第2話

そう言うと、近くの壁に向かって吐いてしまった。

その場に立ち尽くした。身体が硬直し、手足が自分のものとは思えない。自分の汗の臭いがひどく誇張されて、神経を逆撫でする。

咄嗟に仕事着で手のひらの汗を拭った。

でも、服も汗で濡れて、埃だらけだ。汚らしい、みすぼらしい姿。

忘れかけていた。神谷さんに私が外で苦労していることを知られたくなくて、いつもお風呂に入って着替えてから家に帰っていた。

彼は私が、彼に軽蔑されている「その人たち」の一人だなんて、知る由もなかった。

神谷さんは私より先に家に着いていた。

ソファに横たわっていて、バーでの装いはすっかり変わっていた。私がネットで買った安物のTシャツを着ていて、御曹司の面影は全くなくなっていた。

腕をだらりと下げて、スマホを握っていた。

物音を聞いて、神谷さんは目を開けた。

「ベイビー」と呼んだ。

神谷様が私を「ベイビー」と呼ぶなんて。

誰かに話しても信じてもらえないだろう。

彼を見つめて、やましさの表情を探してみたけれど、何もなかった。

彼は演技が上手い人だった。

スペアリブとパクチーをキッチンに置いて、色々な思いを押し込めて、笑顔で言った。「もう遅いから、早く寝よう」

神谷さんはソファから起き上がって、キッチンの入り口に立っていた。

近づいても来ないし、腕を組んで、時々鼻をつまんでいた。

彼に背を向けて水道で手を洗うけれど、まだあの臭いが残っているんじゃないかと気になって仕方がない。

「ベイビー、お粥は作ってくれなかったの？飲みたいって言ったのに」

「スペアリブも買ってたのに、どうして早く帰ってきて作ってくれなかったの」

神谷さんはお酒に酔うと子供っぽくなって、わがままを言う。

いつもは彼の言うことを聞いて、どんなに遅くてもキッチンでお粥を作って、パクチーを綺麗に洗って、細かく刻んで、白粥の上に散らしていた。

それから何度も何度も手を洗う。

パクチーの匂いが苦手だから。

ただ、その時は文句も言わずに、でも心の中では思っていた。どうして粥にパクチーを入れるんだろう？

神谷さんは返事がなくて、少し後ろめたい気持ちもあったからか、珍しく怒らなかった。「でも君の言う通り、もう遅いね。先にお風呂に入ってきなよ」

「聞いてくれよ、今日の付き合いの後さ、汗臭い人がいて、気分が悪くて吐いちゃったんだ」

「ベイビー、頭が痛いんだ。後で揉んでくれる」

水道からはまだ水が出ている。

でも手を洗っているはずの人は、ずっと動かない。

しばらくして、水を止めて言った。「うん」

ベッドに入った。

神谷さんは後ろから私を抱きしめて、顔を首にうずめて、深く息を吸い込んだ。「ベイビー、いい匂い」

彼が私が駆け寄った後に吐いていた光景が脳裏をよぎって、そっと彼を突き放した。

「神谷さん、私に何か言うことはないの」

彼の嘘つきな目を見つめた。

神谷さんは一瞬戸惑った顔をしたが、すぐに我に返った。

「ああ、言い忘れてた。ベイビー、また二週間くらい出張することになった」

「出張」

神谷さんは仕事に就いてまだそんなに経っていないのに、もう何度も出張に行っている。

そんなに無理しないで、大丈夫だよ、って言ってあげたのに。

神谷さんは言った。「ベイビー、出張には手当てが付くんだ。君に色んなアルバイトをして欲しくないから」

嘘だ。

嘘つき。

心の中で繰り返して、目を閉じた。

彼が電気を消した後、言った。「行ってらっしゃい」

「僕のことを思ってね」

神谷さんは耳元でそう囁いた。

翌朝起きたら、隣にはもう誰もいなかった。全て夢だったんじゃないかと思った。

「何でそんなこと聞くの」

愛莉ちゃんは濃い化粧をして、指先に細いタバコを挟んで、気だるそうに言った。

「ちょっと気になっただけ」

手についた埃を払い落とした。薄汚れた私は、彼女とはまるで違う世界の人間みたいだ。

昨日の夜からずっと考えていた。賭けって何のことだろうって。

きっと上流階級の遊びなんだろう。

私は上流社会の人を知らないから、彼らとよく関わりのある愛莉ちゃんに聞くしかなかった。

愛莉ちゃんは意味ありげに笑った。

「あの賭けね…...お金持ちの遊びだよ」

「私も詳しくは知らないけど」

「神谷様がゲームに負けて、友達が罰ゲームを思いついたんだって」

「適当に街で貧乏な女の子を見つけて、貧乏なふりをして口説いて、付き合った後は全部彼女に養ってもらうっていう」

「ある日突然彼女に言うわけ。『ハハハ、実は俺は〇〇なんだ。お前が今まで俺に使った金なんて、俺の一週間の生活費にも満たないんだよ。俺たちとの格差がわかったか？慰謝料だ、このカードを持っていけ』って」

「さっさと消えろ」

愛莉ちゃんの目に羨望の気持ちが渦巻いているのがわかった。

彼女は言った。「私だったら、そのカードを持ってすぐに出ていくね。金額が大きかったら、むしろ彼を祀っちゃうかも」

「だって金づるじゃん」

なぜかその言葉にツボってしまって。

突然笑い出した。

涙が出てきても、まだ笑いが止まらない。

愛莉ちゃんは化け物を見るように私を見た。「美奈！どうしたの？私のことを笑わないでよ。色んな事情を抱えている人はたくさんいるんだから」

彼女は深くタバコを吸い込んで、吐き出された煙で顔が霞んだ。

「お金って、この世で一番大切なものだよ」

やっと笑いが収まって、目尻の涙を拭いて、首を横に振った。

母親が亡くなった後、私にのしかかる莫大な借金を思い出して、頷いた。「そうだね」

本当は、神谷さんと出会う前も、私はそうやって生きてきた。

勉強して、アルバイトして、また勉強して、お金を稼いで。

忙しく毎日を過ごしていると、人生が先まで見えているような気がしていた。

ある日、チラシ配りをしていたら、神谷さんがわざわざ私の前を何度も通って、何枚もチラシを受け取って、最後にペットボトルの水をくれた。

白い歯を見せて笑って言った。「本当は冷たい水をあげようと思ったんだけど、女の子は冷たすぎるのは良くないかなって」

彼は蓋を開けて、私に手渡しながら、冗談めかして言った。「まさか、嫌じゃないよね」

汗だくの私は、バケツ一杯の水でも飲めそうな気がしていた。何を嫌がる必要がある？

「ありがとう」

そう言った。

あの時は、彼は本当にいい人だと思っていた。今は、全てが茶番に思える。

出会いさえも賭けによって仕組まれていた関係なんて、続ける意味なんてない。

「別れましょう」

少し考えて、一文字ずつ消去した。

ふと愛莉ちゃんの言葉が頭に浮かんだ。「お金って、この世で一番大切なものだよ」

迷っている時、画面上部にニュース記事が表示された。

「神谷グループの御曹司、海外でショッピングモールを貸し切り妹にプレゼント」

普段なら見ないニュースだけど、今回はどういうわけか気になってクリックしてしまった。