紗雪は実は京弥からのメッセージを見ていた。ただ、どう返信すればいいのか分からなかった。彼と初恋のことなんて、自分には関係ない。よくよく考えてみれば、京弥がわざわざ自分にあのメッセージを送ってくる必要なんて、最初からなかったのだ。所詮表向きの夫婦にすぎないのに、何をそんなに真剣になっているのか。京弥が帰ってきたのは、ちょうど紗雪がキッチンで水を飲んでいたときだった。水を注ぎ終えた瞬間、玄関の方から物音が聞こえてきた。紗雪のまなざしがわずかに揺れる。それが京弥であることは、すぐに察しがついた。彼女はコップの水を一気に飲み干すと、そのまま洗面所に向かおうとした。だが、振り返った瞬間、彼女はキッチンの出口を塞がれてしまう。大柄な男の身体がそこに立っているだけで、通路を完全に塞いでいた。彼がどかない限り、紗雪はキッチンから出られない。仕方なく立ち止まり、紗雪は諦めたように口を開いた。「どいて。歯を磨きたい」京弥はそんな彼女を見つめながら、内心でははっきりと確信していた。今日、空港で見たのは、間違いなく紗雪だった。「なんで、返信しなかった?」彼は話題を変えて、静かにそう問いかける。午後から今まで、スマホを見なかったなんてあり得ない。唯一の理由は、紗雪が返信する気がなかったということだ。紗雪は彼の視線を避け、答える気もない様子だった。「電池切れてただけよ」彼女は視線を落とし、平然とした口調で言った。「もう遅いし、どいて。休みたいの」京弥は彼女の表情をじっと見つめ、その顔から少しでも嫉妬や怒りの気配を探ろうとした。だが、なかった。逆に、彼女はあまりにも冷静だった。その事実が、京弥の心に妙な不安を生じさせる。彼は奥歯を強く噛みしめる。「今日、空港にいたのか?」紗雪の目が一瞬揺れたが、すぐにふっと笑った。「どういう意味?」「何を見た」彼女はしっかりと彼を見据えた。「私はただ客の出迎えに行っただけよ。むしろあなたが何をしたかじゃない?」この言葉を口にした瞬間、紗雪は自分の舌を噛み切りたい衝動に駆られた。まるで嫉妬深い妻みたいじゃないか。でも実際のところ、京弥がそんなことを言い出すなんて、滑稽としか思えなかった。京弥は一歩ずつ彼女に近づきながら、ま
京弥が寝室に入るとき、ベッドに紗雪の姿がないことに気づいた。家中を一通り探し、最終的に客間で紗雪を見つけた。今日の紗雪は完全に腹をくくっていて、もう京弥と同じベッドで寝るつもりはなかった。初恋の存在がある以上、この結婚関係だってもっと線引きをすべきだと感じていた。昼間のあの光景を思い出すだけで、紗雪は京弥を見るたびに心がざわつく。とくに、あの手が他の女に触れていたことを思うと、なおさら。京弥は客間にいる紗雪を見つめた。何か言おうと唇を動かしかけたが、結局、何も言えずに終わった。拳を握りしめる。どうしようもない無力感が、心の奥からじわじわと湧き上がってくる。つい昨日まで同じベッドで体を重ねていたはずなのに、今日は別々の部屋で眠る。ただ一枚の壁を隔てているだけなのに、お互いの心はまったく違う場所にあるようだった。翌朝。紗雪は早くに目を覚ました。身支度を済ませると、京弥に声をかけることもなく会社へ向かった。普段なら京弥の用意した朝食を食べるところだが、今日はその気になれなかった。会社に到着すると、社員たちの態度が一変していた。誰もが敬意を込めて彼女を「会長」と呼ぶ。この瞬間、紗雪の立場は完全に変わったのだ。彼女は皆に軽く会釈しながら挨拶した。「そんなにかしこまらなくてもいいよ。今まで通りでお願い」「私は皆さんと同じで、会社のことを第一に考えているから」拍手があちこちから起こる。そのとき、紗雪は隅の方にいる円を見つけた。何か言いたげな顔をしながらも、遠慮して口を開けない様子だった。紗雪は眉を少し上げて、円に手招きする。「どうしたの?なんか言いたいことがあるような顔してるけど」円は少し恥ずかしそうに言った。「もう私たちの立場が違う気がして......」「それに、今は会長であり次女様でもあるし、きちんと礼儀をわきまえないとって」その言葉に、紗雪は胸の奥に小さな痛みを感じた。彼女は真剣な表情で円に向き直った。「円、そんなふうに自分を卑下しないで」「私の中の円は、いつも笑顔で明るくて前向きな女の子だった。ずっとあなたのことを友達だと思ってたよ。円は、私のことを友達だと思ってくれないの?」「そんなことないよ!」円は慌てて否定した。「私もずっと
紗雪は少し考え込んでから、真剣な口調で言った。「いい人でしたよ。とても親切で。ただ......妹さんがいるみたいで、その子の事情が少し特殊で......」特殊という言葉を選んだのは、今の段階では詳しい事情が分からないからだった。紗雪自身、日向の妹にまだ会ったことがない。美月は少し黙考してから頷いた。「そう。じゃあ彼の家庭のことも含めて、もう少し詳しく調べておいて。神垣は信頼できるパートナーになり得るわ」「分かりました」そう言って、紗雪は会長室をあとにした。自分のオフィスに戻ったばかりのところで、日向からメッセージが届いた。「この前君が薦めてくれた料理、妹に食べさせてみましたよ。あんなに食べる姿、初めて見ました」そのメッセージを見た紗雪の瞳に、ふっと優しい笑みが浮かぶ。彼女はすぐに返信を送った。「気に入ってくれてよかったです。子どもが楽しめる場所、他にもたくさん知ってますから、よかったら一緒にどうです?」するとすぐに返事が返ってくる。「それはありがたいです。今日の午後なら空いてますが、二川さんは?」紗雪は午後のスケジュールをざっと確認した。特に急ぎの用事はなかったので、日向の誘いに応じることにした。ちょうどよかった。仕事の件でも相談したいことがあったからだ。最近、二川グループではあるプロジェクトのデザイン案を修正する必要があり、日向の意見を聞いてみたかった。待ち合わせの場所に着いた紗雪は、そこで初めて日向が一人ではないことに気づいた。彼の隣には、ツインテールにした小さな女の子がいた。年齢は五〜六歳くらいだろうか。まるで人形のように愛らしく、大きな瞳はブドウのようにきらきらしていて、見る人の心を一瞬でとろけさせてしまいそうなほどだった。だが、紗雪の目がふと鋭くなる。違和感に気づいたからだ。「神垣さん、この子が......妹さん?」軽く挨拶をしながら尋ねる。日向は妹の頭をそっと撫でながら、どこか切なげな笑みを浮かべた。その目には、明らかに深い愛情と、隠しきれない哀しみが滲んでいた。やっぱり、見間違いじゃなかった。「二川さん、僕たち、そんなに歳も離れていませんし、今後は何度も会うことになりますから、気軽に『神垣』って呼んでくださいよ。あと、敬語も」彼の言葉
どれだけ紗雪が話しかけても、千桜はずっと無表情のままで、紗雪に対してほとんど反応を見せなかった。彼女は両手でウサギのぬいぐるみを抱きしめたまま、ひたすら日向の背中に隠れていた。その様子を見て、紗雪は少しも苛立つことなく、むしろその瞳にはいっそう深い憐れみの色が宿っていた。日向は思わず口を開いた。「紗雪、もう大丈夫だよ。君は先に食事してて。妹のことは気にしないで、僕が面倒を見るから。この子が食べたくなったら自分で食べれるよ」紗雪の根気強さに、彼はむしろ申し訳なさを覚えていた。内心では驚きもあった。彼女のこの優しさは、本当に心からのものなのか?それとも、単にビジネスの付き合いだから演じているだけなのか?ふとそう考えた日向の視線には、自然と探るような色が宿っていた。その言葉を受けて、紗雪はようやく自分の席に戻った。最初は仕事上の関係を円滑にするため、日向に良い印象を持ってもらおうと努力していた彼女だったが、今は違っていた。千桜の小さな姿と、その背後にある過去を思うと、自然と胸が痛んだのだった。今日の会合は、デザイン案についての話が主目的だった。千桜が席に着くと、日向の言う通り、一人でゆっくりとスプーンを動かしていた。目の前のプリンも、少しずつ減っていく。「どうやらこのレストランのプリンは、子どもの口にも合ってるみたいね」紗雪の目元には微笑が浮かび、千桜を見つめる視線には深い愛情がこもっていた。「ああ」日向も静かに頷いたあと、少し緊張を解いたような表情で言った。「そういえば、修正してほしいって言ってたデザイン案、持ってきてる?」紗雪はカバンの中からその資料を取り出して、日向に渡した。日向は千桜に「ちゃんとご飯食べてて」と優しく声をかけてから、手元のデザイン案に目を通す。「これは郊外にある観光リゾート施設の設計案。全体の方向性はこのままでいいと思うけど、もう少しブラッシュアップしたいと思ってる。どこか改善点があれば、教えてほしい」紗雪は穏やかに説明しながら、最後に尋ねた。「どう思う?」日向は自信に満ちた笑みを浮かべ、あえて正面から答えることなく言った。「三日だけ時間をくれ」その目の奥にある強い決意を見た紗雪は、自然と共感を覚えた。彼女自身、野心のある人間だったからこそ、
店員がプリンを運んできたあとも、千桜に優しく話しかけていた。「食べ過ぎないでね。今日の分はこれで終わり。次にまた来たときに食べようね」「気に入ったなら、また一緒に来ましょう」陽の光の下、紗雪の横顔はまるで光を纏っているかのように美しかった。とくに千桜と話しているときは、顔全体にあたたかな笑みが広がっていた。日向はその光景に思わず見とれてしまい、心臓が一瞬、ドクンと鳴るのを忘れたような気がした。レストランの中では、他の客もスタッフも背景に溶け込んでしまったかのようだった。日向の目に映っているのは、紗雪とその妹。ただそれだけだった。女性の穏やかな声、優しく微笑む表情。それらが日向の口元に、自然と笑みを浮かばせた。彼はふと思った。もしかしたら、妹ももう少し外の世界と関わってもいいのかもしれない、と。......「京弥兄、いつもお仕事ばっかり」伊澄は不満そうに赤い唇を尖らせ、清楚な顔立ちにははっきりとした苛立ちが浮かんでいた。「せっかく鳴り城まで来たのに、どこにも連れて行ってくれないの?」京弥は椅子に座ったまま、顔を上げずに言った。「見ての通り、俺は忙しいんだ」「またそのセリフ!忙しい忙しいって、仕事のことしか考えてないの?」伊澄は甘えるような口調で続けた。「お金なんて、いくら稼いでもキリがないでしょ?体の方が大事でしょ?」「うちの兄が京弥兄に『ちゃんと面倒見て、気晴らしさせてやって』って言ってなかった?だから私はこっちに来たのよ」この言葉に、京弥の手が止まった。彼が顔を上げると、そこにはどこか兄に似た面影を持つ伊澄の顔があった。伊澄の兄、伊吹は京弥にとって命を預けられる親友だった。昔、海外に留学していた頃からの仲だ。それ以来、長年にわたり連絡を取り合ってきた。今回、伊澄が日本に来たのも、伊吹が心配して京弥に妹の面倒を見てもらうよう頼んだからだ。こんな頼みを断る理由もなく、京弥は堂々とこう言ったのだった。「安心しろ。お前の妹は俺の妹だ。任せてくれ」そう言ってくれたからこそ、伊吹も安心して妹を託したのだ。妹の遊び好きな性格も、兄としてちゃんと把握していた。京弥は、伊吹へのその約束を思い出し、仕方なく立ち上がった。匠に近くで遊べそうな場所を探す
この光景を見た京弥は、心の中でわずかに不満を抱いた。彼は、伊吹と一度話し合う必要があると感じた。この少女、少し傲慢すぎるのではないかと。だが次の瞬間、伊澄はまたも人をなだめる術を発揮した。彼女は一着の服を指差しながら、得意げに言った。「京弥兄、この服はどう?似合うと思うの」「それと、このネクタイとパンツも、ちょうどセットで買ったの!」京弥はその服をじっと見つめ、目元が一瞬だけきらりと光る。確かに、自分の好みにぴったりで、普段からよく着るスタイルだった。ちょうど支払いをしようとしたところで、伊澄が彼より先にレジへ向かった。「私が払うよ、京弥兄。これは私からのプレゼント」なぜか、京弥の胸の中には、少しばかりの安らぎが広がった。なにしろ、こんなふうに贈り物をしてくれたことは、紗雪でさえあまりなかったからだ。「ありがとう。伊澄、本当に大人になったな」伊澄は甘えるように笑って言った。「当然でしょ?これ、私のへそくりから出してるんだから、もう子ども扱いしないで!」彼女は純白のロングドレスに身を包み、明るく元気な仕草と表情で、まさに生き生きとしていた。とりわけ京弥の隣にいるときは、恋する女性そのものだった。その光景は、周囲の目にはとても微笑ましく映り、まるで理想のカップルのように見えた。人々は小声でささやき合いながら、「なんてお似合い」と感嘆していた。伊澄はそのささやきを耳にして、誇らしげに顎を少し上げた。まるで、自分こそが勝者だと言わんばかりの鳥のようだった。彼女は無意識のうちに、京弥の腕にしっかりと手を絡めた。まるで所有権を主張するかのように。だが、京弥はすぐに腕を引き抜いた。「伊澄、俺はもう結婚してるんだ。そういうのは、ちょっと違うと思う」彼にとって伊澄はずっと妹のような存在だった。今のような行動は、兄妹の間柄では越えてはならない一線だった。京弥の言葉に、伊澄の顔は一瞬だけ気まずそうに歪んだが、すぐに何事もなかったかのように笑顔を取り戻した。「そうだね。ごめんなさい」彼女は首をかしげ、無邪気を装って言った。「私はただ京弥兄のことを、本当の兄みたいに思ってるだけだよ」「お義姉さんだって、きっと気にしないよね......?」最後の言葉はわざと途中で
「義姉」って、どんな顔をしてるんだろう。どんな性格の人なんだろう?あんなにも長い間想い続けてきた彼。幼い頃からずっと一緒に育ってきた彼。そんな彼が、あの女にあっさり奪われてしまうなんて。納得できるわけがない。だから今日、絶対に会ってやる。あの義姉という人に。食事の後、京弥は伊澄を送ろうとした。だが、彼女は拒否した。「私、せっかく鳴り城まで来たのに、ずっとホテルに泊まれって言うの?」後部座席に座った伊澄は、顔を横に向けて少し唇を尖らせた。彼女は助手席に座りたくなかったわけじゃない。ただ前に一度座ろうとした時、京弥の反応があまりにも大きかったからだ。彼女が助手席に乗ろうとした瞬間、京弥は厳しい声で止めた。「この席は俺の妻だけのものだ」伊澄は、その言葉を今でもはっきりと覚えている。その時、彼女は冗談めかしてこう言った。「えー、私もダメなの?京弥兄、私は他の女と違うよ。だって、私たち幼なじみでしょ?」「冗談はよしてよ。他人にそういう態度とるならまだしも、自分の妹にも使うなんてさ」そう言って座ろうとしたその瞬間、京弥の顔が真っ黒になり、まるで鍋の底のように険しい表情で言い放った。「これ以上言わせるな」その瞬間、彼女は本気で怖くなった。普段は優しい彼でも、信念や原則に関わることだけは、決して譲らなかった。結局、彼女はしぶしぶ後部座席に座るしかなかった。それが、今のこの光景に繋がっている。けれど、彼女としてはホテルにずっと泊まり続けるつもりなんて毛頭なかった。彼女はこの鳴り城に来た目的を、決して忘れてはいなかった。すべては京弥のために。伊澄のその一言に、京弥も少し迷いを見せた。確かに、女の子が一人でずっとホテルに泊まるのは安全面でも不安が残る。それに、彼は伊吹に「妹をちゃんと面倒見てくれ」と頼まれていた。京弥の表情の変化を敏感に察知した伊澄は、すぐさま言葉を重ねた。「京弥兄、今日はどうしても一人でいたくないの。怖いんだもん。一緒にいてよ」「それに、私ずっと『京弥兄』って呼んでるし、お義姉さんもきっと気にしないよ?」これだけ強く出られては、京弥もどうしようもなかった。結局、彼は彼女を自宅に連れて帰ることにした。あくまで「一時的」なこと。
「いいよ別に。説明する必要はない」紗雪は二人が並んで立っている姿を見つめた。男は背が高く頼もしげで、女は小柄で可愛らしい。並んでいると、不思議なくらいお似合いだった。その瞬間、胸のあたりから何かが抜け落ちたような気がした。けれど、それが何なのか、彼女自身にもわからなかった。伊澄が後ろからついて来て、紗雪の顔を見ると、一瞬だけ嫉妬の色を浮かべてから、明るく声をかけた。「お義姉さん、帰ってきてたんですね」「気にしないでくださいね。私と京弥兄は何もないんです。小さい頃から知り合いで、今日一緒に帰ってきたのも、私が泊まる場所がないからです」そう言いながら、伊澄は未だに京弥の腕に自分の腕を絡ませていた。彼女はわざとらしく彼に視線を送って促す。「京弥兄もほら、お義姉さんにちゃんと説明してあげてよ。怒ってるみたいだし」「小さい頃からの知り合い?」伊澄は無邪気な顔で言った。「そうですよ。まさか京弥兄、私のこと話してなかったんですか?」その言葉を聞いた瞬間、紗雪の眉がピクリと動いた。心の奥から、説明のつかない苛立ちがふつふつと湧き上がる。京弥は様子がおかしいことに気づき、彼女に説明しようと腕を引こうとした。「で、あなたの『京弥兄』は私に何を言うべきだったのかしら?」紗雪の声は冷静で、以前のような落ち着いた雰囲気を取り戻していた。その冷静さこそが、京弥を最も不安にさせた。彼女が怒っているときほど、静かになる。それを彼は数日間の付き合いでよく理解していた。「お義姉さん、そんなに怒らないでください。もし私がここにいるのが嫌なら、京弥兄と相談して、ちゃんと別の場所に行きますから......」伊澄の目には涙がにじみ、まるで被害者のように見える。紗雪はようやく理解した。目の前のこの女はどうやら、京弥の「初恋」らしい。でなければ、こんな大事な「妹」の存在を、なぜ彼は一言も彼女に話してくれなかったのか。妹だなんて。どうせ恋人の愛称ってやつだろう。ただ......紗雪は軽蔑のこもった目で京弥を見た。女を見る目、ないわね。わざわざこんなの使って彼女を刺激するつもり?「私が、何に怒ってるっていうの?」思わず笑ってしまいそうになる。たった数言で、彼女をどんな悪役に仕立て上げたというのか
紗雪が目を覚ましてリビングに来たとき、ちょうど伊澄がダイニングテーブルに座り、目をキラキラさせながら京弥を見つめていた。「わあ、京弥兄!まさか今日もまた京弥兄の料理が食べられるなんて!本当に恋しかったんだから!」伊澄はわざとらしく言った。「もう、海外の食べ物って本当に人間が食べるもんじゃないのよ、どれもこれも飲み込みづらくて......」「やっぱり国内が一番。何より京弥兄の手料理が最高!」京弥の表情は淡々としていた。「手をつけるな。彼女が起きてからだ」伊澄は唇を尖らせたが、京弥の視線に気づき、しぶしぶと卵焼きを置いた。その視線の端に、紗雪の姿が映った。女は何も言わず、ただ静かにそこに立っていた。まるで他人事のように、その光景を見つめていた。そんな彼女の前に、伊澄がわざと親しげな素振りで歩み寄り、腕を取った。「お義姉さん、見てください。京弥兄がこんなにたくさん美味しいもの作ってくれたんだし、もう怒らないでくださいよ〜」「ていうかさ、お義姉さんってホントにラッキーですね。京弥兄、顔も家柄も完璧だし、おまけに料理までできるなんて、まさに女心を鷲掴みってやつじゃないですか?」その一連のセリフに、紗雪は自然と眉をひそめた。彼女は何の遠慮もなく、伊澄の腕を引き抜き、鼻で笑って言った。「そこまで褒めるってことは、妹さんも彼に惚れた?」その言葉に、伊澄は一瞬驚いた顔を見せた。京弥もまた、不満げに紗雪を見つめて言った。「紗雪、俺と伊澄はただの兄妹だ。それ以上それ以下でもない」その言葉に、伊澄のこめかみがピクリと動いた。拳を無意識に握りしめる。大丈夫。焦らず少しずつ距離を詰めていけばいい。彼女はすぐに表情を整え、にこやかに笑って言った。「昨日のこと、まだ気にしています?京弥兄は自分から仲直りしようとしていたじゃないですか」「で?妹さんも彼に惚れた?」紗雪は背筋を伸ばし、まっすぐに二人の前に立った。冷静なまま、さっきの言葉をもう一度繰り返す。その瞳は澄んでいて、何の感情も読み取れない。まるで、ただ「答え」がほしいだけのようだった。伊澄は乾いた笑いを浮かべた。「お義姉さん、京弥兄みたいに優秀な人なら、そりゃあ女の子たちからモテるに決まってますよ」「じゃあ、君はどう
京弥は紗雪の背中を見つめながら、結局は追いかけなかった。彼には分かっていた。今の紗雪に必要なのは「冷静」だということを。無理に踏み込めば、かえって怒らせるだけだ。拳をぎゅっと握りしめる。客間のドアが「バタン」と閉まる音が響くまで、その場に立ち尽くしていた。ようやく我に返ると、彼は長いため息を吐いて主寝室へと歩いて行った。一方、紗雪も部屋に戻ってからというもの、なぜか胸の内がざわついて仕方がなかった。本来なら、最初から自分に言い聞かせていたはずだ。男の言葉なんて、本気にしちゃダメだって。京弥との関係も、所詮は利害の一致にすぎないと。なのに今は、何かがずれてきている。まるで自分の意思では止められない方向に、すべてが流れていくような感覚。紗雪は胸元に手を当てる。その奥で鼓動している心臓が、自分のものではないかのように、どんどん制御できなくなっている気がした。どうして今日、あんなに怒ってしまったんだろう?......「どういう意味よ!」伊澄は部屋の中で伊吹とビデオ通話をしていた。画面越しに何を言われたのか、彼女の顔には明らかな不満が滲み出ていた。金縁の眼鏡をかけた伊吹は、知的で穏やかな雰囲気を漂わせていた。妹が怒っているのを見ても、その表情は少しも動じなかった。「さっき言ったこと、ちゃんと心に刻んでおけ」「なんでよ、やだもん!」伊澄はワガママな声で反論する。京弥兄から離れろなんて、絶対に無理。彼女が帰国した最大の理由は、この『お義姉さん』とやらを見極めて、京弥兄との『運命の物語』を作ることだったのに。伊吹の目に冷たい光が宿る。「俺の言うこと、もう聞けないってわけ?」「京弥は、お前が関わっていい相手じゃない。お前が息抜きで数日帰国したと思ってたが、これ以上わがままを続けるなら......俺は爺さんに話すぞ!」彼はやむを得ず、爺さんという切り札を持ち出した。その言葉に、伊澄は少し拗ねたように唇を尖らせた。「京弥兄、人を好きになることの何が悪いの?ただ近づきたいだけ、それの何がいけないの?自由に恋愛する権利くらい、私にだってあるでしょ。お爺さんが何を言っても、私の気持ちは止められないよ!」そう言って、彼女は一方的に通話を切ってしまった。「おいっ...
伊澄は京弥の瞳に宿る鋭い怒気を見て、彼が本気で怒っているのを悟った。彼女は舌打ちして、気だるそうに言った。「わかったよ。ちゃんと話してね。私のせいで喧嘩なんて、絶対ダメだからね」紗雪の目には一層の冷たい色が差した。彼女は鼻で笑い、この家を出ようとした。ちょうどいい、彼らに場所を空けてやれる。だが、京弥はずっと彼女の手首を握ったまま、離そうとしなかった。紗雪は何度も手を振り払おうとしたが無駄で、鋭く言い放った。「放して。彼女のところに行きなさいよ。私に触らないで」その言葉を聞いた瞬間、京弥のこめかみに青筋が浮かび、紗雪の赤い唇が開いたり閉じたりするのを見て、思わずその唇を塞ぎたくなった。そして背を向けて歩き出した伊澄は、その言葉を聞いて口元がゆっくりと吊り上がっていく。親愛なるお義姉さん、これはほんの第一歩よ。この先もきっと乗り越えられるよね?あんたの男がどうやって私に奪われるのか、しっかり見届けてちょうだい。そう思うと、伊澄の心は喜びで満ちていた。足取りも軽やかになり、後ろ姿からも嬉しさがにじみ出ていた。部屋のドアが閉まる音が聞こえた瞬間、京弥は感情を抑えきれず、そのまま目の前の赤い唇を塞いだ。紗雪は目を大きく見開き、「んっ」と小さく呻きながら、信じられないという表情で京弥を見た。「ちょっ......」その隙に、京弥は強引に入り込む。紗雪が説明を聞こうとしない以上、彼はこの方法でしか気持ちを伝える術がなかった。冷静になったら、ちゃんと話すつもりだった。紗雪の呼吸はすっかり奪われ、一瞬たりとも息をつく余裕がなかった。まるで水から上がった魚のように、必死でもがくしかなかった。あの女の横柄な顔を思い出すだけで、胸の中に不快感が渦巻く。なのに、こんな時にこの男は、よくも平気な顔でキスなんかしてきたね。だが京弥は、紗雪がもがく隙も与えなかった。彼にはもう、こうするしか方法がなかった。このやり方でしか、自分の真心を伝えられなかった。紗雪の抵抗が次第に弱くなっていくと、京弥は彼女の唇に額を寄せながら、低く優しい声で言った。「さっちゃん、説明させてくれる?」「彼女とは本当に何もないんだ。信じてくれないか?」京弥の黒い瞳は深く、いつもは冷たいその顔に、今日は珍し
「いいよ別に。説明する必要はない」紗雪は二人が並んで立っている姿を見つめた。男は背が高く頼もしげで、女は小柄で可愛らしい。並んでいると、不思議なくらいお似合いだった。その瞬間、胸のあたりから何かが抜け落ちたような気がした。けれど、それが何なのか、彼女自身にもわからなかった。伊澄が後ろからついて来て、紗雪の顔を見ると、一瞬だけ嫉妬の色を浮かべてから、明るく声をかけた。「お義姉さん、帰ってきてたんですね」「気にしないでくださいね。私と京弥兄は何もないんです。小さい頃から知り合いで、今日一緒に帰ってきたのも、私が泊まる場所がないからです」そう言いながら、伊澄は未だに京弥の腕に自分の腕を絡ませていた。彼女はわざとらしく彼に視線を送って促す。「京弥兄もほら、お義姉さんにちゃんと説明してあげてよ。怒ってるみたいだし」「小さい頃からの知り合い?」伊澄は無邪気な顔で言った。「そうですよ。まさか京弥兄、私のこと話してなかったんですか?」その言葉を聞いた瞬間、紗雪の眉がピクリと動いた。心の奥から、説明のつかない苛立ちがふつふつと湧き上がる。京弥は様子がおかしいことに気づき、彼女に説明しようと腕を引こうとした。「で、あなたの『京弥兄』は私に何を言うべきだったのかしら?」紗雪の声は冷静で、以前のような落ち着いた雰囲気を取り戻していた。その冷静さこそが、京弥を最も不安にさせた。彼女が怒っているときほど、静かになる。それを彼は数日間の付き合いでよく理解していた。「お義姉さん、そんなに怒らないでください。もし私がここにいるのが嫌なら、京弥兄と相談して、ちゃんと別の場所に行きますから......」伊澄の目には涙がにじみ、まるで被害者のように見える。紗雪はようやく理解した。目の前のこの女はどうやら、京弥の「初恋」らしい。でなければ、こんな大事な「妹」の存在を、なぜ彼は一言も彼女に話してくれなかったのか。妹だなんて。どうせ恋人の愛称ってやつだろう。ただ......紗雪は軽蔑のこもった目で京弥を見た。女を見る目、ないわね。わざわざこんなの使って彼女を刺激するつもり?「私が、何に怒ってるっていうの?」思わず笑ってしまいそうになる。たった数言で、彼女をどんな悪役に仕立て上げたというのか
「義姉」って、どんな顔をしてるんだろう。どんな性格の人なんだろう?あんなにも長い間想い続けてきた彼。幼い頃からずっと一緒に育ってきた彼。そんな彼が、あの女にあっさり奪われてしまうなんて。納得できるわけがない。だから今日、絶対に会ってやる。あの義姉という人に。食事の後、京弥は伊澄を送ろうとした。だが、彼女は拒否した。「私、せっかく鳴り城まで来たのに、ずっとホテルに泊まれって言うの?」後部座席に座った伊澄は、顔を横に向けて少し唇を尖らせた。彼女は助手席に座りたくなかったわけじゃない。ただ前に一度座ろうとした時、京弥の反応があまりにも大きかったからだ。彼女が助手席に乗ろうとした瞬間、京弥は厳しい声で止めた。「この席は俺の妻だけのものだ」伊澄は、その言葉を今でもはっきりと覚えている。その時、彼女は冗談めかしてこう言った。「えー、私もダメなの?京弥兄、私は他の女と違うよ。だって、私たち幼なじみでしょ?」「冗談はよしてよ。他人にそういう態度とるならまだしも、自分の妹にも使うなんてさ」そう言って座ろうとしたその瞬間、京弥の顔が真っ黒になり、まるで鍋の底のように険しい表情で言い放った。「これ以上言わせるな」その瞬間、彼女は本気で怖くなった。普段は優しい彼でも、信念や原則に関わることだけは、決して譲らなかった。結局、彼女はしぶしぶ後部座席に座るしかなかった。それが、今のこの光景に繋がっている。けれど、彼女としてはホテルにずっと泊まり続けるつもりなんて毛頭なかった。彼女はこの鳴り城に来た目的を、決して忘れてはいなかった。すべては京弥のために。伊澄のその一言に、京弥も少し迷いを見せた。確かに、女の子が一人でずっとホテルに泊まるのは安全面でも不安が残る。それに、彼は伊吹に「妹をちゃんと面倒見てくれ」と頼まれていた。京弥の表情の変化を敏感に察知した伊澄は、すぐさま言葉を重ねた。「京弥兄、今日はどうしても一人でいたくないの。怖いんだもん。一緒にいてよ」「それに、私ずっと『京弥兄』って呼んでるし、お義姉さんもきっと気にしないよ?」これだけ強く出られては、京弥もどうしようもなかった。結局、彼は彼女を自宅に連れて帰ることにした。あくまで「一時的」なこと。
この光景を見た京弥は、心の中でわずかに不満を抱いた。彼は、伊吹と一度話し合う必要があると感じた。この少女、少し傲慢すぎるのではないかと。だが次の瞬間、伊澄はまたも人をなだめる術を発揮した。彼女は一着の服を指差しながら、得意げに言った。「京弥兄、この服はどう?似合うと思うの」「それと、このネクタイとパンツも、ちょうどセットで買ったの!」京弥はその服をじっと見つめ、目元が一瞬だけきらりと光る。確かに、自分の好みにぴったりで、普段からよく着るスタイルだった。ちょうど支払いをしようとしたところで、伊澄が彼より先にレジへ向かった。「私が払うよ、京弥兄。これは私からのプレゼント」なぜか、京弥の胸の中には、少しばかりの安らぎが広がった。なにしろ、こんなふうに贈り物をしてくれたことは、紗雪でさえあまりなかったからだ。「ありがとう。伊澄、本当に大人になったな」伊澄は甘えるように笑って言った。「当然でしょ?これ、私のへそくりから出してるんだから、もう子ども扱いしないで!」彼女は純白のロングドレスに身を包み、明るく元気な仕草と表情で、まさに生き生きとしていた。とりわけ京弥の隣にいるときは、恋する女性そのものだった。その光景は、周囲の目にはとても微笑ましく映り、まるで理想のカップルのように見えた。人々は小声でささやき合いながら、「なんてお似合い」と感嘆していた。伊澄はそのささやきを耳にして、誇らしげに顎を少し上げた。まるで、自分こそが勝者だと言わんばかりの鳥のようだった。彼女は無意識のうちに、京弥の腕にしっかりと手を絡めた。まるで所有権を主張するかのように。だが、京弥はすぐに腕を引き抜いた。「伊澄、俺はもう結婚してるんだ。そういうのは、ちょっと違うと思う」彼にとって伊澄はずっと妹のような存在だった。今のような行動は、兄妹の間柄では越えてはならない一線だった。京弥の言葉に、伊澄の顔は一瞬だけ気まずそうに歪んだが、すぐに何事もなかったかのように笑顔を取り戻した。「そうだね。ごめんなさい」彼女は首をかしげ、無邪気を装って言った。「私はただ京弥兄のことを、本当の兄みたいに思ってるだけだよ」「お義姉さんだって、きっと気にしないよね......?」最後の言葉はわざと途中で
店員がプリンを運んできたあとも、千桜に優しく話しかけていた。「食べ過ぎないでね。今日の分はこれで終わり。次にまた来たときに食べようね」「気に入ったなら、また一緒に来ましょう」陽の光の下、紗雪の横顔はまるで光を纏っているかのように美しかった。とくに千桜と話しているときは、顔全体にあたたかな笑みが広がっていた。日向はその光景に思わず見とれてしまい、心臓が一瞬、ドクンと鳴るのを忘れたような気がした。レストランの中では、他の客もスタッフも背景に溶け込んでしまったかのようだった。日向の目に映っているのは、紗雪とその妹。ただそれだけだった。女性の穏やかな声、優しく微笑む表情。それらが日向の口元に、自然と笑みを浮かばせた。彼はふと思った。もしかしたら、妹ももう少し外の世界と関わってもいいのかもしれない、と。......「京弥兄、いつもお仕事ばっかり」伊澄は不満そうに赤い唇を尖らせ、清楚な顔立ちにははっきりとした苛立ちが浮かんでいた。「せっかく鳴り城まで来たのに、どこにも連れて行ってくれないの?」京弥は椅子に座ったまま、顔を上げずに言った。「見ての通り、俺は忙しいんだ」「またそのセリフ!忙しい忙しいって、仕事のことしか考えてないの?」伊澄は甘えるような口調で続けた。「お金なんて、いくら稼いでもキリがないでしょ?体の方が大事でしょ?」「うちの兄が京弥兄に『ちゃんと面倒見て、気晴らしさせてやって』って言ってなかった?だから私はこっちに来たのよ」この言葉に、京弥の手が止まった。彼が顔を上げると、そこにはどこか兄に似た面影を持つ伊澄の顔があった。伊澄の兄、伊吹は京弥にとって命を預けられる親友だった。昔、海外に留学していた頃からの仲だ。それ以来、長年にわたり連絡を取り合ってきた。今回、伊澄が日本に来たのも、伊吹が心配して京弥に妹の面倒を見てもらうよう頼んだからだ。こんな頼みを断る理由もなく、京弥は堂々とこう言ったのだった。「安心しろ。お前の妹は俺の妹だ。任せてくれ」そう言ってくれたからこそ、伊吹も安心して妹を託したのだ。妹の遊び好きな性格も、兄としてちゃんと把握していた。京弥は、伊吹へのその約束を思い出し、仕方なく立ち上がった。匠に近くで遊べそうな場所を探す
どれだけ紗雪が話しかけても、千桜はずっと無表情のままで、紗雪に対してほとんど反応を見せなかった。彼女は両手でウサギのぬいぐるみを抱きしめたまま、ひたすら日向の背中に隠れていた。その様子を見て、紗雪は少しも苛立つことなく、むしろその瞳にはいっそう深い憐れみの色が宿っていた。日向は思わず口を開いた。「紗雪、もう大丈夫だよ。君は先に食事してて。妹のことは気にしないで、僕が面倒を見るから。この子が食べたくなったら自分で食べれるよ」紗雪の根気強さに、彼はむしろ申し訳なさを覚えていた。内心では驚きもあった。彼女のこの優しさは、本当に心からのものなのか?それとも、単にビジネスの付き合いだから演じているだけなのか?ふとそう考えた日向の視線には、自然と探るような色が宿っていた。その言葉を受けて、紗雪はようやく自分の席に戻った。最初は仕事上の関係を円滑にするため、日向に良い印象を持ってもらおうと努力していた彼女だったが、今は違っていた。千桜の小さな姿と、その背後にある過去を思うと、自然と胸が痛んだのだった。今日の会合は、デザイン案についての話が主目的だった。千桜が席に着くと、日向の言う通り、一人でゆっくりとスプーンを動かしていた。目の前のプリンも、少しずつ減っていく。「どうやらこのレストランのプリンは、子どもの口にも合ってるみたいね」紗雪の目元には微笑が浮かび、千桜を見つめる視線には深い愛情がこもっていた。「ああ」日向も静かに頷いたあと、少し緊張を解いたような表情で言った。「そういえば、修正してほしいって言ってたデザイン案、持ってきてる?」紗雪はカバンの中からその資料を取り出して、日向に渡した。日向は千桜に「ちゃんとご飯食べてて」と優しく声をかけてから、手元のデザイン案に目を通す。「これは郊外にある観光リゾート施設の設計案。全体の方向性はこのままでいいと思うけど、もう少しブラッシュアップしたいと思ってる。どこか改善点があれば、教えてほしい」紗雪は穏やかに説明しながら、最後に尋ねた。「どう思う?」日向は自信に満ちた笑みを浮かべ、あえて正面から答えることなく言った。「三日だけ時間をくれ」その目の奥にある強い決意を見た紗雪は、自然と共感を覚えた。彼女自身、野心のある人間だったからこそ、
紗雪は少し考え込んでから、真剣な口調で言った。「いい人でしたよ。とても親切で。ただ......妹さんがいるみたいで、その子の事情が少し特殊で......」特殊という言葉を選んだのは、今の段階では詳しい事情が分からないからだった。紗雪自身、日向の妹にまだ会ったことがない。美月は少し黙考してから頷いた。「そう。じゃあ彼の家庭のことも含めて、もう少し詳しく調べておいて。神垣は信頼できるパートナーになり得るわ」「分かりました」そう言って、紗雪は会長室をあとにした。自分のオフィスに戻ったばかりのところで、日向からメッセージが届いた。「この前君が薦めてくれた料理、妹に食べさせてみましたよ。あんなに食べる姿、初めて見ました」そのメッセージを見た紗雪の瞳に、ふっと優しい笑みが浮かぶ。彼女はすぐに返信を送った。「気に入ってくれてよかったです。子どもが楽しめる場所、他にもたくさん知ってますから、よかったら一緒にどうです?」するとすぐに返事が返ってくる。「それはありがたいです。今日の午後なら空いてますが、二川さんは?」紗雪は午後のスケジュールをざっと確認した。特に急ぎの用事はなかったので、日向の誘いに応じることにした。ちょうどよかった。仕事の件でも相談したいことがあったからだ。最近、二川グループではあるプロジェクトのデザイン案を修正する必要があり、日向の意見を聞いてみたかった。待ち合わせの場所に着いた紗雪は、そこで初めて日向が一人ではないことに気づいた。彼の隣には、ツインテールにした小さな女の子がいた。年齢は五〜六歳くらいだろうか。まるで人形のように愛らしく、大きな瞳はブドウのようにきらきらしていて、見る人の心を一瞬でとろけさせてしまいそうなほどだった。だが、紗雪の目がふと鋭くなる。違和感に気づいたからだ。「神垣さん、この子が......妹さん?」軽く挨拶をしながら尋ねる。日向は妹の頭をそっと撫でながら、どこか切なげな笑みを浮かべた。その目には、明らかに深い愛情と、隠しきれない哀しみが滲んでいた。やっぱり、見間違いじゃなかった。「二川さん、僕たち、そんなに歳も離れていませんし、今後は何度も会うことになりますから、気軽に『神垣』って呼んでくださいよ。あと、敬語も」彼の言葉