All Chapters of 心に刻んだ名前: Chapter 1 - Chapter 10

18 Chapters

第1話

バスルームでシャワーを浴びる時間が好きだ。彼の顔を見ずに済むし、嫌な記憶に苛まれることもないから。けれど、洗面台の鏡をぼんやりと眺めていると、曇ったガラス越しでも、肌に刻まれた消えない痕跡がはっきりと目に映った。充血した瞳で、私は鏡の中の自分をじっと見つめた。すると、不意にバスルームのドアをノックする音が響く。智秀が、ゆったりとした調子で言った。「ずいぶん長いな?出てこないなら、入るぞ」「……」彼は以前にも、何の前触れもなくバスルームに入ってきたことがある。私はすぐにシャワーを止め、バスタオルを体に巻きつけた。朝食は、いつも通りきちんとテーブルに並べられていた。けれど、智秀は手をつける気配がない。テレビでは朝のニュースが流れ、彼はすらりとした指で、手際よくネクタイを締めていた。私がぼんやりと彼を見つめていると、ふいに顔を近づけ、鼻を軽くつままれる。「そんなに見るのが好きか?次は君が締めてくれる?」私は視線をそらした。彼は、まるで面白がるように低く笑う。そして、わざわざ私の飲んでいたミルクを手に取り、唇の跡が残る部分に口をつけて飲んだ。「いい子にして待ってろよ。今夜、ウェディングドレスを見に行くぞ」智秀が出て行った。私はただ、呆然とテレビを見つめ続けた。気がつけば、彼が口をつけたグラスを手に取り、テレビに向かって思いきり投げつけていた。テレビはかすかに揺れただけ。けれど、グラスは床に叩きつけられ、粉々に砕けた。鋭い音が静寂を切り裂き、使用人たちの驚いた声が遠くから聞こえた。私は膝を抱え、その場に座り込み、泣いた。智秀――それは、私にとっての悪夢だった。高校時代、あのグループの中で、誰よりも執拗に私をいじめたのが彼だった。彼は私のカバンを開き、教科書をすべて校舎の窓から放り投げたことがある。彼の一声で、クラスの誰もが私を避けるようになった。彼のそそのかしで、女子たちは私をトイレに連れ込み、頬を叩いた。彼が先頭に立って私を笑い者にする限り、誰も助けてはくれなかった。なぜなら、智秀は某大企業の会長の息子だったから。私たちの学校には、彼の家が寄付した校舎が建っていた。彼が笑えば、教室中が笑った。彼が嘲れば、私を嘲る声が渦巻いた。彼の端正な顔立
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第2話

でも、私は後部座席の広い車が好きじゃない。中央の仕切りが上がれば、運転席からは何も見えなくなる。誰にも、後ろで私たちが何をしているのか分からない。けれど、今日の智秀は、いつもより静かだった。私がずっと震えていたからかもしれない。車内は十分に暖かくなっていたのに、それでも私は震え続けていた。彼は私の反応を意に介さず、腕を伸ばし、私を抱き寄せた。「結衣、そんなに怖いのか?」低く囁く声が耳をくすぐる。分かっているくせに。私がこうなっている理由を、誰よりも知っているくせに。「あとで、ウェディングドレスを選びに行こう。な?」私は小さく震える身体を必死に抑え込んだ。けれど、笑いを堪えられなかった。まさか、私を地獄へと突き落とした張本人が。今になって優しい声で「ウェディングドレスを選びに行こう」だなんて。智秀が私を連れてきたのは、あるプライベートヴィラの中にあるブライダルサロンだった。シャンデリアの光がきらめき、マネキンに飾られたドレスを一層華やかに映し出している。けれど、私は見る気も、選ぶ気もなかった。智秀とデザイナーが、どんなデザインをオーダーメイドするか話し合っている。アシスタントが私の体のサイズを測っている。でも、私はそれよりも、店の裏庭のほうに興味があった。彼らの会話をよそに、私は裾を持ち上げ、小さな庭へと向かった。庭の奥には門があり、その先にはどこまでも自由が広がっているように思えた。私は、何度も何度も逃げることを考えた。けれど、いざ逃げる勇気を振り絞ったとき、どこへも行けない自分に気づいて、ただ絶望するばかりだった。母は智秀との結婚を心から望んでいた。私の手を握り、「いい加減、わがままを言うのはやめなさい」と諭した。私は小さな池のそばに腰を下ろし、ぼんやりと水面を眺めていた。やがて、智秀が話を終え、私を探しにやってきた。「何を考えてる?」彼はいつもそうだった。上から目線で、私に問いかける。私は静かに、腕をまくった。手首には、小さな赤い痕が残っていた。丸い傷跡。その周りは、盛り上がった皮膚が硬くなっている。「見て。あなたがつけた傷」そう言って、私は手首の傷跡を指さした。あれは、高校の時。彼がいつものように不機嫌だった日、私を壁際に追い詰め、火のついたタバ
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第3話

実は、昔は牛乳が大好きだった。学校に行くときも、母は毎朝「持って行きなさい」と牛乳を持たせてくれた。でも、ある日。教室に入ると、智秀が私の席の机に腰かけていた。その頃から彼はすでに背が高く、俯くと影が私をすっぽり包み込んだ。周囲からクスクスと笑い声が聞こえる。誰かが言った。「ちょっと面白いことしようぜ、高田さん」彼はにやりと笑い、掌を広げて私の前に差し出した。私は、手に持っていた牛乳を差し出した。彼がキャップをひねると、まだミルクの香りが漂う前に、白い液体が私の頭上から勢いよく降り注いだ。鼻先、鎖骨、襟元、スカートの裾。全身が牛乳まみれになった。誰もが笑っていた。泣いていたのは、私だけだった。「ねえ、あの顔、誰を誘惑するつもり?」「おいおい、高田さん、相変わらず悪趣味だな」頬に、ざらついた親指が触れた。智秀は頬杖をつき、私を眺めていた。彼は私の顎を指でつまみながら、しばらくじっと見つめていた。それから、吐き捨てるように言った。「ブサイクだな」だから私は、牛乳が嫌いだ。いや、きっと本当に嫌いなのは、智秀のほうなのだろう。今日、二杯目の牛乳を床にぶちまけたとき、持ってきた使用人は、今にも泣き出しそうだった。「お嬢様……お願いです、飲んでください……」私は首を横に振り、拒絶した。ふと視線が、ソファの脇にある黒電話に留まった。這うようにして電話のボタンを押した。この電話は、一つの番号にしか繋がらない。けれど、今回出たのは智秀ではなかった。「橋本さん?」低く落ち着いた男の声。運転手でもある、智秀の秘書だった。「智秀を出して」「今、会議中です。橋本さん……」「なら、そっちに行くよ」私は彼の言葉を聞く前に、一方的に電話を切った。この屋敷は厳重なセキュリティが敷かれている。門には警備員が立ち、部外者の出入りは厳しく制限されている。だが、私は顔を上げ、告げた。「智秀の会社へ行く」それだけで、誰も私を止めなかった。まるで、結婚が決まったことで、私は自由に出入りできる権利でも得たようだった。エレベーターが最上階に到達するまで、何も妨げるものはなかった。ただ、会議室の扉に手をかけたとき、秘書が私を制した。「橋本さん、こちらの休憩室でお待ちいただいて……」けれど
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第4話

私は、彼のオフィスの隣にある部屋のベッドに放り投げられた。そのまま、男の影が覆いかぶさる。片手でネクタイを解き、深紅のシルクが指先から滑り落ちる。やっぱり、私が会議をぶち壊したせいで彼は少し怒っているのかもしれない。そう、彼は決して、私を甘やかしてばかりではない。「今日は……俺に会いたくて仕方なかった?」ベッドに広がる私の長い髪を指で弄びながら、彼は微笑む。私は、静かに彼を見つめた。「智秀。あなたのオフィスに、牛乳はある?」彼の指が止まる。明らかに予想外の質問だったのだろう。この部屋は彼のプライベートな休憩室で、オフィスと直通になっている。ベッドに散らばったシャツやスーツは、すべて彼のものだ。しばらくして、彼は冷蔵庫を開け、牛乳のパックを取り出して差し出した。「……家のがなくなったのか?」彼の言葉が終わる前に、私は牛乳を奪い取った。キャップをひねり、手元の箱を、そのまま彼の頭上へ傾けた。一瞬、彼の動きが止まった。でも、ただそれだけだった。本当なら、避けることもできたはずだ。なのに、彼は動かなかった。冷たい牛乳が彼の額を流れ、眉を伝い、頬を滑った。私は仰ぎ見る。そんな姿になっても、彼の顔は相変わらず美しかった。「智秀。あなたは昔、私にも同じことをしたよね」一語ずつ、はっきりと告げた。……おそらく、彼をこんなに惨めな姿にできるのは、私だけだろう。牛乳が彼の眉を濡らし、彼は頬の内側を軽く噛む。そして、ふっと、笑った。次の瞬間。彼は、冷蔵庫からもう一本の牛乳を取り出した。私はまだ、その意味に気づいていなかった。彼がキャップを開ける音が響いたとき、ようやく悟った。「……っ!」けれど、すでに遅かった。冷蔵庫から出したばかりの、冷たい液体が頭上から降り注ぐ。私は思わず震えた。牛乳が顎を伝い、襟元に染み込んでいく。氷のように冷たい。記憶の中のそれとは、少し違った感触だった。……昔、屋敷の掃除をしている使用人たちが、噂しているのを聞いたことがある。「このお嬢様、本当に頭がおかしいわ。こんなにいい結婚相手がいるのに、なんで嫌がるのかしら?」でも、目の前の智秀は私よりも、よっぽど狂っている。私は、何も言えずにいた。彼は、濡れた私の髪をそっとかき上げ、指で頬のラインを
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第5話

「橋本さんね、高田社長の婚約者よ」「え?でも、なんかすごく行儀悪くない?」「でもね、高田社長に溺愛されてるらしいよ……」「なんで?私、今まであの人が未来の奥様だなんて聞いたこともなかったけど?」「噂よ、あくまで噂だけど……彼女ね、数週間前に連れてきたらしいの。しかも、高田社長の初恋の人にそっくりなんだって」「初恋相手を手に入れられなかったから、仕方なく彼女を選んだってこと?」次に目を覚ましたとき、真っ赤に燃えるような夕焼けが、霞みを帯びながら部屋に差し込んでいた。近くで、静かに紙をめくる音が聞こえる。私が少し身じろぎすると、その音が止まり、額に温かな手の甲がそっと触れた。「……熱があるな。朝、なんで牛乳を飲まなかった?」唇を動かそうとしたけれど、喉が痛くて声が出ない。全身が乾いたように重く、ただ首を横に振ることで意思を伝えるしかなかった。智秀は小さく笑い、私を抱き上げた。いつの間にか着替えていて、煙草の匂いもしなかった。彼はこういう細かいところに、驚くほど気を配る。私が煙草の匂いを嫌うと知ってから、一度も私の前で吸ったことはない。彼が車の後部座席に私を乗せたとき、私はようやく声を絞り出した。「もう、牛乳は飲まない」彼の動きが一瞬止まる。それから、ふっと鼻で笑った。「お前、なんでも俺に逆らいたいんだな?」「……」たぶん、彼の言うとおりだった。私はきっと、彼が怒り狂って私を捨てるのを見たかった。でも、それを言葉にする気力もなく、ただ黙って窓の外を眺める。車は静かに発進し、雲が流れる空を切り取るようにして街を進む。燃えるような紅い夕焼けが、まるで心の奥にまで火をつけるようだった。……智秀は、私を家へ連れて帰った。リビングのソファには、すでに誰かが座っていた。私は、浅野柳子と初めて会ったときのことを思い出そうとした。でも、これといった印象が何もなかった。ただ、彼女と私は、顔立ちがとてもよく似ていた。次の瞬間、彼女が勢いよく立ち上がり、智秀の胸に飛び込んだ。長い沈黙。智秀は、その場で硬直していた。彼女の前髪が彼の首筋に触れたとき、ようやく彼は息を詰めるように喉を動かした。そして、弾むような声で、彼の名前を呼んだ。「智秀! 私、戻ってき
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第6話

眉の下、彼の瞳は赤く染まっていた。私の姿を見つけるなり、彼は微かに笑った。「結衣、お前、本当に俺の言うことを聞かなくなったな」私はソファに押し倒された。それでも、彼は手を添えて、肘掛けにぶつからないように支えてくれた。暗い瞳が深紅の波を湛えている。「智秀、柳子は?」仰ぎ見るように尋ねると、彼は鼻で笑った。「どこかに消えた」「でも、今日の朝、一緒に出かけてたじゃない」「とっくに消えてたよ」「……」言葉にできない感情が、胸の奥から込み上げてきた。私は目を逸らし、彼を見たくなかった。額がそっと触れ合う。その瞬間、彼の瞳がどこか濡れているように見えた。「結衣、お前、今日も牛乳を飲まなかったな?俺が出かけた後、捨てたんだろ?」「……」そうだ、もう何日も飲んでいない。たぶん、私は彼と同じだ。意地を張る性格。やりたくないことは、誰に言われてもやらない。でも、彼は私の意志など気にしない。すぐに、新しい牛乳が温められた。彼は目の前に座り、じっと私を見つめる。「飲め」牛乳なんて、どうでもいいのだ。彼が本当に求めているのは、「俺の言うことを聞くかどうか」。私は視線を逸らした。何度も抗ったが、いつも結果は同じだった。今日も、きっと同じ。私が飲まなければ、彼は顎を掴み、無理やり飲ませる。なぜか、彼が今日は特に苛立っているような気がした。私は、頑なに口を開かなかった。智秀は、じっと私を見つめ、最後に溜息をついた。ゆっくりと、彼は牛乳を口に含む。そして、私の顎を掴み、唇を重ねた。噛みしめていた歯がこじ開けられた。甘いミルクの香りと、酒が回った男の、狂気じみた熱が流れ込んだ。苦しくて、息が詰まる。胸の奥が詰まって、言葉にならない。涙が込み上げ、ついに声をあげて泣いた。ようやく、彼は動きを止めた。夜は静かで、そして、残酷だった。私は、玄関の花瓶に挿されたドライフラワーを見つめる。しばらくして、彼の声が落ちた。低く、掠れ、壊れそうな声。彼は、私を抱きしめた。男の体温は、いつも熱い。「……ごめん」耳元で、何度も繰り返す。「泣かないで。悪かった、結衣。俺が悪かった。もう、泣くな……な?」……その姿に、一瞬だけ錯覚した。私は、ずっと。彼に
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第7話

生理が、何ヶ月も来ていない。「……」智秀のあの節操のない態度を考えれば、避妊すらしなかったのだから、この結果は必然だったのかもしれない。私は、妊娠した。智秀はまだ知らない。私は平らな腹を見つめ、ぼんやりと考えた。可笑しな話だ。この子の運命を、私が決めることはできるのだろうか?このところ、智秀はやけに早く帰ってきた。帰るなり、すぐに私を抱きしめた。彼は、本当にあの頃のように気まぐれで私を踏みにじる人だったのだろうか。それとも、もう違うのだろうか。彼の「許容範囲」は、いつの間にか限りなく広がっていた。たまに、彼が電話で友人と話しているのを耳にする。どうやら、友人が彼を誘っているらしい。「おい、麻雀しようぜ」彼は低く笑い、ソファに丸くなっている私を見つめながら、ゆっくり答えた。「今夜は、嫁と一緒だ」「……」受話器の向こうから、あからさまな冷やかしの声が響いた。「またかよ! なんでそんなにあの頭のおかしい奴を甘やかすんだ?」彼らの声は、次第に遠ざかる。そうだ、彼の友人たちからすれば、私はただの「キチガイ女」なのだろう。せっかくの奥様の座を拒み、日々、無駄に足掻いて、何もかもぶち壊している愚か者。ある夜、夢を見た。いや、あれは本当に夢だったのか。それとも、過去の記憶だったのか。智秀が、仲間を引き連れ、私を教室の隅に追い詰めた。彼は、試験の成績表を手に取り、大声で読み上げた。私は彼らのせいで勉強に集中することができなかった。結果、私の成績は、散々なものだった。彼は違う。彼は常に、トップの成績を誇っていた。高々と試験用紙を掲げ、嘲るように笑った。「ったく、頭悪すぎだろ」……目が覚めた。蝉の声が、どこか遠くから聞こえた。夜の闇が、果てしなく広がっている。隣にいる男は、静かに眠っていた。私は、彼の上にまたがり、手を伸ばした。ゆっくりと、彼の喉元に指をかけた。暗闇の中、彼はじっと私を見つめていた。静かに、淡々と。「殺すつもりか?」「智秀。私を地獄に引きずり込んだのは、あなたよ」私は囁くように言い、指に力を込めた。彼は、それでも動かない。そうして、私は気づいた。きっと、いつかの私なら、迷わず彼を殺していたのだろう。けれど、私はその「いつか」に
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第8話

「結衣、お兄ちゃんは本当にあんたを甘やかしすぎてる!」「……」「言っとくけど、私たちはこれから一生敵同士だから!絶対に、あんたがうちの家に嫁ぐなんて認めない!」「……」はぁ、まったく。彼女、時々子供みたいに幼稚だ。彼女が何の目的でここに来たのかは知らないが、こんな挑発、正直つまらなすぎる。「お兄ちゃん! この女と別れてよ!」花梨がそう叫んだとき、ようやく私は彼女の目的を理解した。結局、私が智秀と結婚するのが嫌なだけだったのだ。まぁ、その点に関しては、私も彼女と意見が一致しているけど。智秀は、私の頭を撫でようと手を伸ばした。私は無意識に避けた。彼は目を伏せ、低く、静かな声で言った。「別れるつもりはない」「……」花梨は怒りに震えながら、地団駄を踏んだ。そして、私を睨みつけた。私はただ、彼女に向かって堂々と目をそらし、ついでに小さくため息をついた。その様子を見ていた智秀は、小さく笑った。「お兄ちゃん! なんでそんなに甘やかすの!? もう、見てられないよ!」「……」食事の席でも、花梨はずっと文句を言い続けていた。しかし、智秀が一言。「黙って、食え」彼女はようやく静かになった。この食事は、無言のまま終わった。もともと食欲もなかったし、最近はずっと胃の調子も悪かった。気分が悪くて仕方なかった。食後、智秀は電話に出た。ダイニングに残ったのは、私と花梨だけ。私も、この場に長くいたくなかった。立ち上がろうとした瞬間、彼女が私の名前を呼んだ。視界がぼやけ、頭がふらついた。その向こうで、彼女は不敵に笑った。「結衣。あんたの写真、まだ持ってるよ。たまに眺めるけど……なかなか楽しめるわよ。あんた、あの写真の中でどれだけ惨めだったか知ってる? いや、天職だったんじゃない?お兄ちゃんと同じベッドで寝ることすら、あんたにはもったいないよ」その言葉を最後まで聞くことはなかった。私は、無言でテーブルの上にあったティーポットを手に取り、彼女に向かって、思い切りぶちまけた。鋭い悲鳴が、屋敷中に響き渡った。濡れたメイクが崩れ、彼女の顔に滴った。彼女の叫び声に反応するように、智秀が現れた。「お兄ちゃん! こいつが私に水をかけたの!」涙声の訴え。それが、はっ
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第9話

智秀が、私の子供の父親になるなんて。病室のベッドに横たわっていると、いつも聞こえるのは、蝉の鳴き声ばかりだった。果てしなく続く白い窓枠。一点の汚れもない天井。点滴の液体が、静かに滴り落ちる。手首に刺さる留置針は、まるで骨に突き刺さった棘のようだった。何日、この病床で過ごしたのか、もう覚えていない。何人の人間が、この部屋を出入りしたのかも。窓辺に立つ医師や看護師。男も女も、誰が何を言っているのか、ある瞬間、すべての音が消えた気がした。記憶の中の、波にのまれるような夢。繰り返し、繰り返し、私は智秀と彼の妹にいじめられる。私は、忘れていた。そもそも、私自身が、すでに深淵に沈んでいたことを。それなのに、どうして「悪魔」に救いを求めてしまったのか。気づけば、私は彼の優しさに溺れていた。気づけば、私は彼が「違う人間」になったと思い込んでいた。腹部の痛みは、何日も続いた。手術の縫合跡は、自分で見ても、ぞっとするほど醜かった。ある夜、眠れなかった。点滴が流れ込む血管の中で、留置針が異物のように突き刺さる。指でそっと押してみた。医者は言った。「この針は柔らかいチューブだから、長期間入れておくことができる」でも、痛いわけじゃない。ただ、あることが、たまらなく嫌だった。四度目に指で押したとき。私は、勢いよくそれを引き抜いた。一筋の血が弧を描いた。でも、痛くはなかった。正直に言うと、もう痛みすら感じない。誰かの存在も、もはや気にならない。ただ、こうしていたかった。何も考えず、何も感じず、ただひとりで。ベッドに横たわるのも、死んでしまうのも。何もかも、どうでもよかった。……看護師が渡してきた薬を、私はこっそり捨てた。だって、ほかの誰も薬なんて飲んでいなかったのに、どうして私だけが、飲まなければならないのか。留置針は、結局また別の手首に刺された。まるで、抗えない運命のように。その後、母が付き添うようになった。彼女は泣いてばかりいた。私よりも、ずっと。でも、私はもう、彼女に応えられなかった。何を言われても、響かない。彼女はただ、私に「お願い」ばかりする。「お願いだから、こんなことしないで」、「お願いだから、元気になって」、「お願いだから、私たちを無視しないで」本当に、私は無視していたの
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第10話

たぶん、そうなのだろう。彼は、こうやって巧妙に嘘を紡ぎ、罠を張り巡らせる。結局、私を騙しているだけなのだ。床に突き飛ばし、喉を掴み、それでも口づける。可笑しいのは、私がそんな彼にまた騙されそうになったことだ。私を地獄に突き落としたのが、誰だったかを忘れそうになったことだ。病室の外が騒がしい。けれど、夏の生命力あふれる喧騒は、私とは無縁だった。智秀が、彼の妹の襟首を掴んで病室に入ってきた。「絶対に、あの女に謝ったりしないから!智秀! お兄ちゃん、いい加減にしてよ!」彼女は激しく抵抗するが、智秀は膝裏を軽く蹴りつけた。バランスを崩した彼女は、危うく私の病床の前に膝をつきそうになった。「……」彼女が、私を睨みつける。なんだか、喜劇みたいだ。でも、私はそんなものに付き合う気はない。背後に立つ男の存在も、目障りだった。だから、目を閉じて、何も見なかったことにした。「……ごめんなさい」結局、彼女は小さな声でそう言った。「……」「結衣」彼が、私の名前を呼んだ。本当なら、目を開けるつもりはなかった。でも、次の瞬間、妹の声が急に大きくなった。「ちょっと! 何してるの、お兄ちゃん!? 立ってよ!!」「……」高田社長が跪くなんて、珍しい光景かもしれない。彼は、まっすぐに私の前に膝をつき、伏し目がちに座っていた。光が彼の背後に差し込み、シルエットを際立たせる。花梨は彼の肩を掴み、泣きながら引っ張る。「お兄ちゃん! やめてよ! こんなことしないで!なんでこんな女なんかに跪くのよ!?見てよ、兄さんの今の姿……智秀!」彼女は、泣きながら叫んでいた。でも、私はもう、彼女の涙に何の感情も抱かなかった。花梨は、兄を引っ張るのを諦め、泣きながら病室を飛び出した。蝉の鳴き声が、病室の静けさの中に閉じ込められる。私は、彼の瞳を見つめる。強すぎる日差しが、彼の瞳に光の輪を映し出していた。まるで、遠い記憶の中で見た光景のように。蝉の声と、あの瞳。なぜか――涙が出そうになった。理由は、分からない。ベッドで過ごす日々は、ひどく退屈だった。私は、死を恐れていたわけではない。ただ、狭い空間に閉じ込められることが、何よりも苦痛だった。だから、看護師の許可をもらい、病院
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