この顔を見て、紗雪は拒絶の言葉を口にすることができなかった。「わかった、気をつける」京弥は瞬間、薄い唇を持ち上げ、目尻にまで笑みが広がった。「椎名奥様、連絡待ってます」紗雪は軽く「うん」と応え、そのまま会社へ向かった。男性は彼女の後ろ姿をじっと見つめ、完全に視界から消えるまでその場を動かなかった。それからようやく車を発進させる。会社に着くと、紗雪の表情はすっかり仕事モードに切り替わる。淡い色のフィットしたスーツを身にまとい、髪をきっちりとまとめ、額をすっきりと見せていた。軽くメイクを施し、精悍な雰囲気が増し、職場のエリート感がより一層漂っている。彼女が通り過ぎるたびに、同僚たちは挨拶を交わし、紗雪は微笑みながら軽く頷くだけだった。誰もが彼女の美貌を称賛し、感嘆する。自分のデスクに着くと、昨日柴田が指示した事項と、二川家から持ち帰った資料を統合し始めた。細く高い鼻筋には縁なしのメガネがかかり、桜色の唇はそっと結ばれ、真剣な眼差しでスクリーンを見つめている。パソコンの光が彼女の顔に淡い影を落とす。周囲がどれほど騒がしくても、紗雪は自分の世界に完全に没頭していた。今はただ、企画案を完成させ、椎名のプロジェクトで実績を上げることだけを考えている。それが、彼女の今の目標だった。紗雪は昔から冷静で、独立した考えを持っている。京弥の件も、すでに頭の中から追い出した。ダメなら、ただのルームメイトとして割り切ればいい。紗雪は静かに息を吸い込み、再び資料に集中した。資料を統合することで、椎名の会社理念をより深く理解することができた。椎名が目指しているのは、リラクゼーションと養生を兼ね備えた高級温泉サービスだ。このプロジェクトを勝ち取るには、伝統的なやり方ではダメだ。新しいアイデアを提案しなければ、多くの建築会社の中で頭角を現すことはできない。紗雪はしっかりと唇を結び、母との賭けを思い出した。今回こそ、絶対に勝つ。仕事に集中していた紗雪の前に、柴田が資料を持って現れた。彼はデスクの上に書類を置くと、話しかけた。「二川さん、この資料を椎名グループに届けてくれ」「椎名から声明が出た。まずは初版の企画書のフレームワークを審査するそうだ」紗雪は少し戸惑った。「もう資料を
元々、二川家の次女が会社に来たのは、基層から経験を積むため。ただの形だけだと思われていた。どうせ、口だけの話だろう、と。豪門の子供は皆、生まれた時からお金持ち。家の資産もあるし、仕事をすると言っても、ほとんどは見せかけのものにすぎない。しかし、紗雪はプロジェクトマネージャーが知っているそういった人間とは、まるで違っていた。いや、それどころか、彼の認識を根本から覆すほどだった。そもそも、彼女ほど真剣に仕事に向き合う人は滅多にいない。二川家はもともと裕福で、彼女は二川グループでのんびり過ごすこともできたはずだ。だが、紗雪の真剣な姿勢は、彼の目にはっきりと映っていた。それだけではない。彼女は誠実で、人当たりも穏やかだ。そう考えると、プロジェクトマネージャーは紗雪を見る目に、さらに温かみを増した。紗雪は周りがどう思おうと、ただ自分のやるべきことをやるだけだった。彼女の背筋はまっすぐに伸び、古い木のように、ひとりで大きな空を支えていた。その姿を見ると、不思議と安心感を覚える。「じゃあ、君に任せるよ」プロジェクトマネージャーは改めて言い聞かせるように言った。「二川さん、椎名のプロジェクトの重要性は、君が一番よくわかっているはずだ」紗雪は力強く頷き、目には堅い決意の光を宿した。「全力を尽くします」彼女のその決意は、オフィスの他の人々にも伝染した。誰もがこのプロジェクトに十二分の気持ちを込め、紗雪のように真剣に取り組むようになった。前田の件以来、もう誰も紗雪を侮ることはなかった。それどころか、彼女は「分別のある人間」として、一目置かれるようになった。そんな職場の空気の中で、紗雪もまた、落ち着いて仕事に打ち込めた。午後、彼女は整えた資料を持ち、椎名へと向かった。オフィスの皆が彼女を励まし、背中を押してくれた。会社の車に乗り、目的地に着く。そびえ立つ高層ビルを見上げると、周囲には都心部の建築物が立ち並んでいる。その景色を見て、紗雪は改めて、椎名の規模と実力に圧倒された。ずっと前から、この会社が凄いことは知っていた。しかし、こうして実際にその場に足を踏み入れると、また別の畏怖を感じる。紗雪はきゅっと赤い唇を引き結び、心の中で気合を入れた。そして、しっかりと歩みを
そうだ、彼女は書類を届けに来たのだ。椎名とのプロジェクトこそが最優先事項であり、他のことは二の次。優先順位を見失ってはいけない。それに、ほんの一瞬の出来事だった。紗雪は、自分が見間違えた可能性があるのではないかと疑った。しかし京弥の顔立ちを、彼女が見間違えることなどあるだろうか?ふと、紗雪の脳裏にあることがよぎった。椎名グループの名は、京弥の「椎名」と同じだ。このことに思い至ると、紗雪は目を細めた。不思議なほど、多くの出来事が偶然とは思えなくなってきた。彼女の記憶の中にあるのは、母の誕生日会での京弥の豪胆な振る舞い、そしてあの本物の玉の瓶。辰琉でさえ大金を積んで手に入れたのが偽物だったことを考えれば、本物の玉の瓶がどれほどの価値を持つのかは想像に難くない。椎名家は確かに裕福だが、それでもあれほどの金額を出すことはそう簡単ではないはず。紗雪は考え込んだまま、15階の会議室へと向かった。もしかしたら、本当に見間違えただけなのかもしれない。だが、次の瞬間。「チン」エレベーターの扉が開いた。紗雪が顔を上げると、彼女の視線はある人物の瞳に吸い込まれた。足が、ぴたりと止まる。エレベーターの外、人々の中心に立つ京弥が、漆黒のスーツ姿で彼女を見つめていた。洗練された装いは、彼の凛々しさと気品をより際立たせている。そして、彼の瞳には熱を帯びた感情が宿り、彼女には到底、読み解けない何かが滲んでいた。「きょ、京弥さん?どうしてここにいるの?」先に声を発したのは紗雪だった。京弥が椎名にいる。それは本当にただの偶然なのか?それとも、彼と椎名の社長には、何かしらの繋がりが?紗雪の目には、探るような色が浮かぶ。その意図を察したのか、京弥の瞳が一瞬だけ暗く揺れた。そして彼は、周囲の者たちに無言の視線を送る。傍らにいた匠が、素早く社内チャットにメッセージを打ち込んだ。【ボスの正体をバラすな】京弥の趣味は妻とのロールプレイ。優秀な部下であれば、それに無条件で協力するのが当然である。人々の間を抜け、京弥はゆっくりと紗雪の前に立つ。そして、冷静な声で説明を始めた。「うちの会社と椎名は、多少の取引がある。だから、形だけの顔出しに来ただけだよ」
紗雪は特に何も言わなかった。会社の人々がこちらを見ているのを感じ取り、それ以上話を続けることはしなかった。「じゃあ、仕事を頑張って。私はこれを渡さないといけないから」そう言って、手に持っていた書類を軽く掲げ、届け物があることを示した。京弥は目の前の彼女をじっと見つめた。普段の奔放な雰囲気とは異なり、今日はどこか真剣な表情をしている。「分かった、頑張って」彼は何気ない様子で言った。「さっちゃんなら、何をやってもうまくいくさ」紗雪は彼の深い瞳と視線が交わると、なぜか含みのある言葉に聞こえた。だが、はっきりとした意味は分からない。「椎名」という名前の件。紗雪は少し俯き、長いまつげが思考を隠すように影を落とした。まあ、京弥の家がどれだけ裕福だろうと、おそらく本家ではなく分家に過ぎないだろう。椎名の実権を握る、あの伝説の椎名さん。そんな頂点の存在に、自分のような普通の人間が関われるはずがない。そう考えると、さっきまでの不安もすっと消えた。単に、自分で勝手に怖がっていただけなのだろう。「うん、頑張るよ」考えがまとまると、紗雪の京弥を見る目には、先ほどまでの警戒心がいくらか和らいでいた。彼をすり抜けるようにして会議室へと向かった。紗雪は、初版の企画書のフレームワークを椎名のプロジェクト責任者に手渡した。彼は書類を受け取ると、淡々とした口調で言った。「はい、確かに受け取りました。結果が出たらまたお知らせします」だがしばらく経って、誰かが責任者の耳元で何かを囁いた。すると、彼の態度が一変した。突然立ち上がり、紗雪をじっと見つめると、声のトーンが明らかに二段階ほど上がった。「二川さん、企画の展開プランについて簡単に説明していただけますか?上層部に詳細を報告するので」紗雪はわずかに眉を上げ、すぐに悟った。ここにいるビジネスマンたちは、皆商売の場数を踏んできた人間だ。そんな彼らが、この責任者の態度の変化を理解できないはずがない。紗雪自身も、何が起こったのかは分からなかったが、周囲の視線を受けても微動だにしなかった。むしろ落ち着いた口調で、堂々と説明を始めた。周囲の反応は様々だった。驚きの表情を浮かべる者、羨望の眼差しを向ける者、嫉妬を滲ませる者。だが、
その言葉に、周囲の人々は皆納得したようだった。紗雪を見る目にも、さらに一層の賞賛が加わる。どうやら、今回のプロジェクトで二川グループには十分な勝算があるようだ。派遣された代表者も、言動にしっかりとした節度が感じられる。紗雪は人々の視線に気づいたが、ただ微笑みながら軽く頷いた。彼女はビジネスの世界がいかに冷酷かを知っている。落ち目になると追い討ちをかけられる。ここにいる人々とは、表面的な関係を維持できればそれでいい。礼儀を守り、敵を作らず、無用な争いを避けることが肝心だ。会議室を出ると、外で京弥が待っていた。「もう終わった?」「うん、後はもう帰るだけ」京弥は自然な仕草で紗雪のバッグを受け取った。紗雪は一瞬だけ動きを止めたが、特に何も言わなかった。無料で荷物を持ってくれるなら、それに越したことはない。ふと周囲を見回すと、立っているのは京弥ただ一人だった。他の人々は皆それぞれの仕事に戻り、彼のために空間を作っている。その光景を見て、紗雪は少し不思議に思った。改めて、目の前の京弥をじっくり観察する。この顔立ちなら、もし二川グループに来たら、好奇心で周りに人が集まりそうなものだけど……椎名ではそんな様子はまったくない。会社の管理がしっかりしているということなのか。紗雪の視線に気づいた京弥は、どこかおかしそうに微笑んだ。「どうした?そんなに真剣に俺の顔を見て」「イケメンだからね」思わず口をついて出た言葉に、次の瞬間、自分でも驚いた。顔がじんわりと熱くなり、頬に薄紅が差す。何言ってるんだ。京弥は喉の奥から低い笑い声を漏らした。思わず右手を握り、薄い唇に当てる。明らかに機嫌がいい。角で様子を見ていた匠は、その笑顔に驚愕した。この人は、本当に彼が知ってる社長か?普段、会議で一度でも機嫌のいい顔を見るのは至難の業だ。もしミスをすれば、徹底的に叱責されるのが常。これはもう奇跡レベルの光景だ。視線を横にずらし、匠は紗雪をじっと見た。なるほど、原因は彼女にあるらしい。紗雪は京弥の笑顔に、思わず心臓が跳ねた。彼はまさに「高嶺の花」。その笑みは、まるで雪が溶けるように柔らかく、普段の冷静な雰囲気とはまるで違っていた。「知ってる、俺がイケメ
もともと、紗雪は特に気にしていなかった。どうせ京弥の周囲には十分なスペースが空けられているし、注目を集めるようなことでもない。しかし、その言葉が口をついた瞬間、彼女は初めて気づいた。周囲が、無数の目が自分たちを凝視している。「特にないね。もう聞かないで」この場から、一刻も早く逃げ出したい。その頃、匠の周りでは、社員たちが小声でひそひそと話していた。「ちょ、あの人って、もしかして椎名奥様?」「確実にそうだろ!社長自ら料理を作るなんて、もう確定じゃん!」「いやいや、うちの社長が料理できるとか、ありえる?」「マジかよ……ずっと絶対に手の届かない存在だと思ってたのに。いや、やっぱり手の届かない存在だったわ。だって彼女も女神レベルだよね」「てかさ、神様は社長にどの才能を与えなかったわけ?」表向きは仕事をしているフリをしながら、実際は全員が目と耳を総動員させて、紗雪と京弥の動向を見守っていた。紗雪はその視線の圧に耐えられず、落ち着かない。それに気づいた京弥は、ゆっくりと視線を上げ、周囲を鋭く見渡した。無言の警告。次の瞬間、社員たちは一斉に視線を逸らし、何事もなかったかのようにモニターに集中する。終わった。彼らの脳裏には、ただその一言だけがよぎる。紗雪は京弥の視線の動きには気づかず、ただため息をついた。「先に帰るね。仕事が残ってるから」「駐車場まで送るよ」紗雪は断ろうとしたが、京弥がじっと見つめてくる。そのまっすぐな眼差しに、なぜか「いらない」と言えなかった。まあ、彼も特に用事があるわけじゃないし......そう考え、結局うなずいた。二人は並んでエレベーターへと向かう。彼らが去った後、社員たちはようやく息をついた。社長は、女性に興味がないじゃなかった。ただ、本当に好きな人に出会ってなかっただけ。二川さんに対するあの優しさ、見たことないレベルだった。匠もまた、心の中で密かに感慨を抱いた。二人の後ろ姿、見れば見るほどお似合いだ。並んで歩く姿は、どちらも気圧されることなく、二川さんの雰囲気すらも社長に見劣りしない。「散った散った。もう仕事に戻れ。今日のことは他言無用だ」そう言いながら、匠は重要なことを思い出した。「社長はチャットでしっかりと通達
紗雪はそんな人だった。道中、彼女の視線は一度も京弥の方を向かなかった。京弥は紗雪が上の空なのに気づき、不思議そうに尋ねた。「さっちゃんはさっき、俺のことをイケメンって言ってたよな?」「なのに、ずっと俺の方を見もしない」その言葉を聞いて、紗雪の耳たぶに薄紅が差した。さっき椎名での気まずい場面が思い出される。そもそも、あれはただの口から出まかせだったのに、なんで何度も蒸し返されなきゃいけないのか。紗雪は怨念を込めた眼差しを京弥に向けた。「いくらカッコよくても、もう寝た仲でしょ。もう見飽きたの」ふてくされたように、適当に言い放った。すると、京弥の足がぴたりと止まり、無表情のまま紗雪をじっと見つめた。紗雪はまだ気づかず、そのまま前へと歩を進める。心の中では、彼がしつこくあの恥ずかしい話題を持ち出すことに、密かに苛立っていた。車の前に着いたとき、紗雪はようやく隣にいたはずの人物がついてきていないことに気がついた。不思議に思いながら振り返ると、京弥が少し離れたところに立っていた。「なに?送るって言ったのに、ここまで来て、もう送る気ないの?」「送るのが嫌なら、バッグだけ返して」早く会社に戻らなければならないのに、ここで時間を無駄にするわけにはいかない。紗雪は不満げに京弥を見た。だが、彼の目に潜む危険な光には気づかなかった。まるで鋭い鷹のような視線が、彼女に釘付けられている。次の瞬間、京弥は素早く紗雪の元へ歩み寄り、彼女の手から鍵を奪った。そのまま車のドアを開けると、彼女の腰をしっかりと抱き寄せ、後部座席へ押し込むようにして乗せた。紗雪がようやく状況を把握したときには、すでに京弥に後部座席へ押し倒されていた。「ちょ、何するのよ!私、会社に戻らなきゃいけないんだけど!」彼を押し返そうとするが、びくともしない。京弥は邪気を含んだ微笑みを浮かべ、彼女の耳元で囁く。「さっちゃん、俺のこと、もう見飽きたって?」低くセクシーな声が、まるで引っ掛けるように彼女の心をくすぐる。「怒ったの?本当のこと言うのもダメなの?」紗雪は真剣な顔で京弥を見上げた。「もちろん、いいさ」男は冷たく笑った。紗雪が「じゃあ早くどいてよ」と言う間もなく、次の瞬間、驚きの声が漏れた。「
京弥は息継ぎの合間にその言葉を囁いた。言い終わるや否や、紗雪が反応する前に、大きな手がそっと彼女の瞳を覆う。次の瞬間、再び身を屈めた京弥が唇を奪いにくる。紗雪が一息つく間もなく、その呼吸はまたしても奪われた。後部座席の中、絡み合う二つの影が途切れることなく揺れる。......二川グループ。紗雪が戻ってくると、デスクの隣にいた同僚がすぐに駆け寄ってきた。椎名の様子を聞こうとしたが、目に飛び込んできたのは紗雪の腫れた唇。「紗雪!?」同僚は驚愕し、思わず声を上げた。「どうしたの、その唇!?めちゃくちゃ腫れてるけど……!」彼女は丸顔で、普段からおしゃべり好きだが、仕事には真面目な性格。それに、よくお菓子を分けてくれる優しい子だった。紗雪も彼女に対して好感を持っていた。唇をそっと指でなぞると、触れただけでズキズキと痛む。紗雪の瞳が一瞬だけ陰ると、何でもないように言った。「大丈夫よ。犬に噛まれただけ」その言葉を聞いた同僚は、一瞬返す言葉を失った。だが次の瞬間、目をキラキラさせながら、少し意味深な笑みを浮かべた。「ふ~ん?でも、紗雪ってすごく美人だし、きっと彼氏もめっちゃイケメンなんでしょ?」紗雪の眉がピクリと動く。「彼氏?ただの狂犬よ、狂犬!!」怒ったように語気を強めると、同僚はくすくすと笑い出した。「紗雪がこんなにムキになるなんて珍しい~。いつも仕事一本なのに!」紗雪は言葉に詰まり、思わず黙り込んだ。そう、だったのか?でも、以前は彼女だって自由だったはずだ。バイクを乗り回し、遊び回り、無邪気に笑っていた頃があったはず。同僚は彼女の沈黙に気づいたのか、それ以上は何も言わず、机の上にいくつかお菓子を置いた。「はい、これ。じゃあ私はちょっと水汲んでくるね」「うん、ありがとう」机の上には、紗雪が好きな味のお菓子が並んでいた。そのやり取りを、少し離れたところから林檎が見ていた。彼女の目は嫉妬と憎悪に満ちていた。紗雪さえいなければ、彼女の人生は順調だったのに。俊介がいた頃、林檎は部門内で特別待遇を受けていた。仕事の配分も軽く、楽をしながら同じ給料をもらえていたのだ。それどころか、俊介は彼女を課長にすると約束していた。給料も上がり、もっ
紗雪が目を覚ましてリビングに来たとき、ちょうど伊澄がダイニングテーブルに座り、目をキラキラさせながら京弥を見つめていた。「わあ、京弥兄!まさか今日もまた京弥兄の料理が食べられるなんて!本当に恋しかったんだから!」伊澄はわざとらしく言った。「もう、海外の食べ物って本当に人間が食べるもんじゃないのよ、どれもこれも飲み込みづらくて......」「やっぱり国内が一番。何より京弥兄の手料理が最高!」京弥の表情は淡々としていた。「手をつけるな。彼女が起きてからだ」伊澄は唇を尖らせたが、京弥の視線に気づき、しぶしぶと卵焼きを置いた。その視線の端に、紗雪の姿が映った。女は何も言わず、ただ静かにそこに立っていた。まるで他人事のように、その光景を見つめていた。そんな彼女の前に、伊澄がわざと親しげな素振りで歩み寄り、腕を取った。「お義姉さん、見てください。京弥兄がこんなにたくさん美味しいもの作ってくれたんだし、もう怒らないでくださいよ〜」「ていうかさ、お義姉さんってホントにラッキーですね。京弥兄、顔も家柄も完璧だし、おまけに料理までできるなんて、まさに女心を鷲掴みってやつじゃないですか?」その一連のセリフに、紗雪は自然と眉をひそめた。彼女は何の遠慮もなく、伊澄の腕を引き抜き、鼻で笑って言った。「そこまで褒めるってことは、妹さんも彼に惚れた?」その言葉に、伊澄は一瞬驚いた顔を見せた。京弥もまた、不満げに紗雪を見つめて言った。「紗雪、俺と伊澄はただの兄妹だ。それ以上それ以下でもない」その言葉に、伊澄のこめかみがピクリと動いた。拳を無意識に握りしめる。大丈夫。焦らず少しずつ距離を詰めていけばいい。彼女はすぐに表情を整え、にこやかに笑って言った。「昨日のこと、まだ気にしています?京弥兄は自分から仲直りしようとしていたじゃないですか」「で?妹さんも彼に惚れた?」紗雪は背筋を伸ばし、まっすぐに二人の前に立った。冷静なまま、さっきの言葉をもう一度繰り返す。その瞳は澄んでいて、何の感情も読み取れない。まるで、ただ「答え」がほしいだけのようだった。伊澄は乾いた笑いを浮かべた。「お義姉さん、京弥兄みたいに優秀な人なら、そりゃあ女の子たちからモテるに決まってますよ」「じゃあ、君はどう
京弥は紗雪の背中を見つめながら、結局は追いかけなかった。彼には分かっていた。今の紗雪に必要なのは「冷静」だということを。無理に踏み込めば、かえって怒らせるだけだ。拳をぎゅっと握りしめる。客間のドアが「バタン」と閉まる音が響くまで、その場に立ち尽くしていた。ようやく我に返ると、彼は長いため息を吐いて主寝室へと歩いて行った。一方、紗雪も部屋に戻ってからというもの、なぜか胸の内がざわついて仕方がなかった。本来なら、最初から自分に言い聞かせていたはずだ。男の言葉なんて、本気にしちゃダメだって。京弥との関係も、所詮は利害の一致にすぎないと。なのに今は、何かがずれてきている。まるで自分の意思では止められない方向に、すべてが流れていくような感覚。紗雪は胸元に手を当てる。その奥で鼓動している心臓が、自分のものではないかのように、どんどん制御できなくなっている気がした。どうして今日、あんなに怒ってしまったんだろう?......「どういう意味よ!」伊澄は部屋の中で伊吹とビデオ通話をしていた。画面越しに何を言われたのか、彼女の顔には明らかな不満が滲み出ていた。金縁の眼鏡をかけた伊吹は、知的で穏やかな雰囲気を漂わせていた。妹が怒っているのを見ても、その表情は少しも動じなかった。「さっき言ったこと、ちゃんと心に刻んでおけ」「なんでよ、やだもん!」伊澄はワガママな声で反論する。京弥兄から離れろなんて、絶対に無理。彼女が帰国した最大の理由は、この『お義姉さん』とやらを見極めて、京弥兄との『運命の物語』を作ることだったのに。伊吹の目に冷たい光が宿る。「俺の言うこと、もう聞けないってわけ?」「京弥は、お前が関わっていい相手じゃない。お前が息抜きで数日帰国したと思ってたが、これ以上わがままを続けるなら......俺は爺さんに話すぞ!」彼はやむを得ず、爺さんという切り札を持ち出した。その言葉に、伊澄は少し拗ねたように唇を尖らせた。「京弥兄、人を好きになることの何が悪いの?ただ近づきたいだけ、それの何がいけないの?自由に恋愛する権利くらい、私にだってあるでしょ。お爺さんが何を言っても、私の気持ちは止められないよ!」そう言って、彼女は一方的に通話を切ってしまった。「おいっ...
伊澄は京弥の瞳に宿る鋭い怒気を見て、彼が本気で怒っているのを悟った。彼女は舌打ちして、気だるそうに言った。「わかったよ。ちゃんと話してね。私のせいで喧嘩なんて、絶対ダメだからね」紗雪の目には一層の冷たい色が差した。彼女は鼻で笑い、この家を出ようとした。ちょうどいい、彼らに場所を空けてやれる。だが、京弥はずっと彼女の手首を握ったまま、離そうとしなかった。紗雪は何度も手を振り払おうとしたが無駄で、鋭く言い放った。「放して。彼女のところに行きなさいよ。私に触らないで」その言葉を聞いた瞬間、京弥のこめかみに青筋が浮かび、紗雪の赤い唇が開いたり閉じたりするのを見て、思わずその唇を塞ぎたくなった。そして背を向けて歩き出した伊澄は、その言葉を聞いて口元がゆっくりと吊り上がっていく。親愛なるお義姉さん、これはほんの第一歩よ。この先もきっと乗り越えられるよね?あんたの男がどうやって私に奪われるのか、しっかり見届けてちょうだい。そう思うと、伊澄の心は喜びで満ちていた。足取りも軽やかになり、後ろ姿からも嬉しさがにじみ出ていた。部屋のドアが閉まる音が聞こえた瞬間、京弥は感情を抑えきれず、そのまま目の前の赤い唇を塞いだ。紗雪は目を大きく見開き、「んっ」と小さく呻きながら、信じられないという表情で京弥を見た。「ちょっ......」その隙に、京弥は強引に入り込む。紗雪が説明を聞こうとしない以上、彼はこの方法でしか気持ちを伝える術がなかった。冷静になったら、ちゃんと話すつもりだった。紗雪の呼吸はすっかり奪われ、一瞬たりとも息をつく余裕がなかった。まるで水から上がった魚のように、必死でもがくしかなかった。あの女の横柄な顔を思い出すだけで、胸の中に不快感が渦巻く。なのに、こんな時にこの男は、よくも平気な顔でキスなんかしてきたね。だが京弥は、紗雪がもがく隙も与えなかった。彼にはもう、こうするしか方法がなかった。このやり方でしか、自分の真心を伝えられなかった。紗雪の抵抗が次第に弱くなっていくと、京弥は彼女の唇に額を寄せながら、低く優しい声で言った。「さっちゃん、説明させてくれる?」「彼女とは本当に何もないんだ。信じてくれないか?」京弥の黒い瞳は深く、いつもは冷たいその顔に、今日は珍し
「いいよ別に。説明する必要はない」紗雪は二人が並んで立っている姿を見つめた。男は背が高く頼もしげで、女は小柄で可愛らしい。並んでいると、不思議なくらいお似合いだった。その瞬間、胸のあたりから何かが抜け落ちたような気がした。けれど、それが何なのか、彼女自身にもわからなかった。伊澄が後ろからついて来て、紗雪の顔を見ると、一瞬だけ嫉妬の色を浮かべてから、明るく声をかけた。「お義姉さん、帰ってきてたんですね」「気にしないでくださいね。私と京弥兄は何もないんです。小さい頃から知り合いで、今日一緒に帰ってきたのも、私が泊まる場所がないからです」そう言いながら、伊澄は未だに京弥の腕に自分の腕を絡ませていた。彼女はわざとらしく彼に視線を送って促す。「京弥兄もほら、お義姉さんにちゃんと説明してあげてよ。怒ってるみたいだし」「小さい頃からの知り合い?」伊澄は無邪気な顔で言った。「そうですよ。まさか京弥兄、私のこと話してなかったんですか?」その言葉を聞いた瞬間、紗雪の眉がピクリと動いた。心の奥から、説明のつかない苛立ちがふつふつと湧き上がる。京弥は様子がおかしいことに気づき、彼女に説明しようと腕を引こうとした。「で、あなたの『京弥兄』は私に何を言うべきだったのかしら?」紗雪の声は冷静で、以前のような落ち着いた雰囲気を取り戻していた。その冷静さこそが、京弥を最も不安にさせた。彼女が怒っているときほど、静かになる。それを彼は数日間の付き合いでよく理解していた。「お義姉さん、そんなに怒らないでください。もし私がここにいるのが嫌なら、京弥兄と相談して、ちゃんと別の場所に行きますから......」伊澄の目には涙がにじみ、まるで被害者のように見える。紗雪はようやく理解した。目の前のこの女はどうやら、京弥の「初恋」らしい。でなければ、こんな大事な「妹」の存在を、なぜ彼は一言も彼女に話してくれなかったのか。妹だなんて。どうせ恋人の愛称ってやつだろう。ただ......紗雪は軽蔑のこもった目で京弥を見た。女を見る目、ないわね。わざわざこんなの使って彼女を刺激するつもり?「私が、何に怒ってるっていうの?」思わず笑ってしまいそうになる。たった数言で、彼女をどんな悪役に仕立て上げたというのか
「義姉」って、どんな顔をしてるんだろう。どんな性格の人なんだろう?あんなにも長い間想い続けてきた彼。幼い頃からずっと一緒に育ってきた彼。そんな彼が、あの女にあっさり奪われてしまうなんて。納得できるわけがない。だから今日、絶対に会ってやる。あの義姉という人に。食事の後、京弥は伊澄を送ろうとした。だが、彼女は拒否した。「私、せっかく鳴り城まで来たのに、ずっとホテルに泊まれって言うの?」後部座席に座った伊澄は、顔を横に向けて少し唇を尖らせた。彼女は助手席に座りたくなかったわけじゃない。ただ前に一度座ろうとした時、京弥の反応があまりにも大きかったからだ。彼女が助手席に乗ろうとした瞬間、京弥は厳しい声で止めた。「この席は俺の妻だけのものだ」伊澄は、その言葉を今でもはっきりと覚えている。その時、彼女は冗談めかしてこう言った。「えー、私もダメなの?京弥兄、私は他の女と違うよ。だって、私たち幼なじみでしょ?」「冗談はよしてよ。他人にそういう態度とるならまだしも、自分の妹にも使うなんてさ」そう言って座ろうとしたその瞬間、京弥の顔が真っ黒になり、まるで鍋の底のように険しい表情で言い放った。「これ以上言わせるな」その瞬間、彼女は本気で怖くなった。普段は優しい彼でも、信念や原則に関わることだけは、決して譲らなかった。結局、彼女はしぶしぶ後部座席に座るしかなかった。それが、今のこの光景に繋がっている。けれど、彼女としてはホテルにずっと泊まり続けるつもりなんて毛頭なかった。彼女はこの鳴り城に来た目的を、決して忘れてはいなかった。すべては京弥のために。伊澄のその一言に、京弥も少し迷いを見せた。確かに、女の子が一人でずっとホテルに泊まるのは安全面でも不安が残る。それに、彼は伊吹に「妹をちゃんと面倒見てくれ」と頼まれていた。京弥の表情の変化を敏感に察知した伊澄は、すぐさま言葉を重ねた。「京弥兄、今日はどうしても一人でいたくないの。怖いんだもん。一緒にいてよ」「それに、私ずっと『京弥兄』って呼んでるし、お義姉さんもきっと気にしないよ?」これだけ強く出られては、京弥もどうしようもなかった。結局、彼は彼女を自宅に連れて帰ることにした。あくまで「一時的」なこと。
この光景を見た京弥は、心の中でわずかに不満を抱いた。彼は、伊吹と一度話し合う必要があると感じた。この少女、少し傲慢すぎるのではないかと。だが次の瞬間、伊澄はまたも人をなだめる術を発揮した。彼女は一着の服を指差しながら、得意げに言った。「京弥兄、この服はどう?似合うと思うの」「それと、このネクタイとパンツも、ちょうどセットで買ったの!」京弥はその服をじっと見つめ、目元が一瞬だけきらりと光る。確かに、自分の好みにぴったりで、普段からよく着るスタイルだった。ちょうど支払いをしようとしたところで、伊澄が彼より先にレジへ向かった。「私が払うよ、京弥兄。これは私からのプレゼント」なぜか、京弥の胸の中には、少しばかりの安らぎが広がった。なにしろ、こんなふうに贈り物をしてくれたことは、紗雪でさえあまりなかったからだ。「ありがとう。伊澄、本当に大人になったな」伊澄は甘えるように笑って言った。「当然でしょ?これ、私のへそくりから出してるんだから、もう子ども扱いしないで!」彼女は純白のロングドレスに身を包み、明るく元気な仕草と表情で、まさに生き生きとしていた。とりわけ京弥の隣にいるときは、恋する女性そのものだった。その光景は、周囲の目にはとても微笑ましく映り、まるで理想のカップルのように見えた。人々は小声でささやき合いながら、「なんてお似合い」と感嘆していた。伊澄はそのささやきを耳にして、誇らしげに顎を少し上げた。まるで、自分こそが勝者だと言わんばかりの鳥のようだった。彼女は無意識のうちに、京弥の腕にしっかりと手を絡めた。まるで所有権を主張するかのように。だが、京弥はすぐに腕を引き抜いた。「伊澄、俺はもう結婚してるんだ。そういうのは、ちょっと違うと思う」彼にとって伊澄はずっと妹のような存在だった。今のような行動は、兄妹の間柄では越えてはならない一線だった。京弥の言葉に、伊澄の顔は一瞬だけ気まずそうに歪んだが、すぐに何事もなかったかのように笑顔を取り戻した。「そうだね。ごめんなさい」彼女は首をかしげ、無邪気を装って言った。「私はただ京弥兄のことを、本当の兄みたいに思ってるだけだよ」「お義姉さんだって、きっと気にしないよね......?」最後の言葉はわざと途中で
店員がプリンを運んできたあとも、千桜に優しく話しかけていた。「食べ過ぎないでね。今日の分はこれで終わり。次にまた来たときに食べようね」「気に入ったなら、また一緒に来ましょう」陽の光の下、紗雪の横顔はまるで光を纏っているかのように美しかった。とくに千桜と話しているときは、顔全体にあたたかな笑みが広がっていた。日向はその光景に思わず見とれてしまい、心臓が一瞬、ドクンと鳴るのを忘れたような気がした。レストランの中では、他の客もスタッフも背景に溶け込んでしまったかのようだった。日向の目に映っているのは、紗雪とその妹。ただそれだけだった。女性の穏やかな声、優しく微笑む表情。それらが日向の口元に、自然と笑みを浮かばせた。彼はふと思った。もしかしたら、妹ももう少し外の世界と関わってもいいのかもしれない、と。......「京弥兄、いつもお仕事ばっかり」伊澄は不満そうに赤い唇を尖らせ、清楚な顔立ちにははっきりとした苛立ちが浮かんでいた。「せっかく鳴り城まで来たのに、どこにも連れて行ってくれないの?」京弥は椅子に座ったまま、顔を上げずに言った。「見ての通り、俺は忙しいんだ」「またそのセリフ!忙しい忙しいって、仕事のことしか考えてないの?」伊澄は甘えるような口調で続けた。「お金なんて、いくら稼いでもキリがないでしょ?体の方が大事でしょ?」「うちの兄が京弥兄に『ちゃんと面倒見て、気晴らしさせてやって』って言ってなかった?だから私はこっちに来たのよ」この言葉に、京弥の手が止まった。彼が顔を上げると、そこにはどこか兄に似た面影を持つ伊澄の顔があった。伊澄の兄、伊吹は京弥にとって命を預けられる親友だった。昔、海外に留学していた頃からの仲だ。それ以来、長年にわたり連絡を取り合ってきた。今回、伊澄が日本に来たのも、伊吹が心配して京弥に妹の面倒を見てもらうよう頼んだからだ。こんな頼みを断る理由もなく、京弥は堂々とこう言ったのだった。「安心しろ。お前の妹は俺の妹だ。任せてくれ」そう言ってくれたからこそ、伊吹も安心して妹を託したのだ。妹の遊び好きな性格も、兄としてちゃんと把握していた。京弥は、伊吹へのその約束を思い出し、仕方なく立ち上がった。匠に近くで遊べそうな場所を探す
どれだけ紗雪が話しかけても、千桜はずっと無表情のままで、紗雪に対してほとんど反応を見せなかった。彼女は両手でウサギのぬいぐるみを抱きしめたまま、ひたすら日向の背中に隠れていた。その様子を見て、紗雪は少しも苛立つことなく、むしろその瞳にはいっそう深い憐れみの色が宿っていた。日向は思わず口を開いた。「紗雪、もう大丈夫だよ。君は先に食事してて。妹のことは気にしないで、僕が面倒を見るから。この子が食べたくなったら自分で食べれるよ」紗雪の根気強さに、彼はむしろ申し訳なさを覚えていた。内心では驚きもあった。彼女のこの優しさは、本当に心からのものなのか?それとも、単にビジネスの付き合いだから演じているだけなのか?ふとそう考えた日向の視線には、自然と探るような色が宿っていた。その言葉を受けて、紗雪はようやく自分の席に戻った。最初は仕事上の関係を円滑にするため、日向に良い印象を持ってもらおうと努力していた彼女だったが、今は違っていた。千桜の小さな姿と、その背後にある過去を思うと、自然と胸が痛んだのだった。今日の会合は、デザイン案についての話が主目的だった。千桜が席に着くと、日向の言う通り、一人でゆっくりとスプーンを動かしていた。目の前のプリンも、少しずつ減っていく。「どうやらこのレストランのプリンは、子どもの口にも合ってるみたいね」紗雪の目元には微笑が浮かび、千桜を見つめる視線には深い愛情がこもっていた。「ああ」日向も静かに頷いたあと、少し緊張を解いたような表情で言った。「そういえば、修正してほしいって言ってたデザイン案、持ってきてる?」紗雪はカバンの中からその資料を取り出して、日向に渡した。日向は千桜に「ちゃんとご飯食べてて」と優しく声をかけてから、手元のデザイン案に目を通す。「これは郊外にある観光リゾート施設の設計案。全体の方向性はこのままでいいと思うけど、もう少しブラッシュアップしたいと思ってる。どこか改善点があれば、教えてほしい」紗雪は穏やかに説明しながら、最後に尋ねた。「どう思う?」日向は自信に満ちた笑みを浮かべ、あえて正面から答えることなく言った。「三日だけ時間をくれ」その目の奥にある強い決意を見た紗雪は、自然と共感を覚えた。彼女自身、野心のある人間だったからこそ、
紗雪は少し考え込んでから、真剣な口調で言った。「いい人でしたよ。とても親切で。ただ......妹さんがいるみたいで、その子の事情が少し特殊で......」特殊という言葉を選んだのは、今の段階では詳しい事情が分からないからだった。紗雪自身、日向の妹にまだ会ったことがない。美月は少し黙考してから頷いた。「そう。じゃあ彼の家庭のことも含めて、もう少し詳しく調べておいて。神垣は信頼できるパートナーになり得るわ」「分かりました」そう言って、紗雪は会長室をあとにした。自分のオフィスに戻ったばかりのところで、日向からメッセージが届いた。「この前君が薦めてくれた料理、妹に食べさせてみましたよ。あんなに食べる姿、初めて見ました」そのメッセージを見た紗雪の瞳に、ふっと優しい笑みが浮かぶ。彼女はすぐに返信を送った。「気に入ってくれてよかったです。子どもが楽しめる場所、他にもたくさん知ってますから、よかったら一緒にどうです?」するとすぐに返事が返ってくる。「それはありがたいです。今日の午後なら空いてますが、二川さんは?」紗雪は午後のスケジュールをざっと確認した。特に急ぎの用事はなかったので、日向の誘いに応じることにした。ちょうどよかった。仕事の件でも相談したいことがあったからだ。最近、二川グループではあるプロジェクトのデザイン案を修正する必要があり、日向の意見を聞いてみたかった。待ち合わせの場所に着いた紗雪は、そこで初めて日向が一人ではないことに気づいた。彼の隣には、ツインテールにした小さな女の子がいた。年齢は五〜六歳くらいだろうか。まるで人形のように愛らしく、大きな瞳はブドウのようにきらきらしていて、見る人の心を一瞬でとろけさせてしまいそうなほどだった。だが、紗雪の目がふと鋭くなる。違和感に気づいたからだ。「神垣さん、この子が......妹さん?」軽く挨拶をしながら尋ねる。日向は妹の頭をそっと撫でながら、どこか切なげな笑みを浮かべた。その目には、明らかに深い愛情と、隠しきれない哀しみが滲んでいた。やっぱり、見間違いじゃなかった。「二川さん、僕たち、そんなに歳も離れていませんし、今後は何度も会うことになりますから、気軽に『神垣』って呼んでくださいよ。あと、敬語も」彼の言葉