|黄族《きぞく》と|黒族《こくぞく》が治める地区の|境《さかい》にある|関所《せきしょ》、|友中関《ゆうちゅうかん》。
そこは普段から結果が張ってあり、|殭屍《キョンシー》や妖怪といった|陰《いん》の気を持つ存在を弾いていた。それは周辺地域にも効果があり、|全 思風《チュアン スーファン》たちが野宿をしていた場所にまで|及《およ》んでいる……
はず。で、あった──
山のように重なっている|骸《むくろ》からは大量の出血が見られる。兵として日々を過ごしていたのか、茶色で|簡素《かんそ》な|鎧《よろい》を着ている者たちばかりだった。
なかには旅人らしき者たちもいるが、彼らもまた兵たちと同様に死している。
「……これは、全員死んでいるようだね」
腰を曲げた|全 思風《チュアン スーファン》が、近くにいる死体を確認した。
どの|遺体《いたい》も、体のどこかに|噛《か》みつかれたような|跡《あと》がある。
「多分、何らかの理由でここに|殭屍《キョンシー》が現れたんだろうね。それが一気に広まり、|屍《しかばね》の山となった」
可能性として|妥当《だろう》だろうと、|爛 春犂《ばく しゅんれい》に語りかけた。
文句を言えるほどの情報がない今、|爛 春犂《ばく しゅんれい》は軽く|頷《うなず》く以外の方法がなかったのだろう。眉を寄せ、両目を細めた。
血まみれの兵を|仰向《あおむ》けにし、|噛《か》み|跡《あと》を確認する。死した兵の開かれた|両瞼《りょうまぶた》に手を伸ばし、そっと閉じさせた。
「……この者は、首に|噛《か》みつかれた|痕跡《こんせき》があるな。……しかし謎だ」
|陽《よう》の力に包まれた札は、妖怪などの悪しき者から守るためにあった。しかしその札の中身を意図的に書き換えたりすることで、その効力はなくなる。逆に|陰《いん》の気だけが集まり、|殭屍《キョンシー》などの人に害を成す存在が現れるとされていた。 この|友中関《ゆうちゅうかん》という|関所《せきしょ》は、それが起こっている状態である。 誰が何の目的で行ったかについては不明であるものの、仕組まれた札が事件を起こしているのは間違なかった。「先生」 長い髪を後ろで高く束ね、華 閻李《ホゥア イェンリー》は|爛 春犂《ばく しゅんれい》を見つめる。小柄で儚げな見目を|惜《お》しげもなく|晒《さら》けだすように、|爛 春犂《ばく しゅんれい》の|袖《そで》を軽く引っ|張《ぱ》った。「この関所で死んでた兵たちは、どこの|領土《りょうど》の者か。わかりますか? 僕はそういうのさっぱりわからなくて……」 頭の上にいる|躑躅《ツツジ》、いつの間にか抱きしめられている|白虎《びゃっこ》。そして二匹に負けない小動物感を|顕《あらわ》にする|華 閻李《ホゥア イェンリー》が、|爛 春犂《ばく しゅんれい》を見上げる。「……っ!?」 |爛 春犂《ばく しゅんれい》は固まり、声が出なくなってしまったようだ。「せ、先生!?」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は、素でそれをやっていたようだ。突然|硬直《こうちょく》した彼に戸惑い、どうしたのかと慌てる。 「ねえ|思《スー》、先生がおかしくなって……|思《スー》?」 |全 思風《チュアン スーファン》に助けを求めようと、彼へ振り向いた。
大きな月が光を地上へ落とす|丑三《うしみ》つ時。逃げろと、誰が声あげた。 そこかしこから悲鳴が聞こえ、辺りは|阿鼻叫喚《あびきょうかん》を生む。 茶色の|革鎧《かわよろい》を着た兵たちが女子供を先導し、火の粉が上がる場から逃がそうとしていた。商人は大事な荷物を捨て、|一目散《いちもくさん》に駆け出す。「──こっちだ! こっちはまだ安全だ!」 そのなかの一人、|革鎧《かわよろい》に鉄|槍《やり》を持った男がいた。彼は必死に皆を|誘導《ゆうどう》し、安全確保をしようと|躍起《やっき》になっている。そんな男が持つ|槍《やり》には、黒い|房《くさ》がついていた。「さあ、早く中に!」 生き残っている者たちとともに三階へと逃げこみ、扉を閉める。 同じ|革鎧《かわよろい》を着た者たちとともに扉が開かないように、机などの物を重ねて廊下側へと押しつけた。 扉の外にある廊下からは、未だに悲鳴が|轟《とどろ》いている。時おりプツッという鈍い音、人とは思えぬ|雄叫《おたけ》びも耳に届いてきた。 建物の外を見れば、おびただしいほどの死体が転がっている。砂や雑草が見えていたはずの地面は|既《すで》になく、あるのは赤黒い|水溜《みずた》まりばかりであった。 行商人が乗ってきたであろう馬の頭部はなく、身体だけが転がっている。「……っ! なぜ、こんな事に……!」 部屋の中を|注視《ちゅうし》すれば、逃げ|延《の》びた者たちが|震《ふる》えていた。女子供は泣き、農民の男たちは顔を青ざめさせている。 数名の|革鎧《かわよろい》を着た者たちは剣を手にしながら、どうしてこんなことになったのかと口々に語った。「無事なのは我らだけか」&n
「|夢現再生術《むげんさいせいじゅつ》は、感受性の高い子供が覚えやすい術だ。もっとも、|閻李《イェンリー》のように修行すらしておらぬ者が|習得《しゅうとく》できるほど、|容易《たやす》くはないがな」 それを何の苦労もなく習得してしまった|華 閻李《ホゥア イェンリー》は、術師として優秀な才能を秘めているのだろう。 |爛 春犂《ばく しゅんれい》の口から語られたのは純粋な喜びであった。「……さて。|閻李《イェンリー》の見たそれを確実にするために、私たちは動かねばならん。それに、どうにも気がかりな事もあるのでな」 彼らがやることは以下の通りである。 この|関所《せきしょ》、|友中関《ゆうちゅうかん》で起きた事件の真相。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》の見た夢を元にするならば、生き残りがいるはず。その彼ら、彼女たちの行方を探すこと。 そしてもうひとつと、人差し指を立てた。「この扉を死守していた兵士。彼はどこに行ったのか……だ」 扉の前で自らの|喉《のど》を貫いたとなれば、|即死《そくし》だったのだろう。しかし|肝心《かんじん》の扉の前には誰もいなかった。 争った|跡《あと》はあり、たくさんの|血痕《けっこん》が飛び散っている様子も見受けられる。札はたくさん落ちているため、最後の力で破いたとされるものを探すのは|困難《こんなん》であった。 「……確かに、言われてみるとそうだな。だけど|小猫《シャオマオ》が嘘をつくなんて絶対にないし」 |清々《すがすが》しいほどの言い切りっぷりである。 |全 思風《チュアン スーファン》のなかで|華 閻李《ホゥア イェンリー》という少年は、絶対的な存在だ。子供が白だと言えば、例え黒でもそう信じるのだろう。
もしも|間者《かんじゃ》がいたのならば、それは間違いなく今回の事件に関わっているのだろう。 しかし間者がいるという証拠すらなく、現段階では|全 思風《チュアン スーファン》の想像として止まっていた。「……間者って、誰が?」 彼の真向かいにいる子供は、きょとんとした様子で|尋《たず》ねる。 |全 思風《チュアン スーファン》は、これは予想であり確かなことではないよと返答した。 彼の頭の中にあるのは、|黒《くろ》と黄以外の第三者。|憶測《おくそく》の|域《いき》を出ていなくとも、それが一番|妥当《だとう》な答だと伝える。「ここは|黒《くろ》と黄色、その両方が治める土地だ。そこにこんな大がかりな事をするには、どちらかの|族《ぞく》に侵入する必要がある」 旅人や、周辺地域の者もあり得た。しかし村人の場合、危険な目に合うことはわかりきっている。そのような危険を犯してまで、間者として|潜《もぐ》りこむ意味はあるのだろうか。 「深い|怨《うら》みを持っているならあり得たかもだけど……そもそもそんな連中が、こんな手のこんだ仕掛けをするとは思えないんだよね。私の経験上、そういう奴らは、すぐ行動に移すんだよ」 しかし人は予測不能な動きをするものだ。|全 思風《チュアン スーファン》の考えが|及《およ》ばぬ者もいる。ただ、|間者《かんじゃ》というものは普通の人間ができることではなかった。 それを視野に入れても、近くの住民にとっては悪いことにしかならないのではないだろうか。「|小猫《シャオマオ》が夢で見た出来事、あれが真実であるという事を証明するためにも、私は……」「信じてくれるのは嬉しいけど……どうしてそこまで?」
──これは、私が望んでいた|薫《かお》りだ。優しくて、大切にしたい。あの人の血をひく、唯一の暖かさだ。 |全 思風《チュアン スーファン》は寝ぼけ|眼《まなこ》に思考を働かせる。「……っ痛!」 ズキズキと、頭に鈍い痛みを覚えた。頭を触ってみれば、小さなたんこぶができている。これはいったい何かと考えながら体を動かした。「あっ、|思《スー》。気がついた? 大丈夫?」 ふと、頭上より、子供の声が聞こえる。それは|紛《まぎ》れもない、愛しい子の声だ。 けれどあの子は背が低いはずだと、頭上より届く声に疑問を持つ。まだ頭痛が|癒《い》えておらず、それのせいで|幻聴《げんちょう》がしてしまったのだろうとため息をついた。 しかし……「もう、|思《スー》ってば! 無視しないでよ!」 視界に銀の糸が流れた。同時に、端麗な顔立ちの子供がのぞいてくる。 |全 思風《チュアン スーファン》は、鳩が豆鉄砲を食らったような表情になった。直後、「はあ!?」というすっとんきょうな声をあげる。 どうやら彼は横になっていたようだ。さらには|華 閻李《ホゥア イェンリー》の膝の上で眠ってしまっていた。 これには普段の|飄々《ひょうひょう》さは消え失せ、顔を真っ赤にさせながら言葉にならぬ何かを発する。 ──ちょっ、えーー!? な、何で|小猫《シャオマオ》が私を|膝枕《ひざまくら》しているのさ!? |混乱《こんらん》が頂点に達し、ついには金魚のように口をパクパクとさせてしまった。しどろもどろになりながら耳の先をどんどん赤くさせていく。
人の形を|成《な》した|魂《たましい》たちは何かを|訴《うった》えるように、それぞれが違う行動をとっていた。 腰の曲がった|老婆《ろうば》は涙を流しながら|震《ふる》えている。数人の兵たちは弓や剣などを|構《かま》え、ひたすら空を斬り続けている。 女子供は怯えた表情で丸まり、泣いていた。農民であろう男たちもおり、彼らは逃げるように走っている。 直後、突然動きが止まった。正確には何かに驚いた様子で、全員が一点だけを見つめている。「……|思《スー》、これって……」「……おそらくだけど、|殭屍《キョンシー》の|襲撃《しゅうげき》から逃げたりしてる場面なんだろうね。でも、参ったなあ」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》を抱きよせる彼は肩から大きなため息を|溢《こぼ》した。ほどかれてうねる髪をそのままに、空を仰ぎ見る。 ここで起きた|悲劇《ひげき》、それが嘘のように晴れた空だ。太陽が|燦々《さんさん》と地上を照らし、彼の両目を細めさせる。 青空の中を泳ぐように名もなき鳥が進んだ。雲はゆっくりと姿形を変え、海のように広大な空を隠す。 地上には雑草、木々など。自然のものがたくさん生えていた。 ときおり吹く冬の風は冷たい。けれど、どこからともなく|訪《おとず》れた|花弁《はなびら》が|舞《ま》った。「……あのね|小猫《シャオマオ》、どうやら彼らかは情報を聞き出せそうにない」 |関所《せきしょ》の中を走る|静寂《せいじゃく》を浴びて苦笑いとともに、うーんと首を|捻《ひね》る。「え? 何で?」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》が小首を|傾《かし》げる様は、とてもかわいらしい
兵の|魂《たましい》を追いかけた先には、目も当てられぬ光景が待っていた。 人力ではとても無理だろうと思われる、壁の穴や倒された木々。そして逃げまとう人々、地に点々と転がる死体など。 |関所《せきしょ》というよりは|地獄《じごく》の単語がふさわしいほどに、|悲惨《ひさん》な状況となっていた。『……な、何だ、これは!?』 駆けつけた男の声が|震《ふる》える。手に持っていた|水桶《みずおけ》を落としたことにも気づかぬほど、体が固まっているようだ。 両目は見開き、涙が|溜《た》まっている。『いったい何が……っ!?』 死体に駆けよろうとしたとき、|関所《せきしょ》の壁の影から何かが現れた。 それは人の形をしている。 けれど青白い肌に、たくさん浮かぶ血管。そして黒のない白目の者だ。髪型や大きな胸部からして、女だということはわかる。けれど服はビリビリに破け、皮膚のいたるところから出血していた。 なによりも両腕を胸の位置まで上げて、飛びはねながら前へ進んでいる。 『……っ|殭屍《キョンシー》!?』 驚く同時に|恐怖《きょうふ》が|襲《おそ》う。空の|水桶《みずおけ》を|仔猫《シャオマオ》へと投げ捨てた。 |殭屍《キョンシー》の頭に|桶《おけ》があたる。しかしこの者は痛みすら感じぬ様子だ。足元に落ちた|桶《おけ》を|踏《ふ》み|潰《つぶ》す。 どこを見ているのかわからぬ視線をもちながら、頭をぐらぐら揺らした。やがて男の気配に気づくや|否《いな》や、再び飛びはねながら彼へと近づく。『……何で|殭屍《キョンシー》がここにいるんだ!? ここには、|陰《い
翌朝、逃げのびた人々の行方を探していた|爛 春犂《ばく しゅんれい》が|友中関《ゆうちゅうかん》に戻ってきた。 「──そうか。そのような事があったのか。なるほどな」 合点がいったと、|焔《ほのお》を前にして|頷《うなず》く。泣きやまぬ子供の頭に手を乗せ、頬に伝う雫を布で|拭《ふ》いた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》はびっくりして顔をあげる。けれど|全 思風《チュアン スーファン》が子供への独占欲を|顕《あらわ》にしながら、眼前の男を睨んだ。「気安く|小猫《シャオマオ》に触れないでもらえるかな? この子は私のなんだから」 恥ずかしげもなく告げる言葉とともに、|哀《かな》しみに暮れる子供の肩を抱く。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は涙を|堪《こら》えては、再び泣いた。彼に優しく抱きよせられながら、|嗚咽《おえつ》を|洩《も》らす。「……|全 思風《チュアン スーファン》殿、あなたはどうしてそう……ああ、もうよい」 あきれしか思いつかないらしく、背中を曲げてはあきれを含む|嘆息《たんそく》をした。 そんな彼らは|関所《せきしょ》の中区で、三人揃って|薪《まき》を|炊《た》いている。|革鎧《かわよろい》を着ていた男をあの世へと送り届けるため、静かに|焔《ほのお》を眺めていた。 バチバチと音をたて、|焔《ほのお》は空高く煙を巻き上げる。数えきれぬほどの|紙銭《かみせん》が、別れのときを惜しむように舞った。「で? 何か成果はあったわけ?」 |紙銭《かみせん》を眺めながら、|全 思風《チュアン スーファン》が|喧嘩腰《けんかごし》に問う。抱きよせていた子供を両腕でギュッとし、暖かさを味わった。|華 閻李《
|関所《せきしょ》を守りぬいた兵がいた。彼は|母親《オモニ》の足を治療するため、そして誰かを守りたいという想いから兵へ志願する。 母親はそんな息子を|誇《ほこ》りに思い、子の夢を止めることなどできなかった。けれど代わりにと、祝いの品として一本の|蝋梅《ろうばい》の木を送る。「それが、この枝の元の|蝋梅《ろうばい》。あの男の人に大切に育てられて、あなたの……|母親《オモニ》が息子を想う気持ちがこめられている。それがこの木に力を与え、あなたの元へと届けてほしいって願ったんです」 花や植物の気持ちなと、誰もわかりはしなかった。けれど|華 閻李《ホゥア イェンリー》という少年は花の心を伝え、想いを力にする能力を持つ。それは仙術のようで違う。けれど、それを成し|遂《と》げるだけの力を有していたのは間違いなかった。 もちろん眼前にいる中年女性には、そのことなどわかりはしない。 だからこそふたりは|頷《うなず》き合った。子供の隣に|全 思風《チュアン スーファン》が立ち、その細い肩を支える。 |廃屋《はいおく》に|避難《ひなん》している人々は何が始まるのかと、興味|津々《しんしん》に彼らを見た。「──僕は、あの人の想いを全て届けられるわけじゃない。だけど、知ってほしいんです。あの人がどんな想いで亡くなったのか。最後に願った事は何だったのかを……」 子供の声が|廃屋《はいおく》の中を泳ぐ。 両手を胸の前に、そっと置いた。そして枝に|丁寧《ていねい》なまでの口づけをする。すると|華 閻李《ホゥア イェンリー》の体が優しい光に包まれていった。それは|蛍火《ほたるび》のように小さな|粒《つぶ》で、夕焼けのように美しい。 そのときだった。子供の背中から、ひとつの大きな|彼岸花《ひがんばな》が現れる。けれどそれは花びらを散らし、姿、種類すらも変わっていった。 一本の大きな木
屋根の上を飛び移りながら、ふたりは|杭西《こうせい》の西へと進んでいた。 冬の風と、空から降る雪がふたりの体を打ちつける。|全 思風《チュアン スーファン》は平気なようだが、|華 閻李《ホゥア イェンリー》はそういかなかった。 子供は彼の|漢服《ふく》を頭から被ってはいる。それでも体力のなさは変わらずで、寒さに震えていた。|艶《つや》のあった唇は紫色に変色している。白い肌は土気色に、体温はぐっと下がって指先から冷たくなっていた。「……|小猫《シャオマオ》、大丈夫かい!?」 子供の体調が心配で足を止める。横抱きにした|華 閻李《ホゥア イェンリー》の様子が少しおかしいことに気づき、彼は慌てて下へと降りた。 近くにある|廃屋《はいおく》の|外壁《がいへき》に隠れ、子供の熱を測る。幸いなことに少年に熱はなかった。けれど顔色を見るに、このまま外で行動するということは避けるべきだと判断する。「|小猫《シャオマオ》ごめんね。君が寒さに弱いって知ってたらこんな……」 自身の|不甲斐《ふがい》なさを悔やんだ。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は紫になった唇のまま、無理やり笑顔を作る。大丈夫だよと、彼の|逞《たくま》しい手に触れた。 ──本当にこの子は優しいな。私に心配かけまいとして、辛いのを押して笑っている。 力があっても、王になっても、大切な子供ひとりすら守れない。そんな自分が憎く、そして情けないとすら感じた。 彼は唇を噛みしめる。「……|小猫《シャオマオ》、辛いときは無理して笑わなくてもいいよ」 「……っ!」 そう言った瞬間、子供の瞳が|潤《うる》んだ。体を両手で包み、その場に|踞《う
|京杭《けいこう》大運河での戦争を目の当たりにしたふたりは、急いで|杭西《こうせい》へと向かった。 到着した町は銀の世界となっていた。 |杭西《こうせい》の中を流れる|河《かわ》には舟が浮かんでいる。河の両脇には家屋が並び、屋根の上に雪が積もっていた。ゆらゆらと揺れる|提灯《ちょうちん》の明かりが、白銀の景色と重なって幻想的に見える。 しかし|肝心《かんじん》の人の姿がなく、町は静まり返っていた。 置き捨てられた|籠《かご》、水|浸《びた》しになった|漢服《かんふく》など。|数刻《すうこく》前まではそこに誰かがいたであろうという、生活感のある風景が置き去りにされていた。「……誰もいないね?」 町の中にある河を進みながら、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は小首を|斜《なな》めに動かす。呼吸をするたびに白い息が生まれ、はーと吹きかけては両手を温めた。 白い獣である|白虎《びゃっこ》を|暖《だん》として抱きしめる。寒いなあと、体を震わせた。「すぐ近くで|戦《いくさ》があったからね。多分その|影響《えいきょう》で皆、家の中に閉じこもってるんじゃないかな?」 それに雪も降ってるからねと、彼は優しく説明をする。ただ口ではそう言っていても、彼自身、町中での戦争がないことを願うことしかできなかった。 河から確認できる建物をひとつひとつ、|黙視《もくし》していく。 建物が壊れた様子はないので、町の中までは戦争の被害が及んでいないだろうと|推測《すいそく》できた。そのことにホッと胸を撫で下ろしながら、舟を進めていく。 ふと、行き止まりに差しかかった。ここから先は舟では進むことが不可能のようで、ふたりは降りることを決める。「──さあ、私の|小猫《シャオマオ》。転ばぬよう、手を」「ふふ。本当に|思《スー》って優しいよね?」 先に舟から降りた|全 思風《チュアン スーファン》が、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の手を取った。 パラパラと|粉雪《こなゆき》が降り続き、ふたりの頭や肩などに落ちて溶けていく。 ときおり足元にいる|白虎《びゃっこ》の鼻にかかり、|虎《とら》はイヤイヤと顔をぶるぶるさせていた。 そんな|白虎《びゃっこ》を両腕で抱き、子供はふふっと|微笑《びしょう》しながら雪を払う。「はは。|牡丹《ボタン》は雪嫌いなの?」「|牡丹《ボタン》?
黒の一族、|黒《こく》。術を得意とし、戦略に長けた者が多いと|云《い》われていた。そのなかでも|長《おさ》である|黒 虎静《ヘイ ハゥセィ》は、群を抜いて素晴らしい才能を持つと云われている。 そしてその弟である|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》は兄にこそ|及《およ》ばぬものの、それでも|黒《こく》族のなかでは優秀な分類と噂されていた。 しかしあるときを|境《さかい》に、弟である|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》は反旗を|翻《ひるがえ》したとされる。理由は不明、今どこにいて何をしているのか。それすら謎とされていた──「──|他族《たぞく》の事だから、僕も詳しくは知らない。だけどあの人は|獅夕趙《シシーチャオ》なんていう、二つ名まである」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は嘘でしょと、大きな目をさらに広げる。「ああ、その二つ名なら私も聞いた事はあるかな。確か、獅子のように|獰猛《どうもう》だけど、場の空気を変える力があるって理由で、そういった名前になったとか何とか」 |全 思風《チュアン スーファン》自身、膝の上に乗せて守る子供以外には興味などなかった。しかし人間の住む世界にいる以上は、嫌でも何かしらの情報が入ってくるというもの。 彼にとって興味の対象外であった。けれど風の噂というものは自然と耳に届く。それがいいか悪いかではなく、印象に残る何かがある。 ──|小猫《シャオマオ》を探している最中、あの男の二つ名を何度か耳にした。兄と|喧嘩《けんか》をして家を飛び出したとかいう話だったな。 それかなぜ、このようなところにいるのか。いったい|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》という男に何があったのか…… ──うん。全く、興味ない。 |全 思風《チュアン スーファン》にとって、完全に興味
|京杭《けいこう》大運河の中枢から少し離れたところに、大きく横に広がった場所がある。縦に長く続く河、|両脇《りょうわき》には人の力では到底登れぬ崖があった。 そんな河を陣取るように、二種類の船が横に並んでいる。ひとつは|杭西《こうせい》、もう片方は枸杞(クコ)の村側へと背を向けていた。 |杭西《こうせい》側を陣取る船の先端には、|朱《あか》の鳥が描かれた旗が掲げられている。 枸杞(クコ)を背にする船はひとまわり小さいが、反対側に浮くものよりも数が多かった。先頭をいく一隻には、緑の亀が|刺繍《ししゅう》された旗が立てられている。 そのどちらもが互いを睨み、冷戦状態となっていた。しかし……「──矢を放て!」 誰かの|一声《いっせい》が場に|轟《とどろ》く。瞬間、|朱《あか》き旗を持つ側から、無数の矢が放たれた。 ひとまわりも小さな船に向かって|疾走《しっそう》する矢は高く上がり、勢いをつけて落下。先頭にいた緑の旗を|携《たず》える船が|沈没《ちんぼつ》していった。 されど、緑の旗の者たちも負けてはいない。弓という飛び道具を使用せずに、剣や槍などで弾いていった。 それでも生身の人間であることにかわりない。|懸命《けんめい》に|応戦《おうせん》するが、次々と弓矢に体を|貫《つらぬ》かれてしまった。 |朱《あか》旗側の圧倒的すぎる力、それがこの場を|収《おさ》めていく。これでは緑の旗を|維持《いじ》すること叶わず。誰もが、絶望色に顔を染めていった── |瞬刻《しゅんこく》、|形勢《けいせい》を|有《ゆう》していた|朱《あか》旗の船に|悲劇《ひげき》が|訪《おとず》れる。 突然、彼らの周囲に波が現れたのだ。|朱《あか》旗の船は波に|拐《さら》われ、ひっくり返ってしまう。何|隻《せき》かは無事だったものの、被害は大きい。 先ほどまで|優勢《ゆうせい
枌洋(へきよう)の村、そして蘇錫市(そしゃくし)。そのどちらにも疑問が残るかたちとなった。 ただひとつ。わかっているのは、どちらも白き服の者たちが関わっていたことだった。 ──|小猫《シャオマオ》のいう事は|尤《もっと》もだ。だけど何もわからない以上、考えてもしかたないんだろうね。 よしと、気を取り直して棒を動かした。「それらについては、情報を集める必要があるんだろうね。最終目的地は王都だ。そこに行くまでに、何かしらを得られるかもしれない」 少しばかり跳ねた水を浴びながら、|垂直《すいちょく》に舟を進ませる。 「とりあえずはさ、|杭西《こうせい》へ行こう。そこで情報を得られればいいんだけど……」 「そう、だね。あ、見て! 花売りだよ」 たくさんの舟が行き交うなかで、たくさんの花がふたりの元へとやってきた。舟の上に乗っている花たちは|彩《いろとりど》りで、|牡丹《ぼたん》や|薔薇《バラ》などが積まれている。 舟員は|華 閻李《ホゥア イェンリー》の弾んだ声が耳に入ったようだ。微笑みながら近づいてくる。「おやおや、とっても可愛い子だね。どうだい? お花、買っていくかい?」 花売りは|老婆《ろうば》だった。子供の無邪気な笑顔に気をよくし、いくぶんか割引をしてくれるよう。 |全 思風《チュアン スーファン》が子供にどの花を買うのかと問えば、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は両目をキラキラとさせた。まるで宝石箱でも開けるかのような、期待に満ちた眼差しである。 しばらくすると花売りの老婆が乗った舟は、ふたりから離れていった。 代わりに、彼らの舟は花でいっぱいになっている。 花びら
枸杞(クコ)の村で昼食をすませた後、|爛 春犂《ばく しゅんれい》と一旦別れた。男を見守りながらふたりは|杭西《こうせい》へと向かうため、村の隅にある|京杭《けいこう》大運河へと|訪《おとず》れる。 |京杭《けいこう》大運河の向こう|岸《ぎし》は山になっており、降りれる場所はなかった。 |運河《うんが》自体は深く、大人でも足をつけることが困難なほどである。|汚染《おせん》されていない河は水面が|透明《とうめい》で、泳ぐ魚や底が見えていた。 そんな河には運搬船のみならず、観光客を乗せた船も行き交っている。「ねえ|思《スー》、ここから船で行くの?」 小型で美しい髪を持つ、端麗な少年──|華 閻李《ホゥア イェンリー》──は頭の上に|躑躅《ツツジ》を。両腕で|白虎《びゃっこ》を抱きしめていた。 小首をかしげる様は、その見目も相まって非常に愛らしい。二匹の動物も合わさると、さらに|儚《はかな》く見えて、|全 思風《チュアン スーファン》の中にある|庇護欲《ひごよく》をそそった。「うん、そうなるかな」 抱きしめてしまいたい気持ちをこらえ、肩にかかる三つ編みを|払《はら》う。 木で作られた足場に向かい、小舟を棒で引きよせた。片足を足場に。もう片方を船の上に乗せ、動くのを防ぐ。「あそこに山があるだろ? あの山は、かなり道が細くなっててね。馬車では通れないんだ」 山道は険しいため、馬では進むことが難しい。凸凹道もあり、旅に慣れていない者には|厳《きび》しい道ゆきにしかならなかった。「それに、ほら」 空を指差す。そこには海のように|蒼《あお》い空があった。しかし目を|凝《こ》らしてみれば、何かの集団のようなものが飛んでいる。 |華 閻李《ホゥア イェンリー
|華 閻李《ホゥア イェンリー》が行く先を決めた直後、昼休憩として緑にまみれた村を|訪《おとず》れていた。 村の人口はおよそ数十人で、非常に小さな村である。 建物は|蔦《つた》や|苔《こけ》で|覆《おお》われており、幻想的な雰囲気があった。この村は枸杞(クコ)という名で、|杭西《こうせい》へ向かう途中の休憩所としても使われることが多い。 村を囲むのは緑|溢《あふ》れた山々で、隅には|運河《うんが》が流れていた。それは|京杭《けいこう》大運河であり、どこまでも続いている。 そんなのどかな村の入り口からすぐ近く。小さな飲食店があった。看板はボロボロになっていて名前は読めないが、年期の入った家屋である。 三人はそこへ足を伸ばし、昼食を交えながらこれからについての話し合いを始めた。「──え? 先生、一緒に行かないんですか?」 二段構えの丸い机を囲み、彼らは各々が食べたいものを注文していく。 窓際に|華 閻李《ホゥア イェンリー》が座り、壁側に|全 思風《チュアン スーファン》。そして扉側には|爛 春犂《ばく しゅんれい》が腰を落ち着かせていた。「うむ。私は先代皇帝、|魏 曹丕《ウェイ ソウヒ》様の|命《めい》で動いている。目的は知っての通り、各地で起きている|殭屍《キョンシー》事件の|全貌《ぜんぼう》だ」 机の上にある|烏龍《ウーロン》茶を飲む。ゆっくりと口に入れていき、コトリと音をたてて|茶杯《ちゃはい》が置かれた。 「私は一旦、王都へと戻る。現王である|魏 宇沢《ウェイ ズーヅァ》様の真意を探るためにな」「……わかりました。じゃあ僕たちは、|杭西《こうせい》へ行きます。そこであの兵のお母さんに、真実を伝えようと思います」 「そうしなさい。それがいいのか悪いのかではなく
太陽が真上に差し掛かった頃、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は眠りから覚めていた。 うーんと上半身だけを伸ばし、少し体をひねる。「はあ、よく寝た。って、もうお昼……なのかな?」 お腹の虫がぐるぐる鳴った。お世辞にも肉づきがいいとは言えない薄いお腹を|撫《な》でる。 ふと、自身にかけられた布に気づいた。これは誰のだろうかと小首をかしげ、大きな瞳をまん丸にさせる。 そんな子供の細く長い銀の髪は太陽の光を浴び、とても美しい。髪を耳にかける仕草には|儚《はかな》さがあり、|陽《ひ》の光が彼の|見目麗《みめうるわ》しさを引きたてていた。「この服は|思《スー》……じゃ、ないよね?」 見覚えのある服だった。 上は白で下にいくにつれて黄色くなっていく、特徴ある服である。これは|黄族《きぞく》のものだった。「あれ? もしかしてこれ、先生の?」 先生がかけてくれたのだろうか。 周囲を見渡す。しかしそこには|爛 春犂《ばく しゅんれい》はおろか、優しい青年の|全 思風《チュアン スーファン》すら見かけなかった。 唯一いるのは、二匹の獣である。 一匹は白い毛並みに黒の|縦《たて》じま|模様《もよう》が入った、仔猫のような見目をした|白虎《びゃっこ》だ。もう一匹は|躑躅《ツツジ》と名づけた|蝙蝠《こうもり》である。 どちらもかわいらしい姿で、一緒に丸くなって寝ていた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は、無防備な二匹を軽く|撫《な》でる。「ふふ、どっちも可愛いなあ」 体毛の少ない|蝙蝠《こうもり》は存外ツルツルとしていた。|白虎《びゃっこ》の方は、もふもふとし