All Chapters of ピアノは響けど、君の姿はもういない: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

物が少し減っただけなのに、どうしてこんなに空っぽに感じるんだろう?昔は平気で一人で過ごせたのに、どうしてこんなに落ち着かない?クローゼットには半分だけ空間が空いて、銀司の服だけが残っている。部屋の空気にかすかに残る美鈴の香水の香りだけが、唯一の安らぎだった。美鈴は去った。でも家の至る所に、彼女がいた証が残っていた。棚の花瓶には彼女の大好きだった百合があるが。ずっと水を替えられず、すっかり枯れていた。キッチンの小物や食器類は、全て彼女が選んだものばかり。あの日、彼女がこれらを選んでいる時の笑顔まで、今でも鮮明に思い出せた。「これからは私たちの家なんだから、一つ一つ大切に選びたいの」彼にもう一度家が持てるだろうか?帝都の実家はとっくに冷え切っていて、帰る場所ではなかった。まさか、また家を失うことになるなんて。今、銀司はソファに座った。美鈴がいつも座っていた場所だ。眠くてうつらうつらしながらも、必死に彼を待っていたあの日の姿を思い出した。あの時感じた温もり……久しぶりに感じた心安らぐ瞬間だった。葵がいなくなってから、実家は崩れていった。両親は喧嘩ばかりで、冷たい視線を交わすだけ。あれはもう家とは呼べなかった。玄関を見つめながら、彼は静かに奇跡を待った。もしかしたら次の瞬間、美鈴がドアを開けて「全部嘘だったの」と言うんじゃないか?でも今日は四月バカの日じゃない。彼は一晩中目を開けたまま、玄関を見つめ続けた。突然、けたたましいインターホンの音。銀司は鈍い動きで立ち上がる。目は真っ赤に充血していたが、杏を見ると、表情は冷静さを取り戻していた。「何の用だ?」杏は彼の憔悴した姿に驚き、ゆっくりと言った。「銀司さん……まだ怪我が治ってないのに、どうして病院を出たんですか?もしかして橋本さんが……?体のことが一番大事ですよ。お願いですから、まずは治療に専念してください」彼女は銀司の袖を掴んで懇願した。しかし銀司は、その指を一本一本ほどいていった。「杏、美鈴がいなくなった。彼女を探さなきゃ。彼女は今、きっと……俺を待ってる」
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第12話

「必ず見つけ出す」銀司は一言一言を噛み締めるように言うと、患者衣のまま外へ飛び出した。「銀司さん、待って」杏は必死に叫んだが、彼の背中は遠ざかっていった。どこか懐かしい響きのその声に、ふと足を止めた銀司。振り返って杏の顔を見ると、表情が一気に険しくなった。「お前は彼女じゃない。『銀司さん』と呼ぶな。葵はもういないんだ」氷のようなその声は、これまでの冷静さを完全に打ち破っていた。杏は心臓を掴まれたような衝撃を受けた。「そ、そんな……葵って誰ですか?」 作り笑いを浮かべて聞き返した。銀司は何も答えず、ただ冷たい視線を投げかけると、再び歩き出した。「痛い。銀司さん、足を挫いてしまった」杏はわざと派手に転んだが、銀司は僅かに躊躇しただけで、そのまま去っていった。「どうして……どうして振り向いてくれないの?」怒りに震える手でハイヒールを脱ぎ捨て、力任せに道路に叩きつけた。「私があんなに頑張って葵に真似したのに……美鈴なんかより……」可憐な仮面は剥がれ落ち、本性の怒りがむき出しになっていた。結局、ハイヒールを拾い、足を引きずりながら帰路についた。彼女にはどうすることもできなかった。銀司はすでに姿を消しており、もはや葵を演じる必要がなかったのだ。一方、街を彷徨う銀司は、美鈴がどこへ行ったのか見当もつかない。彼女の好きな場所は?よく行ってた料理店は?七年間も一緒にいたのに、彼は彼女のことを何も知らなかった。確信を持って言えるのは、ただ一つ――彼女が自分を深く愛していたことだけ。最初から、銀司は余分な感情など必要ないと自負していた。恋愛などどうでもいいと。美鈴が繰り返し示した努力と誠実さが、ようやく彼の心を開かせたのだった。彼女との恋愛は、常に楽なものだった。あまり愛を注がなくても、彼女の全部の愛を受け取れるほど。だが七年もの歳月を共にすれば、さすがの彼も無関心ではいられなかった。これほどの時間をかければ、犬でさえ無二の忠誠心を育んだんだろう。ましてや彼女は優秀で、輝くような人だった。どうして愛せずにいられようか?ただ、彼の愛は彼女の比ではなかった。あまりに小さすぎた。人混みに立ち尽くす銀司の瞳には、ただ迷いだけが残っていた。人々が好
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第13話

銀司の冷たい視線が日菜と合った瞬間、彼は悟った。「ニュースの話じゃない。美鈴の居場所を知ってるんだろう?」「へえ」日菜は鼻で笑った。「知ってたとして?もう別れたんでしょ。教える義務なんてないわ。役人でも使って調べたら?私たちに聞いたって無駄よ」銀司の目が細くなった。「美鈴の居場所を教えてくれ。代償は何でも払う」女の子たちは笑いながら立ち去ろうとした。金に困っているわけでもないし、彼に頼ることもない。銀司は執拗に道を塞いだ。「なぜここまで隠す?もしかして……美鈴に何かあったのか?」その可能性を考えるだけで、胸が締め付けられた。日菜は苛立ったように彼を睨み、後ろからよたよたと近づいてくる杏を見て、さらに不快そうに言った。「新しい恋人がいるくせに、美鈴ちゃんのことを聞くなんてずるいわよ。愛してもいないのに、彼女の新しい人生を邪魔する権利なんてないでしょ?これがあの命がけで守った彼女?怪我してるじゃない。早く介抱してあげなよ。美鈴ちゃんがいなくなったおかげで、やっと一緒になれるじゃない。じゃあ、私が証人になってあげる。あなたたちの新しい恋の始まりを」これでもかとばかりに皮肉を浴びせた。銀司が振り返ると、杏の足首がパンパンに腫れ上がっている。眉をひそめ、「帰れと言っただろう」と冷たく言い放った。杏は大粒の涙をこぼし、上目遣いで見上げた。だが銀司の態度は変わらなかった。「杏は彼女じゃない。俺の恋人は美鈴だけだ。杏が妹のように思ってるだけだ。それ以上の感情はない」「あら、妹?」日菜は嘲笑った。「都合のいい『妹』さんね。血も繋がってないくせにあんなに甘やかして。本当に妹が欲しいなら、他の子にも優しくすればいいじゃない。どうして彼女だけ特別なの?美鈴ちゃんは何年もあなたを愛し続けたのに。その女にはあんなに……妹だなんて、誰が信じるかしら」他の女の子たちも同調した。「そうよ、今まで妹なんて聞いたことないわ」「最近の男って、なんか気のある女の子に『妹』って呼びかけたりして。マジで無理、こういうの」「いい加減な言い訳はやめてよ」一つ一つの言葉が銀司の胸に突き刺さった。顔から血の気が引き、思い出したくない記憶がよみがえた。長い沈黙の後、口を開こうとしたその時――
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第14話

「杏は……妹の葵に生き写しなんだ」銀司の声がふと震えた。長年胸に秘めてきた傷を初めて晒した。「葵は生まれつき病弱で、医者から十五歳までと宣告されていた。『葵』という名は、両親の願いを込めてつけたんだ。向日葵のように明るくて生き続けてほしくて……あの子は本当に優しい子で……最期の瞬間まで、俺たちのことを気遣っていた。心配をかけたくないって……俺が十八の時、ちょうど葵が十五になった。もう限界だと言われてたのに、『まだ大丈夫』って笑って、誕生日に遊園地に連れてってとせがんだ」話すのをためらう銀司。ずっと蓋をしていた傷は、むしろ隠していたからこそ、深く化膿していた。それでも、彼はその傷を引き裂くように語り始めた。「アイスクリームを買ってるほんの数分の間に……彼女は消えた。両親はありとあらゆる手を尽くしたが見つからなかった。みんなが言うんだ。葵は俺たちの前で息を引き取りたくなかったんだって。そうすれば、せめて……俺たちは彼女がどこかで生きいると思い続けられるからって」女の子たちは言葉を失った。先程までの辛辣さは消え、ただ葵への憐憫だけが残っている。銀司は長い沈黙の後、再び口を開いた。「杏は葵にそっくりだ。顔立ちも、笑い方も、仕草も。ただ一つだけ……決定的に違うことがある。葵は体が弱くて、ほとんどの肉が食べられなかった。唯一食べられた鶏肉も、食べすぎて最後は匂いを嗅ぐだけで吐き気がするようになった。杏は……葵じゃない。葵はとっくに……あの世に行ってしまったんだ」かすれた声には、深い悲しみがにじんでいた。あの時、葵の遺体は翌日、遊園地の近くで発見された。笑顔を浮かべたままだった。そばの遺書には、家族が幸せに暮らすようにとだけ記されていた。冷たくなった手には、溶けかけたアイスクリームのコーンが握られていた。甘い匂いが衣服にまで染み込んでいた。あれが彼女の短い人生で、最も幸せな瞬間だったのかもしれない。それ以外の日々は、ほとんどが病院のベッドの上での闘病生活だった。死は、彼女にとっては苦痛からの解放だった。だが、生き残った者たちには、永遠に癒えない傷となった。葬儀の後、銀司の両親はそれを受け入れられず、毎日のように罵り合った。銀司も自責の念に駆られ、家を出ることを選んだ。あ
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第15話

銀司の話を聞き終えた杏は、崩れるようにその場に座り込んだ。全てが終わったような気がした。自分が葵の代わりに過ぎないことは分かっていた。だが、銀司の口から直接そう告げられた時、胸が締め付けられるように苦しくなった。全身の力が抜け、立ち上がることさえできなかった。「はっ」自嘲的に唇を歪め、立ち尽くしている銀司を見上げた。この数ヶ月の自分が滑稽に思えた。あれだけ努力したのに……結局死んだ葵には勝てなかったのだ。銀司の心の中に、「杏」という存在など最初からなかったのだろう。ただの葵の代用品でしかない。一方、日菜と友人たちはその話を聞き、ただ呆れたようにため息をついた。「竹内、その女は葵じゃないわ。本当に罪悪感があるなら、墓前で話してあげなさいよ。他人で埋め合わせなんて意味ないでしょ。償うべきなのは美鈴ちゃんの方だわ」目を真っ赤にした日菜は、銀司の頬を思い切り平手打ちした。「あんたは美鈴ちゃんにひどいことをした。行き先は教えないけど、すぐに分かるわ。それに、私たちじゃないくて、美鈴ちゃんに謝るべきだわ。後悔する日が来るから」そう言い残すと、同じく怒っている友人たちと共に去っていった。銀司の整った顔に赤い掌跡が浮かんだが、彼は怒りすら覚えなかった。むしろ、どこかすっきりした気分さえしていた。そうか……彼女の言う通りだ。罪悪感と恐怖から、長い間葵の墓参りを怠っていた。もし葵が見ていたら、きっとがっかりしているだろう。俯いたまま、銀司は瞳の奥の傷を隠した。全身から滲み出る孤独感。今、猛烈に美鈴を抱きしめたくなった。昔のように、ただ手を握るだけで、自分が生きていると実感できたあの温もりが欲しかった。感情に振り回されるのは嫌いだと自負しながらも、心の奥では誰かにこの苦しみから救い出してほしいと願っていた。視界がぼやけてきた。美鈴が彼を追いかけていた日々を思い出した。彼女はどこからあんな執念を持っていたのだろう。冷たくされても、諦めずに追い続けた。そんなにしつこく迫ってきたのは、彼女が初めてだった。外見に惹かれる女性は多かったが、皆彼の冷たさに音を上げて去っていった。ただ美鈴だけが、燃えるような情熱で彼に近づいてきたのだ。自分が興味を抱いたその瞬間か
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第16話

銀司はすぐに彼女を突き放さなかった。ほんの一瞬、杏の胸に希望が灯った。もしかして、願いが叶うかも……?だが次の瞬間、銀司はためらいなく彼女を押しのけた。「もういい。会社を辞めてくれ。お前は必要ない」その声は冷たく、初めて会った頃と同じように距離を感じさせた。この数月の優しさとのあまりの違いに、杏は改めて悟った──彼は一度も自分を愛していなかったのだと。彼の優しさは全て、葵のためだけのものだった。「銀司さん……どうしてこんなことをするんですか?『絶対傷つけない』『ずっと大切にする』って、あなたが約束するんではありませんか。その約束、簡単に破れますか?」杏は必死に彼のズボンの裾をつかみ、涙ながらに見上げた。「その約束は、葵へのものだ。お前は葵じゃない」そう言い捨てると、銀司はすぐに会社の人事部に連絡し、杏の解雇を通達した。数秒後、杏のスマホに解雇通知が届いた。「うそ……こんなの……ありえない……」彼女は崩れるように地面に座り込み、冷たい文面を信じられない様子で見つめた。銀司はこれ以上関わるつもりもなく、足早にその場を立ち去った。通りかかった人が杏を病院に連れて行ってくれたらしい。一方、銀司は包帯を替えてもらった後、美鈴を知る人物を片っ端から探し始めた。彼女の行方を求めるため、会ったことのある人はもちろん、名前だけ知っている人物にまで接触した。何十人と尋ね回ったが、手がかりは得られなかった。美鈴はまるでこの世から消えたかのようだった。無理がたたったのか、手の傷がじんじんと痛んでいた。「美鈴」ふと、彼女に薬を塗ってほしいと思った。……が、彼女はもういないのだと、遅れて気づいた。結局、回診に来た看護師に手当てをしてもらった。「この手、ちゃんと治さないとだめですよ。ネットで見ましたが、ピアニストでしょ?ピアニストの手が使えなくなったら大変ですよ」看護師の言葉など聞こえない様子で、銀司は探し続けた。ついには普段関わらない実家の力まで借り、竹内家のネットワークを駆使して探した。それでも、何日経っても美鈴の痕跡は見つからなかった。そして、彼がほとんど諦めかけた時、結婚式の招待状が届いた。それにはこう記されていた。【新郎:建部藤正 新婦:橋本美鈴】その名前を
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第17話

銀司が藤正に電話をかけようとした瞬間、アシスタントの鈴木静(すずき しずか)から何度も着信が入った。「まずいです。杏が退社後、SNSで竹内さんに恋人いたのに偽単身設定で、彼女を不倫相手にしたと暴露しています。彼女の家に泊まった写真が拡散され、今ライブ配信で被害を訴えています。慰謝料を要求すると脅してます。さもないと二股の証拠を全部バラすそうです……すぐ確認してください」静香は気がかりでじっとしていられなくなり、ライブのリンクを送ってきた。銀司は眉をひそめ、リンクを開いた。画面には泣き腫らした杏の顔が大写しになっている。あれほどの涙がどこから出るのか。彼女は涙ながらに訴えていた。「竹内、道徳心がない……橋本さんと付き合ってたなんて知ってたら、絶対に関わりませんでした。私が不倫の相手になるなんて……橋本さんがいなくなって後悔して、今度は私を捨てるんですか?私の気持ちはどうなるんですか……仕事も恋も全部失いました……これからどう生きていけばいいんですか……」……次々と涙ながらの訴えが続いていた。銀司の表情はますます険しくなった。ネット上では同情の声が殺到し、銀司への非難が溢れていた。SNSは炎上し、以前の称賛コメントは罵倒に変わっていた。DMも、開くたびに罵詈雑言が飛び込んできた。多くのメディアもこの騒動を取り上げ、編集した動画で彼を糾弾していた。ファンたちの悲痛なコメント:「騙された……全部偽りのイメージだったのか」「最後の清流だと思ってたのに、結局他の男と同じだった」「ピアニストだって恋愛する権利はあるけど、二股は許せない。竹内の曲を愛してたのが悔しい」……無数の非難が目に飛び込んでいた。銀司の顔から血の気が引いていく。美鈴も同じように……自分を誤解していたのか?だからあんなに冷たくなり、別人と結婚することを選んだのか?結婚式の招待状がまだ目に焼き付いている。あと三日……まだ間に合うかもしれない!全てを説明すれば、取り戻せるかもしれない!銀司は急いで会社の渉外部門に連絡し、詳細な経緯説明を発表した。「ご迷惑をおかけし申し訳ありません。確かに七年間交際した元マネージャーの美鈴がいましたが、杏さんとは不適切な関係は一切ありません。具体的な行動記録は以
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第18話

その写真は完璧なタイミングで撮られていた。二人の微妙な表情は、初恋のような淡い恋心を思わせるものだった。この一枚が流出した瞬間、銀司の「妹同然」という主張は木っ端微塵に打ち砕かれた。彼は写真を睨みつけ、消し去りたい衝動に駆られた。長い沈黙の後、父親に電話をかけた。「お父さん、竹内家の力を借りたい。厄介者を片付けたい」電話の向こうは無言で、ただ「ああ」と応じるだけだった。一夜明けると、杏のSNSアカウントは永久凍結されていた。彼女に関連するコンテンツは次々と削除され、トレンド入りしていた話題もあっという間に消え去った。新しいニュースが注目を集め、人々の関心はすぐに別の話題へ移っていった。少し静かになったコメント欄を見て、銀司はほっと胸を撫で下ろした。今急ぐべきはA国行きのフライトだ。病院を出たばかりの彼は身なりをさっと整えると、すぐに空港へ向かった。疲労でまぶたが重かったが、無理やり目を見開き、険しい表情で結婚招待状を睨みつけた。空港に着いた時、ようやく藤正が電話に出た。「銀司、俺たちの結婚式に来てくれるんだ?祝福してくれるよな」藤正の声は軽やかで、心底楽しんでいるのが伝わってきた。だが銀司は歯を食いしばって言った。「建部、正気か?俺たち家族みたいだろう。美鈴は俺の女だ!彼女は俺を愛してる。お前との結婚なんて、ただの当てつけに過ぎない。全て説明すれば、きっと許してくれる。七年も一緒にいたんだ。俺は今すぐ誤解は解ける。結婚式を中止しろ。今A国に向かって、彼女を連れ戻すところだ」そう言いながらも、内心では確信が持てなかった。ただ、藤正が自信を失い、諦めてくれることを願っただけだ。しかし藤正は軽く笑っただけだった。「お前少し自信過剰じゃないか?これまで俺たちが親友だったなら、今日でその関係は終わりだ」彼は結婚行進曲を口ずさみながら、あからさまに銀司を嘲笑った。「美鈴はもうお前を愛していない。心から俺と結婚したいんだ。式は予定通りだ。来たければ、俺たちの幸せを見届けてくれ」その軽い一言が銀司の心を貫き、彼を打ちのめした。「美鈴はもうお前を愛していない……」この言葉が頭の中で反響し、狂いそうになった。スマホを握りしめる手に力が入り、今すぐ太平洋を越えて美鈴
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第19話

鏡の前で、美鈴は緊張しながらドレスの裾を整えていた。何層にも重なったスカートには無数の真珠とダイヤモンドが散りばめられ、まるで星空をまとっているようだった。精巧な文様が施されたドレスは、彼女の美しいプロポーションを引き立てていた。鏡に映る彼女の肌は雪のように白く、以前の目の下のクマはすっかり消え、健康的なピンク色に染まっていた。薄化粧なのに、息をのむほどの美しさだった。陽光が降り注ぐと、天女のように輝いて見えた。「このウェディングドレス、私に似合ってる?」美鈴はスカートの裾をそっと持ち上げながら、唇を噛んで尋ねた。藤正は彼女の姿を見つめ、一瞬言葉を失った。手の動きが止まり、息さえも忘れるほどだった。「美しい。世界一美しい花嫁だ」思わず本音がこぼれた。「褒めすぎよ」藤正の熱い視線に頬を染め、美鈴は慌てて鏡の中の自分に目を戻した。銀司と一緒だった七年間、何度も結婚の話をほのめかしたことがあった。だが彼はいつも黙り込むだけだった。一生ウェディングドレスを着ることはないと思っていたのに、まさかこんな日が本当に来てくれたとは。最初は形だけの結婚だと思っていたのに、今はなぜか本気のような気がしてきた。「藤正、もうすぐ式が始まるけど……後悔してない?私の恩着せがましい要求に応じて」なぜか、彼女は答えが怖くなり、目を伏せて軽く笑ってみせた。「やはり式を中止しよう……」「後悔なんてしない!」美鈴の言葉を遮って、藤正はきっぱりと言った。「美鈴に頼まれた時から、これは俺の本心だ。他の人に同じことを求められたら、金で済ませるだけだ。俺はバカじゃないし、無駄に親切でもない。美鈴だけだ。美鈴だからこそ、応じたんだ」深い眼差しで彼女を見つめる藤正の目には、計り知れない愛が宿っていた。美鈴は照れくさそうにうつむいた。たった一度の偶然の救命が、どうしてここまでの愛情を生むのか理解できなかった。藤正は彼女の心の不安を理解していた。ずっと与えるばかりで、銀司から愛を感じられなかった彼女が、自信を持てないのも当然だった。だが、彼は行動で示すつもりだった。銀司とは違うことを。藤正は美鈴の手を取り、自分のスマホにパスコードを入力した。彼女の誕生日だった。その事実に、美鈴の胸が高鳴
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第20話

美鈴の心は大きく揺さぶられた。銀司を追いかけていたあの頃、こんなにも密かに想いを寄せてくれていた人がいたなんて。「でも……藤正と銀司って親友じゃなかったの?どうして私なんかを……」まだ不安が消えない様子だった。「ああ、あれはね。昔の話だ。今日からはもう親友じゃない」藤正はあっさりと言い放った。「あいつが君の告白を受け入れた日、実は俺も大がかりな告白の準備をしてたんだ。ただ……ほんの少しだけ遅れた。もしかしたら、あいつは俺の計画を察知して、先回りしたのかもしれないな」その声には、かすかな悔しさが滲んでいた。もっと早く気持ちを伝えていれば。もっと早く出会えていればと。長い沈黙の後、彼はそっと彼女の手を取り、指を絡ませながら続けた。「君たちが付き合い始めてから、俺は海外に飛んだ。この国にいたら、きっと君に告白してしまうと思ったから。三年前の雨の夜、我慢できなくて……君に会いに戻ってきたんだ。実は、あの夜、銀司の電話が繋がってたんだ。俺が会社に引き止めさせて、君に連絡できないようにした。全ては君に会うための計画だった。美鈴、この告白は随分遅くなったけど、どうか聞いてほしい。君を愛してる」一つ一つの言葉が美鈴の胸を強く打ち、彼女は完全に動揺した。信じられないという表情で、思考が停止しそうだった。鼓動は早くなり、頬は火照り、まつげがぱたぱたと震えた。「ふふっ」藤正は優しく笑い、彼女の動揺を温かく見守った。そして、いつものように静かに答えを待った。その時、扉を叩く音がした。「新郎新婦様、入場のお時間です」係の女性が明るく告げた。「美鈴、この扉を開けたら、もう後悔する余地がない。それでも……続ける?」藤正は目尻を下げて笑いながら、大きくて温かい掌を美鈴の前に差し出した。迷いはなかった。美鈴は即座に自分の手をその中に預けた。「後悔なんてしないわ」その温もりは、彼女に無限の勇気を与えている。扉が開くと、目の前には花の絨毯が広がり、教会のステンドグラスから神々しい光が降り注いでいた。白衣を着ている神父が立ち、その合図で白い鳩が舞い上がり、優雅なオーケストラの調べが響き渡った。式が始まった。二人はしっかりと手を繋ぎ、祝福の視線を浴びながら祭壇へと進んだ。
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