろについていたじゃないか。そのことは皆が知っているんだぞ?」紗雪は呆れ果て、思わず笑い声が漏れそう
辰琉は大股で緒莉のそばへ向かい、心配そうに声をかけた。「緒莉、大丈夫か?」「もともと体が弱いんだから、そんなに泣くなよ。緒莉が泣くと、俺まで辛くなる......」彼は何度も保証するように言葉を重ねた。「安心しろ、俺と紗雪は何もない。緒莉の顔を立てて妹みたいに思ってるだけだから」美月もまた緒莉のそばで彼女の体調を気遣っていた。そうして二人の対比が、紗雪をまるで悪役のように見せていた。その瞬間、紗雪は悟った。彼らと争わなければ、それで済むと思っていた。けれど、こいつらは次から次へと彼女の前に現れ、しつこく絡んでくる。「なるほどね、安東」紗雪は赤い唇をつり上げ、嘲るように微笑んだ。「本当にしぶといね。ここまで来ても、まだ認めないんだ?」「俺に何を認めろって言うんだ?緒莉の様子を見ろ!もうわがままはやめてくれ!」辰琉の言葉に、美月も紗雪を非難するような視線を向けた。緒莉と比べれば、確かに紗雪が無茶を言っているように映る。「もういい、こんな時にまだ言い争うつもり?」美月はただ、この騒ぎを早く終わらせたかった。しかし、紗雪はスマホを取り出し、余裕の笑みを浮かべた。「母さん、私が何を言うと思う?あなたに見せるのよ。この場で、本当の真相をね」その一言に、辰琉の顔色が変わった。彼の視線は紗雪の手元のスマホに釘付けになり、焦りが滲んでいた。まさか......紗雪は彼の狼狽を見逃さなかった。「そう、そのまさかよ」「本当にそこまでするつもりか?」彼女の目には冷たい光が宿った。「これはあんたが望んだ展開じゃないの?すべてはあんたが蒔いた種よ、お義兄様」緒莉は不安げに辰琉を見つめた。ただのスマホに、どうして彼はこんなに動揺しているのか。まさか......辰琉、嘘をついていた?美月もまた、彼の様子に違和感を覚えた。室内の視線が、一斉に紗雪のスマホに集まる。彼女はゆっくりと眉を上げ、迷うことなく録音を再生した。「頼む、もう一度だけチャンスをくれ」「実は俺、お前のことも結構好きなんだ」「俺は本気なんだ」辰琉の声が、はっきりと流れ出す。その中には、紗雪が何度も拒絶する様子も含まれていた。スマホ越しにも、彼女がいかに毅然と断っていたかが伝わる。辰
辰琉は紗雪の鋭い視線をまともに受け止めることができなかった。まずは緒莉を見て、必死に弁解しようとする。彼女を宥めることが、今一番大事なことだと分かっていた。「緒莉、聞いてくれ、説明させてくれ!」しかし、緒莉は彼の手を勢いよく振り払った。いつもの儚げな表情も、もはや保つことができない。「録音まで流れたのに、まだ何を言い訳するつもり?」緒莉の瞳には、怒りと疑念だけが残っていた。「あの音声が辰琉の声じゃないって言いたいの?」「俺は......」辰琉は何かを言おうとし、一瞬目を輝かせた。そうだ、これは紗雪が加工した音声だと言えば......だが、紗雪はすでに彼の反応を読んでいた。「お義兄様、録音だけじゃないよ。さっきの会話、ちゃんと画面収録もしてるから」紗雪は美しい瞳を細め、妖艶に微笑んだ。だが、その笑みはまるで棘を持つ薔薇のように、人を刺すほど鋭い。「安心して、私はそんな細工をする時間なんてなかったよ。それに、これはそもそもあんたが自分の口で言ったことじゃない?」辰琉は完全に言葉を失った。紗雪の言葉が、彼の反論の余地を徹底的に封じたからだ。緒莉の表情も、さらに険しくなる。辰琉のこの行動は、彼女の顔に泥を塗るも同然だった。ましてや、先ほどまで母の前で婚約の話をしていたというのに。考えれば考えるほど、彼女の羞恥心は怒りへと変わっていった。辰琉は緒莉を見つめ、何か言おうと手を伸ばす。だが緒莉は彼を無視して、大股で前へと進んだ。一切振り返らず、まるで彼の存在すら見えていないかのように。彼女は紗雪と美月の前で、涙声で言った。「ごめんなさい......お母さん、紗雪......私、私が間違ってた......」「もう......顔向けできない......」美月は、そんな緒莉の姿を見て、少しだけ心を和らげた。「緒莉も知らなかったんだから、そんなに責めることはない」彼女の声は、いつもよりも優しかった。しかし紗雪は、その母の優しさを前に、心がすっかり冷え切っていた。辰琉の時はあれほど厳しかったのに。緒莉が謝った途端、「責めることはない」?その差は、あまりにも明白だった。美月もまた、横目で紗雪の表情を捉え、彼女が何を考えているのかを悟り始めた。とは
何せ、美月は昔から強気な人だった。二川グループの会長でありながら、女性でもある。そんな立場でいる以上、株主たちはまるで獰猛な獣のような存在だった。その中で生き抜くのがどれほど困難だったか、容易に想像できる。だが、美月はこれまで紗雪の前でそんな苦労を語ったことは一度もなかった。彼女が口にするのは、会社を継げという言葉ばかり。できるだけ早く独り立ちするようにと。記憶の中の母は、厳格で強圧的な人だった。何事も完璧を求め、妥協を許さなかった。だからこそ、母が誤りを認めるのは、これが初めてだった。紗雪はしばらく黙ったまま、美月を見つめた。美月もまた、不安げに彼女の反応を待っていた。やがて、美月は目を伏せた。長いまつげの影に、その落胆が隠れた。よく考えれば、自分はあまりにも酷かった。なぜ、ちゃんと話を聞きもしないで辰琉の肩を持ったのだろう?自分の実の娘と、ただの赤の他人。なぜ、よりによって娘ではなく、他人を信じる選択をしたのか?この瞬間、美月はようやく気づいた。自分は紗雪に対して、あまりにも多くの誤解を抱えていたのだと。「私は、一度もあなたを恨んだことはないわ」紗雪はふっと微笑みながら、美月を見つめた。その眉目は穏やかで、どこか優しげな色を帯びている。「母さんがどれだけ大変だったか、ちゃんと分かってる。ひとりでここまで来るのに、たくさんのことを乗り越えてきたでしょう?だから、私は恨んでなんかいないし、厳しくされるのも理解してる」美月は驚いたように唇を開いた。紗雪の顔立ちはどこか自分と似ている。その強気で冷徹な雰囲気は、商談の場で敵を容赦なく叩き潰す自分の姿と重なった。まるで、自分の若い頃を見ているようだった。美月の目に、薄く涙が滲んだ。ゆっくりと紗雪に歩み寄る。その動きを察し、紗雪のほうが一歩先に近づいた。「......?」紗雪は、不思議そうに美月を見上げる。だが、次の瞬間、美月は彼女をそっと抱きしめた。肩にそっと頭を預け、静かに呟く。「......そうね。私が間違ってたわ」「私を理解してくれて、本当に嬉しい」紗雪の体が、一瞬だけ硬直した。母とこんなに近い距離で触れ合うのは、どれくらいぶりだろうか。何でもひとりでやってきた。母がしてくれ
紗雪の言葉を聞き、美月は満足げに頷いた。「待ってるからね。事前に知らせてちょうだいね」紗雪は軽く頷いたものの、内心では少し気がかりだった。京弥にそんな時間があるのかどうか......何せ、彼にはまだ初恋を相手にする必要があるかもしれないのだから。「そうだ、母さん」紗雪がふと思い出したように口を開いた。美月は眉を軽く上げ、続きを促す。「に......いや、安東の件、どうするつもり?」紗雪は一瞬「義兄」と言いかけたが、すぐに言い直した。あんな男に義兄なんて呼び方はふさわしくない。「安東」という名前を聞いた瞬間、美月の目つきが冷たくなり、かつての女傑の顔に戻った。「この件は心配しなくていい。ちゃんとケリをつけるわ」そう言った後、美月は少し迷ったようだったが、結局言葉を続けた。「さっき、緒莉も言ってたけど、自分が甘かったって」「緒莉も騙されてたのよ。だから、受け入れるまで時間が必要なの」結局のところ、緒莉も被害者なのだ。そう言いたげな美月の瞳には、微かな哀れみが宿っていた。その「哀れみ」を、紗雪は見逃さなかった。やはり、美月は緒莉を庇うのか。ついさっきまで、緒莉は「私が婚約を奪った」などと言っていたのに。ついさっきまで、美月を含む全員が自分を疑いをかけたのに。紗雪の心には、じわじわと苦さが広がる。もし、あの録音がなかったら?もし、証拠がなかったら?今日の出来事は、一体どうなっていたのだろう。「わかったわ」美月は紗雪の表情が沈んだのに気づき、何か言おうとしたが、それよりも先に紗雪が口を開いた。「もう遅いから、そろそろ帰るね」「母さんも、早く休んで。今度は、彼と一緒に会いに来るよ」美月は去っていく紗雪の背中を見つめながら、今日の出来事を思い返し、目を細めた。紗雪が車を走らせる間も、頭の中には二川家での出来事がぐるぐると渦巻いていた。緒莉は、どんな言い訳をしてこの件を誤魔化すつもりなのか。辰琉もまた、「人違いだった」などとでも言うつもりだろうか?そう考えると、紗雪は思わず笑ってしまった。緒莉、がっかりさせないでよ。あんな男と、年を越すつもり?その頃。屋敷の外では、辰琉が緒莉の後を追っていた。緒莉は目的もなく歩き続けていた。どこ
緒莉はもともと理不尽なことを我慢する性格ではなかった。辰琉は内心ぎくりとした。緒莉という女性について、彼は今のところ満足していた。家の者たちも常に緒莉を褒め、彼女のことを気に入っていた。緒莉は紗雪ほどの美貌ではないものの、鳴り城の名家の令嬢であり、辰琉にとっても誇れる存在だった。そんな彼女を本当に捨てるとなると、当然惜しいと感じる。そう考えた彼は、緒莉の肩をぐっと引き寄せ、優しく宥めるように囁いた。「全部あの女が俺を誘惑したせいだ。俺の心にいるのは、ずっと緒莉だけだよ」「もう馬鹿なことを考えるな。俺たちはもう婚約してるんだ、一生一緒にいるつもりだ。俺の心の中には緒莉しかいない」辰琉は整った顔立ちをしており、特にその瞳は誰を見ても深い愛情が込められているように感じさせる。そんな彼の優しい態度に、緒莉はつい信じてしまった。彼女は深く息を吸い込んでから言った。「いいわ。じゃあ、もう一度チャンスをあげる。でも、お母さんにはどう説明するつもり?」「紗雪の録音が公開されちゃったし、適当にはごまかせないわよ」辰琉は紗雪の得意げな顔を思い出し、顔色が曇る。「心配するな。おばさんのことは俺がうまく説明する」「俺たちが協力すれば、おばさんだって俺たちの仲を引き裂こうとはしないさ」緒莉は一瞬考え、それもそうだと納得したのか、それ以上何も言わなかった。辰琉は微笑みながら提案する。「レストランを予約したんだ。一緒に食事に行こう」緒莉は小さく頷く。瞳にはまだ涙が滲んでいた。辰琉はそっと彼女の涙を拭い、優しく囁く。「もう泣くな。泣かれると俺まで心が痛む」まるで何事もなかったかのように、二人は元通りの関係に戻った。......紗雪が家に帰ると、部屋の中は真っ暗だった。「京弥さん、まだ帰ってない?」彼女はほっと息をつく。ちょうどよかった。どう彼と向き合うべきか、まだ考えがまとまっていなかったのだ。道中ずっとそのことで頭を悩ませていたが、今の状況なら余計なことを考えずに済む。彼は、そもそも帰っていないのだから。紗雪は気楽な気持ちで電気をつけた。次の瞬間、ソファに座る京弥の姿が目に入り、思わず驚いて身を引いた。「ちょっと、家にいるなら電気くらいつけなさいよ!」彼女は眉をひそ
「考えすぎだよ。ただ最近、仕事が忙しかっただけ」紗雪は京弥の顔を見たくなくて、「早く離して。お風呂に入るから」と言った。しかし、京弥は腕を緩めることなく、じっと紗雪を見つめた。まるで何かを隠しているのではないか、そんな気がしてならなかった。だが、紗雪が口を開かない限り、彼にも探る術はない。彼は眉をひそめ、さらに問い詰めようとした。このままでは二人の関係がぎくしゃくしてしまう。以前のような関係に戻りたいのに、今の紗雪は何かを誤解しているようだ。「さっちゃん、俺たちの間に誤解があってほしくないんだ」京弥は紗雪の首元にそっと顔を寄せ、静かに囁いた。「だから、何かあるなら、ちゃんと俺に話してほしい」彼の声は低くて柔らかく、まるでチェロの低音のように心を揺さぶる。紗雪の心臓が一瞬跳ねた。しかし、あの夜、彼が躊躇なく去っていったことを思い出し、結局、何も説明したくなくなった。何を問い詰めたところで意味があるのだろう。どうせ、ただの契約結婚にすぎない。お互いに利用しているだけなのだから。「本当に何でもないわ」紗雪の瞳は冷静そのもので、淡々と告げた。「母さんが、次は一緒に食事をしようって言ってた」「あなたが気乗りしないなら、断っておくわ」「いや、行くよ」京弥は即座に答えた。「義母さんの誘いだし、当然行くべきだろう」義母さん。その言葉を京弥の口から聞いた瞬間、紗雪の耳が微かに赤く染まった。「じゃあ、後で都合のいい日を伝えるわ」二人は自然と話題を逸らし、それ以上は何も触れなかった。紗雪は、この微妙な距離感がちょうどいいと思っていた。わざわざ真実を知る必要なんてない。今のままで十分だ。紗雪はシャワーを浴びた後、先にベッドに入った。しばらくして、京弥も洗面所から戻ってきて、静かに隣に横たわる。彼はそっと紗雪を抱き寄せた。彼女の体が一瞬こわばるのを感じ、京弥の瞳がわずかに暗くなる。紗雪は、また何か仕掛けてくるのではないかと身構えたが、彼はただ腕を軽く添えるだけで、それ以上は何もしてこなかった。それを確認すると、紗雪はほっと息をついた。初恋の存在を知ってからというもの、彼との関係をそれ以上進める心の準備がまだできていなかった。翌朝。京弥はい
どれだけ紗雪が話しかけても、千桜はずっと無表情のままで、紗雪に対してほとんど反応を見せなかった。彼女は両手でウサギのぬいぐるみを抱きしめたまま、ひたすら日向の背中に隠れていた。その様子を見て、紗雪は少しも苛立つことなく、むしろその瞳にはいっそう深い憐れみの色が宿っていた。日向は思わず口を開いた。「紗雪、もう大丈夫だよ。君は先に食事してて。妹のことは気にしないで、僕が面倒を見るから。この子が食べたくなったら自分で食べれるよ」紗雪の根気強さに、彼はむしろ申し訳なさを覚えていた。内心では驚きもあった。彼女のこの優しさは、本当に心からのものなのか?それとも、単にビジネスの付き合いだから演じているだけなのか?ふとそう考えた日向の視線には、自然と探るような色が宿っていた。その言葉を受けて、紗雪はようやく自分の席に戻った。最初は仕事上の関係を円滑にするため、日向に良い印象を持ってもらおうと努力していた彼女だったが、今は違っていた。千桜の小さな姿と、その背後にある過去を思うと、自然と胸が痛んだのだった。今日の会合は、デザイン案についての話が主目的だった。千桜が席に着くと、日向の言う通り、一人でゆっくりとスプーンを動かしていた。目の前のプリンも、少しずつ減っていく。「どうやらこのレストランのプリンは、子どもの口にも合ってるみたいね」紗雪の目元には微笑が浮かび、千桜を見つめる視線には深い愛情がこもっていた。「ああ」日向も静かに頷いたあと、少し緊張を解いたような表情で言った。「そういえば、修正してほしいって言ってたデザイン案、持ってきてる?」紗雪はカバンの中からその資料を取り出して、日向に渡した。日向は千桜に「ちゃんとご飯食べてて」と優しく声をかけてから、手元のデザイン案に目を通す。「これは郊外にある観光リゾート施設の設計案。全体の方向性はこのままでいいと思うけど、もう少しブラッシュアップしたいと思ってる。どこか改善点があれば、教えてほしい」紗雪は穏やかに説明しながら、最後に尋ねた。「どう思う?」日向は自信に満ちた笑みを浮かべ、あえて正面から答えることなく言った。「三日だけ時間をくれ」その目の奥にある強い決意を見た紗雪は、自然と共感を覚えた。彼女自身、野心のある人間だったからこそ、
紗雪は少し考え込んでから、真剣な口調で言った。「いい人でしたよ。とても親切で。ただ......妹さんがいるみたいで、その子の事情が少し特殊で......」特殊という言葉を選んだのは、今の段階では詳しい事情が分からないからだった。紗雪自身、日向の妹にまだ会ったことがない。美月は少し黙考してから頷いた。「そう。じゃあ彼の家庭のことも含めて、もう少し詳しく調べておいて。神垣は信頼できるパートナーになり得るわ」「分かりました」そう言って、紗雪は会長室をあとにした。自分のオフィスに戻ったばかりのところで、日向からメッセージが届いた。「この前君が薦めてくれた料理、妹に食べさせてみましたよ。あんなに食べる姿、初めて見ました」そのメッセージを見た紗雪の瞳に、ふっと優しい笑みが浮かぶ。彼女はすぐに返信を送った。「気に入ってくれてよかったです。子どもが楽しめる場所、他にもたくさん知ってますから、よかったら一緒にどうです?」するとすぐに返事が返ってくる。「それはありがたいです。今日の午後なら空いてますが、二川さんは?」紗雪は午後のスケジュールをざっと確認した。特に急ぎの用事はなかったので、日向の誘いに応じることにした。ちょうどよかった。仕事の件でも相談したいことがあったからだ。最近、二川グループではあるプロジェクトのデザイン案を修正する必要があり、日向の意見を聞いてみたかった。待ち合わせの場所に着いた紗雪は、そこで初めて日向が一人ではないことに気づいた。彼の隣には、ツインテールにした小さな女の子がいた。年齢は五〜六歳くらいだろうか。まるで人形のように愛らしく、大きな瞳はブドウのようにきらきらしていて、見る人の心を一瞬でとろけさせてしまいそうなほどだった。だが、紗雪の目がふと鋭くなる。違和感に気づいたからだ。「神垣さん、この子が......妹さん?」軽く挨拶をしながら尋ねる。日向は妹の頭をそっと撫でながら、どこか切なげな笑みを浮かべた。その目には、明らかに深い愛情と、隠しきれない哀しみが滲んでいた。やっぱり、見間違いじゃなかった。「二川さん、僕たち、そんなに歳も離れていませんし、今後は何度も会うことになりますから、気軽に『神垣』って呼んでくださいよ。あと、敬語も」彼の言葉
京弥が寝室に入るとき、ベッドに紗雪の姿がないことに気づいた。家中を一通り探し、最終的に客間で紗雪を見つけた。今日の紗雪は完全に腹をくくっていて、もう京弥と同じベッドで寝るつもりはなかった。初恋の存在がある以上、この結婚関係だってもっと線引きをすべきだと感じていた。昼間のあの光景を思い出すだけで、紗雪は京弥を見るたびに心がざわつく。とくに、あの手が他の女に触れていたことを思うと、なおさら。京弥は客間にいる紗雪を見つめた。何か言おうと唇を動かしかけたが、結局、何も言えずに終わった。拳を握りしめる。どうしようもない無力感が、心の奥からじわじわと湧き上がってくる。つい昨日まで同じベッドで体を重ねていたはずなのに、今日は別々の部屋で眠る。ただ一枚の壁を隔てているだけなのに、お互いの心はまったく違う場所にあるようだった。翌朝。紗雪は早くに目を覚ました。身支度を済ませると、京弥に声をかけることもなく会社へ向かった。普段なら京弥の用意した朝食を食べるところだが、今日はその気になれなかった。会社に到着すると、社員たちの態度が一変していた。誰もが敬意を込めて彼女を「会長」と呼ぶ。この瞬間、紗雪の立場は完全に変わったのだ。彼女は皆に軽く会釈しながら挨拶した。「そんなにかしこまらなくてもいいよ。今まで通りでお願い」「私は皆さんと同じで、会社のことを第一に考えているから」拍手があちこちから起こる。そのとき、紗雪は隅の方にいる円を見つけた。何か言いたげな顔をしながらも、遠慮して口を開けない様子だった。紗雪は眉を少し上げて、円に手招きする。「どうしたの?なんか言いたいことがあるような顔してるけど」円は少し恥ずかしそうに言った。「もう私たちの立場が違う気がして......」「それに、今は会長であり次女様でもあるし、きちんと礼儀をわきまえないとって」その言葉に、紗雪は胸の奥に小さな痛みを感じた。彼女は真剣な表情で円に向き直った。「円、そんなふうに自分を卑下しないで」「私の中の円は、いつも笑顔で明るくて前向きな女の子だった。ずっとあなたのことを友達だと思ってたよ。円は、私のことを友達だと思ってくれないの?」「そんなことないよ!」円は慌てて否定した。「私もずっと
紗雪は実は京弥からのメッセージを見ていた。ただ、どう返信すればいいのか分からなかった。彼と初恋のことなんて、自分には関係ない。よくよく考えてみれば、京弥がわざわざ自分にあのメッセージを送ってくる必要なんて、最初からなかったのだ。所詮表向きの夫婦にすぎないのに、何をそんなに真剣になっているのか。京弥が帰ってきたのは、ちょうど紗雪がキッチンで水を飲んでいたときだった。水を注ぎ終えた瞬間、玄関の方から物音が聞こえてきた。紗雪のまなざしがわずかに揺れる。それが京弥であることは、すぐに察しがついた。彼女はコップの水を一気に飲み干すと、そのまま洗面所に向かおうとした。だが、振り返った瞬間、彼女はキッチンの出口を塞がれてしまう。大柄な男の身体がそこに立っているだけで、通路を完全に塞いでいた。彼がどかない限り、紗雪はキッチンから出られない。仕方なく立ち止まり、紗雪は諦めたように口を開いた。「どいて。歯を磨きたい」京弥はそんな彼女を見つめながら、内心でははっきりと確信していた。今日、空港で見たのは、間違いなく紗雪だった。「なんで、返信しなかった?」彼は話題を変えて、静かにそう問いかける。午後から今まで、スマホを見なかったなんてあり得ない。唯一の理由は、紗雪が返信する気がなかったということだ。紗雪は彼の視線を避け、答える気もない様子だった。「電池切れてただけよ」彼女は視線を落とし、平然とした口調で言った。「もう遅いし、どいて。休みたいの」京弥は彼女の表情をじっと見つめ、その顔から少しでも嫉妬や怒りの気配を探ろうとした。だが、なかった。逆に、彼女はあまりにも冷静だった。その事実が、京弥の心に妙な不安を生じさせる。彼は奥歯を強く噛みしめる。「今日、空港にいたのか?」紗雪の目が一瞬揺れたが、すぐにふっと笑った。「どういう意味?」「何を見た」彼女はしっかりと彼を見据えた。「私はただ客の出迎えに行っただけよ。むしろあなたが何をしたかじゃない?」この言葉を口にした瞬間、紗雪は自分の舌を噛み切りたい衝動に駆られた。まるで嫉妬深い妻みたいじゃないか。でも実際のところ、京弥がそんなことを言い出すなんて、滑稽としか思えなかった。京弥は一歩ずつ彼女に近づきながら、ま
右手で時折スマホを開き、紗雪からのメッセージが届いていないか確認していた。後ろから、伊澄が不満げに言った。「京弥兄、そんなに早く歩かないでよ、追いつけないよ!」その声を聞いても、京弥は未読のメッセージを見つめて、少し苛立ちを覚えていた。だが振り返って伊澄と目が合うと、顔にはいつもの柔らかな笑みを浮かべて応えた。「ごめん」二人が車に乗り込むまで、紗雪からの返信はついに来なかった。京弥は運転席に座りながらも、どうにも心が落ち着かなかった。もしかして紗雪はさっきの光景を見て、誤解したのではないか?そんな思いが頭から離れなかった。一方の紗雪も、日向と食事をしながら、まるで上の空だった。頭の中はずっと、さっき見た京弥とあの「初恋」のことばかり。ちょうど食事時だったので、二人は簡単に食事を済ませた。そんな中、日向が何かを思い出したように、何気なく尋ねてきた。「二川さん、さっき空港にいたあの人、知り合いですか?」「カラン」という音がして、紗雪の手からスプーンが器の中に落ちた。目を見開き、少し慌てた様子で紙ナプキンを探そうとしたところ、日向がすぐに一枚差し出してくれた。「どうして急にそんなことを?」紙ナプキンを受け取り「ありがとう」と言ってから、紗雪は思わず問い返した。日向はくすっと笑いながら言った。「二川さん、今日の道中ずっと心ここにあらずって感じでしたよ」「僕もバカじゃないから、さすがに気付きます」紗雪は頭の中で振り返ってみて、確かにそうだったと気づき、少し気まずそうに笑った。「すみません、失礼しちゃいましたね」日向はただにこやかに言った。「気にしないでください、二川さん。何事も人次第ですしね。それに、この店のスープ、本当に美味しいですね。二川さんが選んでくれたお店、気に入りました」「次は妹を連れて来たいです」その言葉を聞いて、紗雪は会話を広げた。「妹さんがいらっしゃるんですか」「はい、神垣千桜(かみがきちはる)って言います」「妹」という言葉を口にしたときの日向の瞳には、紗雪には理解できない哀しみが宿っていた。だが紗雪は空気を読んで、それ以上は聞かなかった。誰にでも秘密や、人に言いたくないことの一つや二つあるものだ。わざわざ掘り返す必要なんてない。
日向は紗雪の異変に気づき、彼女の視線をたどってそちらを見やった。すると、蝶のように軽やかな少女が、背の高い男の胸元に飛び込んでいくのが見えた。「京弥兄!やっぱり来てくれたのね!」少女はそう叫びながら、嬉しさを隠すことなく京弥の胸に飛び込む。人混みの中、二人はまるで周囲など存在しないかのようにしっかりと抱き合っていた。まるで映画のワンシーンのような、美しく感動的な光景だった。紗雪の腕がゆっくりと身体の横で握られる。無意識のうちに唇を噛み締めていた。あの二人。抱き合っているのは、自分の夫と見知らぬ女性だった。何とも言えない気持ちだった。あれが、京弥の「初恋」なのか?確かに、初恋の名に相応しい。透き通るように純粋で美しく、まるで世間知らずなお姫様のようだった。そして何よりも、京弥の眼差しに宿る優しさ。あれほど柔らかく笑う彼を、紗雪はあまり見たことがなかった。いつも冷静で、近寄りがたい雰囲気をまとっている彼が、あの少女に向ける笑顔は、どこか違っていた。紗雪は深く息を吸い込む。ただの契約結婚だって、自分に何度も言い聞かせてきた。いつかこういう日が来ると、わかっていたはずなのに......それでも、心の奥底に妙な空虚感が広がっていた。「二川さん、大丈夫ですか?」日向の心配そうな声が耳元に響く。彼は、紗雪があの二人を見て感動しているのだと勘違いし、続けて言った。「素敵ですね、あんな恋愛。空港で再会して抱き合うなんて、美男美女でお似合いですよ」紗雪の胸に湧いた妙な感情は、ますます大きくなるばかりだった。なんとなく相槌を打つ。「そうですね」「行きましょうか。もう時間も遅いですし。移動で疲れたでしょうから、食事にご案内します」紗雪は日向と共に空港を後にした。彼女が先を歩き、彼がその後をついていく。一方。京弥は八木沢伊澄(やぎさわいずみ)を抱きしめたまま、ふと紗雪の方を見やった。彼女の後ろ姿が目に入ると、反射的に一歩踏み出しそうになる。だが、腕の中の伊澄がそれを許さなかった。唇をすぼめ、不満げに言う。「京弥兄、どこに行くの?私、飛行機ずっと乗っててお腹ぺこぺこだよ。まだ何も食べてないの」「ねえねえ、国内の美味しいもの食べたいな。海外の食事は全然美
京弥は、目の前の小さく繊細な耳たぶを見つめながら、とうとう内に秘めた欲望を抑えきれなくなった。男はそのまま身を屈め、耳たぶを口に含み、何度も舌を這わせては弄ぶ......彼の大きな手が紗雪の背中を優しくなぞり、背の高い身体が彼女に覆いかぶさっていく。紗雪の口から、壊れそうなほどの喘ぎ声がこぼれ落ちたが、それも京弥の唇で塞がれ、やがて深く、絡み合っていった。男と女の営みは、やはり一度踏み込めば簡単には抜け出せないほど中毒性がある。こうして二人は、自然の流れのまま結ばれた。翌朝。紗雪の体には痛みが残っていた。特に腰の両脇がひどく張っていて、じんじんと鈍く痛む。隣を見ても、そこに京弥の姿はなかった。紗雪は思わずぼそりと呟いた。「......獣みたい」終わったら服を着てさっさと出ていくなんて、ひとことくらい声かけて行けっての。何か急用でもあったのか。ベッドを下りて着替えようとしたが、足元がふらついて、立つのがやっとだった。膝の青紫色の痕を見て、目の前が一瞬真っ暗になる。やっぱり男って、そういう時は全然容赦ないのね。歯を食いしばりながら、クローゼットから適当な服を引っ張り出して着替える。洗面所で身支度していると、朝方ぼんやりした意識の中で、京弥が「空港に人を迎えに行く」と言っていた気がする。誰を迎えに行ったんだっけ......全然覚えてないや。まあいいや。紗雪が朝食を食べていると、美月からメッセージが届いた。【紗雪、空港まで客を迎えに行ってくれる?塩ヶ城から戻ってきたばかりの方なの。とても重要なお客様だから、丁寧にもてなしてちょうだい。詳しい資料は送っておいたわ。】メッセージを読み終えたとき、ちょうど最後の一口のパンを食べ終えたところだった。紗雪は小さくため息をつく。まったく、まだ出勤もしてないのに、もう仕事開始ってわけね。感慨に浸る暇もなく、時間を確認すると、出発まであと一時間しかなかった。慌てて軽くメイクを済ませ、車を飛ばして空港へ向かう。母親から送られてきた資料に目を通しながら、口の中で呟く。「神垣日向(かみがきひなた)......いい名前じゃない」スマホの画面には、淡い金髪のショートカットの男。自由奔放で、どこか無邪気そうな笑顔が画面いっぱいに広がっ
京弥がグラスの酒を飲み干した瞬間、紗雪の熱い視線に気づいた。その視線の意味を、彼は一瞬で理解してしまった。男はそっと手を伸ばし、紗雪の腰を抱き寄せた。二人の身体が密着し、互いの呼吸がすぐ傍で絡み合う。紗雪は彼の端正な顔を見つめながら、思わずごくりと唾を飲み込んだ。酔ってしまったせいか、どうにもこの男への欲望が抑えきれない。「さっちゃんは......」男が何かを言いかけた瞬間、紗雪は慌てて視線を逸らした。「なんでもない。ちょっと酔っちゃって......頭がぼーっとしてるだけ」今がどこか、彼女はまだ忘れていなかった。ここは外、まだパーティーの最中だ。京弥は紗雪の羞恥を見抜いていた。その赤く染まった耳の根っこ、酒のせいじゃない。本人は気づいていないかもしれないが、彼女が恥ずかしいと感じる時、いつも耳の裏がほんのり染まる。その癖を、京弥は付き合い始めてすぐに気づいていた。「じゃあ......帰ろっか?」紗雪は反射的に美月のほうへ目を向けた。母はまだ客人たちと愛想笑いを交わしている。彼女は目を伏せ、心の中に言いようのない感情が湧き上がる。母はまた緒莉を選んだ。同じ娘なのに、どうしてこんなにも差があるんだろう......紗雪は深く息を吸い込み、我慢できずに酒をもう一杯あおった。そして顔を上げて京弥を見つめる。「......帰ろう」ここにいても、もう意味なんてない。どうせ母の処罰なんて、ただの見せかけだ。京弥は紗雪の視線を辿り、美月が経営者たちと笑顔で話す姿を見た。そして目の前で強がっているさっちゃんを見つめて、胸が締め付けられるような思いがした。彼はそのまま紗雪の腰に手を回し、彼女を抱き上げた。美月の前を通り過ぎる時、彼は一言、礼を言った。「お義母さん、さっちゃんが酔ってしまったので、先に帰ります」美月は京弥の腕に寄りかかる紗雪を見て、複雑な表情を浮かべた。口をつぐみかけて、結局ひと言だけ絞り出した。「......道中、気をつけてね」それ以上、何も言葉はなかった。京弥の腕に抱かれた紗雪の瞳には、隠しきれない失望の色が滲んでいた。自分は、一体何を期待していたのだろう......美月は二人の背中を見送りながら、しばらくその場で動けなかっ
この言葉を聞いた瞬間、緒莉は雷に打たれたかのように呆然とした。母の言いたいことが分からないはずがない。明らかに、美月の心の中にはすでに疑念が芽生えていた。さっき皆が話していた内容。あれを、母は多少なりとも信じたのだ。そうでなければ、こんな冷たい対応をするはずがない。「いや......いやよ、お母さん、休みたくない......私は、私はただ、お母さんのそばにいたいだけなの......」美月はそんな緒莉の涙に濡れた顔を一瞥することもなく、背を向けた。紗雪はこの茶番劇を冷笑しながら見ていた。母が緒莉に処分を下したように見えるけど、実のところ、あれもまた庇いだ。本気で公平な処理をするなら、徹底的に調査されていたはずだ。こんな中途半端な形で終わらせるなんて、結局はうやむやにしたいだけじゃないか。この母の態度に、紗雪の心はじんわりと冷えていく。ここまで来てもなお、緒莉を庇おうとするその姿に、ふと疑問が浮かんだ。彼女だって、美月の娘じゃない。緒莉の泣き声がロビーから完全に聞こえなくなった頃、美月はようやく振り返った。彼女は紗雪の冷ややかな視線と真正面からぶつかり、一瞬だけ、珍しく気まずそうな顔を見せた。美月はその目が訴える意味を理解していた。だが、家の体裁と二川家の面子を保つためには、こうするしかなかった。まさか皆の前で、二川家の恥を晒すわけにはいかないのだ。美月は視線を逸らし、辰琉の方を向いて冷たく言い放った。「あなたも緒莉のそばについていてあげて。あの子、身体が弱いのよ」「はい、すぐに行きます」辰琉は何の疑問も抱かず、素直に従った。つい先ほどのやり取り、彼には全て見えていた。結局、勝ったのは自分の緒莉だ。そうでなければ、美月が自分をあの子のもとに行かせるはずがない。去り際、辰琉は挑発するように紗雪を一瞥した。その一瞥には、明確な意味が込められていた。大した女だと思ってたけど、母親に全然可愛がられてないんだな。紗雪は彼の意図を察し、黙って拳を握り締めた。やっぱりこの男、ただの偽善者だ。その時、紗雪の拳を、京弥がそっと包み込んだ。優しく撫でるように、彼は耳元で囁く。「大丈夫。俺がいるから」その一言に、紗雪の胸に渦巻いていた鬱屈が、少しだけ晴れ