元々、二川家の次女が会社に来たのは、基層から経験を積むため。ただの形だけだと思われていた。どうせ、口だけの話だろう、と。豪門の子供は皆、生まれた時からお金持ち。家の資産もあるし、仕事をすると言っても、ほとんどは見せかけのものにすぎない。しかし、紗雪はプロジェクトマネージャーが知っているそういった人間とは、まるで違っていた。いや、それどころか、彼の認識を根本から覆すほどだった。そもそも、彼女ほど真剣に仕事に向き合う人は滅多にいない。二川家はもともと裕福で、彼女は二川グループでのんびり過ごすこともできたはずだ。だが、紗雪の真剣な姿勢は、彼の目にはっきりと映っていた。それだけではない。彼女は誠実で、人当たりも穏やかだ。そう考えると、プロジェクトマネージャーは紗雪を見る目に、さらに温かみを増した。紗雪は周りがどう思おうと、ただ自分のやるべきことをやるだけだった。彼女の背筋はまっすぐに伸び、古い木のように、ひとりで大きな空を支えていた。その姿を見ると、不思議と安心感を覚える。「じゃあ、君に任せるよ」プロジェクトマネージャーは改めて言い聞かせるように言った。「二川さん、椎名のプロジェクトの重要性は、君が一番よくわかっているはずだ」紗雪は力強く頷き、目には堅い決意の光を宿した。「全力を尽くします」彼女のその決意は、オフィスの他の人々にも伝染した。誰もがこのプロジェクトに十二分の気持ちを込め、紗雪のように真剣に取り組むようになった。前田の件以来、もう誰も紗雪を侮ることはなかった。それどころか、彼女は「分別のある人間」として、一目置かれるようになった。そんな職場の空気の中で、紗雪もまた、落ち着いて仕事に打ち込めた。午後、彼女は整えた資料を持ち、椎名へと向かった。オフィスの皆が彼女を励まし、背中を押してくれた。会社の車に乗り、目的地に着く。そびえ立つ高層ビルを見上げると、周囲には都心部の建築物が立ち並んでいる。その景色を見て、紗雪は改めて、椎名の規模と実力に圧倒された。ずっと前から、この会社が凄いことは知っていた。しかし、こうして実際にその場に足を踏み入れると、また別の畏怖を感じる。紗雪はきゅっと赤い唇を引き結び、心の中で気合を入れた。そして、しっかりと歩みを
そうだ、彼女は書類を届けに来たのだ。椎名とのプロジェクトこそが最優先事項であり、他のことは二の次。優先順位を見失ってはいけない。それに、ほんの一瞬の出来事だった。紗雪は、自分が見間違えた可能性があるのではないかと疑った。しかし京弥の顔立ちを、彼女が見間違えることなどあるだろうか?ふと、紗雪の脳裏にあることがよぎった。椎名グループの名は、京弥の「椎名」と同じだ。このことに思い至ると、紗雪は目を細めた。不思議なほど、多くの出来事が偶然とは思えなくなってきた。彼女の記憶の中にあるのは、母の誕生日会での京弥の豪胆な振る舞い、そしてあの本物の玉の瓶。辰琉でさえ大金を積んで手に入れたのが偽物だったことを考えれば、本物の玉の瓶がどれほどの価値を持つのかは想像に難くない。椎名家は確かに裕福だが、それでもあれほどの金額を出すことはそう簡単ではないはず。紗雪は考え込んだまま、15階の会議室へと向かった。もしかしたら、本当に見間違えただけなのかもしれない。だが、次の瞬間。「チン」エレベーターの扉が開いた。紗雪が顔を上げると、彼女の視線はある人物の瞳に吸い込まれた。足が、ぴたりと止まる。エレベーターの外、人々の中心に立つ京弥が、漆黒のスーツ姿で彼女を見つめていた。洗練された装いは、彼の凛々しさと気品をより際立たせている。そして、彼の瞳には熱を帯びた感情が宿り、彼女には到底、読み解けない何かが滲んでいた。「きょ、京弥さん?どうしてここにいるの?」先に声を発したのは紗雪だった。京弥が椎名にいる。それは本当にただの偶然なのか?それとも、彼と椎名の社長には、何かしらの繋がりが?紗雪の目には、探るような色が浮かぶ。その意図を察したのか、京弥の瞳が一瞬だけ暗く揺れた。そして彼は、周囲の者たちに無言の視線を送る。傍らにいた匠が、素早く社内チャットにメッセージを打ち込んだ。【ボスの正体をバラすな】京弥の趣味は妻とのロールプレイ。優秀な部下であれば、それに無条件で協力するのが当然である。人々の間を抜け、京弥はゆっくりと紗雪の前に立つ。そして、冷静な声で説明を始めた。「うちの会社と椎名は、多少の取引がある。だから、形だけの顔出しに来ただけだよ」
紗雪は特に何も言わなかった。会社の人々がこちらを見ているのを感じ取り、それ以上話を続けることはしなかった。「じゃあ、仕事を頑張って。私はこれを渡さないといけないから」そう言って、手に持っていた書類を軽く掲げ、届け物があることを示した。京弥は目の前の彼女をじっと見つめた。普段の奔放な雰囲気とは異なり、今日はどこか真剣な表情をしている。「分かった、頑張って」彼は何気ない様子で言った。「さっちゃんなら、何をやってもうまくいくさ」紗雪は彼の深い瞳と視線が交わると、なぜか含みのある言葉に聞こえた。だが、はっきりとした意味は分からない。「椎名」という名前の件。紗雪は少し俯き、長いまつげが思考を隠すように影を落とした。まあ、京弥の家がどれだけ裕福だろうと、おそらく本家ではなく分家に過ぎないだろう。椎名の実権を握る、あの伝説の椎名さん。そんな頂点の存在に、自分のような普通の人間が関われるはずがない。そう考えると、さっきまでの不安もすっと消えた。単に、自分で勝手に怖がっていただけなのだろう。「うん、頑張るよ」考えがまとまると、紗雪の京弥を見る目には、先ほどまでの警戒心がいくらか和らいでいた。彼をすり抜けるようにして会議室へと向かった。紗雪は、初版の企画書のフレームワークを椎名のプロジェクト責任者に手渡した。彼は書類を受け取ると、淡々とした口調で言った。「はい、確かに受け取りました。結果が出たらまたお知らせします」だがしばらく経って、誰かが責任者の耳元で何かを囁いた。すると、彼の態度が一変した。突然立ち上がり、紗雪をじっと見つめると、声のトーンが明らかに二段階ほど上がった。「二川さん、企画の展開プランについて簡単に説明していただけますか?上層部に詳細を報告するので」紗雪はわずかに眉を上げ、すぐに悟った。ここにいるビジネスマンたちは、皆商売の場数を踏んできた人間だ。そんな彼らが、この責任者の態度の変化を理解できないはずがない。紗雪自身も、何が起こったのかは分からなかったが、周囲の視線を受けても微動だにしなかった。むしろ落ち着いた口調で、堂々と説明を始めた。周囲の反応は様々だった。驚きの表情を浮かべる者、羨望の眼差しを向ける者、嫉妬を滲ませる者。だが、
その言葉に、周囲の人々は皆納得したようだった。紗雪を見る目にも、さらに一層の賞賛が加わる。どうやら、今回のプロジェクトで二川グループには十分な勝算があるようだ。派遣された代表者も、言動にしっかりとした節度が感じられる。紗雪は人々の視線に気づいたが、ただ微笑みながら軽く頷いた。彼女はビジネスの世界がいかに冷酷かを知っている。落ち目になると追い討ちをかけられる。ここにいる人々とは、表面的な関係を維持できればそれでいい。礼儀を守り、敵を作らず、無用な争いを避けることが肝心だ。会議室を出ると、外で京弥が待っていた。「もう終わった?」「うん、後はもう帰るだけ」京弥は自然な仕草で紗雪のバッグを受け取った。紗雪は一瞬だけ動きを止めたが、特に何も言わなかった。無料で荷物を持ってくれるなら、それに越したことはない。ふと周囲を見回すと、立っているのは京弥ただ一人だった。他の人々は皆それぞれの仕事に戻り、彼のために空間を作っている。その光景を見て、紗雪は少し不思議に思った。改めて、目の前の京弥をじっくり観察する。この顔立ちなら、もし二川グループに来たら、好奇心で周りに人が集まりそうなものだけど……椎名ではそんな様子はまったくない。会社の管理がしっかりしているということなのか。紗雪の視線に気づいた京弥は、どこかおかしそうに微笑んだ。「どうした?そんなに真剣に俺の顔を見て」「イケメンだからね」思わず口をついて出た言葉に、次の瞬間、自分でも驚いた。顔がじんわりと熱くなり、頬に薄紅が差す。何言ってるんだ。京弥は喉の奥から低い笑い声を漏らした。思わず右手を握り、薄い唇に当てる。明らかに機嫌がいい。角で様子を見ていた匠は、その笑顔に驚愕した。この人は、本当に彼が知ってる社長か?普段、会議で一度でも機嫌のいい顔を見るのは至難の業だ。もしミスをすれば、徹底的に叱責されるのが常。これはもう奇跡レベルの光景だ。視線を横にずらし、匠は紗雪をじっと見た。なるほど、原因は彼女にあるらしい。紗雪は京弥の笑顔に、思わず心臓が跳ねた。彼はまさに「高嶺の花」。その笑みは、まるで雪が溶けるように柔らかく、普段の冷静な雰囲気とはまるで違っていた。「知ってる、俺がイケメ
もともと、紗雪は特に気にしていなかった。どうせ京弥の周囲には十分なスペースが空けられているし、注目を集めるようなことでもない。しかし、その言葉が口をついた瞬間、彼女は初めて気づいた。周囲が、無数の目が自分たちを凝視している。「特にないね。もう聞かないで」この場から、一刻も早く逃げ出したい。その頃、匠の周りでは、社員たちが小声でひそひそと話していた。「ちょ、あの人って、もしかして椎名奥様?」「確実にそうだろ!社長自ら料理を作るなんて、もう確定じゃん!」「いやいや、うちの社長が料理できるとか、ありえる?」「マジかよ……ずっと絶対に手の届かない存在だと思ってたのに。いや、やっぱり手の届かない存在だったわ。だって彼女も女神レベルだよね」「てかさ、神様は社長にどの才能を与えなかったわけ?」表向きは仕事をしているフリをしながら、実際は全員が目と耳を総動員させて、紗雪と京弥の動向を見守っていた。紗雪はその視線の圧に耐えられず、落ち着かない。それに気づいた京弥は、ゆっくりと視線を上げ、周囲を鋭く見渡した。無言の警告。次の瞬間、社員たちは一斉に視線を逸らし、何事もなかったかのようにモニターに集中する。終わった。彼らの脳裏には、ただその一言だけがよぎる。紗雪は京弥の視線の動きには気づかず、ただため息をついた。「先に帰るね。仕事が残ってるから」「駐車場まで送るよ」紗雪は断ろうとしたが、京弥がじっと見つめてくる。そのまっすぐな眼差しに、なぜか「いらない」と言えなかった。まあ、彼も特に用事があるわけじゃないし......そう考え、結局うなずいた。二人は並んでエレベーターへと向かう。彼らが去った後、社員たちはようやく息をついた。社長は、女性に興味がないじゃなかった。ただ、本当に好きな人に出会ってなかっただけ。二川さんに対するあの優しさ、見たことないレベルだった。匠もまた、心の中で密かに感慨を抱いた。二人の後ろ姿、見れば見るほどお似合いだ。並んで歩く姿は、どちらも気圧されることなく、二川さんの雰囲気すらも社長に見劣りしない。「散った散った。もう仕事に戻れ。今日のことは他言無用だ」そう言いながら、匠は重要なことを思い出した。「社長はチャットでしっかりと通達
紗雪はそんな人だった。道中、彼女の視線は一度も京弥の方を向かなかった。京弥は紗雪が上の空なのに気づき、不思議そうに尋ねた。「さっちゃんはさっき、俺のことをイケメンって言ってたよな?」「なのに、ずっと俺の方を見もしない」その言葉を聞いて、紗雪の耳たぶに薄紅が差した。さっき椎名での気まずい場面が思い出される。そもそも、あれはただの口から出まかせだったのに、なんで何度も蒸し返されなきゃいけないのか。紗雪は怨念を込めた眼差しを京弥に向けた。「いくらカッコよくても、もう寝た仲でしょ。もう見飽きたの」ふてくされたように、適当に言い放った。すると、京弥の足がぴたりと止まり、無表情のまま紗雪をじっと見つめた。紗雪はまだ気づかず、そのまま前へと歩を進める。心の中では、彼がしつこくあの恥ずかしい話題を持ち出すことに、密かに苛立っていた。車の前に着いたとき、紗雪はようやく隣にいたはずの人物がついてきていないことに気がついた。不思議に思いながら振り返ると、京弥が少し離れたところに立っていた。「なに?送るって言ったのに、ここまで来て、もう送る気ないの?」「送るのが嫌なら、バッグだけ返して」早く会社に戻らなければならないのに、ここで時間を無駄にするわけにはいかない。紗雪は不満げに京弥を見た。だが、彼の目に潜む危険な光には気づかなかった。まるで鋭い鷹のような視線が、彼女に釘付けられている。次の瞬間、京弥は素早く紗雪の元へ歩み寄り、彼女の手から鍵を奪った。そのまま車のドアを開けると、彼女の腰をしっかりと抱き寄せ、後部座席へ押し込むようにして乗せた。紗雪がようやく状況を把握したときには、すでに京弥に後部座席へ押し倒されていた。「ちょ、何するのよ!私、会社に戻らなきゃいけないんだけど!」彼を押し返そうとするが、びくともしない。京弥は邪気を含んだ微笑みを浮かべ、彼女の耳元で囁く。「さっちゃん、俺のこと、もう見飽きたって?」低くセクシーな声が、まるで引っ掛けるように彼女の心をくすぐる。「怒ったの?本当のこと言うのもダメなの?」紗雪は真剣な顔で京弥を見上げた。「もちろん、いいさ」男は冷たく笑った。紗雪が「じゃあ早くどいてよ」と言う間もなく、次の瞬間、驚きの声が漏れた。「
京弥は息継ぎの合間にその言葉を囁いた。言い終わるや否や、紗雪が反応する前に、大きな手がそっと彼女の瞳を覆う。次の瞬間、再び身を屈めた京弥が唇を奪いにくる。紗雪が一息つく間もなく、その呼吸はまたしても奪われた。後部座席の中、絡み合う二つの影が途切れることなく揺れる。......二川グループ。紗雪が戻ってくると、デスクの隣にいた同僚がすぐに駆け寄ってきた。椎名の様子を聞こうとしたが、目に飛び込んできたのは紗雪の腫れた唇。「紗雪!?」同僚は驚愕し、思わず声を上げた。「どうしたの、その唇!?めちゃくちゃ腫れてるけど……!」彼女は丸顔で、普段からおしゃべり好きだが、仕事には真面目な性格。それに、よくお菓子を分けてくれる優しい子だった。紗雪も彼女に対して好感を持っていた。唇をそっと指でなぞると、触れただけでズキズキと痛む。紗雪の瞳が一瞬だけ陰ると、何でもないように言った。「大丈夫よ。犬に噛まれただけ」その言葉を聞いた同僚は、一瞬返す言葉を失った。だが次の瞬間、目をキラキラさせながら、少し意味深な笑みを浮かべた。「ふ~ん?でも、紗雪ってすごく美人だし、きっと彼氏もめっちゃイケメンなんでしょ?」紗雪の眉がピクリと動く。「彼氏?ただの狂犬よ、狂犬!!」怒ったように語気を強めると、同僚はくすくすと笑い出した。「紗雪がこんなにムキになるなんて珍しい~。いつも仕事一本なのに!」紗雪は言葉に詰まり、思わず黙り込んだ。そう、だったのか?でも、以前は彼女だって自由だったはずだ。バイクを乗り回し、遊び回り、無邪気に笑っていた頃があったはず。同僚は彼女の沈黙に気づいたのか、それ以上は何も言わず、机の上にいくつかお菓子を置いた。「はい、これ。じゃあ私はちょっと水汲んでくるね」「うん、ありがとう」机の上には、紗雪が好きな味のお菓子が並んでいた。そのやり取りを、少し離れたところから林檎が見ていた。彼女の目は嫉妬と憎悪に満ちていた。紗雪さえいなければ、彼女の人生は順調だったのに。俊介がいた頃、林檎は部門内で特別待遇を受けていた。仕事の配分も軽く、楽をしながら同じ給料をもらえていたのだ。それどころか、俊介は彼女を課長にすると約束していた。給料も上がり、もっ
紗雪は、その人物に目を向けた。ちらりと見ただけだったが、どこかで見た記憶がある。確か、前田と一緒に買い物していた女性……名前は浅井林檎だったはず。その瞬間、俊介があの日、自分に向けていたいやらしい視線が脳裏に蘇り、紗雪は胃の奥がひっくり返るような不快感を覚えた。すぐに視線を逸らしながら、心の中で考えを巡らせる。もしかして、林檎は前田の仇討ちでもするつもり?そんなの笑わせる。どうしようもないクズ男なのに、そんな人間を本気で気にかけるやつがいるとは。でも、考えてみれば納得できる話だった。どうせ彼らは、互いに利用し合っていただけなのだろう。紗雪は肩をすくめ、特に気に留めることなく仕事を続けた。プロジェクトマネージャーがオフィスに来たとき、紗雪は最後のエンターキーを押し、ファイルを保存した。「二川さん、ちょっとオフィスに来てくれる?」「はい、すぐ行きます」紗雪は立ち上がり、マネージャーの後についてオフィスへ向かった。ドアが閉まると同時に、林檎の表情が一変した。「クソ女め」心の中で毒づくと、その顔には隠しようのない憎悪が滲み出る。なるほどね。今度はマネージャーに取り入ったってわけか。どうりで俊介を追い出せたわけだ。「チッ……自分は不正な手段でのし上がったくせに、俊介を切り捨てるなんて、どの口が言うのよ」しばらくして、もうすぐ退勤時間になろうとしていたが、紗雪とマネージャーはまだオフィスから出てこなかった。林檎は焦れたように席を立ち、コーヒーを取りに行くふりをしながら、紗雪のデスクへ向かう。遠目で確認すると、彼女のパソコンがロックされていない。その事実に気づいた瞬間、林檎の胸が高鳴った。紗雪が会議で話していたプラン、まだ形になっていなかったはず。もし林檎が先に形にしたら、それはこっちの手柄になる。昇進も、給与アップも、全部浅井林檎のものにできる。そうなれば、俊介に頼る必要なんてない!林檎の目に欲望の光が宿る。そして、抑えきれない衝動に駆られ、そっと手を伸ばそうとした、そのとき。「何してるの?」鋭い声が響いた。振り向くと、丸顔の同僚・円(まどか)が険しい表情でこちらを睨んでいた。「そこ、紗雪のデスクでしょ?何か用があるなら、本人に直接聞いてみたら
どれだけ紗雪が話しかけても、千桜はずっと無表情のままで、紗雪に対してほとんど反応を見せなかった。彼女は両手でウサギのぬいぐるみを抱きしめたまま、ひたすら日向の背中に隠れていた。その様子を見て、紗雪は少しも苛立つことなく、むしろその瞳にはいっそう深い憐れみの色が宿っていた。日向は思わず口を開いた。「紗雪、もう大丈夫だよ。君は先に食事してて。妹のことは気にしないで、僕が面倒を見るから。この子が食べたくなったら自分で食べれるよ」紗雪の根気強さに、彼はむしろ申し訳なさを覚えていた。内心では驚きもあった。彼女のこの優しさは、本当に心からのものなのか?それとも、単にビジネスの付き合いだから演じているだけなのか?ふとそう考えた日向の視線には、自然と探るような色が宿っていた。その言葉を受けて、紗雪はようやく自分の席に戻った。最初は仕事上の関係を円滑にするため、日向に良い印象を持ってもらおうと努力していた彼女だったが、今は違っていた。千桜の小さな姿と、その背後にある過去を思うと、自然と胸が痛んだのだった。今日の会合は、デザイン案についての話が主目的だった。千桜が席に着くと、日向の言う通り、一人でゆっくりとスプーンを動かしていた。目の前のプリンも、少しずつ減っていく。「どうやらこのレストランのプリンは、子どもの口にも合ってるみたいね」紗雪の目元には微笑が浮かび、千桜を見つめる視線には深い愛情がこもっていた。「ああ」日向も静かに頷いたあと、少し緊張を解いたような表情で言った。「そういえば、修正してほしいって言ってたデザイン案、持ってきてる?」紗雪はカバンの中からその資料を取り出して、日向に渡した。日向は千桜に「ちゃんとご飯食べてて」と優しく声をかけてから、手元のデザイン案に目を通す。「これは郊外にある観光リゾート施設の設計案。全体の方向性はこのままでいいと思うけど、もう少しブラッシュアップしたいと思ってる。どこか改善点があれば、教えてほしい」紗雪は穏やかに説明しながら、最後に尋ねた。「どう思う?」日向は自信に満ちた笑みを浮かべ、あえて正面から答えることなく言った。「三日だけ時間をくれ」その目の奥にある強い決意を見た紗雪は、自然と共感を覚えた。彼女自身、野心のある人間だったからこそ、
紗雪は少し考え込んでから、真剣な口調で言った。「いい人でしたよ。とても親切で。ただ......妹さんがいるみたいで、その子の事情が少し特殊で......」特殊という言葉を選んだのは、今の段階では詳しい事情が分からないからだった。紗雪自身、日向の妹にまだ会ったことがない。美月は少し黙考してから頷いた。「そう。じゃあ彼の家庭のことも含めて、もう少し詳しく調べておいて。神垣は信頼できるパートナーになり得るわ」「分かりました」そう言って、紗雪は会長室をあとにした。自分のオフィスに戻ったばかりのところで、日向からメッセージが届いた。「この前君が薦めてくれた料理、妹に食べさせてみましたよ。あんなに食べる姿、初めて見ました」そのメッセージを見た紗雪の瞳に、ふっと優しい笑みが浮かぶ。彼女はすぐに返信を送った。「気に入ってくれてよかったです。子どもが楽しめる場所、他にもたくさん知ってますから、よかったら一緒にどうです?」するとすぐに返事が返ってくる。「それはありがたいです。今日の午後なら空いてますが、二川さんは?」紗雪は午後のスケジュールをざっと確認した。特に急ぎの用事はなかったので、日向の誘いに応じることにした。ちょうどよかった。仕事の件でも相談したいことがあったからだ。最近、二川グループではあるプロジェクトのデザイン案を修正する必要があり、日向の意見を聞いてみたかった。待ち合わせの場所に着いた紗雪は、そこで初めて日向が一人ではないことに気づいた。彼の隣には、ツインテールにした小さな女の子がいた。年齢は五〜六歳くらいだろうか。まるで人形のように愛らしく、大きな瞳はブドウのようにきらきらしていて、見る人の心を一瞬でとろけさせてしまいそうなほどだった。だが、紗雪の目がふと鋭くなる。違和感に気づいたからだ。「神垣さん、この子が......妹さん?」軽く挨拶をしながら尋ねる。日向は妹の頭をそっと撫でながら、どこか切なげな笑みを浮かべた。その目には、明らかに深い愛情と、隠しきれない哀しみが滲んでいた。やっぱり、見間違いじゃなかった。「二川さん、僕たち、そんなに歳も離れていませんし、今後は何度も会うことになりますから、気軽に『神垣』って呼んでくださいよ。あと、敬語も」彼の言葉
京弥が寝室に入るとき、ベッドに紗雪の姿がないことに気づいた。家中を一通り探し、最終的に客間で紗雪を見つけた。今日の紗雪は完全に腹をくくっていて、もう京弥と同じベッドで寝るつもりはなかった。初恋の存在がある以上、この結婚関係だってもっと線引きをすべきだと感じていた。昼間のあの光景を思い出すだけで、紗雪は京弥を見るたびに心がざわつく。とくに、あの手が他の女に触れていたことを思うと、なおさら。京弥は客間にいる紗雪を見つめた。何か言おうと唇を動かしかけたが、結局、何も言えずに終わった。拳を握りしめる。どうしようもない無力感が、心の奥からじわじわと湧き上がってくる。つい昨日まで同じベッドで体を重ねていたはずなのに、今日は別々の部屋で眠る。ただ一枚の壁を隔てているだけなのに、お互いの心はまったく違う場所にあるようだった。翌朝。紗雪は早くに目を覚ました。身支度を済ませると、京弥に声をかけることもなく会社へ向かった。普段なら京弥の用意した朝食を食べるところだが、今日はその気になれなかった。会社に到着すると、社員たちの態度が一変していた。誰もが敬意を込めて彼女を「会長」と呼ぶ。この瞬間、紗雪の立場は完全に変わったのだ。彼女は皆に軽く会釈しながら挨拶した。「そんなにかしこまらなくてもいいよ。今まで通りでお願い」「私は皆さんと同じで、会社のことを第一に考えているから」拍手があちこちから起こる。そのとき、紗雪は隅の方にいる円を見つけた。何か言いたげな顔をしながらも、遠慮して口を開けない様子だった。紗雪は眉を少し上げて、円に手招きする。「どうしたの?なんか言いたいことがあるような顔してるけど」円は少し恥ずかしそうに言った。「もう私たちの立場が違う気がして......」「それに、今は会長であり次女様でもあるし、きちんと礼儀をわきまえないとって」その言葉に、紗雪は胸の奥に小さな痛みを感じた。彼女は真剣な表情で円に向き直った。「円、そんなふうに自分を卑下しないで」「私の中の円は、いつも笑顔で明るくて前向きな女の子だった。ずっとあなたのことを友達だと思ってたよ。円は、私のことを友達だと思ってくれないの?」「そんなことないよ!」円は慌てて否定した。「私もずっと
紗雪は実は京弥からのメッセージを見ていた。ただ、どう返信すればいいのか分からなかった。彼と初恋のことなんて、自分には関係ない。よくよく考えてみれば、京弥がわざわざ自分にあのメッセージを送ってくる必要なんて、最初からなかったのだ。所詮表向きの夫婦にすぎないのに、何をそんなに真剣になっているのか。京弥が帰ってきたのは、ちょうど紗雪がキッチンで水を飲んでいたときだった。水を注ぎ終えた瞬間、玄関の方から物音が聞こえてきた。紗雪のまなざしがわずかに揺れる。それが京弥であることは、すぐに察しがついた。彼女はコップの水を一気に飲み干すと、そのまま洗面所に向かおうとした。だが、振り返った瞬間、彼女はキッチンの出口を塞がれてしまう。大柄な男の身体がそこに立っているだけで、通路を完全に塞いでいた。彼がどかない限り、紗雪はキッチンから出られない。仕方なく立ち止まり、紗雪は諦めたように口を開いた。「どいて。歯を磨きたい」京弥はそんな彼女を見つめながら、内心でははっきりと確信していた。今日、空港で見たのは、間違いなく紗雪だった。「なんで、返信しなかった?」彼は話題を変えて、静かにそう問いかける。午後から今まで、スマホを見なかったなんてあり得ない。唯一の理由は、紗雪が返信する気がなかったということだ。紗雪は彼の視線を避け、答える気もない様子だった。「電池切れてただけよ」彼女は視線を落とし、平然とした口調で言った。「もう遅いし、どいて。休みたいの」京弥は彼女の表情をじっと見つめ、その顔から少しでも嫉妬や怒りの気配を探ろうとした。だが、なかった。逆に、彼女はあまりにも冷静だった。その事実が、京弥の心に妙な不安を生じさせる。彼は奥歯を強く噛みしめる。「今日、空港にいたのか?」紗雪の目が一瞬揺れたが、すぐにふっと笑った。「どういう意味?」「何を見た」彼女はしっかりと彼を見据えた。「私はただ客の出迎えに行っただけよ。むしろあなたが何をしたかじゃない?」この言葉を口にした瞬間、紗雪は自分の舌を噛み切りたい衝動に駆られた。まるで嫉妬深い妻みたいじゃないか。でも実際のところ、京弥がそんなことを言い出すなんて、滑稽としか思えなかった。京弥は一歩ずつ彼女に近づきながら、ま
右手で時折スマホを開き、紗雪からのメッセージが届いていないか確認していた。後ろから、伊澄が不満げに言った。「京弥兄、そんなに早く歩かないでよ、追いつけないよ!」その声を聞いても、京弥は未読のメッセージを見つめて、少し苛立ちを覚えていた。だが振り返って伊澄と目が合うと、顔にはいつもの柔らかな笑みを浮かべて応えた。「ごめん」二人が車に乗り込むまで、紗雪からの返信はついに来なかった。京弥は運転席に座りながらも、どうにも心が落ち着かなかった。もしかして紗雪はさっきの光景を見て、誤解したのではないか?そんな思いが頭から離れなかった。一方の紗雪も、日向と食事をしながら、まるで上の空だった。頭の中はずっと、さっき見た京弥とあの「初恋」のことばかり。ちょうど食事時だったので、二人は簡単に食事を済ませた。そんな中、日向が何かを思い出したように、何気なく尋ねてきた。「二川さん、さっき空港にいたあの人、知り合いですか?」「カラン」という音がして、紗雪の手からスプーンが器の中に落ちた。目を見開き、少し慌てた様子で紙ナプキンを探そうとしたところ、日向がすぐに一枚差し出してくれた。「どうして急にそんなことを?」紙ナプキンを受け取り「ありがとう」と言ってから、紗雪は思わず問い返した。日向はくすっと笑いながら言った。「二川さん、今日の道中ずっと心ここにあらずって感じでしたよ」「僕もバカじゃないから、さすがに気付きます」紗雪は頭の中で振り返ってみて、確かにそうだったと気づき、少し気まずそうに笑った。「すみません、失礼しちゃいましたね」日向はただにこやかに言った。「気にしないでください、二川さん。何事も人次第ですしね。それに、この店のスープ、本当に美味しいですね。二川さんが選んでくれたお店、気に入りました」「次は妹を連れて来たいです」その言葉を聞いて、紗雪は会話を広げた。「妹さんがいらっしゃるんですか」「はい、神垣千桜(かみがきちはる)って言います」「妹」という言葉を口にしたときの日向の瞳には、紗雪には理解できない哀しみが宿っていた。だが紗雪は空気を読んで、それ以上は聞かなかった。誰にでも秘密や、人に言いたくないことの一つや二つあるものだ。わざわざ掘り返す必要なんてない。
日向は紗雪の異変に気づき、彼女の視線をたどってそちらを見やった。すると、蝶のように軽やかな少女が、背の高い男の胸元に飛び込んでいくのが見えた。「京弥兄!やっぱり来てくれたのね!」少女はそう叫びながら、嬉しさを隠すことなく京弥の胸に飛び込む。人混みの中、二人はまるで周囲など存在しないかのようにしっかりと抱き合っていた。まるで映画のワンシーンのような、美しく感動的な光景だった。紗雪の腕がゆっくりと身体の横で握られる。無意識のうちに唇を噛み締めていた。あの二人。抱き合っているのは、自分の夫と見知らぬ女性だった。何とも言えない気持ちだった。あれが、京弥の「初恋」なのか?確かに、初恋の名に相応しい。透き通るように純粋で美しく、まるで世間知らずなお姫様のようだった。そして何よりも、京弥の眼差しに宿る優しさ。あれほど柔らかく笑う彼を、紗雪はあまり見たことがなかった。いつも冷静で、近寄りがたい雰囲気をまとっている彼が、あの少女に向ける笑顔は、どこか違っていた。紗雪は深く息を吸い込む。ただの契約結婚だって、自分に何度も言い聞かせてきた。いつかこういう日が来ると、わかっていたはずなのに......それでも、心の奥底に妙な空虚感が広がっていた。「二川さん、大丈夫ですか?」日向の心配そうな声が耳元に響く。彼は、紗雪があの二人を見て感動しているのだと勘違いし、続けて言った。「素敵ですね、あんな恋愛。空港で再会して抱き合うなんて、美男美女でお似合いですよ」紗雪の胸に湧いた妙な感情は、ますます大きくなるばかりだった。なんとなく相槌を打つ。「そうですね」「行きましょうか。もう時間も遅いですし。移動で疲れたでしょうから、食事にご案内します」紗雪は日向と共に空港を後にした。彼女が先を歩き、彼がその後をついていく。一方。京弥は八木沢伊澄(やぎさわいずみ)を抱きしめたまま、ふと紗雪の方を見やった。彼女の後ろ姿が目に入ると、反射的に一歩踏み出しそうになる。だが、腕の中の伊澄がそれを許さなかった。唇をすぼめ、不満げに言う。「京弥兄、どこに行くの?私、飛行機ずっと乗っててお腹ぺこぺこだよ。まだ何も食べてないの」「ねえねえ、国内の美味しいもの食べたいな。海外の食事は全然美
京弥は、目の前の小さく繊細な耳たぶを見つめながら、とうとう内に秘めた欲望を抑えきれなくなった。男はそのまま身を屈め、耳たぶを口に含み、何度も舌を這わせては弄ぶ......彼の大きな手が紗雪の背中を優しくなぞり、背の高い身体が彼女に覆いかぶさっていく。紗雪の口から、壊れそうなほどの喘ぎ声がこぼれ落ちたが、それも京弥の唇で塞がれ、やがて深く、絡み合っていった。男と女の営みは、やはり一度踏み込めば簡単には抜け出せないほど中毒性がある。こうして二人は、自然の流れのまま結ばれた。翌朝。紗雪の体には痛みが残っていた。特に腰の両脇がひどく張っていて、じんじんと鈍く痛む。隣を見ても、そこに京弥の姿はなかった。紗雪は思わずぼそりと呟いた。「......獣みたい」終わったら服を着てさっさと出ていくなんて、ひとことくらい声かけて行けっての。何か急用でもあったのか。ベッドを下りて着替えようとしたが、足元がふらついて、立つのがやっとだった。膝の青紫色の痕を見て、目の前が一瞬真っ暗になる。やっぱり男って、そういう時は全然容赦ないのね。歯を食いしばりながら、クローゼットから適当な服を引っ張り出して着替える。洗面所で身支度していると、朝方ぼんやりした意識の中で、京弥が「空港に人を迎えに行く」と言っていた気がする。誰を迎えに行ったんだっけ......全然覚えてないや。まあいいや。紗雪が朝食を食べていると、美月からメッセージが届いた。【紗雪、空港まで客を迎えに行ってくれる?塩ヶ城から戻ってきたばかりの方なの。とても重要なお客様だから、丁寧にもてなしてちょうだい。詳しい資料は送っておいたわ。】メッセージを読み終えたとき、ちょうど最後の一口のパンを食べ終えたところだった。紗雪は小さくため息をつく。まったく、まだ出勤もしてないのに、もう仕事開始ってわけね。感慨に浸る暇もなく、時間を確認すると、出発まであと一時間しかなかった。慌てて軽くメイクを済ませ、車を飛ばして空港へ向かう。母親から送られてきた資料に目を通しながら、口の中で呟く。「神垣日向(かみがきひなた)......いい名前じゃない」スマホの画面には、淡い金髪のショートカットの男。自由奔放で、どこか無邪気そうな笑顔が画面いっぱいに広がっ
京弥がグラスの酒を飲み干した瞬間、紗雪の熱い視線に気づいた。その視線の意味を、彼は一瞬で理解してしまった。男はそっと手を伸ばし、紗雪の腰を抱き寄せた。二人の身体が密着し、互いの呼吸がすぐ傍で絡み合う。紗雪は彼の端正な顔を見つめながら、思わずごくりと唾を飲み込んだ。酔ってしまったせいか、どうにもこの男への欲望が抑えきれない。「さっちゃんは......」男が何かを言いかけた瞬間、紗雪は慌てて視線を逸らした。「なんでもない。ちょっと酔っちゃって......頭がぼーっとしてるだけ」今がどこか、彼女はまだ忘れていなかった。ここは外、まだパーティーの最中だ。京弥は紗雪の羞恥を見抜いていた。その赤く染まった耳の根っこ、酒のせいじゃない。本人は気づいていないかもしれないが、彼女が恥ずかしいと感じる時、いつも耳の裏がほんのり染まる。その癖を、京弥は付き合い始めてすぐに気づいていた。「じゃあ......帰ろっか?」紗雪は反射的に美月のほうへ目を向けた。母はまだ客人たちと愛想笑いを交わしている。彼女は目を伏せ、心の中に言いようのない感情が湧き上がる。母はまた緒莉を選んだ。同じ娘なのに、どうしてこんなにも差があるんだろう......紗雪は深く息を吸い込み、我慢できずに酒をもう一杯あおった。そして顔を上げて京弥を見つめる。「......帰ろう」ここにいても、もう意味なんてない。どうせ母の処罰なんて、ただの見せかけだ。京弥は紗雪の視線を辿り、美月が経営者たちと笑顔で話す姿を見た。そして目の前で強がっているさっちゃんを見つめて、胸が締め付けられるような思いがした。彼はそのまま紗雪の腰に手を回し、彼女を抱き上げた。美月の前を通り過ぎる時、彼は一言、礼を言った。「お義母さん、さっちゃんが酔ってしまったので、先に帰ります」美月は京弥の腕に寄りかかる紗雪を見て、複雑な表情を浮かべた。口をつぐみかけて、結局ひと言だけ絞り出した。「......道中、気をつけてね」それ以上、何も言葉はなかった。京弥の腕に抱かれた紗雪の瞳には、隠しきれない失望の色が滲んでいた。自分は、一体何を期待していたのだろう......美月は二人の背中を見送りながら、しばらくその場で動けなかっ
この言葉を聞いた瞬間、緒莉は雷に打たれたかのように呆然とした。母の言いたいことが分からないはずがない。明らかに、美月の心の中にはすでに疑念が芽生えていた。さっき皆が話していた内容。あれを、母は多少なりとも信じたのだ。そうでなければ、こんな冷たい対応をするはずがない。「いや......いやよ、お母さん、休みたくない......私は、私はただ、お母さんのそばにいたいだけなの......」美月はそんな緒莉の涙に濡れた顔を一瞥することもなく、背を向けた。紗雪はこの茶番劇を冷笑しながら見ていた。母が緒莉に処分を下したように見えるけど、実のところ、あれもまた庇いだ。本気で公平な処理をするなら、徹底的に調査されていたはずだ。こんな中途半端な形で終わらせるなんて、結局はうやむやにしたいだけじゃないか。この母の態度に、紗雪の心はじんわりと冷えていく。ここまで来てもなお、緒莉を庇おうとするその姿に、ふと疑問が浮かんだ。彼女だって、美月の娘じゃない。緒莉の泣き声がロビーから完全に聞こえなくなった頃、美月はようやく振り返った。彼女は紗雪の冷ややかな視線と真正面からぶつかり、一瞬だけ、珍しく気まずそうな顔を見せた。美月はその目が訴える意味を理解していた。だが、家の体裁と二川家の面子を保つためには、こうするしかなかった。まさか皆の前で、二川家の恥を晒すわけにはいかないのだ。美月は視線を逸らし、辰琉の方を向いて冷たく言い放った。「あなたも緒莉のそばについていてあげて。あの子、身体が弱いのよ」「はい、すぐに行きます」辰琉は何の疑問も抱かず、素直に従った。つい先ほどのやり取り、彼には全て見えていた。結局、勝ったのは自分の緒莉だ。そうでなければ、美月が自分をあの子のもとに行かせるはずがない。去り際、辰琉は挑発するように紗雪を一瞥した。その一瞥には、明確な意味が込められていた。大した女だと思ってたけど、母親に全然可愛がられてないんだな。紗雪は彼の意図を察し、黙って拳を握り締めた。やっぱりこの男、ただの偽善者だ。その時、紗雪の拳を、京弥がそっと包み込んだ。優しく撫でるように、彼は耳元で囁く。「大丈夫。俺がいるから」その一言に、紗雪の胸に渦巻いていた鬱屈が、少しだけ晴れ