京弥はただ微笑むだけで、何も答えなかった。代わりに、酢豚の一切れを紗雪の茶碗に入れた。「これも美味しいから、食べてみて」紗雪は茶碗の中の肉を見つめながら、胸の奥が複雑な感情で満たされていく。三年間も加津也と付き合っていたのに、彼は自分の好きな食べ物すら知らなかった。それなのに、京弥はただのスピード婚の相手なのに、こんなにも細やかに気を配ってくれる。その対比に、紗雪は胸がチクリと痛み、同時にじんわりとした感動が広がった。以前、加津也と食事をするときは、いつも彼が勝手に注文していた。頼むのは、決まって自分の好きなものばかり。紗雪の好みなど、一度も気にしたことがなかった。あるとき、勇気を出して「辛いものが食べたい」と言ってみたことがある。すると、加津也は眉をひそめて、「女の子が辛いもの食べてどうするんだ?肌に悪いぞ」と、面倒くさそうに言った。肌に悪い?紗雪は思わず冷笑する。そんなことを気にするふりをしながら、本当はただ単に、自分が辛いものを食べたくなかっただけだろう。そして今、目の前には、自分の好きな料理がすべて揃っている。まるで、「君の好みをちゃんと覚えているよ」と伝えるように。この「大切にされている」という感覚は、紗雪にとってあまりにも新鮮で、どこかくすぐったい。京弥は、そんな彼女のわずかな戸惑いも察したようだった。箸を置き、穏やかな声で尋ねる。「どうした?口に合わないのか?」「ううん、すごく美味しい」紗雪は慌てて首を横に振る。京弥は満足げに微笑み、「じゃあ、もっと食べて」と言って、今度は彼女のために味噌汁をよそった。「最近忙しいんだから、ちゃんと栄養を摂らないと」紗雪はそっと味噌汁を口に含む。温かな味わいが喉を通ると、冷え切っていた心まで、じんわりと温められる気がした。でも、今日のパーティーのことを考えると、なんとなく気持ちが沈んでしまう。「そういえば」紗雪は、何気ないふりをしながら尋ねた。「椎名グループの社長って知ってる?」京弥は箸を動かす手を止め、ゆっくりと彼女を見つめる。「急にどうした?」「別に......ただ、今日のパーティーの目的が、彼に会うことだったの。すごい人だって聞いたから。でも、結局最後まで姿を見せなくて」紗雪は少し気まずそうに笑
翌朝、紗雪は晴れやかな気分で二川グループのビルに足を踏み入れた。今日はシャープなカットの白いスーツを身にまとい、その凛とした装いが彼女の美しさを一層引き立てている。歩くたびに、堂々とした気迫が漂っていた。クビになったからって何だっていうの?この二川紗雪がそんなことで黙っていると思った?二川グループのエントランスに足を踏み入れると、ヒールが床を打ち鳴らし、鋭い音を響かせた。それはまるで、自分の存在を高らかに告げるかのようだった。彼女は迷うことなく俊介のオフィスへと向かった。途中、誰一人として彼女を止めようとはしなかった。受付の女性ですら、彼女の鋭い眼差しに気圧され、声をかけることすらできなかった。「バンッ!」遠慮のない勢いで扉が押し開かれ、室内に鋭い音が響き渡った。俊介は足を組み、悠々とお茶を楽しんでいた。突然の訪問者に一瞬驚いたものの、すぐに皮肉げな笑みを浮かべる。「これは驚いた。二川グループの元社員さんじゃないか。一体どういう風の吹き回し?」嘲るような口調で言いながら、視線にも侮蔑が滲んでいた。紗雪は彼の挑発に一切取り合わず、真っ直ぐデスクへと向かい、持っていた書類の束と録音ペンを乱暴に机上へと叩きつけた。「前田俊介」冷え冷えとした声が室内に響く。鋭い眼差しが、まるで刃のように相手を貫いた。「これで、十分お楽しみいただけるんでしょうか?」俊介は気軽な態度を装いながら書類を手に取った。しかし、ページをめくるにつれ、その表情が次第に険しくなっていく。そこに記されていたのは、横領の詳細な記録、さらにはセクハラの証拠音声。どれをとっても、彼の立場を完全に崩壊させるものだった。彼はわざと軽く笑い飛ばしたが、その笑いには焦りがにじんでいる。「お前、これは何のつもりだ?何かのドッキリ?」紗雪は冷笑を浮かべた。「ドッキリ?私がそんな暇人に見える?」彼を見据えながら、冷たく言い放つ。「あんたの汚い手口、全部洗いざらい調べさせてもらったわ」俊介の顔が一気に険しくなった。勢いよく立ち上がり、指を突きつけて怒鳴る。「小娘......お前、何を企んでやがる!?これは、火遊びじゃ済まねぇぞ!」「火遊び?」紗雪は臆することなく彼の目を真っ直ぐに見据えた。「どっちが火遊びをしている
この二川紗雪は、彼の想像以上に手強い相手だった。俊介の額にはじんわりと冷や汗が滲み、唇が震えて言葉が出てこない。紗雪はそれ以上無駄口を叩くことなく、くるりと踵を返し、俊介のオフィスを後にした。ヒールが大理石の床を叩くたびに、澄んだ音が響く。その音は俊介の心臓を直接叩くようで、彼の苛立ちはどんどん膨れ上がった。彼は椅子に座ったまま、怒りで全身を震わせる。何様のつもりだ?たかが貧乏くさい大学生が、自分の前でいい気になっているだと?考えれば考えるほど、俊介の胸中は煮えくり返った。彼は勢いよく立ち上がると、そのままオフィスを飛び出した。ちょうどその頃、紗雪は社員フロアに足を踏み入れていた。すると、すぐにひそひそとした囁き声が耳に入ってくる。「二川紗雪?なんでここに?辞めたんじゃなかったの?」「さあな、前田部長に泣きつきにでも来たんじゃない?」何人かの社員が顔を寄せ合い、嘲るように笑う。しかし、紗雪はそんな雑音には一切耳を貸さず、ただ自分のデスクへ向かおうと歩みを進めた。その時突然、肩を強く引かれたかと思うと、次の瞬間、頬に焼けつくような痛みが走った。「パシン!」鋭い音がオフィスに響き渡る。「このクソ女!俺を脅すなんていい度胸じゃねえか!」怒り狂った俊介が、歪んだ顔で吼える。獲物を狙う獣のような形相で、彼の瞳は怒りに燃えていた。紗雪が状況を飲み込む間もなく、二発目の平手打ちが飛んできた。激しい衝撃が頬を襲い、頭の中が一瞬真っ白になる。耳鳴りがして、視界がぐらりと揺れた。オフィス内は騒然となった。社員たちは驚愕し、誰もが息を呑んでいた。まさか、俊介が会社の中で堂々と手を上げるとは。紗雪は深く息を吸い込み、込み上げる怒りを必死に抑えた。震える指で頬を押さえながら、ゆっくりと顔を上げる。冷たい瞳が俊介を射抜く。「あんた、終わったな」彼女は一言一言を噛み締めるように、低く静かに言い放った。俊介は鼻で笑う。「終わった?誰を脅してんだよ?お前の手元にあるもんで、俺をどうにかできるとでも?」「言っとくがな、俺は二川お嬢様の側近だぞ?俺に手を出すってことは、彼女を敵に回すってことだ!」紗雪は冷ややかに微笑んだ。「緒莉が?あんたがここまで派手に
オフィスは瞬く間に静まり返り、まるで時間が止まったかのように、全員が目を見開いてこの光景を見つめていた。俊介は床に倒れ込み、腰を押さえながら苦しげにうめき声を漏らし、しばらくの間起き上がることすらできなかった。紗雪は手を軽く払うと、冷ややかな笑みを浮かべながら彼を見下ろした。「この前と同じ私を好きにできると思ってるの?思い知りなさい、私はそんな甘い相手じゃないわ」俊介は歯を食いしばり、痛みに顔を歪めながらも、その目には恐怖と憎悪が混ざり合っていた。まさか、あのか弱そうに見える紗雪が、こんな腕っぷしの強い女だったとは......なんとか起き上がろうとしたが、体はまったく言うことを聞かない。もがき苦しむ彼の姿は、まるで尻尾を踏まれたネズミのようだった。「二川紗雪!貴様正気か!?よくもこんなことを!絶対に訴えてやる!」俊介はヒステリックに叫んだ。紗雪は冷笑を浮かべ、つま先で彼の手の甲を軽く踏みつけた。「訴える?いいわよ、やってみなさいよ。どっちが先に終わるか、試してみよう」その眼差しには冷酷な光が宿り、まるで毒蛇が獲物を睨みつけるようだった。ちょうどその時、騒ぎを聞きつけたプロジェクトマネージャーが駆けつけ、乱れた光景を目の当たりにした。彼は顔色を変え、鋭い声で問い詰めた。「何をやってるんだ!これは一体!」紗雪は足を引き、優雅に手を払った。まるで何事もなかったかのように、落ち着き払った態度で言った。「柴田さん、ご報告です。前田が長年、私を含む女性社員に対して職場でのセクハラ行為を繰り返していました」彼女は周囲を見渡し、驚きや気まずさの表情を浮かべる同僚たちをひとりひとり見つめながら、はっきりとした声で続けた。「前田は日常的に女性社員に対し、不適切な言動や身体的接触を行い、さらには権力を利用して暗に関係を迫ってきました。ここにいる皆さんなら、心当たりがあるはずですよね?」オフィス内にざわめきが広がった。「え?前田がそんなことを......?」「そういえば、新しく入った女性社員にやたらと絡んでたな......」「前からおかしいとは思ってたけど、やっぱり......」ささやき声が次々と飛び交い、驚愕する者もいれば、納得したように頷く者もいた。俊介の顔は真っ青になり、震える指で
同じ頃、二川家の別荘では。贅を尽くしたリビングで、紗雪の母・美月(みつき)は優雅に朝食を楽しんでいた。顔には穏やかな笑みが浮かび、くつろいだ雰囲気を醸し出している。しかし、その静けさは突然響いた鋭い電話の音によって破られた。「もしもし?」美月が電話を取る。「会長、大変です!会社で事件が起きました!」「紗雪お嬢様が前田を殴りました!今、社内は大混乱です。すぐに来てください!」電話の向こうから、柴田の涙声が聞こえてくる。その焦りが電話越しにも伝わってきた。美月の表情が瞬時に険しくなり、しわ一つないはずの端正な顔に怒りが刻まれる。彼女は受話器を乱暴に置くと、まだ手をつけていない精緻な朝食など気にも留めず、バッグを掴んで別荘を飛び出した。二川家は鳴り城でも屈指の名門。美月は昔から世間体や体面を何よりも重んじていた。その紗雪が人前で社員を殴り、会社に大騒ぎを引き起こしたとなれば、彼女の面子は丸潰れだった。美月が慌ただしく会社に到着すると、オフィスはすでに修羅場と化していた。何人かの女性社員が涙ながらに俊介の悪行を訴え、その周囲には同情と怒りの視線が集まっている。一方、俊介は負傷した手を押さえ、青ざめた顔で椅子に座りながら、まだ何かを喚き散らしていた。美月はまず泣いている女性社員たちを落ち着かせ、誠意をもって対処することを約束した。その後、顔を険しくしながら紗雪を会議室へと呼び出した。「何を考えてるの!?会社で人を殴るなんて、二川家の顔に泥を塗る気なの?!」会議室に入るなり、美月は怒声を上げた。その完璧なメイクすら怒りに染まり、険しさを隠しきれない。だが、紗雪は怯むことなく、冷ややかな視線を返した。「私が?彼が女性社員にセクハラをしていたのよ。これは正当防衛よ」「正当防衛?あんなにボコボコにしておいて、それを正当防衛って言うの?」美月は怒りのあまり乾いた笑いを漏らした。「あんたには法律も母親の言うことも耳に入らないの?」「母さん、私はただ、正しいことをしただけよ」紗雪の声は落ち着いていたが、その奥には微かな皮肉が滲んでいた。「それとも、目の前で女性社員が被害を受けているのに、黙って見過ごせっていうの?」「あんた......」美月は言葉を失った。彼女は深く息を吸い込み、
一方、紗雪はアクセルを思いきり踏み込んだ。黒いスポーツカーは矢のように飛び出し、後方には排気ガスの煙がたなびいた。彼女は片手でハンドルを握り、もう片方の手で乱暴に顔を拭った。美月の怒りに満ちた顔、そして辛辣な言葉が頭から離れない。「二川家の顔に泥を塗る気なの?!」「あんたには法律も母親の言うことも目に入らないの?」その言葉は鋭い棘のように彼女の心を深く刺した。紗雪は唇を噛みしめ、さらにアクセルを踏み込む。今はただ、このすべてから逃げ出したかった。息苦しい家から。緒莉をひいきし、自分には冷淡な母親から。清那の家の前に着いたとき、彼女の手のひらは汗でびっしょりだった。清那の家は市内中心部の高級マンションにあり、紗雪は慣れた様子で車を停め、インターホンを押した。「紗雪?こんな時間にどうしたの?」清那がドアを開けると、紗雪の腫れた頬を見て、思わず息をのんだ。「ちょっと!その顔、どうしたの!?誰にやられた?」「母さんは......骨の髄まで緒莉贔屓してた!」紗雪は憤然と水を一口飲み下した。冷たい液体が喉を通るが、胸の奥の怒りは収まらない。「前田のエロジジイに謝れって言われた」清那は紗雪の話を聞くなり、怒りで飛び跳ねそうになった。「は!?あのエロジジイ、会社の女子社員に手を出したの!?しかも謝れだと!?何様のつもり!?」「紗雪、よくやった!アイツには痛い目を見せないと!ジジイのくせに社内で好き勝手やってさ、とっくに制裁されるべきだったのよ!」清那は憤慨しながらも、紗雪の顔をじっくりと観察した。「うわっ、顔がパンみたいに腫れてるし、青あざまでできてる!痛い?」紗雪は気にする様子もなく手を振った。「大したことないよ、ただのかすり傷」「かすり傷!?これが!?顔に痕が残ったらどうするの!?ダメ、薬を塗らなきゃ!」清那は強引に紗雪の腕を引っ張り、薬箱を探し始めた。「もう......確か家に薬箱があったはずなんだけど......どこだっけ?」紗雪は苦笑した。「そんなに大袈裟にしなくても、数日経てば治るよ」「何言ってんの!このままだと明日、外に出られないよ!」清那は頑として聞かず、必死に薬を探し続けた。すると、彼女は突然何かを思い出したように目を輝かせ、手を
京弥は車を飛ばし、一直線に最寄りの薬局へ向かった。店に入るなり、ありとあらゆる消炎・殺菌薬を買い漁り、トランクいっぱいに詰め込む。清那の家に到着すると、紗雪はソファに座り、冷えた水の入ったコップを抱えながらぼんやりしていた。京弥はすぐに彼女の前へと歩み寄り、赤く腫れ上がった頬を見た瞬間、胸が締め付けられるような痛みを覚えた。「どうしたんだ?誰にやられた?痛い?」その声音は、普段の冷徹な椎名グループの社長とは思えないほど優しかった。紗雪は彼の突然の気遣いに戸惑い、視線をそらしてしまう。「大丈夫。ただの軽い傷よ」「軽い傷!?これが!?」横で清那が大袈裟に叫ぶ。「見てよ、この顔の腫れ方!リンゴみたいになっちゃってるじゃん!私がすぐに冷やしてなかったら、もっとひどいことになってたかもよ!」京弥の顔色がさらに暗くなり、目には深い痛みが宿る。「どうしてこんなことに?痛くないのか?見せてくれ」彼の熱のこもった視線に耐えきれず、紗雪は少し身を引く。「本当に大丈夫なの。大げさなんだから」「これで大げさ?こんなに腫れてるのに?」京弥は呆れたように言いながらも、責めることなく、ただ彼女を心配するばかりだった。清那が京弥を振り返る。「兄さん、薬は?」「車にある。取ってきてくれ」清那は急いで階下へと向かった。しかし、トランクを開けた瞬間、目を疑った。ぎっしりと詰まった薬、薬、薬!軟膏、スプレー、錠剤、消毒液、包帯まで......「ちょっ、何これ......薬局ごと買い占めてきたの......?」唖然としつつも、清那は常備薬の消炎クリームを数箱取り出し、部屋へ戻る。「俺が塗ってあげる」京弥は紗雪をそっと支え、腫れた頬に優しく薬を塗り始めた。まるで壊れ物を扱うかのような、細やかな手つき。紗雪はその優しさに戸惑い、鼓動が速くなるのを感じた。ちらりと京弥を盗み見ると、彼はひたすら真剣な表情で薬を塗っていた。そこにあるのは、ただの心配ではなく、深い愛おしさのようにも思える。心臓が高鳴る。薬の清涼感がじんわりと痛みを和らげる。彼の指先が頬をなぞるたびに、まるで羽毛が肌を撫でるような、くすぐったい感覚が広がる。紗雪は居心地の悪さに顔を背けようとするが、頬の熱が増していくば
紗雪の鼓動はさらに速くなり、頬が燃えるように熱く感じた。彼女はそっぽを向き、小さな声で言った。「本当に大したことないの。ただのかすり傷よ」「かすり傷?」京弥の声には、わずかな怒気がにじんでいた。「こんなに腫れてるのに、かすり傷?何があったのか、ちゃんと話せ」紗雪は少し躊躇ったが、会社で起きた出来事を一つ残らず話した。話を聞き終えた京弥の表情は、見るからに険しくなっていた。彼は無言でスマートフォンを取り出し、アシスタントへ電話をかける。「前田俊介という男を調べろ」その声は冷たく、いつもの穏やかな雰囲気は一切感じられなかった。まるで別人のような、威圧感のある命令口調だった。紗雪はそんな彼を見つめながら、胸の奥で複雑な感情が渦巻くのを感じた。「京弥さん......」彼の袖をそっと引くと、軽く首を振り、疲れたような声で言う。「大ごとにしなくてもいいの。大した被害を受けたわけじゃないし」彼女は、京弥に余計な心配をかけたくなかった。京弥はしばらく黙っていたが、やがて深く息を吐き、彼女の意見を尊重するように頷いた。手元の薬を整え、薬箱に戻すと、優しい声で尋ねた。「まだ痛むか?」指先でそっと、腫れた頬を撫でる。紗雪は彼の手から逃げるように身を引き、首を横に振った。「もう大丈夫よ。ありがとう」京弥は視線を時計へ向けた。もうすぐ正午だった。「お腹空いてない?食事に行こう」紗雪は断ろうとしたが、タイミング悪く、腹の虫がぐぅっと鳴る。彼女は気まずそうに笑いながら、小さく頷いた。「うん」京弥が連れて行ったのは、落ち着いた雰囲気のレストランだった。彼は慣れた様子で何品かのあっさりした料理を注文し、紗雪の好みも細かく確認した。「ここ、よく来るの?」紗雪が何気なく尋ねると、京弥は軽く笑って頷いた。「ああ。以前は仕事の打ち合わせでよく使ってた」ほどなくして料理が運ばれてきた。紗雪は箸を手に取ったものの、食欲があまり湧かない。それを見た京弥は、さりげなく魚の身を箸で取って、彼女の皿にのせた。「これ、食べてみて。ここの料理は新鮮が売りなんだ」紗雪は断るのも悪くて、ひと口だけ食べた。だが、やはりすぐに箸を置いてしまう。京弥は心配そうに眉をひそめ
紗雪は口を閉ざし、かすかに微笑んだ、「はい、ご厚意に甘えて」「本日お邪魔したのは、ぜひとも利益をもう5パーセント上乗せしていただきたいからです、これが二川グループとしてご提示できる最低ラインです」早川社長と松本社長は視線を交わした、二川グループの狙いはこれだったのか。このタイミングで椎名グループのプロジェクトがある以上、彼らの商品はどこへ行っても引く手あまただ、売上について心配する必要はない。あとは、この案件をどこが勝ち取るかだけの問題だ。現状、二川グループには十分な勝算がある、もし本当にこの契約を手に入れれば、利益を譲ることもやぶさかではない。ただし、酒の席はまた別の話だ。「二川さん、商談というのは、酒が回ってからが本番というものです」早川社長は意味ありげな表情で、さも不満げに言った。松本社長もすかさず続ける、「そうですよ、まだまだこれからじゃないですか、まずは飲みましょう」「存分に飲んでこそ、腹を割った話ができるというものですよ」紗雪の目がかすかに陰り、唇に浮かんでいた微笑がほんの少し薄れた。彼女は思い出した、以前からこの二人が女好きで有名だという話を聞いたことがある。しかし、仕方がない、どちらの会社も鳴り城のトップ企業だ。彼らの商品は、二川グループにとっても不可欠なものだ。「おっしゃる通りですね。では......」そう言って、紗雪は盃を仰いで飲み干した、飲み終えると、盃を逆さにして見せ、確かに空になったことを示した。その様子を見て、松本社長と早川社長の目には、さらに愉悦の色が濃く浮かんだ。「二川さんは実に潔い方ですね」「ああ、二川グループの方々が皆、二川さんのように話の分かる方なら、とうにこの商談は決まっていたでしょうに」「そうそう、こんな面倒な手続きなんて、必要なかったかもしれませんよ」二人が掛け合いのように話すのを聞きながら、紗雪はすべてを察した。これはまさに鴻門の会――つまり、罠だった。マネージャーが席を立って、すでに十数分経っているのに、まだ戻ってこない、それが何よりの証拠だった。紗雪の瞳が冷たく沈み、脳内で脱出の手を考えていた、そんなとき。「ドンッ!」個室の扉が勢いよく押し開けられた。半ば酔いの滲んだ目を薄く開くと、そこにはすらりと
另一方、マネージャーはうつむきながらオフィスに戻り、緒莉に電話をかけて進捗を報告した。「お嬢様、ご指示の件、無事に手配しました」「よくやったわ」向こうから緒莉の満足げな声が聞こえてきた。仕事が終わると、マネージャーは車のキーを手に取り、紗雪を連れてレストラン・コウリョウへ向かった。個室に入ると、すでに二人の腹の出た男たちが待っていた。「早川社長、松本社長、ご無沙汰しております、お変わりなく」マネージャーは笑顔で近づき挨拶を交わした。二人の社長は椅子に座ったまま、ふんぞり返った態度でマネージャーに杯を掲げた。「柴田さんは最近、椎名グループのプロジェクトの準備で忙しいと聞いているよ、忙しいのは理解できるがね」マネージャーは笑って手を振り、紗雪に目配せしながら席に着くよう促した。「そんなことはありません、私の招待が行き届かず、もっとお二人とお付き合いすべきでした」それぞれがそれぞれの思惑を抱えながらも、こうした場ではお世辞を交わし合う。いずれにせよ、ビジネスの世界は駆け引きばかりだ。紗雪は松本社長の左側に座り、まるで飾りのように静かにしていた。マネージャーは彼女を一瞥しながら話を切り出した。「お二人にご紹介します」「こちらは当社の二川紗雪、椎名プロジェクトのメインの担当者です」その言葉を聞いた二人の社長は、紗雪に視線を向けた。そして、彼女の姿を目にした瞬間、二人の目が合い、一瞬のうちに互いの意図を察した。「柴田さん、ずるいですね、こんなに美しくて優秀な社員がいるのに、我々は今日初めて知るなんて」「そうだよ、柴田さん、これは罰として一杯飲んでもらわないと」二人は次々とマネージャーを追い詰めるように言葉を繰り出した。マネージャーは彼らの性格をよく理解している。こういう場で取引を進める人間たちだ。最後には苦笑しながら杯を手に取った、「お二人がそうおっしゃるなら、ありがたくいただきますよ」そう言いながら、マネージャーは杯を一気に飲み干した。彼があまりにあっさりと飲み干したので、二人の社長は物足りなさそうに舌打ちし、次の標的を紗雪へと向けた。「二川さんはお若いのに、すでに椎名グループのプロジェクトを担当されているなんて、すごいですね」「私の部下たちより、ずっと優秀
前回の対面以来、次女と一度も会っていない。それが、加津也を焦らせた。部下たちに二川家の次女の行方を探らせても、まったく情報が入ってこない。「使えない連中ばっかりだな」苛立ちを隠せず、思わず悪態をつく。部屋の中を行ったり来たりしながら、最近起こったことを整理する。その中で、紗雪の存在が、やけに引っかかった。付き合っていた頃の紗雪は、あれほど従順に振る舞っていたのに、別れた途端、本性を露わにし始めた。「紗雪、このクソ女が!」「いいだろう。お前がその気なら、俺も遠慮しない」「最後に笑うのがどっちか、見せてやるよ」スマホを強く握りしめたせいで、手の甲に青筋が浮かぶ。加津也の脳裏には、一つの策がよぎった。椎名と親しい、とある人物、そいつは、会社の中でもそれなりの地位にいる。彼を利用すれば、紗雪に痛い目を見せることができる。「このプロジェクトだけは、絶対に渡さない」すぐさま、その人物に電話をかけた。内容は単純、紗雪が提出した投票書を、白紙とすり替えろというものだった。電話の向こうの相手は、一瞬ためらった。「......いや、それはさすがにまずくないか?」「温泉開発のプロジェクトは、うちの社長がかなり重視してる案件なんだぞ」「こんなことしてバレたら、俺の首が飛ぶよ......」だが、加津也は、冷静な声で言い放つ。「心配するな。あいつはただの貧乏学生だ。二川グループに実習生として入ってるだけで、大したコネもない」「仮に騒がれても、会社のトップ層まで届くことはない」その言葉を聞いた相手は、ようやく安心したようだ。「なら、まあ、やってやるよ」その一言を聞いた瞬間、加津也の目に宿っていた険しい光が、ほんの少しだけ和らいだ。これでいい。紗雪、お前に勝ち目はない。......一方、二川グループ。紗雪は、椎名グループの過去のプロジェクトデータを研究していた。彼らが求めるスタイルをより深く理解するために。時間をかけて分析するうちに、確かな手応えを感じ始める。円は、そんな彼女の様子を一日中そっと見守っていた。あまりにも真剣に取り組んでいたので、邪魔するのをためらっていたのだ。日が傾き、退勤時間が近づく頃、紗雪はゆっくりと背伸びをした。その小
紗雪には、ずっと厳しく接してきた。だが、緒莉に対しては、むしろ心が痛むことの方が多かった。この子は、幼い頃から体が弱かったうえに、とても物分かりのいい子だった。何をするにしても、常に母である自分の立場を考えてくれる。だからこそ、紗雪と緒莉の間で、彼女は無意識のうちに緒莉の方を贔屓してしまっていた。彼女は口下手な人間だ。日々、会社のことで頭を悩ませるだけで精一杯で、他のことを考える余裕などなかった。そのせいで、子供たちの間で何が起こっているのか、時に気が回らなくなることもある。「緒莉。いつでもいいわ。何か辛いことがあったら、必ず私に言いなさい。お母さんは、いつだって緒莉の味方よ」緒莉は小さく頷き、穏やかに微笑む。「お母さん、ちゃんと分かってるよ。いつもありがとう」「いい子ね。もう行っていいわ」緒莉はようやく美月の腕の中から離れる。そして、母に別れを告げた後、自室へと戻った。部屋に入るなり、彼女は手元の水の入ったコップを払い落とす。床に砕け散ったガラスの破片、彼女の胸は、大きく上下に波打っていた。幸い、この部屋の防音はしっかりしている。これくらいの音では、階下の美月に気づかれることはない。それにしても、納得がいかない。母は、どうしても自分を二川グループに入れようとしない。紗雪が会社で活躍する姿を見るたびに、胸がざわつく。その輝かしい姿が、ひどく目障りだった。「紗雪。調子に乗らないで」深く息を吸い込み、スマホを手に取る。そして、素早くメッセージを打ち込んだ。少し待つと、相手から返信が届く。その内容を確認した緒莉の表情は、ようやく落ち着きを取り戻した。視線を落とせば、床にはまだ散乱したままのガラスの破片。不機嫌そうに眉を寄せると、すぐさま使用人を呼びつけた。使用人は、恐る恐る部屋に入るなり、ガラスの破片を片付け始める。終始、緊張した様子だった。二川夫人は気づいていないかもしれないが、この屋敷で長年働いている彼女には、よく分かっていた。このお嬢様の機嫌は、まるで天気のように変わりやすい。機嫌が悪い時には、こうして物を投げつけることも少なくない。それは、彼女にとって日常的なことだった。聞いた話では、以前、若い使用人たちの中には、
しかし、緒莉は幼い頃から体が弱かった。だからこそ、美月も緒莉にはより一層の気遣いを持って接してきた。加えて、緒莉という子は......そう思いながら、美月はそっと唇を引き結ぶ。そして緒莉に向かって静かに言った。「緒莉の気持ちはよくわかったわ。紗雪のことは、ちゃんと話しておく」「あなたが言ってることも一理あるわ。人を従わせるには、下の者たちの意見も重要。ただ強引に物事を進めるだけではいけない」緒莉は、ぱっと笑顔を浮かべる。「お母さんがちゃんとわかってくれて、本当によかった。私も、紗雪のことを思って言っただけだから」「緒莉はいい子ね」美月は緒莉の手の甲を軽く叩きながら、話題を変えた。「緒莉のこと、わかるつもりよ」「だけど、辰琉の件について、どうするつもりなの?」美月の心の中には、いまだにこの件に対するしこりが残っていた。何しろ、どちらも自分の娘なのだ。それなのに、一人の男をめぐってここまで揉めることになるとは、世間に知られたら、二川家の恥を晒すことになるだろう。緒莉はスカートの裾をきつく握りしめ、僅かに顔を曇らせた。「......お母さん。辰琉は前回、ちゃんと説明したはずよね?」やっぱり、母はまだこの件を気にしていたのだ。「彼は、ただお酒を飲みすぎて、紗雪のことを私と間違えただけ」美月が何か言いかけたが、それを遮るように緒莉が続ける。「それにお母さん。私たちはもう婚約しているのよ?いまさら何を言っても、意味がないわ」「二川家の体面こそが、一番大切なことじゃない?」その言葉を聞いた美月は、再び沈黙した。緒莉の顔には、決意の色が濃く浮かんでいる。彼女は、もう迷いもしないのだろう。結局、美月もそれ以上何も言わなかった。彼女が言うことにも、一理あった。現在の二川グループには、無数の目が注がれている。もしも何か悪い噂が立てば、それは即座に株価に影響を及ぼすことになる。美月はため息をつき、緒莉の手を優しく握った。「......わかったわ。辛い思いをさせて、ごめんなさい」緒莉は微笑んだ。「辛くなんてないよ、お母さん」「私は体が弱いから、お母さんの手伝いもできないし、ずっと申し訳ない気持ちでいた」「それに、辰琉は私が選んだ人よ。彼のことで辛い思
紗雪は目の前のパソコンを見つめながら、ひとつひとつの企画やアイデアを頭の中で整理していった。そんな中、紗雪が進めている企画と林檎に関する件は、緒莉と二川母・美月の耳にも入っていた。同時刻、二川家。この日、美月は会社に行かず、緒莉と家で過ごしていた。前回、辰琉の件で緒莉は怒って家を飛び出した。そのため、こうして美月と二人きりになるのは、どこか気まずさが残る。緒莉は、目の前で優雅にコーヒーを飲みながら本を読んでいる美月の顔をじっと見つめた。手入れが行き届いており、年齢を感じさせないその顔には、何の感情も浮かんでいない。彼女は拳をそっと握りしめた。前回の件については、すでに辰琉が美月に説明している。しかし、そのとき美月は表向きには何も言わなかったものの、緒莉にはわかっていた。たとえ彼女が辰琉を許したとしても、美月が納得するにはまだ時間がかかるだろう。なにせ紗雪の手元には録音があるのだ。それを考えると、美月の立場としても簡単には流せないはずだった。「お母さん、聞いたんだけど、紗雪が会社で誰かをクビにしたらしいわ。浅井林檎っていう人」緒莉がそう言うと、美月はコーヒーを飲む手を一瞬止め、彼女に目を向けた。かけているメガネのチェーンが、わずかに揺れる。「そう......その話なら、少しだけ耳にしているわ」「ええ、それなら特に言うことはないけれど......」緒莉は何か言いたげに言葉を濁し、不安げな表情を浮かべた。その様子を見て、美月は少し興味を引かれる。「どうしたの?緒莉、気になることがあるなら遠慮せずに言いなさい」美月は、生粋の女実業家だ。これまでの人生で、ありとあらゆる人間を見てきた。緒莉のような人間など、珍しくもない。だが、彼女は娘を甘やかしてきた自覚があるため、あえて口を挟まず、ただ話を促した。すると、緒莉は少し躊躇った後、ため息混じりに口を開く。「ただ、ちょっと気になったの。紗雪が会社でああいうことをするのって、少し目立ちすぎじゃないかしら」「何しろ、彼女は二川家の次女よ?そんなことをしたら、『二川家が権力を振りかざしている』なんて噂が立つかもしれないわ」彼女の言葉に、美月はすぐには同意しなかった。むしろ、静かに考え込むような表情を見せる。彼女は、
いい夢を見たような気がした。翌朝。紗雪が目を覚ますと、いつものように京弥が用意した朝食が待っていた。昨日の出来事があったせいか、紗雪は今では京弥と自然に向き合えるようになっていた。余計なことを考えることも、もうない。誰の心にも秘密や隠しておきたいことの一つや二つはある。それを深く追求したところで、何になるだろうか。皆、大人なのだから、それぞれのプライバシーは、尊重すべきものだ。「今日の目玉焼き、すごくきれいにできてるね」紗雪は、ごく自然にそう褒めた。京弥は一瞬驚いたようだったが、彼女の明るい笑顔を見ると、すぐに口元を緩ませる。「気に入ったなら、次もこの焼き加減で作るよ」「じゃあお願いしようかな」二人の関係は、以前よりもずっと穏やかで心地よいものになっていた。紗雪は食事を終えると、そのまま車で会社へ向かった。京弥は送るつもりだったが、彼女がすでに車のキーを手にしているのを見て、それ以上は何も言わなかった。紗雪は、籠の中で飼われる鳥ではない。彼女は自由を求める。自分の意志で羽ばたき、堂々と生きる人間だ。だからこそ、京弥は彼女を縛りたくなかった。手を差し伸べるよりも、彼女自身の力で経験し、成長する方がずっと意味があるのだから。紗雪が会社に着くと、受付を通りかかった際に軽く会釈をした。受付の女性たちは、その姿を見て好奇心を抑えきれない様子だった。彼女がエレベーターに乗り、姿が見えなくなると、「やっぱり二川さん、めちゃくちゃ綺麗だよね。あの人があんなに焦ってたのも納得......」「ほんと、それ。二人とも美男美女すぎて、もう完璧カップルって感じ!」「もうダメ......私、尊すぎて頭が爆発しそう......!」紗雪は、そんな彼女たちの盛り上がりを知る由もなく、デスクへ向かい、すぐに仕事に取り掛かった。椅子に腰を下ろして間もなく、円がこそこそと近寄ってきた。「紗雪、昨日のことはもう聞いた?」「何のこと?」パソコンの電源を入れながら、紗雪は怪しげな円に目を向ける。「あの浅井のことよ!」円は憤った様子で声を潜める。「やっぱり悪事を働くと天罰が下るんだね」「彼女がどうかしたの?」紗雪は、少し驚いたふりをしながら尋ねた。自分が知っていること
京弥の細やかな気遣いを感じるたびに、心が揺れないわけがなかった。だが——紗雪の脳裏には、彼のメモ帳と「初恋」の存在が浮かぶ。途端に、理由もなく気分が沈んでいく。この感情がどこから来るのか、自分でも分からない。彼女は、かつて胸の奥にひっそりと秘めていた淡い恋心を思い出した。それは決して口にすることのない、誰にも知られない想いだった。京弥は視線を落とし、彼女の髪を静かに見つめる。まるで、貴重な宝物に触れるかのように、慎重で優しい手つきだった。契約額が何百億にも及ぶプロジェクトをまとめる彼の手が、今こうして紗雪の髪を乾かしている。匠が見たら、きっと「お天道様が西から昇りそうだ」と冗談を言うに違いない。ようやく髪が乾いた頃には、紗雪の心の整理もついていた。何があっても、今の京弥は彼女の「夫」だ。彼があまりにも分別を欠くようなことをしない限り、紗雪は彼と他の人の関係には干渉しない。だが、最低限の体面だけは守ってもらう必要がある。そう考えていた時、ふと疑問が湧いてきた。「そういえば......どうやって私を見つけたの?」あの男たちに囲まれ、身動きが取れなくなったとき、本当に、全てが終わるのではないかとさえ思った。だが、その瞬間、まるで神のように京弥が現れた。京弥は少し黙り込んだ後、昼間のことを思い出しながら口を開く。「会社の下で待っていたんだ。受付に聞いたら、紗雪はとっくに帰ったと言われた」「電話をかけても繋がらなかったから、嫌な予感がした」その瞬間のことを思い出し、京弥は無意識に拳を握りしめる。あの男たちを、決して許さない。紗雪は納得したように頷いた。「なるほどね」それなら、彼がどうやって見つけたのかも納得がいく。「......で?あの連中はどうするつもり?」彼女は京弥の顔をじっと見つめた。彼がどんな答えを出そうと、彼女の一言で全てが決まる。京弥が手を下せば、奴らは二度と外の世界に戻って来られないだろう。紗雪は少し考え、最終的に決断した。「警察に引き渡して、あとは法の裁きに任せましょう?」結局何もされなかったし、普通の手続きで進めればいい。ただし、刑務所で楽な暮らしができるとは思わないでほしい。自分は聖母マリアじゃなんだから。京弥は微
紗雪は、それが自分がもがいたときに擦れてできた痕だと気づき、少し気まずそうに手を引いた。「大したことないわ、ただのかすり傷よ」そう言いながら、もう一度京弥を追い出そうとする。「いいから、出て行って。一人で大丈夫だから」京弥の目がわずかに暗くなった。こんな時まで、紗雪は本当のことを話そうとしない。なぜ、彼に心を開こうとしないのか?なぜ、ちゃんと彼に話してくれないのか?「これが、かすり傷?」紗雪はまだ京弥の低い声の中に滲む怒りに気づかず、気楽そうに言う。「そうよ、だから気にしなくていいわ。寝ればすぐに良くなるから」早くお風呂に入りたかった彼女は、再び京弥を追い払おうとしたが、ふと目を上げた瞬間、深い瞳と真正面からぶつかった。「......どうしたの?」紗雪はきょとんとした表情を浮かべる。京弥は静かに彼女を見つめ、落ち着いた口調で言った。「さっちゃん......これからは、無理をしないでほしい」彼の言葉には、優しさと哀しみが入り混じっていた。「俺がいる。だから、そんなに強がらなくてもいいんだ」紗雪は一瞬、呆然とした。こんな言葉を、誰かにかけてもらうのは初めてだった。幼い頃から、母親に厳しく育てられ、甘えたり頼ったりすることは許されなかった。愛情を求めることすら、許されなかった。だからこそ、彼女は独りで生きる強さを身につけた。ずっとそうやって生きてきたのに、こんな風に、誰かに「頼ってもいい」と言われたのは、生まれて初めてだった。紗雪はどう返せばいいのか分からなかった。「......わ、分かったわ。でも、先に出て行ってくれる?」彼女は視線をそらし、ぎこちなく答えた。浴室はもともと狭い空間だ。二人でいると、呼吸が詰まりそうになる。紗雪は、肺いっぱいに広がる京弥の香りに、なんとなく落ち着かなくなった。京弥は、彼女の体に残る汚れや傷を見て、胸が痛んだ。少しだけためらったが、最後は折れた。「......分かった。ゆっくり入ってくれ。何かあったら呼んで」そう言い残し、京弥は浴室を出た。彼がいなくなった途端、紗雪はようやく大きく息を吐いた。そのまま浴槽に身を沈め、天井をぼんやりと見上げる。今日一日、本当に疲れた。まさか、こんなことまで