雅之は琉生の顔をじっと見つめ、少し苛立ったように言い放った。「で?どう解決するんだよ。早く言えって!」琉生はしばらく黙り込んでいたが、やっと口を開いた。「順序を踏んでやるしかないです。まずは近づかずに、彼女がゆっくりお前を受け入れる時間を作りましょう」雅之は眉をひそめ、苛立ちを隠せなかった。「もっと手っ取り早い方法はないのか?」琉生は皮肉っぽく肩をすくめた。「昔、奥さんがいなかった頃はどうしてたんです?今は奥さんがいるのに、一日だって待てないんですか?」「その通りだ。一日も待てない」雅之は何の躊躇もなく言い切った。琉生はその図々しさに呆れたように渋い顔をし、眼鏡を押し上げながら答えた。「他に手はありません。それに、さっさと出て行ってください。患者さんが入ってきたら困りますんで」雅之は琉生が嘘をつかないことを知っているので、不満げな表情を浮かべながらも渋々立ち上がり、部屋を出て行った。その後ろを歩いていた里香の表情はますます冷たくなり、病院を出るとそのまま反対方向に歩き出した。雅之は彼女を呼び止めることなく、細い背中をじっと見つめていた。そしてポケットからタバコを取り出し、無造作に火をつけた。本当に面倒くさい話だ。会社に着いた里香は、聡が会議をしているのを見かけ、邪魔しないよう入口で様子を伺っていた。しばらくして会議が終わり、聡が近づいてきた。「どうしたの?なんでこんなに遅れたの?」里香は簡単に説明した。「雅之のおばあさんが倒れて、病院に行って様子を見てたの。大したことはなかったみたい」聡は納得したように頷きながら、少し首をかしげた。「それなら良かったけど……でも、君と雅之って離婚したよね?なんで病院まで行っておばあさんのお見舞いを?」もしかして、再婚する気なんじゃないの?それなら私の仕事もおしまいだな。里香は冷静に答えた。「昔、おばあさんにはすごく良くしてもらったから。倒れたと聞いたら見舞いに行かない理由なんてないでしょ」聡は冗談っぽく笑って言った。「まぁ、それも悪くないよね。君たちがもっと接触すれば、再婚なんてこともあるかもしれないし。そうなったら、うちのスタジオも安泰だね!」里香は軽く微笑むと、「じゃあ、仕事に戻るね」とだけ言い残し、その場を離れた。「うん、行ってらっしゃい」席に
かおるは笑って言った。「里香ちゃん、私は普通の人だから、大きな志なんてないよ。思えば、月宮と出会ったのもあなたのおかげだし、もし里香ちゃんがいなかったら、彼が誰かさえ知らなかったかもしれないし、こんなに多くの関わりもなかったはず。人生は短いんだから、今この瞬間を楽しむべきなんだ」里香はかおるの話を聞きながら、たとえ反抗したところで、雅之たちには勝ち目がないと分かっていた。彼らが本気を出せば、何百通りものやり方で彼女たちを弄ぶことができるのだから。無駄に抵抗するよりも、いっそのこと楽しんだほうがいい。かおるの考えは正しいと思う。里香は言った。「ちゃんと考えてるなら、それでいいよ。あなたの選択を尊重するわ」「ははは、里香ちゃん、一緒に何もかも投げ出しちゃおうよ。こういうお坊ちゃんたちもそのうち飽きるでしょ?その頃には、私たちも大富豪の奥様になって、世界中を気ままに旅できるんだから」かおるは里香をそそのかし始めた。里香は仕方なく微笑んで言った。「私たち、性格が違うんだから」かおるはため息をついて言った。「もしあなたの性格が私と似ていたら、こんなにも色々なことが起きるわけないのに」里香は孤児だから、求めるものが多い。記憶を失った雅之が与えてくれた温かさと愛情、それによってこれまでどうしても離婚に踏み切れなかった。彼に与えてもらった思い出は、自分にとってあまりにも貴重なものだった。里香:「もういいよ、この話は終わり。まずは仕事に集中しよう」かおる:「うん、分かった。仕事に集中していいよ。いい知らせを待っててね」「うん」電話を切ると、里香はパソコンの画面をじっと見つめ、しばらくぼんやりとしていた。やがて彼女は意識を戻し、再び仕事に集中した。午後。聡が近づいてきて言った。「今晩イベントがあるんだけど、一緒に行かない?」里香は疑問そうに聞いた。「どんなイベント?」最近、冬木ではビジネス関連のパーティーやイベントはあまり開催されていない気がする。聡は口元に微笑を浮かべて言った。「プライベートなイベントだよ」それを聞いて、里香も微笑し、「じゃあ、私は行かないでおくわ。聡が楽しんできて」と言った。しかし聡は彼女の腕を引っ張って甘えるように言った。「嫌だよ、一緒に行ってよ。プライベートなイベントって言っても、私は業界外
誕生日パーティーがNo.9公館で開催された。聡と里香が入ったとき、広い個室にはすでに多くの人が集まっていた。一目で見て取れるのは、全員が冬木の名門だった。当然、聡のことを知る者は誰もいなかった。里香のことを知っている者は何人もいたが、誰も近づいて挨拶しようとはしなかった。彼らは里香の身分を知っていたし、彼女が雅之と離婚したことも知っていたからだ。そういうわけで、里香は彼らの目にはもはや何でもない存在だった。聡は里香を隅に連れて行き、キラキラした目で人々を眺めながら、「里香ちゃん、知ってる?あの人たち、私の目にはピカピカ輝くお金にしか見えないの」と言った。里香は思わず吹き出した。「でも、彼らをあなたの手の中のお金に変えるのは簡単なことじゃないわよ」と答えた。聡はちらっと里香を見て、「何、私には里香ちゃんがいるじゃない、あなたのデザイン図を出せば、彼らは驚いて口をあんぐりさせるはずよ。そのうち、私の事務所の電話は鳴りっ放しになるわ!」と自信たっぷりに言った。里香は、「本当に私を買いかぶりすぎよ」と答えた。聡が彼女をここに連れてきたのは失敗だった。この場には、二宮おばあさんの誕生日会に出席したおなじみの顔がたくさんいたからだ。彼らは里香のことを知っており、雅之と既に離婚したことも知っている。そんな状況で、彼女に対してどうして敬意を示すだろうか。里香は黙々とフルーツを食べていた。この果物、文句なしに美味しかった。しばらくの間、聡も一緒にしていたが、彼女はじっとしていられず、一言だけ声をかけると、すぐにイケメンを探しに行ってしまった。聡は外見も優れているし、会話も男性が喜びそうな内容を話すため、すぐに何人かの男性と盛り上がっていた。里香はちらっと聡の方を見たが、すぐに興味を失って、再び黙々とフルーツを食べ続けた。「里香」しばらくして、聞き覚えのある声が響き渡った。里香が顔を上げると、そこには遥が立っており、彼女は笑顔で里香を見つめていた。里香は少し驚いて、「浅野さんも来たんですね」と言った。遥は頷き、「北村家の長女の誕生日だから、彼らと関わりのある家の子どもたちがみんな来ているの。でも、あなたもいるとは思わなかったわ」と言いながら隣に座った。里香は微笑んで、「私は違うわ、上司と一緒に来たの」と言い、顎で聡の方を指
ちょうどその時、玄関でざわめきが起こった。里香と遥の視線がそちらに向かうと、蘭が美しいドレス姿で登場していた。彼女の頭にはダイヤモンドのティアラが輝き、全身から自信に満ちた美しさと、名家の令嬢ならではの気品が漂っていた。彼女の隣には夏実がいて、後ろには月宮と雅之が並んでいた。里香は一瞬表情を強ばらせた。遥が彼女を一瞥し、こう言った。「蘭は幼い頃から月宮と雅之の後ろを追いかけて遊んでいたの。両家は親しいから、彼らも蘭のことをずっと大事にしてるみたい。それで、大きくなった蘭は月宮に恋をして、何年もずっと追いかけてきたわ。それに、月宮家と北村家が結婚を考えてるって聞いたことあるわ」なんだって?月宮が蘭と結婚するの?じゃあ、かおるは?里香は手に持っていたブドウをぎゅっと握りしめ、遥の言葉を聞いていると、ブドウがそのまま潰れてしまった!月宮はかおるを諦めるつもりはないし、婚約を解消するつもりもないということ?もし月宮が蘭と結婚したら、かおるの立場はどうなるの?これまで冷静だった里香も、さすがに落ち着いていられなかった。もし月宮が独身なら、かおると付き合っているのもただの一時的な面白さで遊んでいるだけだと思うこともできた。だが、月宮が本当に婚約したとなると……里香はかおるを説得しようと決心した。もう本当に諦めるなんてことはさせられない。「雅之様があなたを見ているわよ」里香が考え事をしていると、遥の声がまた聞こえてきた。里香は我に返り、無意識に雅之の方を見た。すると、案の定、彼の深い瞳と目が合った。里香は冷静にその視線を避け、美しい眉をわずかにひそめた。蘭は多くの人に称賛されているかのように、皆に囲まれていた。皆が用意してきたプレゼントを蘭に手渡していた。蘭は誇らしげな笑みを浮かべ、手を伸ばすことなく、指を指して言った。「あそこに置いておいて」夏実はプレゼントを蘭に差し出して言った。「蘭さん、お誕生日おめでとうございます」他の人たちとは異なり、蘭は直接そのプレゼントを手に取った。「ありがとう」そして彼女は月宮を見つめてこう言った。「あなたのプレゼントは?」月宮は懐から小さな箱を取り出し、蘭に手渡した。嬉しそうにそれを受け取った蘭はその場で箱を開けたが、その笑顔は少し固まった。それは非常に普通の
もし雅之が里香とよりを戻すなら、夏実にはもう何のチャンスもないってことだよね?そうなれば、浅野家での自分の地位も安泰だろうね。雅之はそのまま里香の隣に座り、低い声で尋ねた。「何見てるんだ?」里香は淡々と言った。「うるさい、あっちこっち口出しすぎ、そんなに暇なの?」雅之は小さく鼻で笑って、「確かに暇だね。妻に構ってもらえなくて」里香は彼の言葉を無視した。誰が構ってやるもんか。まったく、呆れるわ。雅之はさらに問いかけた。「でさ、答えてくれないけど、何で月宮をそんなにじっと見てたんだ?」里香は彼をちらっと見て、「だって、彼の方があんたよりハンサムだから」その言葉を聞いた雅之は危険なほど目を細めた。まさかそんな言葉を聞くとは思わなかったのか、彼は彼女の顎を掴んで自分に向けさせ、冷たく言った。「お前、いつから目が悪くなったんだ?」里香は彼の手を押しのけて、再び果物を食べることに集中した。この話題にはもう付き合いたくなかったのだ。雅之の視線は月宮に移った。彼は誰かとグラスを交わし、負けて酒を飲んでいるところだった。フッ!どこが僕よりハンサムなんだよ?この女、目が本当に悪くなってるんじゃないか? 近いうちに医者に連れて行くのが良さそうだ。夏実はずっと雅之の動きを注視していた。彼が里香の隣に座ったのを見て、即座に拳を強く握り締めた。この女、どうしてここにいるの?あいつ、ここにいる資格なんて全くないはずなのに!夏実は少し考えてから、蘭のそばに歩み寄り、言った。「蘭ちゃん、あなたのバースデーパーティーに、ちょっと怪しい連中が紛れ込んでるんじゃない?あなたの格を下げるだけだし、あんなに高価なプレゼントまであるのに、万が一盗まれたらどうするの?」蘭はその言葉を聞いて、眉をひそめ、「怪しい連中って、誰のことなの?」夏実は里香と聡を指さした。蘭はその方向を見ると、里香の隣にいる雅之を見つけ、その表情が一瞬変わった。「まさか、雅之があの女の隣に座ってるなんて……あの女とよりを戻そうっていうの?」夏実は何も言わなかった。蘭はさらに続けて言った。「もし、あの事故がなかったら、今頃あなたはもう雅之の妻だよ。それなのに、あの女が何をしに来てるわけ? もし雅之があの女とやり直したら、あなたはどうなるの?」夏実は大人ぶって言った。「
ウェイターたちは困惑しきった顔でその場に立ち尽くしていた。里香は少し離れたところにいる蘭をじっと見つめ、隣に夏実が座っているのを確認すると、なんとなく状況を察した。そして突然、雅之の手を掴んだ。驚いた雅之が目を見開いた。その瞳が一瞬、喜びを含んだように輝いた。彼はすぐに彼女の手を握り返し、さらに少し力を込めた。まるで、彼女に手を引かれるのを恐れているかのように。里香は一瞬だけ戸惑い、眉をわずかに寄せたが、手を離すことなく視線をフルーツに戻し、食べる手を止めなかった。ウェイターたちは互いに目を合わせた。蘭や夏実には逆らえないが、雅之にはそれ以上に逆らえない。結局、渋々とその場を引き下がった。このやり取りを、蘭と夏実は一部始終見ていた。「……あの女狐が堂々と雅之兄ちゃんを誘惑するなんて……見くびってたわ」蘭は顔をしかめ、吐き捨てるように言った。一方、夏実は伏し目がちに、小さな声で控えめに言った。「蘭さん、もうやめましょうよ……今は雅之さん、彼女が気に入ってるみたいですし、無理に追い出そうとしたら怒らせてしまうかもしれません……」その控えめな態度を見て、蘭はますます苛立ったようだった。すぐに立ち上がり、勢いよく里香たちの方へ向かおうとした。「雅之兄ちゃんが、あんな女のために私の顔を潰すわけないわ!」「蘭さん、待ってください!」慌てた夏実が止めようとするが、蘭はすでにカッとなっており、話を聞く耳を持たなかった。彼女はあっという間に雅之の前に立つと、笑顔を作り、言った。「雅之兄ちゃん、どうしたの?もう少し話してよ?」雅之は、里香の手を握ったまま、満足そうに言った。「悪いけど、今は妻と一緒だから」蘭は驚いたような表情を浮かべると、里香をじろりと見た。「この人……奥さん?でも離婚したんじゃなかったっけ?」そして、あっけらかんと言い放った。「正直、雅之兄ちゃんが離婚して良かったと思ってるの。こんな普通の子、私たちの世界には全然合わないし、しかも孤児でしょ?どう考えても雅之兄ちゃんの足を引っ張るだけだと思うんだけど?」彼女のその言い方は、まるで悪意なく思ったことをただそのまま口に出しているようだった。他の人が聞けば「裏表のない素直な子だ」と思ったかもしれない。里香は黙ったまま蘭を見つめた。その無邪気な振る舞いをじっくり観察すると
「ふーん……」里香は冷たい笑みを浮かべながら蘭を一瞥し、そのまま雅之の方に視線を移した。「私にあなたのことを口出せる資格がない、って?」「ある、あるに決まってるだろう」雅之はニコニコしながら里香を見つめ、蘭には一瞥もくれなかった。蘭はその様子を見て、さらに顔色が悪くなり、「雅之兄ちゃん……」と呟いたが、雅之は軽く手を振り、「まあ、遊んでおいでよ。僕は妻と一緒に過ごすからさ」と平然と言った。蘭は更に怒りを募らせ、心の中で里香への憎しみが最高潮に達していた。こんな憎たらしい女が、雅之兄ちゃんにベタベタするなんて、自分をなんだと思ってるの? 彼女なんかが雅之兄ちゃんの隣に立つ資格があるわけないわ。もし機会があれば、この女に思い知らせてやるんだから!蘭は一声冷たい息を吐き、立ち去った。ようやく静かになった。里香は自分の手を引き抜こうとしたが、雅之はその気配を見せなかった。里香は彼を見つめ、「こんなに握ってたら、おやつ食べられないでしょ」と言った。雅之は一粒のぶどうを里香の唇に送り、「大丈夫、僕が食べさせてあげるよ」とぽそっと囁いた。里香は黙ったまま、顔をしかめて雅之兄ちゃんを見つめ、そのぶどうを口にしようとはしなかった。むしろ視線を聡に向けた。聡はいつの間にか他の人たちの輪に加わっていた。サイコロのゲームで、負けたら酒を一気に飲むという遊びだった。聡はその場でとても上手く立ち回っているように見えた。里香は彼女の無事を確認すると、視線を戻して、背もたれにもたれかかり、スマホを取り出して遊び始めた。左手を握られていたが、何の支障もないし気にしなくてもいいだろう。雅之が好きで握っているならそれもまあいいか、そんな気持ちだった。里香の表情はやけに冷淡だったが、雅之はまったく気にすることなく、ずっと彼女の手に視線を落としていて、いつまでも厭わないかのようだった。「雅之、何してんだ?ゲームに参加しろよ」その時、月宮が近づいてきて、二人が手をつないでいるのを見て、にやりと笑った。「ゲームには参加しないよ。妻と過ごしてるんだから」雅之はあっさりと断った。月宮は意味深な表情を浮かべ、さらに「いやいや、妻って呼んでるけど、彼女、承諾してんのか?」と茶化すように言った。「里香がどう言おうとも、彼女は僕の妻だよ」雅之はさらりと言った。
蘭はずっと祐介の動きを気にしていた。彼が里香のそばに行き、楽しそうに話しているのを見た瞬間、蘭の顔色がさっと変わった。「ねえ、ゆいちゃん。祐介兄ちゃん、いつからあの女とあんなに仲良くなったの?」蘭は隣にいたゆいに小声で聞いた。ゆいもちらっと里香を見てから首を横に振る。「さあ、知らない。あの人、誰?」海外にいたゆいは、里香のことなんて全然知らなかった。蘭はじっと里香を睨みつけ、「あの狐女、男を誘惑することしか頭にないのよ」と毒づいた。それを聞いて、ゆいは眉間にしわを寄せた。「もしそうなら、祐介兄ちゃんに距離を取るよう言っとくわ」蘭はすぐに頷いた。「お願いね!あんな女、絶対お金目当てで男を渡り歩いてるんだから。祐介兄ちゃんに近づく資格なんてないのよ!」その頃、里香に近づいた祐介は、彼女が雅之と親しげにしているのを見て一瞬鋭い目をしたが、すぐに笑顔を作って声をかけた。「やぁ、君も来てたんだね」里香はちらっと彼を見て、小さく微笑む。「そうね、上司と一緒に」そう言いながら、顎で聡がいる方向を指した。祐介はそちらを見て、表情を一瞬止めたあと、「退屈なら、外でも散歩しない?ここの庭、景色がなかなかいいよ」と提案した。里香は周りの雰囲気に馴染めず、周囲の熱気もどこか自分には届いていないように感じていた。「いいの、疲れたら帰るつもりなんだから」祐介は軽く頷いた。「そっか。そうだ、例の件、まだ話してなかったよね。今ちょっと時間ある?」里香は一瞬瞬きをしてから思い出した。祐介が言っているのは、啓のことだろう。彼女は雅之の手から自分の手をそっと引き抜き、立ち上がって言った。「いいよ、外で話そう」祐介は頷き、二人は一緒にバルコニーへ向かった。バルコニーは驚くほど静かで、中の賑やかさとは対照的だった。一方、雅之は険しい顔をして、空になった手のひらをじっと見つめていた。さっきまで彼女の方から手を握ってきたのに、今は別の男のためにその手を振りほどいたなんて。へえ、用済みになったらあっさり捨てるわけ?ま、里香らしいけどさ……バルコニーで、祐介は真剣な表情で切り出した。「覚悟しておいてほしい。啓の体が、もう長く持たないかもしれない」里香はその言葉を聞いて、心臓が喉元までせり上がるような感覚に襲われた。「どういう意味
かおるは里香をじっと見て、「で、錦山にはいつ行くの?」と尋ねた。「もうちょっと待つよ。雅之との離婚手続きが終わってから」「え?」かおるはまたもや驚き、目を丸くして言った。「聞き間違いじゃないよね?あの雅之が離婚に同意したって?」「うん、そう」里香はうなずき、「私も信じられないんだけど……でも、よく考えたら、この前離婚の話をしたときも、彼、すんなり同意してたんだよね。ただ、私は都合が悪いせいで、チャンスを見逃しちゃっただけで」かおるは信じられないといった表情で、「あれだけしつこく絡んできたのに、まさかあっさり同意するなんて……何か企んでるんじゃない?」「さあね」里香は首を振り、それから大きくあくびをして、「もう疲れたし、寝るね。かおるも早く休んで」かおるは「わかった、ゆっくり休んでね」とうなずき、バッグを持って立ち上がると、ドアに向かって歩き出した。ドアの前でふと立ち止まり、「あ、そうだ、里香ちゃん。祐介の結婚式、三日後だけど、本当に行かなくていいの?」里香は一瞬動きを止め、「行かないよ」ときっぱり言った。祐介は里香が来るのを望んでいないし、里香も蘭には特に興味がない。かおるは「了解。私は見物しに行くよ。式で何か面白いことがあったら、ちゃんと報告するね!」と笑った。「うん」かおるが去ったあと、里香はシャワーを浴び、バスローブを羽織ってスキンケアをしていた。ちょうどそのとき、スマホが振動した。取り出して見ると、祐介からのメッセージだった。【今夜の星空、綺麗だね】【写真】写真には、祐介が山頂に立ち、カメラに背を向けて、少し上を向きながら夜空を見つめている姿が映っていた。星がきらめく夜空の下、彼の後ろ姿はどこか孤独で寂しげだった。里香は眉をひそめた。この道を選んだのは彼自身なんだから、結果がどうなるかくらい、分かってるはずでしょう。今さらそんなこと言われても、どうしようもない。里香は何も返信せず、そのまま布団をめくってベッドに入った。ところが、うとうとし始めたころ、突然スマホの着信音が鳴った。里香は起こされて、少しイラつきながらスマホを取った。「もしもし?」寝ぼけたまま電話に出ると、声のトーンは思いきり不機嫌だった。すると、電話の向こうから、かすれた低い声が聞こえてきた。「僕
「断る」里香は即座に断った。手を伸ばしてエレベーターの閉ボタンを押すと、扉がゆっくりと閉まり、雅之の美しく鋭い顔が遮られた。里香は少しほっとしたように息をついた。厄介なことになった。戦法を変えた雅之に、里香はまったく太刀打ちできなかった。彼の要求をうっかり受け入れてしまうんじゃないかと心配だった。冷静にならなければ。絶対に冷静に。家に帰ると、リビングのソファでテレビを見ているかおるの姿が目に入った。音を聞いたかおるは振り返り、すぐに飛び跳ねるように駆け寄ってきた。「里香ちゃん、会いたかったよー!」かおるの熱烈さには、普通の人なら圧倒されてしまうだろう。里香はその勢いにちょっと後ろに数歩下がり、少し困ったように言った。「私、そんなに長い時間留守にしてたわけじゃないんだけど」「でも、やっぱり会いたかったんだよー!」かおるは里香を抱きしめながら甘えてきた。里香は思わず鳥肌が立ち、急いで言った。「風邪引いたから、体調が悪いの。こんなに抱きしめないで、息ができなくなる」その言葉を聞いたかおるはすぐに手を放し、里香の手を握りながら、心配そうに体を上下に見て言った。「どうしたの?風邪引いたの?冷えたの?待ってて、今すぐ生姜湯作ってあげる!」かおるは風のようにキッチンに駆け込んで行った。里香は思わずため息をつき、心の中で呟いた。あまりにも熱心すぎて、かおるが月宮と付き合っているから興奮しすぎているんじゃないかと疑ってしまう。里香はキッチンに行き、かおるが少し不器用に生姜を切っているのを見ながら、もう一度ため息をついて言った。「もうすぐ治るから、生姜湯は要らないよ。切るのやめて」かおるは振り返りながら言った。「本当に?」里香は手を挙げて言った。「ほら、まだ針の跡が残ってる」かおるはすぐに包丁を置き、「それなら無理に飲ませないよ。じゃあ、帰った時のこと、何があったか教えてよ!」と言った。里香はソファに座り、出来事をそのまま話した。「なんだって!」かおるはそれを聞いてすぐに驚き、立ち上がった。「あなたの両親って、錦山一の金持ち、あの瀬名家なの?」里香は「うん」と頷いた。親子鑑定はまだしていないけど、ほぼ確信している。かおるは呆然とした顔で言った。「まさか、あなたが本物のお嬢様だったなん
雅之が同意の意を示した瞬間、里香の胸は一気に高鳴った。彼が同意した!ついに、ついにこの結婚が終わる!耐えがたい絶望と苦しみの日々……それがようやく終わるんだ!里香は昂る気持ちを抑えながら、雅之の整った顔をじっと見つめた。「本気なの?冗談じゃないの?」雅之は少し頷き、落ち着いた口調で言った。「本気さ。離婚の場に、僕が欠席したことなんてあったか?」そう言いながら、少し皮肉めいた笑みを浮かべた。里香は黙り込んだ。……そうだ、いつも欠席していたのは、むしろ自分の方だった。杏の時も、幸子の時も、そうだった。でも、今回は違う!絶対に違う!よく言うじゃない、三度目の正直って!雅之は里香の手を握ったまま、優しく語りかけた。「お前を口説くって言ったからには、ちゃんと誠意を見せないとな。お前が嫌がることはしないし、好きなことは倍にしてあげる。里香、僕が愛してるって言ったのは本気だよ」心の奥で、何かが揺らいだ気がした。でも、里香はその揺らぎに応じなかった。その時、スマホが鳴り響いた。このタイミングで電話が来るなんて、助かった!画面を見ると、かおるからだった。「もしもし?」「里香ちゃん、今どこにいるの?」かおるの焦った声が飛び込んできた。「安江町に行ってたけど、どうしたの?」「びっくりしたよ!雅之に監禁されてるんじゃないかと思った!」かおるは大きく息をついた。車内は静かだったので、かおるの声が妙に大きく響いた。雅之が、その言葉をしっかり聞いていたのは言うまでもない。里香は、無言でそっと雅之から距離を取った。「私は大丈夫よ。ただ安江町に行ってただけ。今は帰る途中」「急にどうしたの?ホームで何かあったの?」「まあ……そんなところかな。帰ったら詳しく話すね」「わかった。待ってるね」「うん」電話を切ると、さっきまであった微妙な雰囲気が、すっと消えてなくなった。里香は手を動かしながら、さらりと言った。「ちょっと暑いから、手を放してくれない?」「じゃあ、これならどう?」雅之はすっと手を離した代わりに、里香の人差し指をつかんだ。「……」なんなの、この人……バカなの!?「それにしてもさ、お前の親友、ちょっと言動を抑えた方がいいと思うぞ。この調子で突っ走って
雅之はノートパソコンをパタンと閉じ、里香を見つめる目にほんのり微笑みを浮かべた。「それ、僕に助けを求めているってこと?」「ええ、そうだよ」里香は頷いた。「結局、あなたの家庭の方が私よりずっと複雑だからね」雅之はその言葉に少し刺さったような感じがした。しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。「僕なら、まず火をつけたのが誰かを突き止める。もしそれがゆかりなら、その証拠と親子鑑定の書類を瀬名家に見せる。もしゆかりの家族がやったことなら、あの手この手で奴らの一族を葬り去る」里香は一瞬、言葉を失った。里香の考えはもっと単純だった。もし黒幕が瀬名家の人間なら、親子関係を認めずに知らん顔をするだけ、それだけだった。雅之って、本当に容赦ない男だ。雅之は里香が何を考えているか分かっているかのように言った。「里香、お前の存在を知っている人がいるんだよ。お前は何も知らないふりをすることができるけど、お前の存在自体が罪だと考えている人間もいる。奴らは保身のために、お前を消し去る方法を考えるだろう。お前がいなくなれば、奴らにとって脅威はなくなるから」里香は頷き、「そうね、あなたの言う通り」と納得した。雅之は里香の手を握った。「素直になるお前は嫌いじゃないよ」里香は眉をひそめて、自分の手を引こうとしたが、雅之はさらに力を込めた。里香は手を引き抜けず、雅之を見て眉をひそめた。「放して!」「いやだ」雅之は里香をじっと見つめながら言った。「このままずっとお前の手を掴んでいたい」里香は呆然としてしまった。里香は雅之を見て、「今更になって、まだ自分の気持ちをはっきり理解してないの?あなたのそれ、ただの独占欲じゃないの?」「いや、愛しているよ」雅之は里香の言葉を待たずに、そのまま遮った。その細長い瞳の中には、真剣さと情熱が溢れ、里香を深く見つめていた。「里香、今までの僕のやり方はあまりに激しかった。お前は僕の一番暗かった部分、人生のどん底の時期を目の当たりにした。そんなお前を消し去るべきだとも考えた。そうすれば、僕がどれほどみじめだったかを知る人はいなくなるから。でも、その考えもすぐに打ち消された。お前なしでは、今の僕はいない。お前のおかげで、僕は自分の心を見つめ直すことができた。そして、お前を愛していると気づいた」里香はしばらく
里香は雅之を見て言った。「その必要はない」雅之は里香の額に軽く指を突き、少し困ったように言った。「何その態度?さっきは調査を頼んできたのに、今になって必要ないって?」里香は少し後ろに避けてから言った。「だって、報酬がいるでしょ?」もし雅之が最初から里香に何も求めていないのなら、彼の言葉を信じるかもしれない。でも、雅之の目的はあまりにも明らかだった。どうしても信じられなかった。雅之の細長い目の奥に苦みが滲んだ。「僕が求めてる報酬は、お前が僕の体に夢中になってくれることだけだ」里香は驚いて雅之を見た。まさか、雅之がそんな風に考えているなんて。「その目は何だ?」雅之は里香の表情を見て、彼女が何を考えているか察し、「自分だけが気持ちよければいいと思ってるのか?」雅之が少し近づき、低くて魅惑的な声で言った。「里香、自分の胸に手を当てて考えてみて、僕は自分の気持ちよりお前の気持ちを優先してるだろ?」里香の耳が赤くなり、雅之の視線を避けた。「とにかく、私たちには未来がない」雅之は里香の耳の先に目を落とし、それ以上何も言わなかった。未来があるかどうかは、お互いの努力次第だ。里香が顔を赤らめているということは、良い兆しではないか?急がなくていい、ゆっくり待っていればいい。「まあ、冗談はこのくらいにしとくよ。体調はどうだ?まだ何か具合が悪いところはない?」雅之はテーブルを片付けながら尋ねた。里香は首を横に振り、「今は大丈夫」熱も下がり、少し疲れているくらいで他には特に不調は感じなかった。「体温見せてくれ」雅之は言いながら里香に手を伸ばした。里香はすぐに避け、澄んだ目で警戒しながら雅之を見た。「僕が何かしようとしてると思ってるのか?たとえそうだとしても、反抗できると思ってる?」里香は唇を噛み締め、「もう大丈夫だから、熱は下がったわ」「本当に?」雅之は意地になって手を伸ばし、手の甲を里香の額に当て、もう片方の手を自分の額に当てた。「うん、本当に熱くない」こいつ、本当にバカだ!退院の手続きを終えた里香は、そのままホームに向かった。工事現場はすでに再建が始まっており、哲也は近くでその様子を見守っていた。里香が戻ってきたのを見て、哲也は立ち上がり、「どう?体は大丈夫?」と心配そうに尋ねた。
「いらない」里香はそう言って、お箸とお碗を手に取り、無言で食べ始めた。ほぼ一日以上食べていなかったので、空腹がひどく、雅之のじっとした視線など気にせず、黙々と食べ続けた。雅之は病床のそばに座り、里香をじっと見つめている。そのまま、手を伸ばし、何か言いたげに見える。「何してるの?」里香はすぐに雅之の手をかわし、警戒しながら彼を見た。雅之の手は空中で固まり、「髪が落ちてたから、食事の邪魔にならないように直してあげようと思って」と、少し不安げに言った。里香は髪を耳にかけながら、「自分でできるから」「へぇ、器用だね」里香:「……」何なの、この人。全然意味が分からない。里香は雅之を無視して食事を続け、少し落ち着いてから質問をした。「ホームはどうなったの?」「そんなこと、どうして僕が知ってると思う?」雅之は興味なさそうに肩をすくめた。里香は少し黙ってから、再度尋ねた。「出火の原因はわかったの?」雅之は真剣な顔で彼女の目を見て、「それ、僕に頼んでいるってこと?」里香は沈黙した。雅之に頼むと、きっと簡単には済まないだろう。雅之の意図ははっきりしていた。里香は深いため息をついてから、覚悟を決めたように頷いた。「ええ、頼むから調べて。今回のこと、私に向けられたものだと思ってる」雅之は薄い唇に淡い笑みを浮かべ、「半分は当たってるよ。相手は幸子を狙ってる」「え?」里香は驚いた。「幸子を連れて行こうとした人が火を?」「その通り」雅之はうなずき続け、「倉庫が荒らされて、中はめちゃくちゃになってる」里香は少し目を伏せ、そして突然雅之を見上げて言った。「実は最初から知ってたんじゃない?黒幕って奴」雅之はすぐには答えず、じっと里香を見つめながら言った。「正体はまだ掴んでいない」里香は毛布を握りしめ、思わず「一体誰なの?」と呟いた。実の両親、一体誰なんだろう?「今知りたい?お前にとってあまりいいことじゃないかもしれないけど」雅之は眉をひそめて言った。里香は毅然とした表情で言った。「それは私のこと。知る権利がある。親として認めるかどうかも、私が決める」「素晴らしい」雅之は彼女を賞賛するように見て、「お前の実の両親は錦山の瀬名家。そして、お前の立場を奪ったのはゆかりだ」その言葉を聞い
「僕、来るタイミング間違えちゃったかな?」皮肉混じりの低い声が響いた。ちょうど体勢を立て直したばかりの里香は、その声を聞いてさらに頭が痛くなった。哲也が眉をひそめ、振り向いて静かに言った。「誤解だよ。里香が体調悪いから、ちょっと支えてただけだ」雅之はまっすぐ歩み寄り、里香の顔をじっと見つめた。顔色は異様に赤く、ぐったりとしていて、明らかに具合が悪そうだった。雅之は無言で眉をひそめると、次の瞬間、そのまま里香を横抱きにした。哲也はそっと手を離し、「彼女、熱があるみたいだ。すぐに町の病院に連れて行って検査したほうがいい」と言った。雅之の細長い目が冷たく光った。哲也を一瞥したあと、一言も発さず、そのまま大股で立ち去った。新と徹はすでに気配を察して、密かに姿を消していた。車に乗ると、雅之の視線がふと里香の体にかかるコートに向いた。邪魔だ。そう思った瞬間、彼は何のためらいもなくコートを剥ぎ取り、車外に放り投げた。里香は高熱で意識が朦朧としながらも、その光景をぼんやりと目で追い、かすれた声で言った。「哲也くんは……ただ、私が寒くならないように気を遣ってくれただけ……」雅之は冷ややかに言い放った。「じゃあ、彼の服を拾って、祭壇にでも飾る?感謝の香を毎日焚くために」里香:「……」うるさい。もう相手にする気にもなれず、そのまま目を閉じて彼を無視した。「急げ!」雅之は彼女の態度にわずかに表情を引き締め、運転手に鋭い声で命じた。運転手はなぜかゾクッとしたが、何も言わずアクセルを踏んだ。病院に着いた頃には、里香の熱はさらに上がっていた。雅之はすぐに彼女を急診室へ運び込む。検査、薬の処方、点滴――すべてが終わる頃には、すでに数時間が経っていた。薬が効き始めると、里香のしかめていた眉も次第に緩み、うっすらと汗をかき始めた。雅之は洗面器とタオルを用意し、そっと里香の汗を拭いてやる。しかし、拭こうとするたびに里香はかすかにうめき声を上げ、拒むように動いた。仕方なく、雅之は優しく言い聞かせた。「ちゃんと拭かないと気持ち悪いだろ?じっとしないと、また点滴されるぞ」「……!」点滴という言葉を聞いた途端、里香はピタッと動きを止めた。雅之はわずかに笑いながら、静かにタオルを滑らせていった。体を拭き
奈々はつぶらな瞳をパチパチさせながら、新の前に歩み寄り、じっと見つめた。新は視線を感じて、少し居心地が悪くなり、軽く咳払いしてしゃがみ込んだ。「お嬢ちゃん、どうした?」すると奈々は満面の笑みを浮かべ、「火を消してくれたんだね、お兄ちゃん、すごい!!」と目を輝かせた。突然の褒め言葉に、新は一瞬驚いた。なんだかちょっと照れくさい。「すごい……のか?」「すごいよ!」他の子供たちも次々とうなずきながら、「お兄ちゃんたち、すごい!火を消してくれた大英雄だよ!」と声を揃えた。子供たちの純粋な眼差しを受け、新は急に誇らしくなったものの、同時に妙に気恥ずかしくなってくる。そんな気持ちを誤魔化すように、横にいた徹を見て、得意げに笑った。「聞いたか?大英雄だってよ」徹は無言のまま新を見て、心の中で「バカ兄だな……」とため息をついた。その時、奈々が今度は徹の前に来て、袖を引っ張りながら甘えるように言った。「お兄ちゃんもすごい!火を怖がらないんだね。スーパーマンなの?」「そうだよ!スーパーマンなの?」「ウルトラマンも火を怖がらないよ!」徹は口元を引きつらせたが、新の視線に気づくと、ふと口を開いた。「俺はスーパーマンだ」新:「……」里香が戻ってきたとき、新と徹が子供たちと遊んでいるのが目に入った。その様子に少し驚いていると、隣で哲也が「子供たち、新と徹のことがすごく好きみたいだね」と微笑んだ。そして、子供たちの方に歩み寄り、「部屋を見つけて、しばらく休もう。それぞれ部屋に分かれて、今日は休暇だ」と言った。子供たちは「はーい!」と元気よく返事し、各自部屋へと散っていった。哲也はすぐに関係者に連絡を入れ、ホームの片付けを指示した。火事で3分の1が焼失し、かなりの修理が必要だった。寒さを感じた里香は、自分の腕を抱きながら、「お疲れさまでした。先にお帰りください」と言った。新は微笑んで首を振った。「奥様、そんなに遠慮しなくてもいいですよ。雅之様が戻るまで、あなたのそばを離れるわけにはいきませんから」その言葉に、里香の表情が固まった。「……あの人、どこに行ったの?」新は首を振り、「それが、僕たちにも分からないんです」雅之は昨晩出かけたきり、一晩中戻らなかった。何か緊急の事態が起きたのだろう。
里香嬉しそうに顔を輝かせ、急いで言った。「外の様子は?火は収まったの?」「火事はもう抑えました。まずドアを開けてください」里香は濡れた服をしっかりと身に巻きつけ、火の近くに触れないよう確認した後、ドアを開けた。徹は湿ったタオルで口と鼻を覆い、里香を見てホッとした表情を浮かべた。「奥様、こちらに来てください」里香は初めて気づいた。火がキッチンの方から広がり、キッチン近くの部屋が炎に包まれているのを見て、煙がもうもうと立ち込めていた。哲也は早く目を覚まし、子供たちを先に避難させ、消火器で火を消していた。新はボディーガードたちを引き連れてホースをつなぎ、火をかなり抑え、徹が里香を外に連れ出す機会を作った。里香の部屋がキッチンに近い場所だったので、もし火が制御できなければ、彼女の部屋まで火が及んでいたかもしれない。「奥様、大丈夫ですか?」新は里香が出てきたのを見て、すぐに駆け寄って尋ねた。里香は首を振りながら答えた。「大丈夫です」新もほっとして、「奥様、あちらで少し休んでください。さっきシグナルジャマーを壊して、消防に電話しました。すぐに来るはずです」と言った。里香はうなずいた。「わかりました」ホームの空き地には、子供たちが集まって恐怖と不安の表情で火の方向を見つめていた。里香は子供たちの元に行き、一人一人に怪我がないか確認した。誰も怪我をしていないことを確認した里香は、大きく息をついた。哲也は灰だらけになりながら近づき、里香が濡れた服を羽織っているのを見て、「その格好、寒くない?」と尋ねた。里香は首を振りながら答えた。「大丈夫です。火事に巻き込まれないように、用心していただけです」その言葉が途切れると、里香はくしゃみをした。哲也は心配そうに言った。「もう羽織らない方がいいよ。今はこんなに寒いんだから、風邪ひきやすいよ」里香は少し考えた後、それもそうだと思い、思い切って湿った服を投げ捨てて、体を動き始めた。運動をすれば寒さも感じなくなる。消防車のサイレンがすぐに鳴り響き、消防士たちが到着して火はあっという間に制御された。全てが終わる頃には、もう夜が明けていた。徹がやって来たが、その後ろには二人のボディガードが、一人の女性を押さえていた。「何をしているんだ?佐藤さんを放して!」