Share

第12話

Author: 平野 愛子
ついに、退院した。けれど、私は智秀の元へ戻らなかった。

私は絶食を盾に交渉し、彼に自分の家に帰ることを認めさせた。

その代わり、毎日彼の目の前で牛乳を飲むという条件がついた。

今さら、彼が毎日飲ませる牛乳に何も入っていないと思っているなら、それこそバカだろう。

でも、もうどうでもよかった。

彼が飲めと言うなら、飲む。

私は、じっと彼を見つめたまま、一息で牛乳を飲み干し、そのまま、勢いよくドアを閉めた。

彼を、外へ閉め出した。

三つ目の指輪を外し、質屋に持ち込んだ。もちろん、取り戻すつもりなどなかった。

そして、星矢が、突然重い病に倒れた。

おかしい。私は彼と出会って、ほんのわずかしか経っていない。それなのに、彼を救うためなら何だってしたいと思った。

なぜなのか。考えるまでもなかった。私の人生で、ここまで純粋な優しさをくれた人など、いなかったからだ。

この世界で、誰かが誰かを無条件に好きになることなどありえない。人の感情は、常に目的が絡むものだ。でも、彼は違った。彼の笑顔は、私だけのものだった。

私は、彼を助けようとした。どの病院に行っても、治らなかった。

そして、鬱陶しいことに、智秀はずっとついてきた。

影のように、消えることなく。まるで亡霊みたいに。

「俺が最高の治療を用意する。無駄なことはやめろ」

私は、無視した。

しかし、日に日に星矢の病状は悪化していった。

歩くこともできなくなり、血を吐き、時には、突然意識を失った。

最終的に、彼は智秀が用意した病室に運ばれた。

それでも、彼の体は衰弱していくばかりだった。

六月に入り、何度も大雨が降った。

そして、ある日の夕暮れ。

太陽が沈むこともなく、空が紅く染まることもないまま、星矢は、逝った。

その日の朝。彼は、私と約束をしていた。「夕方になったら、聴月公園のハナカイドウの花を見に行こう」だけど、その約束は、永遠に叶わなかった。

彼は、私にとって何だったのだろう。

私は、彼と出会ってから、ほんのわずかな時間しか過ごしていない。

それなのに、どうしてこんなにも悲しいのだろう。

どうして、私はまだ失うものがあったのか。

その日は、涙を流さなかった。ただ、彼の病室にずっと座っていた。

最後に、失えるものをすべて失っただけ。

ただ、それだけのことだった。

「ほ
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Related chapters

  • 心に刻んだ名前   第13話

    「寒くない?」私はすでに彼に、何重にも包まれていた。それでも、彼はさらにマフラーを巻こうとする。私は、それを避けた。背後から、彼の小さな笑い声が聞こえた。「なんか、小熊みたい」「……」吐く息が白く霧散する。私たちは、クック山の麓にあるロッジに泊まっていた。一目で、高級な宿だと分かる。設備はすべて整っており、観光客向けのサービスも完璧だった。今は、シーズンオフ。それでも、宿にはちらほらと旅行者がいる。その中には、数人の日本人もいた。「明日は、どこに行く?」彼は、細長い指でナイフを持ち、バターをパンに塗っている。私は、パンにバターを塗るのが苦手だった。いつも不格好になってしまう。だが、彼がやると、どうしてこうも絵になるのだろう。彼はため息をつき、私のパンと自分のものを入れ替えた。宿には、一匹の猟犬がいた。見た目は獰猛そうだが、数日一緒に過ごせば、ただの食いしん坊だと分かる。食べ物をやれば、すぐに尻尾を振る単純な犬だった。私は、智秀が丁寧にバターを塗り直したパンを、そのまま犬にあげた。彼は、明らかに予想していなかったらしい。智秀は、テーブルの下で私の足を軽く蹴り、呆れたように笑った。「俺、何かしたっけ? 結衣」「……」私は、彼を無視した。窓の外。昨日の嵐のような吹雪は止み、雪の景色が穏やかに広がっていた。庭の積雪は、膝上まで埋まりそうなほど。白銀の世界で、宿泊客が雪遊びを楽しんでいる。宿のロビーには、クック山の伝説が記されたパンフレットがあった。マオリ語、英語でも書かれている。私は、なんとなく手に取る。雪山を登っていけば、頂上の近くで幸運をもたらす精霊に出会えるかもしれない。ただの観光向けの噂話だ。すぐにパンフレットをテーブルに戻した。しかし、智秀が隣で、ひたすら話し続けるものだから、気が散る。私は、適当に言い返した。「そんなに暇なら、それ見つけてきてよ」本当に、ただの適当な一言だった。ただの、気まぐれな愚痴だった。けれど――彼は、ふと動きを止めた。数秒、考えたあと。パンフレットを見つめ、目を細めた。「願いが何でも叶うなら、それは、俺にとって、必要なものかもな」「……」私はため息をついた。まさか、この人、本気で行くつもりなのか?宿には何人かの登山客がいて

  • 心に刻んだ名前   第14話

    智秀がいなければ、私はずっと自由だった。少なくとも、彼にまとわりつかれることなく、好きなことができる。宿には、日本人の観光客が多かった。私は、一人の少女と知り合った。十六、七歳くらいの子で、夏休みに家族とここへ来たらしい。朝の空は、果てしなく広がり、雲ひとつなかった。けれど、午後になると、陰雲が雪山を覆い尽くす。そして、夕方、突然の猛吹雪。暗雲に閉ざされた空には、もう光がなかった。智秀たちの登山グループには、かなりの人数がいた。それもあり、宿の人々は、次第に不安に包まれていった。「連絡が取れない」、「電波が途切れたのか、それとも……」家族を送り出した人たちは、口々に騒ぎ始める。ロビーには、人が溢れていた。宿のスタッフが落ち着かせようとする。「皆さん、冷静になってください。今回の登山グループには、経験豊富な登山者が複数名います。突然の悪天候にも適切に対応できるはずです」仮に遭難していたとしても、救助隊の派遣は早朝になる。レストランの空気は、ますます重苦しくなる。私の隣で、十六歳の少女は、静かに食事を続けていた。彼女の両親も――あの登山隊にいるらしい。「美穂、どこに行ってたの? ずっと探してたのよ」ふいに、柔らかい女性の声が響いた。日本語だった。思わず、私も顔を上げる。彼女と視線が合った。彼女は、一瞬、驚いたように私を見つめる。「……あれ? もしかして、橋本結衣?」「……」私は、眉をわずかに上げた。まさか、彼女が私の名前を知っているとは思わなかった。「えっ、覚えてない?紀州中学の高二の三組!私、小林瞳! ほら、同級生だったでしょ?」「……」高校時代の話をされると、私は、条件反射のように身をすくめた。だが、そこには、妙な違和感があった。記憶が、割れた土のように崩れていく。私は、懸命に彼らの顔を思い出そうとした。けれど、顔が、思い出せない。全てが、ぼやけている。まるで、誰かが記憶の中の輪郭を、ぐしゃぐしゃに塗り潰したみたいに。「えぇ? 私たち、すっごく仲良かったじゃん!前の席だったし! ほら、お菓子いっぱい分けてあげたのに~!それに、花梨とも仲良かったよね? あと……彼女のお兄ちゃん。そうそう、智秀。今も一緒なの? あなたたち、当時はマジでお似合いだったよね!でも、高

  • 心に刻んだ名前   第15話

    「そうそう、救急車も来てたよ。授業中だったけど、窓から見えたんだ」「何があったの? もっと詳しく!」「女の子がさ、全身血まみれで運ばれてたんだよ。マジでヤバかった」「どのクラス? どのクラスの子?」「それは言えないなぁ。でもさ、あの光景はマジで……うわぁ」「もったいぶるなよ! 何があったんだ? 事件?」「言っとくけど、それよりもヤバい話だよ」「じゃあ、教えろって!」「でもさ……これ話したら、誰かに恨まれそう。やっぱやめとくわ」「……」言えばいいのに。別に、隠すことなんてないだろうに。私は、そっと腹部に視線を落とす。よく考えてみれば――あの日、私は自分が妊娠したと思い込んでいた。でも、私、生理不順だし。夏バテで吐くことなんて、よくあることじゃないか。それなのに、妊娠だと決めつけた。おかしいと思わないだろうか?私は、絶対に妊娠していると思い込んでいた。けれど――本当は、もう妊娠なんてできなかったんだ。人間というのは、時に都合のいい幻想を作り出す生き物だ。私もきっと、何度も何度も、自分を騙してきたのだろう。だからこそ、真実を思い出したとき、脳が爆発するような錯覚に襲われる。なぜ、私の記憶は、いつも途切れ途切れなのか?なぜ、あの日、智秀が私に煙草の火を押し付けたことは覚えているのに、その後を思い出せないのか?なぜ、彼は私をじっと見つめ、「必ず牛乳を飲め」と強く言い続けたのか?なぜ、柳子と星矢は、あんなにも不自然に現れたのか?なぜ、彼の友人たちは、私のことを「狂ってる」と言ったのか?……高校二年生の夏。蝉が鳴き続ける、あの暑い夏。私は、生涯忘れることのできない、地獄を味わった。最初は――ただの些細な出来事だった。校内にエアコンの設置工事に来ていた業者が、私に道を尋ねただけ。ただ、それだけ。私は、何もしていない。ただ、彼らに正しい道を教えただけ。それなのに、次の瞬間。誰かが、ニヤリと笑い、私の腕を掴んだ。そして、そのまま男子トイレへと引きずり込まれた。夕陽が最後の紅い光を投げかける時間から、星が街の上に降りてくるまでの、約三時間。私は、人間の尊厳すら踏みにじられるような、地獄の中にいた。智秀が、私に押し付けたという煙草の火。それは、本当に彼がつけた

  • 心に刻んだ名前   第16話

    彼女を「私を傷つけた人間」だと思い込めばいい。彼女を遠ざければいい。それだけで――私は、楽になれるはずだった。私は、ただ待っていた。智秀が、私を捨ててくれる日を。だけど――私は、何度も、何度も、忘れては思い出す。私は、あなたを、どれほど「悪い人間」に仕立て上げたんだろう。あなたは、悔しくなかったの? 智秀。なぜ、私を捨ててくれなかったの? 智秀。気がつけば、スマホの画面に涙が落ちていた。滲んで、よく見えない。そのとき。誰かが、私のそばにしゃがみ込んだ。星矢。そうか。彼は、私の幻想だった。今、彼が目の前に現れたのは智秀がいなくなり、私が薬を飲んでいなかったから。思い返せば、すべてに痕跡はあった。薬は、牛乳の中に混ぜられていた。柳子の存在。彼女が現れたのは、私が薬を拒否し始めたタイミングだった。薬をやめると、私は幻覚を作り出す。私が妊娠したと思い込んだあの日、智秀は、私に薬を混ぜないと約束していた。星矢が、私を連れ出したあの夜、私は数日間、こっそり薬を捨てていた。その後、智秀は、再び私に薬を飲ませた。すると、星矢の体調が悪化した。彼の存在が、崩れ始めた。私は幻想を止め始めたのだ。そして今、彼がまた現れたのは、薬を飲んでいなかったから。星矢は、静かに微笑んでいた。彼の笑顔はかつての智秀と、そっくりだった。彼は、何かを伝えたがっているようだった。私は、彼に導かれるままに歩き出す。向かった先は――智秀の荷物。今まで、彼が何を持ち歩いているのか、気にしたこともなかった。だが――そのとき、私は狂ったように荷物を漁った。そして、あるノートを見つけた。皮革の表紙。そこにはこう書かれていた。『結衣の治療日記』5月11日 晴今日は、結衣がまた記憶を失った。今度は、俺を彼女を傷つけた人間だと思い込んでいる。毎回、俺の役どころが最悪なんだが。結衣よ、お前、たまには俺をお前の救世主だと思うことはできないのか?マジで、俺、泣きそうだよ。5月12日 晴煙草の火を手首に押し付けるのは、やっぱり痛いな。けど――これがお前が当時耐えた痛みなら、俺はそれ以上に胸が痛む。結衣。俺は、お前に嘘をついたことはない。もし、痛みを分け合えないのなら――同じ痛みを

  • 心に刻んだ名前   第17話

    お前を抱きしめた時、何度か刺されたんだぞ。お前、その時ずっと首を振って、白目をむいてた。状況がやばかったからな。なんとか意識を取り戻させようと、思わずお前を叩いた。……で、まさかそれだけはしっかり覚えてたのかよ。よし、次は俺に叩き返していいよ。それでいいか?6月4日 晴病院で目覚めた。数日間、日記が途切れてしまったな。まぁ仕方ない。俺も、結構な大出血だったからな。結衣、お前、本当に容赦なく刺しやがって……6月5日 晴結衣が俺を無視した。日記を書く気にもなれない。6月8日 雨まぁ、仕方ない。夜中、こっそりお前の寝顔を見に行くしかないな。だって、結衣、お前、俺のことが大嫌いなんだろ?6月9日 雨でも、大丈夫。俺は、嫌われることなんて、怖くもなんともない。6月13日 晴結衣が、逃げた。一人で、家を飛び出した。俺は久しぶりに、本気で怒った。こんなに頭にきたのは、いつ以来だろうな。結局――また、見つけたけどな。お前は、うわ言みたいに、ずっと鈴木星矢の名前を呼んでいた。なるほど。俺のこと、本当に幻想の存在にしやがったか。6月20日 雨もう、結衣に薬を飲ませないわけにはいかない。俺は、どうしたって、お前には怒れない。どれだけお前が俺を拒絶しても、怒ることなんてできないんだよ。だから、こっそりお前のために家を買った。お前をそこで暮らさせて、毎日薬を飲ませる。俺が、ちゃんと――お前を見守る。6月25日 雨鈴木星矢、マジでウザい。俺、存在しない男に嫉妬してるのか?最悪だな、これ。7月1日 雨一ヶ月間、ずっと薬を飲ませ続けた。ついに、結衣の頭の中から、鈴木星矢が消えた。だから、もう機嫌を直せよ。結衣。いい加減、俺を見てくれよ。7月6日 晴結衣は、いい子になった。本当に?違うな。これは、いい方向に進んでいるわけじゃない。俺には、分かる。7月16日 晴俺は――どうすれば、お前に見てもらえる?まぁ、いいさ。俺は、いつでもポジティブだからな。7月29日 雪ニュージランドに着いた。思った以上に、結衣は旅が好きなんだな?お前が笑うだけで、俺は――どれだけでも、幸せになれる。8月

  • 心に刻んだ名前   第18話

    「……」「あの日、私は何も言ってないし、何もしてないよ。あなたが勝手に発狂したのよ。兄さんはあなたを止めようとして、逆に何度も刺されたんだから」「……」「それに、あなたと兄さん、もうとっくに結婚してるんだよ。四年前に、とっくに。ま、どうせこんな話をしたところで、あなた、また全部忘れちゃうんだろうけどね」花梨は、ため息をついた。彼女は、私のことを嫌っている。それは、私もよく分かっている。誇り高い彼女にとって、誤解されることほど耐えられないものはないのだから。私は、病室のドアを押し開けた。智秀は、まだ昏睡している。私は、彼のそばに座り、ゆっくりと、その眉目を指でなぞった。鼻筋から、薄い唇まで。夜は、静寂に包まれている。彼の妹は、もう帰った。そして私は、ここ数日ずっと彼の側にいた。気づけば、私は、彼の唇にそっと口づけていた。ただの、気の迷いだった。ほんの、出来心だった。けれど、気づいたら、私は、どんどん深く沈んでいった。いや、待って。これって、もしかして――キス、返されてる?ハッとして目を開けた。暗闇の中、智秀の漆黒の瞳が、深く揺らめいていた。「また、泣いてるの?泣き虫さん」掠れた声が、微かに笑いを含んで響いた。私は、思い出した。高校時代、テストの点が悪くて、泣きじゃくった日。彼は、私の頬をつまみながら、こう言った。「お前、マジで泣き虫だな」思い出した途端、涙が止まらなくなった。何度も、何度も、彼の名前を呼んだ。「聞こえてるよ」彼の声に、笑みが混じる。彼は、私の指を、そっと絡め取った。「智秀、私は、もうずっと地獄にいるの。私なんかのために、ここまでしなくていい」記憶は、確かに戻った。あの過去も、私の身体の傷も、すべて本物だ。私が、闇の中で生きてきたことに変わりはない。でも――彼は、気にも留めない。「お前を傷つけた連中は、報いを受けたんだよ。アイツら、刑務所に入った直後に、敵に目をつけられて――数ヶ月も経たないうちに、死んだ。しかも――すげぇ醜い死に方だったらしい。だから――いいんだよ、結衣。お前は、綺麗なままなんだよ。汚れていたのは、あいつらだ。アイツらは、報いを受けた。お前が地獄にいるって言うなら――いいよ。俺も、一緒に

  • 心に刻んだ名前   第1話

    バスルームでシャワーを浴びる時間が好きだ。彼の顔を見ずに済むし、嫌な記憶に苛まれることもないから。けれど、洗面台の鏡をぼんやりと眺めていると、曇ったガラス越しでも、肌に刻まれた消えない痕跡がはっきりと目に映った。充血した瞳で、私は鏡の中の自分をじっと見つめた。すると、不意にバスルームのドアをノックする音が響く。智秀が、ゆったりとした調子で言った。「ずいぶん長いな?出てこないなら、入るぞ」「……」彼は以前にも、何の前触れもなくバスルームに入ってきたことがある。私はすぐにシャワーを止め、バスタオルを体に巻きつけた。朝食は、いつも通りきちんとテーブルに並べられていた。けれど、智秀は手をつける気配がない。テレビでは朝のニュースが流れ、彼はすらりとした指で、手際よくネクタイを締めていた。私がぼんやりと彼を見つめていると、ふいに顔を近づけ、鼻を軽くつままれる。「そんなに見るのが好きか?次は君が締めてくれる?」私は視線をそらした。彼は、まるで面白がるように低く笑う。そして、わざわざ私の飲んでいたミルクを手に取り、唇の跡が残る部分に口をつけて飲んだ。「いい子にして待ってろよ。今夜、ウェディングドレスを見に行くぞ」智秀が出て行った。私はただ、呆然とテレビを見つめ続けた。気がつけば、彼が口をつけたグラスを手に取り、テレビに向かって思いきり投げつけていた。テレビはかすかに揺れただけ。けれど、グラスは床に叩きつけられ、粉々に砕けた。鋭い音が静寂を切り裂き、使用人たちの驚いた声が遠くから聞こえた。私は膝を抱え、その場に座り込み、泣いた。智秀――それは、私にとっての悪夢だった。高校時代、あのグループの中で、誰よりも執拗に私をいじめたのが彼だった。彼は私のカバンを開き、教科書をすべて校舎の窓から放り投げたことがある。彼の一声で、クラスの誰もが私を避けるようになった。彼のそそのかしで、女子たちは私をトイレに連れ込み、頬を叩いた。彼が先頭に立って私を笑い者にする限り、誰も助けてはくれなかった。なぜなら、智秀は某大企業の会長の息子だったから。私たちの学校には、彼の家が寄付した校舎が建っていた。彼が笑えば、教室中が笑った。彼が嘲れば、私を嘲る声が渦巻いた。彼の端正な顔立

  • 心に刻んだ名前   第2話

    でも、私は後部座席の広い車が好きじゃない。中央の仕切りが上がれば、運転席からは何も見えなくなる。誰にも、後ろで私たちが何をしているのか分からない。けれど、今日の智秀は、いつもより静かだった。私がずっと震えていたからかもしれない。車内は十分に暖かくなっていたのに、それでも私は震え続けていた。彼は私の反応を意に介さず、腕を伸ばし、私を抱き寄せた。「結衣、そんなに怖いのか?」低く囁く声が耳をくすぐる。分かっているくせに。私がこうなっている理由を、誰よりも知っているくせに。「あとで、ウェディングドレスを選びに行こう。な?」私は小さく震える身体を必死に抑え込んだ。けれど、笑いを堪えられなかった。まさか、私を地獄へと突き落とした張本人が。今になって優しい声で「ウェディングドレスを選びに行こう」だなんて。智秀が私を連れてきたのは、あるプライベートヴィラの中にあるブライダルサロンだった。シャンデリアの光がきらめき、マネキンに飾られたドレスを一層華やかに映し出している。けれど、私は見る気も、選ぶ気もなかった。智秀とデザイナーが、どんなデザインをオーダーメイドするか話し合っている。アシスタントが私の体のサイズを測っている。でも、私はそれよりも、店の裏庭のほうに興味があった。彼らの会話をよそに、私は裾を持ち上げ、小さな庭へと向かった。庭の奥には門があり、その先にはどこまでも自由が広がっているように思えた。私は、何度も何度も逃げることを考えた。けれど、いざ逃げる勇気を振り絞ったとき、どこへも行けない自分に気づいて、ただ絶望するばかりだった。母は智秀との結婚を心から望んでいた。私の手を握り、「いい加減、わがままを言うのはやめなさい」と諭した。私は小さな池のそばに腰を下ろし、ぼんやりと水面を眺めていた。やがて、智秀が話を終え、私を探しにやってきた。「何を考えてる?」彼はいつもそうだった。上から目線で、私に問いかける。私は静かに、腕をまくった。手首には、小さな赤い痕が残っていた。丸い傷跡。その周りは、盛り上がった皮膚が硬くなっている。「見て。あなたがつけた傷」そう言って、私は手首の傷跡を指さした。あれは、高校の時。彼がいつものように不機嫌だった日、私を壁際に追い詰め、火のついたタバ

Latest chapter

  • 心に刻んだ名前   第18話

    「……」「あの日、私は何も言ってないし、何もしてないよ。あなたが勝手に発狂したのよ。兄さんはあなたを止めようとして、逆に何度も刺されたんだから」「……」「それに、あなたと兄さん、もうとっくに結婚してるんだよ。四年前に、とっくに。ま、どうせこんな話をしたところで、あなた、また全部忘れちゃうんだろうけどね」花梨は、ため息をついた。彼女は、私のことを嫌っている。それは、私もよく分かっている。誇り高い彼女にとって、誤解されることほど耐えられないものはないのだから。私は、病室のドアを押し開けた。智秀は、まだ昏睡している。私は、彼のそばに座り、ゆっくりと、その眉目を指でなぞった。鼻筋から、薄い唇まで。夜は、静寂に包まれている。彼の妹は、もう帰った。そして私は、ここ数日ずっと彼の側にいた。気づけば、私は、彼の唇にそっと口づけていた。ただの、気の迷いだった。ほんの、出来心だった。けれど、気づいたら、私は、どんどん深く沈んでいった。いや、待って。これって、もしかして――キス、返されてる?ハッとして目を開けた。暗闇の中、智秀の漆黒の瞳が、深く揺らめいていた。「また、泣いてるの?泣き虫さん」掠れた声が、微かに笑いを含んで響いた。私は、思い出した。高校時代、テストの点が悪くて、泣きじゃくった日。彼は、私の頬をつまみながら、こう言った。「お前、マジで泣き虫だな」思い出した途端、涙が止まらなくなった。何度も、何度も、彼の名前を呼んだ。「聞こえてるよ」彼の声に、笑みが混じる。彼は、私の指を、そっと絡め取った。「智秀、私は、もうずっと地獄にいるの。私なんかのために、ここまでしなくていい」記憶は、確かに戻った。あの過去も、私の身体の傷も、すべて本物だ。私が、闇の中で生きてきたことに変わりはない。でも――彼は、気にも留めない。「お前を傷つけた連中は、報いを受けたんだよ。アイツら、刑務所に入った直後に、敵に目をつけられて――数ヶ月も経たないうちに、死んだ。しかも――すげぇ醜い死に方だったらしい。だから――いいんだよ、結衣。お前は、綺麗なままなんだよ。汚れていたのは、あいつらだ。アイツらは、報いを受けた。お前が地獄にいるって言うなら――いいよ。俺も、一緒に

  • 心に刻んだ名前   第17話

    お前を抱きしめた時、何度か刺されたんだぞ。お前、その時ずっと首を振って、白目をむいてた。状況がやばかったからな。なんとか意識を取り戻させようと、思わずお前を叩いた。……で、まさかそれだけはしっかり覚えてたのかよ。よし、次は俺に叩き返していいよ。それでいいか?6月4日 晴病院で目覚めた。数日間、日記が途切れてしまったな。まぁ仕方ない。俺も、結構な大出血だったからな。結衣、お前、本当に容赦なく刺しやがって……6月5日 晴結衣が俺を無視した。日記を書く気にもなれない。6月8日 雨まぁ、仕方ない。夜中、こっそりお前の寝顔を見に行くしかないな。だって、結衣、お前、俺のことが大嫌いなんだろ?6月9日 雨でも、大丈夫。俺は、嫌われることなんて、怖くもなんともない。6月13日 晴結衣が、逃げた。一人で、家を飛び出した。俺は久しぶりに、本気で怒った。こんなに頭にきたのは、いつ以来だろうな。結局――また、見つけたけどな。お前は、うわ言みたいに、ずっと鈴木星矢の名前を呼んでいた。なるほど。俺のこと、本当に幻想の存在にしやがったか。6月20日 雨もう、結衣に薬を飲ませないわけにはいかない。俺は、どうしたって、お前には怒れない。どれだけお前が俺を拒絶しても、怒ることなんてできないんだよ。だから、こっそりお前のために家を買った。お前をそこで暮らさせて、毎日薬を飲ませる。俺が、ちゃんと――お前を見守る。6月25日 雨鈴木星矢、マジでウザい。俺、存在しない男に嫉妬してるのか?最悪だな、これ。7月1日 雨一ヶ月間、ずっと薬を飲ませ続けた。ついに、結衣の頭の中から、鈴木星矢が消えた。だから、もう機嫌を直せよ。結衣。いい加減、俺を見てくれよ。7月6日 晴結衣は、いい子になった。本当に?違うな。これは、いい方向に進んでいるわけじゃない。俺には、分かる。7月16日 晴俺は――どうすれば、お前に見てもらえる?まぁ、いいさ。俺は、いつでもポジティブだからな。7月29日 雪ニュージランドに着いた。思った以上に、結衣は旅が好きなんだな?お前が笑うだけで、俺は――どれだけでも、幸せになれる。8月

  • 心に刻んだ名前   第16話

    彼女を「私を傷つけた人間」だと思い込めばいい。彼女を遠ざければいい。それだけで――私は、楽になれるはずだった。私は、ただ待っていた。智秀が、私を捨ててくれる日を。だけど――私は、何度も、何度も、忘れては思い出す。私は、あなたを、どれほど「悪い人間」に仕立て上げたんだろう。あなたは、悔しくなかったの? 智秀。なぜ、私を捨ててくれなかったの? 智秀。気がつけば、スマホの画面に涙が落ちていた。滲んで、よく見えない。そのとき。誰かが、私のそばにしゃがみ込んだ。星矢。そうか。彼は、私の幻想だった。今、彼が目の前に現れたのは智秀がいなくなり、私が薬を飲んでいなかったから。思い返せば、すべてに痕跡はあった。薬は、牛乳の中に混ぜられていた。柳子の存在。彼女が現れたのは、私が薬を拒否し始めたタイミングだった。薬をやめると、私は幻覚を作り出す。私が妊娠したと思い込んだあの日、智秀は、私に薬を混ぜないと約束していた。星矢が、私を連れ出したあの夜、私は数日間、こっそり薬を捨てていた。その後、智秀は、再び私に薬を飲ませた。すると、星矢の体調が悪化した。彼の存在が、崩れ始めた。私は幻想を止め始めたのだ。そして今、彼がまた現れたのは、薬を飲んでいなかったから。星矢は、静かに微笑んでいた。彼の笑顔はかつての智秀と、そっくりだった。彼は、何かを伝えたがっているようだった。私は、彼に導かれるままに歩き出す。向かった先は――智秀の荷物。今まで、彼が何を持ち歩いているのか、気にしたこともなかった。だが――そのとき、私は狂ったように荷物を漁った。そして、あるノートを見つけた。皮革の表紙。そこにはこう書かれていた。『結衣の治療日記』5月11日 晴今日は、結衣がまた記憶を失った。今度は、俺を彼女を傷つけた人間だと思い込んでいる。毎回、俺の役どころが最悪なんだが。結衣よ、お前、たまには俺をお前の救世主だと思うことはできないのか?マジで、俺、泣きそうだよ。5月12日 晴煙草の火を手首に押し付けるのは、やっぱり痛いな。けど――これがお前が当時耐えた痛みなら、俺はそれ以上に胸が痛む。結衣。俺は、お前に嘘をついたことはない。もし、痛みを分け合えないのなら――同じ痛みを

  • 心に刻んだ名前   第15話

    「そうそう、救急車も来てたよ。授業中だったけど、窓から見えたんだ」「何があったの? もっと詳しく!」「女の子がさ、全身血まみれで運ばれてたんだよ。マジでヤバかった」「どのクラス? どのクラスの子?」「それは言えないなぁ。でもさ、あの光景はマジで……うわぁ」「もったいぶるなよ! 何があったんだ? 事件?」「言っとくけど、それよりもヤバい話だよ」「じゃあ、教えろって!」「でもさ……これ話したら、誰かに恨まれそう。やっぱやめとくわ」「……」言えばいいのに。別に、隠すことなんてないだろうに。私は、そっと腹部に視線を落とす。よく考えてみれば――あの日、私は自分が妊娠したと思い込んでいた。でも、私、生理不順だし。夏バテで吐くことなんて、よくあることじゃないか。それなのに、妊娠だと決めつけた。おかしいと思わないだろうか?私は、絶対に妊娠していると思い込んでいた。けれど――本当は、もう妊娠なんてできなかったんだ。人間というのは、時に都合のいい幻想を作り出す生き物だ。私もきっと、何度も何度も、自分を騙してきたのだろう。だからこそ、真実を思い出したとき、脳が爆発するような錯覚に襲われる。なぜ、私の記憶は、いつも途切れ途切れなのか?なぜ、あの日、智秀が私に煙草の火を押し付けたことは覚えているのに、その後を思い出せないのか?なぜ、彼は私をじっと見つめ、「必ず牛乳を飲め」と強く言い続けたのか?なぜ、柳子と星矢は、あんなにも不自然に現れたのか?なぜ、彼の友人たちは、私のことを「狂ってる」と言ったのか?……高校二年生の夏。蝉が鳴き続ける、あの暑い夏。私は、生涯忘れることのできない、地獄を味わった。最初は――ただの些細な出来事だった。校内にエアコンの設置工事に来ていた業者が、私に道を尋ねただけ。ただ、それだけ。私は、何もしていない。ただ、彼らに正しい道を教えただけ。それなのに、次の瞬間。誰かが、ニヤリと笑い、私の腕を掴んだ。そして、そのまま男子トイレへと引きずり込まれた。夕陽が最後の紅い光を投げかける時間から、星が街の上に降りてくるまでの、約三時間。私は、人間の尊厳すら踏みにじられるような、地獄の中にいた。智秀が、私に押し付けたという煙草の火。それは、本当に彼がつけた

  • 心に刻んだ名前   第14話

    智秀がいなければ、私はずっと自由だった。少なくとも、彼にまとわりつかれることなく、好きなことができる。宿には、日本人の観光客が多かった。私は、一人の少女と知り合った。十六、七歳くらいの子で、夏休みに家族とここへ来たらしい。朝の空は、果てしなく広がり、雲ひとつなかった。けれど、午後になると、陰雲が雪山を覆い尽くす。そして、夕方、突然の猛吹雪。暗雲に閉ざされた空には、もう光がなかった。智秀たちの登山グループには、かなりの人数がいた。それもあり、宿の人々は、次第に不安に包まれていった。「連絡が取れない」、「電波が途切れたのか、それとも……」家族を送り出した人たちは、口々に騒ぎ始める。ロビーには、人が溢れていた。宿のスタッフが落ち着かせようとする。「皆さん、冷静になってください。今回の登山グループには、経験豊富な登山者が複数名います。突然の悪天候にも適切に対応できるはずです」仮に遭難していたとしても、救助隊の派遣は早朝になる。レストランの空気は、ますます重苦しくなる。私の隣で、十六歳の少女は、静かに食事を続けていた。彼女の両親も――あの登山隊にいるらしい。「美穂、どこに行ってたの? ずっと探してたのよ」ふいに、柔らかい女性の声が響いた。日本語だった。思わず、私も顔を上げる。彼女と視線が合った。彼女は、一瞬、驚いたように私を見つめる。「……あれ? もしかして、橋本結衣?」「……」私は、眉をわずかに上げた。まさか、彼女が私の名前を知っているとは思わなかった。「えっ、覚えてない?紀州中学の高二の三組!私、小林瞳! ほら、同級生だったでしょ?」「……」高校時代の話をされると、私は、条件反射のように身をすくめた。だが、そこには、妙な違和感があった。記憶が、割れた土のように崩れていく。私は、懸命に彼らの顔を思い出そうとした。けれど、顔が、思い出せない。全てが、ぼやけている。まるで、誰かが記憶の中の輪郭を、ぐしゃぐしゃに塗り潰したみたいに。「えぇ? 私たち、すっごく仲良かったじゃん!前の席だったし! ほら、お菓子いっぱい分けてあげたのに~!それに、花梨とも仲良かったよね? あと……彼女のお兄ちゃん。そうそう、智秀。今も一緒なの? あなたたち、当時はマジでお似合いだったよね!でも、高

  • 心に刻んだ名前   第13話

    「寒くない?」私はすでに彼に、何重にも包まれていた。それでも、彼はさらにマフラーを巻こうとする。私は、それを避けた。背後から、彼の小さな笑い声が聞こえた。「なんか、小熊みたい」「……」吐く息が白く霧散する。私たちは、クック山の麓にあるロッジに泊まっていた。一目で、高級な宿だと分かる。設備はすべて整っており、観光客向けのサービスも完璧だった。今は、シーズンオフ。それでも、宿にはちらほらと旅行者がいる。その中には、数人の日本人もいた。「明日は、どこに行く?」彼は、細長い指でナイフを持ち、バターをパンに塗っている。私は、パンにバターを塗るのが苦手だった。いつも不格好になってしまう。だが、彼がやると、どうしてこうも絵になるのだろう。彼はため息をつき、私のパンと自分のものを入れ替えた。宿には、一匹の猟犬がいた。見た目は獰猛そうだが、数日一緒に過ごせば、ただの食いしん坊だと分かる。食べ物をやれば、すぐに尻尾を振る単純な犬だった。私は、智秀が丁寧にバターを塗り直したパンを、そのまま犬にあげた。彼は、明らかに予想していなかったらしい。智秀は、テーブルの下で私の足を軽く蹴り、呆れたように笑った。「俺、何かしたっけ? 結衣」「……」私は、彼を無視した。窓の外。昨日の嵐のような吹雪は止み、雪の景色が穏やかに広がっていた。庭の積雪は、膝上まで埋まりそうなほど。白銀の世界で、宿泊客が雪遊びを楽しんでいる。宿のロビーには、クック山の伝説が記されたパンフレットがあった。マオリ語、英語でも書かれている。私は、なんとなく手に取る。雪山を登っていけば、頂上の近くで幸運をもたらす精霊に出会えるかもしれない。ただの観光向けの噂話だ。すぐにパンフレットをテーブルに戻した。しかし、智秀が隣で、ひたすら話し続けるものだから、気が散る。私は、適当に言い返した。「そんなに暇なら、それ見つけてきてよ」本当に、ただの適当な一言だった。ただの、気まぐれな愚痴だった。けれど――彼は、ふと動きを止めた。数秒、考えたあと。パンフレットを見つめ、目を細めた。「願いが何でも叶うなら、それは、俺にとって、必要なものかもな」「……」私はため息をついた。まさか、この人、本気で行くつもりなのか?宿には何人かの登山客がいて

  • 心に刻んだ名前   第12話

    ついに、退院した。けれど、私は智秀の元へ戻らなかった。私は絶食を盾に交渉し、彼に自分の家に帰ることを認めさせた。その代わり、毎日彼の目の前で牛乳を飲むという条件がついた。今さら、彼が毎日飲ませる牛乳に何も入っていないと思っているなら、それこそバカだろう。でも、もうどうでもよかった。彼が飲めと言うなら、飲む。私は、じっと彼を見つめたまま、一息で牛乳を飲み干し、そのまま、勢いよくドアを閉めた。彼を、外へ閉め出した。三つ目の指輪を外し、質屋に持ち込んだ。もちろん、取り戻すつもりなどなかった。そして、星矢が、突然重い病に倒れた。おかしい。私は彼と出会って、ほんのわずかしか経っていない。それなのに、彼を救うためなら何だってしたいと思った。なぜなのか。考えるまでもなかった。私の人生で、ここまで純粋な優しさをくれた人など、いなかったからだ。この世界で、誰かが誰かを無条件に好きになることなどありえない。人の感情は、常に目的が絡むものだ。でも、彼は違った。彼の笑顔は、私だけのものだった。私は、彼を助けようとした。どの病院に行っても、治らなかった。そして、鬱陶しいことに、智秀はずっとついてきた。影のように、消えることなく。まるで亡霊みたいに。「俺が最高の治療を用意する。無駄なことはやめろ」私は、無視した。しかし、日に日に星矢の病状は悪化していった。歩くこともできなくなり、血を吐き、時には、突然意識を失った。最終的に、彼は智秀が用意した病室に運ばれた。それでも、彼の体は衰弱していくばかりだった。六月に入り、何度も大雨が降った。そして、ある日の夕暮れ。太陽が沈むこともなく、空が紅く染まることもないまま、星矢は、逝った。その日の朝。彼は、私と約束をしていた。「夕方になったら、聴月公園のハナカイドウの花を見に行こう」だけど、その約束は、永遠に叶わなかった。彼は、私にとって何だったのだろう。私は、彼と出会ってから、ほんのわずかな時間しか過ごしていない。それなのに、どうしてこんなにも悲しいのだろう。どうして、私はまだ失うものがあったのか。その日は、涙を流さなかった。ただ、彼の病室にずっと座っていた。最後に、失えるものをすべて失っただけ。ただ、それだけのことだった。「ほ

  • 心に刻んだ名前   第11話

    ここ数日、看護師に触れられるだけで震えていた私が、彼には、何の拒絶もなかった。真昼の光が鋭く照りつけ、熱気が地面から立ち昇る。外の世界と、この場所を隔てるように。私は、呆然と彼を見つめた。すると、彼は私の隣に座った。四手連弾。高校を卒業して以来、私は音楽と距離を置いていた。かつての夢は、ピアニストになることだった。けれど、私にとっての音楽は、すでに過去のものになっていた。最後の音が消える。彼は、微笑んだ。目尻がゆるやかに弧を描き、梨渦が浮かぶ。「僕は、鈴木星矢。お姉さん、久しぶり」私の記憶に、星矢という名前はなかった。けれど、彼は言う。「忘れててもいいよ。でも、いつか必ず思い出すから」彼は、私のピアノの練習に付き合い、ゲーム機を持ち込んで、一緒に遊んでくれた。彼の存在は、明らかにおかしい。それでも――私は、彼を嫌いになれなかった。彼は、いつも笑っていたから。母のように、涙に溺れることもなく。智秀のように、真夜中に私の枕元に立ち尽くす亡霊のようでもなく。星矢は、星矢だった。彼だけが、私に優しくしてくれた。それが、何よりも不思議だった。もしかすると、人の感情は、伝わるものなのかもしれない。彼が微笑めば、私はほんの一瞬だけ、痛みを忘れることができた。「お姉さん、僕が連れ出してあげようか?」ある午後、彼は突然そう言った。私は、智秀から逃げられるとは思えなかった。それでも、無意識のうちに、頷いていた。だから、その夜――星矢は、私の病室に潜み、夜更けを待った。深夜。すべてが静まり返った頃、彼は、私の手を引き、そっと病室の窓を開けた。二階なんて、大した高さじゃない。私の心臓が、これほどまでに高鳴ったのは、いつ以来だっただろう。白いシャツの少年。指先が私の手首をかすめる。月のない夜。ぼんやりとした光が、彼の輪郭を淡く映し出す。目尻には、小さな痣。私の目に涙が浮かんできた。理由もわからず、ただ、泣きたくなった。彼はしゃがみ込み、袖口で私の涙を拭った。「星矢、あなたのことをどうしても思い出せない」「思い出せなくてもいいよ、結衣。でもね、僕たちは前に進まなきゃ」彼の乗り物は、自転車だった。私は、彼の背後に座る。夜風が、静かに頬

  • 心に刻んだ名前   第10話

    たぶん、そうなのだろう。彼は、こうやって巧妙に嘘を紡ぎ、罠を張り巡らせる。結局、私を騙しているだけなのだ。床に突き飛ばし、喉を掴み、それでも口づける。可笑しいのは、私がそんな彼にまた騙されそうになったことだ。私を地獄に突き落としたのが、誰だったかを忘れそうになったことだ。病室の外が騒がしい。けれど、夏の生命力あふれる喧騒は、私とは無縁だった。智秀が、彼の妹の襟首を掴んで病室に入ってきた。「絶対に、あの女に謝ったりしないから!智秀! お兄ちゃん、いい加減にしてよ!」彼女は激しく抵抗するが、智秀は膝裏を軽く蹴りつけた。バランスを崩した彼女は、危うく私の病床の前に膝をつきそうになった。「……」彼女が、私を睨みつける。なんだか、喜劇みたいだ。でも、私はそんなものに付き合う気はない。背後に立つ男の存在も、目障りだった。だから、目を閉じて、何も見なかったことにした。「……ごめんなさい」結局、彼女は小さな声でそう言った。「……」「結衣」彼が、私の名前を呼んだ。本当なら、目を開けるつもりはなかった。でも、次の瞬間、妹の声が急に大きくなった。「ちょっと! 何してるの、お兄ちゃん!? 立ってよ!!」「……」高田社長が跪くなんて、珍しい光景かもしれない。彼は、まっすぐに私の前に膝をつき、伏し目がちに座っていた。光が彼の背後に差し込み、シルエットを際立たせる。花梨は彼の肩を掴み、泣きながら引っ張る。「お兄ちゃん! やめてよ! こんなことしないで!なんでこんな女なんかに跪くのよ!?見てよ、兄さんの今の姿……智秀!」彼女は、泣きながら叫んでいた。でも、私はもう、彼女の涙に何の感情も抱かなかった。花梨は、兄を引っ張るのを諦め、泣きながら病室を飛び出した。蝉の鳴き声が、病室の静けさの中に閉じ込められる。私は、彼の瞳を見つめる。強すぎる日差しが、彼の瞳に光の輪を映し出していた。まるで、遠い記憶の中で見た光景のように。蝉の声と、あの瞳。なぜか――涙が出そうになった。理由は、分からない。ベッドで過ごす日々は、ひどく退屈だった。私は、死を恐れていたわけではない。ただ、狭い空間に閉じ込められることが、何よりも苦痛だった。だから、看護師の許可をもらい、病院

Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status