All Chapters of ピアノは響けど、君の姿はもういない: Chapter 21 - Chapter 26

26 Chapters

第21話

銀司は黒いベルベットの指輪ケースを握りしめていた。中には揃いの結婚指輪――鳩の卵ほどの大きさのダイヤがきらめき、目を奪う輝きを放っている。彼は周囲の好奇の視線も神父の困惑も無視するように、美鈴へとまっすぐ歩み寄った。足取りは固く、迷いがなかった。すると、オーケストラが止まった。神父も呆然としてしまった。教会は水を打ったように静まり返った。挙式の最中に、もう一人の新郎が現れるなんて――誰もが息を飲んだ。「銀司?」美鈴は瞬きを忘れた。もう杏に場所を譲ったはずなのに。なのに、なぜ今?それもまさかの結婚式に?反射的に藤正の前に立ちはだかり、眉をひそめて言い放った。「何の用?今日は私たちの結婚式よ。邪魔しないで」「結婚式?」銀司は唇を歪めて笑った。「俺が別れを承知した覚えはない。お前たちの結婚なんて、さらに認めない。杏の件は説明する。だからまず……俺と来てくれ」不敵な笑みを浮かべながら、彼は美鈴の手首を強く掴んだ。その顔には狂気じみた表情が浮かんでいた。「放して!」美鈴は激しく手を振り払い、顔を背けた。「もういいの。あなたを愛してないって、わからないの?もう終わったんだよ。子供みたいなわがままで式を台無しにしないで」「わがまま……?」銀司の目が一瞬、揺れた。必死の思いが、彼女にはただの「わがまま」に見えるのか。「違うんだ」声が震えた。「美鈴、まだ終わってない。俺たちは……」銀司の目は真っ赤になり、冷たい顔に崩れそうな笑みが浮かんだ。次の瞬間、彼は美鈴の頬を強引に掴み、唇を奪おうとした――ドン!鈍い音が教会に響いた。藤正の拳が銀司の頬骨に直撃した。その一撃で銀司の体はのけぞり、頬はすぐに腫れ上がり、口角から血が滲んだ。「ふざけるな!美鈴がもう入籍した。式も終わりに近いんだ。俺の妻に何をするつもりだ!諦めろ」藤正はそう言い、もう一発殴ろうと追いかけた。しかし銀司はわざと傷ついた腕でその拳を受け止めた。血が腕を伝って流れ、見るも痛々しい赤だった。だが彼は少しも気にせず、むしろ唇をゆがめて笑った。「痛いな、美鈴」わざと傷ついた腕を見せつけるように袖をまくり、赤黒い血を滴らせた。地面に落ちた血のしずくが、教会の床を汚した。
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第22話

美鈴は目を閉じ、ふと葵のことを思い出していた。償いなんて、本当に意味があるのだろうか?もうこの世にいない少女。その代わりに杏を寵愛しても、何の意味もない。杏は葵ではないのだから。今になってようやく理解した。銀司は確かに愛してくれたのだ。だが、そんなことはもうどうでもよかった。伝わらない愛など、愛とは言えない。胸の奥からは、喜びの感情が一切湧いてこない。七年もの歳月を共に過ごしたのに。彼の無口な性格は十分知っていたはずなのに。それでも、一言の「愛してる」さえ惜しんだ彼の態度に、どんな熱も冷めていく。ましてや、比較する相手が現れてしまった。銀司が杏を優しく扱う姿を見た時、初めて悟った――彼にもこんな風に人を愛することができるんだ。けれど、一度もそんな風に接してくれなかった。今更、彼が杏を愛していたかどうかなんて、どうでもいい。もう、心は傷だらけだった。長い沈黙の後、美鈴は静かに彼を押しのけた。「銀司、もう終わりよ。杏のことじゃないの。あなたは私を愛していたかもしれない。でも、私はそれを感じられなかった。だから手を放したの。二度と戻らない」悟り切ったような声でそう告げると、自然に藤正の手を握り、彼の胸に寄り添った。それだけで、銀司との距離は決定的に遠のいていく。「ずっと同じ場所で待ち続けてくれる人なんていないわ。私だってそう。もう長く待たせすぎた人を、これ以上待たせたくない。新しい人生を始めなさい。私はもう銀司を選ばない」きっぱりと言い切ると、美鈴はしっかりと藤正を見つめた。その温かい眼差しに、不安げだった彼の表情がほぐれていく。そして、ゆっくりと目を閉じ、彼の唇の端に優しいキスを落とした。教会は一瞬、また水を打ったように静まり返り、聞こえるのは二人の鼓動だけだった。トクン、トクン。「藤正の妻になれて……本当に嬉しい」美鈴の微笑みには、偽りのない輝きがあった。藤正の心臓は高鳴りを止められなかった。慌てて言葉を紡ごうとするが、興奮のあまり言葉が続かなかった。「俺……俺こそ……美鈴と結婚できて……」そのわずか数歩先で、銀司は拳を握り締めていた。力任せに握った指輪が掌に食い込み、傷口から血が滴り落ちるていた。高価なダイヤモンドは
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第23話

この豪華な結婚式は完璧ではなかったけれど、美鈴の胸には甘い幸せが広がっていた。ああ、もう私は幸せなんだと思っていた。ふと横を見ると、藤正が優しく微笑んでいた。その夜。美鈴はベッドの端に座り、胸の高鳴りが止まらなかった。重たいウェディングドレスから、シルクの肌触りの良い寝間に着替えている。部屋中が和風の装飾で彩られ、寝間にはおしどりの文様が施されていた。その色が、なんだかますます彼女の頬を熱くさせた。シャワーの音が止み、程なくして藤正がバスルームから出てきた。だらしなく着たパジャマからは、鍛えられた体のラインが覗いている。タオルで拭いた髪から滴が落ち、鎖骨を伝って胸元へと消えていく。何てことない日常の光景なのに、美鈴はなぜかドキドキしてしまった。思わず唇を噛み、シーツをぎゅっと握りしめた。その様子に気づいた藤正は、優しい笑みを浮かべた。わざと力を抜いて、彼女が緊張しないように気を遣った。「美鈴、まだ不安だったら遠慮なく言って。君の気持ちが準備できるまで、いくらでも待つから」そう言う時、彼の喉仏がくっきりと動いた。美鈴はつい見入ってしまい、はっと我に返って小さく咳払いした。「藤正、大丈夫……私、覚悟はできてるから」積極的に藤正の胸に手を当てると、彼は嬉しそうにベッドに倒れこんだ。自然と美鈴の体も引き寄せられた。「じゃあ、今夜は存分に愛させてもらうよ」その言葉とともに、熱いキスが降り注いだ。もう逃げる隙など与えないように。夜通し、ベッドは激しく揺れ、二人の息遣いが夜明けまで続いた。一方その頃、病院のベッドで銀司がようやく目を覚ました。ゆっくりと瞼を開け、ぼんやりと天井を見つめた。窓の外はもう夜が明けかけていた。随分時間が経ったな。その二人は、もうすべてを終わらせただろう。そう思いながら、傷ついた手を強く握りしめ、かさぶたが剥がれてまた血が滲んだ。痛みでますます現実が突きつけられた。美鈴が本当に自分を捨てたのだということが、これほどまでに鮮明に感じられたことはない。いつも彼を追いかけてた美鈴がもういなかった。彼だけを見てた美鈴がいもういなかった。けど、ふと視界に、美鈴の後姿が浮かんだ。「美鈴……美鈴……」彼女の名を繰り返し、虚像
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第24話

翌日、医者が不機嫌そうに包帯を替えながら、眉をひそめて言った。「傷を安静に、と何度言えばわかるんですか?また無理をして……竹内さんのような有名ピアニストが、このままでは指が動かなくなりますよ。退院は許可できません。看護師が二十四時間ついていますから、完全に治るまで動かないでください」銀司は自分の傷をぼんやりと見つめていた。他人の話を聞いているような、冷静な表情だ。この医者……藤正の差し金に違いない。善意だろうが、どうでもよかった。たかが片手じゃないか。美鈴に会うことに比べれば……病院で数日おとなしく過ごし、看護の目が緩んだ隙を見計らって、また脱走した。何度目かのことだ。難なく看守をかわし、藤正の家へと向かった。一方、美鈴と藤正は外出した。「本当に一人で大丈夫?俺が同行すれば、採用の可能性も上がると思うけど」「大丈夫よ。どうしても行きたいというなら、外で待っててくれる?」美鈴は苦笑いしながら、くっついてくる藤正を軽く押しのけた。彼まで一緒なら、面接どころか即採用されてしまいそうだ。きれいめのスーツにヒールを合わせ、自信を持ってビルに入った。藤正は車中から、ビルの入口をじっと見つめていた。しばらくして、美鈴が満足げな笑顔で戻ってきた。「面接、すごくうまくいったわ。社長も気に入ってくれて、一週間後に新人チームを任せてくれるそう」彼女は元の仕事――芸能マネージャーに戻ることにした。長年やってきた仕事だし、何よりこれが好きなのだ。それは誰のためでもない、自分のためだ。「それはよかった。美鈴が楽しめるなら何よりだ。もし合わなかったら、すぐにでも他の仕事を探そう。俺が全力でサポートするから」藤正は彼女の手を優しく包み込んだ。「うん」家に着き、車から降りた瞬間、ドアの前に見覚えのある人影が立っているのに気づいた。「美鈴、待っていたよ」銀司の視線は美鈴だけを捉え、傍らの藤正には目もくれなかった。「美鈴、離婚してくれ。俺と帰国しよう。やり直せる。結婚式も挙げよう。ずっと俺たちの式を楽しみにしてただろう?もっと盛大な式にする。誰もが羨むように……どうだい?」独りよがりに未来を語り、まだ諦めきれない様子だ。美鈴は眉をひそめ、見知らぬ人を見るような目で彼を見た。
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第25話

「マネージャー」という言葉を聞いた時、銀司の胸に灯っていた小さな希望の火が、またひとつ消えた。「君は……俺以外の……」言葉を遮るように、美鈴がきっぱりと言った。「確かに言ったわ。『あなた以外の新人は担当しない』って」その言葉に、彼は思わずうなずいた。目に微かな光が宿った。しかし次の瞬間、彼女の言葉がその最後の望みも打ち砕いた。「でも私たち、もう別れたんでしょ?あの時の約束なんて、今は何の意味もない。元の会社も辞めたんだから、なぜあんただけに縛られなきゃいけないの?これからもたくさんの人材を育てていく。でも、あんたとはもう何の関係もない。わかった?現実を見なさい。もうあんたを愛してないし、これ以上ついていくな。あんたのために何かするつもりもない」そう言い終えると、藤正がドアを開け、美鈴は迷いなく中へ入っていった。ドアが閉まり、外にはぽつんと銀司ひとり。しばらくして、再びドアが開いた。期待に顔を上げたが、そこにいたのは美鈴ではなく藤正だった。「銀司、病院で静養する気がないなら、帰国したらどうだ?そこがお前の居場所だろう。竹内家の立場を考えれば、お前がずっと海外にいることなど許されない。美鈴は今、俺と幸せに暮らしてる。新しい出会いもあり、新しい人生を歩んでる。そしてそれはもう、お前とは何の関わりもない話だ。お前が粗末にした宝石を、俺が大切に磨き上げてみせる」藤正は勝ち誇ったように笑い、満足げにドアを閉めた。ドン!すぐに、黒い服のボディーガードたちが現れ、銀司を取り囲んだ。「竹内さま、お時間です」それに、車は既に待機しており、ドアも開けられている。もはや抵抗の余地はなかった。竹内家は軍部の名家。その母が葵を出産した時、敵の襲撃に遭って早産となった。そのため、葵の体は虚弱になってしまったのだ。銀司は厳格な教育を受け、父の後継者として育てられた。誰もが、彼が世界的なピアニストになるとは思っていなかった。しかしそれでも、竹内家の長男としての立場は変わらない。美鈴を追って海外に行くことを父が許したのは、最大限の譲歩だったのだ。案の定、銀司が拒否する間もなく、父からの電話が入った。「銀司、帰ってこい。もう終わりにせよ」冷たい声は、議論の余
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第26話

銀司は空港へ向かう車の窓に、ぼんやりと景色を眺めていた。色鮮やかに見えた街並みも、今はまるでモノクロ写真のようだ。葵が逝ってからずっと、彼の世界はこんな色をしていた。美鈴だけがその灰色に彩りを与えてくれたのに、今また以前のままになってしまった。飛行機が離陸する際、小さくなっていく街の灯りを見ながら、「さよなら、美鈴……俺も、手放すよ」かすれた声で、最後の別れを告げた。空港に着くと厳重な身体検査を受け、そのまま実家へ送還された。広大な屋敷は相変わらず冷たく、人の気配すら感じられない。両親がたまに帰宅しても、重苦しい沈黙が支配するだけだ。そんな家で、彼自身もまた生きている心地がしなかった。ある日、ふと美鈴の残り香がする湖畔にある別荘が恋しくなった。そこにあるもの全てが美鈴の選んだもの。彼女がいなくなっても、至る所にその痕跡が残っている。「おかえりなさい、銀司」ふとソファでくつろぐ美鈴の声が聞こえたような気がした。「お腹空いてるでしょ?ご飯できてるわよ。一緒に食べましょう」優しい笑顔で彼の手を引かれ、キッチンへ。湯気の立つ料理を運び、食卓で談笑しながらゆっくりと食事をする――しかし、その幸せな光景は、一瞬で消え去った。「そうか。美鈴はもう、別の人の妻なんだ」銀司は唇を歪ませた。そして、リビングには大きな段ボール箱を見た。美鈴が杏にあげようとした品々を、彼が取り戻した。箱の中の一つ一つが、彼女の愛を物語っていた。今では、それが彼女を想う唯一の手段となっていた。そのそばにあるピアノには分厚いほこり。以前は美鈴がよく隣に座り、楽譜を一緒に見ながら笑い合ったものだ。彼女の目はいつも、尊敬と愛情に溢れていた。丁寧にほこりを拭い、銀司はピアノに向かった。傷ついた手で鍵盤に触れると、激痛が走った。それでも構わず、狂ったように弾き始めた。血が鍵盤を染めても、演奏を止めなかった。翌日、その曲『あの顔、遠く』は世に出ると、瞬く間に話題を呼んだ。「世紀の傑作」と称賛される一方、誰もその曲に込められた狂気と絶望を再現できなかった。銀司自身の録音版は粗削りだったが、かえってその空虚な音色と微かな風音が曲を引き立てていた。しかし、二度と再現できない、彼自身ですら。
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