箱の中には薬草の束が整然と収められている。その薬草は不思議と枯れることなく、時の流れに逆らうように鮮やかな色合いを保ち、まるで何かを守るように静かに横たわっている。 その中心で銀色に輝くペンダント── リノアは淡く輝くその光に目を奪われながら、ペンダントを手に取った。指先が触れた瞬間、リノアは胸の奥深くで何かが高鳴るのを感じた。その感覚が波紋のように全身に広がって行く。 突然、リノアの視界が揺らぎ、目の前に幻想的な光景が広がった。見たこともない光景だ。 漆黒の夜空に無数の星が煌めき、静かに瞬いている。その光を浴びるように広がる広大な森。それらの木々を風が一本一本、優しく撫でている。 森の奥深くには神殿がひっそりと佇み、石壁に紋様が刻まれていた。 その神殿の入口に、小さな影。 可愛らしい目をしたリスがこちらを眺めている。長い時を超えて語りかけるような視線……。 リスは神殿の前で動かず、小さな二本足で立ち、尾をゆったりと揺らしている。やがて星の輝きと共鳴するかのように淡く光り始めたかと思うと、その光は星々に呼びかけるように広がって、そして消えていった。 その場で立ち尽くすリノア。「リノア、どうしたの?」 エレナの声が静寂を破った。 リノアは瞬きをし、視界にぼんやりと映し出される光景を見て我に返った。「今……何かが見えたの。神殿と星空……そして、リス。リスが私を見つめていた」 現実とは思えないほど鮮やかな光景だった。 一体、何だったのだろうか。 現実の光景だったのか、それとも心の中に浮かび上がった幻だったのか——リノアには分からない。 ただ、その瞬間、胸の奥に何かが目覚めるような感覚があったのだけは確かだ。「リノア、大丈夫?」 エレナが心配そうな顔をして、こちらを見つめている。 リノアははっとして顔を上げたが、その瞳はまだどこか遠くを見つめているようだった。「シオンが、私に何か伝えようとしているのかもしれない」 リノアは自分でもその言葉の意味を完全には理解できていなかった。ただ、目の前に広がった光景が持つ重みを感じていた。「リノア、その光景に見覚えはあるの?」 エレナの問いかけに、リノアは小さく首を振った。「ううん。私、神殿なんて一度も見たことがないし」「神殿か……。何でそんなものを見たんだろうね。確か、山の奥に今は使
リノアとエレナはシオンの研究所の扉を押し開け、北の小径の奥へ向けて足を踏み入れた。 陽は西へ傾き始め、森の中に柔らかな夕暮れの気配が漂い始めている。リノアとエレナは、ゆっくりと伸びていく木々の影を感じながら歩を進めていた。 時間に追われるわけではない。しかし、この言いようのない気持ちは一体何だろう。穏やかな情景とは裏腹に、森に立ち込める空気には言いようのない不穏な気配が漂っている。 リノアは腰の革帯に差し込んだシオンの笛を無意識に握り締めた。「この笛は僕、そのものだ。リノア、一つあげるよ」とにっこり笑ったシオンの笑顔が忘れられない。その時以来、シオンの笛は私の大切な宝物であり、心の支えとなっている。 シオンが笛を吹けば、その透き通った音色に誘われるように小鳥たちが集まった。シオンの心はいつも自然と共鳴し、まるで森の一部のように溶け込んでいた。 シオンは実の兄として、リノアに優しさと安心を与えてくれた、かけがえのない人だった。そのシオンの死はリノアの心に癒えない傷を刻んだ。 シオンは森の奥で何を見つけたのか? どうして命を落とさなければならなかったのか? その答えがすぐに見つかるわけではない。 それでもリノアの胸にはシオンの秘密を解き明かしたいという熱い想いが渦巻いていた。 隣を歩くエレナが年上らしい落ち着きと、凛とした瞳で前を見据えている。だが、その凛とした表情の奥には、シオンの死に対する深い悲しみが隠れていることをリノアは感じ取っていた。 エレナとシオンは恋人同士だった。二人が寄り添い、言葉を交わす姿は自然で、お互いの存在が当たり前のように感じられた。だけど、シオンはもういない。喪失の痛みを押し隠すように、エレナは前だけを見つめて歩いているのだ。 木々が迫る小径を抜けた時、リノアの足がぴたりと止まった。 地面に焦げた土の跡が点在し、黒ずんだ石が辺りに散乱している。冷たく湿った感触が手に伝わり、鼻をつく焦げた臭いが森の清涼な空気と混じる。 それは、ここで確かに炎が揺らめいていた証だった。 リノアは膝をつき、石を一つ拾った。「これ、シオンの焚き火の跡だ」 リノアは石の表面を撫でて、ざらついた焦げ跡を確かめて言った。 以前、森で見たものと造りが同じだ。他の村人たちは食料を調達しに来るか、単に通り過ぎるだけ。この場所で火を焚いて、夜を過
リノアの視線が焚き火の跡から外れ、周りの地面に向けられた。「エレナ、これ……なんだろう」 リノアの声に反応したエレナが地面を凝視する。 不自然な線が土に残されている。誰かが重いものを引きずったような跡だ。——だが、シオンは決してこのような乱暴な動きをする人ではなかった。「シオンのやり方にしては……」 リノアはそう呟きながら、胸の鼓動が速まるのを感じた。誰かがここに来たのかもしれない。 シオンの研究所からそう遠くないこの場所で、シオンが焚き火を灯し、夜を過ごした理由。それは単に動植物を観察するためだったのだろうか? シオンの心は常に自然と共にあり、森の一部かのように振る舞っていた。だが、この引きずった跡は、シオンの性格を考えると説明がつかない不自然さがある。 エレナがしゃがみ込んだまま、引きずった跡に指を這わせた。その途中で微かな色の違いに気付いたエレナが息を呑んだ。「リノア……これ、血の跡かもしれない」 リノアも膝をつき、地面をじっと見つめた。 赤黒く乾いた血の痕が不規則に途切れながら続いている。動物のものだろうか。傷ついた獣を誰かが運んだ……その可能性も考えられる。 リノアは痕跡を追うように視線を動かすと、近くの草むらに何かが引っかかっているのを見つけた。「エレナ、これ……動物の毛じゃない?」 リノアは慎重に手を伸ばして、草むらからその毛を摘み取った。柔らかいが、どこか荒々しい感触が指先に伝わる。 エレナがリノアの手元を覗き込み、毛をじっと見つめた。エレナの眉がわずかに動き、その表情に確信の色が浮かぶ。「これは……ラヴィアルの毛だね」 エレナの声はどこか緊張感を帯びている。その言葉にリノアは目を見開いた。「ラヴィアル?」 リノアが問いかけると、エレナは頷きながら、毛を指先で撫でるように確認した。「ラヴィアルはこの森のもっと奥深くに住んでいる獣よ。鋭い角を持っていて、夜行性。通常は人前に現れないけど、傷を負ったり、追い詰められたりした時にはその足跡を残すことがある。確か他の村で大切に扱われていた動物だったはず。リヴェシアだったかな」 エレナはラヴィアルの毛を守るように両手で包み込むように持ち、慎重に小さな布袋に入れた後、周囲を見渡した。その動作には弓使いとして培った鋭敏な洞察力が感じられる。 森の静けさの中で、二人の間に
森を包む光は柔らかくなり、空には橙色の残響が漂っていた。昼と夜の境界がゆっくりと溶け合う頃、リノアとエレナは星見の丘へと歩みを進めた。 陽が完全に沈むまで、あまり時間はない。西の空はゆっくりと深い青へと変わりつつある。 木々の間を抜ける風が優しく肌を撫でる。だが、その静けさの中で、ふと違和感が生じた。──風の音ではない。枯れ葉を踏みしめる足音が聞こえる。 リノアは立ち止まって、視線を音が聞こえた方へ向けた。エレナも気配を察知したのか、手をゆっくりと弓の近くへ持っていく。「エレナ、今の音……聞こえた?」「うん、私も聞こえた。近くに誰かいるのかも」 エレナの鋭い瞳が森の奥を探る。 リノアは息を呑みながら木の影へと身を潜めた。敵かもしれない——もし見つかれば、二人だけで対応するのは難しい。「あっ」 リノアの足が一本の根に引っかかり、思わず躓きそうになった。その瞬間、エレナが素早くリノアの腕を掴んだ。力強くも優しいその手がリノアの腕を強く握り閉める。「リノア、落ち着いて。大丈夫だから」 エレナは微笑みながら言った。その穏やかな声と温もりが、リノアの焦る心を静めていく。 二人の発した音に驚いたのか、枯れ葉の隙間から何かが顔を覗かせた。「なあんだ、シカか」 リノアが驚きつつも安心した様子で呟いた。 音が聞こえた方角と一致している。あの音の正体は、このシカで間違いないだろう。「危険を冒してまで、こんなところに……」 エレナが慈しみの目を向けた。 そう言われてみれば、最近、シカの姿をよく見かけるようになった。村の近くにまで来なければ食料に在りつけなくなったのだろう。村の周辺で草木が減った原因の一つだ。 落ち着きを取り戻したリノアとエレナは、シカの姿に一瞬の安堵を覚えながらも、胸に残るざわめきを振り払うように歩みを再開した。 星見の丘への道は木々の間を縫う細い小径の先にある。 風が葉を揺らし、さらさらとした音が二人の足音に混じり合う。その穏やかな空気とは裏腹に、リノアの心は落ち着かないままだった。 シオンの焚き火の跡、そして不自然な引きずった跡——それらの記憶が頭を離れない。 シオンは森の異変を追ううちに、思いもよらない危険な存在に近づいてしまったのではないか? 丘へと続く最後の坂を上る頃、空はすでに深い青へと変わり始めていた。
リノアはエレナが指し示した方角を見据えた。 神殿の周囲を徘徊するかのように揺れる影。それが人の形をしていることに気づいた時、二人の中に緊張が走った。「誰だろう……?」 リノアが囁くように言った。 シオンが研究所に残していたペンダントや鉱石類……──シオンは、あの場所に訪れていたのではないか。もし、あの品々が神殿で見つけたものだったとしたら……すべてが繋がる。 シオンが何を調べていたのか、ようやく輪郭を帯び始めてきた。「研究所からそう遠くない場所なのに、シオンは焚き火をしてまで夜を過ごしていた。やはり、あれは動植物の観察のためだけだったわけではないようね」 そう言って、エレナは思案するように神殿を見つめた。 帰るべきか、それとも未知の領域へと足を踏み入れるべきか——迫りくる夜の静寂の中、森に漂う不穏な気配が二人の決断を曇らせる。 迷いが生じるその刹那、人影はふっと薄闇へ溶け込むように消えていった。 二人は丘の縁に立ち、神殿の方向を見つめた。月光が神殿の尖塔を照らし、まるでそこだけが別の世界に属しているかのように見える。 シオンは好奇心に駆られ、神殿に何かを探しに行ったのではないか? そして、ここで何かを知ってしまった……。 未知への期待と謎が解けるかもしれないという予感が、リノアの胸にふつふつと湧き上がってくる。 リノアは神殿の輪郭をゆっくりと追った。月光を浴びた古びた石造りの壁が、まるで時間の流れから切り離されたかのように佇んでいる。「エレナ、また……」 人影が再び姿を現した。 この辺りの村の者ではない。装いも佇まいも、どこか異質な雰囲気をまとっている。「どこの人たちなんだろうね」 エレナが息を潜めて言った。 人影はゆっくりと神殿の中央へと進み、柱の陰に差し掛かった時、ふと動きを止めて、振り返った。──他にも誰かいる。 顔は闇に溶けてはっきりとは見えない。しかし、そのわずかな仕草から、ただ佇んでいるだけではない事だけは確かだ。 柱の陰に消えた人影が、今度は神殿の別の壁際から現れた。まるで、リノアとエレナの様子を探るかのような慎重な動きを見せながら……。「近づいてる!」 沈黙を破ったエレナの声が一瞬にして空気を張り詰めた。 エレナの指が矢筒へと伸び、確かな動作で矢を引き抜く。迷いはない。鋭い視線で人影の動きを追いな
幸い、この丘から神殿までは距離がある。今なら逃げ切れる。もうこれ以上近づかない方が良い。 リノアの理性が、そう呟く。しかし胸の内では異なる想いが湧き起っていた。──行かなければならない。 リノアの本能が呟いた。 シオンの秘密は神殿の中に眠っている。そして、あの人影がその鍵を握っている可能性が高いのだ。 胸に隠した龍の涙が鼓動するように躍動し、リノアの決意をさらに強めていく。理性がどれだけ警鐘を鳴らしても、その声は消えなかった。 胸の奥で熱が燃え上がる。──待っていて、シオン。 相手はマントを身にまとい、走ることを想定した服装ではない。武器も携帯していないのではないか。 おそらく彼らは戦士ではない。 仮に争うことになっても何とかなる。エレナと二人なら── 冷たい夜風が頬を撫でる中、リノアの視線は神殿へと向けられている。身を乗り出そうとしたその時、エレナがリノアの動きを制した。「リノア、落ち着いて。今はその時じゃない」 理性と本能がせめぎ合う中、冷たい夜風が二人の間を吹き抜け、リノアは冷静さを取り戻した。「分かってる……」 リノアが呟いた。 今、行けば相手に気づかれる可能性が高い。この静寂の中、足音を立てずに移動するのは無理だ。 彼らが戦士ではないとしても、こちらが優位に立てる保証はどこにもない。外部の者なら未知なる能力や技術を持っている可能性がある。 素性も謎に包まれており、目的も不透明だ。シオンを殺めた者たちであるかどうかすら、まだ分からないのだ。 それに私の勝手な行動でエレナを巻き込んでしまうことだけは絶対に避けなければならない。 冷たい夜風が頬を撫でる中、リノアは拳を握りしめた。──今の私には戦う力も救う力も何もない…… リノアは影を見据えたまま、胸の奥で湧き上がる感情を抑え込んだ。握りしめた拳が、わずかに震える。 いずれシオンの敵を討つ時は必ず訪れる── 陽が沈み、闇が深くなるにつれ、周囲に漂う不穏な気配が濃くなっていく。 その時——人影が視界に入った。 黒いシルエットがゆっくりと動きながら、草木の間を慎重に進んでいく。「何かを探しているみたい」 エレナが呟いた。 リノアたちが隠れている茂みのすぐ近くまで影が迫っている。 リノアが目を凝らして、その動きを見つめていると、ふいに人影は足を止め、周囲を見
二人は木の陰に身を潜めたまま、人影を観察し続けた。 三、四人はいるのだろうか、全員が特徴的な服装をしている。この辺りの村では見かけない人たちだ。 人影の一人が木の陰で膝をつき、地面を掘っている。その仕草には焦りはない。 地面を掘り返していた人影が動きを止め、地面を注視した。「……あったぞ」 低く呟いた声が静寂の中に響く。 ランタンを手に持つ人影がそれに気づき、灯りをそっと近づけた。温かい光が地面を照らし、掘り起こされた土の中から何かが見え始める。──あれは一体、何だろう? それは泥にまみれているものの、わずかに光沢を放っている。 ランタンを持つ人物が、そっと灯りを消した。 暗闇が辺りを包み込んでいく。 その瞬間── 掘り出された物体が青白い光を放ち始めた。 まるでそれ自体が鼓動する生命を持っているかのように、脈動する輝きが周囲を照らし出す。 リノアは息を飲んだ。──この光……間違いない。 それはシオンの研究所で体験したペンダントの輝きと同じものだ。 霧がゆっくりと漂い、月光がその青白い輝きを映し出す。闇夜の中に浮かび上がる光の存在は異様なほど美しく、同時に不安を掻き立てるものだった。 首をもたげ、弱っていた草木がその光に反応し、一瞬だけ鮮やかに蘇る。 しかし、それは束の間の命のきらめきであり、青々と輝きを放った草木は、すぐに萎れてしまった。縮こまる草木たちの姿が痛々しい。「……違う、これじゃない!」 低い声が周囲の静寂を切り裂いた。 荒々しく地面に叩きつけられた物体は、その衝撃に青白い光を一瞬、輝かせた後、生命を失ったかのように反応しなくなった。 光を失い静寂に沈み込む物体。そして、その周囲を揺れ動く霧と人影。月光がそれらを怪しく照らし出している。 その光景は静寂の中で異様な存在感を放ち、リノアの胸にさらなる緊張を刻み込んでいった。 胸の奥で何かが締め付けられる妙な感覚がする……。「リノア、そのペンダント、隠して……光ってる」 エレナがリノアの耳元で囁いた。 ペンダントに刻まれた星が光を解き放っている。叩きつけられた物体と共鳴しているのかもしれない。「くそっ……ただの鉱石じゃないか。一体、どこにあるっていうんだ!」 苛立ちに満ちた声が静寂を引き裂き、人影が掘り返した土を蹴り飛ばす。勢いよく舞い上がった土の
人影は最後に周囲を見渡し、月光に照らされた道筋を慎重に辿りながら、神殿の方向へ消えていった。 リノアは人影が残した足跡の周りに目を遣った。 草木が黒ずみ、命を吸い取られたかのように萎れている。元々から元気がなかったとは言え、その萎れ方は異常だ。葉は乾ききり、茎は力を失って地面に倒れ込む……。──一体、彼らは何をしていたのか。 霧が漂い、夜の静けさの中、その足跡は冷たい月光の下で異様な存在感を放っていた。彼らが残した足跡が、何か取り返しのつかないことを物語っているように思える。 リノアの胸の奥に渦巻くのは、不安などではない。燃え上がるような激しい憤りだった。 その怒りは、命を弄ぶ者たちへの抗えない衝動と化し、リノアの思考を飲み込んでいく。 龍の涙が手の中でわずかに熱を帯びる。それはリノアの感情と同調するかのように微かに震え、静かに存在を主張していた。 リノアの鋭い視線が黒ずみ萎れた草木、そして月光に照らされた人影たちの足跡を捉えた。 その足跡は冷たく、無機質な痕跡が無感情な存在を思わせる。 生命が吸い取られた草木の姿と、その足跡が残す沈黙——それは、ただの痕跡でありながら、どこか不穏な気配を漂わせている。 リノアはその場に立ち尽くしながら、その痕跡が語るものに胸をざわつかせた。「……許せない」 リノアの声が闇に溶け込むように響く。胸の奥からこみ上げる感情を、リノアは自らの胸の奥に強く押し込めた。「リノア、動かないでね」 エレナが抑えた声で言い、そして続けた。「まだ、その辺りに潜んでいるかもしれないから」 その目は人影が遠ざかった方向を見据えており、同時に周囲の気配も感じ取っている。 人影の姿は既にない。神殿の方向へとゆっくりと遠ざかり、霧の中に姿を消した。足音さえも完全に途絶えている。 しかしエレナは動かなかった。弓を構えた手に力が入り、矢筒の重みが肩に心地よい圧力を与えている。 用心深いエレナは確実に安全だと判断するまで、決してその場を動かない。それは長年の経験から培われた、本能にも似た慎重さだ。「……まだよ」 エレナは小声で呟きながら、森の奥の微かな音や風の流れを感じ取ろうと全身を研ぎ澄ます。 やがてエレナは弓を少しだけ下げ、深く息を吸い込んだ。「……もう大丈夫。何か気配を感じたけど、どうもあれみたい」 リノアは
手紙を読み終えたリノアは、しばらく手紙を見つめ、クラウディアの言葉を一つ一つ心の中で反芻した。その目には、どこか迷いがある。 リノアはクラウディアの思いを深く感じ取り、深い思考に沈んでいった。 手紙の言葉の端々にはリノアを案じる母親のような温かみのある愛情が込められている。「クラウディアさん、私が外の世界に行きたがっていたことに気づいてたみたい……」 リノアの表情に複雑な感情が浮かんでいる。「でも……本当は引き止めたかったんだと思うよ」 エレナがふと口にした。 エレナの声にはクラウディアの心情を思いやる優しさが込められている。「うん、分かってる」 リノアはそう言うと、視線を床に落とした。「本当は心配でたまらないけど、リノアならきっと大丈夫だって。クラウディアさんはリノアを信じることを選んだのよ」 エレナがリノアに寄り添いながら言葉をかけた。──私を信じて…… リノアは目を伏せたまま、胸の中に広がる思いに心を寄せた。──今までも外の世界を見てみたいという願望はあった。しかし、ノクティス家という自分の立場を考えたら、自由に動き回ることなんて許されるはずもない……。 ずっと心のどこかで、自分は一生この村から出ることはできないのだと諦めていた。だけど今、それをクラウディアさんが壊してくれた……「クラウディアさんは私のことを信じてくれている。私はその想いに応えたいと思う」 リノアは意を決したように顔を上げた。──もう、ここに踏み留まる理由はない。クラウディアさんが私の背中を押してくれている。 リノアはペンダントを握り締めた。 ヴェールライトの冷たい感触がリノアに揺るぎない覚悟を与える。「クラウディアさんは分かっているのよ。リノアなら、この森の未来を切り開くことができるってね」 エレナが柔らかな声で言い、優しい瞳でリノアを見つめた。「村を守りたいって思うところ、何だかリノアらしくて良いね」 トランが二人の間に割って入った。 トランは明るく振る舞っているが、どことなく哀しげな雰囲気を秘めている。「私がついてるもの。どんな困難が降りかかっても、絶対に乗り越えられるわ」 エレナはまっすぐにリノアの目を見つめて言った。その表情には仲間としての覚悟が滲んでいる。「ありがとう。エレナ、トラン」 リノアは二人の言葉を微笑んで返した
「でもさ、あのシカなんで消えたの?」 トランが問いかけるように口を開いた。 その瞳には驚きとほんの少しの不安が混じっている。 リノアはヴェールライトのペンダントに視線を落としながら、答えを探るように考え込んだ。 森そのものが姿を変えた存在—— あの存在と対峙した時に私の心に芽生えた感情。それは恐怖ではなく、森が私に語りかけ、包み込むような不思議な感覚だった。「もしかしたら……森そのものが怒りや悲しみを、あのシカの形を借りて表現していたのかも。それが鎮められたから、霧と共に消えていったんじゃないかな」「えっ、あれってシカじゃないの?」 トランが不思議そうな顔でリノアを見つめる。「違うと思う……」 リノアは少し戸惑いながらもそう答えた。その表情には完全な自信があるわけではない。しかし自分の直感を信じようとする姿勢が感じられる。「私も何となくだけど、殺してはいけない気がした」 エレナの瞳には、どこか遠くを見るような思索の色が浮かんでいた。「森そのものが、私たちに何かを伝えようとしたのだと思う」 リノアの声には不思議な重みがあり、トランとエレナは無意識のうちに聞き入った。 トランは一瞬、口を開きかけたが、言葉が見つからないようで、すぐに口をつぐんだ。 室内に静寂が訪れる。「何だか、よく分かんないや」 トランがぽつりと呟いた。 リノアはトランに微笑みかけ、トランの混乱を受け止めた。「ああ、そうだ。クラウディア様から手紙を預かっていたんだった。リノアに渡してって」 トランが慌てた様子でポケットから紙を取り出した。それを受け取ったリノアは、クラウディアの文字が綴られた手紙に目を通す。 紙の表面には、独特の筆跡でこう書かれていた。リノアへ 星詠みとしての力を真に目覚めさせた時、あなたは龍の涙を完全に使いこなす資格を得るでしょう。 この龍の涙が秘める力は人類にとって必要不可欠なものです。しかし、その力を軽々しく扱ってはいけません。使い方を誤れば、その力は必ず破滅への道を開きます。 龍の涙の存在は決して知られてはならない。知られたら必ず奪いに来る者が現れます。その危険を忘れてはなりません。 グリモナ村の村長グレタ、そして付き添いの女性戦士を名乗るレイナ。この者たちが村にやって来ました。 グレタはリノアについて色々と詮索してきまし
「リノア、それってペンダントについている鉱石と同じものじゃない?」 そう言って、エレナがペンダントを床から拾い上げて手に取り、鉱石の横に並べて見比べた。「ほら、ペンダントは加工してあるけど、同じものだと思うよ」 エレナの言葉にリノアはペンダントに目を落とし、ゆっくりとうなずいた。 輝きや質感は異なる。しかし根底にある力の種類が一致しているように感じる。「シオン、これをどこで手に入れたんだろう?」 リノアがぽつりと呟く。 この鉱石はこの付近で採れるものではない。「さっき、ラヴィナって言ってたけど、ラヴィナって誰?」 エレナがトランに問いかけた。「他の村に住んでる人だよ。鉱石にめちゃくちゃ詳しくてさ。シオンもその人から鉱石のことを聞いたんじゃないかな」 トランの声には好奇心と年下ならではの無邪気さが表れている。トランは見張り役として村の内外をよく知っている人物だ。「リノア、ラヴィナって誰か知ってる?」 エレナがリノアに問いかける。「ううん、聞いたことない」 村外の話を聞くことは殆どない。知っているのは外部と交流のある人くらいだ。「そっか。シオンが交流していたのなら、悪い人ではなさそうね。だけど、どうして、こんなものを手に入れようと思ったんだろ。ただ珍しいからという簡単な理由じゃないはず」「私もそう思う。鉱石とは言え、いたずらに破壊する人じゃないし」 ペンダントは加工してある。恐らく、シオン自らの手によるものだ。「シオンは全てのものに生命が宿っていると考える人だった。シオンはこの鉱石を手に入れ、そして加工する必要があった。ということじゃないかな」 エレナの言葉に、部屋の空気が少し張り詰める。「何かもっと大きな理由……」 リノアが呟くように言った。 獣の怒りを鎮めたこの鉱石が、ただの装飾品や珍品ではないことは明らかだ。「ラヴィナと会って、この鉱石について話を聞く必要がありそうね。その人なら、シオンが何を考え、この鉱石をどんな目的で入手し、加工したのか、手がかりが掴めるかもしれない」 エレナの言葉が静かに部屋に響く。 リノアはエレナの推測を心に刻みながら、ペンダントにそっと触れた。──ヴェールライトが私をどこかに導こうとしている……。 リノアは目を閉じて、心の中で輝きを放つ光を想像した。──このヴェールライトは、この
リノアの手が震えながら伸び、机に散らばる鉱石の一つを掴んだ。 その指が触れた瞬間、冷たい感触がリノアの掌に広がり、鉱石が銀色の光を放った。強烈な光の波が部屋を一気に駆け抜け、獣の黒い霧を押し返していく。 獣の瞳が揺らぎ、その青白い光が一瞬だけ弱くなった。動きも止まり、威圧的な雰囲気が影を潜めていく。 その表情には抑えきれない悲しみの色が垣間見える。瞳の奥に、どこか遠い過去を見つめているかのような切なさ。黒い霧に包まれた身体が微かに震えている。 怒りの奥底に隠された深い悲しみ── リノアは、その存在が抱える苦悩と悲哀に触れたような感覚を抱き、胸の奥に何かが共鳴するのを感じた。 霧は獣自身の苦悩を語るかのようにゆっくりと形を変え、獣の胸の奥から漏れ出る呻きは痛みとなって部屋全体に広がっていった。 獣は青白い瞳を伏せると、前脚を折り曲げて上体をゆっくりと床に身を沈めた。 その姿は祈りにも似た純粋さが漂っている。何かを求めるような儚い気持ち……。 リノアを特別な存在として認めているかのようであった。 リノアは、その様子に息を飲んだ。 目の前に存在するのは敵ではない。何かに苦しみ囚われている存在そのものだ。その揺らぐ瞳の中に宿る無言の訴えが、リノアの心に深く響く。──何かの秘密に触れたような感覚がする。 目の前の存在は、私のことを、自然そのものを象徴する特別な存在であると認識している…… リノアは気づいた。自分の選択が、森全体の未来を左右するのだということを── リノアの心に畏れが広がっていく。 リノアは胸に下げていたペンダントを手に持つと、シカに似た存在に歩み寄った。震える手で、その首にペンダントをそっと掛ける。 シカに似た存在の表情が緩くなっていく。無垢で穏やかな瞳……。安らぎを思わせる本来の姿だ。 静寂の中、シカに似た存在はリノアをじっと見つめた後、ゆっくりと消えていった。黒い霧も共に消え去り、部屋に清浄な空気が満たされていく。 机の下に隠れていたトランが這い出し、身を震わせながら言った。「リノア、すげえ! 今、何したの? その鉱石、ヴェールライトの鉱石だろ? ラヴィナに使い方、教わったの? シオンでも使いこなせなかったのに」 矢継ぎ早に質問を投げかけるトラン。 先ほどの恐怖を忘れたのか、その瞳にはリノアへの驚きと尊敬が込
「トラン! どうして、ここにいるの?」 エレナが弓を下ろさぬまま、鋭い声でトランに問いかけた。 警戒の色が未だ消えないエレナの目に、トランは居心地悪そうに頬を掻いた。「クラウディア様から手紙を預かったんだ。リノアたちに渡せって。何書いてあるか知らないけど……。居なかったら紙を置いて帰れって言われたんだけどさ。俺、待ってたんだ」 トランの声からは焦りと幼さが感じられる。「なんだか、もう、このままリノアたちに会えなくなる気がしてさ」 トランの瞳が揺れる。 熱と不安が入り混じったその声は、一瞬、エレナの表情を和らげた。「帰らなくて正解だったね」 エレナは再び、外に意識を向けた。 トランは見張り役として、森の異変——草木の枯れ、シカの狂気など様々なものを見てきた。外部の者との会話で他の村人よりは、外の世界のことも知っている。 姉のミラに守られがちだが、村のために役立ちたい。その想いは人一倍強い。 トランは「会えなくなるから」と言った。しかし、この場に踏み留まった理由はそれだけではないはずだ。「うわぁっ!」 トランが叫んだ。 突然、窓ガラスが激しい音を立てて飛び散った。鋭い動きで飛び込んできたのは、青白い瞳を持つシカに似た獣だった。その身体から立ち上る黒い霧が部屋を満たし、重々しい冷気が漂い始める。 トランが悲鳴を上げ、咄嗟に机の下へと隠れた。 エレナが弓を構え、鋭い眼差しで獣を狙う。 放たれた矢は空気を切り裂きながら飛び、かすかな音を響かせた。しかし獣は反射的にその矢を躱したかと思うと、鋭い勢いでリノアへ向かって迫ってきた。 獣の瞳がリノアたちを鋭く見据え、緊張が一気に高まる。 リノアは後ずさりながら、獣の鋭い瞳を睨み返し、距離を取った。その視線は獣の動きから一瞬たりとも離れない。──龍の涙が脈動している。自然が私に何かを訴えようとしているのは分かる。だけど、一体、どうすれば良いのか…… 全身を緊張が支配する。 リノアは深く息を吸い込み、胸の奥底に広がる緊張と不安を振り払おうとした。 この瞬間の選択が運命を大きく左右する——そんな得体の知れない感覚がリノアの心を支配した。「リノア、トランを守って!」 エレナの強い声が響いた。 その言葉に反応するように、リノアはトランに駆け寄り、机の下に潜り込むトランの前に立った。 震
二人が扉を閉めた瞬間、背後から響いていた低い唸り声が、建物を隔てるように途切れた。室内の冷たい静寂の中で、リノアたちの荒い呼吸だけが響き渡る。 リノアは疲れた手で扉に寄りかかりながら、胸をほっとなでおろした。その一方でエレナは緊張を途切れさせることなく、鋭い目つきで外の気配を探っている。「ここからが本当の試練──まだ気を緩めてはいけない」 リノアは自分に言い聞かせるように呟き、そして立ち上がった。獣たちが、こちらの様子を伺っているのが分かる。少しでも隙を見せれば、たちまちやられてしまうだろう。 窓の外は霧が怪しく揺らめいている。 その中から浮かび上がる異様な姿…… シカに似た姿——角は不自然に曲がりくねり、瞳は青白い光を放っている、まとう黒い靄のような光が、その存在をこの世界のものとは思えないものにしていた。 その奇妙な生き物たちが研究所の周囲をゆっくりと彷徨っている。──悲しげな唸り声……これは自然そのものの怒りなのかもしれない。 リノアの直感がそう囁いた。 森の奥深くでオルゴニアの樹を傷つけ、鉱石を掘り起こす人間の姿が脳裏によぎる。──きっと私たちが自然を穢したからだ。決して動物たちのせいでは…… リノアは胸に手を当てた。──やはり、そうだ、龍の涙は自然の怒りに反応している! その感触にリノアの胸が痛む。 生き物たちの動きが次第に警戒を増し、悲しくも怒りを湛えた唸り声が低く響き渡る中、エレナは鋭い動きを見せた。「追い払わなきゃ」 そう呟いたエレナは即座に弓に手を掛けた。その瞬間、リノアの顔が強張った。「エレナ!」「分かってる。眠らせるだけよ」 エレナは矢筒から特殊な加工を施した矢を選び、慎重にそれを弓に掛けた。矢先には薬草から抽出された微量の神経毒が塗布されている。 エレナの瞳が鋭く光り、狙いを定めた。その姿は、一瞬の隙も許さない緊張感を纏っている。リノアは心の奥底から湧き上がる恐怖に飲み込まれそうになった。──矢を放つことで自然の怒りを更に煽ることになるのではないか。 しかしリノアには、どうすることもできない。自然への敬意と悔恨を胸にエレナの背中を見守るほかないのだ。 龍の涙はリノアの胸の内で赤く脈動し続けている。リノアはただ、その場に立ち尽くした。 と、その時、部屋の奥で小さな物音がした。 反射的にエレ
エレナが森の奥をじっと見つめた後、リノアに目配せを送った。「もう戻って来る気配はないみたいね」 エレナが安堵した表情を浮かべて言った。「帰るよ、リノア。あまり長く、この場所に居続けない方が良い」 そう言うと、エレナは握りしめていた弓をそっと背中に回し、矢筒の中に矢を丁寧に収めた。その動作は穏やかでありながらも、戦士としての洗練された所作を感じさせる。 エレナは肩を軽く回した後、足を一歩、前に踏み出した。 リノアは水晶をポケットに滑り込ませ、最後にもう一度オルゴニアの樹を見ようと思い、振り返った。 背後にそびえるオルゴニアの樹── その威厳ある姿は月光を浴びて一層、厳かな雰囲気を纏っている。──この樹が見てきたこの森の物語は一体、どういったものなのだろう。私の知らないことを沢山、知っていそうだ。 リノアは、その雄姿を記憶に深く刻み込ませるように眺め、エレナの後を追った。 木々の間を抜けた月の光が道を照らしている。 その道の上を流れる一筋の風を感じていた時、ふとリノアの耳に音が飛び込んできた。 それは森そのものが警告を促すかのような不快な音だった。──この鳴き声は動物のものだ。 リノアは直感的にそう感じ、息を潜めたまま耳を澄ませた。 その不協和音にも似た動物たちの咆哮は森の奥深くから聴こえてくる。その不気味な声にリノア胸がざわつく。──動物たちが怒っている……。オルゴニアの樹に触れたからだろうか。 リノアがその感覚に思考を巡らせる間もなく、風が不意に止まり、森を包んでいた音が消え去った。突然訪れた異様な静寂にリノアは警戒心を覚えた。 空気がひどく重く感じられる。──獣の息遣いを思わせる音、そして、この地面を震わせる足音…… 森全体から発せられるこの緊張感は、まるで一つの意思がリノアたちを押し潰そうとしているかのようだった。 リノアは咄嗟にエレナの腕を掴んで言葉を投げかけた。「急いで、早く……!」 リノアの言葉に反応したエレナは、リノアと共に小走りで森を駆け抜けた、その目は森の奥深くを探るように鋭く光っている。 二人の足が濡れた土を踏み、静寂を断ち切る中、唸り声と獣たちの足音が背後から迫って来る。 走っている最中、リノアは胸の龍の涙に意識を飛ばした。──龍の涙が反応している! 静けさとは程遠い、激しい怒りに共鳴す
「エレナ、今の人たちって誰だろう?」 リノアが囁くように問いかけた。この辺りの集落の人たちとは服装も雰囲気も明らかに異なっている。「街の人たちじゃないかな」 エレナが短く答えながら、人影が消えた方向に目を凝らした。 旅人や行商人以外、街の住民が山を登ってくることは滅多にない。通常は村人たちが街まで降りて売買するものであり、街の者がわざわざ山を登ってくることは考えにくい。 それに今は夜でもある。この時間帯に山にいるのは不自然なことだ。しかも、この辺り一帯は、村の領域として知られている。「生命の欠片って言ってたよね」 リノアが呟いた。 頭の中でその言葉が繰り返される。──確かに、そう言っていた。龍の涙とは別の物だろうか。 一体、人影たちは何を探していたのだろうかと思い、リノアは人影が彫った穴に向かった。 青白く光る物体──地面に叩きつけられ、放物線を描きながら地面を跳ねて行った映像がリノアの脳裏に鮮やかに蘇る。 恐らく、この辺りだろう。 リノアは、映像をなぞるように物体の後を追った。 霧が薄くたなびく中、リノアは慎重に物体を探し始めた。湿った草の感触が指先に伝わり、冷たく柔らかな土がかすかに抵抗を返してきた。 ふと、リノアの指が硬く滑らかな物体に触れた。それは他のどれとも異なる質感で、妙な温かみを感じさせるものだった。 青白い光がリノアの顔をほのかに照らす。 物体は小さく、透明感のある結晶──その輝きは不規則で、まるで内部に閉じ込められた生命が脈動しているかのようだった。 リノアは驚きと共に息を呑んだ。ペンダントに使われている鉱石とは異なる物体……。 一目見て、ただの石ではないことが分かった。このような躍動する石は村には存在しない。「エレナ、これ、何か知ってる?」「鉱石の中には特別な力を持つ物があると、シオンから聞いたことがあるけど、それかな。私にも触らせて」 そう言って、エレナが水晶に触れてみるが、水晶は何の反応も示さなかった。「リノア、ペンダントに近づけてみて。何か反応するかも」 エレナが言った。 リノアがペンダントに水晶を近づけた瞬間、ペンダントに刻まれた星の紋章がふわりと輝きを増した。その光は、まるでペンダントが水晶に反応しているかのように神秘的なものだった。──始めてペンダントに触れた時、神殿の光景が目の前に
エレナが矢筒を背負い直して茂みを出て行き、リノアもその背中を追うように続いた。 夜の冷たい空気が肌を切るように触れる。辺りは恐ろしいほど静まり返り、霧がゆっくりと地面を這うように広がっている。 足を踏み出すたびに草が湿った音を立て、リノアのペンダントがわずかに輝きを放ちながら揺れた。 その光は薄暗闇の中で頼りない希望のように感じられるものだった。 遠ざかった人影はすでに姿を消している。リノアは人影の後を追うように神殿の方向へ視線を向けた。 月光に照らされ、浮かび上がった神殿のシルエット。それは荘厳でありながら不気味な雰囲気を漂わせ、まるで二人を誘うかのように佇んでいる。 シオンの真実が、そこに待っている。しかし、そこに足を踏み入れることがどれほど危険な行為なのか、リノアには肌で感じ取ることができた。──神殿から離れて、わざわざここまで来たのは何故だろう。 リノアは、ふと思った。──何かを目印にでも? リノアは周囲を見回した。 木々の影が月光によって長く地面に伸びている。その樹木は鬱蒼と茂り、枝葉が重なり合って微かな風の流れを遮っている。 樹木以外は、これといって目立ったものはない。あると言えば、ひと際目立つ大木くらいだ。 幹が大きく真っ二つに割れている。しかし逞しくも根が地面を掴むように広がっており、古木の割には生き生きとしている。 根元にある色褪せた草花と比べ、その存在は、どこか異質なものを思わせた。 リノアは少し離れた位置から大木を見上げた。「オルゴニアの樹……」 伝承に語られるその樹の名が自然とリノアの口をついて出た。その声には、どこか懐かしさと畏怖が滲んでいる。 リノアはこの樹を何度か目にしたことがあった。 戦乱の記憶と共に蘇るのは、幾つもの古木が炎に呑まれ、破壊されていった光景だった。だが、オルゴニアの樹は奇跡的に生き延び、その根を地にしっかりと下ろしながら時を越えて存在し続けている。 その姿は、今もなお威厳と不気味さを携え、森の中で孤高の存在感を放つものだった。 近年では薄れつつ感覚ではあるものの、村人たちはかつて、森や自然そのものに神秘の力を見出してきた。 岩や湧き水、花、キノコ、菌糸、さらには日常の些細なものに至るまで、彼らは敬意を持って崇拝していた。オルゴニアの樹は、その象徴とも言える存在だった。「