物心がつく前から我が家に母はいなかった。でも、確かに記憶にはかすかに母親の記憶がわずかに残っており、物心がつく頃には母はてっきり死んだものだと思い込んでいた。思春期に入り、世の中のいろいろなことがわかるようになってから、母は育児放棄のために出て行ったのだということを知った。
記憶の限りほとんど俺は父と二人で生活してきた。元々フリーランスの父は仕事を在宅で行い、家事のほとんどをしながら俺を育てた。
「あーなんか記念日か何だっけ?」
「いやな、別にそういうんじゃないだが」
「なんだよ、その言い方。なんか気持ち悪いな」
「ああ、いや……会ってもらいたい人がいるというか」
「だれに?」
「母親だよ――」その言葉を聞いた瞬間に、何をいまさらと思った。
「今更会いたくなんてないよ。俺を捨てた親だろ? 俺の家族はあんただけで十分だ」
「ああ、そういう意味じゃなくてだな……」
「なんだよ、じゃあどういう意味なんだ?」
続く言葉で、ようやく理解が追い付いた。父は昔から、一言足りない。
「――新しい、お母さんだ」
その意味を考えるのにしばらくの時間がかかった。たぶん、二、三秒なのだろうけれど、随分長い時間がかかったという印象だ。
「――そうか、おめでとう」
「いやじゃ、ないのか」
「いやというか……もともと母親の記憶なんてないようなものだし、この年になって新しいおかあさんなんて言われても実感ないな。俺にしてみれば、新しい母というか、父の新しい妻という感じだな。だから、なにも遠慮することはない」
「一緒に住むことになるかもしれないが……」
「部屋なら空いてる。二人で住むには広すぎるくらいには」
「そうか……会ってみて、もし嫌なら別にいいんだ。無理強いはしない」
改めて無駄に広い家を見渡す。郊外とはいえ庭付きの一戸建てに俺達親子は住んでいる。俺が生まれる前に建てたマイホームは、おそらく俺の妹や弟まで想定して建てたものだろう。実際その家に妹や弟が生まれることもなく、母親さえもいなくなった家は空き部屋だらけの無駄な家だった。
「どんな人だ?」
「かわいい人だよ」
「歓迎だ」
「あと、娘もいる。お前の妹だ」
「……悪くない」
よくあるラブコメの妹を想像した。生意気だけどなんだかんだで兄のことが大好きな妹だ。そしてそんな都合のいい話があるわけないという気持ちもまたあった。
週末の夕方、俺たちは町の小さな居酒屋へと出向いた。堅苦しいレストランや料亭でなくて気が楽だ。新しい母親はそういう堅苦しい店が苦手なのだという。その点だけを取って言えば気が合いそうだ。
居酒屋の奥の掘りごたつで父と俺は隣同士並んで座った。向かい合わせならまだしも隣に並ぶというのは何か変な気分だ。週末とあって客の入りもなかなかでにぎやかだった。会話をするには少し、大きな声を出す必要があるかもしれない。借りてきた猫でいるわけにはいかないだろう。父の、今後の幸せのためにも。
しばらくして若い女性がやって来た。
「ごめんなさい。遅くなっちゃって、娘のほうももうすぐ来ると思うから」
俺たちの向かいに座ったその女性は、見たところ年齢は大学生から二十代半ば。
茶髪で少し化粧の厚い、いわゆるキャバ嬢っぽい印象の女性だった。
正直なことを言えばその時点で俺の夢の一つは崩れたんだと思った。かわいい妹なんて想像ははかない。彼女の娘であれば、若気の至りでできた子供だとしてもまだまだ幼い少女だろうと。
「初めまして。あなたが蒼君ね」
「は、初めまして」
やや化粧がケバイとはいえ、整った鼻頭と大きな瞳はそれなりに緊張を誘う。
「芹香さんだ」という父に続き「芹香です」と頭を下げる彼女に対して、またずいぶんと若い女をたぶらかして――などという言葉を用意したが、間を置かず父が言った言葉、「実は、芹香さんは俺の学生時代の同級生なんだ」という言葉。一瞬冗談なのかと思った。
たしか父が今年で四十……いや、ありえないだろ。
「ふう……それにしても喉が渇いたわ。とりあえず、何か頼みましょ」
メニューを開き、芹香さんはビールを、俺と父はウーロン茶を注文し、それと何となくつまみになりそうなものを数点。
飲み物が到着し、「とりあえず乾杯しましょうか」という芹香さんの言葉と同時に、遅れた彼女の娘が到着した。
芹香さんが父と同じ年であるならば、その娘もまた、俺と年が同じくらいだということは自然に考えられることだった。
茶色いキャミソールとベージュのショートパンツからむき出しになった白い四肢が長く伸び、それらは不安になるほどに細くて長い。柔らかい黒髪の揺れる表情は整いすぎている。
まるで意地悪く嘲笑するかのように上がった口角から覗く白い歯がとても印象的だった。 ようやく今まで茉莉の言っていた言葉の意味がつながった。それに担任もだ。俺の隣の席が空いていることに「ちょうどいい」なんて言ったのもすべて知っていたのだろう。つまり、俺だけが何も知らされていなかった。 茉莉とは今まで何度となく話をしてきたし、芹香さんもずいぶんと社交的な性格だ。いつの間にか緊張は解け、砕けた話もできるようになった。「それでね、蒼君さえ問題なければ、ゆくゆくはあの家に一緒に住まわせてもらおうと思っているの」 芹香さんの言葉の言う『あの家』という言い方から、きっと何度か訪れたことがあるのだろうと推測できる。父は在宅で仕事をしているし、俺が学校に行っている間に誰かやってきていたとしても俺が知る由もないだろう。 おそらくもうすでに住み着く準備も始めている。その手始めとしてこの町に引っ越して、俺の学校へ転入してきたのだ。「別に、引っ越してくるならいつでもいいですよ。ほら、どうせ部屋だって余っているしさ。今のアパートだって、お金かかっているんだろうし。そのお金だって、言ってしまえばこれからはおんなじひとつの家庭の金なわけだろ。だったら節約できるところは節約すればいいと思う」「ふふ、蒼君はまだ若いのに経済観念がしっかりしているのね」「いや、別にそれほどでも……」 多分経済観念がはっきりしているという話ではないのだと思う。俺は小さなころから父の背中だけを見て育ってきたし、その背中にも憧れてはいた。自分も早く父のように独立した大人になりたいと思っていたのだ。だけどそれと同時に、そんな父ですら手に入れることの叶わなかった幸せそうな家庭、というものにも憧れがあった。 大人になったらできるだけ早いうちに家庭を築き、立派な大人になりたいと思い、高校に入るなりアルバイトも始めた。早いうちに自立できるだけのお金をためておきたかったのだ。 それに、俺にはこれといった趣味を持ち合わせていない。ゲームもあまりやらないし、映画や音楽に関してもそれなりに興味はあるものの、世間一般で言う〝それなりに〟以上の感情は持ち合わせていない。 父は読書が趣味で、それが昂じて職業としている。それもあるからだろうけれど、どうしても読書を趣味にしようとは思わなかった。子供のころはそれなりに読んではいたの
茉莉たちが家に引っ越してきたのはそれからすぐのことだった。〝早い方がいい〟といったのは俺だが、まさかこんなに早く越してくるとまでは思っていなかった。いつまで住むかも決まっていなかった茉莉たちの住居はマンスリータイプのマンションだった。夏休みの間に越してきて、ちょうど一か月を迎えるところだったので、いっそのことと言って急いで解約したらしい。 芹香さんの部屋はなく、父と同じ寝室を使うということだ。夫婦になるというのだからまあそれもいいだろう。芹香さんの荷物は段ボールのまま一階の使っていない和室に倉庫のように押し込んだ。二階に上がって俺の部屋のすぐ隣が茉莉の部屋になった。「うわー、ほんとにこの部屋ひとりで使っていいの?」「そりゃあ、茉莉の部屋だからな」「わたし、自分の部屋なんて初めてなんだ。エアコンだってあるよー」「ほとんど使っていない部屋だからな。エアコンはあるけどだいぶ古い型だし、使う前にメンテナンスした方がいいだろうな」 そんな忠告に耳を貸すこともなく白い前歯を輝かせながらはしゃぐ姿には、まだあどけない十六歳の少女であることを再認識させた。出会って以来しっかりした大人びた雰囲気を感じていたから少しだけ意外だ。 それに、初対面で感じた苦労なんてしてこなかったであろう強気な性格という俺の印象が全くあてにならなかったということも証明された。 俺自身片親で育ったことにどこか引け目を感じて、自分は勝手に『苦労してきた少年』だと思い込んでいたのに、金銭的にも裕福で、おそらく茉莉がそれ以上に苦労をしてきたことなんて想像できていなかった。 なぜならそれは彼女がそんな引け目をおくびにも出さない強さを持っていたからだ。あるいは引け目さえ感じていなかったのかもしれない。この部屋は元々母が衣裳部屋として使っていたらしい。母はおしゃれ好きだったのだと聞いているが、家を出る時にたくさん持っていた衣装はすべて持ち出した。残して行ったのは俺と無駄に並ぶ空のクローゼットだけだ。父は茉莉にこの部屋を使ってもらうといいんじゃないかと提案した。ただでさえ動かすのも億劫で埃をかぶっていたクローゼットは、まだ若い茉莉なら有効活用できるだろうということだった。 だけど、茉莉の持ってきた荷物はとても少ない。段ボールでたった四つの彼女の荷物ではこの部屋のクローゼットは空洞だらけだった。 茉莉に言われるがままに荷
それからしばらくしてからのとある昼休み、すっかり茉莉争奪戦において勝者となった斎藤さんが来て、お昼行こうと茉莉を連れ出す。 俺は一人残された教室で弁当を広げ食べようとした時、山岸がやって来た。「なあ、折田。お前、中西と仲いいよな」「まあ、悪いわけじゃあない」「でも別に彼氏ってわけでもないんだろ?」「……」 余計なことは言わない。幸い、茉莉が転校早々に俺とは『付き合うのは無理』と明言したおかげでつまらない嫉妬をうけずにはすんだものの、まだ自分にも脈はあると思い込んだ身の程知らずが日々茉莉にアプローチをかけているようだ。 一見仲がよさそうに見える俺に仲介役を頼もうとする輩は決して少なくはない。そのことを鑑みれば兄妹であることをこんな奴に知られたらどう利用されるかわかったものじゃない。 山岸はやたらと俺に対し、茉莉のあれこれを聞き出そうとしてくる。当然俺は「そんなことを知っているわけないだろ」と返すのだが、事実何も知らないので教えるも何もない。 そんなくだらないことに付き合ってしまっていたがために弁当を食うのがすっかり遅れてしまった。 ようやく人払いをして弁当の蓋を開ける。唐揚げやミニハンバーグのような男子高校生に必要なたんぱく質をしっかり補ったうえで玉子焼きやブロッコリー、ミニトマトなど栄養と色合いをバランスよく兼ね備えた完璧な弁当だ。しかもこれは茉莉の手作りである。 おそらく何も知らないであろう山岸を遠目に鼻で笑いながら茉莉弁当を口に放りこむ。 当然非の打ちどころもなくうまいそれに優越感を感じる。いつものような空腹を満たすだけの菓子パンとはわけが違う。せっかくだから時間をかけ、ゆっくりと味を堪能していた。そうこうしているうちに昼食に出ていた茉莉と斎藤さんが帰ってきた。斎藤さんは茉莉の席のところでだべっている。ふと後ろを振り返り俺の弁当を見て、そのまま動きを止める。 しばらく俺の弁当を見つめ、斎藤さんは俺の耳元でささやいた。「アンタのお弁当、茉莉と同じおかずだよね」 俺はそれを無視した。無視するよりほかなかった。しかしそれは、翌日にはクラスの誰もが知る事実となってしまっているようだった。誰が言いふらしたかなんてそんなこと考えるまでもない。学校では別々に弁当を食べている俺と茉莉だが、その二人の弁当が同じであることを知っているやつなんて他にいないのだ。そして、そんな話が校
――お願い、蒼君。茉莉を、直人さんから寝とってほしいの。 芹香さんはそう言った。 ――寝取る。ネトリ。NTR。「それは倫理に反する行為ではないとあたしは思うわ」 と芹香さんは言う。「これは非難することはできない。純粋な愛、純愛だと思うわ。だけどそれを、好ましいと思っていない人間もいるわ。あたしと、蒼君。そしてその二人が手を取り合ってその愛を勝ち取ることも誰からも非難されるようなことじゃない。それもまた純愛よ。 要するに茉莉がこの世で誰よりも好きな人が蒼君になればいい事なの。すべては倫理に反しない、純粋な愛の結末」 ――純粋な愛。純愛。 そうだ。それこそが純愛なのだ。愛する人がいて、その人を振り向かせるための努力をする過程。それもまた純愛。「俺に、できますかね」 そんな言葉の裏には、当然君ならできるというような励ましの言葉を期待していたし、当然もらえると思っていた。だけど……「たぶん、今の蒼君には無理ね」 芹香さんは厳しい言葉を言い放つ。「あ、ええっと」「じゃああえて聞くわね。蒼君は直人君に何だったら勝てるの? 包容力だって経済力だって足元にも及ばないわ。強いて言えば若さかしらね。でも若さっていうのは強みかな? 経験の低さを物語っているだけじゃないの? それに茉莉はそれなりに経験を積んでいるわ。蒼君はどうかしら? 茉莉を寝取ろうとしたところで、蒼君のテクニックで満足できるかしら? ふふふ、厳しいことを言ってごめんなさいんね。でも、寝取るということはそういうことなのよ。蒼君、そういう経験はあるの?」 立て続けに浴びせられる辛辣な言葉に心はすでに折れそうになっていた。俺に勝てる要素なんてない。それに俺は童貞だ。壁に耳をあてて遠くの茉莉の声に一人自慰をすることが関の山の情けない人間だ。「俺には……」 自信を無くしかけてうつむく俺を芹香さんは優しく抱きしめてくれた。「だいじょうぶよ。だいじょうぶ。誰だって初めから上手にできるわけじゃないわ。安心して、あたしがちゃんと教えてあげるから」 言っている意味が解らなかった。いや、それは嘘だ。言っている意味が解らないことにした。わからないから、不可抗力としてそうなってしまったのだと自分自身に言い訳をするためだ。俺の頭の中を占めているちんこがそうささやいたのだ。 だから俺は、自分のパンツの中に滑
どいつもこいつも脳みそがちんこでできているらしい。高校二年の夏休みが明けた九月初日の教室ではいきがった男子生徒の武勇伝が飛び交う。やれ、彼女が出来ただの、やれ、初めてセックスをしただのそんなくだらない話ばかりだ。「よう、折田。お前夏休みはどうだったんだよ」「別に、なにもないよ。ほとんどバイトばかりしていたからな」 クラスメイトの山岸が声を掛けてきた。別に仲がいいわけでもない。ただ単に自分の自慢話がしたくて、十分にマウントが取れそうな相手である俺を選んだだけだ。「――でさ、それで由奈にフェラしてもらってさ」 聞いてもいない話をしてくる。隣のクラスの西崎由奈は清楚な雰囲気でちょっとだけ好意を抱いてはいたのだが、夏休み前に山岸と付き合うようになったと聞いて嫌いになった。煩悩にまみれて自制できないような奴に魅力は感じない。 山岸に自慢話に興味がないことを悟ってもらいたくてあえて視線をそらす。たまたまそこにいたたいして美人でもないけど結構モテる河野がいた。少しばかり肉付きが良い日焼けあとの残る腕を遠くの誰かに向けて手を振っている。その袖口から覗く腋と水色のブラに一瞬だけ反応して慌てて視線を逸らす。 山岸は気づいたらしい。耳元に顔を近づけて「いいよなあ。河野、後ろからガンガンつきてえよ」とつぶやく。 その言葉のせいで少し河野のことが嫌いになった。ちんこでものごとを考えるのは嫌だ。 チャイムが鳴り、教室に担任が入って来る。この瞬間に夏休みは完全に終わる。「お前ら、夏休みは真面目に過ごしたか?」 担任の須藤は二十代の後半で社会教師。夏休みは趣味で化石の発掘をしているらしく真っ黒に日焼けした姿で教壇に立つ。若い男性教師というだけで意味なく女子からモテるのだが俺はこの担任が嫌いではない。いくら女子生徒からモテようとも一切それになびくことなく自分の趣味に打ち込んでいるからだ。「それじゃあ、まあ、ホームルームを始める前に大事な話がある」 教室中がざわざわと騒ぎ立てる。予想がつかないわけでもない。夏休み明け、教室の一番後ろの俺の席の隣には、夏休み前まではなかったはずの机と椅子がある。「はいはいはい。静かに。いいか、男子ども。あまり大きな声を出すんじゃないぞ。女子もな。嫉妬していじめたりするんじゃないぞ。よーし、中西。入ってきていいぞ」 教室前面のドアが開く。
中西茉莉の周りには休み時間ごとに多くの女子生徒が集まっていた。転校してきたばかりで物珍しいというのもあるだろうが、やはり何と言ってもその整った容姿だ。クラスの中でもカーストの高いグループのいくつかが休みの時間ことにやってきて、彼女を自分たちのグループに引き込もうと必死なのだ。 そして男子生徒の幾人かも遠巻きながら彼女のことを気にしている。我先に彼女と親交を深めたいとは思いながらも取り巻く女子生徒も多くてなかなかに近づきがたくなっているようだ。 そんな彼女は俺の隣の席。取り巻きのカーストの高い女子たちと会話をしながら隣にいる俺にも話を振ってくるのだ。「休みの日は何してる?」「どんな音楽聞くの?」「好きな食べ物は?」そして「ねえ、好きな女の子のタイプは?」 もちろん俺は取り巻きのカースト上位の女子たちと仲がいいわけではない。だが、中西茉莉はまるで俺がその輪の中に入っているかのように話しかけてくる。「ねえ、もしかして茉莉ちゃんって。折田君のことがタイプなの?」 クラスのカースト上位者でもある、斎藤美和がそう言った。クラスの男子の数人が俺の方に攻撃的な視線を向ける。「タイプ、と聞かれるとそういうわけじゃないよ。でも――」「でも?」「蒼君はちょっと特別かな」 教室の空気は凍り付く。そして斎藤さんは言った。「折田君はさ、すごくいいやつだよー。ね、いっそのこと付き合っちゃえば?」 なんて無責任な話だ。斎藤さんは俺のことなんてほとんど知りもしないだろう。だけど、彼女が俺との仲を応援したいというのはわからなくもない。 中西茉莉がその気になれば、きっとおそらくほとんどの男子生徒を手中に収めることだってできるだろう。それは、その他女子にとってはつまらない状況だ。だが、俺のような眼中にない相手に好意を向けたうえで、自分たちのグループに引き込めばグループの格も上がり、その上無害という都合のいい存在になる。 いや、正直に言えばそんなことはどうでもいいのだ。もしここで中西茉莉が「そうだね、付き合っちゃおうか」なんて言い出した時、俺はどういうふうに反応すればいいのだろうかという思考の渦に飲まれてしまっていた。 だがそれも、つまらない杞憂だった。「はは、さすがに付き合うのは無理かな」 そんな中西茉莉の言葉に「だよねー」と斎藤さんは言った。それで凍り付いた教室の空気
それからしばらくしてからのとある昼休み、すっかり茉莉争奪戦において勝者となった斎藤さんが来て、お昼行こうと茉莉を連れ出す。 俺は一人残された教室で弁当を広げ食べようとした時、山岸がやって来た。「なあ、折田。お前、中西と仲いいよな」「まあ、悪いわけじゃあない」「でも別に彼氏ってわけでもないんだろ?」「……」 余計なことは言わない。幸い、茉莉が転校早々に俺とは『付き合うのは無理』と明言したおかげでつまらない嫉妬をうけずにはすんだものの、まだ自分にも脈はあると思い込んだ身の程知らずが日々茉莉にアプローチをかけているようだ。 一見仲がよさそうに見える俺に仲介役を頼もうとする輩は決して少なくはない。そのことを鑑みれば兄妹であることをこんな奴に知られたらどう利用されるかわかったものじゃない。 山岸はやたらと俺に対し、茉莉のあれこれを聞き出そうとしてくる。当然俺は「そんなことを知っているわけないだろ」と返すのだが、事実何も知らないので教えるも何もない。 そんなくだらないことに付き合ってしまっていたがために弁当を食うのがすっかり遅れてしまった。 ようやく人払いをして弁当の蓋を開ける。唐揚げやミニハンバーグのような男子高校生に必要なたんぱく質をしっかり補ったうえで玉子焼きやブロッコリー、ミニトマトなど栄養と色合いをバランスよく兼ね備えた完璧な弁当だ。しかもこれは茉莉の手作りである。 おそらく何も知らないであろう山岸を遠目に鼻で笑いながら茉莉弁当を口に放りこむ。 当然非の打ちどころもなくうまいそれに優越感を感じる。いつものような空腹を満たすだけの菓子パンとはわけが違う。せっかくだから時間をかけ、ゆっくりと味を堪能していた。そうこうしているうちに昼食に出ていた茉莉と斎藤さんが帰ってきた。斎藤さんは茉莉の席のところでだべっている。ふと後ろを振り返り俺の弁当を見て、そのまま動きを止める。 しばらく俺の弁当を見つめ、斎藤さんは俺の耳元でささやいた。「アンタのお弁当、茉莉と同じおかずだよね」 俺はそれを無視した。無視するよりほかなかった。しかしそれは、翌日にはクラスの誰もが知る事実となってしまっているようだった。誰が言いふらしたかなんてそんなこと考えるまでもない。学校では別々に弁当を食べている俺と茉莉だが、その二人の弁当が同じであることを知っているやつなんて他にいないのだ。そして、そんな話が校
茉莉たちが家に引っ越してきたのはそれからすぐのことだった。〝早い方がいい〟といったのは俺だが、まさかこんなに早く越してくるとまでは思っていなかった。いつまで住むかも決まっていなかった茉莉たちの住居はマンスリータイプのマンションだった。夏休みの間に越してきて、ちょうど一か月を迎えるところだったので、いっそのことと言って急いで解約したらしい。 芹香さんの部屋はなく、父と同じ寝室を使うということだ。夫婦になるというのだからまあそれもいいだろう。芹香さんの荷物は段ボールのまま一階の使っていない和室に倉庫のように押し込んだ。二階に上がって俺の部屋のすぐ隣が茉莉の部屋になった。「うわー、ほんとにこの部屋ひとりで使っていいの?」「そりゃあ、茉莉の部屋だからな」「わたし、自分の部屋なんて初めてなんだ。エアコンだってあるよー」「ほとんど使っていない部屋だからな。エアコンはあるけどだいぶ古い型だし、使う前にメンテナンスした方がいいだろうな」 そんな忠告に耳を貸すこともなく白い前歯を輝かせながらはしゃぐ姿には、まだあどけない十六歳の少女であることを再認識させた。出会って以来しっかりした大人びた雰囲気を感じていたから少しだけ意外だ。 それに、初対面で感じた苦労なんてしてこなかったであろう強気な性格という俺の印象が全くあてにならなかったということも証明された。 俺自身片親で育ったことにどこか引け目を感じて、自分は勝手に『苦労してきた少年』だと思い込んでいたのに、金銭的にも裕福で、おそらく茉莉がそれ以上に苦労をしてきたことなんて想像できていなかった。 なぜならそれは彼女がそんな引け目をおくびにも出さない強さを持っていたからだ。あるいは引け目さえ感じていなかったのかもしれない。この部屋は元々母が衣裳部屋として使っていたらしい。母はおしゃれ好きだったのだと聞いているが、家を出る時にたくさん持っていた衣装はすべて持ち出した。残して行ったのは俺と無駄に並ぶ空のクローゼットだけだ。父は茉莉にこの部屋を使ってもらうといいんじゃないかと提案した。ただでさえ動かすのも億劫で埃をかぶっていたクローゼットは、まだ若い茉莉なら有効活用できるだろうということだった。 だけど、茉莉の持ってきた荷物はとても少ない。段ボールでたった四つの彼女の荷物ではこの部屋のクローゼットは空洞だらけだった。 茉莉に言われるがままに荷
まるで意地悪く嘲笑するかのように上がった口角から覗く白い歯がとても印象的だった。 ようやく今まで茉莉の言っていた言葉の意味がつながった。それに担任もだ。俺の隣の席が空いていることに「ちょうどいい」なんて言ったのもすべて知っていたのだろう。つまり、俺だけが何も知らされていなかった。 茉莉とは今まで何度となく話をしてきたし、芹香さんもずいぶんと社交的な性格だ。いつの間にか緊張は解け、砕けた話もできるようになった。「それでね、蒼君さえ問題なければ、ゆくゆくはあの家に一緒に住まわせてもらおうと思っているの」 芹香さんの言葉の言う『あの家』という言い方から、きっと何度か訪れたことがあるのだろうと推測できる。父は在宅で仕事をしているし、俺が学校に行っている間に誰かやってきていたとしても俺が知る由もないだろう。 おそらくもうすでに住み着く準備も始めている。その手始めとしてこの町に引っ越して、俺の学校へ転入してきたのだ。「別に、引っ越してくるならいつでもいいですよ。ほら、どうせ部屋だって余っているしさ。今のアパートだって、お金かかっているんだろうし。そのお金だって、言ってしまえばこれからはおんなじひとつの家庭の金なわけだろ。だったら節約できるところは節約すればいいと思う」「ふふ、蒼君はまだ若いのに経済観念がしっかりしているのね」「いや、別にそれほどでも……」 多分経済観念がはっきりしているという話ではないのだと思う。俺は小さなころから父の背中だけを見て育ってきたし、その背中にも憧れてはいた。自分も早く父のように独立した大人になりたいと思っていたのだ。だけどそれと同時に、そんな父ですら手に入れることの叶わなかった幸せそうな家庭、というものにも憧れがあった。 大人になったらできるだけ早いうちに家庭を築き、立派な大人になりたいと思い、高校に入るなりアルバイトも始めた。早いうちに自立できるだけのお金をためておきたかったのだ。 それに、俺にはこれといった趣味を持ち合わせていない。ゲームもあまりやらないし、映画や音楽に関してもそれなりに興味はあるものの、世間一般で言う〝それなりに〟以上の感情は持ち合わせていない。 父は読書が趣味で、それが昂じて職業としている。それもあるからだろうけれど、どうしても読書を趣味にしようとは思わなかった。子供のころはそれなりに読んではいたの
物心がつく前から我が家に母はいなかった。でも、確かに記憶にはかすかに母親の記憶がわずかに残っており、物心がつく頃には母はてっきり死んだものだと思い込んでいた。思春期に入り、世の中のいろいろなことがわかるようになってから、母は育児放棄のために出て行ったのだということを知った。 記憶の限りほとんど俺は父と二人で生活してきた。元々フリーランスの父は仕事を在宅で行い、家事のほとんどをしながら俺を育てた。「あーなんか記念日か何だっけ?」「いやな、別にそういうんじゃないだが」「なんだよ、その言い方。なんか気持ち悪いな」「ああ、いや……会ってもらいたい人がいるというか」「だれに?」「母親だよ――」その言葉を聞いた瞬間に、何をいまさらと思った。「今更会いたくなんてないよ。俺を捨てた親だろ? 俺の家族はあんただけで十分だ」「ああ、そういう意味じゃなくてだな……」「なんだよ、じゃあどういう意味なんだ?」続く言葉で、ようやく理解が追い付いた。父は昔から、一言足りない。「――新しい、お母さんだ」 その意味を考えるのにしばらくの時間がかかった。たぶん、二、三秒なのだろうけれど、随分長い時間がかかったという印象だ。「――そうか、おめでとう」「いやじゃ、ないのか」「いやというか……もともと母親の記憶なんてないようなものだし、この年になって新しいおかあさんなんて言われても実感ないな。俺にしてみれば、新しい母というか、父の新しい妻という感じだな。だから、なにも遠慮することはない」「一緒に住むことになるかもしれないが……」「部屋なら空いてる。二人で住むには広すぎるくらいには」「そうか……会ってみて、もし嫌なら別にいいんだ。無理強いはしない」 改めて無駄に広い家を見渡す。郊外とはいえ庭付きの一戸建てに俺達親子は住んでいる。俺が生まれる前に建てたマイホームは、おそらく俺の妹や弟まで想定して建てたものだろう。実際その家に妹や弟が生まれることもなく、母親さえもいなくなった家は空き部屋だらけの無駄な家だった。「どんな人だ?」「かわいい人だよ」「歓迎だ」「あと、娘もいる。お前の妹だ」「……悪くない」 よくあるラブコメの妹を想像した。生意気だけどなんだかんだで兄のことが大好きな妹だ。そしてそんな都合のいい話があるわけないという気持ちもまたあった。 週末の夕方、
中西茉莉の周りには休み時間ごとに多くの女子生徒が集まっていた。転校してきたばかりで物珍しいというのもあるだろうが、やはり何と言ってもその整った容姿だ。クラスの中でもカーストの高いグループのいくつかが休みの時間ことにやってきて、彼女を自分たちのグループに引き込もうと必死なのだ。 そして男子生徒の幾人かも遠巻きながら彼女のことを気にしている。我先に彼女と親交を深めたいとは思いながらも取り巻く女子生徒も多くてなかなかに近づきがたくなっているようだ。 そんな彼女は俺の隣の席。取り巻きのカーストの高い女子たちと会話をしながら隣にいる俺にも話を振ってくるのだ。「休みの日は何してる?」「どんな音楽聞くの?」「好きな食べ物は?」そして「ねえ、好きな女の子のタイプは?」 もちろん俺は取り巻きのカースト上位の女子たちと仲がいいわけではない。だが、中西茉莉はまるで俺がその輪の中に入っているかのように話しかけてくる。「ねえ、もしかして茉莉ちゃんって。折田君のことがタイプなの?」 クラスのカースト上位者でもある、斎藤美和がそう言った。クラスの男子の数人が俺の方に攻撃的な視線を向ける。「タイプ、と聞かれるとそういうわけじゃないよ。でも――」「でも?」「蒼君はちょっと特別かな」 教室の空気は凍り付く。そして斎藤さんは言った。「折田君はさ、すごくいいやつだよー。ね、いっそのこと付き合っちゃえば?」 なんて無責任な話だ。斎藤さんは俺のことなんてほとんど知りもしないだろう。だけど、彼女が俺との仲を応援したいというのはわからなくもない。 中西茉莉がその気になれば、きっとおそらくほとんどの男子生徒を手中に収めることだってできるだろう。それは、その他女子にとってはつまらない状況だ。だが、俺のような眼中にない相手に好意を向けたうえで、自分たちのグループに引き込めばグループの格も上がり、その上無害という都合のいい存在になる。 いや、正直に言えばそんなことはどうでもいいのだ。もしここで中西茉莉が「そうだね、付き合っちゃおうか」なんて言い出した時、俺はどういうふうに反応すればいいのだろうかという思考の渦に飲まれてしまっていた。 だがそれも、つまらない杞憂だった。「はは、さすがに付き合うのは無理かな」 そんな中西茉莉の言葉に「だよねー」と斎藤さんは言った。それで凍り付いた教室の空気
どいつもこいつも脳みそがちんこでできているらしい。高校二年の夏休みが明けた九月初日の教室ではいきがった男子生徒の武勇伝が飛び交う。やれ、彼女が出来ただの、やれ、初めてセックスをしただのそんなくだらない話ばかりだ。「よう、折田。お前夏休みはどうだったんだよ」「別に、なにもないよ。ほとんどバイトばかりしていたからな」 クラスメイトの山岸が声を掛けてきた。別に仲がいいわけでもない。ただ単に自分の自慢話がしたくて、十分にマウントが取れそうな相手である俺を選んだだけだ。「――でさ、それで由奈にフェラしてもらってさ」 聞いてもいない話をしてくる。隣のクラスの西崎由奈は清楚な雰囲気でちょっとだけ好意を抱いてはいたのだが、夏休み前に山岸と付き合うようになったと聞いて嫌いになった。煩悩にまみれて自制できないような奴に魅力は感じない。 山岸に自慢話に興味がないことを悟ってもらいたくてあえて視線をそらす。たまたまそこにいたたいして美人でもないけど結構モテる河野がいた。少しばかり肉付きが良い日焼けあとの残る腕を遠くの誰かに向けて手を振っている。その袖口から覗く腋と水色のブラに一瞬だけ反応して慌てて視線を逸らす。 山岸は気づいたらしい。耳元に顔を近づけて「いいよなあ。河野、後ろからガンガンつきてえよ」とつぶやく。 その言葉のせいで少し河野のことが嫌いになった。ちんこでものごとを考えるのは嫌だ。 チャイムが鳴り、教室に担任が入って来る。この瞬間に夏休みは完全に終わる。「お前ら、夏休みは真面目に過ごしたか?」 担任の須藤は二十代の後半で社会教師。夏休みは趣味で化石の発掘をしているらしく真っ黒に日焼けした姿で教壇に立つ。若い男性教師というだけで意味なく女子からモテるのだが俺はこの担任が嫌いではない。いくら女子生徒からモテようとも一切それになびくことなく自分の趣味に打ち込んでいるからだ。「それじゃあ、まあ、ホームルームを始める前に大事な話がある」 教室中がざわざわと騒ぎ立てる。予想がつかないわけでもない。夏休み明け、教室の一番後ろの俺の席の隣には、夏休み前まではなかったはずの机と椅子がある。「はいはいはい。静かに。いいか、男子ども。あまり大きな声を出すんじゃないぞ。女子もな。嫉妬していじめたりするんじゃないぞ。よーし、中西。入ってきていいぞ」 教室前面のドアが開く。
――お願い、蒼君。茉莉を、直人さんから寝とってほしいの。 芹香さんはそう言った。 ――寝取る。ネトリ。NTR。「それは倫理に反する行為ではないとあたしは思うわ」 と芹香さんは言う。「これは非難することはできない。純粋な愛、純愛だと思うわ。だけどそれを、好ましいと思っていない人間もいるわ。あたしと、蒼君。そしてその二人が手を取り合ってその愛を勝ち取ることも誰からも非難されるようなことじゃない。それもまた純愛よ。 要するに茉莉がこの世で誰よりも好きな人が蒼君になればいい事なの。すべては倫理に反しない、純粋な愛の結末」 ――純粋な愛。純愛。 そうだ。それこそが純愛なのだ。愛する人がいて、その人を振り向かせるための努力をする過程。それもまた純愛。「俺に、できますかね」 そんな言葉の裏には、当然君ならできるというような励ましの言葉を期待していたし、当然もらえると思っていた。だけど……「たぶん、今の蒼君には無理ね」 芹香さんは厳しい言葉を言い放つ。「あ、ええっと」「じゃああえて聞くわね。蒼君は直人君に何だったら勝てるの? 包容力だって経済力だって足元にも及ばないわ。強いて言えば若さかしらね。でも若さっていうのは強みかな? 経験の低さを物語っているだけじゃないの? それに茉莉はそれなりに経験を積んでいるわ。蒼君はどうかしら? 茉莉を寝取ろうとしたところで、蒼君のテクニックで満足できるかしら? ふふふ、厳しいことを言ってごめんなさいんね。でも、寝取るということはそういうことなのよ。蒼君、そういう経験はあるの?」 立て続けに浴びせられる辛辣な言葉に心はすでに折れそうになっていた。俺に勝てる要素なんてない。それに俺は童貞だ。壁に耳をあてて遠くの茉莉の声に一人自慰をすることが関の山の情けない人間だ。「俺には……」 自信を無くしかけてうつむく俺を芹香さんは優しく抱きしめてくれた。「だいじょうぶよ。だいじょうぶ。誰だって初めから上手にできるわけじゃないわ。安心して、あたしがちゃんと教えてあげるから」 言っている意味が解らなかった。いや、それは嘘だ。言っている意味が解らないことにした。わからないから、不可抗力としてそうなってしまったのだと自分自身に言い訳をするためだ。俺の頭の中を占めているちんこがそうささやいたのだ。 だから俺は、自分のパンツの中に滑