それは紛れもなく母の声であった。「何を迷っているの?この件については既に話し合ったはずだ。今更になって躊躇われるの?」祖母の声には怒りこそないものの圧倒的な威厳が滲み出ており、母はそれ以上何も言えなくなってしまった。彼女たちはさくら姉に何をしようというのか?二人が霊堂に入ってくる気配を感じ、私は咄嗟に棺の下に身を隠した。祖母は周囲を警戒するように見回すと母に尋ねた。「今、何か物音がしなかったかい?」臆病な母は祖母の腕にしがみつきながら、震え声で答えた。「ま、まさか…さくらの霊が戻ってきたのでは…」「非業の死を遂げた者は…」その言葉が終わる前に、祖母の平手が母の頬を打ち据えた。「愚かなことを!我が村への貢献ができるのは、さくらにとって最高の福分なんだ」「でも…さくらは私の実の娘なのです」母は腫れ上がった頬を押さえながら、涙を流し始めた。祖母は一瞬動きを止め、その表情に深い苦悩の色が浮かんだ。「さくらの死を、この私が悲しまぬわけがあろうか」「もういい。誰もいないこの機を逃すわけにはいかぬ」そう言うと、祖母は金の壺と一本の管を取り出した。管の一端を壺に差し込み、つま先立ちでもう一端を棺の中へと挿入したのである。立ち込める血の生臭い匂いに、私は強烈な吐き気を覚えた。声を漏らすまいと、必死に口を押さえる。静寂に包まれた霊堂に、ただ不気味な液体の流れる音だけが響き渡る。彼女たちは一体さくら姉の血を何に使おうというのか。祖母は金の壺を揺すりながら、不満げに眉を寄せた。「たったこれっぽっちか?贅沢な食事を与え続けたというのに、こんなに僅かな血しか集まらぬとは。この肌も然り。高価な玉肌の軟膏で手塩にかけて育てたというのに、未だ弾力が足りぬ。私の身には窮屈すぎる。全てはみどりの監視不行き届きのせいだ!さくらに処女を捧げさせてしまうとは。まさか、私を死に追いやろうというつもりか!」祖母は母の襟首を掴むと、容赦なく平手打ちを浴びせ続けたのである。母は腫れ上がった頬を押さえたまま、ただ涙ながらにどうすればよいのかと問うことしかできなかった。祖母は金の壺を抱きしめながら、冷徹な声で告げた。「れいなとゆめ、どちらか一人を選びなさい」そう言い残し、祖母は金の壺を抱えたまま立ち去った。母は霊前に置かれた火鉢を
れいな姉の歓楽の時間は、祖母の突然の来訪によって終わりを告げた。「れいな!何という所業だ!」祖母は驚くべき俊敏さでれいな姉に飛びかかり男から引き離した。黒髪を掴まれ、れいな姉は否応なく祖母と向き合わされる。興奮で頬を赤く染めたれいな姉は、瞬時に反撃に転じた。祖母の顔の皮膚を掴み、まるで剥ぎ取らんばかりに引っ張ったのである。祖母の悲痛な叫び声が祭殿に響き渡った。「ハハハハ!おばあさま、私たち孫娘たちを一番かわいがってくださるんじゃなかったの?祭殿にこんな男たちがいるなんて、どうして黙っていたの?まさか、おばあさまの独り占めにするつもりだったのかしら?」祖母は怒りに震え、れいな姉に手を上げようとした。れいな姉は逃げる気配すら見せず、冷静な手つきで刀を取り出すと、男の喉元に突き付けた。わずかな圧力で、その首筋から血が滲み出る。「やめなさい!」祖母は男の血が床に落ちることを恐れながらも、近づくことはできなかった。れいな姉は勝ち誇ったような表情で、祖母に立ち去るよう命じる。祖母には選択の余地がなかった。しかしれいな姉は不敵な笑みを浮かべたまま、突如として男の喉を切り裂いた。鮮血が噴き出し、銀白の床面が深紅に染まっていく。「これで終わりよ、ババア!」れいな姉は狂気じみた笑みを浮かべる。「私の体が欲しいだなんて、死んでしまえ!」「ハハハハ…」しかし、さらに凄まじい狂気の笑い声がれいな姉の声を覆い尽くした。「ま、まさか…どうして何ともないの?男の血が床に落ちれば…」その言葉が終わらぬうちに、れいな姉の細い首が祖母の手に絡め取られた。尋常ならざる怪力で、れいな姉はいくら抵抗しても逃れることができず、喉から絞り出されるような呻き声を上げるばかりであった。「この愚か者が、私如きと渡り合えると思ったのか」祖母の周到な策略が明らかになった。既に祭殿の床には防水布が敷かれていたのである。「さくらの霊堂で隠れているつもりだったのかしら?慌てふためいて、着物の裾すら隠せていなかったというのに」祖母はれいな姉の頭を容赦なく床に叩きつけた。鈍い音が幾度も響き渡り、れいな姉の額から血が滲み出る。「霊、霊堂って…何のこと…」「違う…あれは…」さらに言葉を紡ごうとしたれいな姉だが、祖母が苛立ちの表情で指に力を込めると、そ
そこは山の洞窟というよりも、まるで帝王の宮殿であった。玉で造られた階段を踏むたびに、透き通るような清音が響き渡る。岩壁には拳大の夜光珠が幾つも埋め込まれ、幻想的な光を放っていた。足音を消すため着物を裂いて足を包み、一段一段慎重に階段を降りていく。玉の階段を下り切ると、広大な空間が広がっていた。その中央には巨大な池があり、鮮血のような赤い液体が満ちている。吐き気を誘う生臭い匂いが漂っていた。それは間違いようのない、濃厚な血の臭気である。まさか、この池は人血で満たされているというのか?血に満ちた池の中央に一つの亡骸が浮かんでいた。血に薄められなければ、それが人の形をしているとさえ分からないほどである。玉柱の陰から、私は祖母が血の池から引き上げた死体を地面に投げ出す様子を見守った。そこに横たわっていたのは、なんとさくら姉の姿であった。その虚ろな瞳が、私を責め立てるように見つめていたのである。悲鳴を上げないよう必死に口を押さえる。理性は「見てはいけない」と警告を発しているのに、呪いにでも掛かったかのように、首が思うように動かない。震える右手で自分の顎を掴み、必死に顔を逸らそうとする。「愚かなれいなめ、血石床となって永遠に人々の足下に置かれるがよい!」祖母は不敵な笑みを浮かべながら、れいな姉の足を掴んで逆さまにしていた。鮮血が滴り落ちる度に、池の色は濃紅色を増していく。最後の一滴まで抜け落ちると、祖母はれいな姉の体を無造作に血の池へと投げ入れた。木の棒を手にした祖母は、まるで工芸品でも作るかのように、れいな姉の位置と姿勢を細かく調整していく。祖母の秘術によってか、血の池は次第に固まりはじめ、やがて硬質な血石と化していった。そこには、まるで太古の琥珀に封じ込められた生物のように、れいな姉の姿が永遠の時を刻むように閉じ込められていたのである。「二人分の血が混ざったためか、今年の血石は例年以上の出来栄えだね」祖母は夜光珠の光を頼りに、血石の全てを細部まで吟味していく。亀裂も不純物も、微塵も見当たらない。「少し磨きをかければ、すぐにでも取引に出せるわね」伝説の若返りの血石床は、こうして作られていたのか。毎年、氏族から娘たちが姿を消す理由が、今になって明らかになった。人の皮を自在に纏い、人を血石へと変える
「ゆめ、おりこうさんだから、玉肌の軟膏をつけましょうね」祖母は背後から私の頬に手を伸ばし、たっぷりと掬い取った玉肌の軟膏を容赦なく塗り込んでいく。「ゆめは頭の良い子だと分かっているわ。でもね、余計な知恵は身を滅ぼすだけよ。ゆめのお姉さんたちの二の舞にはなってほしくないもの」死斑の浮かぶ、その手が顔を這い回る感触に私は息を呑んで固まるしかなかった。腐敗の臭気が鼻腔を突き抜ける。堪え切れず、「げぇっ」と嘔吐してしまった。祖母の衣服を汚してしまい、その報いは即座に下された。平手打ちの衝撃で、私は机の角に激しく打ち付けられた。右目から溢れ出る血に視界が霞む中、祖母は眉を寄せながら私の頬を優しく包み込んだ。だが、その囁きは背筋も凍るような言葉だった。「こんな美しい肌を台無しにするのは、もったいないことね」「あの夜のこと、全て見ていたのでしょう?私にはゆめの気配が分かっていたのよ。れいなと同じ運命を辿りたいのかしら?」祖母の親指が私の喉を這うように動く。その指が少し力を込めれば、私の命など一瞬で摘み取れることは明白だった。れい姉が殺された夜、私は身を潜め母も私を守ってくれた。だが、祖母は全てお見通しだったのだ。恐怖に震える私は、祖母の暴力で意識を失った。翌朝早く、目覚めた私を待っていたのは、洞窟の中で柱に縛り付けられた自分の姿だった。「ゆめや、なぜ私の言うことを聞けないの?」「ふん、ババア」私は憎悪の眼差しを向けた。「あなたなんか私の祖母じゃないわ」「さくら姉もれい姉も、そして村の人々まで殺したあなたを、私は死んでも許さない。この恨み、必ず報いてやるわ」私の言葉に、祖母は狂気じみた笑みを浮かべた。「まあ、こんな風に罵られるのも久しぶりね」私の顎を掴みながら、「この皮が必要なければ、今すぐにでも一寸一寸、生きたまま切り刻んでやるところよ」と告げる。それ以上の言葉もなく、母に命じて私を中央の木枠まで引きずらせた。そして細い釘が、私の手足を容赦なく貫いていく。激痛が全身を走る。細い釘が手のひらを貫く度に、冷や汗が止めどなく流れ落ちた。全ての準備が整うと、祖母は衣服を一枚一枚脱ぎ捨てた。そして十本の指を胸の中心に当て、鋭い爪で皮膚を引き裂き始めた。生々しいシュルシュルという音と共に、皮膚が肉から剥が
私たちの村は深い山奥に位置し、貴重な血石脈が眠っている。言い伝えによれば、血石で作られた寝台で眠り続けることで、永遠の若さを手に入れることができるのだという。血石は発見も採掘も困難を極めるため、私たちの村は豊かな暮らしを営んでいる。だが、この村には女性しか存在を許されていない。私には二人の姉がいるが、本来なら三人の兄もいたはずだった。しかし彼らはこの世に生を受けた直後に命を絶たれてしまったのである。私はかつて、氏族による男児の処刑を目の当たりにした。産声を上げたばかりの赤子の口は押さえつけられ、一筋の泣き声すら許されなかった。「男という存在は生まれながらにして卑しいもの。その泣き声が山の神様の怒りに触れれば、私たち氏族は破滅への道を辿ることになるんだ!」奥山の深い淵へと連れて行かれた男児は、そのまま水中へと投げ込まれた。わずかにもがく姿を見せただけで、あっという間に闇の中へと沈んでいったのである。私が恐る恐る覗き込んだ淵の中には、数えきれないほどの頭蓋骨が浮かんでいた。長い年月を経た骨は虫に蝕まれ、もはや人の頭蓋骨とは認識できないほど崩れていた。祖母は村の宗主として君臨し、大小すべての事柄を采配している。その命令に逆らう者など、誰一人としていない。さくら姉は十八歳。もうすぐ、成女儀式を迎えることになっているのである。ところが、普段から溺愛していたはずの祖母は、さくら姉の参加を頑として許さなかった。甘えようとしたさくら姉の頬には、厳しい平手が見舞われたのである。「生意気な!参加は認めないと言ったはずだろう」九十九という高齢にもかかわらず、祖母の腕力は衰えを知らなかった。さくら姉の頬は見る見るうちに腫れ上がっていく。愛しい孫娘の瞳に涙が浮かぶのを見て、祖母は深いため息をつくと、さくら姉の滑らかな頬に手を添えてこう語りかけた。「すべてはさくらちゃんのためなのよ。成女儀式に参加してしまえば、もう宗主の座に就くことはできなくなってしまう」その言葉を聞いたさくら姉は、喜びに満ちた表情で祖母の腕にしがみついた。「私を、宗主にしてくださるのですね!」祖母は微笑むだけで言葉を返さなかった。痩せ衰えた手でさくら姉の白磁のような腕を撫でながら、その目には年齢を感じさせない鋭い光が宿っていた。艶やかな衣装に身を包んだ少女た
必死で窓枠に手をかけ、中の様子をもっと覗き込もうとした瞬間、手が滑って転落してしまった。その拍子に足首まで捻ってしまったのである。「早く戻りましょう」と急かすと、さくら姉は「もう少し」を繰り返すばかり。結局、たっぷり一時刻も過ぎてから、ようやく姿を現した。私は壁際で痛む足首を摩りながら、さくら姉の姿を待っていた。「ゆめちゃん、少し支えて」さくら姉は荒い息を繰り返し、まるで水浴びを終えたかのように全身を濡らし、私の体に寄りかかってきた。壁を越えようと姉を支えた時、ふと上を見上げてしまい、さくら姉が下着すら身につけていないことに気付いてしまった。祭殿の中で何があったのかと尋ねると、さくら姉は頬を染めて口ごもり、しばらくして「からかわないで。ゆめちゃんも大人になれば分かるわ」とだけ答えた。ふん、教えてくれないのなら、この目で確かめてやる。お腹が痛いと嘘をつき、さくら姉と別れて、こっそりと祭殿へ引き返したのである。そこで目にしたのは、大勢の人々に何かを運び出すよう指示を出す祖母の姿であった。厚手の油紙で包まれた細長い荷物を、二人がかりで運び出している。その時、一人が足を滑らせて階段で転倒し、油紙が破れてしまった。祖母は慌てた様子で荷物を入念に確認すると、幾重にも油紙を巻き直すよう厳命したのである。私は恐怖に震えながら、壁の陰に身を潜めた。破れた油紙の隙間から覗いていたのは、紛れもなく蒼白い人の手であった。「これらを至急処理するように。新しい品が間もなく到着する」祖母は威厳に満ちた声で、先頭に立つ四番目の叔母に命じた。一行は荷車を引いて山の中へと消えていった。私はその場に崩れ落ち、長い間、現実感を取り戻すことができなかった。私は帰宅するなり高熱に見舞われ、その後数日にわたる成女儀式を見ることは叶わなかった。さくら姉は毎晩、祭殿へと壁を越えて通っていた。見張り役が不在のため、すぐに戻ってくると、何やら満ち足りた表情で眠りについていくのである。その間、祖母が見舞いに訪れた。私は殺人の件について問いただそうとしたのだが―言葉が喉まで出かけた瞬間、祖母の荒れた手が私の手の甲を撫で、鋭い痛みが走った。数日ぶりに目にした祖母の手は、もともと痩せ細っていたものの、さらに荒れてひび割れ、まるで剥がれ落ちそうな