里香は小さなクッキーを袋に入れながら、「時間がないから、保存がきいて味もそんなに悪くならないものを少しだけ作ったよ。道中で食べてね」と言った。かおるはそれを聞くと、目をぱちぱちさせて、すぐに走り寄って彼女に抱きついた。「里香ちゃん、本当に優しいね!一緒に逃げちゃおうか!」里香は笑って、「さあ、早く顔を洗ってね。郊外まで送るよ」と答えた。かおるは明日の朝のバスに乗らないといけないので、今晩から待機する必要があった。けれども、かおるは首を横に振って、「大丈夫、もう送り迎えしてくれる人を頼んであるから。里香は家でゆっくり休んで。それに私、大丈夫だから」と言った。しかし、里香は「いや、私がちゃんと送らないと心配で仕方ないよ」と言い返した。かおるは里香の真剣な表情を見て、彼女がきっと覚悟を決めていることを理解し、もう一度抱きついた。「うぅ、やっぱり里香ちゃんと離れるのが寂しいよ......」里香はかおるを洗面所に連れていき、洗顔を見守る一方で、持ち物の整理を確認した。食べ物、飲み物、簡単な洗面道具、すべて使い捨てのもの。うん、これで十分かな。準備が終わると、二人はもう少し一緒に過ごし、午前2時になってようやく出発した。深夜の冬木は静まり返り、街には車もほとんどなく、歩行者もまったくいなかった。里香は車を郊外に向けて運転し、かおるは横で未来への憧れを語り続けていた。同時に、雅之のもとに里香が外出したという報がすぐに届いた。彼は眉間を指で揉みながら時間を確認した。こんな夜遅くに、一体彼女はどこに行くんだ?しかも、かおるも一緒だ。雅之の目には困惑の色が浮かび、すぐさま月宮に電話をかけた。「もしもし?」電話がつながると、いきなり重低音の音楽が流れ込んできた。雅之は目を細めて、「かおるとは最近どうだ?」と尋ねた。月宮は聞くとすぐに笑い、「順調だよ」雅之は「そうか。だけどさっき、里香がかおるを連れて車で郊外に向かったらしいよ」と続けた。「何だって?」月宮の側は一瞬静まり、言葉には苛立ちがにじみ出ていた。「まさか逃げた?」雅之は冷静な口調で「さあな」と答えた。月宮は「わかった、長話はよそう。とりあえず切る」と言い、電話を切った。雅之は立ち上がり、ベランダに出ると漆黒の夜に覆われた景色を見つめ、そ
かおるは全然寝付けず、ベッドに横たわりながら、その身が緊張と興奮でいっぱいだった。もうすぐ冬木を離れ、あの嫌な月宮からも離れると思うと、どうしてもワクワクしてしまう。もう待ちきれない。「ドンドンドン!」その時、玄関から突然大きなノックの音が響いた。かおるは驚いて飛び起き、外に目を向けた。部屋の中の女の子も目を覚まし、「何があったの?」と尋ねた。かおるの胸に不安の影が一瞬よぎる。まさか、追いついてきた? こんなに早いの?彼女はベッドを降りると、「ちょっと見てくるから、君たちはここで大人しくしていて」と言った。女の子は心配そうに「かおる、大丈夫かな......?」と呟いた。かおるは頷き、「大丈夫、何も起こらないよ」と落ち着かせてから、服をまとい、家を出た。「誰?」と慎重に尋ねると、「かおる、私よ。早く出てきて!」玄関から里香の声が響いてきた。かおるは一瞬驚き、急いでドアを開けた。「里香ちゃん、どうしてここに?」もう家に戻っているはずじゃないの?時間を計算すれば、今頃はカエデビルについているはずなのでは?里香は彼女の手首を掴み、焦った表情で言った。「月宮の車を見たの。彼が君を見つけた。今すぐ逃げるよ!」その言葉に、かおるは呆然とした。「見つけたって?どうやって私を追いかけてきたの?」自分の行動は完璧に隠していたはずなのに、こんな短期間で見つけられるなんて、あり得るのか?里香は言った。「そんなこと考える場合じゃない。今すぐ逃げないと!」「そうだね、わかった。ちょっと待って、荷物取ってくる」かおるは急いで部屋に戻り、女の子に何か言ってから、リュックを持って外に駆け出した。かおるが車に乗り込むと、里香はエンジンをかけ、車を前に走らせた。かおるは恐る恐る後ろを一瞥し、見た瞬間、目を見開いた。「里香ちゃん、たぶん私たち逃げ切れないよ」里香も後方の車のライトに気付くと、表情が一気に険しくなった。どうしてこんなことに?どこで手違いがあったというの?どうして月宮がこんなに早く来れるの?背後の車が追いかけてくる中、里香はアクセルを床まで踏み込み、前へと車を飛ばした。かおるは里香の表情を見て、不安そうに言った。「里香、もう見つかってるし、たぶん逃げられないよ......もう諦めたほうがいいんじゃない?
しかし、自分は月宮の何者でもなかった。車が停まると、里香の瞳にあった輝きが少しずつ消えていった。「かおる、彼のこと好きなの?」里香が小さな声で尋ねた。かおるは、「好きじゃない」と答えた。月宮に狙われた回数が多すぎて、もう数えきれない。たまたま何回か関係を持っただけで、どうして好きになれるだろうか。里香は短く返事をし、そのまま車のドアを開けて降りた。「里香ちゃん、何をする気なの?」かおるはそれを見て、慌てて後を追い車から降りた。その時、前後が数台の車に囲まれ、明るい車のライトがその小さな空間を照らしていた。月宮が車のドアを勢いよく閉めると、里香の車から降りてきたかおるに目を留め、笑みを浮かべた。彼は大股でこちらに向かってくる。周囲には危険な雰囲気が漂っていた。里香はかおるを自分の背後に引き寄せ、静かな目で月宮を見つめた。「月宮さん、一体何のご用ですか?」月宮は白いシャツを着ていて、襟元は開いている。体には酒の匂いが染み付いており、明らかにバーか酒席から来た様子だった。彼の身からはだらしないが独特の魅力が漂っており、口元の笑みはどこか無頓着さを帯びていた。「かおるに会いに来た」月宮は手を上げ、里香の後ろに隠れるかおるを指さした。里香は言った。「お二人はあまり親しくないように思えますけど、こんな夜中に大げさに来た理由は何ですか?」「親しくない?」月宮は首を傾け、かおるに目を向けた。「お前から彼女に教えてやれ、俺たち親しいのかどうか」かおるはもう逃げ切れないことを悟り、里香の背後から歩み出て、平然とした表情で月宮に向かって言った。「お前、もしかして本気になったんじゃないでしょうね?」「何だと?」月宮は自分の耳を疑った。こんな状況で、まだ彼女がこんなことを言うなんて。かおるはさらに続けた。「ただ数回遊んだだけじゃない。なんでそんなにしつこく追いかけてくるの?私がお金を払わなかったから?」月宮の顔に浮かんでいた笑みが、さらに危険な色を帯びた。「かおる、今何て言った?」かおるは眉を上げた。「どうやらしつこいだけじゃなく、耳も悪いみたいね。病院に行って専門医に診てもらうことをお勧めするわ」「いいだろう!」月宮はとうとう理解した。かおるは本気で自分を恐れていないらしい。それどころか、挑発してく
「お前!」里香の表情が一瞬で険しくなった。月宮の態度が、かおるをまるでおもちゃ扱いしているように見えて、怒りが湧き上がった。こんな状況で、かおるを月宮に渡すわけにはいかない。「もういいでしょ。離れて。かおるを連れて行く権利なんて、あなたにはないわ。それに、彼女の自由を奪うなんて、そんなこと許されるはずないでしょう?」里香は冷たく言い放った。月宮は眉をひそめ、鼻で笑うように言った。「小松さん、雅之の顔を立てて、こうやって優しく言ってるんだ。お前、まさか自分がそんなに特別な存在だとか勘違いしてないか?」それでも里香の表情は崩れない。むしろ、さらに冷ややかさを増していた。「あの人の顔なんか、立てる必要ないわ。失うものなんてもう何もないもの。どうしてもかおるを連れて行きたいなら、私を踏み越えてみなさいよ」里香の瞳には、固い決意が宿っていた。絶対にかおるを守る――彼女は自分にとって、たった一人の大切な家族なんだから。その時、かおるが月宮の手に思いっきり噛み付いた。「いっ……!」月宮は痛みに顔をしかめ、思わずかおるを放した。かおるはその隙にさっと里香の元へ駆け寄り、「里香ちゃん、わたし、絶対にあんなやつには負けないから!」と震えながら叫んだ。里香は頷き、かおるを守るように立ちはだかった。「そうよ。わたしが絶対に守るから」感極まったかおるは、泣き出しそうな顔で里香にすがりつき、今にも全てを捧げたいような表情をしていた。一方で月宮は、女子同士の絆が深まった二人の姿を見て明らかに苛立っていた。けれど、里香に直接手を出すことはできない。何しろ、彼女はまだ雅之の妻なのだから。月宮は皮肉な笑みを浮かべながら、冷たい視線でかおるを見た。「まあせいぜい祈ってろ。小松さんがいつまでもお前のそばにいられるといいな」そう吐き捨てると、月宮は車に乗り込み、そのまま走り去っていった。月宮の車が遠ざかるのを見届けると、かおるは緊張の糸がぷつりと切れたように、気まずそうに笑った。「やれやれ……こんなクズ男に目をつけられるなんてね」里香はかおるの手をぎゅっと握り、そのまま車に乗り込んだ。車内ではしばらく無言のままだったが、やがて里香が静かに口を開いた。「うちに来ない?一緒に住もう」かおるは少し迷った様子だったが、首を横に振った。「ありがとう。でも
そうだったのか?ただの勘違いだったのか?里香:「わかった。ゆっくり休んでね。今日は出かけるつもりないから」忠:「わかりました」里香は軽く身支度を整えた後、ベッドに横になるも、頭の中はまだ整理がつかない状態だった。それでも身体は疲れ切っており、あっという間に眠りに落ちた。目が覚めたのは、すでに午後になってからだった。スマホを手に取り確認すると、かおるから大量のメッセージが届いていた。その大半は、彼女の逃亡計画についての話だった。里香は簡単に返事を打ち、ベッドを出て顔を洗った。それから台所に向かい、ご飯を作り始めた。そんな時、突然インターホンが鳴り響いた。この時間に、誰が来るというのか?里香は一瞬表情を硬くし、玄関に向かった。ドアの覗き穴から外を覗くと、その瞬間、彼女の目が冷たく光った。何も言わずにそのまま台所に戻り、料理を続けた。しばらくすると、雅之が再びドアをノックし始めた。その様子はやけに辛抱強かった。30分ほど経った頃、ようやくドアが開いた。冷たい目つきの里香が立っていて、手には包丁を握っている。「何の用?」雅之はちらりと彼女の手元を見てから、再び目を合わせた。その目には微塵の恐れもなかった。「用がなければ、会いに来ちゃダメなのか?」「ダメに決まってるでしょ」里香は淡々と答え、ドアを閉めようとした。その瞬間、雅之がドアを押さえ、一歩踏み込んできた。驚いた里香は、咄嗟に包丁を持ち上げて彼に向けた。「入ってこないで!」雅之は小さく笑い、彼女の反応を意にも介さず前へ進んだ。「お前が僕を刺せるわけがない」その言葉にカッとなった里香は、勢いよく包丁を振り下ろそうとした。けれども、雅之は避ける素振りすら見せず、静かに彼女を見つめていた。包丁が彼の肩に届く寸前、里香の手がピタリと止まり、小さく震え始めた。「この……バカ野郎!」まさか本当に避ける気がないなんて……死ぬのが怖くないのか?雅之は彼女の手首を掴み、包丁を取り上げてそっと棚に置いた。低く静かな声で言った。「ただ伝えたかっただけだ。祐介には近づくな。あいつは見た目どおりの人間じゃない」「は?」里香は呆れたように鼻で笑い、腕を引き戻した。「私たち、もう離婚したよね?私が誰と付き合おうが、誰と距離を置こうが、あなたには関係ないで
里香は警戒した目で雅之を睨みつけていた。雅之の深い黒い瞳は、まるで彼女をすでに獲物と見定めた捕食者のように鋭く光っている。一瞬、過去の嫌な記憶が脳裏に蘇り、里香は無意識に歯を食いしばった。そして、咄嗟に包丁を手に取り、自分の首に押し当てた。「確かに、あなたを傷つけることはできない。でも、自分を傷つけるのは簡単よ。雅之、あと一歩でも近づいたら、この場で自分の首を切るわ。死体を前にして、まだそんなことが言えるのか見せてもらおうじゃない!」雅之の足がピタリと止まった。それまで浮かべていた余裕の笑みが消え、険しい顔つきで彼女を睨み返した。「やめろ、その包丁を下ろせ!」「嫌よ!」里香は包丁をさらに首に近づけ、鋭く言い放った。「出て行って!ここにあなたが来る場所なんてないの!」しかし雅之は一歩も動かず、じっと暗い目で彼女を見つめ続けた。その視線にさらに追い詰められるような気がして、里香は再び包丁を強く押し付けた。肌に冷たい刃が触れ、スッと浅い傷ができた。白い首筋に赤い筋が浮かび上がる。その瞬間、雅之の目が一瞬だけ揺れた。次の瞬間、彼は一気に間合いを詰め、包丁を奪い取った。その動きがあまりにも素早く、里香は反応すらできなかった。包丁は床に放り投げられ、カラン、と乾いた音を立てた。「バカな真似をするな!」雅之は里香の傷口を見下ろし、低く冷たい声で吐き捨てた。「僕の目の前で自殺なんて、いい度胸だな」「離してよ!触らないで!」里香は必死にもがき、包丁を取り返そうとした。その必死さを目にして、雅之の心の奥に苛立ちと恐れが混ざった奇妙な感情が生まれた。「暴れるな!お前が動かなければ僕も何もしない!」雅之は強い口調で言い放つが、里香の体は小刻みに震えている。首の傷がヒリヒリと痛み、頭の片隅で「このまま放っておいたら感染するかもしれない」という考えがちらついた。雅之は彼女の細い手首を掴み、そのまま玄関へと向かった。「どこへ連れて行くつもり?」里香は不安げに問いかけた。「病院だ」雅之は短く答えた。「嫌よ!私は大丈夫だから放して!」里香が激しく抵抗すると、雅之は振り返り、険しい顔で睨みつけた。「これ以上暴れて血が流れたら、変なウイルスでも入って取り返しがつかなくなるぞ。そうなったら泣くのはお前だ!」その言葉に里香は言い返せなくなり
「月宮がどうしてこんなに早く君たちを見つけられたと思う?」その言葉を耳にした途端、里香の足はピタリと止まった。彼女はゆっくりと振り返り、信じられない表情で顔を上げた。「あなたなの?」雅之は唇を引き上げ、笑みを浮かべた。「そうだよ」彼の指先にはタバコが挟まっており、ゆっくりと里香の前に近づいてきた。里香の驚きで青ざめた顔をじっと見つめ、彼は手を伸ばしてその顔に触れた。語調は低く、まるで恋人同士が囁き合うかのようだが、発せられた言葉は恐ろしく残酷だった。「僕がお前を連れていく奴を逃がすと思ったか?里香、かおるは逃げられない。お前も同じだ」里香は怒りで我慢の限界だった。手を上げて雅之を殴ろうとしたが、彼はあっさりとそれを止めた。雅之は里香の手首を簡単に掴み、怒りに満ちた彼女の目を見つめた。「僕たちの関係はそんな簡単に終わらないんだよ。どちらか死ぬまで、永遠に続くのさ」里香は目の前の状況にさらに怒りが膨れ上がった。彼女の息遣いは震え、全身が震えていた。なんてことだ!まさか、雅之が裏で手を引いていたなんて!どうしてこんなことをするの?どうしてこんなにもひどいことができるの?かおるはもうすぐ自由になるはずだったのに!あと少しで、かおるは自分と同じ運命にならないように、逃れられるはずだったのに!あと少し、あとほんの少しで――。里香にとって、かおるは希望、飛び立てる自由の象徴だったのに、雅之がその羽を自らの手で折ってしまった。なんて酷い男なの?その瞬間、里香は自分の感情を制御することができなかった。涙が目に溜まり、今にも溢れそうだった。「なんでこんなことをするの?どうしてこうするの?」涙がポタリとこぼれ、一筋の熱が雅之の心を貫いた。まるで灼けるような痛みが走った。雅之は彼女の頬に落ちた涙を拭い、沈んだ目で見つめながら、静かに語りかけた。「だって、僕はお前を手放したくない。ずっと僕のそばにいてくれ、里香。僕はもともと善人じゃないんだよ。お前が僕に期待しすぎてただけさ。そりゃ、失望するだけだ」里香は雅之を強く押しのけ、必死に走り出した。これは、神様が彼女をからかうために仕掛けた大きな冗談なのか?雅之と離婚して、彼との関係がもう終わったはずだと思っていた。もう彼との間に何のつながりもないと。でも、雅之は最初から彼
雅之の目が一瞬で冷たく沈んだ。彼女の蒼白な顔を見つめ、呟くような様子に、彼は冷笑した。「愛してないって?僕が気にすると思うか?僕のそばにさえいれば、愛してるかどうかなんてどうでもいい」カエデビル。雅之は里香を抱えて階段を上がり、彼女の指を使って指紋認証を済ませ、大股で部屋に入った。そのままバスルームへ向かいお湯を張り始めた。お湯が溜まると、里香を浴槽にそっと入れた。彼女のしかめっ面が少しだけ緩んだように見えた。里香はすでに発熱しており、まずは体を温め、その後で薬を飲ませる必要があった。雅之は丁寧に彼女の体を洗い、バスタオルで包み込むと、寝室に連れて行き、清潔な寝間着を着せた。その間、どうしても彼女の艶やかでなめらかな肌を目にしてしまい、彼の目が幾度か暗く染まり、喉がごくりと鳴った。しかし、薬を飲ませようとしたとき、里香の体はまるで自己防衛機能が働いたかのように口を頑なに開けてくれなかった。雅之は耐えきれなくなって、錠剤を自分の口に含み、彼女の顎を掴んで強引にキスをして押し付けた。「ん……」里香がうっすらと唸り声をあげたが、雅之は強引に彼女の歯をこじ開け、錠剤を口の中に送り込んだ。そしてすぐに彼も水を一口飲み、そのまま彼女に飲ませた。口の中に広がる苦味に、里香は反射的に薬を吐き出そうとしたが、その前に雅之は再び水を流し込んだ。里香は本能的にごくんと飲み込み、薬を順調に飲んでしまったのだった。同じ方法で何度か繰り返し、すべての錠剤を飲ませ終えた頃、雅之は彼女の唇から血色が戻ってきたのを確認すると、思わず押さえきれずに本気のキスをした。彼女の口内の隅々まで舌で探り、一つ残らず味わうように。徐々に息苦しくなった里香は必死にもがいて抵抗し始めた。雅之は辛うじて暴走しそうなキスを強制的に止め、暗い瞳で彼女の昏睡状態を見つめた。「病気だから、今回は見逃してやるよ」そう言って、雅之はバスルームへ向かった。戻ってきたとき、里香は体を丸めて震えていた。「寒い……寒い……」里香はか細い声で呟いた。雅之はためらうことなく布団をめくって彼女の横に入り、強く抱きしめた。彼の体温が高く、里香は自然に彼にぴったりと体をくっつけた。震えも徐々に収まっていった。一晩中、何度も体温を測り、里香の熱が下がってきたのを確認すると、雅之は眉
バー・ミーティングの2階、個室にて。「雅之……」甘く媚びた女の声が耳元でささやく。吐息がすぐそばに感じられて、混濁していた雅之の意識が一瞬で覚醒した。彼は勢いよく身を起こし、低く掠れた声で問いかけた。「お前、誰だ?」「わ、わたし……」ソファに横たわっていた女は、突然正気を取り戻した彼に完全に面食らった様子だった。だが、雅之は女の答えを待たず、室内の照明スイッチを探して点けた。パッと明かりがつき、女の顔がはっきりと見える。ゆかり。その瞬間、雅之の顔つきが氷のように冷たくなった。そして次の瞬間には、彼女の首をつかんでいた。「僕に何をした?」「わ、わたし……っ」突然襲った激しい痛みと息苦しさに、ゆかりの目に恐怖が走る。目の前の男の目は冷たく鋭く、シャツは乱れ、全身から殺気がにじみ出ていた。この人、本気で殺す気だ。身体を震わせながら、ゆかりは必死に声を絞り出した。「だ、だめよ……わたしに手を出したら、瀬名家が……瀬名家があなたを許さない……っ」懸命に言いながら、雅之の手を振りほどこうとする。しかし彼は容赦なく彼女の指をつかみ、力を込めた。ボキッ。「きゃあああっ!」悲鳴を上げたゆかりは、そのままソファへと投げ捨てられた。ゆかりの指は明らかに折れていた。雅之は彼女を見下ろし、吐き捨てるように言った。「汚らわしい女が……僕のベッドに上がろうなんて、思うんじゃねぇ」冷たく言い放ち、雅之はそのまま大股で個室を出て行った。体の感覚がどこかおかしい。今すぐ病院に行かなければ。あの女、薬を盛りやがったな。瀬名家……か。里香はまだ戻っていない。だが戻ったら、必ず瀬名家には報いを受けさせる。ふと里香の顔が脳裏に浮かび、雅之の足取りは自然と早まっていった。バーを出て車に乗り込むと、スマホの着信音が突然鳴り響いた。額に青筋を浮かべ、顔をしかめながらスマホを手に取る。画面を一瞥し、そのまま通話に出た。「もしもし?」電話の向こうから、月宮の声が聞こえてきた。「うちのかおる、見てないか?」その一言に、雅之の眉がピクリと動いた。「僕に会いに来たって?」「そう。里香のことで何か手がかりがあったらしくて、直接話したいって言うから、お前の居場所教えたんだ。でも、会ってないのか?
「うわっ!」かおるは中の様子を見た瞬間、思わず声を上げ、ドアを開けて中へ飛び込もうとした。それを里香が咄嗟に止めて、ドアを閉めた。かおるはすぐに彼女を見つめ、「なんで止めるの!?あのクソカップル、ぶっ飛ばしてやるから!」と息巻いた。廊下の照明は薄暗く、里香の顔色は青白く、瞳にはどこか虚ろな光が浮かんでいた。唇を噛みしめたまま、彼女はぽつりとつぶやいた。「もう、彼とは離婚したの」その言葉には、「だから、彼が誰と一緒にいようが関係ない」──そんな思いがにじんでいた。かおるはハッとしたように黙り込んだ。そうか。もう離婚したんだ。だったら、今さら里香が雅之を責める立場にはない。二人の関係は、もう何も残っていなかった。かおるはそっと里香の腕に手を添えた。「帰ろう。まずは警察に行って、通報の取り下げをしよう」里香は何も言わず、ただそのままかおるに連れられて、その場を後にした。バーの中は相変わらず騒がしく、二人は人混みをかき分けながら歩いていったが、里香の表情からはどんどん生気が抜けていく。感情は少し遅れて波のように押し寄せ、胸の奥がじわじわと痛み始めた。針のように絡みつくその痛みは、次第に深く鋭くなっていく。雅之が、あの女を抱きしめていた。その光景が頭をよぎった瞬間、目元がじんと熱くなった。そしてようやく、はっきりと気づいた。口では「許さない」と言っていたけれど、心のどこかでは、もう彼を許して、受け入れようとしていたんだ、と。彼の視線が、もう自分には向けられないと悟った瞬間、理由もなく、焦りと不安に襲われた。バーを出たあと、里香はぎゅっと目を閉じた。この感情は、本来感じるべきじゃないものだ。大きく息を吸い込んで、どうにか気持ちを落ち着けようとしていた、そのとき──「里香ちゃん、大丈夫?」かおるの心配そうな声が耳元に響いた。里香はかすかに首を振る。「……大丈夫」けれど、その言葉を発した直後、突然込み上げてきた吐き気に襲われ、路肩のゴミ箱に駆け寄って激しく嘔吐した。夜に食べたものをすべて吐き出してもおさまらず、最後には苦い胃液が口の中に広がってようやく落ち着いた。かおるはすぐに自販機で水を買って戻ってきて、ふたを開けたボトルを差し出した。「里香ちゃん、大丈夫?しんどいなら
かおるは心配そうに里香を見つめた。「こんなとこ、大丈夫?」里香はすぐに答えた。「平気。人を見つけたらすぐ出るから」「そっか」かおるは頷いて、すぐにバーの中へ入って人を探し始めた。人混みの中で誰かを探すのは、思った以上に時間がかかる。しかも、今の里香はスマホを持っていないから、二人で別行動を取ることもできない。バーの片隅のソファ席。テーブルの上には空き瓶がいくつも転がっていて、雅之は乱暴に襟元を引き下げた。全身から、投げやりでどこか虚ろな雰囲気が滲み出ていた。細めの目は真っ赤に充血し、フラッシュのように明滅するライトが彼の周囲だけ避けて通っているかのようだった。彼は酒に酔った客たちをぼんやりと見つめながら、顔をしかめた。見つからない。里香が、見つからない。見失っただなんて、信じたくない。いったいどこへ?誰が彼女を連れて行った?どうして彼女を?頭の中で疑問ばかりが渦を巻き、雅之はこめかみを押さえた。割れるような頭痛。グラスを手に取って、一気に煽った。強いアルコールの刺激が口いっぱいに広がり、せめて心の痛みを一瞬でも麻痺させようとしていた。その時だった。目の前に、見覚えのあるシルエットが現れた。華奢でやわらかなライン。長い髪が肩にかかり、ライトの光に照らされてその姿がゆらめいている。雅之はガバッと立ち上がり、叫んだ。「里香!」けれど、その声は轟音の音楽にかき消された。彼はすぐさま人混みをかき分けて、その懐かしい後ろ姿を追いかけた。彼女はその声に気づいていないのか、一度も振り返らずに階段を上り、角を曲がって姿を消した。雅之の目は真っ赤に血走りながらも、必死にその姿を追い続けていた。ちょうどその頃。人混みの中でふと後ろを見たかおるが、雅之の姿に気づき、思わず叫んだ。「雅之!」その声に反応して、里香も振り返り、階段を登っていく雅之の姿を見つけた。「いた!行こう!」かおるが言うと、里香も頷き、二人は急いで二階へ向かった。人を押しのけながらなんとか階段を上がったものの、雅之の姿はもう見えなかった。ただ、二階は一階ほど混んではおらず、ほとんどが個室になっていた。廊下の突き当たりに立ち止まり、かおるは困ったように言った。「こんなに個室あるのに、どこ入ったんだろ
かおるは不機嫌そうな声で言った。「その言い方、どういうつもり?なんで私が手がかり持ってないって決めつけるの?教えるわけないでしょ。早く言ってよ、雅之がどこにいるのか!直接会って話すんだから!」月宮はくすっと笑った。電話越しでも、怒って飛び跳ねてるかおるの姿が目に浮かぶようで、それがなんだか可笑しかった。「今すぐ彼に電話するよ」「絶対早くしてね!」かおるはそう言い放ち、電話を切った。そして里香の方を向いてウィンクしながら言った。「ここ数日、みんなであなたを探してたんだよ。桜井がもしかしたら警察に届け出てるかもしれないけど、雅之に会ったら、ちゃんと説明すれば大丈夫だから」里香はこくりとうなずく。「分かってる」けれど、彼女の中にはまだ迷いが残っていた。妊娠のことを雅之に伝えるべきか、伝えないべきか。もう離婚している。この子は、自分ひとりの子ども。でも彼は、以前こう言ってくれた――「もう一度君を口説く」と。そして、自分の気持ちや選択を尊重するとも。確かに、雅之は変わった。いや、変わったというより、まるで、昔の彼に戻ったみたいだった。あの頃の、里香が知っていた「まさくん」に。まずは会ってから考えよう。顔を見れば、きっと自然と言葉が出てくる。その頃、月宮は雅之に電話をかけていた。「今どこにいるんだ?」電話の向こうからは騒がしい音が聞こえてくる。「もしもし?」雅之の声ははっきりせず、くぐもっていた。月宮は少し驚いた。「どうしたんだ?どこに行ってる?」けれど、音楽の音がうるさすぎて、何を言っているのかさっぱり分からなかった。やむを得ず電話を切り、今度は桜井に連絡を入れた。「桜井さん、雅之は今どこにいる?」「社長はバー・ミーティングにいます」と桜井が答えた。「なんでバーに?」月宮は訝しげに眉をひそめた。桜井は困ったような声で、今起きた出来事を簡単に説明した。月宮は話を聞くと、思わず笑い出した。「なるほど、先に誰かに取られたのか。やっぱり里香を狙ってる男は多いな。せっかく希望が見えたのに、それが崩れたんじゃ落ち込むよな。分かった」そう言って電話を切ると、かおるに雅之の位置情報を送信した。もしかすると、かおるの言っていた「手がかり」ってやつは、今の雅之にとっ
かおるはぽかんとした顔で話を聞いていた。最後にグラスをテーブルに置き、心配そうに里香を見つめる。「それで、目はどうなの?もう治ったの?」里香はうなずいた。「みっくんのおかげよ。彼があそこから助け出してくれて、病院にも連れて行ってくれたの。みっくんがいなかったら、たぶん、本当に見えなくなってたと思う」かおるはすぐにみなみの方へ顔を向けた。「ありがとう」みなみはにこっと笑って言った。「気にしないで。前に君たちにも助けてもらったし、当然のことさ」かおるはまた里香に視線を戻し、ふと彼女のお腹へ目をやると、そっと手を添えた。「ここに赤ちゃんがいるの?」里香はやさしくうなずいた。「うん」かおるはパチパチと瞬きをしながら言った。「あのクソ野郎……雅之の?」「そう」かおるは手を引っ込め、真剣な顔で尋ねた。「どうするつもり?」「産むつもりだよ」「でもさ、もし産んだら……あの雅之にバレたら、絶対にしつこくなるよ。今度こそ、もう逃げられなくなる」里香はお腹にそっと手を当て、ゆっくりまばたきしながら答えた。「彼に知らせるかどうかはまだ考え中」かおるも迷っていた。子どもを産むということは、いずれ必ず雅之に知られてしまうということ。それを避けたいなら、彼に絶対見つからないように姿を隠すしかない。それしかない。「帰ってきたなら、一言あのクソ男に知らせてやりなよ。あいつ、あんたのこと探して、何日もろくに寝てないらしいよ」「知らせるつもり。これから彼に会いに行く」直接顔を出すのが、いちばん効果的なサプライズになる。かおるはじっと彼女を見つめたまま、何か言いたげに口をつぐんだ。里香は立ち上がった。「ご飯作るね。二人とも、もうちょっと休んでて」「ダメダメ!」かおるはすぐに彼女を止めて、ソファに座らせ直した。「今あんた妊婦なんだよ? 料理なんかしてどうすんの。キッチンは気軽に入っていい場所じゃないから。デリバリー頼むからさ」みなみも口をはさんだ。「彼女の言うとおりだよ。この数日、まともに休めてなかったんだろ? 少し寝て、食べてからでも遅くないさ」ふたりに説得され、里香もしぶしぶうなずいた。「わかった。じゃあ、ちょっと休むね。何かあったら呼んで」「うんうん、行ってらっしゃい
「うん」里香はうなずいて、車の中で静かに待っていた。みなみはレッカー車を呼び、およそ40分後にようやく到着。車はそのまま引かれていった。その後、二人はバス停に向かって歩き出した。距離にして2キロ。ほぼ20分かけて、ゆっくり歩いた。というのも、里香の体がまだ本調子ではなく、時々立ち止まって休まなければならなかったからだ。バスがカエデビル近くの停留所に着いたころには、すっかりあたりは暗くなっていた。冬はいつも、日が暮れるのが早い。里香はみなみを見て、声をかけた。「よかったら、ちょっと上がってお茶でも飲んで休んでいって」でも、みなみは首を振った。「いや、無事に送り届けられただけで十分さ。これ、俺の番号。何かあったら連絡して」里香は少し気まずそうな顔をした。これだけ助けてもらったのに、自分は何も返せていない。「晩ごはん、まだでしょ?私、料理は得意なんだ。一緒にご飯食べてから帰りなよ」もう一度、引き止めた。みなみは断ろうとしたが、そのとき、タイミングよくお腹がグーッと鳴った。二人ともバタバタしていて、まともに食事をとっていなかったのだ。みなみは困ったように笑いながら言った。「どうやら、お言葉に甘えるしかないみたいだね」里香は微笑みながら、彼と一緒にカエデビルの中へ入っていった。エレベーターのドアが開いた瞬間、玄関前の床にうずくまる一人の人影が目に入った。膝を抱え、虚ろな目でただ座っている。「かおる!」里香はすぐに駆け寄り、しゃがんでその顔をのぞきこんだ。かおるはぼんやりした様子で、突然目の前に現れた里香を見るなり、反射的に目をゴシゴシこすった。「り、里香ちゃん?夢じゃないよね?本当に……本当に里香ちゃんなんだよね?」里香はそっと彼女の手を押さえ、優しく言った。「うん、私だよ。戻ってきたよ。何もなかった、大丈夫。夢なんかじゃないよ、ちゃんと帰ってきたから」かおるは数秒のあいだ固まっていたが、急に「うぅ……」と嗚咽をもらし、勢いよく里香にしがみついた。「怖かったよ、本当に怖かった!この数日、心配でたまらなかったんだから、ううう……どこ行ってたの?誰に連れてかれたの?ううう……でも無事でほんとによかったぁ!」声を上げて泣きながら、まるで心の支えをようやく見つけたかのように
英里子は取り繕うように微笑んで言った。「雅之くんが来たわね」雅之は返事をしながら、蘭の顔を見つめた。その顔色の悪さに気づき、少し疑うような口調で尋ねた。「蘭、どうしたんだ?」その瞬間、蘭の目元がうっすら赤くなり、唇をぎゅっと結んでから言った。「大丈夫です」雅之はさらに言葉を続けた。「誰かに嫌なことされたのか?俺かお祖父さんに言ってくれれば、きっと力になってくれる」蘭は小さく「うん」とだけ答え、静かに部屋へ戻っていった。雅之も英里子に一言挨拶して、その場を後にした。車に乗り込むと、シートに身を預けたまま、その表情は氷のように冷え切っていた。桜井が口を開いた。「北村のおじいさんが祐介の目的に気づいたら、もう味方にはならないでしょうね。あんな態度をとった以上、北村家は本気で離婚させるつもりかもしれません」もし離婚となれば、祐介がこれまで積み上げてきた努力は全て水の泡になる。雅之は目を開けた。漆黒の瞳には血のような赤みが差し、低く沈んだ声で言い放った。「自業自得だ」里香が再び目を覚ましたのは、翌日の午後だった。鼻先には強い消毒液の匂いが漂い、視界には再び光が差していた。思わず笑みがこぼれる。見えるようになったのだ。「起きた?ちょうどいいタイミングで来たよ。消化にいいお粥を買ってきたんだ。少しでも食べておきな」みなみの声がそばから聞こえてきた。顔を向けると、みなみは立ち上がってこちらへ歩いてきて、にこやかな笑顔を浮かべていた。里香は身を起こし、感謝の気持ちを込めて彼を見つめた。「ありがとう」どうやら、手術は成功したようだ。みなみは軽く肩をすくめながら言った。「礼なんていらないよ。お互い様だろ?君がいなかったら、俺も道端で倒れたままだったかもしれないし」里香はそれ以上は何も言わなかった。たとえ自分がいなくても、きっと誰かが彼を助けただろう。命を落とすようなことにはならなかったはずだ。みなみは小さなテーブル板をベッドにセットし、里香はお粥を食べた。胃の中がじんわり温まり、体が生き返るような心地だった。みなみが聞いた。「これからどうするつもり?」里香は少し考えてから答えた。「家に帰るわ。それに、私を監禁してたのが誰なのか、はっきりさせたい」みなみは力強くう
薬を打たれると、里香は短い時間昏睡状態に陥り、再び目を覚ましたときには視力が戻っているはずだという。里香は小さくうなずいて、それを受け入れた。今の自分には、他に選択肢なんてなかった。このまま何も見えずにいるわけにはいかない。あまりにも不便すぎる。だから賭けるしかなかった。もしうまくいかなかったとしても、受け入れるしかない。でも、もしうまくいけば?みなみは黙ってそばで見守っていた。医者が注射を終えると、二人で診察室を後にした。廊下の突き当たりでは、窓の隙間から冷たい風が静かに吹き込んでいる。医者は恭しく頭を下げながら言った。「ご指示の件、すでに完了しております。彼女の目はすぐに回復するでしょう」「うん」みなみは短く返事をし、すぐに言葉を継いだ。「できるだけ長く眠らせておいてくれ」「承知しました」そのころ、警察もすぐに捜査を開始していた。桜井は車内で疲れきった様子の雅之を見て、低く静かな声で言った。「社長、もう何日もろくに眠っておられないでしょう。一度お休みになったほうが……奥様はきっと無事ですよ」だが、雅之は掠れた声で答えた。「彼女の居場所が分からない限り、眠れるわけがない」桜井は心の中で重いため息をついた。これは一体どういうことだ?祐介のやつ、胆が据わりすぎている。まさか本当に里香に手を出すなんて!雅之を敵に回したら、ただじゃ済まされないだろうに!雅之は眉間を指で押さえながら言った。「贈り物を用意してくれ。喜多野のおじいさんに会いに行く」「かしこまりました」一方そのころ、蘭は病院のベッドで目を覚ました。顔色はひどく青白く、無意識に手が自分の下腹部へと伸びた。「赤ちゃん……私の赤ちゃん……」そのそばでは、母の英里子が涙にくれていた。「蘭、赤ちゃんはまた授かれるわ」その言葉を聞いた瞬間、蘭の目からぽろぽろと涙がこぼれた。「どういう意味?私の赤ちゃんは?どこにいるの!?ねぇ、私の赤ちゃんは!?」英里子は娘の手を優しく握りしめた。「そんなこと言わないで、蘭。今は身体がとても弱ってるの。そんなに感情を乱したらだめよ」蘭は嗚咽しながら、深い悲しみに沈んでいった。「私の赤ちゃん……もういないんだね……」しばらく泣き続けたあと、ふいに英里子の手をぎゅっと強く握った
里香は少し首をかしげ、声を頼りにたずねた。「……みっくん?」驚いたようなみなみの声が返ってきた。「君の目、どうしたの?」「私を監禁してた人に、目に薬を打たれたの……今は、何も見えないの」その言葉を聞いたみなみは、そっと手を伸ばし、彼女の手首を握った。「じゃあ、俺が連れて行くよ。まずは病院で診てもらおう」少し迷いはあったけど、今は他に選択肢がなかった。ここに留まっているわけにはいかない。もし監禁してた相手が戻ってきたら……里香はみなみに従い、その場を離れる決心をした。けれど、どうして彼が自分を見つけられたのか、その疑問だけは拭えなかった。「ねぇ、みっくん。どうやって私のこと見つけたの?」みなみは、彼女を気遣いながら外へと連れ出しつつ、答えた。「近くの工事現場で働いてたんだ。そしたら、君がベランダに立ってるのを見かけて、すぐ駆けつけようとしたんだけど、警備員に追い出されてさ。それでしばらく様子をうかがってたら、君が閉じ込められてるっぽいのに気づいて……なんとかして奴らを引き離したんだよ」その説明に、どこか引っかかるものを感じた。でも今は何も見えない。信じるしかない。「ありがとう……」そう言うと、みなみはふっと笑ってこう言った。「前に君が俺を助けてくれたでしょ?少しでも恩返しできて、ほんとに嬉しいよ」「段差、気をつけてね」彼は耳元でそっと注意を促し、里香は慎重に階段を下りていった。車に乗り、エンジンがかかって走り出すと、ようやく心が少しだけ落ち着いた。やっとこの地獄みたいな場所から抜け出せた!自分を監禁していたのが誰なのか――いずれ分かったときには、絶対に許さない!みなみの車が走り去った直後、数台の車が敷地に入ってきた。景司の秘書が車を降り、その後に続いて降りてきた人物に気づいた。「雅之様」秘書は丁寧に頭を下げた。だが雅之はそれを無視し、そのまま早足で別荘の中へと入っていった。敷地の中を隈なく探しても、里香の姿はどこにもなかった。そこへ桜井が近づき、報告した。「別荘内には監視カメラが設置されていません。道路のカメラも破壊されています」誰かが明らかに仕組んだものだった。雅之の顔が険しくなる。そのまま景司の秘書の前へ歩み寄り、冷たい声で問いただした。「お