乙音が北都へ来たのは結婚のためであり、当然異論などなかった。長年の願いが叶った羽生家の老夫人は上機嫌で、二人を相手に三十分も話し込んでいた。丁度書類を届けに来た神崎さんを連れ、老夫人はさっき決まった結婚式の段取りを整えるため部屋を出て行った。残された瀬人と乙音。乙音は何を話せばいいか分からず、とっさに卓上の雑誌を手に取った。瀬人はむしろ落ち着いた様子で、自ら湯飲みを注ぎ彼女に差し出しながら声をかけた。「祖母の話では、君は事故に遭ったんだって?体の調子は?」「ええ、肋骨を何本か折りましたが、一ヶ月もすれば治るそうです」瀬人が微かに眉を寄せた時、彼女の瞳に翳りが走るのを捉えた。事情を詮索すべきでないと悟り、話題を変えた。「ご両親は北都にはいらっしゃらないの?」その質問に、乙音の胸がぎくりと締めつけられた。それでも気まずい空気を繕うための世間話だろうと、曖昧に答えた。「仕事の出張で……一人で参りました」言葉の端々と、顔に浮かんだ微妙な表情。瀬人は違和感を覚えつつ、初対面の印象を悪くしたくないと考え、会話の主導権を彼女に委ねた。「うちの家族は熱心な性分だから。北都は初めてだろう?何か困ったことはない?」覚悟していた辛辣な質問が来ないことに、乙音は意外そうに顔を上げると、瀬人の真摯な眼差しに触れ、ふと喉から零れた疑問は――「羽生さんは、いつ目覚めたんですか?」彼女が知りたがっている核心を察し、瀬人は包み隠さず説明した。「二ヶ月前だ。正確には三月十五日の夜。検査とリハビリが続いたから、公表は控えていた」「三月……?」乙音は思い出した。確かにあの頃、父と母は婚約の話を再び持ち出していた。美穂が小嶺家に来た日、小嶺家の四人と佐藤青野までが「美穂が羽生家に嫁ぐ」と決めつけていた。しかし五年経っても羽生家から音沙汰なく、人々は忘れかけていた。二ヶ月前、美穂を避けるように開かれた家族会議で、再び婚約が議題に上った。両親は言葉の端々で美穂の身代わり結婚を阻止しようとし、その瞬間、乙音は悟った――自分は美穂に勝てない。それでも十年以上の情が絡み、かすかな希望を抱き続けていた。転機は二十日余り前。美穂が挑発的に、乙音が十年間家族同然に飼っていた犬を殺めた時だ。崩れ落ちる彼女をよそに、
Read more