「私、星市に行って先生の下で医学を学ぶことに決めました」佐藤奈々(さとう なな)の言葉が終わるか終わらないかのうちに、受話器の向こうから鈴木(すずき)教授の年老いた、しかし喜びに満ちた声が聞こえた。「奈々はあのバカのことを諦められたのかい?」奈々はひそかにスカートの裾を固く握りしめ、言葉を発する前から苦い思いが込み上げてきた。「諦めるも何も、その頃には彼のことなんてすっかり忘れているでしょうから」風が奈々の呟きをかき消し、鈴木教授ははっきり聞き取れなかった。「何だって?何を忘れるって?」「いえ、何でもありません。では、仕事に戻ります。月末に星市でお会いしましょう」電話を切った後、奈々は目の前にある東洋医学クリニックを見上げた。美しいアーモンド形の目には、隠しきれない緊張と不安が宿っていた。他人の研究のためにモルモット代わりに鍼を打たれるのは、終わりのない苦痛だ。今日の実験が終わるまでにあと何本の鍼を打たれるのか。そして治験が成功するまで、あと何日この痛みに耐えなければならないのか。彼女には見当もつかなかった。しかし、夫である高橋颯人(たかはし はやと)の夢と仕事のためなら、奈々は歯を食いしばって耐え忍ぶ覚悟だった。彼女は深呼吸をして、東洋医学クリニックの扉を押し開け、忙しそうに立ち働く颯人の姿に見入った。彼は清潔感のある涼やかな顔立ちで、白衣を纏うと、まるで人々を救う神々しい光を放っているようだった。同じく白衣を着た松本時宗(まつもと ときむね)が慌ただしく颯人のそばに寄ってきた。「先輩、また奥さんに鍼治療の治験をお願いしたんですか?」颯人は薬の調合に忙しく、顔も上げずに答えた。「ああ。何か?」時宗は心配そうな顔で、長椅子におとなしく座って待っている奈々をちらりと見て言った。「この前の鍼治療の治験の後、奥さんの記憶が少し混乱しているように感じます。今の治療計画はまだ不完全で、予期せぬ副作用があるかもしれません。先輩、最新の研究結果が出るまで待って、奥さんへの治験は一時中断したほうが……」時宗の声は小さかったが、一言一言がはっきりと耳に届いた。奈々は思わずバッグのストラップを握りしめ、緊張した面持ちで颯人を見つめた。実のところ、最初の実験の時から、彼女には記憶障
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