離婚後、私はすぐに海外渡航のビザを取得した。出発の時、父から珍しく電話がかかってきた。電話越しに、父は私の幼い頃のことを話してくれた。ぎこちない謝罪の言葉を聞いても。心には何も感じなかった。彼は話し始めると止まらなくなった。そしてついに、本題を切り出した。「悠、いつか家に帰ってこい。父さんは寂しいんだ」私はフライト番号を見ながら、静かに言った。「もういいよ、お父さん。私、行くから。きっと、お母さん喜ぶよ、これで、お母さんが、やっとあなたを独り占めできるね」続いて、悲鳴が聞こえてきた。「健吾、私が悪かったわ。もう薬を飲ませないで。とても苦しいの」私は笑った。父は狂人だ。そうでなければ、母が成人したばかりの頃に手を出したりはしなかっただろう。母がまだ大学生だった頃に私を産ませ、ペットのように自分の傍に閉じ込め、外の世界と一切接触させないようにしたりはしなかっただろう。それは愛ではなく、独占欲だ。私は電話を切った。彼らの歪んだ愛の物語を聞く気にはなれなかった。泥沼のようなこの家とは、もう私とは何の関係もない。「終わり」
結婚3年目、私は夫の秘密を知ってしまった。彼の日記には、ある人物の日常が事細かに綴られていた。最後のページをめくるまで、私は気づかなかった。そこに、一行の言葉が記されていた。「毎日顔を合わせているのに、小島優への想いが抑えられない。俺は狂いそうだ」小島優、それは私の母の名前だった。力強い筆跡から、書き綴った主の切実さとやるせなさが伝わってきた。小島優という文字に、彼の溢れる愛情が込められていた。氷室時雨と愛し合って4年、結婚して3年。まさか彼が私の母に想いを寄せていたなんて、知る由もなかった。手の中の分厚い日記が、急に重く感じられた。私は呆然とそれを元の場所に戻し、表面の埃を拭き取った。どうやら、このような日記は他にもあり、この一冊は既に彼によって隅に忘れ去られていたようだ。たまたま書斎を掃除しようと思わなければ、きっと私は一生、氷室時雨がこんなにも苦しんでいたことに気づかなかっただろう。私は腰を曲げたまま掃除を続け、雑巾を持って書斎を出た。一つ一つの手順を欠かさず、隅々まで綺麗に掃除した。ドアを閉めようと手を伸ばしたが、どうしても力が入らず、ノブを握りしめられない。目の前が霞み、手が震えが止まらなかった。何度か試みた後、私は苛立ちのあまり叫び声を上げた。やっと、手が落ち着いた。バタンと音を立てて。私はドアを閉めた。まるで、誰にも知られていない秘密を閉じ込めるように。
しかし、氷室時雨と小島優、この二つの名前が頭の中をぐるぐると回り続けた。吐き気を催すほど、気分が悪くなった。結局、胃の中のものは何も出てこず、えずくだけだった。鏡に映る充血した自分の目を見ながら、耳鳴りがした。氷室時雨が帰って来たことにも気づかなかった。「どうしたんだ?具合が悪いのか?病院へ行くか?」いつの間にか背後に立っていた氷室時雨を見て、再び吐き気がこみ上げてきた。見苦しい姿も構わず、私は身を屈めて、やっとのことで苦い胃液を吐き出した。腰に手を当てていると、鏡に映った氷室時雨が眉をひそめ、一瞬、嫌悪の表情が浮かんだのが見えた。私の視線と合うと、その嫌悪感は消え、まるで最初からなかったかのようだった。彼はスーツのジャケットを脱ぎ、袖をまくり上げて、軽く私の背中を叩いた。「まだ具合が悪いのか?何か悪いものを食べたのか?母さんを呼んで、二、三日泊まってもらおうか?」答えを知っていたからだろうか、氷室時雨が母のことに触れた時、彼の表情が柔らかくなり、目に期待の色が浮かんだ気がした。私は顔を洗い、首を横に振った。「大丈夫。母は父と一緒にいるから、余計な心配をかけさせないでおこう」氷室時雨の目が一瞬曇ったが、数秒後には唇の端を上げた。「そうだな、疲れさせてもいけないしな」「そうだ、君にプレゼントを買ったんだ。気に入ってくれるかな」プレゼントという言葉に、私の心は思わず高鳴った。友人がオークション会場で撮った写真を見た。氷室時雨が今夜、2億円の真珠のネックレスを落札したことを知っていた。写真を見て間もなく、親友からもお祝いのメッセージが届き、私と氷室時雨の夫婦仲を羨ましがっていた。しかし、氷室時雨が私に贈ったのは、ネックレスではなく、真珠のイヤリングだった。それはネックレスのおまけだった。氷室時雨はいつものように、私の耳たぶにイヤリングを当ててみた。「似合うな。僕の目に狂いはなかった。悠はやっぱり真珠が似合う」彼の口から出た悠が、私を指しているのか、母を指しているのか、分からなかった。母のインスタを見て、見覚えのある真珠のネックレスを彼女が着けているのを見るまで。ようやく理解した。氷室時雨の言うユウは、私の母のことだったのだ。結局、最初から最後まで、彼は小島優を想
私はベッドのヘッドボードにぼうっと寄りかかり、あの秘密に心が乱れていた。突然、横が沈んだ。氷室時雨は携帯電話を手に私の隣に座り、当然のように母とビデオ通話を始めた。ビデオ通話の中で、母は真珠のネックレスのことは何も言わなかった。むしろ、ほとんど私のことを聞いてきた。氷室時雨は画面を私に向けて、私が上の空になっているのを見て、軽く肩を叩いた。「悠、母さんが呼んでるぞ」我に返り、画面の中で優しく微笑む小島優を見て、何も言えなくなってしまった。小島優の心配そうな声が聞こえてきて、私はやっと絞り出すように言った。「お母さん、眠いから、明日電話するね。切るね」小島優はがっかりしたようにああと小さく返事をして、名残惜しそうにビデオ通話を切った。私は布団の中に潜り込み、身を隠したかった。しかし氷室時雨は、急に怒り出したかのように私を布団から引きずり出し、険しい表情で怒鳴った。「月城悠、今日はどうしたんだ?上の空で、母さんの電話まで切るなんて。彼女が君と話したがっていたのが分からないのか?」「一体どこが悪いんだ?言ってくれれば病院へ行く。一人で抱え込まずに話してくれないか?」「もしそれで病気になったら、母さんはどうするんだ?」普段は寡黙な氷室時雨が、こんなにも声を荒げるのは珍しい。しかし、彼がこうしているのは、私のためではない。彼はただ、私が何かあったら母が悲しむのを恐れているだけだ。彼は本当に、私の母が好きなのだ。私はまつげを伏せ、目の奥の感情を隠した。「私が病気になっても、あなたは気にするの?」氷室時雨の呼吸が少し荒くなった。「月城悠、また何を考えているんだ?」「何でもない、ただ眠いだけ。氷室時雨、邪魔しないで、ゆっくり寝かせて。少し考えたいことがあるの」彼の卑劣な考えを、母に伝えるべきかどうか、考えたい。氷室時雨は私が本当に眠いのだと思い、口調を少し和らげた。「それじゃあ、ゆっくり休むんだな。僕は書斎で少し仕事をする」氷室時雨が部屋を出ていくと、周りの空気が流動し始めたように感じた。私は大きく息を吸ったが、眠気はなく、むしろ喉が渇いた。リビングへ水を飲みに行こうとした。しかし、書斎の前を通りかかった時、聞き覚えのある女性の声が聞こえてきた。さっき電話を切った
ドアノブが回って開き、氷室時雨は足を止め、眉をひそめて私を見た。「寝ていなかったのか?どうしてここにいるんだ?」「喉が渇いて、水を飲みに来たの」私は平静を装った。氷室時雨の目は少し険しくなり、言った。「今、母さんとビデオ通話をしたんだが、彼女は君に会いたがっていた。やっぱり、二、三日泊まってもらおう」実は、私と母の家はそれほど離れていない。わずか二つ通りの距離しか離れていないのだ。普段、食事に行くにも歩いて10分もかからない。しかし氷室時雨はいつも彼女を泊まりに誘い、2年前には一緒に住もうとまで言った。私は、彼が私を愛しているから、母も大切に思ってくれているのだとばかり思っていた。今になってようやく、彼はただ単に、彼女に会いたいだけなのだと分かった。私はグラスをぎゅっと握りしめ、ぶっきらぼうに言った。「嫌だ」氷室時雨の表情は少し不機嫌になったが、数秒後、彼は「好きにしろ」と言った。彼が部屋に入ろうとした時、私は慌てて言った。「明日、お父さんを見舞いに行こう。最近、あなたは仕事で忙しくて、ずっと行っていないわ」氷室時雨は足を止め、「ああ」と言った。私の父、月城健吾は2年前に交通事故に遭い、植物状態になっている。事故当初、母は毎日泣き暮らしていた。私と氷室時雨は、ほとんど毎日彼女に付き添っていた。ある日、母はベッドに横たわる父の姿を見ても、もう泣かなくなった。そして徐々に、以前の可憐な女性に戻っていった。私と氷室時雨が病室に着くと、母は父に話しかけていた。私たちの姿を見ると、彼女の悲しげな顔がパッと明るくなった。「悠、時雨、よく来たわね。さあ、こっちへ座って」母は私の手を引いて、ベッドの傍へ連れて行った。「今ちょうど、健吾にあなたのことを話していたところよ。健吾ももう、こんなに長く寝ていて、私のことをちっとも心配してくれないのよ」私は母の肩を叩き、慰めの言葉をかけようとしたが、彼女の首元のネックレスに目が留まった。真珠のネックレスはとても美しく、母の肌をより白く見せていた。私の指先が、思わず震えた。母はネックレスを撫でながら、嬉しそうに微笑んでいた。「悠、このネックレス綺麗でしょう?私に似合う?私もとても気に入っているの」母は子供の頃から父に甘やかされて育った
立ち去る際、私は氷室時雨を睨みつけた。佐藤行也は父の主治医だ。彼のオフィスに行くと、今日休暇を取っていることが分かった。仕方なく病室に戻り、ドアノブに手をかけた。中からの声が、私の足を止めた。「母さん、僕の目に狂いはなかったようだ。真珠は本当に母さんに似合う。来月、僕は海外出張に行くんだが、一緒に行かないか?」「時雨、もう私に物を買ってくれるのも、こんなことを言うのもやめて。あなたと二人きりではどこにも行かないわ。それに、悠が知ったら、傷つくでしょう」氷室時雨は低い声で笑った。「母さん、誤解だ。悠はあなたが考えているほど心が狭い人間じゃない。気分転換に旅行に連れて行ってあげると言ったら、きっと喜ぶよ。悲しむなんてことはないさ」「それに、母さんも僕と一緒にいるのは楽しいだろう?もし気が引けるなら、僕をお父さんだと思えばいい。母さんも、僕が彼に似ていると思っているだろう?」「優、安心して。悠には僕たちのことは秘密にする。それに、罪悪感を持つ必要もない。僕たちは道に背くようなことをしているわけじゃない。ただ、自分の心に従っているだけだ」私の足元から冷え上がってきて、再び吐き気を催した。つまり、母はずっと氷室時雨の卑劣な考えを知っていたのだ。それなのに、彼女自身もそれを楽しんでいて、あえて黙っていたのだ。私は勢いよくドアを開けた。氷室時雨が宙に伸ばした手と、彼の口元の笑みが見えた。母は驚いて氷室時雨の背後に隠れたが、私だと分かると、気まずそうに手をどこに置いていいか分からなくなっていた。「悠、戻ったの?どうだった?佐藤先生は何て言ってた?」「佐藤先生には会えなかった」私は冷たく、無表情に答えた。母は後ろめたいのか、私と目を合わせようとしなかった。「そう、たぶん、何か用事があったのね」母の怯える様子は、まるで目に見えない手が私の頬を強く叩いたようだった。音はしないが、痛みは走った。私は再び氷室時雨を見た。彼は母を背後で守り、私を不機嫌そうに見つめていた。まるで、母を驚かせたことを責めているようだった。夫と母の二重の裏切り。私の全身が緊張と怒りで震えた。怒りが込み上げてきて、内臓がねじ切れるような気がした。私は冷たく言った。「時雨、疲れたわ。送って帰って」氷室時雨は黙って私をしば
氷室時雨の表情は冷たく、以前の優しさは微塵も感じられなかった。「月城悠、病院であんな顔をするのはどういうつもりだ?母さんが驚いていたのが見えないのか?」「どうしたんだ?そんなに怒って、いったい何があったのか?」私は彼をじっと見つめ、表情の変化を見逃すまいとした。しかし、どんなに見つめても、彼に罪悪感のかけらも見つけることはできなかった。それどころか、ただ私が冷たい顔をしたというだけで。彼は私を一方的に責め立てた。私は怒りのあまり笑ってしまった。「ええ、何かがプツンと切れちゃったよ。満足した?」「時雨、一体いつまで私を騙すつもり?その卑劣な考えをいつまで隠しておくつもりなの?」私は声を張り上げて、怒りをぶちまけた。しかし氷室時雨は落ち着き払っていて、むしろホッとしたような表情に見えた。彼は背筋を伸ばして立ち、表情を無にした。「全部聞いていたのか?」彼の落ち着き払った態度に、私は驚いた。あんなに恥ずべき秘密を知られても、どうしてそんなに平然としていられるのか。私の目が充血した。氷室時雨は私の肩に両手を置き、優しく言った。「悠、君は気にしすぎだ。僕はただ、母さんのことを心配しているだけなんだ。誤解だよ」「もし君が怒っているなら、君も一緒に海外に連れて行くよ。もう怒るな、いいか?」「ハッ」私は鼻で笑った。彼が潔く認めると思っていたが、まさかこんなにも卑怯な男だったとは。私は彼の手を振り払い、書斎に駆け込んで彼の日記帳を探し出した。小島優について書かれたその日記を、私は彼に投げつけた。「時雨、私は全部知っているのよ。もうごまかせないわ」日記帳は床に落ち、鈍い音を立てた。氷室時雨の落ち着き払った表情が一瞬崩れ、闇が射し込んだ。彼の表情は陰鬱で恐ろしいものになった。彼はゆっくりと腰を曲げ、日記帳を拾い上げた。そして、埃一つない表紙を払った。「僕の日記を読んだのか」彼の声は低く、怒りに満ちていた。私は皮肉っぽく言った。「やっと認める気になったのね?」「時雨、あなた最低」氷室時雨の細長い指先は力を入れるあまり白くなっていた。彼は低い声で言った。「月城悠、誰の許可を得て僕の物に触った?」「いい子じゃないな」「それで、どうしたいの?離婚して、母さんに告白でもする
母と氷室時雨の繋がりを断つことが、この関係を解決する最善の方法だと思った。しかし氷室時雨は首を横に振り、薄ら笑いを浮かべた。陰鬱な顔が、さらに不気味に見えた。「月城悠、君はあんなに僕のことを愛しているのに、僕から離れられるのか?」「僕たちは7年間も一緒に過ごしてきたんだ。こんな些細なことで別れる必要はない。お互い冷静になって、それからもう一度よく話し合おう」氷室時雨は去っていった。あのノートも、彼の手の中にあった。散らかった床を見ながら、私は急に力が抜け、床に崩れ落ちた。真実が明らかになった瞬間は、思ったよりもあっけなかった。私は、氷室時雨が怒り、このバランスを壊した私を責めると思っていた。しかし彼は、まるで何とも思っていないようだった。私は彼のことがますます分からなくなっていた。私は彼に言われた通り冷静になることなどできず、家を出て、新しい住まいを見つけた。そして、全てのことを母に話した。しかし、話を聞いた母は、まず私を責めた。「悠、どうしてそんなに時雨を傷つけるの?彼は何も悪いことをしていないじゃない」「そんなことをしたら、彼をますます遠ざけてしまうわ。彼を呼び戻して、自分が間違っていたと謝って、許しを請いなさい」「行きなさい、早く!」私は、氷室時雨をかばう母の姿に唖然とした。まるで、子供の頃、父をかばっていた時のようだった。私ははたと気づいた。母の氷室時雨に対する感情は、父に対する感情と同じなのだ。依存。まるで菟糸子のように、他人に寄りかかって生きることに慣れている。私は深い無力感を感じながら言った。「お母さん、私は彼を呼び戻したりしない。彼と離婚する」「何だって?」母は叫んだ。「月城悠、どうしてそんなことが言えるの?どうして時雨にそんなことができるの?」いつもは優しく愛らしい母の顔が、今、鬼の形相になっていた。父は彼女を甘やかしすぎたのだ。そのため彼女は今、男は絶対であり、離婚などさらに許されないことだと思っている。もし父が彼女を愛していなかったら、彼女はどんな人生を送っていただろうか、想像もできない。叶わぬ恋に身を焦がし、生きていけなかったのではないか。
離婚後、私はすぐに海外渡航のビザを取得した。出発の時、父から珍しく電話がかかってきた。電話越しに、父は私の幼い頃のことを話してくれた。ぎこちない謝罪の言葉を聞いても。心には何も感じなかった。彼は話し始めると止まらなくなった。そしてついに、本題を切り出した。「悠、いつか家に帰ってこい。父さんは寂しいんだ」私はフライト番号を見ながら、静かに言った。「もういいよ、お父さん。私、行くから。きっと、お母さん喜ぶよ、これで、お母さんが、やっとあなたを独り占めできるね」続いて、悲鳴が聞こえてきた。「健吾、私が悪かったわ。もう薬を飲ませないで。とても苦しいの」私は笑った。父は狂人だ。そうでなければ、母が成人したばかりの頃に手を出したりはしなかっただろう。母がまだ大学生だった頃に私を産ませ、ペットのように自分の傍に閉じ込め、外の世界と一切接触させないようにしたりはしなかっただろう。それは愛ではなく、独占欲だ。私は電話を切った。彼らの歪んだ愛の物語を聞く気にはなれなかった。泥沼のようなこの家とは、もう私とは何の関係もない。「終わり」
氷室時雨は顔色一つ変えず、お父さんと呼びかけた。父は鼻で笑って彼を無視し、私の方を見た。彼の表情は一瞬で優しくなった。「悠、父さんがお前のために決着をつけてやる」父は、初めて父親としての責任を果たしてくれた。私は氷室時雨の目の前で、彼と離婚したいと言った。「よし、父さんが弁護士を用意してやる。離婚しろ、必ず離婚するんだ」「僕は離婚しない」氷室時雨は私の手を掴み、必死に懇願した。「悠、離婚はやめよう」私は彼の縋るような目を見て、冷たく言った。「絶対に離婚するわ。氷室時雨、あなたには吐き気がする」父の強硬なやり方の下。氷室時雨は訴訟を起こされ、離婚することになった。離婚届を受け取った日、彼はひどく落ち込んでいた。目の下は隈ができ、目は充血し、近づくと強いタバコの臭いがした。私は眉をひそめ、彼から距離を置いた。氷室時雨は私の行動を見て、力なく笑った。「最近、僕はあまりうまくいっていない」「君の父親に攻撃され、大学もクビになった」「悠、こんな僕を見て、満足か?」父が氷室時雨を攻撃するのは、時間の問題だった。彼がしてきたこと全てを考えれば、父が誰かを雇って彼を殺さなかっただけマシだ。彼は慣れた手つきでタバコに火をつけ、一服した。普段はタバコを吸わない彼が、まるでヘビースモーカーのようだった。彼は静かに言った。「君の母親に、あんな感情を抱くなんて、僕が卑劣だったことは分かっている。」「抜け出そうとしたが、彼女はあまりにもか弱い女性だった。君の父親が事故に遭ったばかりの頃、彼女はまるで頼るもののない花のように、風雨に晒されていた」「僕は彼女に頼られるのが心地よく、自然と彼女を守ろうとしていた」「それから、僕は同情と愛情の境界線を見失っていった」「僕が気づいた時には、もうすべてが遅かった。君は僕を必要としなくなっていた」私は静かに聞いていた。心にはもう、何も感じなかった。氷室時雨はため息をつき、タバコの火を消してから、急に卑屈な声で言った。「悠、もし僕が心を入れ替えて、もう一度君にプロポーズしたら、君は僕の元に戻ってくれるか?」彼の期待に満ちた目を見て。私は首を横に振った。「私は海外に行くの」彼は呆然とした。私は続けた。「もう、戻ってこないかもしれない」
母が怒り狂って私を指差すのを見ていた。いつもなら、父が彼女を抱きしめて慰め、ついでに私を少しばかり叱るのだが。今は父もいないし、彼女を慰めてくれる氷室時雨もいない。母の怒りは抑えられなくなっていた。母の甘えん坊体質は、骨の髄まで染み渡っている。彼女は病室の物を投げつけ、ガラスのコップが私の額に当たった。そして、母は再び私を絞め殺そうとしてきた。本当に、彼女が言った通り、私を殺そうとしていた。私は仕方なく彼女の手を掴み、正気に戻そうとした。しかし、彼女の力は驚くほど強く、私が窒息しそうになった時、誰かが素早く近づいてきて、彼女の手を振り払った。母は床に倒れ込み、呆然と犯人を見ていた。「時雨、どうして彼女のために私を突き飛ばすの?」氷室時雨は彼女を無視し、私の傷を丁寧に確認した。大したことがないのを確認すると、彼はホッと息をつき、厳しい口調で言った。「悠、どうして抵抗しないんだ?もし彼女に殺されたらどうするんだ?どうしてそんなに馬鹿なんだ?」母は涙を浮かべながら、氷室時雨に向かって叫んだ。「時雨、私こそが優よ!人違いをしているわ!どうして他の女を優と呼ぶの?」男を奪われた母は、もう平静を装うことができなかった。彼女は父を奪った時と同じように、泣き叫び始めた。氷室時雨は眉をひそめたが、我慢して彼女を追い出したりはしなかった。病室の入り口から、かすれた声が聞こえるまで。母は泣き止んだ。病室の入り口に立っている痩せこけた男を見て、彼女の悲しげな顔が喜びに変わった。「健吾」彼女は立ち上がり、父に向かって走り出した。「やっと目が覚めたのね、あなた。本当に寂しかったわ」しかし、父に近づく前に、父のボディーガードに止められた。「健吾、私よ、優よ」「止めてはいけません。私は健吾の妻で、あなたたちの社長夫人なのよ」父は冷たい表情で、顔色が少し青白かった。「小島優、よくも私を健吾と呼べるな。お前が何をしてきたか、私が知らないと思っているのか?」「家に帰ったら、仕置きしてやる」母の顔色が真っ青になった。私はすぐに理解した。父は母と氷室時雨の不貞行為を知っていたのだ。
足にギプスをはめられ、二日間の入院が必要になった。氷室時雨は入院手続きを終えると、私のベッドの横に腰掛けた。しばらくの間、私たちは二人とも口を開かなかった。私が離婚の話を持ち出すまで、彼は沈黙を守っていた。そして、小さく「離婚はしない」と言った。私の気のせいだろうか、氷室時雨は結婚前の彼に戻ったようだった。彼の私を見る目は再び優しくなり、まるで無数の星を秘めているかのようだった。「悠、もう母さんとは話をつけた。これからは、彼女に対しては親族としての愛情しか抱かない」「もう君の性格を変えるように強要もしない。もう一度やり直そう。今度は、もう二度と同じ過ちは繰り返さない。いいな?」教授だけあって、氷室時雨の優しい言葉と表情には、説得力があった。しかし、こんな嘘はもうたくさんだ。「氷室時雨、私たちにはもうやり直すチャンスはないわ」「今、あの汚らわしい出来事を思い出すだけで、吐き気がするの」「たとえ無理やり一緒にいたとしても、これから先、幸せにはなれない」愛情と親情、二重の裏切りを経験した後で、許せる人などいない。小島優は私を産んでくれた人だ。彼女を責めることはできない。しかし氷室時雨は違う。彼は許せない。私の入院を知った母は、病院にやって来た。美しいワンピースにハイヒールを履き、私の足首を心配そうに、それでいてどこか他人事のように見ていた。「どうしてそんなに不注意なの?」「時雨は?看病に来てくれていないの?」後半の言葉には、どこか嬉しそうな響きがあった。母は危機感を感じ、再び私を敵とみなしているのだと、私は悟った。私は彼女を正気に戻そうとしたが、男に頼るなと口にした途端。母は激怒し、私の頬を平手打ちした。「月城悠、私はあなたを産んだのよ。あなたは私を愛し、甘やかすべきなのに。こんなにも親不孝な子に育つなんて、子供の頃に絞め殺してしまえばよかった」「そうすれば、健吾もあなたに気を取られることはなかったのに」「時雨も、あなたのせいで私を捨てることはなかったのに」「本当に、あなたなんて大嫌い!」
私は冷笑しながら氷室時雨を見て、彼の返事を待った。彼は女性に頼られるのが好きなのではなかったか?今がチャンスだ。きっと逃さないだろう。私の視線の下、氷室時雨は冷静に運転しながら、冷淡に言った。「母さん、停電ならホテルに泊まってください。それに、海外旅行の件はなしだ。僕は妻と行くつもりだから」言葉が終わると、車内は静まり返った。数秒後、母の声が高くなった。「時雨、一人でホテルに泊まるのは怖いわ」「それに、あなたと悠は離婚騒ぎをしているんじゃないの?どうして急に彼女を連れて行くの?」「時雨、冗談はやめてちょうだい」氷室時雨は相変わらず冷淡で、以前の優しさは微塵も感じられなかった。「母さん、僕は冗談を言っているんじゃない。これからは、悠だけを連れて行き、悠にだけプレゼントを贈る」この一言が、過去と未来を分ける境界線となった。母は大声で叫んだ。「時雨、あなたは、私を捨てるの?」「私が何か至らなかったかしら?」「もしあなたが悠と離婚したいなら、すればいいわ。もう止めないから。お願いだから、そんな言い方をしないで。辛い」しかし氷室時雨は全く態度を軟化させず、冷淡に電話を切った。その後、母が何度電話をかけてきても、彼は一度も出なかった。考えてみれば、氷室時雨と母の年齢差はそれほど大きくない。彼は今年33歳、母は43歳。たった10歳しか違わない。当初、私が氷室時雨を好きになった時、9歳の年齢差は気にならなかった。むしろ、年齢差があった方が、喧嘩も少なく済むと思っていた。しかし、この経験を通して分かったのは、喧嘩の原因は年齢ではなく、性格が大きく関係しているということだ。
幸い、氷室時雨は金持ちで、一戸建てに住んでいた。だから、彼が仕事に行った後、私は2階から飛び降りた。ただ、不運にも、資料を取りに戻ってきた氷室時雨に見つかってしまった。私が飛び降りた時、風の音以外に、驚きの声が聞こえた。「月城悠!」私は芝生の上に倒れ込み、取り乱した様子でこちらに駆け寄ってくる氷室時雨の姿を見た。彼の顔から、ついに冷静さは消え失せていた。そこには、私が今まで見たことのない、うろたえた表情があった。まるで大切なものを失うことを恐れているかのような、恐怖に満ちた顔だった。私は思わず笑みがこぼれた。心が晴れやかになった。あの日記を見て、氷室時雨の卑劣な考えを知った時。私も恐怖を感じ、不安に襲われた。今、ようやく彼の顔に、同じ表情を見ることができた。彼は恐る恐る、怪我はないかと尋ねてきた。そして、私の捻挫した足首に触れると、すぐに目が潤んだ。「病院へ連れて行く」彼は震える手で私を抱き上げた。彼のこわばった顎を、優しく撫でた。「時雨、あなたも怖い思いをするのね」彼の表情が一瞬崩れ、信じられないという顔で私を見た。まるで今初めて、自分が恐怖を感じていることに気づいたかのように。私は愉快に笑った。氷室時雨は珍しく、何も言い返さなかった。彼は私を助手席に優しく乗せ、シートベルトを締めてくれた。その間、何度も電話が鳴ったが、彼は気づかないふりをしていた。車のディスプレイに見慣れた電話番号が表示されるまで。氷室時雨は無意識に、電話を切ろうとした。しかし、私が彼よりも先に通話ボタンを押した。母の優しく甘い声が、車内に響き渡った。「時雨、家が停電しちゃったの。今夜、あなたの家に泊まってもいいかしら?」「この間あなたが言っていた海外旅行のこと、考えたんだけど、私も一緒に行くわ」最後の言葉に、私は恥じらうような響きを感じた。
膠着状態が続いていると、氷室時雨の電話が鳴った。彼は私の目の前で電話に出た。彼の顔が一瞬で優しくなった。「母さん」ゾッとした。どうして私とキスしながら、母に優しくできるのか。母が何を言ったのかは分からなかった。氷室時雨の返事だけが聞こえてきた。「ああ、もう機嫌を直したよ」「安心してください、悠子とは離婚しない」「僕は彼女をとても愛している」彼は私から目を離さず、愛という言葉を発した時、目を細めた。私が顔を背けると、次の瞬間、彼は携帯電話を私の耳に当てた。「母さんが君と話したいそうだ」私は目を閉じ、母の言葉を一言一句聞いていた。「悠、時雨と喧嘩しないで。彼はあなたをとても愛しているのよ。あなたがわがままを言うと、彼は悲しむわ」「男の人は一度傷ついたら、もう元には戻らないのよ」「私のようにしなさい。私は一度も健吾を悲しませたことなんてないわ」母の声には得意げな響きがあった。まるで、男に従うことがどれほど素晴らしいことであるかのように。電話を切ると、氷室時雨は何事もなかったかのように私の前にしゃがみ込み、私の手の甲を撫でた。「悠子、君は母さんのようにするべきだ。もし君が僕にもっと依存して、もっとか弱く振る舞えば」「僕は他の女に目もくれなくなる」彼は何かを思い出したかのように、眉をひそめ、悩んでいるようだった。「でも、君は強すぎて自立しすぎている。僕はそれが好きじゃない」私がどうして強くなったのか、氷室時雨は誰よりもよく知っているはずだ。父の目には母しか映らず、母の目にも父しか映っていなかった。父にとって、私は母を繋ぎ止めておくための道具でしかなかった。彼らは私に金はくれたが、愛を与えてはくれなかった。だから私は子供の頃から、人に頼るよりも自分の力で生きていくことを学んだ。氷室時雨は私の家庭環境を不憫に思い、同情してくれたこともあった。それなのに、あっという間に私の母に夢中になってしまった。要するに、彼はか弱くて甘えるタイプの女性が好きなのだ。「時雨、私は一生、母のようにあなたに頼ったりしないわ。諦めなさい」その夜、私と氷室時雨は喧嘩別れした。彼は私が家を出ることを許さず、鍵とパスワードを変えてしまった。こうすることで、私を屈服させようとし
「この問題を解決する一番の方法は、離婚して、あなたが私の前から永遠に消えることよ」私の決意は、氷室時雨の目には子供の遊びのように映ったようだ。彼は私を家に連れ戻り、私の目の前で母に関係するものを全て引っ張り出した。日記だけでも、3冊もあった。彼が家中をひっくり返し、金属製のボウルを取り出すのを見ていた。「これらのものを燃やして、この件は終わりにしよう。僕たちはやり直すんだ。いいな?」彼の冷静さに、私は唖然とした。氷室時雨と初めて会ったのは、大学1年生の入学式だった。彼は教師代表としてスピーチをしていた。クールな顔つき、澄んだ声。私はまさに、彼に一目惚れしたのだ。後に、彼は私たちの授業を受け持った。大学生は遊び好きだが、彼の授業では誰も騒いだりしなかった。遅刻や早退をする学生もいなかった。私は彼の指導力に感服し、どんな時でも冷静沈着な彼の雰囲気に惹かれた。しかし今、私は彼の冷静さを憎み始めていた。こんなにも気持ち悪いことをしておいて、どうしてやり直そうなんて言えるのだろうか?私は皮肉っぽく、彼が迷うことなく日記帳に火をつけ、母に関するもの全てを燃やすのを見ていた。彼が私の額に優しくキスをするのを見つめた。彼は言った。「悠、君の母親に対しては、ただの男の本能に突き動かされただけだ。僕が愛しているのは、最初から最後まで君だけだ。もう喧嘩はやめよう、な?」男の本能?私は皮肉を込めて笑った。「男の本能で、3冊もの分厚い日記が書けるの?事細かに彼女の日常を記録できるの?」「氷室時雨、今、あなたが母に抱いている気持ちのことを考えると、吐き気がするの......うっ」氷室時雨は突然キスしてきた。いや、これはキスとは呼べない。彼はまるで噛み砕くかのように、唇を押し付けてきた。唇がしびれ、息苦しくなった。彼のぬるぬるした舌が、私の口の中に侵入しようとしていた。私はためらうことなく、彼の舌を噛んだ。途端、口の中に血の味が広がった。それでも、氷室時雨は唇を離さなかった。私が窒息しそうになった時、彼はようやく少しだけ唇を離し、額を私の額に押し付けた。「悠」「気持ち悪い」彼は少し間を置いてから、笑って言った。「分かった、もう悠とは呼ばない」「悠子、もう喧嘩はよそう。な
私は佐藤行也と共に監視カメラの映像を確認しにいった。映像は2年前、父が交通事故に遭った直後まで巻き戻された。最初は、何も変わったことはなかった。氷室時雨が母を慰めるように背中をさすり、母が泣きながら彼の胸に倒れ込む姿を見るまでは。それ以降の映像は、徐々に異様な雰囲気を帯びていった。私の背中は冷や汗でびっしょりになり、胃がひっくり返りそうだった。佐藤行也は金縁眼鏡を押し上げ、同情の眼差しで私を見た。私はかすれた声で尋ねた。「佐藤先生、あなたはいつ彼らが......」私は急に言葉に詰まった。近親相姦?それとも不倫?どれもふさわしい言葉が見つからない。佐藤行也は監視カメラの映像を消し、私を狭い暗い部屋から連れ出した。「月城さん、私もつい最近偶然見つけたんです。これらの映像は、私が調べたわけではありません。もし不安であれば、映像を消去することもできます」これは病院の監視カメラの映像だ。私が勝手に消去できるはずがない。私は首を横に振った。「もういいんです。私はすでに彼の本性を知っています。これで結構です」ただ、父が気の毒だ。どれほどの彼らの情事を聞いてきたのだろうか。私は父にもう少し話しかけてから、病院を後にした。病院の玄関に着くと、母が氷室時雨と並んで歩いてきた。私たちはそこでばったりと出会ってしまった。氷室時雨は無表情に私を見ていたが、母は生き生きとしていて、首には新しいネックレスが光っていた。母は私の手を引いて、氷室時雨の掌中に置いた。「悠、もう時雨と話をつけてきたわ。彼はあなたと離婚しないから、心配しないで」私は、自分がどこで少しでも心配している素振りを見せたのか分からなかった。私は明らかに、一刻も早く彼と離婚したいと思っていた。母は氷室時雨にもう少し話しかけてから、病院の中へ入っていった。二人きりになると、氷室時雨の表情は冷たくなった。「まだ僕に反抗するのか?家にも帰ってこないか」私は静かに言った。「もう離婚協議書をあなたの職場に送ったわ。時雨、今回は本気よ」以前にも、彼と喧嘩したことはあったが、それはただの子供っぽい意地だった。しかし今回は違う。本気なのだ。周囲は静まり返り、空気が重く感じられた。氷室時雨は急に私に近づいてきた。彼の大きな影に