銀司が藤正に電話をかけようとした瞬間、アシスタントの鈴木静(すずき しずか)から何度も着信が入った。「まずいです。杏が退社後、SNSで竹内さんに恋人いたのに偽単身設定で、彼女を不倫相手にしたと暴露しています。彼女の家に泊まった写真が拡散され、今ライブ配信で被害を訴えています。慰謝料を要求すると脅してます。さもないと二股の証拠を全部バラすそうです……すぐ確認してください」静香は気がかりでじっとしていられなくなり、ライブのリンクを送ってきた。銀司は眉をひそめ、リンクを開いた。画面には泣き腫らした杏の顔が大写しになっている。あれほどの涙がどこから出るのか。彼女は涙ながらに訴えていた。「竹内、道徳心がない……橋本さんと付き合ってたなんて知ってたら、絶対に関わりませんでした。私が不倫の相手になるなんて……橋本さんがいなくなって後悔して、今度は私を捨てるんですか?私の気持ちはどうなるんですか……仕事も恋も全部失いました……これからどう生きていけばいいんですか……」……次々と涙ながらの訴えが続いていた。銀司の表情はますます険しくなった。ネット上では同情の声が殺到し、銀司への非難が溢れていた。SNSは炎上し、以前の称賛コメントは罵倒に変わっていた。DMも、開くたびに罵詈雑言が飛び込んできた。多くのメディアもこの騒動を取り上げ、編集した動画で彼を糾弾していた。ファンたちの悲痛なコメント:「騙された……全部偽りのイメージだったのか」「最後の清流だと思ってたのに、結局他の男と同じだった」「ピアニストだって恋愛する権利はあるけど、二股は許せない。竹内の曲を愛してたのが悔しい」……無数の非難が目に飛び込んでいた。銀司の顔から血の気が引いていく。美鈴も同じように……自分を誤解していたのか?だからあんなに冷たくなり、別人と結婚することを選んだのか?結婚式の招待状がまだ目に焼き付いている。あと三日……まだ間に合うかもしれない!全てを説明すれば、取り戻せるかもしれない!銀司は急いで会社の渉外部門に連絡し、詳細な経緯説明を発表した。「ご迷惑をおかけし申し訳ありません。確かに七年間交際した元マネージャーの美鈴がいましたが、杏さんとは不適切な関係は一切ありません。具体的な行動記録は以
その写真は完璧なタイミングで撮られていた。二人の微妙な表情は、初恋のような淡い恋心を思わせるものだった。この一枚が流出した瞬間、銀司の「妹同然」という主張は木っ端微塵に打ち砕かれた。彼は写真を睨みつけ、消し去りたい衝動に駆られた。長い沈黙の後、父親に電話をかけた。「お父さん、竹内家の力を借りたい。厄介者を片付けたい」電話の向こうは無言で、ただ「ああ」と応じるだけだった。一夜明けると、杏のSNSアカウントは永久凍結されていた。彼女に関連するコンテンツは次々と削除され、トレンド入りしていた話題もあっという間に消え去った。新しいニュースが注目を集め、人々の関心はすぐに別の話題へ移っていった。少し静かになったコメント欄を見て、銀司はほっと胸を撫で下ろした。今急ぐべきはA国行きのフライトだ。病院を出たばかりの彼は身なりをさっと整えると、すぐに空港へ向かった。疲労でまぶたが重かったが、無理やり目を見開き、険しい表情で結婚招待状を睨みつけた。空港に着いた時、ようやく藤正が電話に出た。「銀司、俺たちの結婚式に来てくれるんだ?祝福してくれるよな」藤正の声は軽やかで、心底楽しんでいるのが伝わってきた。だが銀司は歯を食いしばって言った。「建部、正気か?俺たち家族みたいだろう。美鈴は俺の女だ!彼女は俺を愛してる。お前との結婚なんて、ただの当てつけに過ぎない。全て説明すれば、きっと許してくれる。七年も一緒にいたんだ。俺は今すぐ誤解は解ける。結婚式を中止しろ。今A国に向かって、彼女を連れ戻すところだ」そう言いながらも、内心では確信が持てなかった。ただ、藤正が自信を失い、諦めてくれることを願っただけだ。しかし藤正は軽く笑っただけだった。「お前少し自信過剰じゃないか?これまで俺たちが親友だったなら、今日でその関係は終わりだ」彼は結婚行進曲を口ずさみながら、あからさまに銀司を嘲笑った。「美鈴はもうお前を愛していない。心から俺と結婚したいんだ。式は予定通りだ。来たければ、俺たちの幸せを見届けてくれ」その軽い一言が銀司の心を貫き、彼を打ちのめした。「美鈴はもうお前を愛していない……」この言葉が頭の中で反響し、狂いそうになった。スマホを握りしめる手に力が入り、今すぐ太平洋を越えて美鈴
鏡の前で、美鈴は緊張しながらドレスの裾を整えていた。何層にも重なったスカートには無数の真珠とダイヤモンドが散りばめられ、まるで星空をまとっているようだった。精巧な文様が施されたドレスは、彼女の美しいプロポーションを引き立てていた。鏡に映る彼女の肌は雪のように白く、以前の目の下のクマはすっかり消え、健康的なピンク色に染まっていた。薄化粧なのに、息をのむほどの美しさだった。陽光が降り注ぐと、天女のように輝いて見えた。「このウェディングドレス、私に似合ってる?」美鈴はスカートの裾をそっと持ち上げながら、唇を噛んで尋ねた。藤正は彼女の姿を見つめ、一瞬言葉を失った。手の動きが止まり、息さえも忘れるほどだった。「美しい。世界一美しい花嫁だ」思わず本音がこぼれた。「褒めすぎよ」藤正の熱い視線に頬を染め、美鈴は慌てて鏡の中の自分に目を戻した。銀司と一緒だった七年間、何度も結婚の話をほのめかしたことがあった。だが彼はいつも黙り込むだけだった。一生ウェディングドレスを着ることはないと思っていたのに、まさかこんな日が本当に来てくれたとは。最初は形だけの結婚だと思っていたのに、今はなぜか本気のような気がしてきた。「藤正、もうすぐ式が始まるけど……後悔してない?私の恩着せがましい要求に応じて」なぜか、彼女は答えが怖くなり、目を伏せて軽く笑ってみせた。「やはり式を中止しよう……」「後悔なんてしない!」美鈴の言葉を遮って、藤正はきっぱりと言った。「美鈴に頼まれた時から、これは俺の本心だ。他の人に同じことを求められたら、金で済ませるだけだ。俺はバカじゃないし、無駄に親切でもない。美鈴だけだ。美鈴だからこそ、応じたんだ」深い眼差しで彼女を見つめる藤正の目には、計り知れない愛が宿っていた。美鈴は照れくさそうにうつむいた。たった一度の偶然の救命が、どうしてここまでの愛情を生むのか理解できなかった。藤正は彼女の心の不安を理解していた。ずっと与えるばかりで、銀司から愛を感じられなかった彼女が、自信を持てないのも当然だった。だが、彼は行動で示すつもりだった。銀司とは違うことを。藤正は美鈴の手を取り、自分のスマホにパスコードを入力した。彼女の誕生日だった。その事実に、美鈴の胸が高鳴
美鈴の心は大きく揺さぶられた。銀司を追いかけていたあの頃、こんなにも密かに想いを寄せてくれていた人がいたなんて。「でも……藤正と銀司って親友じゃなかったの?どうして私なんかを……」まだ不安が消えない様子だった。「ああ、あれはね。昔の話だ。今日からはもう親友じゃない」藤正はあっさりと言い放った。「あいつが君の告白を受け入れた日、実は俺も大がかりな告白の準備をしてたんだ。ただ……ほんの少しだけ遅れた。もしかしたら、あいつは俺の計画を察知して、先回りしたのかもしれないな」その声には、かすかな悔しさが滲んでいた。もっと早く気持ちを伝えていれば。もっと早く出会えていればと。長い沈黙の後、彼はそっと彼女の手を取り、指を絡ませながら続けた。「君たちが付き合い始めてから、俺は海外に飛んだ。この国にいたら、きっと君に告白してしまうと思ったから。三年前の雨の夜、我慢できなくて……君に会いに戻ってきたんだ。実は、あの夜、銀司の電話が繋がってたんだ。俺が会社に引き止めさせて、君に連絡できないようにした。全ては君に会うための計画だった。美鈴、この告白は随分遅くなったけど、どうか聞いてほしい。君を愛してる」一つ一つの言葉が美鈴の胸を強く打ち、彼女は完全に動揺した。信じられないという表情で、思考が停止しそうだった。鼓動は早くなり、頬は火照り、まつげがぱたぱたと震えた。「ふふっ」藤正は優しく笑い、彼女の動揺を温かく見守った。そして、いつものように静かに答えを待った。その時、扉を叩く音がした。「新郎新婦様、入場のお時間です」係の女性が明るく告げた。「美鈴、この扉を開けたら、もう後悔する余地がない。それでも……続ける?」藤正は目尻を下げて笑いながら、大きくて温かい掌を美鈴の前に差し出した。迷いはなかった。美鈴は即座に自分の手をその中に預けた。「後悔なんてしないわ」その温もりは、彼女に無限の勇気を与えている。扉が開くと、目の前には花の絨毯が広がり、教会のステンドグラスから神々しい光が降り注いでいた。白衣を着ている神父が立ち、その合図で白い鳩が舞い上がり、優雅なオーケストラの調べが響き渡った。式が始まった。二人はしっかりと手を繋ぎ、祝福の視線を浴びながら祭壇へと進んだ。
銀司は黒いベルベットの指輪ケースを握りしめていた。中には揃いの結婚指輪――鳩の卵ほどの大きさのダイヤがきらめき、目を奪う輝きを放っている。彼は周囲の好奇の視線も神父の困惑も無視するように、美鈴へとまっすぐ歩み寄った。足取りは固く、迷いがなかった。すると、オーケストラが止まった。神父も呆然としてしまった。教会は水を打ったように静まり返った。挙式の最中に、もう一人の新郎が現れるなんて――誰もが息を飲んだ。「銀司?」美鈴は瞬きを忘れた。もう杏に場所を譲ったはずなのに。なのに、なぜ今?それもまさかの結婚式に?反射的に藤正の前に立ちはだかり、眉をひそめて言い放った。「何の用?今日は私たちの結婚式よ。邪魔しないで」「結婚式?」銀司は唇を歪めて笑った。「俺が別れを承知した覚えはない。お前たちの結婚なんて、さらに認めない。杏の件は説明する。だからまず……俺と来てくれ」不敵な笑みを浮かべながら、彼は美鈴の手首を強く掴んだ。その顔には狂気じみた表情が浮かんでいた。「放して!」美鈴は激しく手を振り払い、顔を背けた。「もういいの。あなたを愛してないって、わからないの?もう終わったんだよ。子供みたいなわがままで式を台無しにしないで」「わがまま……?」銀司の目が一瞬、揺れた。必死の思いが、彼女にはただの「わがまま」に見えるのか。「違うんだ」声が震えた。「美鈴、まだ終わってない。俺たちは……」銀司の目は真っ赤になり、冷たい顔に崩れそうな笑みが浮かんだ。次の瞬間、彼は美鈴の頬を強引に掴み、唇を奪おうとした――ドン!鈍い音が教会に響いた。藤正の拳が銀司の頬骨に直撃した。その一撃で銀司の体はのけぞり、頬はすぐに腫れ上がり、口角から血が滲んだ。「ふざけるな!美鈴がもう入籍した。式も終わりに近いんだ。俺の妻に何をするつもりだ!諦めろ」藤正はそう言い、もう一発殴ろうと追いかけた。しかし銀司はわざと傷ついた腕でその拳を受け止めた。血が腕を伝って流れ、見るも痛々しい赤だった。だが彼は少しも気にせず、むしろ唇をゆがめて笑った。「痛いな、美鈴」わざと傷ついた腕を見せつけるように袖をまくり、赤黒い血を滴らせた。地面に落ちた血のしずくが、教会の床を汚した。
美鈴は目を閉じ、ふと葵のことを思い出していた。償いなんて、本当に意味があるのだろうか?もうこの世にいない少女。その代わりに杏を寵愛しても、何の意味もない。杏は葵ではないのだから。今になってようやく理解した。銀司は確かに愛してくれたのだ。だが、そんなことはもうどうでもよかった。伝わらない愛など、愛とは言えない。胸の奥からは、喜びの感情が一切湧いてこない。七年もの歳月を共に過ごしたのに。彼の無口な性格は十分知っていたはずなのに。それでも、一言の「愛してる」さえ惜しんだ彼の態度に、どんな熱も冷めていく。ましてや、比較する相手が現れてしまった。銀司が杏を優しく扱う姿を見た時、初めて悟った――彼にもこんな風に人を愛することができるんだ。けれど、一度もそんな風に接してくれなかった。今更、彼が杏を愛していたかどうかなんて、どうでもいい。もう、心は傷だらけだった。長い沈黙の後、美鈴は静かに彼を押しのけた。「銀司、もう終わりよ。杏のことじゃないの。あなたは私を愛していたかもしれない。でも、私はそれを感じられなかった。だから手を放したの。二度と戻らない」悟り切ったような声でそう告げると、自然に藤正の手を握り、彼の胸に寄り添った。それだけで、銀司との距離は決定的に遠のいていく。「ずっと同じ場所で待ち続けてくれる人なんていないわ。私だってそう。もう長く待たせすぎた人を、これ以上待たせたくない。新しい人生を始めなさい。私はもう銀司を選ばない」きっぱりと言い切ると、美鈴はしっかりと藤正を見つめた。その温かい眼差しに、不安げだった彼の表情がほぐれていく。そして、ゆっくりと目を閉じ、彼の唇の端に優しいキスを落とした。教会は一瞬、また水を打ったように静まり返り、聞こえるのは二人の鼓動だけだった。トクン、トクン。「藤正の妻になれて……本当に嬉しい」美鈴の微笑みには、偽りのない輝きがあった。藤正の心臓は高鳴りを止められなかった。慌てて言葉を紡ごうとするが、興奮のあまり言葉が続かなかった。「俺……俺こそ……美鈴と結婚できて……」そのわずか数歩先で、銀司は拳を握り締めていた。力任せに握った指輪が掌に食い込み、傷口から血が滴り落ちるていた。高価なダイヤモンドは
この豪華な結婚式は完璧ではなかったけれど、美鈴の胸には甘い幸せが広がっていた。ああ、もう私は幸せなんだと思っていた。ふと横を見ると、藤正が優しく微笑んでいた。その夜。美鈴はベッドの端に座り、胸の高鳴りが止まらなかった。重たいウェディングドレスから、シルクの肌触りの良い寝間に着替えている。部屋中が和風の装飾で彩られ、寝間にはおしどりの文様が施されていた。その色が、なんだかますます彼女の頬を熱くさせた。シャワーの音が止み、程なくして藤正がバスルームから出てきた。だらしなく着たパジャマからは、鍛えられた体のラインが覗いている。タオルで拭いた髪から滴が落ち、鎖骨を伝って胸元へと消えていく。何てことない日常の光景なのに、美鈴はなぜかドキドキしてしまった。思わず唇を噛み、シーツをぎゅっと握りしめた。その様子に気づいた藤正は、優しい笑みを浮かべた。わざと力を抜いて、彼女が緊張しないように気を遣った。「美鈴、まだ不安だったら遠慮なく言って。君の気持ちが準備できるまで、いくらでも待つから」そう言う時、彼の喉仏がくっきりと動いた。美鈴はつい見入ってしまい、はっと我に返って小さく咳払いした。「藤正、大丈夫……私、覚悟はできてるから」積極的に藤正の胸に手を当てると、彼は嬉しそうにベッドに倒れこんだ。自然と美鈴の体も引き寄せられた。「じゃあ、今夜は存分に愛させてもらうよ」その言葉とともに、熱いキスが降り注いだ。もう逃げる隙など与えないように。夜通し、ベッドは激しく揺れ、二人の息遣いが夜明けまで続いた。一方その頃、病院のベッドで銀司がようやく目を覚ました。ゆっくりと瞼を開け、ぼんやりと天井を見つめた。窓の外はもう夜が明けかけていた。随分時間が経ったな。その二人は、もうすべてを終わらせただろう。そう思いながら、傷ついた手を強く握りしめ、かさぶたが剥がれてまた血が滲んだ。痛みでますます現実が突きつけられた。美鈴が本当に自分を捨てたのだということが、これほどまでに鮮明に感じられたことはない。いつも彼を追いかけてた美鈴がもういなかった。彼だけを見てた美鈴がいもういなかった。けど、ふと視界に、美鈴の後姿が浮かんだ。「美鈴……美鈴……」彼女の名を繰り返し、虚像
翌日、医者が不機嫌そうに包帯を替えながら、眉をひそめて言った。「傷を安静に、と何度言えばわかるんですか?また無理をして……竹内さんのような有名ピアニストが、このままでは指が動かなくなりますよ。退院は許可できません。看護師が二十四時間ついていますから、完全に治るまで動かないでください」銀司は自分の傷をぼんやりと見つめていた。他人の話を聞いているような、冷静な表情だ。この医者……藤正の差し金に違いない。善意だろうが、どうでもよかった。たかが片手じゃないか。美鈴に会うことに比べれば……病院で数日おとなしく過ごし、看護の目が緩んだ隙を見計らって、また脱走した。何度目かのことだ。難なく看守をかわし、藤正の家へと向かった。一方、美鈴と藤正は外出した。「本当に一人で大丈夫?俺が同行すれば、採用の可能性も上がると思うけど」「大丈夫よ。どうしても行きたいというなら、外で待っててくれる?」美鈴は苦笑いしながら、くっついてくる藤正を軽く押しのけた。彼まで一緒なら、面接どころか即採用されてしまいそうだ。きれいめのスーツにヒールを合わせ、自信を持ってビルに入った。藤正は車中から、ビルの入口をじっと見つめていた。しばらくして、美鈴が満足げな笑顔で戻ってきた。「面接、すごくうまくいったわ。社長も気に入ってくれて、一週間後に新人チームを任せてくれるそう」彼女は元の仕事――芸能マネージャーに戻ることにした。長年やってきた仕事だし、何よりこれが好きなのだ。それは誰のためでもない、自分のためだ。「それはよかった。美鈴が楽しめるなら何よりだ。もし合わなかったら、すぐにでも他の仕事を探そう。俺が全力でサポートするから」藤正は彼女の手を優しく包み込んだ。「うん」家に着き、車から降りた瞬間、ドアの前に見覚えのある人影が立っているのに気づいた。「美鈴、待っていたよ」銀司の視線は美鈴だけを捉え、傍らの藤正には目もくれなかった。「美鈴、離婚してくれ。俺と帰国しよう。やり直せる。結婚式も挙げよう。ずっと俺たちの式を楽しみにしてただろう?もっと盛大な式にする。誰もが羨むように……どうだい?」独りよがりに未来を語り、まだ諦めきれない様子だ。美鈴は眉をひそめ、見知らぬ人を見るような目で彼を見た。
銀司は空港へ向かう車の窓に、ぼんやりと景色を眺めていた。色鮮やかに見えた街並みも、今はまるでモノクロ写真のようだ。葵が逝ってからずっと、彼の世界はこんな色をしていた。美鈴だけがその灰色に彩りを与えてくれたのに、今また以前のままになってしまった。飛行機が離陸する際、小さくなっていく街の灯りを見ながら、「さよなら、美鈴……俺も、手放すよ」かすれた声で、最後の別れを告げた。空港に着くと厳重な身体検査を受け、そのまま実家へ送還された。広大な屋敷は相変わらず冷たく、人の気配すら感じられない。両親がたまに帰宅しても、重苦しい沈黙が支配するだけだ。そんな家で、彼自身もまた生きている心地がしなかった。ある日、ふと美鈴の残り香がする湖畔にある別荘が恋しくなった。そこにあるもの全てが美鈴の選んだもの。彼女がいなくなっても、至る所にその痕跡が残っている。「おかえりなさい、銀司」ふとソファでくつろぐ美鈴の声が聞こえたような気がした。「お腹空いてるでしょ?ご飯できてるわよ。一緒に食べましょう」優しい笑顔で彼の手を引かれ、キッチンへ。湯気の立つ料理を運び、食卓で談笑しながらゆっくりと食事をする――しかし、その幸せな光景は、一瞬で消え去った。「そうか。美鈴はもう、別の人の妻なんだ」銀司は唇を歪ませた。そして、リビングには大きな段ボール箱を見た。美鈴が杏にあげようとした品々を、彼が取り戻した。箱の中の一つ一つが、彼女の愛を物語っていた。今では、それが彼女を想う唯一の手段となっていた。そのそばにあるピアノには分厚いほこり。以前は美鈴がよく隣に座り、楽譜を一緒に見ながら笑い合ったものだ。彼女の目はいつも、尊敬と愛情に溢れていた。丁寧にほこりを拭い、銀司はピアノに向かった。傷ついた手で鍵盤に触れると、激痛が走った。それでも構わず、狂ったように弾き始めた。血が鍵盤を染めても、演奏を止めなかった。翌日、その曲『あの顔、遠く』は世に出ると、瞬く間に話題を呼んだ。「世紀の傑作」と称賛される一方、誰もその曲に込められた狂気と絶望を再現できなかった。銀司自身の録音版は粗削りだったが、かえってその空虚な音色と微かな風音が曲を引き立てていた。しかし、二度と再現できない、彼自身ですら。
「マネージャー」という言葉を聞いた時、銀司の胸に灯っていた小さな希望の火が、またひとつ消えた。「君は……俺以外の……」言葉を遮るように、美鈴がきっぱりと言った。「確かに言ったわ。『あなた以外の新人は担当しない』って」その言葉に、彼は思わずうなずいた。目に微かな光が宿った。しかし次の瞬間、彼女の言葉がその最後の望みも打ち砕いた。「でも私たち、もう別れたんでしょ?あの時の約束なんて、今は何の意味もない。元の会社も辞めたんだから、なぜあんただけに縛られなきゃいけないの?これからもたくさんの人材を育てていく。でも、あんたとはもう何の関係もない。わかった?現実を見なさい。もうあんたを愛してないし、これ以上ついていくな。あんたのために何かするつもりもない」そう言い終えると、藤正がドアを開け、美鈴は迷いなく中へ入っていった。ドアが閉まり、外にはぽつんと銀司ひとり。しばらくして、再びドアが開いた。期待に顔を上げたが、そこにいたのは美鈴ではなく藤正だった。「銀司、病院で静養する気がないなら、帰国したらどうだ?そこがお前の居場所だろう。竹内家の立場を考えれば、お前がずっと海外にいることなど許されない。美鈴は今、俺と幸せに暮らしてる。新しい出会いもあり、新しい人生を歩んでる。そしてそれはもう、お前とは何の関わりもない話だ。お前が粗末にした宝石を、俺が大切に磨き上げてみせる」藤正は勝ち誇ったように笑い、満足げにドアを閉めた。ドン!すぐに、黒い服のボディーガードたちが現れ、銀司を取り囲んだ。「竹内さま、お時間です」それに、車は既に待機しており、ドアも開けられている。もはや抵抗の余地はなかった。竹内家は軍部の名家。その母が葵を出産した時、敵の襲撃に遭って早産となった。そのため、葵の体は虚弱になってしまったのだ。銀司は厳格な教育を受け、父の後継者として育てられた。誰もが、彼が世界的なピアニストになるとは思っていなかった。しかしそれでも、竹内家の長男としての立場は変わらない。美鈴を追って海外に行くことを父が許したのは、最大限の譲歩だったのだ。案の定、銀司が拒否する間もなく、父からの電話が入った。「銀司、帰ってこい。もう終わりにせよ」冷たい声は、議論の余
翌日、医者が不機嫌そうに包帯を替えながら、眉をひそめて言った。「傷を安静に、と何度言えばわかるんですか?また無理をして……竹内さんのような有名ピアニストが、このままでは指が動かなくなりますよ。退院は許可できません。看護師が二十四時間ついていますから、完全に治るまで動かないでください」銀司は自分の傷をぼんやりと見つめていた。他人の話を聞いているような、冷静な表情だ。この医者……藤正の差し金に違いない。善意だろうが、どうでもよかった。たかが片手じゃないか。美鈴に会うことに比べれば……病院で数日おとなしく過ごし、看護の目が緩んだ隙を見計らって、また脱走した。何度目かのことだ。難なく看守をかわし、藤正の家へと向かった。一方、美鈴と藤正は外出した。「本当に一人で大丈夫?俺が同行すれば、採用の可能性も上がると思うけど」「大丈夫よ。どうしても行きたいというなら、外で待っててくれる?」美鈴は苦笑いしながら、くっついてくる藤正を軽く押しのけた。彼まで一緒なら、面接どころか即採用されてしまいそうだ。きれいめのスーツにヒールを合わせ、自信を持ってビルに入った。藤正は車中から、ビルの入口をじっと見つめていた。しばらくして、美鈴が満足げな笑顔で戻ってきた。「面接、すごくうまくいったわ。社長も気に入ってくれて、一週間後に新人チームを任せてくれるそう」彼女は元の仕事――芸能マネージャーに戻ることにした。長年やってきた仕事だし、何よりこれが好きなのだ。それは誰のためでもない、自分のためだ。「それはよかった。美鈴が楽しめるなら何よりだ。もし合わなかったら、すぐにでも他の仕事を探そう。俺が全力でサポートするから」藤正は彼女の手を優しく包み込んだ。「うん」家に着き、車から降りた瞬間、ドアの前に見覚えのある人影が立っているのに気づいた。「美鈴、待っていたよ」銀司の視線は美鈴だけを捉え、傍らの藤正には目もくれなかった。「美鈴、離婚してくれ。俺と帰国しよう。やり直せる。結婚式も挙げよう。ずっと俺たちの式を楽しみにしてただろう?もっと盛大な式にする。誰もが羨むように……どうだい?」独りよがりに未来を語り、まだ諦めきれない様子だ。美鈴は眉をひそめ、見知らぬ人を見るような目で彼を見た。
この豪華な結婚式は完璧ではなかったけれど、美鈴の胸には甘い幸せが広がっていた。ああ、もう私は幸せなんだと思っていた。ふと横を見ると、藤正が優しく微笑んでいた。その夜。美鈴はベッドの端に座り、胸の高鳴りが止まらなかった。重たいウェディングドレスから、シルクの肌触りの良い寝間に着替えている。部屋中が和風の装飾で彩られ、寝間にはおしどりの文様が施されていた。その色が、なんだかますます彼女の頬を熱くさせた。シャワーの音が止み、程なくして藤正がバスルームから出てきた。だらしなく着たパジャマからは、鍛えられた体のラインが覗いている。タオルで拭いた髪から滴が落ち、鎖骨を伝って胸元へと消えていく。何てことない日常の光景なのに、美鈴はなぜかドキドキしてしまった。思わず唇を噛み、シーツをぎゅっと握りしめた。その様子に気づいた藤正は、優しい笑みを浮かべた。わざと力を抜いて、彼女が緊張しないように気を遣った。「美鈴、まだ不安だったら遠慮なく言って。君の気持ちが準備できるまで、いくらでも待つから」そう言う時、彼の喉仏がくっきりと動いた。美鈴はつい見入ってしまい、はっと我に返って小さく咳払いした。「藤正、大丈夫……私、覚悟はできてるから」積極的に藤正の胸に手を当てると、彼は嬉しそうにベッドに倒れこんだ。自然と美鈴の体も引き寄せられた。「じゃあ、今夜は存分に愛させてもらうよ」その言葉とともに、熱いキスが降り注いだ。もう逃げる隙など与えないように。夜通し、ベッドは激しく揺れ、二人の息遣いが夜明けまで続いた。一方その頃、病院のベッドで銀司がようやく目を覚ました。ゆっくりと瞼を開け、ぼんやりと天井を見つめた。窓の外はもう夜が明けかけていた。随分時間が経ったな。その二人は、もうすべてを終わらせただろう。そう思いながら、傷ついた手を強く握りしめ、かさぶたが剥がれてまた血が滲んだ。痛みでますます現実が突きつけられた。美鈴が本当に自分を捨てたのだということが、これほどまでに鮮明に感じられたことはない。いつも彼を追いかけてた美鈴がもういなかった。彼だけを見てた美鈴がいもういなかった。けど、ふと視界に、美鈴の後姿が浮かんだ。「美鈴……美鈴……」彼女の名を繰り返し、虚像
美鈴は目を閉じ、ふと葵のことを思い出していた。償いなんて、本当に意味があるのだろうか?もうこの世にいない少女。その代わりに杏を寵愛しても、何の意味もない。杏は葵ではないのだから。今になってようやく理解した。銀司は確かに愛してくれたのだ。だが、そんなことはもうどうでもよかった。伝わらない愛など、愛とは言えない。胸の奥からは、喜びの感情が一切湧いてこない。七年もの歳月を共に過ごしたのに。彼の無口な性格は十分知っていたはずなのに。それでも、一言の「愛してる」さえ惜しんだ彼の態度に、どんな熱も冷めていく。ましてや、比較する相手が現れてしまった。銀司が杏を優しく扱う姿を見た時、初めて悟った――彼にもこんな風に人を愛することができるんだ。けれど、一度もそんな風に接してくれなかった。今更、彼が杏を愛していたかどうかなんて、どうでもいい。もう、心は傷だらけだった。長い沈黙の後、美鈴は静かに彼を押しのけた。「銀司、もう終わりよ。杏のことじゃないの。あなたは私を愛していたかもしれない。でも、私はそれを感じられなかった。だから手を放したの。二度と戻らない」悟り切ったような声でそう告げると、自然に藤正の手を握り、彼の胸に寄り添った。それだけで、銀司との距離は決定的に遠のいていく。「ずっと同じ場所で待ち続けてくれる人なんていないわ。私だってそう。もう長く待たせすぎた人を、これ以上待たせたくない。新しい人生を始めなさい。私はもう銀司を選ばない」きっぱりと言い切ると、美鈴はしっかりと藤正を見つめた。その温かい眼差しに、不安げだった彼の表情がほぐれていく。そして、ゆっくりと目を閉じ、彼の唇の端に優しいキスを落とした。教会は一瞬、また水を打ったように静まり返り、聞こえるのは二人の鼓動だけだった。トクン、トクン。「藤正の妻になれて……本当に嬉しい」美鈴の微笑みには、偽りのない輝きがあった。藤正の心臓は高鳴りを止められなかった。慌てて言葉を紡ごうとするが、興奮のあまり言葉が続かなかった。「俺……俺こそ……美鈴と結婚できて……」そのわずか数歩先で、銀司は拳を握り締めていた。力任せに握った指輪が掌に食い込み、傷口から血が滴り落ちるていた。高価なダイヤモンドは
銀司は黒いベルベットの指輪ケースを握りしめていた。中には揃いの結婚指輪――鳩の卵ほどの大きさのダイヤがきらめき、目を奪う輝きを放っている。彼は周囲の好奇の視線も神父の困惑も無視するように、美鈴へとまっすぐ歩み寄った。足取りは固く、迷いがなかった。すると、オーケストラが止まった。神父も呆然としてしまった。教会は水を打ったように静まり返った。挙式の最中に、もう一人の新郎が現れるなんて――誰もが息を飲んだ。「銀司?」美鈴は瞬きを忘れた。もう杏に場所を譲ったはずなのに。なのに、なぜ今?それもまさかの結婚式に?反射的に藤正の前に立ちはだかり、眉をひそめて言い放った。「何の用?今日は私たちの結婚式よ。邪魔しないで」「結婚式?」銀司は唇を歪めて笑った。「俺が別れを承知した覚えはない。お前たちの結婚なんて、さらに認めない。杏の件は説明する。だからまず……俺と来てくれ」不敵な笑みを浮かべながら、彼は美鈴の手首を強く掴んだ。その顔には狂気じみた表情が浮かんでいた。「放して!」美鈴は激しく手を振り払い、顔を背けた。「もういいの。あなたを愛してないって、わからないの?もう終わったんだよ。子供みたいなわがままで式を台無しにしないで」「わがまま……?」銀司の目が一瞬、揺れた。必死の思いが、彼女にはただの「わがまま」に見えるのか。「違うんだ」声が震えた。「美鈴、まだ終わってない。俺たちは……」銀司の目は真っ赤になり、冷たい顔に崩れそうな笑みが浮かんだ。次の瞬間、彼は美鈴の頬を強引に掴み、唇を奪おうとした――ドン!鈍い音が教会に響いた。藤正の拳が銀司の頬骨に直撃した。その一撃で銀司の体はのけぞり、頬はすぐに腫れ上がり、口角から血が滲んだ。「ふざけるな!美鈴がもう入籍した。式も終わりに近いんだ。俺の妻に何をするつもりだ!諦めろ」藤正はそう言い、もう一発殴ろうと追いかけた。しかし銀司はわざと傷ついた腕でその拳を受け止めた。血が腕を伝って流れ、見るも痛々しい赤だった。だが彼は少しも気にせず、むしろ唇をゆがめて笑った。「痛いな、美鈴」わざと傷ついた腕を見せつけるように袖をまくり、赤黒い血を滴らせた。地面に落ちた血のしずくが、教会の床を汚した。
美鈴の心は大きく揺さぶられた。銀司を追いかけていたあの頃、こんなにも密かに想いを寄せてくれていた人がいたなんて。「でも……藤正と銀司って親友じゃなかったの?どうして私なんかを……」まだ不安が消えない様子だった。「ああ、あれはね。昔の話だ。今日からはもう親友じゃない」藤正はあっさりと言い放った。「あいつが君の告白を受け入れた日、実は俺も大がかりな告白の準備をしてたんだ。ただ……ほんの少しだけ遅れた。もしかしたら、あいつは俺の計画を察知して、先回りしたのかもしれないな」その声には、かすかな悔しさが滲んでいた。もっと早く気持ちを伝えていれば。もっと早く出会えていればと。長い沈黙の後、彼はそっと彼女の手を取り、指を絡ませながら続けた。「君たちが付き合い始めてから、俺は海外に飛んだ。この国にいたら、きっと君に告白してしまうと思ったから。三年前の雨の夜、我慢できなくて……君に会いに戻ってきたんだ。実は、あの夜、銀司の電話が繋がってたんだ。俺が会社に引き止めさせて、君に連絡できないようにした。全ては君に会うための計画だった。美鈴、この告白は随分遅くなったけど、どうか聞いてほしい。君を愛してる」一つ一つの言葉が美鈴の胸を強く打ち、彼女は完全に動揺した。信じられないという表情で、思考が停止しそうだった。鼓動は早くなり、頬は火照り、まつげがぱたぱたと震えた。「ふふっ」藤正は優しく笑い、彼女の動揺を温かく見守った。そして、いつものように静かに答えを待った。その時、扉を叩く音がした。「新郎新婦様、入場のお時間です」係の女性が明るく告げた。「美鈴、この扉を開けたら、もう後悔する余地がない。それでも……続ける?」藤正は目尻を下げて笑いながら、大きくて温かい掌を美鈴の前に差し出した。迷いはなかった。美鈴は即座に自分の手をその中に預けた。「後悔なんてしないわ」その温もりは、彼女に無限の勇気を与えている。扉が開くと、目の前には花の絨毯が広がり、教会のステンドグラスから神々しい光が降り注いでいた。白衣を着ている神父が立ち、その合図で白い鳩が舞い上がり、優雅なオーケストラの調べが響き渡った。式が始まった。二人はしっかりと手を繋ぎ、祝福の視線を浴びながら祭壇へと進んだ。
鏡の前で、美鈴は緊張しながらドレスの裾を整えていた。何層にも重なったスカートには無数の真珠とダイヤモンドが散りばめられ、まるで星空をまとっているようだった。精巧な文様が施されたドレスは、彼女の美しいプロポーションを引き立てていた。鏡に映る彼女の肌は雪のように白く、以前の目の下のクマはすっかり消え、健康的なピンク色に染まっていた。薄化粧なのに、息をのむほどの美しさだった。陽光が降り注ぐと、天女のように輝いて見えた。「このウェディングドレス、私に似合ってる?」美鈴はスカートの裾をそっと持ち上げながら、唇を噛んで尋ねた。藤正は彼女の姿を見つめ、一瞬言葉を失った。手の動きが止まり、息さえも忘れるほどだった。「美しい。世界一美しい花嫁だ」思わず本音がこぼれた。「褒めすぎよ」藤正の熱い視線に頬を染め、美鈴は慌てて鏡の中の自分に目を戻した。銀司と一緒だった七年間、何度も結婚の話をほのめかしたことがあった。だが彼はいつも黙り込むだけだった。一生ウェディングドレスを着ることはないと思っていたのに、まさかこんな日が本当に来てくれたとは。最初は形だけの結婚だと思っていたのに、今はなぜか本気のような気がしてきた。「藤正、もうすぐ式が始まるけど……後悔してない?私の恩着せがましい要求に応じて」なぜか、彼女は答えが怖くなり、目を伏せて軽く笑ってみせた。「やはり式を中止しよう……」「後悔なんてしない!」美鈴の言葉を遮って、藤正はきっぱりと言った。「美鈴に頼まれた時から、これは俺の本心だ。他の人に同じことを求められたら、金で済ませるだけだ。俺はバカじゃないし、無駄に親切でもない。美鈴だけだ。美鈴だからこそ、応じたんだ」深い眼差しで彼女を見つめる藤正の目には、計り知れない愛が宿っていた。美鈴は照れくさそうにうつむいた。たった一度の偶然の救命が、どうしてここまでの愛情を生むのか理解できなかった。藤正は彼女の心の不安を理解していた。ずっと与えるばかりで、銀司から愛を感じられなかった彼女が、自信を持てないのも当然だった。だが、彼は行動で示すつもりだった。銀司とは違うことを。藤正は美鈴の手を取り、自分のスマホにパスコードを入力した。彼女の誕生日だった。その事実に、美鈴の胸が高鳴
その写真は完璧なタイミングで撮られていた。二人の微妙な表情は、初恋のような淡い恋心を思わせるものだった。この一枚が流出した瞬間、銀司の「妹同然」という主張は木っ端微塵に打ち砕かれた。彼は写真を睨みつけ、消し去りたい衝動に駆られた。長い沈黙の後、父親に電話をかけた。「お父さん、竹内家の力を借りたい。厄介者を片付けたい」電話の向こうは無言で、ただ「ああ」と応じるだけだった。一夜明けると、杏のSNSアカウントは永久凍結されていた。彼女に関連するコンテンツは次々と削除され、トレンド入りしていた話題もあっという間に消え去った。新しいニュースが注目を集め、人々の関心はすぐに別の話題へ移っていった。少し静かになったコメント欄を見て、銀司はほっと胸を撫で下ろした。今急ぐべきはA国行きのフライトだ。病院を出たばかりの彼は身なりをさっと整えると、すぐに空港へ向かった。疲労でまぶたが重かったが、無理やり目を見開き、険しい表情で結婚招待状を睨みつけた。空港に着いた時、ようやく藤正が電話に出た。「銀司、俺たちの結婚式に来てくれるんだ?祝福してくれるよな」藤正の声は軽やかで、心底楽しんでいるのが伝わってきた。だが銀司は歯を食いしばって言った。「建部、正気か?俺たち家族みたいだろう。美鈴は俺の女だ!彼女は俺を愛してる。お前との結婚なんて、ただの当てつけに過ぎない。全て説明すれば、きっと許してくれる。七年も一緒にいたんだ。俺は今すぐ誤解は解ける。結婚式を中止しろ。今A国に向かって、彼女を連れ戻すところだ」そう言いながらも、内心では確信が持てなかった。ただ、藤正が自信を失い、諦めてくれることを願っただけだ。しかし藤正は軽く笑っただけだった。「お前少し自信過剰じゃないか?これまで俺たちが親友だったなら、今日でその関係は終わりだ」彼は結婚行進曲を口ずさみながら、あからさまに銀司を嘲笑った。「美鈴はもうお前を愛していない。心から俺と結婚したいんだ。式は予定通りだ。来たければ、俺たちの幸せを見届けてくれ」その軽い一言が銀司の心を貫き、彼を打ちのめした。「美鈴はもうお前を愛していない……」この言葉が頭の中で反響し、狂いそうになった。スマホを握りしめる手に力が入り、今すぐ太平洋を越えて美鈴