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第6話

Author: 平野 愛子
眉の下、彼の瞳は赤く染まっていた。

私の姿を見つけるなり、彼は微かに笑った。

「結衣、お前、本当に俺の言うことを聞かなくなったな」

私はソファに押し倒された。それでも、彼は手を添えて、肘掛けにぶつからないように支えてくれた。

暗い瞳が深紅の波を湛えている。

「智秀、柳子は?」

仰ぎ見るように尋ねると、彼は鼻で笑った。

「どこかに消えた」

「でも、今日の朝、一緒に出かけてたじゃない」

「とっくに消えてたよ」

「……」

言葉にできない感情が、胸の奥から込み上げてきた。私は目を逸らし、彼を見たくなかった。

額がそっと触れ合う。その瞬間、彼の瞳がどこか濡れているように見えた。

「結衣、お前、今日も牛乳を飲まなかったな?

俺が出かけた後、捨てたんだろ?」

「……」

そうだ、もう何日も飲んでいない。

たぶん、私は彼と同じだ。意地を張る性格。やりたくないことは、誰に言われてもやらない。

でも、彼は私の意志など気にしない。

すぐに、新しい牛乳が温められた。

彼は目の前に座り、じっと私を見つめる。「飲め」

牛乳なんて、どうでもいいのだ。

彼が本当に求めているのは、「俺の言うことを聞くかどうか」。

私は視線を逸らした。何度も抗ったが、いつも結果は同じだった。

今日も、きっと同じ。

私が飲まなければ、彼は顎を掴み、無理やり飲ませる。

なぜか、彼が今日は特に苛立っているような気がした。

私は、頑なに口を開かなかった。智秀は、じっと私を見つめ、最後に溜息をついた。

ゆっくりと、彼は牛乳を口に含む。

そして、私の顎を掴み、唇を重ねた。

噛みしめていた歯がこじ開けられた。

甘いミルクの香りと、酒が回った男の、狂気じみた熱が流れ込んだ。

苦しくて、息が詰まる。胸の奥が詰まって、言葉にならない。涙が込み上げ、ついに声をあげて泣いた。ようやく、彼は動きを止めた。

夜は静かで、そして、残酷だった。私は、玄関の花瓶に挿されたドライフラワーを見つめる。

しばらくして、彼の声が落ちた。

低く、掠れ、壊れそうな声。

彼は、私を抱きしめた。男の体温は、いつも熱い。

「……ごめん」耳元で、何度も繰り返す。

「泣かないで。悪かった、結衣。俺が悪かった。

もう、泣くな……な?」

……

その姿に、一瞬だけ錯覚した。

私は、ずっと。

彼にとって、大切な存在だったのかもしれない、と。

欲を満たした男は、機嫌がいい。

私は、試すように言ってみた。「柳子にもう会いたくない」

すると、翌日。柳子は泣きながら荷物をまとめていた。

私は、分からなくなった。

智秀は、そんなに素直に言うことを聞くような男だっただろうか?

ましてや、彼女は彼の「初恋の人」ではなかったのか?

考えても分からないことは、直接聞くのが一番だった。私は問い詰めた。

でも、彼はただ目を細め、手を伸ばして私の髪をくしゃりと撫でた。それは、いつもの彼の誤魔化し方だった。

「結衣、お前は誰の代わりでもない」

ほら、こんな甘い言葉。彼らは、いつもこうやって嘘をつく。

彼が本当のことを話す気がないなら、私は永遠に真実を知ることはできない。

結局、弄ばれるのは、いつも私だけだった。

猛暑のせいか、どうも食欲がない。どんなに家の料理人が腕をふるっても、この数日、何を食べても味がしない。

それでも、最後のひと口のポークライスを飲み込んで、私はトイレへ駆け込み、胃の中のものをすべて吐き出した。

その瞬間、心臓が強く跳ねた。

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    「そうそう、救急車も来てたよ。授業中だったけど、窓から見えたんだ」「何があったの? もっと詳しく!」「女の子がさ、全身血まみれで運ばれてたんだよ。マジでヤバかった」「どのクラス? どのクラスの子?」「それは言えないなぁ。でもさ、あの光景はマジで……うわぁ」「もったいぶるなよ! 何があったんだ? 事件?」「言っとくけど、それよりもヤバい話だよ」「じゃあ、教えろって!」「でもさ……これ話したら、誰かに恨まれそう。やっぱやめとくわ」「……」言えばいいのに。別に、隠すことなんてないだろうに。私は、そっと腹部に視線を落とす。よく考えてみれば――あの日、私は自分が妊娠したと思い込んでいた。でも、私、生理不順だし。夏バテで吐くことなんて、よくあることじゃないか。それなのに、妊娠だと決めつけた。おかしいと思わないだろうか?私は、絶対に妊娠していると思い込んでいた。けれど――本当は、もう妊娠なんてできなかったんだ。人間というのは、時に都合のいい幻想を作り出す生き物だ。私もきっと、何度も何度も、自分を騙してきたのだろう。だからこそ、真実を思い出したとき、脳が爆発するような錯覚に襲われる。なぜ、私の記憶は、いつも途切れ途切れなのか?なぜ、あの日、智秀が私に煙草の火を押し付けたことは覚えているのに、その後を思い出せないのか?なぜ、彼は私をじっと見つめ、「必ず牛乳を飲め」と強く言い続けたのか?なぜ、柳子と星矢は、あんなにも不自然に現れたのか?なぜ、彼の友人たちは、私のことを「狂ってる」と言ったのか?……高校二年生の夏。蝉が鳴き続ける、あの暑い夏。私は、生涯忘れることのできない、地獄を味わった。最初は――ただの些細な出来事だった。校内にエアコンの設置工事に来ていた業者が、私に道を尋ねただけ。ただ、それだけ。私は、何もしていない。ただ、彼らに正しい道を教えただけ。それなのに、次の瞬間。誰かが、ニヤリと笑い、私の腕を掴んだ。そして、そのまま男子トイレへと引きずり込まれた。夕陽が最後の紅い光を投げかける時間から、星が街の上に降りてくるまでの、約三時間。私は、人間の尊厳すら踏みにじられるような、地獄の中にいた。智秀が、私に押し付けたという煙草の火。それは、本当に彼がつけた

  • 心に刻んだ名前   第14話

    智秀がいなければ、私はずっと自由だった。少なくとも、彼にまとわりつかれることなく、好きなことができる。宿には、日本人の観光客が多かった。私は、一人の少女と知り合った。十六、七歳くらいの子で、夏休みに家族とここへ来たらしい。朝の空は、果てしなく広がり、雲ひとつなかった。けれど、午後になると、陰雲が雪山を覆い尽くす。そして、夕方、突然の猛吹雪。暗雲に閉ざされた空には、もう光がなかった。智秀たちの登山グループには、かなりの人数がいた。それもあり、宿の人々は、次第に不安に包まれていった。「連絡が取れない」、「電波が途切れたのか、それとも……」家族を送り出した人たちは、口々に騒ぎ始める。ロビーには、人が溢れていた。宿のスタッフが落ち着かせようとする。「皆さん、冷静になってください。今回の登山グループには、経験豊富な登山者が複数名います。突然の悪天候にも適切に対応できるはずです」仮に遭難していたとしても、救助隊の派遣は早朝になる。レストランの空気は、ますます重苦しくなる。私の隣で、十六歳の少女は、静かに食事を続けていた。彼女の両親も――あの登山隊にいるらしい。「美穂、どこに行ってたの? ずっと探してたのよ」ふいに、柔らかい女性の声が響いた。日本語だった。思わず、私も顔を上げる。彼女と視線が合った。彼女は、一瞬、驚いたように私を見つめる。「……あれ? もしかして、橋本結衣?」「……」私は、眉をわずかに上げた。まさか、彼女が私の名前を知っているとは思わなかった。「えっ、覚えてない?紀州中学の高二の三組!私、小林瞳! ほら、同級生だったでしょ?」「……」高校時代の話をされると、私は、条件反射のように身をすくめた。だが、そこには、妙な違和感があった。記憶が、割れた土のように崩れていく。私は、懸命に彼らの顔を思い出そうとした。けれど、顔が、思い出せない。全てが、ぼやけている。まるで、誰かが記憶の中の輪郭を、ぐしゃぐしゃに塗り潰したみたいに。「えぇ? 私たち、すっごく仲良かったじゃん!前の席だったし! ほら、お菓子いっぱい分けてあげたのに~!それに、花梨とも仲良かったよね? あと……彼女のお兄ちゃん。そうそう、智秀。今も一緒なの? あなたたち、当時はマジでお似合いだったよね!でも、高

  • 心に刻んだ名前   第13話

    「寒くない?」私はすでに彼に、何重にも包まれていた。それでも、彼はさらにマフラーを巻こうとする。私は、それを避けた。背後から、彼の小さな笑い声が聞こえた。「なんか、小熊みたい」「……」吐く息が白く霧散する。私たちは、クック山の麓にあるロッジに泊まっていた。一目で、高級な宿だと分かる。設備はすべて整っており、観光客向けのサービスも完璧だった。今は、シーズンオフ。それでも、宿にはちらほらと旅行者がいる。その中には、数人の日本人もいた。「明日は、どこに行く?」彼は、細長い指でナイフを持ち、バターをパンに塗っている。私は、パンにバターを塗るのが苦手だった。いつも不格好になってしまう。だが、彼がやると、どうしてこうも絵になるのだろう。彼はため息をつき、私のパンと自分のものを入れ替えた。宿には、一匹の猟犬がいた。見た目は獰猛そうだが、数日一緒に過ごせば、ただの食いしん坊だと分かる。食べ物をやれば、すぐに尻尾を振る単純な犬だった。私は、智秀が丁寧にバターを塗り直したパンを、そのまま犬にあげた。彼は、明らかに予想していなかったらしい。智秀は、テーブルの下で私の足を軽く蹴り、呆れたように笑った。「俺、何かしたっけ? 結衣」「……」私は、彼を無視した。窓の外。昨日の嵐のような吹雪は止み、雪の景色が穏やかに広がっていた。庭の積雪は、膝上まで埋まりそうなほど。白銀の世界で、宿泊客が雪遊びを楽しんでいる。宿のロビーには、クック山の伝説が記されたパンフレットがあった。マオリ語、英語でも書かれている。私は、なんとなく手に取る。雪山を登っていけば、頂上の近くで幸運をもたらす精霊に出会えるかもしれない。ただの観光向けの噂話だ。すぐにパンフレットをテーブルに戻した。しかし、智秀が隣で、ひたすら話し続けるものだから、気が散る。私は、適当に言い返した。「そんなに暇なら、それ見つけてきてよ」本当に、ただの適当な一言だった。ただの、気まぐれな愚痴だった。けれど――彼は、ふと動きを止めた。数秒、考えたあと。パンフレットを見つめ、目を細めた。「願いが何でも叶うなら、それは、俺にとって、必要なものかもな」「……」私はため息をついた。まさか、この人、本気で行くつもりなのか?宿には何人かの登山客がいて

  • 心に刻んだ名前   第12話

    ついに、退院した。けれど、私は智秀の元へ戻らなかった。私は絶食を盾に交渉し、彼に自分の家に帰ることを認めさせた。その代わり、毎日彼の目の前で牛乳を飲むという条件がついた。今さら、彼が毎日飲ませる牛乳に何も入っていないと思っているなら、それこそバカだろう。でも、もうどうでもよかった。彼が飲めと言うなら、飲む。私は、じっと彼を見つめたまま、一息で牛乳を飲み干し、そのまま、勢いよくドアを閉めた。彼を、外へ閉め出した。三つ目の指輪を外し、質屋に持ち込んだ。もちろん、取り戻すつもりなどなかった。そして、星矢が、突然重い病に倒れた。おかしい。私は彼と出会って、ほんのわずかしか経っていない。それなのに、彼を救うためなら何だってしたいと思った。なぜなのか。考えるまでもなかった。私の人生で、ここまで純粋な優しさをくれた人など、いなかったからだ。この世界で、誰かが誰かを無条件に好きになることなどありえない。人の感情は、常に目的が絡むものだ。でも、彼は違った。彼の笑顔は、私だけのものだった。私は、彼を助けようとした。どの病院に行っても、治らなかった。そして、鬱陶しいことに、智秀はずっとついてきた。影のように、消えることなく。まるで亡霊みたいに。「俺が最高の治療を用意する。無駄なことはやめろ」私は、無視した。しかし、日に日に星矢の病状は悪化していった。歩くこともできなくなり、血を吐き、時には、突然意識を失った。最終的に、彼は智秀が用意した病室に運ばれた。それでも、彼の体は衰弱していくばかりだった。六月に入り、何度も大雨が降った。そして、ある日の夕暮れ。太陽が沈むこともなく、空が紅く染まることもないまま、星矢は、逝った。その日の朝。彼は、私と約束をしていた。「夕方になったら、聴月公園のハナカイドウの花を見に行こう」だけど、その約束は、永遠に叶わなかった。彼は、私にとって何だったのだろう。私は、彼と出会ってから、ほんのわずかな時間しか過ごしていない。それなのに、どうしてこんなにも悲しいのだろう。どうして、私はまだ失うものがあったのか。その日は、涙を流さなかった。ただ、彼の病室にずっと座っていた。最後に、失えるものをすべて失っただけ。ただ、それだけのことだった。「ほ

  • 心に刻んだ名前   第11話

    ここ数日、看護師に触れられるだけで震えていた私が、彼には、何の拒絶もなかった。真昼の光が鋭く照りつけ、熱気が地面から立ち昇る。外の世界と、この場所を隔てるように。私は、呆然と彼を見つめた。すると、彼は私の隣に座った。四手連弾。高校を卒業して以来、私は音楽と距離を置いていた。かつての夢は、ピアニストになることだった。けれど、私にとっての音楽は、すでに過去のものになっていた。最後の音が消える。彼は、微笑んだ。目尻がゆるやかに弧を描き、梨渦が浮かぶ。「僕は、鈴木星矢。お姉さん、久しぶり」私の記憶に、星矢という名前はなかった。けれど、彼は言う。「忘れててもいいよ。でも、いつか必ず思い出すから」彼は、私のピアノの練習に付き合い、ゲーム機を持ち込んで、一緒に遊んでくれた。彼の存在は、明らかにおかしい。それでも――私は、彼を嫌いになれなかった。彼は、いつも笑っていたから。母のように、涙に溺れることもなく。智秀のように、真夜中に私の枕元に立ち尽くす亡霊のようでもなく。星矢は、星矢だった。彼だけが、私に優しくしてくれた。それが、何よりも不思議だった。もしかすると、人の感情は、伝わるものなのかもしれない。彼が微笑めば、私はほんの一瞬だけ、痛みを忘れることができた。「お姉さん、僕が連れ出してあげようか?」ある午後、彼は突然そう言った。私は、智秀から逃げられるとは思えなかった。それでも、無意識のうちに、頷いていた。だから、その夜――星矢は、私の病室に潜み、夜更けを待った。深夜。すべてが静まり返った頃、彼は、私の手を引き、そっと病室の窓を開けた。二階なんて、大した高さじゃない。私の心臓が、これほどまでに高鳴ったのは、いつ以来だっただろう。白いシャツの少年。指先が私の手首をかすめる。月のない夜。ぼんやりとした光が、彼の輪郭を淡く映し出す。目尻には、小さな痣。私の目に涙が浮かんできた。理由もわからず、ただ、泣きたくなった。彼はしゃがみ込み、袖口で私の涙を拭った。「星矢、あなたのことをどうしても思い出せない」「思い出せなくてもいいよ、結衣。でもね、僕たちは前に進まなきゃ」彼の乗り物は、自転車だった。私は、彼の背後に座る。夜風が、静かに頬

  • 心に刻んだ名前   第10話

    たぶん、そうなのだろう。彼は、こうやって巧妙に嘘を紡ぎ、罠を張り巡らせる。結局、私を騙しているだけなのだ。床に突き飛ばし、喉を掴み、それでも口づける。可笑しいのは、私がそんな彼にまた騙されそうになったことだ。私を地獄に突き落としたのが、誰だったかを忘れそうになったことだ。病室の外が騒がしい。けれど、夏の生命力あふれる喧騒は、私とは無縁だった。智秀が、彼の妹の襟首を掴んで病室に入ってきた。「絶対に、あの女に謝ったりしないから!智秀! お兄ちゃん、いい加減にしてよ!」彼女は激しく抵抗するが、智秀は膝裏を軽く蹴りつけた。バランスを崩した彼女は、危うく私の病床の前に膝をつきそうになった。「……」彼女が、私を睨みつける。なんだか、喜劇みたいだ。でも、私はそんなものに付き合う気はない。背後に立つ男の存在も、目障りだった。だから、目を閉じて、何も見なかったことにした。「……ごめんなさい」結局、彼女は小さな声でそう言った。「……」「結衣」彼が、私の名前を呼んだ。本当なら、目を開けるつもりはなかった。でも、次の瞬間、妹の声が急に大きくなった。「ちょっと! 何してるの、お兄ちゃん!? 立ってよ!!」「……」高田社長が跪くなんて、珍しい光景かもしれない。彼は、まっすぐに私の前に膝をつき、伏し目がちに座っていた。光が彼の背後に差し込み、シルエットを際立たせる。花梨は彼の肩を掴み、泣きながら引っ張る。「お兄ちゃん! やめてよ! こんなことしないで!なんでこんな女なんかに跪くのよ!?見てよ、兄さんの今の姿……智秀!」彼女は、泣きながら叫んでいた。でも、私はもう、彼女の涙に何の感情も抱かなかった。花梨は、兄を引っ張るのを諦め、泣きながら病室を飛び出した。蝉の鳴き声が、病室の静けさの中に閉じ込められる。私は、彼の瞳を見つめる。強すぎる日差しが、彼の瞳に光の輪を映し出していた。まるで、遠い記憶の中で見た光景のように。蝉の声と、あの瞳。なぜか――涙が出そうになった。理由は、分からない。ベッドで過ごす日々は、ひどく退屈だった。私は、死を恐れていたわけではない。ただ、狭い空間に閉じ込められることが、何よりも苦痛だった。だから、看護師の許可をもらい、病院

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