里香は静かに言った。「夏実が罰を受ける姿を、自分の目で見届けたいの」その言葉を聞いた聡は、それ以上何も言わなかった。二人は家を出て、再びNo.9公館に戻ったが、車の中で様子を伺っていた。しばらくして、里香は雅之に電話をかけた。「今、着いたわ」「わかった。迎えを行かせる」低くて落ち着いた雅之の声が、電話越しに聞こえた。里香は返事をせず、そのまま電話を切った。5分ほど経つと、一人の男が車の窓を軽くノックしてきた。「小松さんでいらっしゃいますか?」「そうです」里香は短く答えた。「お待ちしておりました。こちらへどうぞ。社長がお待ちです」促されて車を降りると、里香はその男に案内されながら歩き出した。車内に残った聡は里香に声をかけた。「私はここで待ってるよ。一人で行ってきて」里香は軽く頷く。「先に帰っていいわ。ここからは私がやるから」「じゃあ、明日はゆっくり休めよ。家でぐっすり寝て、何も気にしないでね。これで全部終わったんだから」「うん、わかった」里香は微笑んで答えた。そのまま案内人に従い、里香はエレベーターで客室エリアに向かった。エレベーターを降り、案内された部屋の扉が開くと、雅之がソファに座っているのが見えた。向かいには夏実が座っており、彼に何かを熱心に話しているところだった。突然、扉の開く音に気づいた夏実が振り返ると、里香の姿が目に入った。彼女の表情は一瞬で険しくなった。「どうしてあんたがここにいるのよ?」少し前、夏実は友人の蘭たちとゲームを楽しんでいたが、雅之のボディーガードが突然現れ、雅之が会いたがっていると告げられた。その瞬間、夏実の胸は期待で高鳴り、急いで蘭に別れを告げてここへ来たのだ。部屋に入ると、雅之が静かにソファに腰掛けているのを見て、夏実の手のひらにはじんわりと汗が滲んでいた。雅之がなぜ急に自分に会いたいと思ったのだろう?もしかしたら、いよいよ結婚の話でも切り出してくれるのかしら?そんな期待を胸に、彼女は雅之の斜め前に座り、彼の次の言葉を待ち続けていた。だが、雅之は一度も彼女に目を向けず、言葉すら発しなかった。どういうことなの?疑念と不安が夏実の心に浮かび上がる中、そこに現れたのが里香だった。彼女の姿を見た瞬間、夏実の顔は一気に険しくなり、心の中で毒づいた
「急ぐな、すぐにわかるよ」雅之は低くて魅力的な声で冷たく言った。夏実は胸に抱いた不安がさらに強まるのを感じた。突然立ち上がり、急いで言った。「二人とも用事があるなら、私は先に行くわ」彼女は足早に出口に向かおうとしたが、タイミング悪く、ボディガードに連れられた五、六人の男たちと鉢合わせしてしまった。その男たちは誰もがみすぼらしく、不潔そうで、体には正体不明の疣がついていた。見るからに嫌悪感を催す。ボディガードが彼女を止めた。「夏実さん、まだ用事は済んでいません。お帰りいただくことはできません」夏実はその男たちを見て顔色が変わった。「あなたたち、何をするつもりなの?」ボディガードは答えることなく、逆に彼女を力ずくで部屋へ押し込み、ドアを閉めた。夏実はよろけた。片足が義足の彼女はうまく踏ん張ることもできず、そのまま地面に倒れ込んだ。彼女は振り返って雅之を見た。不安の色を濃くして問いかけた。「雅之、これはどういうこと?一体何がしたいの?」全員が揃ったのを確認すると、雅之はひと振り手をあげた。そしてボディガードが小瓶を取り出し、夏実の顎を掴むと、無理矢理その液体を飲ませた。「んぐっ!」夏実は必死に抵抗したが、相手は屈強なボディガードだ。太刀打ちできるはずもなかった。瓶の中身は半分ほど彼女の喉を通り、残りは顎から流れ落ちた。彼女の顔は恐怖に満ちていて、雅之を睨みつけた。「これ、何なの?私に何を飲ませたの?雅之、一体何をするつもりなの?」雅之は冷たい眼差しを向けて言った。「まだとぼけるつもりか?」ゆっくりと身を起こし、夏実のそばに立つと、彼女のこのみじめな姿を冷たく見下した。「何度も里香を陥れようとしたくせに、今さらよくそんな質問ができるとはな」「私……」夏実は息を呑んだ。雅之は里香のために復讐するつもりなのか?極限まで恐怖を感じた夏実は、雅之のズボンの裾を掴み、必死に哀願した。「雅之、私が悪かった、間違ってたわ!それを認めるわ。もう二度としない!お願い、どうか私を許して!誓うわ、もう二度とあなたたちの前に姿を現さないから!」彼女は何とか許しを得ようと懸命に懇願したが、その時、自分の体に異変が現れ始めた。それは身体の奥深くから湧き上がる痒みだった。先ほど飲まされた液体のせいかと悟った。「雅之、
「嫌よ!嫌!雅之、あなたなんて大嫌い!許さない!」夏実の絶叫が部屋中に響き渡った。その声には、彼女の深い絶望がありありと表れていた。里香は雅之を見やった。彼は表情を崩さず、細めた目でじっと里香を見返している。そんな彼を見て、里香はふっと笑った。「一応、あなたを救うために片足を失った恩人よね。それでも今の彼女を見て、何とも思わないわけ?」雅之の端正な顔に冷笑が浮かんだ。「今日の結果は、彼女自身で招いたことだろう」彼はまるで念を押すように、里香の顔をじっと見据えながら続けた。「最初から彼女には興味なかった。僕が気になってたのは、ずっとお前だけだよ、里香」里香は視線をそらし、歩き出しながらさらりと言った。「じゃあ、なんで二年前に彼女と結婚しようとしたの?」雅之はポケットからタバコを取り出し、火をつけると、ゆっくりと煙を吐き出した。細めた目で前を見つめながら、低い声で答えた。「二年前、結婚なんて考えたこともなかった」里香の足が一瞬止まる。結婚する気がなかったのに、なぜ夏実が婚約者になったのか?けれど、里香はそれ以上問い詰めようとはしなかった。その理由に興味もなければ、知る必要もないと思ったのだ。雅之は里香の後を追いながら、無表情な横顔を見つめ問いかけた。「これで満足したか?」里香は振り返りもせず、「他に良い方法でもあるの?」と冷たく返した。雅之は微かに笑い、静かに言った。「彼女が欲しがってたものを全部奪うって言っただろう?これはまだ前菜にすぎない」里香はわずかに眉を上げた。「後は僕に任せろ。必ずお前を満足させてやる」「楽しみにしてるわ」そう言い残して、里香はエレベーターに乗り込むと、そのまま立ち去った。雅之は追いかけず、代わりに側近に冷静に指示を出した。「写真と動画を浅野家に送れ。そして、夏実を家から追い出さなければ、これらを公にする、と伝えろ」「承知しました」側近がその場を去ると、雅之もエレベーターのボタンを押し、静かに消えていった。指示はこの一言で十分だった。今一番大事なのは、里香の気持ちを落ち着かせることだった。きっと彼女は怖かったに違いない。夜、浅野家全員のもとに、夏実の不名誉な写真と動画が届けられた。そして雅之からの「警告」を聞かされた彼らの表情は、一様に険しいものへと変わった。「
奥様の言葉に、隆の顔が少し和らぎ、「まず人を送って夏実を迎えさせろ」と短く命じた。「分かりました」雅美は一瞬、目の奥に微笑みを浮かべると、すぐ立ち上がってその場を後にした。遙も雅美の後について立ち上がり、二人は別荘を出た。暗闇の中、雅美は遙の手を握り、顔には安堵の表情を浮かべて、「よくやったわね、遙。やっとあの厄介者を排除できたわ」と言った。遙は小さく笑いながら、「あの人が自分で招いた結果よ。私には関係ないわ」と答える。雅美は満足げに頷きながら尋ねた。「でも、あなたがしたことがバレたりしないでしょうね?」遙は自信たっぷりに首を振った。「心配しないで、お母さん。絶対バレるはずがないわ。当事者全員を海外に逃がしてるんだから、足がつくわけないでしょ」雅美はその言葉にさらに満足し、「よくやったわね。これからは里香ともっと親しくしておきなさい。雅之はあの女をとても気に入ってるみたいだし、彼女とうまくやれば私たちにとってもプラスになるわ」と助言した。遙は静かに頷き、「分かってるわ」と答えた。里香がエレベーターに乗った直後、後ろから足音が近づいてきた。振り返ると、雅之が中に入ってきた。驚いた里香の目が一瞬止まった。まさか彼がここに……?「何を考えてる?」雅之はボタンを押しながら、彼女をちらりと見て聞いた。里香は平静を装い、「これからのことを整理しないといけないでしょ」と答えた。雅之は里香をじっと見つめ、「そんなのどうでもいい。お前より大事なことなんてない」と断言した。その言葉に、里香の眉間が僅かに寄り、冷たい表情が浮かんだ。「もう手配は済んでる。明日には、夏実が浅野家から追い出されるニュースを見ることになるだろう」雅之の淡々とした声を聞きながら、里香は一瞬視線を落とす。心の奥に複雑な感情が渦巻くのを感じた。エレベーターが静かに上昇する中、緊張感のある沈黙が漂っている。雅之はポケットに手を突っ込み、真剣な目で彼女を見ながら低く尋ねた。「里香、不満があるなら言え。お前が満足するまで、俺が全部叶えてやる」里香は顔を上げ、その言葉に静かに答えた。「私が一番欲しいもの、あなたは分かってるでしょ」その言葉に、雅之の目が僅かに冷たくなった。「それ以外のものを望んでくれ」言葉を失った里香は黙り込んだ。結局、雅之は
里香は必死にもがいたが、雅之の腕は鋼のように固く、まったく逃れる隙を与えなかった。「離してよ、雅之!お願いだから!」声は掠れ、目には涙が滲み、彼女の体は震え続けていた。しかし雅之はさらに腕に力を込め、低い声で囁いた。「無理だ、里香。どんなことがあっても、もうお前を離す気はない。お前が僕を受け入れるまで、こうしてずっと抱きしめている」彼の熱い吐息が首筋にかかるたびに、里香の目から涙が溢れ、視界がぼやけていく。あの懐かしい香りが、胸の奥深くに染み込む。それはかつて何よりも安心感を与えてくれた匂いで、忘れられるはずがなかった。再び彼の腕の中にいると、胸にあった恐怖心が少しずつ薄れていくのを感じてしまう。それが余計に悔しかった。こんなにひどい目に遭ったのに、どうしてまだ彼を求めてしまうのか、自分自身が信じられなかった。ようやく感情が静まりかけた頃、里香はそっと目を閉じ、かすれた声で呟いた。「もういいから、離して……」雅之は少しだけ距離を取ったが、すぐに完全には放さず、じっと彼女の顔を見つめた。彼女が落ち着いたのを確認すると、ようやく腕の力を緩めた。「お前を一人にするなんて無理だ。僕の部屋で休むか、僕がお前の家に行くか、どっちかにしてくれ」雅之は低く静かな声で言った。その言葉に里香は苛立ち、鋭い目で彼を睨みつけた。「いい加減にしてよ!」だが、雅之は眉をひそめるどころか、余裕の笑みを浮かべた。「何がだ?別に変なことをしようってわけじゃない。それに、僕たちは夫婦なんだから、何かあったって当然だろう?」「私たちはもう離婚してるの」里香は冷たく言い放った。その言葉に雅之の瞳が一瞬鋭さを増した。「一度夫婦になったら、一生夫婦だ」なんて理不尽で勝手な人なの。こちらの話なんて全然聞かないし、すべて自分の理屈で押し通してくる。これ以上話しても無駄だと感じた里香は、振り返ってエレベーターのボタンを押した。そして冷たい声で言い放った。「ついてこないで。私は一人で大丈夫だから」「だから言ってるだろう。心配なんだよ」エレベーターのドアが開き、里香が中に入ると、雅之はドアに手を突っ込み、彼女をじっと見据えて言った。「何も言わないってことは、僕に来てほしいってことだな?」里香は何も言わなかったが、その表情は明らかに拒絶を示してい
雅之は彼女の一連の動きを見つめ、その端正な顔にいくらか困惑の色を浮かべた。客室には入らずに直接リビングのソファに腰掛け、タバコを取り出して火をつけた。静かなリビングに、ライターの「カチッ」という音がひときわ響いた。ちょうどその時、彼の須天穂が鳴り出した。取り出して画面を見ると、ボディーガードからの電話だった。「雅之様、夏実さんはすでに浅野家の人に連れ戻されました」「わかった」雅之は淡々と返事をし、そのことに特に気を留める様子はなかった。今の彼の頭の中は、どうやって里香に許してもらい、受け入れてもらうかでいっぱいだった。翌日、夏実が浅野家から追い出されたというニュースは話題になっていた。里香はベッドに横になりながら、そのニュースの内容を無表情で眺めていた。起き上がって身支度を整え、寝室のドアを開けた途端、雅之がエプロンを締めて厨房から出てくるところを目にした。手に持った皿をダイニングテーブルに置くと、彼は言った。「起きたのか?ちょうどいい、朝ごはんを食べよう」里香は近づいて彼が作った朝食を一瞥した。簡単な卵のせラーメンといくつかの小皿料理だった。特に遠慮することなく、里香は席に着き、黙々と食べ始めた。その様子に雅之は眉を上げて尋ねた。「味はどうだ?」「普通ね」里香は短く答えた。雅之は気を悪くすることなく、「味が普通でも食べたってことは、悪くはないってことだな」里香:「……」まったくもって自分を慰めるのが上手ね。半分ほど食べ終えると、里香は箸を置いて立ち上がり、仕事に向かおうとした。だが雅之はこう言った。「お前の上司は、今日一日休むようにって言ってただろ?」「そんな必要ない」里香はそうメ冷静に言い返した。その表情には昨晩の取り乱した様子は微塵も残っていなかった。彼女は感情をあまりに強く抑え込んでいた。雅之は彼女の行く手を塞ぎ、言った。「今日は必ず休め。お前の上司には僕から連絡済みだ。今日のお前は僕のものだ」「何言ってるの?私の時間をどうしてあなたが勝手に決めるの?」「僕の厚かましい人間だから」途端に里香は何も言えなくなった。こんなに図々しい人、見たこともない!二人は玄関で対峙したまま動くことなく、里香は靴を脱ぎ捨ててソファにどかっと腰を下ろして言った。「仕事に行かなくても、あ
里香の瞳からふっと光が消えたのを見た瞬間、雅之の表情が一気に険しくなった。そんなに自分と一緒にいるのが辛いのか?二人の間には、冷たい空気がさらに凝り固まるように広がっていく。「何ボサッとしてるんだ。着いてこい」雅之は低い声でそう言い捨てると、振り返りもせずにドアを開けた。里香は無言で彼の後ろに従った。行き先も、何をするのかも、まったく考えられなかった。天気は悪くなく、窓を開けると涼しい秋風が吹き込んできた。その風が、心にまとわりついていた不安をほんの少しだけ和らげてくれる気がした。しばらくして車が山の麓に停まると、里香は目を丸くして雅之を見た。「ここで何するつもり?」車を降りて見上げた先には、黄金色に染まった山が広がっている。その景色に少し当惑した表情を浮かべながら、里香は再び尋ねた。雅之はちらりと冷たい視線を向け、「気にしないんじゃなかったのか?」とだけ言った。里香は口を閉ざし、それ以上何も言わなかった。代わりに雅之は少し声を和らげ、「登るぞ」とだけ言った。「登るって……山登り?」秋の山をぼんやり見つめながら、里香は自分が聞き間違えたのではないかと思った。この時間に山登りなんて……?雅之はすでに階段を登り始めていたが、里香が動かないのを見て、振り返りながら「どうした、登りたくないのか?」と声をかけた。一瞬何か言おうとしたものの、結局里香は口を閉じた。何を言ったって無駄だ、と分かっていたからだ。仕方なく、雅之の後ろをついて階段をゆっくりと登り始めた。そのうちに、心の中のもやもやは少しずつ薄れていくようだった。しかし、運動不足のせいで、すぐに息が切れ始める。10段ほど先を歩いていた雅之が振り返り、ふっと笑いながら言った。「やっぱり、お前の体力じゃ無理か」「頭おかしいんじゃないの?」息を切らせながら、里香は睨むように言った。「何でこんなところに連れてきたの?」「じゃあ山登り以外に何する?仕事に行くか、それとも一日中家で寝てるか?せっかく時間があるなら、もう少し意味のあることをしようぜ」その言葉に、里香は冷たい目で彼を見返しながら、「登山が意味のあることだなんて思えない」と返した。雅之は遠くを見つめながら静かに言葉を続けた。「お前は足元の道ばっかり見てる。でも、沿道の景色をちゃんと
雅之は、凛々しい眉をわずかに上げた。里香が追いかけてきたことが意外だったようだ。彼の足取りは穏やかで、里香の息切れや顔の赤らみとは対照的に、呼吸も落ち着いている。普段から鍛えている成果が現れているのか、山登りなど朝飯前といった様子だった。里香は彼の視線を無視し、ただ前を向いて歩き続けた。時々周りの景色に目をやりながら、どんどん高い場所へと登っていく。登れば登るほど、見える景色が変わり、彼女はスマホを取り出して美しい風景を撮影し、かおるに送った。【山登り、案外いいかも。今度一緒にどう?】すると、すぐにかおるから電話がかかってきた。驚いたような声で話し始めた。「ちょっと、太陽が西から昇ったの?里香ちゃんが山登り?いつもアウトドア嫌いだったじゃない!」「前は興味なかったけど、今はわかったの。これからはもっと外に出るつもり」「いい心がけじゃない!里香ちゃん、仕事か面倒事ばっかり抱えてたら、どんな鋼のメンタルでも壊れちゃうよ」里香はその言葉に思わず笑い、少しリラックスした様子で尋ねた。「夜、うちに来ない?ご飯作るよ」「行く行く!」実は里香、かおるが来たら月宮の婚約の話をしようと思っていた。この話題は軽視できない。そんな里香の後ろから、ずっと付いてきていた雅之が、不意に口を開いた。「お前、かおるを招待するのに、僕は呼ばないのか?」電話越しにその声を聞いたかおるは、即座に反応した。「え、ちょっと待って。あのクズ男と一緒なの?しかも二人で山登り?」「無理やり連れてこられたの」「あまりにもシュールで、何も言えないわ」「気にしないで。彼の存在なんてなかったことにすればいい」「だね。それしかないかも」里香はふと足を止め、周囲に目をやった。すると、目の前に広がった真っ赤な紅葉の森に心を奪われた。「ねえ、今すごくいい景色見つけたよ!写真送るね」「うん、待ってる」電話を切ると、里香はすぐに写真を撮り、かおるに送信した。一方で、雅之は相変わらず落ち着いた表情で里香を見つめていた。「お前、良心ってものがないのか?僕が連れてきてやったのに、飯作るなら僕も呼べよ」里香の頬が赤みを帯びた。冷たい表情を作っているが、その可愛らしさからして全く怖くない。「来たくなかったんだけど」「でも登ったよな?」
里香は仕方なさそうにかおるを見つめ、「私、まだちゃんと生きていたいの」とぽつりと言った。かおるはソファにへたり込みながら、苦笑いを浮かべて答えた。「でもさ、どうしたらいいの?抜け出したくてもできないし、かといって受け入れるのも無理……」まさにジレンマだ。里香は深呼吸して気持ちを落ち着けると、寝室に向かって歩きながら言った。「今は様子を見るしかないよ。でも、少なくとも、私の大事な人たちが彼に傷つけられるのだけは絶対に防ぐ」星野が自分にどんな気持ちを抱いていようが、それは星野自身の問題。里香がどうにかできることではない。でも、自分の行動なら制御できる。星野とは距離を保つ――里香はそう心に決めていた。シャワーを浴びた後、里香の心はすっかり落ち着いていた。一日がダメなら二日、それでもダメなら一ヶ月。雅之がどれだけ頑なで冷徹だろうと、里香は彼を説得し続けるつもりだった。彼が星野への嫌がらせを諦めるまで。その後の数日間、里香は毎朝雅之のために朝食を作り、彼の家のドアの前で待ち続けた。でも、いくら待っても彼が出てくることはなかった。三日目、里香は雅之がここ数日家に戻っていないことを知った。手に持った弁当箱を見つめながら、彼女は複雑な表情を浮かべた。あの人らしいやり方だよね。雅之なら、姿を消すのは簡単だ。彼女に一目も会わせず、知られない場所に引っ越してしまえば済むだけの話だ。里香はため息をつき、振り返ってエレベーターに乗り込んだ。その間、雅之の家のドア横に設置された監視カメラの赤いランプが、静かに点滅していた。DKグループ社長室。雅之はスマホの画面をじっと見つめていた。そこには、肩を落としながら去っていく里香の姿が映っていた。彼の暗い瞳には、何とも言えない複雑な感情が浮かんでいる。この数日間、里香が毎日訪れるのを、彼はずっと裏から見ていたのだ。奇妙な感覚だった。今まで追いかけていたのは自分の方だったのに、今は逆転してしまった。たとえ、それが自分が仕組んだ結果だったとしても。結果が自分の望んでいたものなら、それで充分だった。そこへ桜井が入ってきた。「社長、小松さんの護衛について調査が終わりました。どうやら喜多野祐介が彼女を守るために派遣したようです」雅之は薄く笑いながら、「たかが二人の役立たずだろ」と呟い
里香は胸の中に怒りを溜め込んだまま、心の中で「ほんとに気分屋だよね」とため息をついた。でも、まだやらなきゃいけないことがある。このまま諦めるわけにはいかなかった。特に、今日星野の母親と話したことで、罪悪感と責任感が一層強くなった。もし自分がいなければ、おばさんがこんな目に遭うこともなかったのに……里香はゆっくり息を吐いて、気持ちを落ち着かせようとした。そして、軽く笑いながら言った。「ねぇ、なんで私と話したくないの?そんなに私の声聞きたくない?……だったら、声をかわいく変えてみようか?」雅之は無言のまま、眉がピクリと動いた。やっぱりかおると里香をこれ以上接触させてはいけないと確信した。既に悪影響を受け始めているじゃないか!次の瞬間、雅之が里香の腕を掴んでぐっと引き寄せ、勢いよくドアを閉めた。そしてそのまま、彼女をドアに押し付ける。「ちょっと、何するのよ!」里香が驚いて声を上げた。彼の行動に、一瞬どう反応すればいいのか分からなくなった。雅之は冷たい視線を向けながら低く言った。「いいよ。お前が言った通り、声を変えるところ、見せてみろよ」「わ、私……」里香は一瞬言葉を詰まらせた。雅之の目が鋭く、どこか危険な光を帯びていて、なんだか怖くて言葉にならなかった。その視線に触れた瞬間、何も言えなくなった。「どうした?変えないのか?さっきはずいぶん威勢が良かったんじゃないか?」雅之は冷笑を浮かべながら、挑発するように彼女を見下ろした。里香は大きくため息をつき、「ねぇ、なんで子どもみたいに意地張るの?他人に意地悪して、自分勝手に振る舞って……そんなことしてて疲れない?」と言った。雅之は彼女の顎を掴み、その厳しくも麗しい顔には危険な色が浮かびながら、低く囁くように言った。「里香、今日お前が何をしてきたか、心当たりはあるだろ」その言葉に、里香は眉をひそめた。「まさか……私を尾行してたの?」雅之の顔はさらに冷たくなり、里香は彼の手を振り払ってきっぱりと言った。「星野くんの家族には手を出さないで。彼を敵にするのは勝手だけど、彼のお母さんは関係ないでしょ。私のせいで巻き込まれたのに、それでも会いに行くのがいけないって言うの?私、あんたと違って、そんな冷酷にはなれないのよ」里香のまっすぐな瞳に映る強い意志を見て、雅之は鼻で
里香はその言葉に慌てて手を振り、「いえいえ、大丈夫です、おばさん!私はお見舞いに来ただけですから、お礼なんて本当にいりませんよ」と笑顔で答えた。それを聞いて、星野が少し気まずそうに言った。「あの……ちょっと用事があるので出かけますけど、お二人でゆっくり話しててください」星野の母は少し驚いた顔をしたあと、困ったように笑って首を振った。「この子ったら……まぁ、仕方ないわね」里香はそのままベッドのそばに座り、星野の母と話し始めた。話が進むうちに、彼女は星野のこれまでのことをいろいろ知ることになった。星野の母は久しぶりに誰かとじっくり話す機会だったのか、話し始めると止まらなくなり、昔の思い出や星野の幼い頃のエピソードを次々と語り出した。ちょうど星野が戻ってきたとき、母親が彼の子どもの頃の失敗談を楽しそうに話しているところだった。「母さん!」星野が慌てて声を上げる。「ちょっと外に出ただけなのに、なんで僕の秘密を全部ばらしてるのさ!」星野の母はケラケラと笑いながら、「誰だって小さい頃には可愛い失敗をするものよ。そんなの気にしなくていいの!」と平然と言った。星野は渋い顔で、無言で肩を落とした。その様子を見て、里香は微笑みながら言った。「用事はちゃんと片付いた?」星野は気を取り直してうなずいた。「ええ、なんとか」里香は立ち上がり、星野の母に向かって言った。「おばさん、もう遅いので今日はこれで失礼しますね。どうかゆっくり休んでください。また近いうちに伺います」星野の母は少し寂しそうな顔をしながらも、優しく微笑んで言った。「そうね。信ちゃん、里香さんをちゃんと送っていきなさいよ。帰り道、気をつけてね」里香もうなずいて、「はい、おばさん。またお会いしましょう」と笑顔を見せた。「またね」---病院を出てから、星野は少し照れくさそうに言った。「小松さん、本当にありがとうございました。お母さんがあんなに嬉しそうな顔をしているの、久しぶりに見ました」里香は軽く首を振って答えた。「そんなに気にしないで。ただ少しおしゃべりしただけよ。時間があるときにもっとお母さんを大事にしてあげてね」星野は真剣な表情でうなずいた。「分かりました。これからちゃんとそうします」里香は車に乗り込みながら、「それじゃあ、私はこれで。もう帰りなさいね
「友達?」雅之はまるで変な冗談でも聞いたかのように鼻で笑って言った。「かおるが命懸けでお前らをくっつけようとしてたんだぞ?膝をついて結婚証明書取りに行けって頼みそうな勢いで。それで『友達』って?」里香は口元を引きつらせながら言い返した。「あの子はただの妄想好きなだけよ。友達かどうかを決めるのは私なんだから」雅之は肩をすくめて冷たく言った。「じゃあ教えてやれよ。無責任に楽しむなって。それが自分を傷つけるだけだってな」里香はまた口元を引きつらせた。かおるが雅之を嫌ってるのは分かりきってるし、妄想というよりは、ただ雅之から大事な友達を遠ざけたいだけなのに……「だから、お願いだから星野くんに八つ当たりするのはやめてくれる?」そう言うと、雅之は一瞬表情を曇らせて「善処する」とだけ返した。ちょうどエレベーターのドアが開き、雅之は何事もなかったかのようにさっさと出て行った。その返事は、やっぱりどっちつかずだ。うまくいかないな……里香はため息をついた。仕事場に着くと、星野がどこか疲れた顔をしているのが目に入った。昨夜ちゃんと休めなかったのだろう。それでも、顔についた青あざは少し治まっていて、あの薬膏が効いたようだ。里香は星野に近づき、声をかけた。「お母さんの具合、落ち着いた?」星野は軽く頷きながら答えた。「うん、なんとかね。でも、急に退院して転院したせいで、持病がまた出ちゃって……」里香は眉をひそめた。「大変だったのね……酷いの?」星野は苦笑いを浮かべながら首を横に振った。「ずっと昔からの病気だから、ちょっとしたことでもぶり返すと辛いんです」里香は胸に軽い罪悪感を覚えた。星野のお母さんを巻き込んでしまったのは自分のせいだ。「後でお見舞いに行くね」少し考えた後、里香はそう提案した。星野は驚いたような顔をしながらも、嬉しそうに目を輝かせた。「いいんですか?迷惑じゃないですか?」里香は笑顔を見せて答えた。「何言ってるの。友達なんだから、見舞いくらい当然でしょ?」「母さんも小松さんに会いたがってたんですよ。直接お礼を言いたいって」「お礼なんていいよ。今は何よりも体を治すことが大事。それが一番だよ」星野は頷いて、「うん、そのように伝えておきます」と答えた。その日の仕事終わり、里香は果物やお菓子、そ
里香の体がピクリと硬直した。なんとか抵抗しようとするものの、最終的には堪えきった。雅之が結局求めているのはこれだけ。今までのやり取りなんて、ただの前フリに過ぎなかった。里香はそう悟りながら、心の準備をしていた。そろそろ次の行動に移るだろうとそう思い込んでいたその時、雅之は何もせず、ただ彼女を抱きしめたまま動かなかった。里香の体は依然として硬直したままで、唇を一文字に固く結んでいた。雅之はその緊張感を感じ取った。リビングには二人の吐息が入り混じる音だけが微かに響いていた。やがて雅之はふっと彼女から身を引き、低くて冷たい声で言った。「じゃあな」突然の言葉に里香は一瞬呆然とし、驚いた表情で彼を見つめた。それを見た雅之は眉をひそめて言い放った。「なんだその顔?がっかりでもしたのか?」里香はサッと立ち上がり、「もう遅いから帰るわ」とだけ言い残し、その場を後にした。雅之は彼女が去っていく背中をじっと見つめ、ドアが閉まるまでその場から動かなかった。一本のタバコを取り出し、火をつけた。青白い煙が彼の顔を包み、漆黒の瞳を覆い隠していく。里香から見れば、雅之が自分にしつこく迫るのは結局体目当て――そう映っているのだろう。実際、雅之自身もそのように彼女に話していたし、それを否定するつもりはなかった。だが、今日はふと気づいてしまった。そういう行為をしなくても、ただ彼女と一緒にいるだけで、例えばどうでもいい昼ドラを一緒に見ているだけで、心の奥に満たされるような感覚が広がっていくことに。その感覚は、自分が記憶を失ったときに感じたものと似ていた。タバコを深く吸い込んだ雅之は、乱れそうになる思考を必死で抑えつけながら考えた。ただ一緒にいるのが好きなら、それこそ彼女が俺から離れられなくなるようにすればいいのだ、と。一方で、帰宅した里香の中には、どこか現実味を欠いた感覚が残っていた。雅之がこんなにもあっさり自分を解放するなんて、これまでには一度もなかったことだ。一体どういうつもりなの……?里香の心中は複雑だった。結局、無駄に時間を過ごしたあげく、星野の話には一言も触れず、彼も星野には手を出さないとは約束してくれなかった。ため息をついた里香はシャワーを浴びながら、もやもやした気持ちを流そうとした。翌朝、雅
「あんたね!」里香の目に怒りが一瞬浮かび上がったが、その怒りはすぐに消えていった。たしかに、自分がお願いしに来たのだから。たとえ、相手が最低な男だとしても。彼は大きな力を持っているし、好き勝手ができるのも当たり前だ。里香は姿勢を柔らかく改め、こう言った。「お願いだから、もう他の人を巻き込まないで。いいでしょう?」その口調は柔らかく、まるで穏やかな水が心の奥底を優しく流れるようで、暖かく心地よい響きだった。かつて、里香もこのように彼に話しかけていた。でも今は、もう長いこと彼にこうして話しかけることはなかったのだ。雅之は彼女の顎を掴む手の力を少し強め、ふいにいくらか距離を縮めた。雅之が近づくと、里香の睫毛が二度、かすかに震えた。しかし、里香は逃げなかった。またいつものようにやりたいことをしようとしているのだろうと思ったが、予想外にも、雅之はすぐに手を離し、冷たくこう言った。「夕飯を作ってくれ」彼女は心の中でほっと息をつき、「わかった」と頷いた。ご飯を作るだけなら、彼女にとって難しいことではない。里香はそのままキッチンに入り、手近な材料で手際よく作り始めた。雅之はキッチンの入口に立ったままじっと彼女を見つめていた。その瞳は次第に深い闇を宿すように変わっていく。里香が料理を作る間、雅之はずっとその姿を見つめ続けていた。四品のおかずとスープがテーブルに並ぶと、里香は彼を見て「これで足りる?」と尋ねた。雅之が席に座り、その料理を見つめた。どれも彼の好物だったに気付くと、その目が一瞬揺れ動いた。これは彼女の意図的な選択なのか、それとも無意識のうちのものなのか?「座れ。俺と一緒に食べるんだ」雅之は冷たく言い放った。里香はすぐに「いいよ」と応じ、小さな一口一口を慎重に食べ始めた。ダイニングは一時的な静寂に包まれた。しばらくして――雅之が箸を置くと、里香は顔を上げ、彼が言い出す言葉を待っている。だが、雅之は何も言わず、そのまま書斎へと向かい去っていった。里香は胸の内で息をついて、テーブルとキッチンを片付け、そしてお茶を用意してから書斎へ向かった。雅之がビデオ会議の最中だったため、里香は静かに茶碗を置いてそのまま何も言わずに部屋を出た。雅之は一度彼女をちらりと見る。その瞳には暗い影が宿って
祐介が彼女を見つめて尋ねた。「これは偶然だと思う?」里香は目を伏せ、表情には複雑な色が浮かんでいた。「誰がやったのか、だいたい見当がつく」星野に会ったとき、すでに彼から話を聞いた。冬木の大病院はどこも彼の母親の入院治療を拒否していると。どれだけ懇願しても無駄だった、と。冬木でこれを実行できる人間は多いが、こんなことをする可能性がある人物は一人しかいない。だからこそ、祐介に電話をかけたのだ。喜多野家の病院に入院するなら、二宮家は干渉できない。祐介がいる限り、星野の母親が再び追い出されることもないだろう。里香は祐介の迅速な助けに深く感謝したが、一方で内心はますます悲しみに満ちていた。雅之がなぜ人をそこまで追い詰める必要があるのか、理解できなかった。彼には心がないのだろうか?祐介は里香をじっと見つめて言った。「彼とこれ以上関わり続ければ、将来狙われる人間はもっと増えるだろう」里香は何も答えず、心の中に一抹の寂しさがよぎった。祐介は車のドアを開けた。「とりあえず乗って、彼のお母さんはここで安心して大丈夫だよ」里香は深々と息を吐き出した。「祐介兄ちゃん、ありがとう」祐介には何度も助けられていて、どう返せばいいのか分からなかった。祐介は口元に微笑みを浮かべた。「感謝なんて言わなくていいよ。もし本当に計算するなら、僕らの間では一言や二言の『ありがとう』ではとても相殺できないし」里香は苦笑した。「確かに、私はあなたに多くを借りすぎている」祐介の瞳は奥深く静かだった。「友達同士とは、そういうものじゃないかな?だからそんなに気にしなくていいよ」しかし、友達同士でも、借りるばかりではいけない……里香は黙って頷き、これ以上は何も言わなかった。カエデビルに戻ると、里香は家に帰ることなく、雅之の家の玄関に立ち、インターホンを押した。しばらくして、扉が開き、雅之が冷ややかな視線で彼女を見下ろした。「何か用か?」里香は冷たい目で彼を睨みつけた。「なぜ星野くんを狙うの?」雅之は鼻で笑った。「あんな奴を?俺が狙うか?」里香の顔色がさらに険しくなった。「なら、なぜ彼に手を出し、彼の家族にも害を加えたの?雅之、不満があるなら私にぶつければいい。他の人々を巻き込む意味がどこにあるの?」雅之は彼女を上から見下ろしな
雅之は資料の一部に目を通し、すぐに言った。「伝えておけ、あの男の母親を受け入れる病院は、二宮家を敵に回すことになる、と」「かしこまりました!」桜井が頭を下げ、その場を後にした。雅之は再びスマホを手に取り、目を引くその写真を見つめる。黒い瞳に冷たい光と軽蔑の色がよぎった。午後、星野は介護士からの電話を受けた。「もしもし、星野さん、大変ですよ。お母さんが病院から追い出されちゃいました。医療費が長い間滞納されてるって、病院がもう面倒見きれないって……」その言葉に、星野は勢いよく立ち上がった。「今、どこにいるんですか?」「病院の入口にいます。お母さん、もう倒れちゃって、でも誰も手当てしてくれないんです。星野さん、どうしましょう!」星野は完全に取り乱し、すぐに仕事場を飛び出した。外に出たところでちょうど里香とぶつかる。里香は二歩後ずさりして、「どうしたの?」と尋ねた。「すみません、家のことで問題が起きたので、急いで帰らないといけません」星野の顔には焦りの色が濃く浮かんでいる。里香は言った。「手伝えることがあるなら言って」「いや、大丈夫です」星野は即座に断り、その場を急ぎ去った。里香は地面に散らばった書類を拾い上げ、自分のデスクに戻ると、星野の顔に残っていた痕跡が気になり、唇をかみしめた。一体どうして雅之は彼にそこまで敵対するのか、全く理解できない。里香は軽くため息をつき、再び仕事に集中した。夕方、退勤時間になると、かおるから電話がかかってきた。「もしもし?」里香が電話を取ると、興味津々なかおるの声が響いた。「どういうこと?今日はご飯行く約束だったのに、こんな時間まで音沙汰なしとか、まさかもう二人で食べちゃったとか?」里香はエレベーターを出ながら答えた。「星野くんの家で急用ができたみたいで、いったんキャンセルになった」「え?」かおるは不思議そうに声を上げた。「何があったの?そんなに大変なことなの?」「詳しくは知らないけど、彼の様子を見る限り、かなり深刻そうだった」「じゃあさ、彼に電話して一声かけてみたら?カエデビルまでわざわざ来て、食事に誘おうとしてたんだから、少しくらい気遣ってあげなよ」里香は彼女の意見をもっともだと思い、「わかった、じゃあ一回切るね」と答えた。「うん、それじゃ」
翌日、里香が仕事場に到着すると、顔に痣がついた星野がパソコンの前で不器用にキーボードを叩いている姿を目にした。驚愕した彼女はそばに駆け寄り、尋ねた。「星野くん、大丈夫なの?」星野は声に反応して顔を上げたが、薄く笑みを浮かべた瞬間、口元の痛みに表情が歪んだ。「僕は……大丈夫です」彼はやっとのことで言葉を発し、「昨日、小松さんの家を出た後に二宮さんに会ったんです。ちょっとボクシングの腕試しをしてみないかって聞かれたから付き合っただけです。本当に心配しなくていいんです。ただの軽い怪我ですし」と話した。その言葉を聞くと、里香の眉間に皺が寄った。「それだけが理由?」もし単なる腕試しだったら、どうしてここまでひどい怪我を負うんだろう?星野は苦笑いしながら答える。「そう、腕試しでしたよ。ほんとに平気です。見た目ほど酷くないし、実際は全部表面的な擦り傷。頼むから僕のせいで雅之には怒らないでください」彼の顔には少し自嘲気味の表情が浮かんだ。「結局、僕が力不足だっただけさ」里香は唇を引き結び、一瞬考えたかと思うと、振り返ってその場を離れた。そして戻ってきたときには、手にいくつかの物を持っていた。それは冷却用のアイスパックと、血行を促す軟膏だった。彼女は椅子を引き寄せて直接星野の前に座り、「こっち向いて。薬を塗るから」と言った。星野は一瞬戸惑った表情を見せてから首を振る。「大丈夫、本当に平気ですから」しかし里香は真剣な表情で言い返した。「それでその顔のまま顧客と会うつもり?たぶん話す前に逃げられるわよ」星野は苦笑しながら再び顔をしかめた。「そうですね。せっかくの顧客を怖がらせるわけにはいかないですね」彼は里香の前に体を向けると、彼女は手渡したアイスパックを見せながら指示した。「これを持って、口元に当てて」「うん」星野は大人しくその指示に従い、口元にアイスパックを押し当てた。ひんやりとした感触が火照った痛みを和らげ、彼の星のような瞳が感謝の気持ちを込めて里香を見つめた。里香は彼の方を見ずに、軟膏を取り出して彼の頬や額に丁寧に塗布し始めた。「これで良し」 数分も経たないうちに処置を終えた里香は、薬を星野に渡しながら言った。「説明書通りに使えば、数日で治るはずよ」「わかりました。ありがとうございます」星野は彼女