另一方、マネージャーはうつむきながらオフィスに戻り、緒莉に電話をかけて進捗を報告した。「お嬢様、ご指示の件、無事に手配しました」「よくやったわ」向こうから緒莉の満足げな声が聞こえてきた。仕事が終わると、マネージャーは車のキーを手に取り、紗雪を連れてレストラン・コウリョウへ向かった。個室に入ると、すでに二人の腹の出た男たちが待っていた。「早川社長、松本社長、ご無沙汰しております、お変わりなく」マネージャーは笑顔で近づき挨拶を交わした。二人の社長は椅子に座ったまま、ふんぞり返った態度でマネージャーに杯を掲げた。「柴田さんは最近、椎名グループのプロジェクトの準備で忙しいと聞いているよ、忙しいのは理解できるがね」マネージャーは笑って手を振り、紗雪に目配せしながら席に着くよう促した。「そんなことはありません、私の招待が行き届かず、もっとお二人とお付き合いすべきでした」それぞれがそれぞれの思惑を抱えながらも、こうした場ではお世辞を交わし合う。いずれにせよ、ビジネスの世界は駆け引きばかりだ。紗雪は松本社長の左側に座り、まるで飾りのように静かにしていた。マネージャーは彼女を一瞥しながら話を切り出した。「お二人にご紹介します」「こちらは当社の二川紗雪、椎名プロジェクトのメインの担当者です」その言葉を聞いた二人の社長は、紗雪に視線を向けた。そして、彼女の姿を目にした瞬間、二人の目が合い、一瞬のうちに互いの意図を察した。「柴田さん、ずるいですね、こんなに美しくて優秀な社員がいるのに、我々は今日初めて知るなんて」「そうだよ、柴田さん、これは罰として一杯飲んでもらわないと」二人は次々とマネージャーを追い詰めるように言葉を繰り出した。マネージャーは彼らの性格をよく理解している。こういう場で取引を進める人間たちだ。最後には苦笑しながら杯を手に取った、「お二人がそうおっしゃるなら、ありがたくいただきますよ」そう言いながら、マネージャーは杯を一気に飲み干した。彼があまりにあっさりと飲み干したので、二人の社長は物足りなさそうに舌打ちし、次の標的を紗雪へと向けた。「二川さんはお若いのに、すでに椎名グループのプロジェクトを担当されているなんて、すごいですね」「私の部下たちより、ずっと優秀
紗雪は口を閉ざし、かすかに微笑んだ、「はい、ご厚意に甘えて」「本日お邪魔したのは、ぜひとも利益をもう5パーセント上乗せしていただきたいからです、これが二川グループとしてご提示できる最低ラインです」早川社長と松本社長は視線を交わした、二川グループの狙いはこれだったのか。このタイミングで椎名グループのプロジェクトがある以上、彼らの商品はどこへ行っても引く手あまただ、売上について心配する必要はない。あとは、この案件をどこが勝ち取るかだけの問題だ。現状、二川グループには十分な勝算がある、もし本当にこの契約を手に入れれば、利益を譲ることもやぶさかではない。ただし、酒の席はまた別の話だ。「二川さん、商談というのは、酒が回ってからが本番というものです」早川社長は意味ありげな表情で、さも不満げに言った。松本社長もすかさず続ける、「そうですよ、まだまだこれからじゃないですか、まずは飲みましょう」「存分に飲んでこそ、腹を割った話ができるというものですよ」紗雪の目がかすかに陰り、唇に浮かんでいた微笑がほんの少し薄れた。彼女は思い出した、以前からこの二人が女好きで有名だという話を聞いたことがある。しかし、仕方がない、どちらの会社も鳴り城のトップ企業だ。彼らの商品は、二川グループにとっても不可欠なものだ。「おっしゃる通りですね。では......」そう言って、紗雪は盃を仰いで飲み干した、飲み終えると、盃を逆さにして見せ、確かに空になったことを示した。その様子を見て、松本社長と早川社長の目には、さらに愉悦の色が濃く浮かんだ。「二川さんは実に潔い方ですね」「ああ、二川グループの方々が皆、二川さんのように話の分かる方なら、とうにこの商談は決まっていたでしょうに」「そうそう、こんな面倒な手続きなんて、必要なかったかもしれませんよ」二人が掛け合いのように話すのを聞きながら、紗雪はすべてを察した。これはまさに鴻門の会――つまり、罠だった。マネージャーが席を立って、すでに十数分経っているのに、まだ戻ってこない、それが何よりの証拠だった。紗雪の瞳が冷たく沈み、脳内で脱出の手を考えていた、そんなとき。「ドンッ!」個室の扉が勢いよく押し開けられた。半ば酔いの滲んだ目を薄く開くと、そこにはすらりと
京弥は気だるげに言った。「そういうことなら、この商談は......」最後まで言葉を続けなかったが、早川社長と松本社長はすぐに察した。二人はすぐに紗雪を見て、「二川さん、先ほどおっしゃっていた条件、承諾します。契約書はお持ちですか?今すぐにでもサインしましょう」と言った。「あ、はい」紗雪はまだ少し夢の中にいるような気分だった。契約書を手にした瞬間でさえ、現実味がなかった。その後の食事は、紗雪にとっては心地よいものになったが、早川社長と松本社長にとっては、京弥の圧にさらされ、味も何もない食事となった。だが、京弥は一切気にしていなかった。彼が今日ここに来た目的はただ一つ――紗雪の後ろ盾となること。彼の妻だというのに、彼でさえ傷つけるのを惜しむ存在を、こんな小物どもに好き勝手されるなど、到底許せるはずがなかった。そう考えながら、京弥は匠にメッセージを送った。「早川家と松本家を調べて、少しトラブルを作ってやれ」匠は首を傾げつつも、命令通り動いた。だが、早川家や松本家とは特に深い関わりがあるわけでもないのに、なぜ急に社長は彼らを狙うのだろうか。まあ、ボスの考えを詮索しても仕方ない。紗雪は、店を出るころになってようやく実感が湧いてきた。京弥が現れてから、驚くほど物事がスムーズに進んでしまったからだ。彼に腕を抱かれながら店を出ると、ようやく彼女は口を開いた。「どうしてここに?」ここは個室なのに、どうやって彼女の居場所を知ったの?そんな疑問を抱く紗雪に対し、京弥は顎をわずかにしゃくり、示すように視線を向けた。紗雪がそちらを見ると、壁際に立つ柴田の姿があった。彼は落ち着かない様子で、まるで逃げ出したいかのように身を縮こまらせていた。紗雪の目が鋭く細められる。この食事会を段取りしたのは柴田さんのはずなのに、席についてからずっと姿を見せなかった。「これはこれは、柴田さんじゃありませんか」紗雪は皮肉げに言った。「もう帰ったのかと思っていましたけど、まだここにいらしたんですね」「......っ」柴田さんは怯えたように京弥を一瞥し、覚悟を決めたように目をつむると、一息に言った。「お察しの通りですが、これは私の意思ではありません」「どういう意味?」紗雪の目がさらに
京弥は紗雪の様子がおかしいことに気づいていた。だからこそ、マネージャーが去るのを止めることはなかった。今は、何よりも紗雪の体調が最優先だった。「大丈夫か?」京弥はわずかに身を屈め、優しく尋ねた。紗雪は首を振り、平静を装った。「大丈夫。ちょっと飲みすぎただけ」そう言いながら、京弥の手を押しのけ、外へ向かって歩き出した。しかし、たった二歩踏み出したところで、体がふらつき、そのまま倒れそうになった。幸いにも、京弥がすぐに支えた。その様子を見て、京弥はすぐに分かった。紗雪はただ無理をしているだけだと。次の瞬間、彼は紗雪の腰を抱き上げ、そのまま腕の中に包み込んだ。突然の出来事に、紗雪は思わず小さく声を上げた。「ちょ、ちょっと!何してるの?」「当然、家に帰るんだ」京弥はそう言いながら、紗雪を助手席に優しく座らせ、丁寧にシートベルトを締めてやった。彼女の鼻先をかすめると、強い酒の匂いが感じられた。顔を覗き込むと、ほのかに上気した頬が目に入る。京弥は思わず手を伸ばし、彼女の小さく整った鼻を軽くつついた。「この飲んべえ。俺がいない時は、こんな飲み方はダメだぞ」紗雪は不機嫌そうに小さく唸り、顔をそむけた。だが不思議なことに、京弥のそばにいると、どこか安心できる気がした。何も考えず、ただ家に帰ればいいという気楽さがあった。その様子を見て、京弥はくすりと笑い、運転席へと回った。そして車を発進させ、コウリョウを後にした。実は、今日紗雪と会ったのは偶然ではなかった。彼もまた、この場所で商談があったのだ。彼女のいる個室を突き止めたのも、入り口で落ち着かずに歩き回る柴田を見かけたからだった。嫌な予感がして、匠に軽く探りを入れさせたところ、柴田はあっさりと口を割れた。本当に、間に合ってよかった。同じ頃、緒莉のもとにも報せが届いた。計画は失敗に終わった、と。「お嬢様、こんなことはもうご勘弁を......」柴田の声は明らかに怯えていた。緒莉は眉をひそめた。「どういう意味?」柴田の脳裏には、早川社長と松本社長すらも震え上がらせたあの男の姿が浮かんでいた。彼の正体は分からないが、ただならぬ人物であることだけは確かだった。「お嬢様、これ以上聞かないでください。もうこんなことには関
紗雪は小さく「うん」と返事をし、続けて尋ねた。「これは何?」「ヘジャンククだ」京弥は紗雪の隣に腰を下ろし、自然と彼女を広い肩へと寄りかからせる。「昨日あんなに飲んだんだから、今日の朝はきっと頭が痛いだろうと思ってな。それで、ヘジャンククを作ったんだ」「少しでも飲めば、楽になるよ」紗雪は目の前の橙色の液体を見つめながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。視線をそっと横に移すと、精緻な横顔と高く通った鼻筋が目に入る。不意に心臓が一拍、跳ぶのを忘れたかのような感覚に襲われた。結婚相手として見るならば、京弥は申し分ない存在だった。少なくとも、以前の加津也と比べれば、はるかに優れているのは間違いない。京弥は紗雪がぼんやりとしているのを見て、首を傾げた。「どうしたの?熱いうちに飲まないと効果がないぞ」紗雪はハッとして、小さく頷いた。そっと唇を開き、京弥にスープを飲ませてもらう。最初の一口を含んだ瞬間、驚きが走った。見た目からして苦いと思っていたのに、まさかのオレンジの味がしたのだ。京弥は優しく微笑んだ。「君がオレンジ好きなの知ってたからな。ネットでレシピを探して作ってみた」紗雪の耳が一瞬で真っ赤になった。なんだか気恥ずかしくなって、そっぽを向いた。「もう、自分で飲むから......」顔から首筋まで、まるで茹で上がったエビのように真っ赤だった。その姿があまりにも可愛くて、京弥はつい、指先で彼女の耳を軽く触れた。紗雪は羞恥と怒りに満ちた顔で耳を押さえ、非難の眼差しを向けた。「何するのよ!」「いや、耳が赤いなーって」紗雪はもう京弥を見ずに、彼の手から椀プを奪った。「自分で飲むから」そう言って、一気にスープを飲み干す。その間、京弥は何も言わず、穏やかな表情で見守っていた。スープを飲み終えると、紗雪の体はだいぶ楽になり、力が戻ってきた。彼女は布団をめくり、起き上がるとすぐに仕事へ行く準備を始めた。「今日は休まないのか?」京弥はまだ完全に酒が抜けていないのではないかと心配そうに尋ねる。紗雪は首を横に振った。「大丈夫、昨日のことを思い出したの」「会社に戻って、片付けることがあるの。家のこともあるし。ここで時間を無駄にはできないわ」京弥は紗雪を引き
円はこんな紗雪を見るのが初めてで、少し怯えた様子で小さく頷いた。「うん......すごく慌ててる感じだったし、家の事情じゃないかな。そうじゃなかったら、あんなに急ぐ理由がないよ......」紗雪はそれを聞いても、ただ冷笑するだけで、円の言葉には答えなかった。柴田がなぜ退職したのか、彼女には分かりきっている。彼女と顔を合わせるのが気まずかっただけのこと。それに、彼女と緒莉の間に挟まれて、どちらにも都合のいい態度を取るのは難しかったのだろう。紗雪は考えをまとめると、二人の社長と交わした契約書を手に持ち、足早に会長室へ向かった。ドアをノックし、中から声が聞こえてから、扉を押して中へ入る。部屋に入ると、美月がチェーン付きの眼鏡をかけ、洗練された雰囲気を漂わせていた。紗雪は恭しく口を開いた。「会長」美月は顔を上げ、来たのが紗雪だと分かると、少し驚いたようだった。「珍しいわね。どうしたの?」会社に勤めてこれだけの時間が経っているのに、紗雪が彼女を訪ねてくることはほとんどなかった。この娘には厳しく接してきたが、それは彼女を早く成長させたかったからだ。温室で甘やかされた花にはしたくなかった。「会長、お話があります。この契約書を見てください」紗雪は契約書を美月に差し出した。美月はじっくりと目を通し、それが今の二川グループにとって重要なものだとすぐに理解した。さらに、通常よりも5%も安く契約を結んでいる。その瞬間、美月の表情には隠しきれない称賛の色が浮かんだ。「よくやったわね。今回の件は見事だったわ」叱るべきときは厳しくするが、褒めるべきときは惜しみなく称賛を与えるのが美月のやり方だった。だが、紗雪は冷静に口を開いた。「会長、実はお願いがあって来ました」その言葉に、美月の笑顔が少し引き締まる。紗雪の表情が真剣だったため、ただ事ではないと察した。この子は、いつも自分で問題を解決しようとする性格だった。たとえ何かあっても、他人に頼ることはほとんどない。そんな彼女が「お願い」を口にするのは、今回が初めてだった。「続けて」紗雪は昨日の出来事を包み隠さず、すべて話した。美月の顔色がみるみるうちに険しくなっていったが、思わず緒莉を庇うような言葉が口をついて出た。「そんなは
二川グループを出ると、紗雪は目を細めた。陽射しは暖かく降り注いでいるのに、心の奥底はひやりと冷え切っていた。証拠は揃っているというのに、それでも美月は信じようとしなかった。紗雪は挫折感を覚えた。自分の言葉が、母親にとってこれほどまでに信憑性のないものだったとは。ならば、一人で調べるしかない。どんなに隠されていようと、必ず真相を突き止めてみせる。千の言葉を並べるより、一つの確かな証拠を突きつけた方が、よほど説得力があると分かった。そう考え、私立探偵に連絡を取ろうとしたその時。美月から電話がかかってきた。一瞬、出るべきかどうか迷ったが、結局心が揺らぐ。もしかしたら、母親の気が変わったのかもしれない。指が受話ボタンに触れた。しかし、言葉を発する間もなく、美月の焦った声が耳に飛び込んできた。「紗雪、何をするつもりでも、今は一旦やめなさい」紗雪の目が冷え込み、完全に失望しきった表情になる。反論しようとしたその時。まるで彼女の考えを読んだかのように、美月が続けた。「私を責めてもいいわ。でもこれは由々しき事態なの」「椎名のプロジェクトの入札会が、予定より前倒しになった。さっき椎名グループが発表したばかりの情報よ。すぐにあなたに知らせなければと思って」紗雪はゆっくりと拳を握りしめ、深呼吸を数回繰り返す。わずかな時間で、気持ちを切り替えた。「分かりました。そちらを優先します」美月は小さく息をついた。「私たちは家族よ。今はプロジェクトがかかっているのだから、足並みを揃えて外部と戦わないと」「......ええ」紗雪はそれ以上何も言わず、一歩引いた。この件は、ひとまず棚上げするしかない。電話を切ると、彼女はもはや他のことを考える余裕もなかった。椎名プロジェクト。彼女にとって、それはまるで自分の子どものような存在だ。何があっても、この企画を台無しにするわけにはいかない。一瞬のうちに決断を下し、二川グループへ戻るべく足を踏み出した。入札会の準備へ。......一方、緒莉は、社内に配置していた手下から「紗雪が会長室を訪れた」との報告を受けた。彼女は持っていたスマホを「ガンッ!」と床に投げつける。バキッと無惨な音を立て、画面が粉々に砕け散った。緒莉は理解していた。
紗雪に気づいた人々が、次々と彼女に声をかけてきた。彼女は微かに頷くだけだった。その頷きの角度すら計算されたように完璧だった。上流の人々の間を歩く姿には違和感がない。まるで、彼女がいる場所こそが自然と中心になってしまうようだった。経営者たちでさえ、彼女の振る舞いを称賛していた。会場の端で、その様子をじっと見つめる男がいた。加津也は拳をゆっくりと握りしめる。「......あの女、俺から離れた途端に、ずいぶんといい気になってるじゃないか」その装いを見れば、以前のような貧乏学生には到底見えない。こんな高級な服、一体どこで手に入れた?そばにいた初芽が、心配そうな顔で口を開く。「こんな服を着られるなんて、おかしいと思わない?もしかして、レンタルしたのかも」その言葉を聞いた瞬間、加津也の表情が和らいだ。初芽を満足げに見つめる。「確かに」そう考えれば納得がいく。初芽はさらに話を続ける。「こんな大事な場でレンタルのドレスを着てるなんて、バレたらどうなると思う?こんな人が、まともにプロジェクトを取れるのかしら?」加津也もそれは分かっていた。だが、今ここで紗雪に言いがかりをつけるつもりはなかった。本番は、もっと後だ。彼はスマホを取り出し、届いたメッセージを確認する。椎名グループの幹部から、「手はずは整った」との報告が来ていた。加津也の唇がゆっくりと吊り上がる。「紗雪、お前がどこまで余裕でいられるか、楽しみだ」今回の件が終われば、このプロジェクトは二度と手に入らないだろう。一方、紗雪はそんなこととはつゆ知らず、椎名グループの幹部たちと今回の案件について話し合っていた。彼女の意見は高く評価され、周囲の反応は上々だった。「二川さん、こんなに若いのに、視点と洞察力が本当に素晴らしいですね」「まったくだ。今の時代は、君たち若い世代のものだよ」紗雪は柔らかく微笑む。「光栄です。まだまだ勉強中ですので、ぜひご指導ください」その謙虚な姿勢がさらに好印象を与えた。若さに驕ることなく、しっかりと礼を尽くす。周囲の評価はますます上がっていった。その時、ステージに司会者が上がり、声を張った。「えー、皆様、お時間ですので。そろそろお席にお戻りください」会場にいた者たちは、
紗雪に気づいた人々が、次々と彼女に声をかけてきた。彼女は微かに頷くだけだった。その頷きの角度すら計算されたように完璧だった。上流の人々の間を歩く姿には違和感がない。まるで、彼女がいる場所こそが自然と中心になってしまうようだった。経営者たちでさえ、彼女の振る舞いを称賛していた。会場の端で、その様子をじっと見つめる男がいた。加津也は拳をゆっくりと握りしめる。「......あの女、俺から離れた途端に、ずいぶんといい気になってるじゃないか」その装いを見れば、以前のような貧乏学生には到底見えない。こんな高級な服、一体どこで手に入れた?そばにいた初芽が、心配そうな顔で口を開く。「こんな服を着られるなんて、おかしいと思わない?もしかして、レンタルしたのかも」その言葉を聞いた瞬間、加津也の表情が和らいだ。初芽を満足げに見つめる。「確かに」そう考えれば納得がいく。初芽はさらに話を続ける。「こんな大事な場でレンタルのドレスを着てるなんて、バレたらどうなると思う?こんな人が、まともにプロジェクトを取れるのかしら?」加津也もそれは分かっていた。だが、今ここで紗雪に言いがかりをつけるつもりはなかった。本番は、もっと後だ。彼はスマホを取り出し、届いたメッセージを確認する。椎名グループの幹部から、「手はずは整った」との報告が来ていた。加津也の唇がゆっくりと吊り上がる。「紗雪、お前がどこまで余裕でいられるか、楽しみだ」今回の件が終われば、このプロジェクトは二度と手に入らないだろう。一方、紗雪はそんなこととはつゆ知らず、椎名グループの幹部たちと今回の案件について話し合っていた。彼女の意見は高く評価され、周囲の反応は上々だった。「二川さん、こんなに若いのに、視点と洞察力が本当に素晴らしいですね」「まったくだ。今の時代は、君たち若い世代のものだよ」紗雪は柔らかく微笑む。「光栄です。まだまだ勉強中ですので、ぜひご指導ください」その謙虚な姿勢がさらに好印象を与えた。若さに驕ることなく、しっかりと礼を尽くす。周囲の評価はますます上がっていった。その時、ステージに司会者が上がり、声を張った。「えー、皆様、お時間ですので。そろそろお席にお戻りください」会場にいた者たちは、
二川グループを出ると、紗雪は目を細めた。陽射しは暖かく降り注いでいるのに、心の奥底はひやりと冷え切っていた。証拠は揃っているというのに、それでも美月は信じようとしなかった。紗雪は挫折感を覚えた。自分の言葉が、母親にとってこれほどまでに信憑性のないものだったとは。ならば、一人で調べるしかない。どんなに隠されていようと、必ず真相を突き止めてみせる。千の言葉を並べるより、一つの確かな証拠を突きつけた方が、よほど説得力があると分かった。そう考え、私立探偵に連絡を取ろうとしたその時。美月から電話がかかってきた。一瞬、出るべきかどうか迷ったが、結局心が揺らぐ。もしかしたら、母親の気が変わったのかもしれない。指が受話ボタンに触れた。しかし、言葉を発する間もなく、美月の焦った声が耳に飛び込んできた。「紗雪、何をするつもりでも、今は一旦やめなさい」紗雪の目が冷え込み、完全に失望しきった表情になる。反論しようとしたその時。まるで彼女の考えを読んだかのように、美月が続けた。「私を責めてもいいわ。でもこれは由々しき事態なの」「椎名のプロジェクトの入札会が、予定より前倒しになった。さっき椎名グループが発表したばかりの情報よ。すぐにあなたに知らせなければと思って」紗雪はゆっくりと拳を握りしめ、深呼吸を数回繰り返す。わずかな時間で、気持ちを切り替えた。「分かりました。そちらを優先します」美月は小さく息をついた。「私たちは家族よ。今はプロジェクトがかかっているのだから、足並みを揃えて外部と戦わないと」「......ええ」紗雪はそれ以上何も言わず、一歩引いた。この件は、ひとまず棚上げするしかない。電話を切ると、彼女はもはや他のことを考える余裕もなかった。椎名プロジェクト。彼女にとって、それはまるで自分の子どものような存在だ。何があっても、この企画を台無しにするわけにはいかない。一瞬のうちに決断を下し、二川グループへ戻るべく足を踏み出した。入札会の準備へ。......一方、緒莉は、社内に配置していた手下から「紗雪が会長室を訪れた」との報告を受けた。彼女は持っていたスマホを「ガンッ!」と床に投げつける。バキッと無惨な音を立て、画面が粉々に砕け散った。緒莉は理解していた。
円はこんな紗雪を見るのが初めてで、少し怯えた様子で小さく頷いた。「うん......すごく慌ててる感じだったし、家の事情じゃないかな。そうじゃなかったら、あんなに急ぐ理由がないよ......」紗雪はそれを聞いても、ただ冷笑するだけで、円の言葉には答えなかった。柴田がなぜ退職したのか、彼女には分かりきっている。彼女と顔を合わせるのが気まずかっただけのこと。それに、彼女と緒莉の間に挟まれて、どちらにも都合のいい態度を取るのは難しかったのだろう。紗雪は考えをまとめると、二人の社長と交わした契約書を手に持ち、足早に会長室へ向かった。ドアをノックし、中から声が聞こえてから、扉を押して中へ入る。部屋に入ると、美月がチェーン付きの眼鏡をかけ、洗練された雰囲気を漂わせていた。紗雪は恭しく口を開いた。「会長」美月は顔を上げ、来たのが紗雪だと分かると、少し驚いたようだった。「珍しいわね。どうしたの?」会社に勤めてこれだけの時間が経っているのに、紗雪が彼女を訪ねてくることはほとんどなかった。この娘には厳しく接してきたが、それは彼女を早く成長させたかったからだ。温室で甘やかされた花にはしたくなかった。「会長、お話があります。この契約書を見てください」紗雪は契約書を美月に差し出した。美月はじっくりと目を通し、それが今の二川グループにとって重要なものだとすぐに理解した。さらに、通常よりも5%も安く契約を結んでいる。その瞬間、美月の表情には隠しきれない称賛の色が浮かんだ。「よくやったわね。今回の件は見事だったわ」叱るべきときは厳しくするが、褒めるべきときは惜しみなく称賛を与えるのが美月のやり方だった。だが、紗雪は冷静に口を開いた。「会長、実はお願いがあって来ました」その言葉に、美月の笑顔が少し引き締まる。紗雪の表情が真剣だったため、ただ事ではないと察した。この子は、いつも自分で問題を解決しようとする性格だった。たとえ何かあっても、他人に頼ることはほとんどない。そんな彼女が「お願い」を口にするのは、今回が初めてだった。「続けて」紗雪は昨日の出来事を包み隠さず、すべて話した。美月の顔色がみるみるうちに険しくなっていったが、思わず緒莉を庇うような言葉が口をついて出た。「そんなは
紗雪は小さく「うん」と返事をし、続けて尋ねた。「これは何?」「ヘジャンククだ」京弥は紗雪の隣に腰を下ろし、自然と彼女を広い肩へと寄りかからせる。「昨日あんなに飲んだんだから、今日の朝はきっと頭が痛いだろうと思ってな。それで、ヘジャンククを作ったんだ」「少しでも飲めば、楽になるよ」紗雪は目の前の橙色の液体を見つめながら、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。視線をそっと横に移すと、精緻な横顔と高く通った鼻筋が目に入る。不意に心臓が一拍、跳ぶのを忘れたかのような感覚に襲われた。結婚相手として見るならば、京弥は申し分ない存在だった。少なくとも、以前の加津也と比べれば、はるかに優れているのは間違いない。京弥は紗雪がぼんやりとしているのを見て、首を傾げた。「どうしたの?熱いうちに飲まないと効果がないぞ」紗雪はハッとして、小さく頷いた。そっと唇を開き、京弥にスープを飲ませてもらう。最初の一口を含んだ瞬間、驚きが走った。見た目からして苦いと思っていたのに、まさかのオレンジの味がしたのだ。京弥は優しく微笑んだ。「君がオレンジ好きなの知ってたからな。ネットでレシピを探して作ってみた」紗雪の耳が一瞬で真っ赤になった。なんだか気恥ずかしくなって、そっぽを向いた。「もう、自分で飲むから......」顔から首筋まで、まるで茹で上がったエビのように真っ赤だった。その姿があまりにも可愛くて、京弥はつい、指先で彼女の耳を軽く触れた。紗雪は羞恥と怒りに満ちた顔で耳を押さえ、非難の眼差しを向けた。「何するのよ!」「いや、耳が赤いなーって」紗雪はもう京弥を見ずに、彼の手から椀プを奪った。「自分で飲むから」そう言って、一気にスープを飲み干す。その間、京弥は何も言わず、穏やかな表情で見守っていた。スープを飲み終えると、紗雪の体はだいぶ楽になり、力が戻ってきた。彼女は布団をめくり、起き上がるとすぐに仕事へ行く準備を始めた。「今日は休まないのか?」京弥はまだ完全に酒が抜けていないのではないかと心配そうに尋ねる。紗雪は首を横に振った。「大丈夫、昨日のことを思い出したの」「会社に戻って、片付けることがあるの。家のこともあるし。ここで時間を無駄にはできないわ」京弥は紗雪を引き
京弥は紗雪の様子がおかしいことに気づいていた。だからこそ、マネージャーが去るのを止めることはなかった。今は、何よりも紗雪の体調が最優先だった。「大丈夫か?」京弥はわずかに身を屈め、優しく尋ねた。紗雪は首を振り、平静を装った。「大丈夫。ちょっと飲みすぎただけ」そう言いながら、京弥の手を押しのけ、外へ向かって歩き出した。しかし、たった二歩踏み出したところで、体がふらつき、そのまま倒れそうになった。幸いにも、京弥がすぐに支えた。その様子を見て、京弥はすぐに分かった。紗雪はただ無理をしているだけだと。次の瞬間、彼は紗雪の腰を抱き上げ、そのまま腕の中に包み込んだ。突然の出来事に、紗雪は思わず小さく声を上げた。「ちょ、ちょっと!何してるの?」「当然、家に帰るんだ」京弥はそう言いながら、紗雪を助手席に優しく座らせ、丁寧にシートベルトを締めてやった。彼女の鼻先をかすめると、強い酒の匂いが感じられた。顔を覗き込むと、ほのかに上気した頬が目に入る。京弥は思わず手を伸ばし、彼女の小さく整った鼻を軽くつついた。「この飲んべえ。俺がいない時は、こんな飲み方はダメだぞ」紗雪は不機嫌そうに小さく唸り、顔をそむけた。だが不思議なことに、京弥のそばにいると、どこか安心できる気がした。何も考えず、ただ家に帰ればいいという気楽さがあった。その様子を見て、京弥はくすりと笑い、運転席へと回った。そして車を発進させ、コウリョウを後にした。実は、今日紗雪と会ったのは偶然ではなかった。彼もまた、この場所で商談があったのだ。彼女のいる個室を突き止めたのも、入り口で落ち着かずに歩き回る柴田を見かけたからだった。嫌な予感がして、匠に軽く探りを入れさせたところ、柴田はあっさりと口を割れた。本当に、間に合ってよかった。同じ頃、緒莉のもとにも報せが届いた。計画は失敗に終わった、と。「お嬢様、こんなことはもうご勘弁を......」柴田の声は明らかに怯えていた。緒莉は眉をひそめた。「どういう意味?」柴田の脳裏には、早川社長と松本社長すらも震え上がらせたあの男の姿が浮かんでいた。彼の正体は分からないが、ただならぬ人物であることだけは確かだった。「お嬢様、これ以上聞かないでください。もうこんなことには関
京弥は気だるげに言った。「そういうことなら、この商談は......」最後まで言葉を続けなかったが、早川社長と松本社長はすぐに察した。二人はすぐに紗雪を見て、「二川さん、先ほどおっしゃっていた条件、承諾します。契約書はお持ちですか?今すぐにでもサインしましょう」と言った。「あ、はい」紗雪はまだ少し夢の中にいるような気分だった。契約書を手にした瞬間でさえ、現実味がなかった。その後の食事は、紗雪にとっては心地よいものになったが、早川社長と松本社長にとっては、京弥の圧にさらされ、味も何もない食事となった。だが、京弥は一切気にしていなかった。彼が今日ここに来た目的はただ一つ――紗雪の後ろ盾となること。彼の妻だというのに、彼でさえ傷つけるのを惜しむ存在を、こんな小物どもに好き勝手されるなど、到底許せるはずがなかった。そう考えながら、京弥は匠にメッセージを送った。「早川家と松本家を調べて、少しトラブルを作ってやれ」匠は首を傾げつつも、命令通り動いた。だが、早川家や松本家とは特に深い関わりがあるわけでもないのに、なぜ急に社長は彼らを狙うのだろうか。まあ、ボスの考えを詮索しても仕方ない。紗雪は、店を出るころになってようやく実感が湧いてきた。京弥が現れてから、驚くほど物事がスムーズに進んでしまったからだ。彼に腕を抱かれながら店を出ると、ようやく彼女は口を開いた。「どうしてここに?」ここは個室なのに、どうやって彼女の居場所を知ったの?そんな疑問を抱く紗雪に対し、京弥は顎をわずかにしゃくり、示すように視線を向けた。紗雪がそちらを見ると、壁際に立つ柴田の姿があった。彼は落ち着かない様子で、まるで逃げ出したいかのように身を縮こまらせていた。紗雪の目が鋭く細められる。この食事会を段取りしたのは柴田さんのはずなのに、席についてからずっと姿を見せなかった。「これはこれは、柴田さんじゃありませんか」紗雪は皮肉げに言った。「もう帰ったのかと思っていましたけど、まだここにいらしたんですね」「......っ」柴田さんは怯えたように京弥を一瞥し、覚悟を決めたように目をつむると、一息に言った。「お察しの通りですが、これは私の意思ではありません」「どういう意味?」紗雪の目がさらに
紗雪は口を閉ざし、かすかに微笑んだ、「はい、ご厚意に甘えて」「本日お邪魔したのは、ぜひとも利益をもう5パーセント上乗せしていただきたいからです、これが二川グループとしてご提示できる最低ラインです」早川社長と松本社長は視線を交わした、二川グループの狙いはこれだったのか。このタイミングで椎名グループのプロジェクトがある以上、彼らの商品はどこへ行っても引く手あまただ、売上について心配する必要はない。あとは、この案件をどこが勝ち取るかだけの問題だ。現状、二川グループには十分な勝算がある、もし本当にこの契約を手に入れれば、利益を譲ることもやぶさかではない。ただし、酒の席はまた別の話だ。「二川さん、商談というのは、酒が回ってからが本番というものです」早川社長は意味ありげな表情で、さも不満げに言った。松本社長もすかさず続ける、「そうですよ、まだまだこれからじゃないですか、まずは飲みましょう」「存分に飲んでこそ、腹を割った話ができるというものですよ」紗雪の目がかすかに陰り、唇に浮かんでいた微笑がほんの少し薄れた。彼女は思い出した、以前からこの二人が女好きで有名だという話を聞いたことがある。しかし、仕方がない、どちらの会社も鳴り城のトップ企業だ。彼らの商品は、二川グループにとっても不可欠なものだ。「おっしゃる通りですね。では......」そう言って、紗雪は盃を仰いで飲み干した、飲み終えると、盃を逆さにして見せ、確かに空になったことを示した。その様子を見て、松本社長と早川社長の目には、さらに愉悦の色が濃く浮かんだ。「二川さんは実に潔い方ですね」「ああ、二川グループの方々が皆、二川さんのように話の分かる方なら、とうにこの商談は決まっていたでしょうに」「そうそう、こんな面倒な手続きなんて、必要なかったかもしれませんよ」二人が掛け合いのように話すのを聞きながら、紗雪はすべてを察した。これはまさに鴻門の会――つまり、罠だった。マネージャーが席を立って、すでに十数分経っているのに、まだ戻ってこない、それが何よりの証拠だった。紗雪の瞳が冷たく沈み、脳内で脱出の手を考えていた、そんなとき。「ドンッ!」個室の扉が勢いよく押し開けられた。半ば酔いの滲んだ目を薄く開くと、そこにはすらりと
另一方、マネージャーはうつむきながらオフィスに戻り、緒莉に電話をかけて進捗を報告した。「お嬢様、ご指示の件、無事に手配しました」「よくやったわ」向こうから緒莉の満足げな声が聞こえてきた。仕事が終わると、マネージャーは車のキーを手に取り、紗雪を連れてレストラン・コウリョウへ向かった。個室に入ると、すでに二人の腹の出た男たちが待っていた。「早川社長、松本社長、ご無沙汰しております、お変わりなく」マネージャーは笑顔で近づき挨拶を交わした。二人の社長は椅子に座ったまま、ふんぞり返った態度でマネージャーに杯を掲げた。「柴田さんは最近、椎名グループのプロジェクトの準備で忙しいと聞いているよ、忙しいのは理解できるがね」マネージャーは笑って手を振り、紗雪に目配せしながら席に着くよう促した。「そんなことはありません、私の招待が行き届かず、もっとお二人とお付き合いすべきでした」それぞれがそれぞれの思惑を抱えながらも、こうした場ではお世辞を交わし合う。いずれにせよ、ビジネスの世界は駆け引きばかりだ。紗雪は松本社長の左側に座り、まるで飾りのように静かにしていた。マネージャーは彼女を一瞥しながら話を切り出した。「お二人にご紹介します」「こちらは当社の二川紗雪、椎名プロジェクトのメインの担当者です」その言葉を聞いた二人の社長は、紗雪に視線を向けた。そして、彼女の姿を目にした瞬間、二人の目が合い、一瞬のうちに互いの意図を察した。「柴田さん、ずるいですね、こんなに美しくて優秀な社員がいるのに、我々は今日初めて知るなんて」「そうだよ、柴田さん、これは罰として一杯飲んでもらわないと」二人は次々とマネージャーを追い詰めるように言葉を繰り出した。マネージャーは彼らの性格をよく理解している。こういう場で取引を進める人間たちだ。最後には苦笑しながら杯を手に取った、「お二人がそうおっしゃるなら、ありがたくいただきますよ」そう言いながら、マネージャーは杯を一気に飲み干した。彼があまりにあっさりと飲み干したので、二人の社長は物足りなさそうに舌打ちし、次の標的を紗雪へと向けた。「二川さんはお若いのに、すでに椎名グループのプロジェクトを担当されているなんて、すごいですね」「私の部下たちより、ずっと優秀
前回の対面以来、次女と一度も会っていない。それが、加津也を焦らせた。部下たちに二川家の次女の行方を探らせても、まったく情報が入ってこない。「使えない連中ばっかりだな」苛立ちを隠せず、思わず悪態をつく。部屋の中を行ったり来たりしながら、最近起こったことを整理する。その中で、紗雪の存在が、やけに引っかかった。付き合っていた頃の紗雪は、あれほど従順に振る舞っていたのに、別れた途端、本性を露わにし始めた。「紗雪、このクソ女が!」「いいだろう。お前がその気なら、俺も遠慮しない」「最後に笑うのがどっちか、見せてやるよ」スマホを強く握りしめたせいで、手の甲に青筋が浮かぶ。加津也の脳裏には、一つの策がよぎった。椎名と親しい、とある人物、そいつは、会社の中でもそれなりの地位にいる。彼を利用すれば、紗雪に痛い目を見せることができる。「このプロジェクトだけは、絶対に渡さない」すぐさま、その人物に電話をかけた。内容は単純、紗雪が提出した投票書を、白紙とすり替えろというものだった。電話の向こうの相手は、一瞬ためらった。「......いや、それはさすがにまずくないか?」「温泉開発のプロジェクトは、うちの社長がかなり重視してる案件なんだぞ」「こんなことしてバレたら、俺の首が飛ぶよ......」だが、加津也は、冷静な声で言い放つ。「心配するな。あいつはただの貧乏学生だ。二川グループに実習生として入ってるだけで、大したコネもない」「仮に騒がれても、会社のトップ層まで届くことはない」その言葉を聞いた相手は、ようやく安心したようだ。「なら、まあ、やってやるよ」その一言を聞いた瞬間、加津也の目に宿っていた険しい光が、ほんの少しだけ和らいだ。これでいい。紗雪、お前に勝ち目はない。......一方、二川グループ。紗雪は、椎名グループの過去のプロジェクトデータを研究していた。彼らが求めるスタイルをより深く理解するために。時間をかけて分析するうちに、確かな手応えを感じ始める。円は、そんな彼女の様子を一日中そっと見守っていた。あまりにも真剣に取り組んでいたので、邪魔するのをためらっていたのだ。日が傾き、退勤時間が近づく頃、紗雪はゆっくりと背伸びをした。その小