兵の|魂《たましい》を追いかけた先には、目も当てられぬ光景が待っていた。
人力ではとても無理だろうと思われる、壁の穴や倒された木々。そして逃げまとう人々、地に点々と転がる死体など。
|関所《せきしょ》というよりは|地獄《じごく》の単語がふさわしいほどに、|悲惨《ひさん》な状況となっていた。
『……な、何だ、これは!?』
駆けつけた男の声が|震《ふる》える。手に持っていた|水桶《みずおけ》を落としたことにも気づかぬほど、体が固まっているようだ。
両目は見開き、涙が|溜《た》まっている。
『いったい何が……っ!?』
死体に駆けよろうとしたとき、|関所《せきしょ》の壁の影から何かが現れた。
それは人の形をしている。
けれど青白い肌に、たくさん浮かぶ血管。そして黒のない白目の者だ。髪型や大きな胸部からして、女だということはわかる。けれど服はビリビリに破け、皮膚のいたるところから出血していた。
なによりも両腕を胸の位置まで上げて、飛びはねながら前へ進んでいる。
『……っ|殭屍《キョンシー》!?』
驚く同時に|恐怖《きょうふ》が|襲《おそ》う。空の|水桶《みずおけ》を|仔猫《シャオマオ》へと投げ捨てた。
|殭屍《キョンシー》の頭に|桶《おけ》があたる。しかしこの者は痛みすら感じぬ様子だ。足元に落ちた|桶《おけ》を|踏《ふ》み|潰《つぶ》す。
どこを見ているのかわからぬ視線をもちながら、頭をぐらぐら揺らした。やがて男の気配に気づくや|否《いな》や、再び飛びはねながら彼へと近づく。
『……何で|殭屍《キョンシー》がここにいるんだ!? ここには、|陰《い
翌朝、逃げのびた人々の行方を探していた|爛 春犂《ばく しゅんれい》が|友中関《ゆうちゅうかん》に戻ってきた。 「──そうか。そのような事があったのか。なるほどな」 合点がいったと、|焔《ほのお》を前にして|頷《うなず》く。泣きやまぬ子供の頭に手を乗せ、頬に伝う雫を布で|拭《ふ》いた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》はびっくりして顔をあげる。けれど|全 思風《チュアン スーファン》が子供への独占欲を|顕《あらわ》にしながら、眼前の男を睨んだ。「気安く|小猫《シャオマオ》に触れないでもらえるかな? この子は私のなんだから」 恥ずかしげもなく告げる言葉とともに、|哀《かな》しみに暮れる子供の肩を抱く。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は涙を|堪《こら》えては、再び泣いた。彼に優しく抱きよせられながら、|嗚咽《おえつ》を|洩《も》らす。「……|全 思風《チュアン スーファン》殿、あなたはどうしてそう……ああ、もうよい」 あきれしか思いつかないらしく、背中を曲げてはあきれを含む|嘆息《たんそく》をした。 そんな彼らは|関所《せきしょ》の中区で、三人揃って|薪《まき》を|炊《た》いている。|革鎧《かわよろい》を着ていた男をあの世へと送り届けるため、静かに|焔《ほのお》を眺めていた。 バチバチと音をたて、|焔《ほのお》は空高く煙を巻き上げる。数えきれぬほどの|紙銭《かみせん》が、別れのときを惜しむように舞った。「で? 何か成果はあったわけ?」 |紙銭《かみせん》を眺めながら、|全 思風《チュアン スーファン》が|喧嘩腰《けんかごし》に問う。抱きよせていた子供を両腕でギュッとし、暖かさを味わった。|華 閻李《
現|皇帝《こうてい》である|魏 宇沢《ウェイ ズーヅァ》は、この|友中関《ゆうちゅうかん》で起きた事件に関わっている。 |爛 春犂《ばく しゅんれい》が集めたこの情報は、|全 思風《チュアン スーファン》の瞳に|焔《ほのお》を灯させた。くつくつとした笑みが、静かな|関所《せきしょ》の中を走る。 |淡々《たんたん》と、呼吸すらも知らしめんと、男を見張った。「……逃げた者たちは皆、|怯《おび》えておった。夜も眠れぬ者、飯を喉に通す事すらできない者もいた。そんな彼らに聞き出すのは|憚《はばか》れたが……」 眠る美しい子供、|華 閻李《ホゥア イェンリー》を間に挟み、彼は横に座る。前方にある|薪《たきぎ》を|見据《みす》え、重たい口を開いていった。「彼らは、こう言っていた。゛|殭屍《キョンシー》の群れに|襲《おそ》われた前日、白い服を着た者たちが、この|関所《せきしょ》に訪れた。゛らしい」 その者たちいわく、|友中関《ゆうちゅうかん》に貼られている札は効力を|喪《うしな》っているとのこと。|國《くに》の|命《めい》により、札の全てを貼り変える作業をするとのことだった。 そして彼らは最後にこう告げる。「゛これは|魏 宇沢《ウェイ ズーヅァ》様、お|達《たっ》しの|命《めい》である゛と」 後は知っての通り、この|関所《せききょ》が|殭屍《キョンシー》の群れと化した。 そしてもうひとつ。白い服の者たちは皆、一様に、白い|勾玉《まがたま》を首にかけていたのとこと。 ここまで|一欠片《ひとかけら》も|溢《こぼ》さず伝えた|爛 春犂《ばく しゅんれい》は、ふーと呼吸を整えた。「……なるほどねえ、やっぱここでも絡んでくるんだ。あの白い連中は。|小猫《シャオマオ》に、どうや
太陽が真上に差し掛かった頃、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は眠りから覚めていた。 うーんと上半身だけを伸ばし、少し体をひねる。「はあ、よく寝た。って、もうお昼……なのかな?」 お腹の虫がぐるぐる鳴った。お世辞にも肉づきがいいとは言えない薄いお腹を|撫《な》でる。 ふと、自身にかけられた布に気づいた。これは誰のだろうかと小首をかしげ、大きな瞳をまん丸にさせる。 そんな子供の細く長い銀の髪は太陽の光を浴び、とても美しい。髪を耳にかける仕草には|儚《はかな》さがあり、|陽《ひ》の光が彼の|見目麗《みめうるわ》しさを引きたてていた。「この服は|思《スー》……じゃ、ないよね?」 見覚えのある服だった。 上は白で下にいくにつれて黄色くなっていく、特徴ある服である。これは|黄族《きぞく》のものだった。「あれ? もしかしてこれ、先生の?」 先生がかけてくれたのだろうか。 周囲を見渡す。しかしそこには|爛 春犂《ばく しゅんれい》はおろか、優しい青年の|全 思風《チュアン スーファン》すら見かけなかった。 唯一いるのは、二匹の獣である。 一匹は白い毛並みに黒の|縦《たて》じま|模様《もよう》が入った、仔猫のような見目をした|白虎《びゃっこ》だ。もう一匹は|躑躅《ツツジ》と名づけた|蝙蝠《こうもり》である。 どちらもかわいらしい姿で、一緒に丸くなって寝ていた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は、無防備な二匹を軽く|撫《な》でる。「ふふ、どっちも可愛いなあ」 体毛の少ない|蝙蝠《こうもり》は存外ツルツルとしていた。|白虎《びゃっこ》の方は、もふもふとし
|華 閻李《ホゥア イェンリー》が行く先を決めた直後、昼休憩として緑にまみれた村を|訪《おとず》れていた。 村の人口はおよそ数十人で、非常に小さな村である。 建物は|蔦《つた》や|苔《こけ》で|覆《おお》われており、幻想的な雰囲気があった。この村は枸杞(クコ)という名で、|杭西《こうせい》へ向かう途中の休憩所としても使われることが多い。 村を囲むのは緑|溢《あふ》れた山々で、隅には|運河《うんが》が流れていた。それは|京杭《けいこう》大運河であり、どこまでも続いている。 そんなのどかな村の入り口からすぐ近く。小さな飲食店があった。看板はボロボロになっていて名前は読めないが、年期の入った家屋である。 三人はそこへ足を伸ばし、昼食を交えながらこれからについての話し合いを始めた。「──え? 先生、一緒に行かないんですか?」 二段構えの丸い机を囲み、彼らは各々が食べたいものを注文していく。 窓際に|華 閻李《ホゥア イェンリー》が座り、壁側に|全 思風《チュアン スーファン》。そして扉側には|爛 春犂《ばく しゅんれい》が腰を落ち着かせていた。「うむ。私は先代皇帝、|魏 曹丕《ウェイ ソウヒ》様の|命《めい》で動いている。目的は知っての通り、各地で起きている|殭屍《キョンシー》事件の|全貌《ぜんぼう》だ」 机の上にある|烏龍《ウーロン》茶を飲む。ゆっくりと口に入れていき、コトリと音をたてて|茶杯《ちゃはい》が置かれた。 「私は一旦、王都へと戻る。現王である|魏 宇沢《ウェイ ズーヅァ》様の真意を探るためにな」「……わかりました。じゃあ僕たちは、|杭西《こうせい》へ行きます。そこであの兵のお母さんに、真実を伝えようと思います」 「そうしなさい。それがいいのか悪いのかではなく
枸杞(クコ)の村で昼食をすませた後、|爛 春犂《ばく しゅんれい》と一旦別れた。男を見守りながらふたりは|杭西《こうせい》へと向かうため、村の隅にある|京杭《けいこう》大運河へと|訪《おとず》れる。 |京杭《けいこう》大運河の向こう|岸《ぎし》は山になっており、降りれる場所はなかった。 |運河《うんが》自体は深く、大人でも足をつけることが困難なほどである。|汚染《おせん》されていない河は水面が|透明《とうめい》で、泳ぐ魚や底が見えていた。 そんな河には運搬船のみならず、観光客を乗せた船も行き交っている。「ねえ|思《スー》、ここから船で行くの?」 小型で美しい髪を持つ、端麗な少年──|華 閻李《ホゥア イェンリー》──は頭の上に|躑躅《ツツジ》を。両腕で|白虎《びゃっこ》を抱きしめていた。 小首をかしげる様は、その見目も相まって非常に愛らしい。二匹の動物も合わさると、さらに|儚《はかな》く見えて、|全 思風《チュアン スーファン》の中にある|庇護欲《ひごよく》をそそった。「うん、そうなるかな」 抱きしめてしまいたい気持ちをこらえ、肩にかかる三つ編みを|払《はら》う。 木で作られた足場に向かい、小舟を棒で引きよせた。片足を足場に。もう片方を船の上に乗せ、動くのを防ぐ。「あそこに山があるだろ? あの山は、かなり道が細くなっててね。馬車では通れないんだ」 山道は険しいため、馬では進むことが難しい。凸凹道もあり、旅に慣れていない者には|厳《きび》しい道ゆきにしかならなかった。「それに、ほら」 空を指差す。そこには海のように|蒼《あお》い空があった。しかし目を|凝《こ》らしてみれば、何かの集団のようなものが飛んでいる。 |華 閻李《ホゥア イェンリー
枌洋(へきよう)の村、そして蘇錫市(そしゃくし)。そのどちらにも疑問が残るかたちとなった。 ただひとつ。わかっているのは、どちらも白き服の者たちが関わっていたことだった。 ──|小猫《シャオマオ》のいう事は|尤《もっと》もだ。だけど何もわからない以上、考えてもしかたないんだろうね。 よしと、気を取り直して棒を動かした。「それらについては、情報を集める必要があるんだろうね。最終目的地は王都だ。そこに行くまでに、何かしらを得られるかもしれない」 少しばかり跳ねた水を浴びながら、|垂直《すいちょく》に舟を進ませる。 「とりあえずはさ、|杭西《こうせい》へ行こう。そこで情報を得られればいいんだけど……」 「そう、だね。あ、見て! 花売りだよ」 たくさんの舟が行き交うなかで、たくさんの花がふたりの元へとやってきた。舟の上に乗っている花たちは|彩《いろとりど》りで、|牡丹《ぼたん》や|薔薇《バラ》などが積まれている。 舟員は|華 閻李《ホゥア イェンリー》の弾んだ声が耳に入ったようだ。微笑みながら近づいてくる。「おやおや、とっても可愛い子だね。どうだい? お花、買っていくかい?」 花売りは|老婆《ろうば》だった。子供の無邪気な笑顔に気をよくし、いくぶんか割引をしてくれるよう。 |全 思風《チュアン スーファン》が子供にどの花を買うのかと問えば、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は両目をキラキラとさせた。まるで宝石箱でも開けるかのような、期待に満ちた眼差しである。 しばらくすると花売りの老婆が乗った舟は、ふたりから離れていった。 代わりに、彼らの舟は花でいっぱいになっている。 花びら
|京杭《けいこう》大運河の中枢から少し離れたところに、大きく横に広がった場所がある。縦に長く続く河、|両脇《りょうわき》には人の力では到底登れぬ崖があった。 そんな河を陣取るように、二種類の船が横に並んでいる。ひとつは|杭西《こうせい》、もう片方は枸杞(クコ)の村側へと背を向けていた。 |杭西《こうせい》側を陣取る船の先端には、|朱《あか》の鳥が描かれた旗が掲げられている。 枸杞(クコ)を背にする船はひとまわり小さいが、反対側に浮くものよりも数が多かった。先頭をいく一隻には、緑の亀が|刺繍《ししゅう》された旗が立てられている。 そのどちらもが互いを睨み、冷戦状態となっていた。しかし……「──矢を放て!」 誰かの|一声《いっせい》が場に|轟《とどろ》く。瞬間、|朱《あか》き旗を持つ側から、無数の矢が放たれた。 ひとまわりも小さな船に向かって|疾走《しっそう》する矢は高く上がり、勢いをつけて落下。先頭にいた緑の旗を|携《たず》える船が|沈没《ちんぼつ》していった。 されど、緑の旗の者たちも負けてはいない。弓という飛び道具を使用せずに、剣や槍などで弾いていった。 それでも生身の人間であることにかわりない。|懸命《けんめい》に|応戦《おうせん》するが、次々と弓矢に体を|貫《つらぬ》かれてしまった。 |朱《あか》旗側の圧倒的すぎる力、それがこの場を|収《おさ》めていく。これでは緑の旗を|維持《いじ》すること叶わず。誰もが、絶望色に顔を染めていった── |瞬刻《しゅんこく》、|形勢《けいせい》を|有《ゆう》していた|朱《あか》旗の船に|悲劇《ひげき》が|訪《おとず》れる。 突然、彼らの周囲に波が現れたのだ。|朱《あか》旗の船は波に|拐《さら》われ、ひっくり返ってしまう。何|隻《せき》かは無事だったものの、被害は大きい。 先ほどまで|優勢《ゆうせい
黒の一族、|黒《こく》。術を得意とし、戦略に長けた者が多いと|云《い》われていた。そのなかでも|長《おさ》である|黒 虎静《ヘイ ハゥセィ》は、群を抜いて素晴らしい才能を持つと云われている。 そしてその弟である|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》は兄にこそ|及《およ》ばぬものの、それでも|黒《こく》族のなかでは優秀な分類と噂されていた。 しかしあるときを|境《さかい》に、弟である|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》は反旗を|翻《ひるがえ》したとされる。理由は不明、今どこにいて何をしているのか。それすら謎とされていた──「──|他族《たぞく》の事だから、僕も詳しくは知らない。だけどあの人は|獅夕趙《シシーチャオ》なんていう、二つ名まである」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は嘘でしょと、大きな目をさらに広げる。「ああ、その二つ名なら私も聞いた事はあるかな。確か、獅子のように|獰猛《どうもう》だけど、場の空気を変える力があるって理由で、そういった名前になったとか何とか」 |全 思風《チュアン スーファン》自身、膝の上に乗せて守る子供以外には興味などなかった。しかし人間の住む世界にいる以上は、嫌でも何かしらの情報が入ってくるというもの。 彼にとって興味の対象外であった。けれど風の噂というものは自然と耳に届く。それがいいか悪いかではなく、印象に残る何かがある。 ──|小猫《シャオマオ》を探している最中、あの男の二つ名を何度か耳にした。兄と|喧嘩《けんか》をして家を飛び出したとかいう話だったな。 それかなぜ、このようなところにいるのか。いったい|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》という男に何があったのか…… ──うん。全く、興味ない。 |全 思風《チュアン スーファン》にとって、完全に興味
屋根の上を飛び移りながら、ふたりは|杭西《こうせい》の西へと進んでいた。 冬の風と、空から降る雪がふたりの体を打ちつける。|全 思風《チュアン スーファン》は平気なようだが、|華 閻李《ホゥア イェンリー》はそういかなかった。 子供は彼の|漢服《ふく》を頭から被ってはいる。それでも体力のなさは変わらずで、寒さに震えていた。|艶《つや》のあった唇は紫色に変色している。白い肌は土気色に、体温はぐっと下がって指先から冷たくなっていた。「……|小猫《シャオマオ》、大丈夫かい!?」 子供の体調が心配で足を止める。横抱きにした|華 閻李《ホゥア イェンリー》の様子が少しおかしいことに気づき、彼は慌てて下へと降りた。 近くにある|廃屋《はいおく》の|外壁《がいへき》に隠れ、子供の熱を測る。幸いなことに少年に熱はなかった。けれど顔色を見るに、このまま外で行動するということは避けるべきだと判断する。「|小猫《シャオマオ》ごめんね。君が寒さに弱いって知ってたらこんな……」 自身の|不甲斐《ふがい》なさを悔やんだ。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は紫になった唇のまま、無理やり笑顔を作る。大丈夫だよと、彼の|逞《たくま》しい手に触れた。 ──本当にこの子は優しいな。私に心配かけまいとして、辛いのを押して笑っている。 力があっても、王になっても、大切な子供ひとりすら守れない。そんな自分が憎く、そして情けないとすら感じた。 彼は唇を噛みしめる。「……|小猫《シャオマオ》、辛いときは無理して笑わなくてもいいよ」 「……っ!」 そう言った瞬間、子供の瞳が|潤《うる》んだ。体を両手で包み、その場に|踞《う
|京杭《けいこう》大運河での戦争を目の当たりにしたふたりは、急いで|杭西《こうせい》へと向かった。 到着した町は銀の世界となっていた。 |杭西《こうせい》の中を流れる|河《かわ》には舟が浮かんでいる。河の両脇には家屋が並び、屋根の上に雪が積もっていた。ゆらゆらと揺れる|提灯《ちょうちん》の明かりが、白銀の景色と重なって幻想的に見える。 しかし|肝心《かんじん》の人の姿がなく、町は静まり返っていた。 置き捨てられた|籠《かご》、水|浸《びた》しになった|漢服《かんふく》など。|数刻《すうこく》前まではそこに誰かがいたであろうという、生活感のある風景が置き去りにされていた。「……誰もいないね?」 町の中にある河を進みながら、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は小首を|斜《なな》めに動かす。呼吸をするたびに白い息が生まれ、はーと吹きかけては両手を温めた。 白い獣である|白虎《びゃっこ》を|暖《だん》として抱きしめる。寒いなあと、体を震わせた。「すぐ近くで|戦《いくさ》があったからね。多分その|影響《えいきょう》で皆、家の中に閉じこもってるんじゃないかな?」 それに雪も降ってるからねと、彼は優しく説明をする。ただ口ではそう言っていても、彼自身、町中での戦争がないことを願うことしかできなかった。 河から確認できる建物をひとつひとつ、|黙視《もくし》していく。 建物が壊れた様子はないので、町の中までは戦争の被害が及んでいないだろうと|推測《すいそく》できた。そのことにホッと胸を撫で下ろしながら、舟を進めていく。 ふと、行き止まりに差しかかった。ここから先は舟では進むことが不可能のようで、ふたりは降りることを決める。「──さあ、私の|小猫《シャオマオ》。転ばぬよう、手を」「ふふ。本当に|思《スー》って優しいよね?」 先に舟から降りた|全 思風《チュアン スーファン》が、|華 閻李《ホゥア イェンリー》の手を取った。 パラパラと|粉雪《こなゆき》が降り続き、ふたりの頭や肩などに落ちて溶けていく。 ときおり足元にいる|白虎《びゃっこ》の鼻にかかり、|虎《とら》はイヤイヤと顔をぶるぶるさせていた。 そんな|白虎《びゃっこ》を両腕で抱き、子供はふふっと|微笑《びしょう》しながら雪を払う。「はは。|牡丹《ボタン》は雪嫌いなの?」「|牡丹《ボタン》?
黒の一族、|黒《こく》。術を得意とし、戦略に長けた者が多いと|云《い》われていた。そのなかでも|長《おさ》である|黒 虎静《ヘイ ハゥセィ》は、群を抜いて素晴らしい才能を持つと云われている。 そしてその弟である|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》は兄にこそ|及《およ》ばぬものの、それでも|黒《こく》族のなかでは優秀な分類と噂されていた。 しかしあるときを|境《さかい》に、弟である|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》は反旗を|翻《ひるがえ》したとされる。理由は不明、今どこにいて何をしているのか。それすら謎とされていた──「──|他族《たぞく》の事だから、僕も詳しくは知らない。だけどあの人は|獅夕趙《シシーチャオ》なんていう、二つ名まである」 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は嘘でしょと、大きな目をさらに広げる。「ああ、その二つ名なら私も聞いた事はあるかな。確か、獅子のように|獰猛《どうもう》だけど、場の空気を変える力があるって理由で、そういった名前になったとか何とか」 |全 思風《チュアン スーファン》自身、膝の上に乗せて守る子供以外には興味などなかった。しかし人間の住む世界にいる以上は、嫌でも何かしらの情報が入ってくるというもの。 彼にとって興味の対象外であった。けれど風の噂というものは自然と耳に届く。それがいいか悪いかではなく、印象に残る何かがある。 ──|小猫《シャオマオ》を探している最中、あの男の二つ名を何度か耳にした。兄と|喧嘩《けんか》をして家を飛び出したとかいう話だったな。 それかなぜ、このようなところにいるのか。いったい|黒 虎明《ヘイ ハゥミン》という男に何があったのか…… ──うん。全く、興味ない。 |全 思風《チュアン スーファン》にとって、完全に興味
|京杭《けいこう》大運河の中枢から少し離れたところに、大きく横に広がった場所がある。縦に長く続く河、|両脇《りょうわき》には人の力では到底登れぬ崖があった。 そんな河を陣取るように、二種類の船が横に並んでいる。ひとつは|杭西《こうせい》、もう片方は枸杞(クコ)の村側へと背を向けていた。 |杭西《こうせい》側を陣取る船の先端には、|朱《あか》の鳥が描かれた旗が掲げられている。 枸杞(クコ)を背にする船はひとまわり小さいが、反対側に浮くものよりも数が多かった。先頭をいく一隻には、緑の亀が|刺繍《ししゅう》された旗が立てられている。 そのどちらもが互いを睨み、冷戦状態となっていた。しかし……「──矢を放て!」 誰かの|一声《いっせい》が場に|轟《とどろ》く。瞬間、|朱《あか》き旗を持つ側から、無数の矢が放たれた。 ひとまわりも小さな船に向かって|疾走《しっそう》する矢は高く上がり、勢いをつけて落下。先頭にいた緑の旗を|携《たず》える船が|沈没《ちんぼつ》していった。 されど、緑の旗の者たちも負けてはいない。弓という飛び道具を使用せずに、剣や槍などで弾いていった。 それでも生身の人間であることにかわりない。|懸命《けんめい》に|応戦《おうせん》するが、次々と弓矢に体を|貫《つらぬ》かれてしまった。 |朱《あか》旗側の圧倒的すぎる力、それがこの場を|収《おさ》めていく。これでは緑の旗を|維持《いじ》すること叶わず。誰もが、絶望色に顔を染めていった── |瞬刻《しゅんこく》、|形勢《けいせい》を|有《ゆう》していた|朱《あか》旗の船に|悲劇《ひげき》が|訪《おとず》れる。 突然、彼らの周囲に波が現れたのだ。|朱《あか》旗の船は波に|拐《さら》われ、ひっくり返ってしまう。何|隻《せき》かは無事だったものの、被害は大きい。 先ほどまで|優勢《ゆうせい
枌洋(へきよう)の村、そして蘇錫市(そしゃくし)。そのどちらにも疑問が残るかたちとなった。 ただひとつ。わかっているのは、どちらも白き服の者たちが関わっていたことだった。 ──|小猫《シャオマオ》のいう事は|尤《もっと》もだ。だけど何もわからない以上、考えてもしかたないんだろうね。 よしと、気を取り直して棒を動かした。「それらについては、情報を集める必要があるんだろうね。最終目的地は王都だ。そこに行くまでに、何かしらを得られるかもしれない」 少しばかり跳ねた水を浴びながら、|垂直《すいちょく》に舟を進ませる。 「とりあえずはさ、|杭西《こうせい》へ行こう。そこで情報を得られればいいんだけど……」 「そう、だね。あ、見て! 花売りだよ」 たくさんの舟が行き交うなかで、たくさんの花がふたりの元へとやってきた。舟の上に乗っている花たちは|彩《いろとりど》りで、|牡丹《ぼたん》や|薔薇《バラ》などが積まれている。 舟員は|華 閻李《ホゥア イェンリー》の弾んだ声が耳に入ったようだ。微笑みながら近づいてくる。「おやおや、とっても可愛い子だね。どうだい? お花、買っていくかい?」 花売りは|老婆《ろうば》だった。子供の無邪気な笑顔に気をよくし、いくぶんか割引をしてくれるよう。 |全 思風《チュアン スーファン》が子供にどの花を買うのかと問えば、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は両目をキラキラとさせた。まるで宝石箱でも開けるかのような、期待に満ちた眼差しである。 しばらくすると花売りの老婆が乗った舟は、ふたりから離れていった。 代わりに、彼らの舟は花でいっぱいになっている。 花びら
枸杞(クコ)の村で昼食をすませた後、|爛 春犂《ばく しゅんれい》と一旦別れた。男を見守りながらふたりは|杭西《こうせい》へと向かうため、村の隅にある|京杭《けいこう》大運河へと|訪《おとず》れる。 |京杭《けいこう》大運河の向こう|岸《ぎし》は山になっており、降りれる場所はなかった。 |運河《うんが》自体は深く、大人でも足をつけることが困難なほどである。|汚染《おせん》されていない河は水面が|透明《とうめい》で、泳ぐ魚や底が見えていた。 そんな河には運搬船のみならず、観光客を乗せた船も行き交っている。「ねえ|思《スー》、ここから船で行くの?」 小型で美しい髪を持つ、端麗な少年──|華 閻李《ホゥア イェンリー》──は頭の上に|躑躅《ツツジ》を。両腕で|白虎《びゃっこ》を抱きしめていた。 小首をかしげる様は、その見目も相まって非常に愛らしい。二匹の動物も合わさると、さらに|儚《はかな》く見えて、|全 思風《チュアン スーファン》の中にある|庇護欲《ひごよく》をそそった。「うん、そうなるかな」 抱きしめてしまいたい気持ちをこらえ、肩にかかる三つ編みを|払《はら》う。 木で作られた足場に向かい、小舟を棒で引きよせた。片足を足場に。もう片方を船の上に乗せ、動くのを防ぐ。「あそこに山があるだろ? あの山は、かなり道が細くなっててね。馬車では通れないんだ」 山道は険しいため、馬では進むことが難しい。凸凹道もあり、旅に慣れていない者には|厳《きび》しい道ゆきにしかならなかった。「それに、ほら」 空を指差す。そこには海のように|蒼《あお》い空があった。しかし目を|凝《こ》らしてみれば、何かの集団のようなものが飛んでいる。 |華 閻李《ホゥア イェンリー
|華 閻李《ホゥア イェンリー》が行く先を決めた直後、昼休憩として緑にまみれた村を|訪《おとず》れていた。 村の人口はおよそ数十人で、非常に小さな村である。 建物は|蔦《つた》や|苔《こけ》で|覆《おお》われており、幻想的な雰囲気があった。この村は枸杞(クコ)という名で、|杭西《こうせい》へ向かう途中の休憩所としても使われることが多い。 村を囲むのは緑|溢《あふ》れた山々で、隅には|運河《うんが》が流れていた。それは|京杭《けいこう》大運河であり、どこまでも続いている。 そんなのどかな村の入り口からすぐ近く。小さな飲食店があった。看板はボロボロになっていて名前は読めないが、年期の入った家屋である。 三人はそこへ足を伸ばし、昼食を交えながらこれからについての話し合いを始めた。「──え? 先生、一緒に行かないんですか?」 二段構えの丸い机を囲み、彼らは各々が食べたいものを注文していく。 窓際に|華 閻李《ホゥア イェンリー》が座り、壁側に|全 思風《チュアン スーファン》。そして扉側には|爛 春犂《ばく しゅんれい》が腰を落ち着かせていた。「うむ。私は先代皇帝、|魏 曹丕《ウェイ ソウヒ》様の|命《めい》で動いている。目的は知っての通り、各地で起きている|殭屍《キョンシー》事件の|全貌《ぜんぼう》だ」 机の上にある|烏龍《ウーロン》茶を飲む。ゆっくりと口に入れていき、コトリと音をたてて|茶杯《ちゃはい》が置かれた。 「私は一旦、王都へと戻る。現王である|魏 宇沢《ウェイ ズーヅァ》様の真意を探るためにな」「……わかりました。じゃあ僕たちは、|杭西《こうせい》へ行きます。そこであの兵のお母さんに、真実を伝えようと思います」 「そうしなさい。それがいいのか悪いのかではなく
太陽が真上に差し掛かった頃、|華 閻李《ホゥア イェンリー》は眠りから覚めていた。 うーんと上半身だけを伸ばし、少し体をひねる。「はあ、よく寝た。って、もうお昼……なのかな?」 お腹の虫がぐるぐる鳴った。お世辞にも肉づきがいいとは言えない薄いお腹を|撫《な》でる。 ふと、自身にかけられた布に気づいた。これは誰のだろうかと小首をかしげ、大きな瞳をまん丸にさせる。 そんな子供の細く長い銀の髪は太陽の光を浴び、とても美しい。髪を耳にかける仕草には|儚《はかな》さがあり、|陽《ひ》の光が彼の|見目麗《みめうるわ》しさを引きたてていた。「この服は|思《スー》……じゃ、ないよね?」 見覚えのある服だった。 上は白で下にいくにつれて黄色くなっていく、特徴ある服である。これは|黄族《きぞく》のものだった。「あれ? もしかしてこれ、先生の?」 先生がかけてくれたのだろうか。 周囲を見渡す。しかしそこには|爛 春犂《ばく しゅんれい》はおろか、優しい青年の|全 思風《チュアン スーファン》すら見かけなかった。 唯一いるのは、二匹の獣である。 一匹は白い毛並みに黒の|縦《たて》じま|模様《もよう》が入った、仔猫のような見目をした|白虎《びゃっこ》だ。もう一匹は|躑躅《ツツジ》と名づけた|蝙蝠《こうもり》である。 どちらもかわいらしい姿で、一緒に丸くなって寝ていた。 |華 閻李《ホゥア イェンリー》は、無防備な二匹を軽く|撫《な》でる。「ふふ、どっちも可愛いなあ」 体毛の少ない|蝙蝠《こうもり》は存外ツルツルとしていた。|白虎《びゃっこ》の方は、もふもふとし
現|皇帝《こうてい》である|魏 宇沢《ウェイ ズーヅァ》は、この|友中関《ゆうちゅうかん》で起きた事件に関わっている。 |爛 春犂《ばく しゅんれい》が集めたこの情報は、|全 思風《チュアン スーファン》の瞳に|焔《ほのお》を灯させた。くつくつとした笑みが、静かな|関所《せきしょ》の中を走る。 |淡々《たんたん》と、呼吸すらも知らしめんと、男を見張った。「……逃げた者たちは皆、|怯《おび》えておった。夜も眠れぬ者、飯を喉に通す事すらできない者もいた。そんな彼らに聞き出すのは|憚《はばか》れたが……」 眠る美しい子供、|華 閻李《ホゥア イェンリー》を間に挟み、彼は横に座る。前方にある|薪《たきぎ》を|見据《みす》え、重たい口を開いていった。「彼らは、こう言っていた。゛|殭屍《キョンシー》の群れに|襲《おそ》われた前日、白い服を着た者たちが、この|関所《せきしょ》に訪れた。゛らしい」 その者たちいわく、|友中関《ゆうちゅうかん》に貼られている札は効力を|喪《うしな》っているとのこと。|國《くに》の|命《めい》により、札の全てを貼り変える作業をするとのことだった。 そして彼らは最後にこう告げる。「゛これは|魏 宇沢《ウェイ ズーヅァ》様、お|達《たっ》しの|命《めい》である゛と」 後は知っての通り、この|関所《せききょ》が|殭屍《キョンシー》の群れと化した。 そしてもうひとつ。白い服の者たちは皆、一様に、白い|勾玉《まがたま》を首にかけていたのとこと。 ここまで|一欠片《ひとかけら》も|溢《こぼ》さず伝えた|爛 春犂《ばく しゅんれい》は、ふーと呼吸を整えた。「……なるほどねえ、やっぱここでも絡んでくるんだ。あの白い連中は。|小猫《シャオマオ》に、どうや