All Chapters of 愛は二度と振り返らない: Chapter 1 - Chapter 10

28 Chapters

第1話

「私、星市に行って先生の下で医学を学ぶことに決めました」佐藤奈々(さとう なな)の言葉が終わるか終わらないかのうちに、受話器の向こうから鈴木(すずき)教授の年老いた、しかし喜びに満ちた声が聞こえた。「奈々はあのバカのことを諦められたのかい?」奈々はひそかにスカートの裾を固く握りしめ、言葉を発する前から苦い思いが込み上げてきた。「諦めるも何も、その頃には彼のことなんてすっかり忘れているでしょうから」風が奈々の呟きをかき消し、鈴木教授ははっきり聞き取れなかった。「何だって?何を忘れるって?」「いえ、何でもありません。では、仕事に戻ります。月末に星市でお会いしましょう」電話を切った後、奈々は目の前にある東洋医学クリニックを見上げた。美しいアーモンド形の目には、隠しきれない緊張と不安が宿っていた。他人の研究のためにモルモット代わりに鍼を打たれるのは、終わりのない苦痛だ。今日の実験が終わるまでにあと何本の鍼を打たれるのか。そして治験が成功するまで、あと何日この痛みに耐えなければならないのか。彼女には見当もつかなかった。しかし、夫である高橋颯人(たかはし はやと)の夢と仕事のためなら、奈々は歯を食いしばって耐え忍ぶ覚悟だった。彼女は深呼吸をして、東洋医学クリニックの扉を押し開け、忙しそうに立ち働く颯人の姿に見入った。彼は清潔感のある涼やかな顔立ちで、白衣を纏うと、まるで人々を救う神々しい光を放っているようだった。同じく白衣を着た松本時宗(まつもと ときむね)が慌ただしく颯人のそばに寄ってきた。「先輩、また奥さんに鍼治療の治験をお願いしたんですか?」颯人は薬の調合に忙しく、顔も上げずに答えた。「ああ。何か?」時宗は心配そうな顔で、長椅子におとなしく座って待っている奈々をちらりと見て言った。「この前の鍼治療の治験の後、奥さんの記憶が少し混乱しているように感じます。今の治療計画はまだ不完全で、予期せぬ副作用があるかもしれません。先輩、最新の研究結果が出るまで待って、奥さんへの治験は一時中断したほうが……」時宗の声は小さかったが、一言一言がはっきりと耳に届いた。奈々は思わずバッグのストラップを握りしめ、緊張した面持ちで颯人を見つめた。実のところ、最初の実験の時から、彼女には記憶障
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第2話

颯人の言葉は奈々の心に深く突き刺さり、抜けない棘のように痛みを残した。朦朧とした意識の中、どれほどの時間が経ったのか分からないまま、鍼治療の治験はようやく終わった。奈々は青ざめた顔で起き上がり、バッグを手に取って立ち去ろうとした。だが颯人は彼女の腕をつかんで引き止めた。「待っていてくれ。昼から従弟の翔太(しょうた)の結婚式に出るんだ」「わかったわ」奈々は長椅子に腰を下ろし、真剣に仕事をする颯人の姿をぼんやりと見つめていた。そして、ふと思い立ったように彼女はスマートフォンを取り出し、録音機能を起動させた。「今日で颯人と出会って十二年、結婚して七年になる。私が京市を離れ、彼のもとを去るまで、あと十五日。母が重病になって、私は大学を辞めて食堂でアルバイトを始めた。そこで、いつもおにぎりだけを食べ、無料の味噌汁を飲んでいる颯人に出会った。彼も私と同じように、厳しい環境の中で必死に生きているんだと、胸が痛んだ。食堂は毎日大勢の人でごった返していたけれど、私の目には彼しか映らなかった……」流れるように語っていた声が突然途切れた。次に何を言うべきか思い出せず、奈々の瞳には戸惑いの色が浮かんでいた。颯人が私服に着替え、大股でこちらへ歩いてくるのを見て、彼女は慌てて録音を保存し、立ち上がりながら思わず尋ねた。「お昼、どこで食べるの?」颯人はぴたりと足を止め、眉をひそめた。「翔太の結婚式に出ると言っただろう?」「ごめんなさい、忘れていた……」奈々の言葉が終わらないうちに、颯人の苛立った声が飛んできた。「記憶喪失のふりも飽きないな」彼女は俯き、潤んだ瞳を隠すように呟いた。「ごめんなさい。もう二度と『忘れた』なんて言わないわ」二時間後、ホテルの結婚式場。純白のウェディングドレスに身を包んだ花嫁が、スポットライトを浴びながら、一歩一歩と花婿のもとへ歩み寄っていく。目の前の幸せそうな光景に、奈々は両手を組み、羨望の眼差しで見つめていた。花婿花嫁が挨拶に来た時、奈々はグラスを手に取り、心からの祝福を述べた。「末永くお幸せに。そして早く可愛い赤ちゃんにも恵まれますように」すると花嫁は口元を手で隠し、くすくす笑いながら颯人に向かって言った。「お兄さん、お義姉さんともう七年も結婚してるの
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第3話

結婚式が終わって帰宅すると、颯人は疲れ果ててソファに深く沈み込んだ。「さっきはろくに食べられなかったから、うどんを一杯作ってくれ」「わかったわ」奈々はすぐに湯気の立つうどんを用意し、テーブルに置いた。颯人は一口啜ると眉をひそめ、吐き出すように言った。「なんでこんなに塩辛いんだ?塩の瓶でもひっくり返したのか?」「ごめんなさい……」奈々はうろたえ、エプロンの裾をぎゅっと握りしめた。最近、記憶がいつも混乱していて、調味料を何度入れたか分からなくなることが多かった。だが、颯人の前では、もう「忘れた」という言葉は口が裂けても言えなかった。「また『ごめんなさい』か。一日中謝ってばかりで、何の役に立つんだ?」颯人は箸を乱暴にテーブルに叩きつけ、声を荒げた。「うどん一杯まともに作れないお前に、他に何ができるのか?」彼の冷たい眼差しは底なし沼のようで、奈々を少しずつ引きずり込み、窒息させるようだった。奈々は目に熱いものがこみ上げるのを感じながら、涙をこらえて声を絞り出した。「私……私には、まだ鍼治療の治験の被験者になることができます……」彼女は去り際に、自分が何の役にも立たない人間だという印象だけは、颯人に残したくなかった。奈々の潤んで赤くなった瞳と視線が合うと、颯人はふいと目を逸らし、唇を真一文字に結んだ。「お前がそう言うなら、明日から毎日、時間通りに治験に来い」以前は週に一度だった鍼治療の治験が、毎日行われることになった。奈々の顔色は日に日に青ざめ、意識も日に日に朦朧としていった。それでも彼女は毎日欠かさず、朝九時きっかりに東洋医学クリニックへに現れ、長椅子におとなしく座って、颯人が準備を整えて呼ぶのを待っていた。その日、十時を過ぎても颯人は現れなかった。心配になった奈々は立ち上がり、ガラス窓越しに診療室の中を覗き込んだ。そして、颯人が片膝をつき、ある若い女性、宮本詩織(みやもと しおり)の前に屈み込んでいるのが見えた。その女性は頭の帽子をしっかりと押さえ、痩せた小さな顔には涙で潤んだ大きな瞳があった。か弱く、思わず守ってあげたくなるような雰囲気を漂わせていた。「詩織は俺にとって一番美しいよ。髪がなくたって、きれいだ。いいから、帽子を取って。必ず治してみせるから」颯人の声は柔らかく、その表情の優しさはは人を蕩けさせるほど
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第4話

奈々は信じられない気持ちで手を上げ、呆然と自分のお腹に触れた。多嚢胞性卵巣症候群で妊娠しにくい体だと分かっていたのに、まさかこんなタイミングで妊娠するなんて……七年もの間、どんなに願っても授からなかった子が、よりによって彼のもとを去ろうと決めたこの時期にやって来るなんて。これは、運命が私にここに留まれと言っているのだろうか。時宗は険しい表情で診察室に入り、颯人に奈々を被験者に使うのをやめるよう説得した。一方、奈々の妊娠を知った詩織は、泣きながら颯人の胸に顔を埋めて訴えた。「颯人くん、お願い、もうやめて。私の脳腫瘍は末期でもう助からない。でも、あなたの子は……かけがえのない命なのよ」颯人の冷たい瞳に葛藤と痛ましさの色がよぎったが、それでも掠れた声で詩織をなだめた。「君がいたからこそ、今の俺の医学があるんだ。どんなことがあっても、君を死なせはしない」奈々の胸には、大きな穴が開いたような痛みが走った。彼女は最後の望みを託すように、懇願するような眼差しで呟いた。「颯人、私がこの子を授かるのがどれだけ難しかったか、分かっているでしょう……」颯人は感情を読み取らせない深い眼差しで奈々を見つめ、きっぱりと言い放った。「医学の世界では、出産よりも個々の生命が優先される。子供は、またきっと授かる」その有無を言わせぬ態度に奈々はなすすべもなく、込み上げる苦しさを押し殺して小さな診察台に横たわった。鍼の実験の途中、下腹部に鈍痛を感じ、はっとして手を当てた。颯人は眉をひそめ、即座に彼女の手首に指を当てて脈を取った。「心配するな。子供は大丈夫だ」一瞬、彼の顔に苦渋の色が浮かんだように見えたが、奈々が捉える間もなく消え去った。「今日はここまでにしよう」颯人は突然振り返り、時宗に告げた。頭の鍼がすべて抜かれた後、奈々はバッグを肩にかけ、東洋医学クリニックの入口へと歩いた。すると、颯人がベビーカーの前で片膝をつき、優しい表情で小さな赤ちゃんをあやしている姿が目に入った。その光景に、奈々の胸は甘酸っぱさと切なさ、そして言いようのない感情でいっぱいになった。彼がそんなに子供好きなら、どうして私たちの子は愛してくれないの?きっと……颯人は私を愛していないからだ。もしこの子がいなくなったら、私にはも
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第5話

「わたし……」奈々は必死に記憶をたぐり寄せようとしたが、結局、困惑した表情で首を振るしかなかった。「ごめんなさい、思い出せないの……」颯人の瞳は底知れぬほど暗く沈んでいた。「お前、振込明細書を偽造して、わざと部屋で時間を稼いだんだろう。俺に見せたかったんじゃないのか?」奈々が言い返す間もなく、颯人は目尻を赤くしながら冷たく言い放った。「子供のために治験を中止して、別の方法を探すと言ったばかりだ。なのになぜ詩織が昔してくれた援助を、お前が横取りしようとする?」颯人の冷たい詰問に、奈々の心は引き裂かれるように痛み、体がまるで氷を浴びせられたように冷え切った。「ごめんなさい、本当に覚えてないの……」彼女の涙に濡れた赤い瞳を見ると、颯人は背を向け、ドアを乱暴に閉めながら言った。「駐車場で待っている。五分以内に来い」一時間後、産婦人科の超音波検査室で、赤ちゃんの小さくも力強い心音が聞こえた時、颯人の表情はようやく和らぎ、顔つきも穏やかになった。奈々の心はその瞬間に温かさで満たされた。颯人がエコー画面に集中している隙に、こっそりスマホを取り出してメッセージを送った。【鈴木教授、今月末は行けなくなりそうです】すぐに返信が来た。【枠は月末まで確保しておくから、よく考えなさい】奈々は「もう考える必要はありません。今、私は幸せですから……」と入力しかけたが、颯人が突然口を開き、メッセージを送信できなかった。「見舞いの品と果物を選んで、一緒に詩織の見舞いに行くぞ」十五分後、腫瘍科の病棟。颯人が病室のドアを開けると、詩織は飛ぶように彼に駆け寄り、抱きついてきた。「颯人くん!」しかし、彼の背後にいる奈々に気づくと、詩織ははっとしたように動きを止め、気まずそうに呟いた。「ごめんなさい……颯人くんが来てくれたのが嬉しくて……」「構わん。こいつには気にしなくていい」颯人は奈々に見向きもせず、慣れた手つきで詩織をベッドに座らせると、言葉を選びながら話し始めた。「今日来たのは、君に相談したいことがあるんだ。子供を産むことにして、鍼の治験は中止することに決めた。だが、必ず別の方法を見つけて君を治す。詩織、俺を信じてくれ」詩織は驚いた表情で、奈々のまだ平らなお腹をじっと見つめた。そして涙を浮
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第6話

奈々の記憶喪失を前にしても、颯人は平然としており、まるで全てを見透かしているかのようだった。「この鍼法は六年かけて研究してきた。リスクや副作用はすべて記録してあるが、記憶を失うという症状は一つもない」颯人の皮肉めいた声はますます冷たくなった。「お前の記憶喪失の芝居はやりすぎだ。本気でやるなら、俺のことも忘れたことにしてみろよ」彼は未練なく背を向けて病室を出て行き、奈々はめまいと頭痛に苦しみながら、ぼんやりと残された。しばらくして、颯人はスープの入った椀を持って戻ってきた。「子供のことを免じて、一度だけチャンスをやろう。今後、もしまた詩織に何か企んだりしたら、必ず後悔させてやる」颯人は奈々をじっと見つめたが、彼女の顔に悲しみや苦悩の色は微塵も見られなかった。奈々の澄んだ瞳はテーブルのスープ椀だけをじっと見つめ、静かに言った。「私はセロリも刻みねぎも苦手なの」一瞬呆気に取られた後、颯人はまるで尻尾を踏まれた猫のように身を強ばらせた。「じゃあ自分で好きなものを頼め。退院の時に迎えに来る」慌てて立ち去る彼の背中を見送りながら、奈々は独り言のように呟いた。「どうしても思い出せない。そもそも、なぜ私は颯人と結婚したんだろう?どう見ても、彼は私を愛していないみたいだ」翌日、産婦人科。わざわざ奈々を迎えに来た颯人だったが、病室は空っぽで、彼は呆然と立ち尽くした。「何だって?彼女が自分で退院したって?」去り際に、退院時には自分が迎えに行くと奈々に伝えたはずだ。以前なら、たとえ真冬の深夜二時でも、凍えるほど寒い中でも、奈々はおとなしくロビーで彼を待ち、一緒に家に帰ったものだった。その頃、奈々のスマホからは備忘録の音声通知が流れていた。「星市へ行くまであと十二日。荷物を整理し始めなきゃ」スマホを操作すると、何百もの録音を保存していることに気づいた。「颯人は朝食にうどんが好きで、調味料は控えめで、ねぎをたっぷり入れるのが好み。今日、うっかり忘れて自分好みに醤油をたくさん入れて、ねぎを入れなかった。彼は一口も食べずに、空腹のまま不機嫌そうに出勤してしまった」その録音に込められた心配さと罪悪感が、画面越しに奈々の胸に突き刺さった。次の録音は、まるで世話焼きな母親の小言のようだった。「
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第7話

颯人は一瞬言葉に詰まり、喉に何かが引っかかったような感覚に苛立ちを覚えた。しばらく我慢した末、冷たく言い放った。「もう疲れてるんだ。お前のわがままに付き合う暇はない」彼はドアをバンっと閉めて出て行きながら、心の中で「5、4、3……」とカウントダウンし始めた。以前の奈々なら、颯人が怒った顔を見ると、たとえ裸足でも必死に駐車場まで追いかけてきたものだった。エレベーターが到着する音と共に、颯人は自信を持って最後の数字まで数え終えた。しかし、廊下は静まり返っており、自分の呼吸音しか聞こえなかった。奈々が何か用事で来られないのかと思い、颯人はわざとしばらく長く待ってみた。二分経っても何も起こらず、彼は苦虫を噛み潰したような顔でエレベーターに乗り込みながら呟いた。「奈々、いつまでその芝居を続けるつもりだ」その後、颯人と奈々の冷戦はこれまでにない十日間も続いた。彼は毎日、少しでも時間ができるとスマホを確認したが、奈々からの連絡は一切なかった。颯人の顔色は日に日に険しくなっていった。彼の様子に気づいた時宗が、からかうように言った。「先輩、どうしても気になるなら一度家に帰って様子を見てきたらどうですか?奥さん、妊娠中なんですから」奈々と連絡が取れない期間があまりにも長く、颯人が帰るべきかと考え始めた矢先、まるで思いが通じたかのように奈々から電話がかかってきた。受話器越しに、奈々の慌てた声と申し訳なさそうな口調が聞こえてきた。「ごめんなさい、颯人。実は……前から時々記憶が曖昧になることがあったんだけど、あの日病室で頭をぶつけてからひどくなって、今日やっと少し落ち着いたの。私があんな態度を取るべきじゃなかった。お昼に帰ってきて食事しない?」颯人の表情はすぐに和らいだものの、声のトーンはまだ少し冷たかった。「もう我慢できなくなったなら素直に謝ればいい。妊娠してるんだから、今回は大目に見てやる。わざわざ記憶喪失なんて嘘をつかなくていい。そんな下手な芝居で俺は騙されないし、お前自身が惨めになるだけだ」奈々は一瞬黙った後、重い口調で答えた。「わかったわ。じゃあ、仕事が終わったら早く帰ってきてね」正午の十二時半、颯人が家に帰ると、奈々はキッチンで忙しそうに料理をしていた。彼女は白いTシャツを
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第8話

潔癖症の颯人は、血だらけの床に構わず跪き、声を震わせた。「どうして急にこんな状態になったんだ!」詩織は悲痛な表情で首を振った。「私に生きる望みはほとんどないの。颯人くんに自分の子供を失ってほしくなくて……薬を止めたの。こうして静かに去って、もう誰の重荷にもなりたくなかった」颯人は拳を指の関節が白くなるほど強く握りしめて呟いた。「なんて馬鹿なことを……」彼は拳を開いては握り、何か決意を固めたように言った。「時宗、ちょっと来てくれ」二人は診療室に入り、ドアを閉めて会話を遮断した。詩織はそれまでの弱々しい様子から一変し、険しい表情で奈々に言い放った。「あんたがどれだけ颯人のために尽くしたって、彼の心の中にいるのは私だけよ。信じられないなら、私とあんたたちの子供の間で、彼がどんな選択をするか見ていればいいわ」彼女の言葉が終わるか終わらないかのうちに、診療室のドアが勢いよく開けられた。「だめです!それは危険すぎます。万が一のことがあれば、子供だけでなく奥さんの命も危ないんです!」時宗の強い抗議に、颯人は断固として言い切った。「俺の子供だ、俺の妻だ。彼女が同意するなら、お前に口出しする権利はない」奈々は深い絶望に沈み、喉に詰まる嗚咽を必死に抑えた。生まれて初めて、彼女は颯人に反抗した。「この子は、私の子供でもあるのよ……」颯人は深く息を吸い込んだ。「あの時、自分から俺に嫁ぎたいと言って、『あなたの仕事を全力で支える』と約束したじゃないか。最初からずっと嘘だったのか?」奈々は一瞬にして力が抜け、彼に診察台に寝かされるままになり、涙ながらに懇願した。「お願い、希望を与えておいて、また無情にもこの子を奪わないで……」しかし颯人は聞く耳を持たなかった。「今回は前より痛むぞ。我慢しろ」数本の鍼が打たれただけで、脳神経を鋭いもので掻き回されるような激痛が走った。頭と下腹部に耐え難い痛みが襲い、奈々は唇を噛みしめ、喉に血の味が広がった。下腹部から温かいものが流れ出し、それが血なのか痛みによる失禁なのか、区別がつかなかった。颯人はそれを見て顔色を変え、手を震わせながらも、充血した目で歯を食いしばって鍼を打ち続けた。痛みで意識が朦朧とする中、奈々は叫んだ。「痛い……
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第9話

颯人の脳裏に恐ろしい考えが浮かんだ。それは、奈々を、永遠に失ってしまうのではないかという恐怖だった。彼はもう奈々が決して出ることのない番号への通話を切り、代わりに警察に通報した。「もしもし、通報したいんです。今日、妻が行方不明になって、連絡が取れません」その後、ソファに沈み込んでいた時間がどれほど経ったのか、もう覚えていなかった。スマホの着信音が鳴った瞬間、颯人はソファから飛び上がるように身を起こした。「もしもし、高橋さん、奥様の行動を調べましたが、京市を出るための飛行機や電車のチケットは購入されていませんでした。ご夫婦間で何かトラブルがあったのでしたら、市内でご自身で探してみることをお勧めします」警察からの電話を切ると、颯人は目を伏せた。漆黒の睫毛が瞳を覆い、その奥の感情を隠していた。颯人の表情が目まぐるしく変わり、最後に口元を緩めて小さく笑った。「奈々、やっぱり俺から離れられないんだな。今回は俺が悪かった。せっかく授かった子を失わせてしまったから、今回だけはお前のわがままを許してやる」彼はテーブルの上の二通の離婚協議書を手に取り、迷わず引き裂いた。「お前が気が済んで戻ってきたら、過去のことは水に流してやるからな」そして、時間だけが過ぎていく。颯人は苛立ちを抑え、何事もなかったかのように振る舞おうとした。だが、朝夕を共にした人がいなくなって、本当に平気でいられるはずがなかった。歯を磨いているとき、洗面台から、昔自分が「ダサい」と嫌っていたピンク色のパチャドッグのうがいコップがなくなっていることに気づいた。平静を装って視線を戻したが、無意識に歯を強く磨いていた。吐き出した歯磨き粉の泡に鮮血が混じっていることにも気づかなかった。風呂に入るとき、もう誰も着替えやバスタオルを用意してくれなくなった。颯人は裸足で取りに行こうとして足を滑らせ、仰向けに強く転んだ。彼は突き飛ばされて頭を打ち、目の前がチカチカして、痛そうに後頭部を押さえた。だが、なぜか顔を覆い、わけもなく低く笑い出した。「奈々、随分と腕を上げたな。今の芝居、本物みたいだ。俺も信じそうになったぞ」颯人自身も気づいていなかったが、その言葉を発するとき、声が微かに震えていた。突然、スマホの着信音が鳴った。この時
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第10話

詩織は何の疑いも持たず、恥ずかしそうに俯いた。「颯人くん、これは全部、私が自分で望んでやったことよ。気にしないで。私の援助で、あなたがたくさんの患者さんを助けられるなら、本当に光栄だわ」颯人は拳を固く握りしめ、顔色がみるみる険しくなった。174万4260円。この振込金額を、彼は死んでも忘れることはないだろう。あの時の、端数まで含めた送金額は、寄付した人の全財産だったはずだ。相手がそんな金額を間違うはずがない。40万円と170万円では、雲泥の差がある。ましてや、寄付者は現金ではなく振込を選んでいた。もし本当に詩織が寄付者なら、そんな基本的なことすら知らないはずがない。颯人の胸にどす黒い予感が広がり、まるで嵐の前の静けさのように、心臓が息苦しいほど締め付けられた。「まだ用事があるので、先に失礼します」彼は詩織が涙ながらに引き留めるのも無視し、きっぱりと背を向けて立ち去った。家に戻ると、颯人は必死になって部屋中を探し回った。しかし、受け入れざるを得ない残酷な現実は、家の中に奈々の痕跡が一つも残っていないということだった。彼は力なくベッドの縁に座り込み、自分の体温が少しずつ奪われていくのを感じた。「奈々、戻ってきて、あの時の寄付は君だったと自分の口で言ってくれれば、俺は信じるから」その時、颯人の指先が革表紙の何かに触れた。腰をかがめて見ると、奈々がうっかりベッドの下に蹴り込んでしまったらしい日記帳があった。開いてみると、日記帳には振込明細書の身分証明書が挟まっていた。そして、そのページには美しい筆跡で、はっきりとこう書かれていた。「あなたが私に負っているのは、子供の命だけではない。でも、もう返してほしくない。けじめをつけて、これからは他人同士として生きていきましょう」頭の中で何かが爆発したような衝撃を受け、颯人は目の前の事実が信じられなかった。親指で日記帳の慣れ親しんだ文字と、乾いて皺になった涙の跡をなぞると、もう自分を欺くことはできないと悟った。奈々は彼に意地を張っていたわけではない。今回は本当に彼のもとを去り、二度と戻ってくるつもりはないのだ。颯人は焦って立ち上がったが、彼女をどこで探せばいいのか、まったく見当もつかなかった。その現実に直面し、心臓が抉り取られたよ
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